長谷部恭男教授の最新刊『憲法の良識』(朝日新書)を読んだ。驚嘆した。憲法学者による著作群の歴史の中でも、ここまで徹底した他者否定と自己肯定は、珍しいのではないか。
公平に言おう。この本は、長谷部教授へのインタビューの内容がまとめられたものに過ぎない。また、最後に付け加えられた長谷部教授が自身の人生を愛読書と共に振り返る箇所などは、面白いところもある。
それにしても、である。冒頭から一本調子で延々と続き、最後にまた繰り返される徹底した他者否定と自己肯定は、強烈だ。特に目を見張るのは、他者否定と自己肯定が、「憲法学者であるか否か」、という基準によって展開していくことだ。
私は門外漢ながら、『集団的自衛権の思想史』と『ほんとうの憲法』を執筆した事情もあり、これまで主要な憲法学の学術書は、読み込んできたつもりだ。しかし今回の長谷部教授の本は、すごい。異次元レベルの自己賛美の書ではないだろうか。
学術的な内容面を見れば、『憲法の良識』のほとんどは、平凡な憲法の説明と、これまでの長谷部教授の著作からの抜粋である。むしろ強い印象を受けるのは、平凡な一般論が、突然、具体的な結論と、それに続く侮蔑の言葉につながっていくところである。
通常、長谷部教授は、自分が批判する相手の議論を引用したり、具体的に参照したりもしない。ただ侮蔑する。
「不思議な議論がここ数年つづいているので、まともに法律を研究している人たちや、憲法学者たちはみんな、まじめに耳を傾けるべき話なのか、正直なところ、とまどっているわけです」(25頁)といった言い回しは、長谷部教授の議論の仕方に慣れている者にとっては、お馴染みといってもいいレトリックである。こういう場合、長谷部教授は、なぜそう言えるのかを、説明しない。具体的な議論に引き込まれる余地を作ることも避ける。そして、ただ、一方的に高みに立とうとする。
具体的に反論してくる可能性がなさそうな政治家のような人物であれば、名前をあげる。しかし曲解した形でのみ参照する。そしてレトリックを重ねたうえで、最後はやはり侮蔑の言葉で結ぶ。
長谷部教授が繰り返し執拗に糾弾し続ける、安倍首相の例を見てみよう。長谷部教授は、安倍首相の改憲提案には、理由がない、と断定する。なぜなら「考え方の分かれるところではありますが、自衛隊を違憲としない政府解釈を受け入れている憲法学者は、私をふくめ数多くい」るからだという。そのうえで、長谷部教授は、安倍首相にとって「改正論議は国の利益のためではなく、おじいさんから受け継いだ自分の思いを実現するためのもの」だと断定し、「公私混同もはなはだしい」と述べる(24~26頁)。
しかし、本当に安倍首相は、憲法学者全員が自衛隊違憲論者だ、と主張しているのだろうか。というよりも、憲法学者の間で違憲か合憲か総意がない状態がもたらす不都合を解消するために、「改憲論争に終止符を打つ」ことが必要だと言っているのではなかったか。政策研究をやれば、わかる。解釈が曖昧であるがゆえに、政治や行政に壮大な無駄が存在している。総理大臣が、憲法解釈を確定させて、壮大な無駄を取り除きたいと考えるのは、それほど奇異な話ではないように思う。
だが長谷部教授は認めない。「少なくとも私が知る限り、憲法を変えるべきだ、といっている人たちは、その理由も必要性も、明確には示していない」と主張し、「安倍さん自身も、じつは憲法を変える意味がどこにあるのか、本当のところはわかっていないのではない」か、と言う(24,26頁)。
しかしわからないのなら、まずわかるための努力を、長谷部教授が、するべきではないだろうか?誰かを批判する際には、まず相手を理解する努力を払うのは、いわば社会人としてのマナーのようなものだろう。「憲法学者たちはみんな、まじめに耳を傾けるべき話なのか、正直なところ、とまどっている」、などとブツブツつぶやく前に、まずはとりあえず耳を傾けてみたらどうなのか。
過去の著作からの焼き直しを取り除き、こういった一般論⇒結論の断定⇒侮蔑レトリック、の繰り返しの中から、しかし議論の流れを何とかつかもうとするならば、この本で長谷部教授が主張していることは、以下のように要約されるように見える。
1.
憲法学者以外の者は、憲法について語るべきではない。
2.
