一人の言論人として気ままにブログを書いているが、真面目に反応していただける方がいらっしゃるとすれば、大変にありがたい。先日、「再度言う。自衛隊は軍隊である。」という記事を書いたところ、弁護士の早川忠孝氏に「篠田氏が何を言っても、自衛隊は自衛隊でしかない」という題名の記事を書いていただいた。わざわざ言及していただき、大変に光栄である。
しかも「自衛隊はどこから見ても『軍隊』だ、などと断言されない方がいい」、「篠田氏は、もう少し違った切り口から問題提起をされては如何か」、という忠告もしていただいた。そのうちにまた、憲法学者・司法試験(公務員試験)受験者の方々に、「三流蓑田胸喜だ」「ホロコースト否定論者だ」と言われるぞ、というご忠告だろう。大変なご親切なお心遣いに謝意を表する。
だが、早川氏の文章の内容は、理解できない。
早川氏は、自衛隊は軍隊ではない、と断言する。そしてその理由として、次のように述べる。
――――――――――
「日本の国民が期待する自衛隊の役割は、あくまで日本の国民の安全確保や国土の保全のための活動であって、自衛隊はその名称に端的に表れているように、あくまで「自衛」のための組織であって、国際平和維持活動の場合を除いて、自衛の限度を超える活動までは基本的に求められていない。」http://agora-web.jp/archives/2030718.html
――――――――――
しかし、早川氏は、日本以外の世界の全ての国は、国際平和維持活動を除いた自国の防衛以外の目的で軍隊を保持している、というお考えの根拠を、全く示していない。そもそも国際平和活動や自国の防衛以外の目的だという謎の目的が、どんなものなのかも全く示していない。
もちろん、日本以外の全ての国が、謎の目的を掲げて軍隊を持っているという事実を、私は知らない。しかし、早川氏だけは知っているらしい。
そうだとすれば、早川氏は、責任をもって、日本以外の全ての国々が、今、この現代国際法が適用されている21世紀においてなお、自国の防衛や国際平和維持活動以外の何らかの謎の目的で軍隊を保持している、ということを、しっかり立証するべきだ。
もし立証しないで他人の言論活動を一方的に封殺する行動だけをとろうとするのであれば、無責任のそしりを免れない。
たとえば海外に軍事基地を置くアメリカなどは、日本よりも集団的自衛権や集団安全保障に対応する体制をよりよく整えているだろう。しかしアメリカが自衛以外の目的で軍隊を保持するに至った、などと言う話を、私は聞いたことがない。集団的自衛権は、集団で行使する自衛権であり、つまり自衛である。日本の憲法学の基本書で説明されておらず極東の島国の司法試験勉強時に国際法を習わなかった、という理由で、国際法で確立されている自衛権の論理を否定したつもりになってみせるのは、やめてもらいたい。
たとえば世界中の人々が、アメリカのアフガニスタン戦争は国際法上の自衛権で正当化できるか、イラク戦争は正当化できるか、という考え方で議論をしている。前者は大多数が認めるが、後者は認めない。前者が認められるのは、9・11テロを本土攻撃とみなし、攻撃者勢力に対する自衛権の発動として認められうるからである。いずれにせよ、「アメリカなどの世界の国々は自由気ままに他国を攻撃できる軍隊を持っている、そのような軍隊を持っていないのは日本だけだ」、などという話は聞いたことがない。日本の憲法学者/司法試験受験者だけは、それが真面目な法律論だと信じているということなのだろうか。
また現代国際平和活動は、国連憲章7章、つまり集団安全保障の法理で支えられている。試しに憲法学の基本書のことは忘れ、日本国憲法それ自体を素直に読んでみれば、日本は憲章7章がかかっていない国際平和活動には参加しても良いが、憲章7章がかかっている国際平和活動には参加してはいけない、などというややこしい話が存在していないことは、すぐわかる。
早川氏は、軍隊の存在に関する規定が憲法にはないと言うが、日本は国連憲章を批准し、自衛権に関する憲章51条を含めた国際法規を受け入れている。憲法が明示的に否定していなければ、国際法規がそのまま適用されるのが当然である。
