「平和構築」を専門にする国際関係学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda 

2025年04月

 「ポーランドはチェンバレンのように行動しない」とポーランド外相が語った、というニュースを見て、チェンバレン氏が可哀そうになった。https://www.ukrinform.jp/rubric-polytics/3985947-porandohachenbarennoyouni-xing-dongshinaishikorusuki-wai-xiang.html

 「チェンバレン」は「宥和政策」の代名詞として用いられる。ヒトラーのドイツによるチェコスロバキアのズデーデン地方の併合を認めた1938年ミュンヘン会談で、ヒトラーと向き合ったのが、当時のイギリス首相チェンバレンであった。

 俗説では、チェンバレンはヒトラーに騙されたお人好し、あるいはヒトラーが怖くて何も言えなかった腰抜けであるかのように扱われる。だが実際のチェンバレンは、ミュンヘンから戻った後「ヒトラーは狂人だ」と周囲に語り、ドイツとの対決に備えた大軍拡路線に政策の舵を切った人物であった。そして翌193991日にドイツが、独ソ不可侵条約締結時の密約にしたがってポーランドをソ連と分割併合するため、ポーランド侵攻を開始したのを見て、93日にはドイツに宣戦布告をしたのが、チェンバレン英国首相であった。

イギリスは、ポーランドのために、ドイツとの戦争を開始し、結果として大英帝国も崩壊させるまでに国力を疲弊させた。その大決断をしたのが、チェンバレン英国首相だった。

それが2025年の今日、ポーランド人にどのように扱われているか。宥和政策の権化の腰抜け扱いされている。

ポーランドのような国においても、あるいはポーランドのような国だからこそ、機微に触れる戦前・戦中の歴史の細部は捨象され、戦後の教科書の歴史観が標準とされてしまう傾向があるのだ。

現在、アメリカのトランプ政権が、ロシアのクリミア併合を承認しようとしている。これは大きな判断になる。https://shinodahideaki.theletter.jp/posts/f92dbbc0-226e-11f0-9877-e9e7e60d36f9?utm_medium=email&utm_source=newsletter&utm_campaign=f92dbbc0-226e-11f0-9877-e9e7e60d36f9

だがクリミアはミュンヘンだ、つまり宥和政策だ、と単純に断定するのは、あまりに短絡的な歴史観だと言わざるを得ない。

そもそも、仮に、クリミア併合承認がズデーデン併合承認と同じであるとしたら、単にトランプ政権は、ロシアがポーランドに侵攻しても、手を出さないだけだろう。トランプ大統領は、「チェンバレンのように行動しない」だろう。

比較をするのであれば、「チェンバレンは腰抜けだ、トランプは間抜けだ」といったレベルではなく、もう少し真面目な国際情勢の分析をふまえた比較をするべきだろう。

ズデーデン地方の帰属問題は、第一次世界大戦の戦後処理としての1919年ヴェルサイユ条約の妥当性の問題であった。クリミア問題は、ソ連崩壊の事後処理としての1991年時の各共和国の国境線の問題だ。それぞれに独特の複雑な歴史がある。1919年までチェコスロバキアという主権国家は存在していなかった。1991年までウクライナという主権国家は存在していなかった。またズデーデン地方はドイツ人が多数住み、クリミアにはロシア人(話者)が多数住む複雑な民族構成を持つ。ズデーデン地方がドイツの手に移った際には、約22万人のチェコ人が難民としてチェコ側に流出したが、戦後にチェコスロバキア領に戻った際にはドイツ人の約250万人の難民と約25万人の不遇の死者が出た。

基本的に、中欧・東欧のようなところには、民族分布とも一致した歴史的に正しい固有の国境線、と言えるようなものは存在しない。国際的に認められている国境線はあるだろうが、それはあくまでも現在有効な諸国の多数の承認行為によって支えられているという意味であって、絶対不変の線が地面の上に描かれているわけではない。「力による現状変更はいけない」というのは、だからこそ領土問題は武力に訴えず話し合いで解結すべきだ、という意味であって、絶対不変の国境線を確定させることに成功してある、という意味でもない。

現代では、「チェンバレンのように行動しない」とは、ヒトラーに「宥和政策」を採らない、とにかくヒトラーと対決し続けるのが正しい、という意味で解されている。それは、プーチンに「宥和政策」を採らない、とにかくプーチンと対決し続けるのが正しい、という意味としても用いられている。

