イデオロギー対立の中で他者否定の際に使う「紋切型」には、いくつかのパターンがある。たとえば「戦前の復活だ!」などが、誰でも知っているお馴染みの紋切型だ。憲法学者特有のややテクニカルな例では、「芦田修正説だ!」などの紋切型がある。http://agora-web.jp/archives/2031014.html http://agora-web.jp/archives/2030895.html
一般に「芦田修正説」とは、憲法9条2項冒頭の「前項の目的を達するため」という挿入語句が、1項の「国際紛争を解決する手段」という文言にかかるので、2項が禁止する「戦力」は、侵略戦争のための戦力だけだ、とする立場を指すことになっている。
ただし実際には「私は芦田修正説を支持する」などと言っている人はいない。憲法学通説に立つ者が、他者否定する際に都合がいいので、頻繁にこうした紋切型を用いるだけである。気にいらない相手を見ると、片っ端から「それは芦田修正説だ、読解が破綻している、したがってお前はもう否定されている」、と言い放つという現象である。
歴代の東大法学部系の憲法学者たちが推進した伝統的な憲法学通説は、「前項の目的」の文言で9条1項の限定を引き継ぐことはなく、だから、9条2項で全ての戦力は放棄される(自衛隊違憲論)、というものであった。なお、伝統的な憲法学通説は、「前項の目的を達するため」という文言を、9条1項冒頭の「正義と秩序を基調とする国際平和」にかける、と説明されることがある。しかしこれはレトリックの域を出ていない。もしそうならば前文にさかのぼり、国連憲章体制への信頼にさかのぼらなければならないのに、憲法学通説が「国際」社会の「正義と秩序」を語ってきた形跡はない。東大法学部在学中に司法試験に合格したという弁護士の方も、「日本国憲法が希求している目的が『正義と秩序を基調とする国際平和』だ、などという議論はこれまで一度も聞いたことがない」と証言している。http://agora-web.jp/archives/2031329.html blogos.com/article/280280/ 日本の法律家の憲法9条認識は、こんなものだろう。
ちなみに政府見解は、2項が言う「前項の目的」は9条1項全体にかかり、「戦力ではない最低限の実力」の保持を否定しない(自衛隊合憲論)、というものである。政府は「芦田修正説」は採用していないという立場だが、結論はあまり変わらないので、政府見解も、伝統的には憲法学者の間で評判が悪かった。
木村草太教授の『自衛隊と憲法』においても、この「芦田修正説」を経由した他者否定にページが割かれている。ただし特徴的なのは、木村教授が、「芦田修正説」の否定に、自説の「軍事権のカテゴリカルな消去」なるものを使う点である。
木村教授によると、「芦田修正説を前提にすると、日本国憲法は、侵略戦争にあたらない限り、軍隊による軍事活動を行う権限を規定しているはずです」(45頁)。そして「軍事活動」は、立法でも司法でもなく、内閣の権限を定めた憲法73条にも該当がないので、「もし芦田修正説を採り、日本は軍隊を持って良いと解釈すると、軍隊を憲法でコントロールすることが全くできないことになってしまいます」(50頁)と述べる。憲法には「シビリアンコントロールの規定すらありません」(51頁)。
そうだろうか。たとえば、木村教授の言う「軍事権」なる謎の第四の権力が、実は木村教授の想像の産物でしかない、と考えてみたらどうだろうか。そうすれば、木村教授の自作自演の懸念は、解消する。
非常に有名なので木村教授も当然知っているはずだが、憲法改正特別委員会(芦田委員会)が9条の文言に追加を行ったのを知った連合国の極東委員会は、憲法66条2項「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」、という規定の挿入を求めた。一般には、将来の軍隊の創設を察知して、最低限の文民統制の仕組みを憲法に入れ込んだ、と解されているはずだ。「文民」とは軍人以外の者のことを指すので、軍人が不在の社会では「文民」規定は意味をなさない。
実際には、今の日本でも、たとえば自衛隊の日報問題のような事件においてすら、「シビリアンコントロール」のあり方が問われている。それに対して木村教授は、「軍事権は憲法からカテゴリカルに消去されているのだから、自衛隊の日報問題でシビリアンコントロールなどという言葉を使うのは間違いだ」、と主張しているのだろうか。
