1993年に殉職された高田晴行警視を含むカンボジアPKOに派遣された文民警察官の方々の経験を克明につづった本の書評を書かせていただいた。blogos.com/article/277437/ 日本における国際平和協力の業界は小さいので、それなりに話題にしていただいているようだ。ありがたい。
ところが「官僚主義の弊害」「検証しない国」といった表現にだけとらわれる方々が、政府内にも、運動家にも、いる。もちろん、問題の核心は、そこではない。
憲法9条の恣意的な解釈・運用が、この国にどれだけの機能不全をもたらしているのか。私の書評は、その端的な実例を扱っているにすぎない。
国民投票をすると無駄なお金がかかるという人がいる。ナンセンスだ。過去70年にわたって、政治イデオロギーに染まった憲法解釈・運用によって、どれだけの無駄が積み重ねられてきたのか。
PKOの現場だけではない。霞が関にも、永田町にも、犠牲者はいる。憲法学者が文句を言うだろうかと悩み、相談し、仕事をやり直したりしている方々が、日夜、相当な苦労をされている。それらの方々が費やした労力と時間を計算すれば、とても800億円では足りないだろう。
それなのに、今後もまだ、何十年もかけて無駄な費用をかけ、国力を疲弊させ続けるのか。現場で真摯に努力し続ける方々に、矛盾を押し付け続けたうえで、「政府の邪魔をする者だけが立憲主義者だ」、などと主張し続けるのか。
早く憲法解釈を確定させたほうがいい。しかも、問題の先送りだけに終わらないように、国際法と調和した憲法解釈を確立させたほうがいい。
そして安定した外交安全保障政策を維持しながら、焦眉の課題の諸問題に本腰を入れて取り組んでいくべきだ。
9条に関する憲法学通説を批判する国際政治学者を見つけては、「日陰者だ」三流蓑田胸喜だ」「ホロコースト否定論者だ」、などと誹謗中傷していくために労力を払うのではなく、憲法学者の方々には、是非とも「ヘイトスピーチの規制」などの本当の憲法問題の研究に専心していただきたい。
コメント
コメント一覧 (2)
皮肉なことに日本は非常にハイコンテクスト且つ器用な人間の集まりです。このように歪で不合理で非効率な制度下でも、何とかその前提条件の中で都度部分最適を獲得し、時局や事案を対内的にはやり過ごすことができてしまいます。安全保障組織の中でさえそうでした。また安全保障組織においては上位概念である制度の疑問視はタブーであり、自己矛盾に対する諦感や甘えさえがあります。それでも微力ながら平和構築、平和維持には貢献をしてきたと自負していますが、以前先生のご指摘にあったとおり、UNMISSから手を引いたことで、今やその貢献の形すら極めて難しい状況になったと言わざるを得ません。
憲法学者はあまりに特殊なコミュニティだとしても、知的水準の高い多くの国民が彼らや低質なメディアに踊らされず、広い視野と本質的思考に立ってより平和で安定した世界を構築する議論を展開できるようになってほしいし、この場に見られるように、そのポテンシャルは十分にあると考えます。
これを発展させるためには、今後我が国で予想される合目的性を欠いた改憲論議において、先生が勇気ある直言を何石も投じられることを期待しています。
ただ、この問題は、「解釈」で解決するのではなくて、「9条の改正」で対応すべきだと思います。それは、日本国憲法が、日本国の最高法規だし、現在の条文は、普通の日本語の語学力のある人が読めば、自衛隊は違憲だからです。やはり、最高法規の日本国憲法は、普通の人が普通に読んで、そう解釈できる条文に改正すべきだと思います。
昨日、「ほんとうの憲法」読み上げました。
そして、先生の3項の改正案、「前2項の規定は、本条の目的にそった軍隊を含む組織の活動を禁止しない。」というご提案を知りました。
ただ、この文章だと、9条の目的と軍隊が相反して、理解が難しいです。
私の提案は、本条のかわりに、日本国憲法の前文 にすれば、いいのでは、
と思いました。
つまり、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において・・・、われらは、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」ための軍隊を含めた組織の活動なら、禁止しない」、と解釈できる条文にしては、どうかというのが、私の提案です。
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