憲法学者は、「知的指導者」であり万能の「医者」である。
3.
憲法学者が卓越しているのは「良識」を持っているからである。
第一に、長谷部教授は、憲法学者ではない者が憲法を語っているという状況それ自体を、嘆く。
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「このところ、日々憲法について発言する人々の顔ぶれを見ると、その大部分は、憲法の専門家ではない人たちです。専門外の問題について憶することなく大声で発言する、その豪胆さには舌をまくしかありませんが、こうしたフェイク憲法論が世にはびこることには、副作用の心配があります。これは高血圧に効く、あれは肥満に効くといわれるリスクの中には、にせグスリもあるでしょう。・・・その結果として起こるおかしな事態は、最初におかしな言説をとなえた人たちだけに悪い影響をもたらすわけではありません。日本の社会全体に悪影響が及びます。」(203-204頁)
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もちろん一般論として、おかしな憲法論がはびこれば、おかしな事態が招かれるのは確かだろう。しかし「おかしな憲法論」とは「憲法の専門家ではない人たちの憲法論」のことだ、と一般論レベルで断定するのなら、理由を示すべきだ。少なくとも何か具体的な事例をあげるべきだ。しかし、長谷部教授は、まったく根拠を出さない。何も出さず、むしろレトリックにレトリックを重ねて、断定し続ける。
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私がよく使う比喩ですが、私にはアイスクリームを食べる権利があります。しかし健康のことを考えて、アイスクリームは、食べるとしても一日一個だけにするというきまりを自分でつくっているとしましょう。・・・それと同様、国際法上は、日本には集団的自衛権があることになっている。しかし、自国の安全と国際の平和のことを考えて、日本としては憲法で、個別的自衛権しか行使しないことにしている、ということに何の矛盾もありません。(108-109頁)
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だから何なのか?いったい誰が、アイスを二十個食べさせろ、と要求しているのか。集団的自衛権の違憲性の議論と、全然関係がない。それを言うなら、集団的自衛権合憲論は、食べる一個のアイスは、バニラでもチョコでも同じだ、と言っているに過ぎない。
長谷部教授は、茶化すような煙に巻く話だけをするのではなく、なぜ日本国憲法が集団的自衛権を禁止していると断言できるのかについて、真面目な議論を提示するべきだ。内閣法制局見解は変わってしまったのだ。いつまでも内閣法制局長官を取り換えたのが気にいらないといったことをブツブツ言いながら、ただアイスの話を繰り返すのではなく、「専門家」らしい精緻な集団的自衛権違憲の議論を発表するべきではないか?正直、アイスの比喩は聞き飽きた。
第二に、長谷部教授は、憲法学者を、憲法学者であるという理由で、称賛する。
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「憲法の専門家といわれる人々―主に憲法学者ですが―は、長年にわたって憲法をいろいろな角度から観察しているので、問題が単純でないことが分かっています。・・・憲法に限らず、法律学は、お医者さんの仕事と似たところがあります。お医者さんの仕事は、この病気にはこのクスリを処方すればいい、ですむことはありません。この患者さんにはアレルギーはないか、ほかに持病はないか、別のクスリを常時服用してはいないか、クスリが効かない特異体質ではなど、いろいろなことに注意する必要があります。・・・憲法の専門家の仕事もそうしたところが大いにあります。」(204-205頁)
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法律家は、医者のように振る舞うべきだ、という意見は、特に異を唱えるほどのものではない。しかしだからといって、ただ憲法学者でさえあれば、医者のように振る舞うことができる、と断定できるはずもない。本来、優れた医者であればあるほど、一方的に相手の意見を侮蔑したりせず、むしろ理解するための努力を最大限で払ったりするものなのではないだろうか。
言うまでもなく、憲法学者以外の者も、副作用に気を遣い、様々なことを気にかけているつもりだ。「憲法の専門家」だけが、物事を単純にとらえない高級人種だと主張するのであれば、その根拠を示すべきだ。
ひょっとしたら、むしろ憲法学者こそが、「憲法優越説」を振り回し、「法律家ではない者は相手にしない」、といった「単純」な態度をとりがちな人々だとしたら?憲法学者はあまりに卓越しているので、無知な者たちの会話を聞くことすら拒絶する、といった態度が、まさに「問題を単純」化する態度だとしたら?
