定期的に出演させていただいているニコニコ動画『国際政治ch』で、ゲストに冨澤暉・元陸上幕僚長をお招きして、対談をした。http://ch.nicovideo.jp/morley
海外の軍人「プロ」同士の視線を気にすれば、「自衛隊」という名称を入れる改憲案には承服できない、といった意見など、約三時間、興味深いお話をたくさんしていただいた。
それにしても印象に残ったのは、冨澤さんに、最後に、「自分と同じ見解を持つ篠田という学者は珍しい」といったことを述べていただいたことだ。視聴者の中にも、同じようなコメントを出してくれている方がいらっしゃり、光栄ではあるが、複雑な思いにかられた。
なぜなら私自身は、自分自身の国際秩序論を、極めて普通の正論だとしか思っていないし、憲法解釈も単なる平凡な憲法典の読解だとしか思っていないからだ(むしろ私は憲法学の主流のほうが意図的に憲法典を曲解していると思っているし、司法試験受験者や公務員試験受験者が、試験委員のチェックばかりに忙しくて日本国憲法典それ自体を読む暇を持てていないと疑っている)。http://agora-web.jp/archives/2031329.html blogos.com/article/280280/
冨澤さんが著作で論じていることも、国際社会の常識と言ってよいことばかりだ。「戦争を放棄をしているのは日本だけではない」、「PKOの武力行使は集団的自衛権と関係ない」、「集団的自衛権と集団安全保障の差異をほとんどの国民が認識していない」、などは、単に国際法の基本を勉強すれば、それで常識となる事柄ばかりだ。
だが国際社会の常識を常識として主張すると、日本社会では、珍しがられるらしい。私のように、うっかりと憲法典それ自体は国際社会の常識に反していない、などといったことまで口走ってしまうと、憲法学者や公務員試験合格者や司法試験合格者から、「日陰者」、「(三流)蓑田胸喜」、「ホロコースト否定論者」、「若い」、などの言葉を浴びせかけられる。
全ては、国際法の地位が、日本社会で不当に扱われていることに起因しているのではないか。
私は国際政治学者だが、国際法学会にも属している。素晴らしい業績を持ち、国際的に、学会で、国連委員会で、活躍されている国際法学者の方々が日本にも多いことを、よく知っている。政治運動には走らず、プロ意識が強いことが、かえって国際法学者の方々の日本社会での存在感を地味にしているとしたら、不当だ。
司法試験で国際法を必須にする、公務員試験で国際法を必須にする、国立大学法学部で国際法教員を優先確保する、などの措置がとられれば、日本社会は一気に変わるような気がする。が、もちろん簡単には発生しない。既得権益に根差した社会構造の問題だからだ。
相変わらず、司法試験合格者が、法律家の代表として、憲法の基本書にしか存在しない「国際法上の交戦権」なるものを振りかざし(実際には現代国際法に「交戦権」なるものは存在しない)http://ironna.jp/article/8337、国際法では国連憲章にもとづいて世界的に自衛権に関する議論が蓄積されているのに「自衛権は憲法に書かれていないので透明人間だ」http://agora-web.jp/archives/2029686.html、などといった主張を、熱心に社会に広めている。
もっとも伝統的に、日本の国際法において、国際人道法(戦時国際法=ユス・インベロ)はもちろん、自衛権(武力行使に関する法=ユス・アド・ベルム)についても、あまり華やかな議論がなされてこなかったという事情もあるかもしれない。しかし優れた専門家がいないわけではない。
人口激減・少子高齢化による国力の低下が懸念されている日本が、いつまでも「戦前の復活を阻止する」ことだけを目標に、「憲法優位説」だけを唱えているだけで、本当に上手くやっていけるのだろうか。
コメント
