先日、上杉勇司・早稲田大学教授と藤重博美・法政大学准教授のお二人が編者となった新著『国際平和協力入門』の出版にあわせたシンポジウムに参加した。私も一章を執筆した本だ。https://www.amazon.co.jp/国際平和協力入門-国際社会への貢献と日本の課題-上杉勇司/dp/4623081656/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1524064715&sr=1-1&keywords=%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%8D%94%E5%8A%9B%E5%85%A5%E9%96%80
上杉さんとはもう二十年近い付き合いか。外務省「平和構築人材育成事業」も10年以上、一緒にやっている。藤重先生は、1992年PKO協力法ができた頃に抱いた強い気持ちで国際平和協力を研究する道を選んだ、と「あとがき」で書く方だ。
冷戦が終わり、日本も国際貢献をする新しい時代に入ったと、1992年PKO協力法ができたときに多くの人々が思った。当時、大学(院)生だったりしたわれわれも、そのように思っていた。私自身、1993年に、カンボジアPKOに選挙要員として行った際、「自衛隊の海外派遣は違憲だと思わないんですか!」といった質問ばかり浴びせかけられた。しかしそれも新しい時代の「産みの苦しみ」のようなものだろうと、思っていた。
しかし、その考えは違った。あれから四半世紀がたったが、何も変わっていない。相変わらずの中身のない政局。硬直した左右対立の図式。相手を糾弾するためだけの強い言葉の羅列。正論を避ける薄っぺらな議論。そして国際貢献に献身した方々に対する全く不当な扱い。
自衛隊は違憲なのか、合憲なのか。日本は国際貢献したいのか、したくないのか。日報に「戦闘」という言葉があると違憲なのか、何なのか。結局、表面的な話題を取り換えていくだけで、延々と同じ人々が同じ構図で同じ対決をしているだけのように見える。国際貢献など、ただの美辞麗句であり、都合よく捨てられる。
日本では、国際平和協力活動について語っていると、自分が反時代的な人間であるような孤独を感じるときがある。
シンポジウムでは、細谷雄一・慶応大学教授が、まとめの挨拶をされていた。細谷さんは、外交史が専門だが、私や上杉さんと同じような世代で、印象深いことを言った。
1992年、PKO協力法ができたとき、若者だったわれわれは、国際貢献をする新しい時代が到来する可能性に、胸を躍らせていたのだ。
細谷さんは言う。「夢は破れた」、と。
ああ、本当にそうだな、と、聞きながら、思った。われわれの「夢は破れた」のだ。
騙された、とは言わない。全く予想していなかった、わけでもない。だがこんなことになる可能性だけしかなかったわけでもないはずだ。変化は起こってもよかったはずだった。だが起こらなかった。認めよう。「夢は破れた」、と。
日本は、イラクに派遣されて困難な仕事にあたった自衛隊員の方々が困難な状況の中で書き続けた日報を、全て公開させたうえで、「『戦闘』という言葉があるじゃないか!」、といった調子で扱う、そういう国になり果てた。
国民の間でも支持が高く、日本が正当な国際社会の一員になるために必要な活動だという理解が広く共有されているにもかかわらず、実際には、できない。憲法が禁止しているからだという。
そうだろうか。嘘ではないだろうか。憲法を、特定の思想にもとづいて、特定の仕方で解釈する、特定の業界の人が力を持っているから、できないだけではないだろうか。
「PKOをやるなとまでは言っていない」、と言うかもしれない。しかし「これはダメ、あれはダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ・・・、日報で『戦闘』という漢字を使うこともダメです」。
それでも「まあ、PKOをやるな、とまでは言わないでおいてやる」、と言ってもらえるのであれば、深々とお辞儀してお礼を言わなければならないのか。
全ての責任は憲法学者にある、と言いたいわけではない。しかし日本の国際貢献の「夢は破れた」、という感覚。この感覚を持って、われわれは、これからの人生を生きていく。この不満をどこにぶつけて生きていけばいいのか。
日報に「戦闘」という言葉があった?だから?
困難な環境における困難な仕事を、現場で必死の努力で遂行していた人たちに、「日報に『戦闘』という文字があったから、問題だ」、と言う?はあ?
