「木村草太教授の学説は憲法学界を代表しているのか」という題名のブログを書いた。http://agora-web.jp/archives/2032139.html 木村教授は、集団的自衛権は「軍事権」なるもので行使されるが、「軍事権」が憲法に規定されていないので、集団的自衛権は違憲なのだと言う。ちなみに個別的自衛権は「行政権」なので合憲だという。
初めの一歩の「軍事権」が空想物のようにしか聞こえないので、「消去」されていると言われても、謎々みたいな話にしか感じられない。
行政権とは別だということは、「軍事権」というのは、三権分立から離れた「第四権」か。もっとも日本だけは「消去」しているので、日本の三権分立は無事だ。ところが日本以外の世界の諸国は、集団的自衛権を認めているので、「第四権」である「軍事権」なるものを持っているらしい。諸国の三権分立はどうなるのか???
その後、匿名の方からのブログへのコメントで、「軍事権のカテゴリカルな消去」という発想の起源は、やはり石川健次・東京大学法学部教授だろう、と教えていただいた。石川教授は、それで自衛隊違憲論の立場にあるという。
「軍事権のカテゴリカルな消去」は、もともとの発想では、自衛隊違憲・非武装のドクトリンであったのだ。そこに個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、という落としどころを付け加えたのが、木村草太教授のようだ。
自衛隊が違憲になるか、合憲になるか、について全く違う結論を導き出しても、同じ一つ憲法学の通説を持っていることになるというのだから、憲法学界というのは、なかなか大らかな学界だ。
ついでなので石川健治教授の「前衛への衝迫と正統からの離脱」論文から引用しておこう(面倒な方は飛ばして読んでください)。
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軍隊を消滅させることによって軍事力統制の課題そのものの解消を企図した現行憲法九条は、日本の議会政治へのdefinitionalな制約条項としての意味をもちえただろう。すなわち、同条は、第一に、議会の立法権行使に関し、軍編成権(軍政)に関しては、その組織法制定権限に制約を課す、という(消極的な)法的権限規定の側面、第二に、そうした組織法制定権限の制約(その結果としていわゆる軍令の領域も原理的に存立しえなくなる)根拠として、平和主義の理想という―――「民意」をも超える―――高次の正統化根拠を提示しているという側面と、第三に、それに伴い政府が軍事予算を計上することが不可能になる、という意味での財産権の限界規定の側面とを、もっていたはずである。にもかかわらず、戦後の国会は、消極的権限分配としての九条を破って、自衛隊法という組織法を制定するに至ったのであり、しかも、裁判所が憲法判断を回避している現状のもとで、自ずと第二および第三の側面に過重な負担がかからざるをえなかったのが、戦後における軍事力統制の特異性である。すなわち、平和主義という正当化根拠によって自衛隊の正統性を剥奪するとともに、GNP一パーセント枠というそれ自体何の理論的根拠もない財政権の限界規定(その場合に御大蔵省の果たした役割は大きい)により、辛うじて軍事力のコントロールをし、国家機構における権力バランスを維持してきたというのが、戦後の憲法史の現実ではないかと思われる。」(116-117頁)
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この名文によって、今や「カテゴリカルな軍事権の消去」は、憲法学通説となった、ということのようである。ただし自衛隊が違憲なのか、合憲なのか、個別的自衛権だけは合憲なのか、やはり違憲なのか、まだわからない。『憲法判例百選』の解説者陣へのアンケート結果の集計を待たなければならないのか。
ちなみに石川教授の「前衛への衝迫と正統からの離脱」論文の「結論」はどうなっていたか。引用してみよう(途中で辛くなる方は、飛ばして先に読み進めてください)。
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近代的主体なるものが、その種の―――連帯関係のレベルでの―――哲学者の妄想において確立されてきたのではなく、主体を実際に確立するに際しては―――法関係のレベルでの―――われわれ法律家の力によるところも少なくなかったことを考えると、そうした妄想が我々の議論を根底から覆すと考えてあわてる必要はない。むしろ、社会的価値評価の水準での文化的開放の動きとの関連を、慎重にかつ繊細に見極めてゆくことが重要であるように思われる。そのひとつの手がかりを、本稿は<前衛への衝迫>と<正統からの離脱>という対称軸に求めて、これと憲法学サイドの「期待の地平」(H.R.Jauß)との関係を、試験的に考察してきた。そして、そうした状況下で立憲主義者が心がけるべきは、詩人T・S・エリオット風にいえば、現行憲法を擁護するという意味では保守主義者であること、前衛への衝迫から自由であるという意味では古典主義者であること、そして<文体>の実験がもつポテンシャルに開かれてあるという限りでモダニストであること、ではないだろうか。これが本稿筆者のさしあたりの結論である。」(122-123頁)
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それで、結局、「第四権」=「軍事権」はあるのか、ないのか?