伝統的には、芦田修正説とは、憲法学者では、「京都学派」の佐々木惣一・元京都大学教授(滝川事件の際に辞職)や大石義男・京都大学教授が、採用していたとされる。確かに、佐々木や大石の著作を見ると、「前項の目的を達するために」という文言に着目したうえで、保持しない戦力は侵略のための戦力だけだ、とする議論が見られる。
しかし佐々木や大石の見解を、強引に「国際紛争を解決する手段」に「だけ」引き寄せた陰謀論的な読み方の産物だとして否定するのは、アンフェアだと思う。そもそも佐々木や大石は、自分たちは「芦田修正説」論者だ、などと言っていなかった。佐々木・大石説とは、つまり9条1項の内容と整合するように2項を解釈するという立場だったのであり、その議論の実質部分において、日本政府公式見解と大差がない。つまり侵略戦争を目的にしない戦力は保持できるという佐々木や大石の見解は、自衛権行使のための必要最低限の実力だけは保持できるという政府見解と、大きな違いはない。
むしろ疑問なのは、宮沢俊義や芦部信喜ら東大法学部系の憲法学者が採用していた、「全ての戦力が否定されているので自衛隊は違憲だ」、という伝統的な通説を、今、憲法学通説を名乗る側は、きちんと清算しているのか、ということだ。木村草太教授らは伝統的な憲法学通説とは違う立場をとっているのに、なぜ依然として芦田修正説のレッテル貼りによる他者否定を踏襲するのか。
冷戦が終わってしばらくして、21世紀になるころ、1995年に東大法学部教授になっていた長谷部恭男氏が、伝統を慎重に見直す動きを始めた。http://agora-web.jp/archives/2029141.html そしていまや憲法学界の頂点に君臨する長谷部教授は、自衛隊合憲論は、「良識」の問題だ、と主張するようにまでなっている。http://agora-web.jp/archives/2032313.html 21世紀の初めに東大法学部を卒業した年次の木村教授は、長谷部教授が一世を風靡した後の第一世代といった位置づけなのだろう。しかし、そうだとしたら、長谷部/木村教授は、なぜ宮沢俊義、小林直樹、芦部信喜、樋口陽一、さらには清宮四郎や佐藤功や鵜飼信成を入れてもいい、歴代の東大系の憲法学者たちが、「良識」を欠いていたことを、まず批判しないのか。
東大系の憲法学者らは、9条2項で戦力を全面否定していた。それどころか、1項で「国際紛争を解決する手段」という留保を付すことにすら意味がないと言い、自衛隊どころか自衛権行使まで否定していたのではなかったか。彼らは、そのような徹底した立場から、否定したい相手の見解を「芦田修正説」と呼んで蔑視していたのだ。はっきり言って、長谷部/木村教授の修正説は、ほんの数十年前なら、「芦田修正説」と呼ばれたようなものだろう。
早い時代からほぼ同じ結論を先取りしていた京都大学の教授陣の不名誉を顧みず、いまだに延々と「芦田修正説」なるレッテルについて、語っているのは、どういうことなのか。木村教授の場合、議論の内容を変えてしまっているので、「芦田修正説」という表現は、ほぼ意味を失っている。それでも延々と他者否定のためにレッテルだけを使い続けるのは、知的に誠実な態度と言えるだろうか。
せめてまず、長谷部/木村説をとる者は、長谷部教授の理論にしたがって、「宮沢俊義、小林直樹、芦部信喜らは、良識を欠いた人物であった、良識ある法解釈を行うという憲法学者の定義に反しているので、似非憲法学者であった」、と宣言するべきだ。http://agora-web.jp/archives/2032313.html
木村教授は、憲法9条によって全ての戦力が否定されるのが本来だが、憲法13条の幸福追求権によって、個別的自衛権に関することだけは合憲になるのだ、と説明する。だが、結論を見れば、それは伝統的な憲法学通説よりも、むしろ佐々木・大石説に近づいている。
なお13条の援用自体は、木村教授や1972年内閣法制局見解のオリジナリティではない。憲法9条と13条を照らし合せて解釈すべきだという主張は、すでに吉田茂に仕えた内閣法制局長官の佐藤達夫の1959年の著作に見られる(『憲法講話』[立花書房])。しかしそこでは個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、などという議論は出てこない。ただ憲法が許している「戦力に至らざる軍隊」の概念が説明されたりしているだけだ。9条2項は「戦力」不保持の規定なので、「戦力」の質か量の話をするのでなければ、9条2項について話していることにならない。