まるで四半世紀前の24歳のときに日本で感じたような、焦燥感を覚える。
明日、ニコニコ動画「国際政治」で、二時間+α、世界の紛争問題を語り続けていい、という企画をもらった。http://ch.nicovideo.jp/morley 心の底から深く感謝する。こういう番組をやらせてもらえるのだから、まだ人生は投げ出すほどのものではないのだ。そう、自分に言い聞かせよう。
コメント
コメント一覧 (9)
戦前は、ラジオを使って、「英米と戦争をすることが正義」と煽り、戦後は、テレビを使って「日本国憲法9条こそが正義」と煽る。「絶対君主制」も学会での論争、では「立憲君主制」が勝ったのです。それが、マスコミを巻き込んだ政争、で日本は「絶対君主制」の国になって、戦争に突き進んでしまった。その結果、私たちの学生世代は、君が代を歌ったり、日の丸を掲揚することが、戦争と結びつく、と教職員の反対で歌えない学校もあった。今考えるとそれは、その人たちのPTSDだと思いますが、それが国会でも野党の「政争」の具になり、マスコミが大きくとりあげ、心労で自殺された校長もおられた。今は、「戦闘」という言葉が問題になっていますが、これだって、多くの野党関連の政治活動家が防衛省に国民の権利としての資料請求をして出てきた書類なのでこれも、「政争」の一部、そして、マスコミが政権側への不信感を煽り、政権側も対応に追われ、本来論議しなければならない大切な問題が残る。要するに、大手マスコミは政局にしか関心がない。今日のニコニコ動画、楽しみにしていますね。
ちなみに憲法9条改正を求める要因は過去に二つあって、一つ目は日本および日本国民の防衛、二つ目はいわゆる「国際貢献」だった。現在は一つ目の日本の防衛が重視されているが、90年代は国際貢献が重視された。その先鞭をつけたのは湾岸戦争後のペルシャ湾への掃海部隊の派遣であった。91年の湾岸戦争に対する日本の左派系の文化人やマスコミの抵抗運動のすさまじさは安保法制の反対運動を上回るものがあったが、日本側の膨大な資金援助だけで終わらせようとしたところを最後の駆け込みで掃海部隊を派遣できた。
なお日本だけでなくドイツも湾岸戦争で資金のみ提供して人的支援しなかったことで海外から批判を浴びたため、その数年後に連邦憲法裁判所で「基本法の防衛とはドイツの国境を守るだけでなく、危機への対応や紛争防止など、世界中のどこであれ広い意味でのドイツの安全を守るために必要な行動を指す」と解釈が拡大されてNATO域外への派兵が認められた。(日本の守旧派メディアはこういうところはお得意の「ドイツを見習え」と言わないのである)
そんな私にとり、木村教授らの「軍事権のカテゴリカルな消去」という言い分は、大変興味深いものでした。たしかに先生ご指摘のとおり、「軍事権」なる謎の機能用語をはじめとして、学術的には荒唐無稽な発想であり、憲法学界においてさえ異端なのかもしれません。しかし、別の視点で解釈すれば、見事なまでに我が国のガラパゴス風景を描写しているとも言えないでしょうか。
彼らの主張を「軍事権」という狭義の権限概念としてではなく、「軍事全般」と捉えるとしっくりきます。憲法9条の曲解を含むあらゆる誤謬と思考停止に依存し、軍事、国防、安全保障に関わるあらゆる事項、即ち自由で真摯な議論、現実的な制度設計と運用、学術的な探求、健全な啓蒙・教育、これら全てを悉くタブー視し「カテゴリカルに消去」してきた帰結が、現在の絶望的なガラパゴス状況だからです。
人類が諸集団を形成する以上、古代から近代国家間に至るまで、軍事力、安全保障、平和構築といった分野や機能を消去することは不可能でしたし、これらを制御し、抑止力として機能させ、時に集団的安全保障といった制度を用いて平和を維持していくことこそが、人類の叡智です。見たくない、考えたくない困難なものを、概念上カテゴリカルに消去しさえすれば関わらずにすむかのような稚拙なファンタジーが論理破綻していることを、大戦や過酷な大規模災害を経験し克服してきた日本人が、少なくとも理性で理解できない筈がありません。私も軍事面が執拗にカテゴリカルに消去された戦後教育を受けてきましたが、長じて論理的思考の獲得とともに、その異常さにすぐ気づきました。
篠田先生のご努力は決して無駄ではなく、不毛な言論空間に必ず風穴を開けます。諦めずに情熱を持って戦い続けて下さい。
2017年3月24日の南ドイツ新聞のJ.Neidhartさんの署名付きの記事には、安倍首相が、5歳の幼児に戦前の軍事的なプロパガンダを暗唱を強い、「安倍戦闘しろ、戦闘しろ」と連呼させている、国家主義的な私立幼稚園に100万円寄付した、ということで窮地に立たされている、とあり、同じ考えをもつ人として、麻生太郎さん、の名前も書かれている、これは、教育勅語の「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、もって天壌無窮の皇運を扶翼すべし。」、「あべ、がんばれ、がんばれ。」という部分についてだと思うが、「立憲君主制」で「統帥権」が「行政権」の中に加えられていれば、国際連盟を脱退せず、「パリ不戦条約」にのっとった「幣原外交」が進められていたら、白鳥敏夫、松岡洋右の外交が進められなければ、なんの問題もなかったのではないのだろうか?
要するに、野党の「安倍政権おろし」やキャンドルデモに参加されていることが「正義、大義」と信じてなさっている行動は、荒唐無稽なUngeheurなものに支配されているのだ、と私は思います。
そんな意味で、「軍事全般」をカテゴリカルに消去した帰結が、現在の絶望的なガラパゴス状況である、という壮年会社員の方に主張に全面的に賛成します。
ここで、早まって諦めてしまうと、願いは成就しません。
きっと、2世代、3世代のうちには、変化が現れることでしょう。
自分が生きている間に、成果を眼前にしようと思ってはいけません。
孫、ひ孫の代には、こうした議論は変わっているだろうと思わなくては。
こうした動きと、世界、東アジアの地政的な動きがどう絡むのか、分かりませんけど。
とにかく、辛抱です。
ただ、同時に、この一部は、本来日本のマスメデイアの仕事なのでは、と思いました。昨日の内容の半分ぐらいは知っていることなのですが、それは、ドイツ語の語学力維持のために触れているドイツのテレビや雑誌を通じてなのです。国際刑事裁判所のこともそう、中東のアラブの春以来の戦争もそう。なぜ、日本のマスメデイアは、もりかけセクハラ問題に血道をあげたり、国際問題や時事問題を扱うとき、芸能人を生徒にして、専門家、という肩書の特定の思想傾向のある人を先生役にして、番組構成しているのか理解に苦しみます。そうするから、「集団的自衛権」を含めた「憲法」上の問題の理解が進まないのです。
でも、昨日の番組のtwitterを見ていると、篠田先生に憧れをもっている若者が多いみたいだし、孫やひ孫の代まで待たなくても、この動画に出続けられることで、こんな職業につきたい、勉強したい、という若者が増え、議論
がまともなものになってくると思います。頑張ってくださいね。
諦めてはいけません
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