だがミュンヘン会談の教訓とは、ただただとにかくヒトラーとプーチンと最後の最後まで戦争をする、ということしかないのだろうか。

「宥和主義はダメだ」という精神論を離れて、システム論の観点から、ミュンヘン会談の教訓を引き出すことなどは、できないのだろうか。

システム論の観点からは、ミュンヘン会談がさらなる欧州の危機を救えなかったのは、地域的な安全保障システムが欠落しており、再確立もできなかったからだ、という答えになる。

結局、ズデーデン地方とポーランドを、ドイツの手から引き離したのは、腰抜けチェンバレンがいなくなった、といった精神論の話ではない。

ズデーデン地方とポーランドを、ヒトラーが手放したのは、ソ連がヒトラーに戦争を仕掛けられた後に反撃したからであり、アメリカが日本に奇襲攻撃を仕掛けられた後に欧州でも戦争に参加したからだ。

そしてチェコスロバキアとポーランドが戦後に独立国として存在し続けられたのは、ソ連がワルシャワ条約機構を、アメリカがNATOを作り、両者で勢力均衡の考え方に基づく安全保障システムを確立して維持したからだ。冷戦終焉後は、係争が起こる前に、旧ワルシャワ条約機構からNATOに、前者の消滅を介して、配置換えで加盟することができたからだ。

もし同じような歴史を、クリミア、あるいはウクライナが辿ることができていたら、今のロシア・ウクライナ戦争の悲劇はなかった。ただし、ウクライナは、ポーランドやチェコスロバキアではない。そして相当な年月をかけても、ウクライナが、もう一つのポーランドやチェコスロバキアのような国になる可能性は、もはや非常に乏しい。

今必要なのは、精神論ではなく、こうした現実を冷静に見据えたうえで、安定的な地域安全保障のシステムを構築することだ。それこそがミュンヘン会談の教訓である。

 

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 以前に「『親露派バスターズ』と化した『ウクライナ応援団』」と題した記事を書いたことがある。https://agora-web.jp/archives/250316100338.html 

 現在は、さらに「トランプ・バスターズ」というか嫌米「嫌トランプ」に、流行が移ったようだ。立派な評論家や学識者が、毎日毎日繰り返しせっせとトランプ大統領を人格的に侮蔑する言葉を語り、書き連ね続けている。

 高関税問題で経済系の問題に飛び火したが、安全保障政策系では「ウクライナ応援団」が「嫌トランプ」派となっている傾向が強いようだ。

 かつて1970年代にドル変動相場制と米中和解と二つの意味で「ニクソン・ショック」という言葉が生まれたことがある。現在は、高関税とロシア・ウクライナ戦争の調停の二つの意味で「トランプ・ショック」が生まれているようだ。

 果たして嫌トランプ主義で、日本は「トランプ・ショック」を乗り切れるのか。

 日本は2022年以降、1.8兆円以上と言われる額の支援をウクライナに投入してきた。その背景には、同盟国アメリカの要請があり、アメリカの同盟国との結束を強めることが日本の安全保障に資するという認識があったはずだ。

 「今日のウクライナは明日の東アジア」という標語のような考え方も、人口に膾炙するようになった。だが、これは一つの技巧的表現だ。ウクライナへの支援さえしていれば自動的に東アジアも平和になる、というわけではない。
 実際には、日本にとってウクライナ支援はアメリカとの同盟関係を強化する政策だ、という認識があって初めて、ウクライナと東アジアを比較する考え方をより具体的に持てていたはずだ。

 この認識レベルの考え方は、トランプ大統領就任に伴う「トランプ・ショック」によって、打ち砕かれた。そしてトランプ大統領の就任にともなうアメリカのロシア・ウクライナ戦争に対する立ち位置の変更は、日本の主流派の識者の方々に、大きなショックを与えた。

 「ウクライナは勝たなければならない」主義の識者の方々からは、アメリカを見限って欧州と同盟関係を結んで、ウクライナ支援を強化しよう、という威勢のいい掛け声も聞こえてくる。しかし巨額の財政赤字を低経済成長のまま抱え込んでいる日本に、そのような非現実的な規模のウクライナ支援を実施できるとは思えない。