しかし、長谷部教授自身は、もちろん憲法学者の卓説性を信じて疑わない。わざとらしく引用という形をとった、もったいぶった言い方で、長谷部教授は、次のように書く。
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「(シモン・サルブランさんによれば、)日本において憲法学者というのは、ほかの国にはない知的指導者としての位置を占めている、これはなかなかないことである。典型は樋口陽一である・・・。そうかもしれないと思うのは、イギリスにしてもアメリカにしても、ほかの国では、厳密な意味での憲法問題についてしか、憲法学者の意見が求められることはないということです。その点、日本は少しちがいます。厳密な意味での憲法問題でなくても、憲法学者はどう考えているのか意見を聞かれることがある。そこは他国と少しちがう、日本の特殊なところかもしれません。ですから、憲法のきらいな人からみると、憲法学者がいばりすぎだ、口を出しすぎだ、と頭にくることがあるのかもしれない。もっとも、自分だって目立ちたいのに、というただの嫉妬心からかもしれませんが。」(198-199頁)
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長谷部教授によれば、憲法学者が憲法以外のことを語るのは、憲法学者が「知的指導者」だからである。他方、憲法学者ではない者が憲法について語るのは、憲法学者に「嫉妬」しているからである。
この徹底した憲法学者絶対主義を肯定するために、長谷部教授は、第三に、驚くべき主張をする。憲法学者だけがなぜ「知的指導者」なのかと言えば、それは憲法学者だけが「良識」を持っているからだというのである。
たとえば憲法9条2項の「戦力」禁止規定で、自衛隊の保持は認められないのか、と疑問に感じる時が、「法の解釈が求められる典型的な場面」、つまり専門家としての憲法学者の専門性が問われる場面だ、と長谷部教授は主張する。そこで憲法学者は何をするのか?「良識」を働かせるのだという。日本が攻撃されても政府が何もしないのは「非常識なこと」である。「あまりにも良識に反します。」そこで憲法9条2項にかかわらず、自衛隊は合憲になるのだという。ということは、憲法学者ではない普通の人々が誰でも「良識」を働かせて、同じ結論に至るということなのかな?と思うと、そうではない。なぜなら「良識」にもとづいた「法の解釈」ができるのは、長谷部教授のような憲法学者だけなのだから(33-35頁)。
長谷部教授によれば、「良識」ある憲法学者でないと、毎日毎日アイスを二十個ずつ食べ続けるらしい。放っておけばどうせ憲法学者以外の者は毎日アイスを二十個ずつ食べ続けるので、「良識」を持った「法の解釈」ができる憲法学者が必要になる。
憲法学者とは、「良識」を持った「法の解釈」ができる者である。憲法学者ではない者とは、つまり「良識」を持った「法の解釈」ができない者のことである。
もし本当にそうだとすれば、長谷部教授が「憲法学者だけが知的指導者」であると信じることも、確かに何ら奇異なことではない。それは「良識」の問題であり、「常識」の話なのだから、一切、論証の必要もないと言わんばかりに振る舞うことも可能になってくる。
なぜ憲法学者だけが「良識」を知っているのか?と聞くのは、野暮である。憲法学者だけが「良識」を持っているという確信こそが、「良識」そのものなのであり、そのように信じない者は、つまり「良識」がない者なのである。
長谷部教授の『憲法の良識』は、日本の戦後憲法学が遂にたどりついた、ある意味で前人未到の到達点ではないか。憲法学の長い歴史でも、自己肯定と他者否定が、ここまでの境地に至ったという例を、私は知らない。
「知的指導者」にして唯一の「良識」人である「憲法学者」の方々は、今こそ「隊長」長谷部教授のもとに参集し、「これで憲法学者だけが良識を持ち、憲法学者だけが知的指導者であり、憲法学者以外の者は憲法を語ってはいけない、ということが明らかになりましたね!」、と言いあい、お互いを祝福しあうのだろうか。
今や日本の憲法学は、いよいよ本格的に、まさに世界で唯一の、他に一切類例のない、ものすごく特別なものになろうとしているのかもしれない。ひょっとしたら、「ガラパゴス」などという言葉では、足りないかもしれない。
コメント
コメント一覧 (24)
先生がこれまで長谷部教授の主張につき指摘して来た論点に対して、この本の中で確かに教授は、具体的な反論等をしていないようにみえます。