『憲法判例百選』解説者アンケート結果が出ていないので、どちらだかわからないような不安に襲われる。
大日本帝国憲法下では「統帥権」があったのに、日本国憲法にはないなら、それは「統帥権のカテゴリカルな消去」を示しているのではないだろうか???
木村教授は、「軍事」を「他国の主権を制圧して行う活動」と定義する。http://webronza.asahi.com/politics/articles/2014102500005.html ということは、「軍事権」は「他国の主権を制圧」する権利?それを日本以外の世界の諸国は持っている?
(ちなみに、集団的自衛権は、支援対象国の同意にもとづき、その国の主権を侵害している脅威を除去することを支援する行動だ。集団的自衛権にもとづく行動は、「他国の主権侵害を除去して回復させることを支援する活動」、なので、軍事力を用いても、木村教授の言う「軍事権」の行使には該当しないだろう。)
近代憲法は、三権分立を大原則にしている。その前提から、国家の機能のうち立法と司法の機能を除いた全ての機能が行政機能と分類されると考える「行政控除説」は、ほとんど常識化している通説だろう。行政控除説に異を唱える学説もあるようだが、だからといって行政権の外側に「軍事権」がある、などという話につながるわけでもない。三権分立を、近代国家の立憲主義の根源的考え方の一つとみなす限り、あらゆる国家機能は、三権のどこかに帰属すると考えるのが原則であるはずだ。
三権分立の考え方にしたがえば、軍事組織を創設する権能は立法権(Legislative power)にあり、軍事組織を運用する権能は、「執行権/行政権(Executive power)」にある。日本国憲法にそって言えば、「国務を総理する(conduct
affairs of state)」ことに含まれると考えるのが自然だ。
「軍事権」=「統帥権」=「第四権」を主張する木村ドクトリンは、世界最先端の画期的憲法論か、ガラパゴス憲法論の究極的な形態か。
コメント
コメント一覧 (13)
引用されている部分や執政権説からすると、次のように整理できるのかもしれません。
(概念整理)
内閣の権限(広義の行政権)=狭義の行政権+外交・軍事等の憲法で認められた執政権(但し、日本国憲法のもとでは軍事権はカテゴリカルに消去されている。)
その上で、木村先生の説の内在的な理解としては、攻撃国の主権を制圧する活動であっても、個別的自衛権については自国の主権を維持する活動であるので「防衛行政権」とみる余地があるのに対し、集団的自衛権は(他国の主権を維持する活動であって)自国の主権を維持する活動ではないので防衛行政権とみる余地がなくカテゴリカルに消去された「軍事権」に他ならないので違憲だと整理できるのではないかと思いますが、かえって、複雑で分かりにくい解釈論という気がします。
https://twitter.com/inotake77/status/715524571290406912
https://twitter.com/inotake77/status/715710645732126720
三権分立、論議で最初から、メデイアに露出度の高い憲法学者の方々に対して感じた不信は、三権とは、立法、行政、司法で、この3つがチェックしあう、ということのはずなのに、本来、それには、司法判断がいるはずなのに、判例ではなくて、歴代の内閣法制局長官、つまり、行政府に属している人々と整合性がとれないことを問題にされたり、「立憲政治」とは、「国民主権」だからという理由で、あたかも、自分たちが三権の上に位置し、「絶対憲法学者制」かのように、ふるまわれることで、このようなことは、立憲政治、ではないと思います。
諸外国が他国の主権を制圧する権利を持っているなんて、恐ろしいですね。
日本は個別的自衛権をどんどん拡大して、核武装や海外派兵もしないと、国民の幸福追求権を守れないですね。
木村教授の当該立論のすべてが集団的自衛権の否認を目的とするものであるという点はまったく賛成ですが、私の推論が非論理的であるという点については強く反駁いたします。軍事権は行政権に包摂されるという趣旨のことを明言していないからといって、木村教授が軍事権を行政権の枠外に第四権として定立しているかのように断じるのは、それこそ論理の飛躍です。
行政控除説は公法学上支配的な学説とされています。控除説に対して明示的に異を唱えていない以上、木村教授はこれを暗黙の前提としていると解するのが相当ではないでしょうか。
歴史を振り返れば、統帥権を統治権から分離独立させる構成を採用したことが大日本帝国憲法が犯した最大の致命的な過ちであった点については、贅言を要しないでしょう。先生の立論はそれと同一の過ちを立憲主義の驍将たる木村教授に帰するもので、とうてい肯んじることはできません。