 今年2月の国連総会で、ロシア侵略非難決議が、国連加盟国数の過半数を下回る93票しか集められないという事件が起こった。3年前には141カ国の賛成票があった。同日の国連安保理では、欧州諸国棄権のまま、賛成多数で、ロシア・ウクライナ戦争の早期停戦を要請する決議が採択された。今の国際社会に、ウクライナへの軍事支援が高まっていく気運はない。

 トランプ大統領の調停努力に対しても、「嫌トランプ」派の方々の非難や侮蔑の声が大きい。だが、果たして日本は、主流派「嫌トランプ」主義の識者の方々の恨み節の主張だけで、「トランプ・ショック」を乗り切れるのだろうか。

 

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 アメリカと日本の関税交渉が始まった。日本側の代表である赤澤経済再生大臣がホワイトハウスを訪れ、トランプ大統領の目の前に座るという印象深いシーンで始まった。

 報道によれば、ここでトランプ大統領は三つの領域を示したという。①貿易赤字、②米国製自動車の販売、③在日米軍の駐留経費負担だ。

赤澤大臣は、優先順位をつけてほしいと要請した、と報道されている。ひょうひょうとした人柄で存在感を出している赤澤大臣だが、日本政府として受け身である、という印象はぬぐえない。

 トランプ大統領があげた三つの領域というのは、このままで受け止めると、体系性がない。すでに「(日本の縦割り行政を当てはめる日本側の常識そのままで言えば)関税問題と安全保障問題は別の問題になる」という「日本では正論」の意見も見られる。

ただし、すでに私が指摘しているように、アメリカ政府の関心は、貿易赤字と、さらに深刻な財政赤字を減らすことだ。https://agora-web.jp/archives/250413084928.html

 関税ですら、そのこと自体が本質的な議題ではない。トランプ大統領の発言は、わかりやすく言い換えると、次のようになるだろう。

第一に、理論や努力はどうでもいいから、とにかく貿易赤字を減らすのに協力してほしい、ということである。在日米軍を参照しているのは、二国間関係を総合的に見て、財政赤字のほうでもいいので、赤字を減らすことに協力してほしい、という懇願だ。

 第二に、トランプ大統領は、製造業の復活を目標にしている。その象徴として、アメリカ市場に日本車が深く入り込んでアメリカの製造業を痛めつけているというイメージを相殺できるように、自動車産業の復活に協力してほしい、ということだ。

 あえて第三を付け加えれば、思いやり予算でも何でもよく、貿易赤字ではなく財政赤字のほうでいいので、赤字削減に資するアイディアを出してほしい、という意思伝達だ。

 この問題は、高関税に端を発した交渉になっているが、ある意味で高関税政策は、交渉を開始するためのきっかけでしかない。

 したがって「本来あるべき自由貿易の姿は・・・」とか、「在日米軍の問題は関税の問題とは異なる問題であり・・・」とか、「アメリカの車は日本の道路では大きすぎるので売れない・・・」といった「正論」を言っても、仕方がないことは、すでに前回の記事で述べたとおりである。
 たとえば、在日米軍の費用負担は、安全保障の政策の問題などではない。日本が米国の財政負担を減らすために直接的に貢献できる領域だ、ということである。アメリカの自動車産業の問題は、アメリカの車が日本の道路を走るかどうかの問題ではない。要は、アメリカの製造業が復活の契機が見えれば、それでいい。

トランプ大統領は、とにかく何でもいいので、貿易赤字と財政赤字を減らす努力に協力してほしい、と言っている。わかりやすく言えば、安全保障上の同盟国が倒れてしまったら、日本だってのんびりしているわけにはいかなくなるはずだろう、協力すべきだ、と示唆している。

もちろん日本も巨額の財政赤字を抱えており、ただ単にお金を渡す、というわけにはいかない。また、一過性のものよりは、継続的に問題改善につながるもののほうがいい。しかしプラザ合意の再来のような急進的な通貨政策は、日本にとって負担が大きすぎ、また管理不能な状態に陥るリスクも抱える。より創造的なアイディアが必要と思われる。

アメリカ政府自身が投資を計画しているAIの領域に、アメリカ政府の負担を軽減しつつ、アメリカに利益が確保される形で日本も投資をするなどのアイディアが求められるだろう。