早川氏は、国際海洋法に関する規定が憲法にはないので、国際海洋法は違憲だ、と主張する準備があるだろうか。異常なロマン主義的な思い入れによる「全て憲法学者に仕切らせろ」マインドを排して冷静に考えれば、国際法の概念である自衛権も、本来は同じなのだ。多くの憲法学者はそれを認めない、というのは、むしろ政治運動の話であり、「法の文理解釈」の話であるとは言えないと思う。
早川氏は、中国や韓国が怒るだろうから自衛隊は軍隊ではないと言っておいたほうが得策だ、といったことを滔々と述べる。しかし、果たして、このような一方的な思い込みにもとづいた政治漫談が、早川氏が誇る「法の文理解釈」のことなのだろうか。
1960年代に国際法学者は、連日ベトナムに向けて爆撃機が飛び立っている米軍基地がある沖縄を、「事前協議制度」を持つ日本が返還してもらったら、集団的自衛権の行使に該当してベトナム戦争に参画していることになる、と指摘した。1972年、沖縄が返還されたとき、「集団的自衛権は違憲なので行使していない」、という政府見解が公表された(拙著『集団的自衛権の思想史』)。早川氏の価値観は、このような集団的自衛権の歴史が示すものと同じに見える。「面倒なことは、存在していないことにすればいいじゃないか」、という価値観である。
常日頃、憲法学を信奉する方々は、「権力を制限するのが立憲主義だ」と唱えている。それでは軍事力を保持する集団を、軍法又はそれに相当する法規範で制限することを推奨するのかと言えば、それには反対する。なぜなら軍法を作ってしまうと、自衛隊が軍隊になってしまうからだという。そして軍法がないので、自衛隊は「フルスペックの軍隊」(憲法学特殊用語)ではない、といった堂々巡りの話が始まる。このようなやりとりは、本当に「法の文理解釈」だと言えるのか。特定イデオロギーにもとづく政治運動なのではないか。
早川氏は、著作家ではないので、残念ながら著作活動は確認できない。ただし以前のブログ記事などを見ると興味深い記述があったりする。
――――――――――「私は、自衛権は国家の自然権であり、憲法に明記されていなくても当然ある、という立場に立っている。」(早川氏のブログ:2017年11月25日)http://agora-web.jp/archives/2029679.html
―――――――――――
「国家の自然権」があるという思想を持つのは自由だと思うが、法的根拠が何もない勝手な空想である。これが早川氏の言う「法の文理解釈」というものなのか。
憲法学会に「国家の自然権」思想がはびこっているのは、私も知っている。戦前の大日本帝国憲法時代に、プロイセンに留学した者が憲法学教授になり、ドイツ国法学の観念論こそ世界最先端だと誇っていた時代があったことの名残である。
アメリカ人との戦争に日本が負けてしまったため、世界最先端を誇っていた大日本帝国憲法時代の憲法学は一夜にして消滅する危機にさらされた。よほど悔しかったのだろう。日本国憲法をドイツ国法学で解釈し続けるという離れ業によって、古い憲法解釈の伝統はいくつかの点で維持され続けた。
実際の日本国憲法は、前文において、「国民の厳粛な信託」こそが「人類普遍の原則」であると謳い、アメリカ流の社会契約論を基盤にしていることを明らかにしている。しかし日本の憲法学では、社会契約論は軽視され、なぜかフランス革命の伝統を引き継いでいるという壮大な歴史物語を根拠にした国民主権論にもとづく有機体的国家論が残存した。(拙著『ほんとうの憲法』参照)
しかし、もう大日本帝国憲法は存在していない。それどころか冷戦体制も終わってしまった。「面倒なことは、存在していないことにすればいいじゃないか」、という態度は、大人の態度でも何でもない、もはや単なる時代錯誤的な態度である。面倒を惜しまず、存在していないものは存在していないと認め、存在しているものこそ存在しているものとして認めていくのが、本筋である。
資格試験等を通じた既得権益を持ち、特定のイデオロギーを持つ者だけが集まる「ムラ社会」の雰囲気を理由にして、「ムラ」に属さない者を一方的に軽蔑し、排除しようする行為、それを「法の文理解釈」などといった言葉で脚色しようとするのは、是非やめてもらいたい。
コメント
コメント一覧 (9)
法律は、道具である。どうあれば、日本国憲法前文にあるように、日本国民が、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとする国際社会で、名誉ある地位を占められるか、を考えればいいのではないのだろうか?