法律家とは、議論により問題を解決する者だとすれば、どこかで具体的な議論をすべきものと思いました。
https://www.bing.com/videos/search?q=%e7%9f%b3%e5%b7%9d%e5%81%a5%e5%8f%b8&&view=detail&mid=A386D97004019514396AA386D97004019514396A&&FORM=VRDGAR
内容的に、よく似た内容だと思ったが、その中に、「安倍的憲法改正論者」には、歴史の勉強が足りない、という批判が出てくる。
「良識ある」憲法学者たちが、「集団的自衛権」を違憲と裁定するのは、ベトナム戦争やプラハの春、など誤った使い方をしたから、だそうだ。けれども、その権利が必要と痛切に国際社会が感じた朝鮮戦争や、ベルリン封鎖には言及されない。
「近代立憲主義」は、宗教改革の結果起こった、とされる。それまでは、ローマ教会の規範が絶対であったものが、教会が分裂したことによって、違った世界観があることを認め、人間としての道、人間らしい暮らし、の規範として、立憲主義がうまれた。
それは、一面の真理である。けれども、それだけにとどまらない。 ルターの果たした役割は、聖書をドイツ語に翻訳することによって、ローマ教会の「聖書の解釈の独占」をやめさせたことにある。ドイツの民衆が、聖書を解釈することができるようになった結果、ローマ教会の解釈を唯一絶対のものでなくなった、という面が大きいのである。
そして、そのことによって、学問の自由、信教の自由、つまり、基本的人権が保障されるようになり、バッハやゲーテ、などのドイツ文化の華が咲くことになる。ドイツ語は、民衆の言葉である。
つまり、「日本国憲法の解釈を憲法学者に任せよ」という主張は、歴史の逆行であり、専制である。「歴史」を勉強していただきたいのは、どちらなのだろう?
ところで、横国の憲法学者の君塚先生も以前
『集団的自衛権は憲法上認められないというのが主な憲法学者の9割余の見解となったことは、ごく当然である。ある論点で、法学者の9割が一つの意見で一致しているということは珍しく、学問的には争点ですらない(朝日新聞webをよく見ると、自衛隊違憲論者、現状維持派、憲法改正による集団的自衛権承認派まで幅広く本法案は違憲だとしており、政治的見解を超えて、真っ当な法解釈に集結したものと解される。これに対し、合憲と回答するか、無回答ながらそれに同調的な意見を示すのは、特定の学者の影響下にある特定学派に限られる。
どの学問でも、天動説の如き少数説はいる、と言うほかない)。まともに法学部で法学を学んだ者ならば、この結論に達しよう。』
https://iwj.co.jp/wj/open/anti-war-msg-00315
と少数説論者へのあまりに厳しい物言いをしていて、いくら学論を異とするとしてももう少し言い方があるのではないかと感じました。今回のブログはそれを思い出させるものでした。
「憲法の重要な役割は、ほんとうに法律の通りにしていいんですか?その要求に従っていていいのだろうか?自分自身の良識に立ち戻って考え直したらどうですか?そう呼びかけてる文書だと私は考えております。別の言い方をすると人間は本来の姿(理由に基づいて考える)に帰れと言ってるんです」
と述べていて、憲法学者に限定していないようにも聞こえたのですが…
私が西ドイツに留学した1970年代、「ブラント首相の東方外交」について研究したい、と言っていた学生がいた。ブラントさんが東方外交を始めてから、東西統一まで、何年かかったか。そのブラントさんは、1958年ベルリン市長時代、ソ連・フルシチョフのベルリン非武装自由都市宣言を即日却下し、米国の軍事面を含めて、全面的な支援を取り付ける努力をされた結実がケネデイー米大統領のIch bin ein Berliner宣言であり、西ドイツの首相になった、という経歴をもつ政治家である。そののち、核不拡散条約に署名して、東側の脅威を取り除き、共産主義諸国の関係改善を求める「東方外交」を展開し、一民族二国家論の立場を取ったから、平和が保たれたのである。
そののち、ゴルバチョフさんというソ連の政治指導者の元、統一が成し遂げられた。けれども、当時の外相シュワルトナゼ氏は、それを阻止するために核兵器を使え、という主張が政権内にあったそうである。
私は、その史実、歴史の教えから、日本の外交防衛にとって、「集団的自衛権」が必要であり、集団的自衛権が違憲なら、憲法を改正すべきだ、と考え「安倍的憲法改正論者」になったのである。