いずれにせよ、アメリカに対して受け身の姿勢をとりすぎると、かえってトランプ大統領の中心的な意図から外れていく結果になりかねない。そこは注意が必要である。

 

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 日本政府が、アメリカ政府と関税交渉に入る。世界の諸国の先陣を切る。日本には1980年代からのアメリカとの間の貿易交渉の歴史がある。ベッセント財務長官の様子からは、期待がうかがえる。

 アメリカは当初、高率関税を普遍的に導入する意図を持っていたが、今は超大国が一騎打ちで激突する米中貿易戦争に転化してしまった。中国の経済力は、他国とは比較にならない。他の諸国は、なかなかアメリカの高率関税に対抗する措置をとれなかったが、中国だけは例外だった。実力が違うからである。

 中国に対して、アメリカにも強みがあるが、弱みもある。アメリカは早くも、対中国の高率関税対象から、スマートフォン、パソコン、半導体製造装置などの代替不可能品目を外した。

 21世紀の国際政治の帰趨に大きな影響を与えると思われる米中対決とは別に、日本のような他の諸国は、事を穏便に済ませる措置を、アメリカとの間で合意してしまいたいところだ。アメリカも、米中貿易戦争の行方が見通せないだけに、他の諸国との間の「ディール」で成果を出す実績がほしいところだ。日本にとっては悪くない環境だと言える。

 気になるのは、石破首相が「(関税措置は)本当に(米国の)プラスになるのか」といった空中戦に関心があるように見えるところだ。いわゆる「神学論争」に近い。

トランプ政権としては、「プラスになればなるし、ならなければならない」という態度で、プラスになるものだけを押してきているという立場である。それに対して、「いや、トランプさん、あなたはバカだ、何がアメリカにプラスになるのかバカなあなたは理解していないようだ、そこで私が何がアメリカのプラスになるかを教えてあげる、答えは自由貿易主義の原則の維持だよ」といった態度で臨んでいっても、自爆するだけだろう。

学術的に行くのであれば、「交渉術」できちんと学術的な基本ポイントを押さえてほしい。たとえばハーバード大学大学院交渉学コースのフィッシャーとユーリーの古典は邦訳も出てベストセラーになっている。 https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%89%E6%B5%81%E4%BA%A4%E6%B8%89%E8%A1%93-%E7%9F%A5%E7%9A%84%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%8B%E3%81%9F%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC/dp/4837903606/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=25ODLHZKHA5J3&dib=eyJ2IjoiMSJ9.MtX7raJE7iw2fg4oxnM1NBjAejKS3uNFFlHVdqraQRXJNI1BefwjWIa-U85Q4xNr4LcsnYS8AGJm759w_IJc5mIU5yYy18DhOZsLmkGNwgnwxN7S3zVsTAHrA-jYQ4gqJwYKpQULnxHzzZfIVFGalfB3acvdatPNfi5RGoXMOg_xWxZYyAhIOiCqDrp18CzUcOdQj6z4bFaqFpAqQFdFzXCE5xe77oUs9lxxOxWj_z8.tf-BLuEuQi97KEklCrTNXpoRL_kxaHqjuidJFpoTnaQ&dib_tag=se&keywords=%E4%BA%A4%E6%B8%89+yes+%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%89&qid=1744524911&s=books&sprefix=%E4%BA%A4%E6%B8%89+yes+%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%89%2Cstripbooks%2C194&sr=1-1 

この本のポイントは、「立場を見るな、利益を見ろ」、ということである。「立場」とは相手が公式に表現している主張のことである。「利益」は、立場を支えている現実の関心対象だ。

交渉の基本は、「立場」の違いにとらわれず、「利益」の共通項を見出し、確認し、発展させることだ。トランプ大統領の粗い言葉や意表を突いた態度に惑わされず、アメリカの核心的利益を見出したうえで、日本の利益との共通領域を見出す、ということだ。

関税率を24%云々といった言葉尻にとらわれると、「それは不当だ」「計算方法が杜撰だ」「自由貿易の原則に反する」「日本だって色々と努力している」といった水掛け論的な反応だけをしてしまう。