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また、自衛隊という名称は元々憲法にないものだから、これを変えて欲しい。多国籍軍でもPKOでも武力行使が必要な時代に、自衛のためだけの防衛組織というものは世界にあり得ない。ともかく「自=Self」という言葉だけは外して欲しい。それは1国平和主義を表すからである。
「軍」という表現がどうしてもだめなら「隊」でも良い。「日本防衛隊=Japan DefenseForce」はどうであろうか。」http://www.fsight.jp/articles/-/42810
という富澤氏の記事は勉強になりました。
今後、日本は、あっというまに国際的な立場が低下して行く事に為るのではないかという危機感が篠田先生にも富澤氏にも共通してあるのでしょうね。
少なくとも、国会議員の先生方は、もう少し真面目な議論をする必要があると思います。
お二人の主張が広く世間に浸透して行く事を、微力ながら応援します。
蓑田胸喜という名前も知らないし、私の知らない時代なので、その時代を調べたが、この「天皇機関説」問題は、自由主義体制における国際協調路線の文民外交「幣原外交」を1931年にやめさせた立憲政友会、軍部、右翼の策動で、時期も、ドイツナチスが政権を取って、プロイセンのその根拠となった学者イエリネックの本が焼かれた後の1935年である。ドイツの元首ヒトラーは個人崇拝を求めたが、日本の昭和天皇自体は、「天皇機関説を当然のもの」と、受け入れておられた、とあった。
問題は、その当時のマスコミがどう報じたかである。「畏れ多くも天皇陛下を機関車、機関銃に例えるとは何事か。」という立憲政友会の支援者の声が、説得力をもつというのは、なにを意味するか。
本来、言論人として、マスコミの人が、それをきちんと説明すべきなのではないのだろうか?その後、政府が、陸軍大臣からの要請を受けて、告発し、美濃部さんが、国会議員を辞任された、ということは、「スキャンダルまみれの文民の政党政治家は信用できない、命をかけた軍人は信用できる。」風の、当時のマスコミの作り上げた世論がそうであった、から、そうなったのではないのだろうか。「鬼畜米英、日本が米国と戦争をすることがいいことだ。」という世論と同じである。
戦後、9条を発案した政治家が、幣原喜重郎さんである、という説もむべなるかな、と思うが、今はそれが極端にいきすぎている、と思う。
日本国憲法は、日本の最高法規です。
国民が、ふつうの人が、主役の民主主義政治、
まともな世論を作り上げるために、篠田先生、どうぞ、がんばってくださいね。
この「天皇機関説」を糾弾する「天皇主権説」を唱えた学者は、東京帝国大学法学部教授穂積八束、同じく上杉慎吉、とある。
この上杉慎吉、という学者が問題なのであって、事件の起こる前、1929年に亡くなっているが、ドイツに留学して、影響を受けた人物として、ヒトラーが政権に就く前、憲法学者として国際的に名声のあった法学者イエリネックの名前をあげながら、彼の考え「人権に配慮した」立憲君主主義の元になっている「人権宣言論」ではなく、1910年に彼の主張とは正反対の、
「天皇即国家」、「神とすべきは唯一天皇」、「天皇は絶対無限」のような、西欧で言えば、「絶対王政」、「王権神授説」のような考え方をとりはじめ、東大以外に、陸軍大学校、海軍大学校の教授をつとめ、皇族にも進講し、同僚に「勅奏任の行政官にして教授の憲法学説に親しまざる者、殆ど悉無といふべし」と評されている。
この説を熱心に支持する東京大学法学部を含む優秀で、熱血漢の学生たちが、日本をおかしな方向に進ませていったのであって、蓑田胸喜もその一人
この考え方が平沼騏一郎など、国粋主義者たちと結びつき、日本の政治をおかしな方向に推し進めていくのである。
逆に、この安倍さんを「ウルトラナショナリスト」と名付けておられる人々は、マルクス主義に洗脳された人々、つまり、戦後転向された岸信介首相の「日米安保条約」の反対の政治運動で亡くなった東大生樺美智子に代表される思想傾向をもつ人々なのではないのかと思う。
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