「芦田修正説」は否定したい相手を否定したかのように振る舞う際に使うレトリックだが、結果を見れば、木村教授は、政府見解の論理を踏襲しようとしており、結論部分では、佐々木・大石説に近づいている。むしろ木村教授の結論部分で否定されるのは、宮沢俊義以来の「芦田修正説」を拒絶していた伝統的な憲法学通説のほうである。
「芦田修正説」のレッテル貼りが間が抜けて見えるのは、結論を見ると相手方に近づいていることを誤魔化すために、「芦田修正説」なる言い方を利用して、伝統的な東大法学部系憲法学通説への忠誠心の表明だけは維持しようとしている点だ。
繰り返そう。かつて東大法学部系の憲法学通説は、全ての戦力を否定する結論、つまり自衛隊違憲論をもっており、同調しない人々の意見を「芦田修正説」として批判していた。現在、「長谷部恭男・木村草太修正説」は、かつての憲法学通説を骨抜きにして、自衛隊は合憲、自衛権も個別的自衛権だけは合憲、という修正した立場をとっている。結論を見れば、長谷部教授や木村教授が、憲法学通説を修正して、京都学派の立場に近づいたのである。なお長谷部/木村説では、自衛隊合憲説は、「良識ある法解釈」を行う憲法学者の結論である。したがって歴代の東大法学部憲法学者の面々には「良識がなかった」という推論こそが不可避である。だがそこはお茶を濁すために、「芦田修正説」の批判、といった都合のいいレッテル貼りの表現だけを残存させて、東大法学部系の憲法学者の相互批判の事態を避けている。
憲法学界ポリティクスに関わりを持たない者は、「芦田修正説」なる意味のないレッテル貼りに惑わされないことが肝要だ。中身のない軽蔑ゲームの繰り返し以上のものを何も生み出さない。
いずれにせよ、少なくとも最も曖昧で混乱しているのが「長谷部/木村修正説」である点には、特に注意を払っておく必要がある。
<続く>
コメント
コメント一覧 (9)
それに比べて、木村草太教授の、73条を根拠にする「軍事権」消去、はまるで納得できない。普通、国政は、外交と防衛がセットであって、戦争は、外交問題、特に、領土問題、を解決する一つの手段だったのではないのだろうか。ナチスドイツの「生活圏拡大」構想、日本の「大東亜共栄圏」構想共、イギリス式の、国民の生活を豊かにするための、領土の拡大のための戦争だった。そして、9条と同じく、冷戦の続くヨーロッパでも、1975年のヘルシンキ宣言で、国境の不可侵と武力による変更の拒否が宣言され、ヨーロッパでの熱戦が回避された。
戦前、「統帥権干犯問題」その他で、日本の首相が軍部をコントロールできず、軍部が独断で中国での戦争を拡大し、最終的に陸軍大臣であった東条英機が、首相になって、日米開戦になった、ということで、連合国側が「シビリアンコントロール」の文言を入れさせたのだ、と思う。
木村草太教授の主張は、本質や歴史的な経緯を顧みず、ただ、自分の主張に都合のいい条文を借用しておられるだけだ。
蓑田胸喜という他者否定の紋切型から、上杉慎吉という憲法学者の存在を知り、どうして、日本が戦争に進んだのか、という手掛かりを得たり、ヒトラーと安倍晋三さんはどう違うのか、の認識を深められた私は、紋切型の批判を詳しく調べることも、大事かな、と思うようになった。
戦前も現在も同じであるが、一番権威のあるはずの東京大学の憲法学の講義は、美濃部事件以降の戦前は、上杉流の憲法解釈理論が最高の学説として講義されたはずだし、戦後は、権威を保つために、自分たちが間違っていた、という代わりに、思想弾圧があった、とか、軍国主義がいけなかった、と理由付けするしかなかったのではないのだろうか。そう考えると、石川教授の、表現の自由と日本国憲法9条をなによりも、大事にされる理由がわかるし、戦争の原因になる軍事力は絶対にもってはならないものだ、自衛隊は違憲だ、と解釈される理由もわかる。
また、左翼思想、反米主義の立場を取れば、「集団的自衛権」は違憲だ、と解釈される理由もわかる。
ただ、時代も、国際情勢も変化した。そして、現在の日本は、机上の空論ではすまない。
よく現実を見て、考えて間違った、とわかったら、素直に自分の主張を変更し、その理由をわかりやすく人々に説明する勇気、が権威ある人間には必要なのではないのだろうか。人間は間違うこともあるし、権威ある人のその姿勢を「普通の人」は、真摯な人、と評価すると思うから。