トランプ大統領が「国際緊急経済権限法(IEEPA)」を根拠にして高率関税を導入することを宣言した背景には、現実の過去最大の貿易赤字(2024年度に1兆2117億ドル)がある。そして貿易赤字と連動したやはり史上最高規模で膨れ上がっている財政赤字がある。累積で2024年度に35兆ドルで、対GDP比で124%の水準に達している。
 この巨額の財政赤字にもかかわらず、トランプ大統領は、空前の規模の減税を導入しようとしている。これも選挙の公約である。となれば、迅速な財政赤字の改善の提示は急務であり、イーロン・マスク氏のDOGEによる急進的な政府機構の縮減策なども、その文脈で行われているわけである。

これが現在のトランプ政権の核心的利益だ。自由貿易体制の維持とか、日本の対米投資額はいくらか、といった話は、仮に無関係ではないとしても、核心的ではない。
 日本はアメリカの貿易赤字/財政赤字を減らす方策をとるのかどうか、が核心的利益である。そこに焦点を合わせなければ、何を言っても、迂回路である。
 もちろん「MAGA(アメリカを再び偉大に)」の観点から言えば、財政赤字の削減は、選挙民であり納税者であるアメリカ国民の生活の改善につながるものでなければならない。ただそれは当面は、減税の断行、という具体的政策に還元させることができる。そこで減税を進めるための財政赤字の改善こそが核心的利益だ、と考えて間違いないだろう。

冷戦時代の雰囲気などを思い出してしまうと、「アメリカは自由主義陣営の盟主としての立場を誇示することにも利益を見出すはずなので国際秩序全体の観点から自由貿易主義の原則を強調してそれを維持するためには・・・といった話に持っていって・・・・」、のような考え方も、成立しえたかもしれない。しかしトランプ政権では、無理だろう。

アメリカの赤字が減るかどうか、それだけだ。

ここで、仮に日本のほうがアメリカよりも総合的な国力が大きいとすれば、「あなたの言っていることは身勝手だ」といった姿勢を出すやり方もありうるだろう。だがアメリカの国力は、日本を圧倒する大きさであり、その非対称性を前提にして、日本の安全保障政策はアメリカに依存している。アメリカが困っていたら、一緒に悩み、助けようとするのは、当然である。結局のところ、アメリカが倒れてしまったら、日本こそが非常に困ってしまうのだ。

この文脈において、日本が海外の米国国債保有者の中で最大勢力であるのは、かなり大きな事実である。

https://x.com/ShinodaHideaki/status/1910475160421097646

アメリカの財政赤字の改善は、あるいは財政破綻の回避は、日米両国の共通の利益である。換言すれば、国債保有者としての立場は、交渉を前に進めるためのカードとして使っていいだろう。

アメリカの貿易赤字の解消につながる品目ごとの関税率の設定や、日本側の措置の実施が核心だが、それに結びついた付帯的事項として、日本勢が保有する米国国債を売りさばいたりしないことはもちろん、さらなる政策的な購入の計画ですら、あるいは交渉の材料になるかもしれない。

いずれにせよ、トランプ大統領が「ディール好き」ということを、思考様式のレベルで捉えることが重要だ。交渉好き、ということは、核心的利益の共通項の発見と発展のプロセスが好きだ、ということだ。

万が一にも、「えー、国際秩序の観点から見た自由貿易主義の原則は・・・」といった説教めいた演説をしてはならない。

 

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 トランプ大統領が仕掛けてきた高率関税問題は、追加引き上げの90日間の延期決定によって、新しい様相に入ったように見える。中国に対しては、合わせて145%の関税を課す措置を残したからだ。これに対して、中国は対米関税を125%に引き上げる措置をとった。さらに防衛関係のアメリカ企業6社を「信頼できない企業リスト」に加えたり、12社に輸出規制を課したりする措置もとっている。

 トランプ政権が、無人島まで含めて全世界に対してとった措置である高率関税措置は、中国に対してのみ相互に貿易活動を停止するようなにらみ合いの段階に入り、その他の諸国とは別の道をたどることになった。