けれども、内閣法制局長官は、行政府に所属し、憲法や法律について内閣の統一的解釈をする人で、政権によって、政治姿勢も変わるのだから、解釈が変わるのは自然である。それをよほどのことがない限り変更してはならない、という長谷部教授の意見には、常識が欠如していると思う。
また、内閣法制局長の解釈がおかしいと思えば、本来、最高裁判所の裁判官の裁定にゆだねるべきなのである。また、その判断の中立性を保つために、国民には、国民審査で裁判官を罷免する権利も与えられている。
また、法律は、違憲立法審査権で支配されるので、憲法に立ち返る必要があるが、良識というのは、日本国憲法についての学識がある、哲学的な用語や外国語をよく知っている、ということよりも、むしろ、一般的な教養があり、社会生活でいろいろ経験して、紆余曲折しながら、身につけてゆくものだと思う。
問題は、その主張に法的な議論の裏付けかあるかどうかであり、たとえば法学者の9割が一致しているという理由のみで少数説を省みないというのてあれば、それは法的な議論の裏付けがあるとは言い難いのではないかと思います。
3.のにゃほさんへのコメントでした。
実に共感できます。
この長谷部教授の論理構成によれば、憲法学者以外は憲法判断してはならない、という結論が導き出せる、と思います。
であれば、憲法学者以外は、最高裁判事になれません。
従って、憲法に関する判例の蓄積は無意味、という結論も導き出せます。
内閣法制局の解釈の蓄積も、無意味になります。
この論理破綻に、長谷部教授とその信奉者は、気付かないのでしょうか。
不思議です。
http://www.hatorishoten-articles.com/hasebeyasuo/7
「認定のルールは「裁判官を中心とする公務員集団の実務慣行を通じて生成する」という事実問題である。」
https://blog.goo.ne.jp/yokoikatsutoshi/e/193b8a8d87d7dd3ed403a067a64203bb
たまたま、元の内閣法制局長官、小松一郎さんは、大学紛争の影響で、東大の入試のない年次だったし、外交官試験に合格されると、一橋大学も中退され、独自の路線をいかれたから、影響力も及ばず、憲法解釈を違った方向にもってゆかれたので、糾弾されたのだと思います。
要するに、篠田先生の「ほととぎす、うぐいすの卵」理論なのですね。よく納得できました。
それにしても、何の論点整理もないままに、この長谷部教授を憲法審査会に担ぎ出し、その後の状況を混乱させた自民党の罪は深すぎると考えます。
例えば、同じ論陣に立っておられるはずの石川教授と木村教授は、カテゴリカルな消去、の意味するところがまるで違われるし、石川教授と長谷部教授は、一方は、憲法で自衛隊を違憲扱いにされることで、自衛隊をコントロールする方便にされようとし、もう一方は、権威ある憲法学者のもつ良識で、国を守るために合憲と解釈されるわけで、まるで違う。共通なところは、おじいさんから受け継いだ自分の思いを実現するために憲法を改正する、などということは、公私混同もはなはだしい、と感情に訴え、それに反して、憲法学者は見識があり、良識的だ、と主張しておられることだけである。これは、野党の「安倍政権の国政の私物化は許せない」の糾弾と同じようなインパクトがある。「いやな感じ」という石川教授の形容も、とらえどころのない、感情に訴えるものだ。ヒトラーが「人間の感情に訴える」のが一番説得力がある、とその演説に使っているが、主眼点は、巣に居続けることを危うくする安倍内閣を退陣させたい、だけのような気が私にはする。
「自国の安全と国際の平和のことを考えて、日本としては憲法で、個別的自衛権しか行使しないことにしている」
個別的自衛権が「他国の戦争にまきこまれないため」という意味で「自国の安全」という理屈は(一応は)理解できるが、「国際の平和を考えてのこと」というのはどういう理屈だろうか。曲芸的な理屈でも考えているのだろうか。たとえばヨーロッパではNATOがあり、極東では日米安保が地域の安定に貢献してきた。この現代の歴史を封印したいのか。
また欧米の先進国は日本の平和安全法制を歓迎した。反対しているのは東シナ海で不穏な動きを見せる中国くらいで、これは普通の国際感覚で考えると「中国への抑止力」となっていると解釈して逆に歓迎すべきことだ。(なぜ抑止力になるか「象牙の塔」の住人には理解できるだろうか? それは中国のなかで国際協調派を台頭させるためだ。もし東シナ海が真空地帯になると中国の強硬派が「なぜ真空になっているのに領土や領海を奪回しないのか」と攻勢を強めて危機を誘発するからだ)