https://www.sankei.com/life/news/131109/lif1311090026-n1.html
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/anzenhosyou2/dai7/houkoku.pdf
また、下記の読売新聞による最近の憲法学者の意向調査の中には、これまでマスコミではあまり報道されてこなかった憲法学者の意見も含まれており、今後の憲法議論において参考になりそうです。
http://www.yomiuri.co.jp/topics/ichiran/20180508-OYT8T50019.html
いずれにしても、良識ある憲法学者に知的誠実さに欠ける部分があれば大問題ですから、反論があるならば、単なる悪口ではなく、明快な論理をもって反論し、なければ、堂々と認めて、憲法学の進展に寄与して欲しいと思います。
前者は、延々と続く集団的自衛権の神学論争につながる。内閣法制局などに質問をくりかえして「日本は集団的自衛権を持っているが行使できない」という回答をひきだすのが旧社会党など万年野党の使命だったのだろう。
後者は、「憲法9条を改正したら戦前の暗い時代に逆戻りとなり、言論の自由や表現の自由が抑圧されて人権もおろそかになる」という憲法学者などの言論の流行につながった。
前者は論理的に反論できそうだが、後者がクセモノだった。要は、意訳すると「憲法9条を守ろうとする我々、すなわち学者やマスコミ言論人を大切にしないと日本社会の人権は後退してしまうぞ」ということを言いたかったのだろう。既得権益を守ろうとする、ただの保身のたわごとだが、これが意外と説得力をもった。
ひたすら恐怖を煽って(「若者のもとに赤紙が届くぞ!」「特高警察がいきなり連行しにくるぞ!」)、国民を脅迫したからだ。
もし、この連中がタイムマシンで過去にさかのぼったら何を主張しただろうか。1952年の保安隊設立や1954年の警察法改正なども、真正面から「戦前回帰」と叫んで死闘を繰り返して反対したはずだ。
修正の意図を、芦田均さん1957年12月5日、内閣に設けられた憲法調査会で、次のように述べられている。
「前項の目的を達するため」を挿入することによって、武力を全面的にもたないのではなくて、一定の条件下で武力をもたない、ということになります。原案では無条件に戦力を保持しないとあったものが、一定の条件の下に武力を持たないということになります。日本は、無条件に武力を捨てるのではないということは明白であります。
そのような「含蓄」をもたせたいために、このように修正されたと。
日本の憲法学とは全く縁遠い権威ある日本国民の一人である私は、芦田均さんの修正を全面的に支持する。
日本の外交防衛方針である日本国憲法9条を、文明論にし、カントのkategolischer Imperativ,定言命法、で解釈すること自体に、憲法学者としての常識、良識(?)が欠如していると私は思う。
kindleで350円で買えます。読んでいただけたら、日本国憲法の捉え方も、芦田均さんの印象も、変わるのでは、と思います。
これを私はまったく知らなかった。ほとんどの日本人が知らないのではないのだろうか?
原因は、1947年文部省が教科書として採用された東大の憲法学の権威、宮沢俊義教授の書かれた文部省の「あたらしい憲法の話」である。「兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。 これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。・・・日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。」
戦後宮澤教授は美濃部=善、上杉教授=悪、の構図を取りながら、上杉教授が大日本帝国憲法、教育勅語のおかしな解釈、自説を「正論」だと国民に信じこませた手法と同じ手法を使って、自分の説が正しい、と流布するために、マスコミ、文部省、子供の教科書を利用したのではないのだろうか?その伝統は、木村草太教授をはじめとする篠田先生流の定義、東大系憲法学者に、今日まで、延々と引き継がれている気がする。
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