 普遍的な高率関税の導入だったはずの措置が、米中一騎打ちの貿易戦争へと進展している。二大超大国同士の対決だ。激震である。
  「延期」決定で、株式市場が大きく高騰したことなどを受けて、「世界が救われた」といった見方も出た。だが修羅場はこれからだ。私はどちらかというと不安が高まった。
 中国にとってアメリカは最大の貿易相手国であり、米国市場へのアクセスが途絶えることには深刻な意味があると考えられる。ただし第一期トランプ政権の際にも貿易戦争と呼ばれたやりとりを行った経緯があり、第二次トランプ政権との間での貿易戦争は織り込み済で、準備はしているはずだ。ロシアが欧米諸国とその米国の同盟諸国からの経済制裁をかいくぐって経済成長を続けているように、中国は関税回避策をとってはくるだろう。

アメリカにとっても中国は第4位の貿易相手国であり、防衛装備品からスマートフォンに至るまで、中国製の部品や素材に大きく依存している。しかし何といっても、中国が米国の国債を大量に保有していることが、大きなポイントである。ここ数年で中国は米国の国債をだいぶ売却し、米国に対する海外の最大債権国の座を日本に譲っている。だがそれでも20251月時で7608億ドルを保有している(ちなみに日本の保有額は1兆0790億ドル)。

今回の騒ぎの中で、中国が国債をかなり売り始めているという指摘がなされている。米国10年債金利は、トランプ政権成立後に、4.8%台から一時は3.89%まで低下する流れを見せていた。ところが、現在の混乱の中で10年債金利が再度上昇し、4.45%をつけた。

アメリカの財政赤字は、累積で2024年度に35兆ドルで、対GDP比で124%の水準に達している。日本が対GDP比で257.2%の累積債務を抱えている状況よりもまだマシだが、日本が世界最悪水準なので、アメリカの状況が楽観視できることの理由にはならない。日本の債務残高は、1,105兆円で、絶対額で見れば、アメリカの5分の1程度である。

トランプ政権が、追加高率関税を延期する措置をとったのは、109日の日本時間の昼頃から米10年債の利回りが急騰したためで、その原因は、日本の農林中央金庫による売却が原因だという見方が広まっている。アメリカのアキレス腱が露呈した形だ。日本人の私から見ると、今は米国国債の話は、極めて繊細な事項だ、うかつな動きは禁物だ、という気がしてならない。

トランプ政権の評判は、日本国内でも非常に悪い。しかし日本の唯一の同盟国である。空前の規模の貿易赤字のみならず、巨額の財政赤字を抱え込んで、非常に苦しい立場にあることも、客観的な事実だ。アメリカが倒れてしまったら、結局は日本も大変な事態に見舞われることになる。最大債権国の立場は、交渉の際のカードに使うことはあっても、本気でアメリカの損失になるように使うべきではないだろう。

世界情勢の長期的な趨勢としては、アメリカの一極突出を前提にした「グローバルな」仕組みは、国際安全保障面だけではなく、国際経済制度の面でも、勢いを失っていく流れが顕著だ。トランプ大統領がその原因であるかのように語る風潮があるが、これは二カ月前に始まったことではない。トランプ政権の誕生は、原因と言うよりは、結果に近いものだと言うべきだろう。

もちろんトランプ政権によって事態がいっそう悪化していく危険性はある。それにしても、日本が望むのは、アメリカの一極支配的な体制のソフトランディングと呼びうるような流れでの収束だ。トランプ憎し、の気持ちで浮足立つと、かえって日本が抱えるリスクも高まってしまいかねない。トランプ政権期であるからこそ、むしろ運命共同体としてのアメリカを支える気持ちが大切ではないだろうか。
 日本人は、日米同盟を、国際秩序の盟主との間で結んだ直接契約であるかのように思っているのかもしれない。しかしアメリカは、世界の幾つかの大国の中の一つの大国、になろうとしている。日本から見れば、依然として圧倒的な国力を持つ超大国だ。しかし国際秩序の盟主といったものではない。日本は、少し異なる態度で、しかし依然として代替物のない外交資産として、アメリカとの同盟関係を運営していかなければならない。

5万円給付といった謎なアイディアが飛び交っている。しかし今起こっているのは、地震や津波のような自然災害でも、新型コロナのような感染症の流行でもない。国際社会の力の構造の転換という政治現象である。場当たり的な対応は、必要性が低いように思われる。パートナーとの緊密な対話を欠かすことなく、長期的な視野を持った展望を持つ努力をすることが大切だ。

 

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