軍事権のカテゴリカルな消去に関する木村教授のスキームでは、集団的自衛権が防衛行政権に包摂しきれないために憲法から排除される結果、軍事権と集団的自衛権は事実上同じものになります。私の見立てでは、木村教授において世界標準の軍事権付きの行政権とわが国の軍事権抜きの行政権との違いは、サビ入りの鮨とサビ抜きの鮨の違いのようなものです。わが国における集団的自衛権容認論は、サビ抜きの鮨しか食べられない子供がサビ入りの鮨が食べられる大人に成長するよう求めることに似た考え方だといえるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
木村教授、石川教授共「軍事権のカテゴリカルな消去」という言葉を使用されることによって、お二人が主張されたいことは、要するに、30年戦争の悲惨さを繰り返すないために、「ウェストフェリア」条約で、軍事的権力を市民的権力から切り離し、軍事的権力を国だけにあたえたように、世界の国から、軍事的権力をなくしてしまい、「国際連合」が集団安全保障をすればいい、日本が日本国憲法9条でその先駆けになって、軍事権を放棄したのだから、そうし続けるべきだ、同盟をつくる、つまり、敵味方を作る、「集団的自衛権」容認などはもっての他、という主張なのだと思いますが、机上論ではそれは、可能かもしれませんが、そのやり方で、日本が防衛できるのか、国際社会で平和が確立できるのか、ということが、問題なのだと思います。
専門家だから、もっともらしいから、とついていくと、致命傷になるのでは、と思います。
日曜討論(2015.9.27)で待鳥教授が以下のように述べてました。
議院内閣制の説明をするとき、三角形の図を描いて「三権分立」ということを教えるんですが、議院内閣制は三権分立ではないんですね。立法権と行政権は融合するというのが政治学の通常の理解の仕方です。政治学的には常識となってるような事柄が、どうも教科書のレベルで小中学校で教えられてないなというように思います。
政治学の常識によると日本は三権分立ではないので、軍事権を足すと三権分立になりますね…
私は、中学受験塾で憲法前文の穴埋めと条文の暗記をやらされましたが、それに加えて、政治学的な「常識」を社会科の授業に取り込むべきだなと思います。
反対されている理由は、日本国憲法に9条があるから、70年間、立憲主義を日本が維持ができてきた、なくすと、戦前のように軍部が力をもち、軍国主義の専制主義になる、と恐れておられるのである。現在の政治は、9条で軍隊(自衛隊)から正当性をはく奪するしていることで、自衛隊をコントロールしている。憲法で、自衛隊に正当性を与えると自衛隊をコントロールができなくなる、という論理構成である。
西ドイツは、軍隊の存在を憲法が許した結果、憲法裁判所が、動かない軍隊、という裁定を一貫してすることで、コントロールしているが、めんどくさい規定をたくさん作らなければならない。現在の日本のように、9条で自衛隊を違憲状態にしておいた方が、簡単にコントロールできる。自衛隊に憲法上の正当性を与えると、自衛隊は、統制ができなくなる。
このような考え方が、本当に、立憲主義、といえるのだろうか?ドイツのように、憲法裁判所の裁定を受け入れ、めんどくさい規定、法律などの規定で、軍隊をコントロールするのが、立憲主義、法治主義、三権分立の原則的な考え方なのではないのだろうか?「議院内閣制が、三権分立でないのではなくて、現在の政治の仕方が、三権分立になっていないのである。
哲学者がこのような主張されるのなら、そのような考え方もあるのかな、と思うが、キャリア行政官、裁判官を選定する試験官でもあられる、法学者の見解としては、私は、到底受け入れられない。
本来、森友問題は、司法の場で決着をつけるべきだし、加計問題は、加計さんが総理のお友達だという事実から、内閣府が依怙贔屓をした、国政を私物化した、という視点からだけ捉えられているが、本来、これからの日本の産業にとって、四国の今治市に獣医学部が必要か、という視点から「立法府」はとらえるべきだと思う。日本社会に弁護士ばかりいても、或いは、都会にしか大学がないと、人口構成上いびつになる、ということもよく考えれば、これは、行政府内部の主導権争い、だと考えるべきなのではないのだろうか?
内閣府の経済産業省上がりのキャリア官僚たちが、これからの時代、今治市に獣医学部があったほうがいい、と思われ、正式な手続きを踏んで、許可されたのであれば、それ自体なんの問題もないし、本来、国政の視野を広げるための内閣府権限強化だったのではないのだろうか?その行為を「国政の私物化」とマスコミが騒ぐから、行政が隠ぺい体質に陥るのだと思う。「天皇機関説」と同じ悪循環である。
ほんとうに、ろくでもないことに「国会」の審議時間を使うのをいい加減にしてほしい。
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