曲学阿世の徒でも、それが多数になれば学界の「正統派」になるという気持ち悪い世界。「曲学阿世の徒」という言葉は、吉田茂がサンフランシスコ講和条約締結前の時代に(西側との)単独講和に強硬に反対し全面講和を唱えた東大の学者たちに使った言葉だ。今となってはどちらが正解だったかほぼ自明だろう。
曲学阿世の徒は、なんでもかんでも現実を自分に都合のよいように解釈する。その思考の典型となっているひとつが、憲法が戦争の歯止めになるという「憲法歯止め論」なるものだ。
憲法9条の信者ばかりが昔も今も戦争を止める役割を担っていると思ってきたのだろう。
私は吉田茂を尊敬するが、吉田茂が日本の再軍備に反対したのは、主に3つの理由で、日本は経済優先にしなければ復興は難しいというのと、無理に再軍備しようとすれば反対暴動が起きて日本に共産党政権が誕生する恐れがあったということ、最後に鳩山一郎たちの憲法改正論者を信用していなかったなどだ。時代が変われば見直すのは肯定していた。
国家の安全保障や戦争防止という重要な枠割を「曲学阿世の徒」などに国民は期待していない。学問の志操を守ったという自己満足はあるのだろうが、曲学阿世の徒は社会を混乱させないでほしい。
そのドイツと日本の違いこそが、ドイツのアデナウアーと日本の吉田茂の違いというか比較だ。
アデナウアーの西ドイツでは「共産主義者はイカサマだ」と見抜いていた。
すぐ隣りには(ソ連とつながった)東ドイツがあったのだから当然だ。ドイツは「厳しい現実」と対峙していた。
一方、日本の曲学阿世の徒は、日本という島国のなかでマルクス主義という観念的なお遊びにふけっていた。そして吉田茂などを逆コースと罵倒して、反権力ごっこをしていればよかった。左翼は、共産主義の本質を覆い隠して反米ごっこと反日ごっこを流行させた。
吉田茂もアングロサクソン流の国際感覚をもっていたので共産主義の実態を見抜いていた。政治の世界では吉田茂などがいたから、本当に助かった。
ドイツでアデナウアーが極めて高く評価されるように吉田茂も正しく評価されるべきだ。
むかしほどの脅威はなくなったが、観念的な学者は本当に誠実な民主主義を破壊する。
日本とドイツのもうひとつの決定的な違いが、マスコミだ。ドイツでは戦前のマスコミが完全に廃止された。日本では朝日新聞などが生き残った。
朝日新聞など異様な偏向マスコミが観念的な学者たちの言論を徹底的に持ち上げて、崇拝して国民を洗脳して、「悪しき権威主義」をもたらした。
この異様な偏向マスコミの手口が、また病的だった。ドイツ人を「真摯に反省した模範的な近代人」で日本人を「無反省な野蛮人だ」と決めつけた。
逆に病的な無反省の常習者こそが朝日新聞など偏向マスコミや曲学阿世の徒だったのだ。
戦争に至った真摯な反省などは必要だが、偏向マスコミや観念的な学者が自己保身や利権のため扇動することがあれば、その方向性や結論はかならずゆがめられるのだ。
憲法上は自衛隊が戦力に該当しないとされている以上、結局、戦力の典型である軍隊とされず、国の行政組織である「特別の機関」(国家行政組織法8条の3、防衛省設置法19条1項)とされ、自衛隊の行動規範が軍隊ではあり得ないポジティブ リスト方式とされているのが9条2項がある故の限界なのでしょう。
また、ニカラグア事件判決は、集団的自衛権を発動するためには被攻撃国の同意も必要としており、自衛権であるにもかかわらず他国の同意が必要とするのは背理なので、文言上は集団的「自衛権」とはいうものの自衛というよりも他衛的側面が大きいことは否定しがたいところです。また、自衛権を国家の自然権というかどうかはともかくも、国家の目的は国民の生命・自由・財産を守ることにあることから、国連憲章以前から国際慣習法として確立されていた個別的自衛権と国連憲章51条によって国際法上の権利としてされた集団的自衛権とを、「自衛のための必要最小限度」の判断基準に際して区別すること自体は、戦力不保持規定のある現行憲法の解釈論としてはやむいを得ないのでしょう。