ひょっとすると、いまだに「国際社会に迷惑をかけたから、その罰則として日本は軍隊を持てないことになっている」と日本人に刷り込みたいのだろうか。いまだにこれだと、かなり病的な認識であると思われるし、これでは現状認識に違いがありすぎるので議論が成立するのは難しいだろう。歴史的英知に基づいた「良識」だと開きなおる続けるのが得策だと信じているのかもしれません。
つまり例えばフランスやカナダで長谷部教授のような人間には
お金がもらえない状態になるのだと思う
淘汰が起きないから足の遅いウサギでも生き残りガラパゴスになる
これは、石川教授の主張で、憲法学者の方のどれだけが支持されているかわかりませんが、日本国憲法9条を、「軍事権がカテゴリカルに消去された証」としてとらえなえければならないからです。
つまり、「平和の確立を望むなら、ーの行為をせよ」と条件をつける「仮言命法」ではなくて、道徳上、無条件に、自分の意志を制限して、実行しなければならない「定言命法」だからです。
詳しくは、カントの「実践理性批判」を読んでください。
自分達には「権威」があり、放っておけば、自分達の主張のみが残るのだという意識があるのかとの勘繰りも生じます。
http://www.hatorishoten-articles.com/hasebeyasuo/7
また、井上達夫東京大学教授(法哲学者)と石川健治東京大学教授(憲法学者)との論争も興味深いです。
https://www.youtube.com/watch?v=gdIjbJcg_TU
カントの「定言命法」を取って9条を解釈される以上、原理的護憲派、つまり、自衛隊違憲、自衛権違憲、しかありえない。ところが、仏教の「方便法」のような論理を使って、9条を「自衛隊をコントロール」する手段と解釈され、長谷部教授と同じ修正主義的護憲派、のようなふりをされる。このような態度が、真理を追究していくべき、学者の態度なのだろうか?百地章教授の主張は、日本国憲法9条の成立した世界の状況、現状をふまえた、誠実なものだと思う。
9条の改正の必要性を感じるのは、ルーズベルト大統領の4人の警察官構想の破たん故である。1950年代の現実の朝鮮戦争、中国・ソ連軍対米国軍の現実の武力衝突がなければ、それに続く国際連合の安全保障理事会の拒否権合戦、今のシリア、朝鮮情勢がなければ、国際社会も日本も国単位での集団的自衛権も軍隊も、必要ないのである。
戦前、権威があるからという理由で東京帝国大学憲法学教授の解釈を信奉して大日本帝国憲法の解釈を変更し、軍国主義の道を突き進んだ過ちに鑑み、1項、2項をそのままにして、3項の留保で、「個別的、集団的自衛権」を認め、自衛隊を合憲にして、自衛隊をコントロールする「法整備」をすることが「平和を構築する」ために必要なことのように私には思える。
とくに2つ目を聞いて、カロリーネさんと同様に、「良識のある憲法学者」は、東大教授たちでなく、百地教授ではないかとの感想を持ちました。
けれども、現在、戦前の日本に似た国が、日本の近くにあるのではないのだろうか?「先軍思想」の国、核兵器をもたなければ、米国と対等に外交交渉ができない、と考えている国、戦前の日本が「反英米」のプロパガンダを繰り返したように、「反日」のプロパガンダを繰り返している国。
なぜ、唯一の知的指導者であり、良識人である、憲法学者の方々が、それに気づかれないのか、計り知れない。
にゃほさん引用の横浜国大君塚先生の以下の主張について。
『集団的自衛権は憲法上認められないというのが主な憲法学者の9割余の見解となったことは、ごく当然である。ある論点で、法学者の9割が一つの意見で一致しているということは珍しく、学問的には争点ですらない(中略)
どの学問でも、天動説の如き少数説はいる、と言うほかない)。まともに法学部で法学を学んだ者ならば、この結論に達しよう。』
君塚先生は、集団的自衛権合憲説を「過去の」通説である「天動説」にたとえ、違憲説を「地動説」にたとえているようであるが、どうもしっくりしない。
むしろ違憲説を「天動説」をたとえ、集団的自衛権合憲説は「未来の」通説である「地動説」にたとえるべきではないか。
篠田先生のブログを拝見するにつけ、そう思えてくる。
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