やはり、フルスペックの集団的自衛権を行使可能とするためには戦力不保持を定めている点で異質の9条2項を削除し国防軍の統制規範等を憲法で明記すべきであり、ドイツが東西冷戦の緊張状態で再軍備を可能とし憲法に明記したように、日本も安全保障環境の厳しさが増している中で、9条2項を削除するのが理想なのでしょう。政治的に軍隊へのアレルギー反応があり国民の理解が得られないということであれば、それは究極的には日本国民の全体の安全保障に関するリテラシーが低いということになるのでしょう。
>国連憲章以前から国際慣習法として確立されていた個別的自衛権と
>国連憲章51条によって国際法上の権利としてされた集団的自衛権とを、
>「自衛のための必要最小限度」の判断基準に際して区別すること自体は、
>戦力不保持規定のある現行憲法の解釈論としてはやむいを得ない
というのがイマイチピンと来ません。国連は、実効力など議論はあるものの、世界の中心的な国際機関であることは世界中の誰も異論はないでしょうし、すでに70年以上の歴史がある。集団安全保障の枠組みも世界中でとっくに当たり前のものとなっている。
国連憲章以前と分けて、国連憲章の内容のほうは、確立されているというには不十分、というにはかなり無理がありませんか?
コメントありがとうございます。確かに、ご指摘のとおり、集団的自衛権は国連憲章で規定されているので国際法上の権利としては確固たるものと思いますが、憲法13条に基づく国家の最低限の義務として外国からの武力攻撃に対処する措置は許され、他国防衛の性質をもつ集団的自衛権は憲法上許されないという解釈(外国からの侵略を放置し個別的自衛権を行使せず座して死を待つのは国家の最低限の義務違反ですが、集団的自衛権を行使しなくても国家の義務違反とはならないと思います)は、戦力不保持規定のある現行憲法のもとで良く考えられた解釈のように思います(流石に、現行憲法下でもフルスペックの集団的自衛権も行使できるとすると憲法9条2頃の規定の意味が全く失われてしまい、これまでの政府解釈との整合性もとれないので)。もっとも、集団的自衛権の中にも、存立危機事態のような場合は自国防衛的側面も大きく、そのような範囲であれば現行憲法上も合憲とされる可能性はあると思いますし、従来の政府見解との整合性もギリギリ保てるように思います。フルスペックの集団的自衛権については、やはり、憲法改正によらざるを得ないように思います。
つまり統一的な「military forces(軍事力、軍隊)」と位置づけている。
海外からそのように見なされているのだから、「自衛隊は軍隊ではない」と主張する日本の護憲学者は海外にむかって「間違っていますよ」と宣伝しなければならない。
しかし、彼らは大々的に主張しているようには見えない(こそこそと陰では学術論文の形で発表をしているかもしれないが)。
つまり彼らの「魂胆」は「日本人だけ、あざむければ、それで良い」と思っているのはほぼ間違いないようだ。(海外で大真面目に主張すれば笑われるのだろう。当たり前だ)。
では、「その心は?」なんだ?ということだが、その意図は「日本の政治家なんか信用できないに決まっているから、とりあえずは憲法で縛っておけ!」だろう。ややこしいのは、そう面とむかって主張しないで、あれこれ法的理屈をこねるから訳がわからなくなる。それも一般国民を煙にまくための方便だろう。
歴史的経緯があるので、その心情を100%理解できないとまで言わないが、そんなレベルでは日本はまともな先進国にはなれないだろう。(それも彼らの狙いかもしれないが・・)
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。