日本維新の会憲法改正調査会にお招きいただき、「自由民主党の憲法改正条文イメージ(たたき台素案)」について話をさせていただいた。本年3月に提示された自民党の憲法改正条文イメージについて具体的に議論する機会をいただいたのは初めてだった。
実は自民党の条文イメージに関する議論は進んでいない。ほとんどの憲法学者が、「改憲反対!」「いつか来た道!」「モリカケのアベ首相に憲法を語る資格はない!」などと叫ぶ政治運動に奔走し、条文案を客観的に分析する社会的役割を遂行していないからだろう。
そこで恐縮であるが、せっかくなので、ブログでも書いておこうと思う。現在伝えられているところでは、自民党の9条改憲案は、以下のとおりである。
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第9条の2 前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
2 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
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この案を見て感じる論点を拾っていくと、以下のようになる。
(1)「我が国の平和と独立」・・・「我が国」という表現は、通常の行政文書等では頻繁に使われているものだが、日本国憲法においては、前文において「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」という表現で「わが国」への言及が一度あるだけである。したがって表現の統一性という観点から、まず「我が国」は、「わが国」と表記すべきであろう。だがもちろん問題はそれだけにとどまらない。
憲法前文における「わが国」は、主権者である国民が憲法発布にあたって「自分たちの国」に言及したときに用いられた概念であり、憲法典における主語として具体性を持っているか、疑念の余地がある。実際、日本国憲法は、1条の天皇の地位に関する規定で、そして98条2項の条約順守義務に関する規定で、より客観的な「日本国」という表現を用いている。「平和と独立」の主体として国家を参照したいのであれば、より具体的に「日本国」とするほうが、適切だろう。
もっともより重要なのは、「平和と独立」のほうだ。「平和」と「独立」を並置するとすれば、両者は異なる概念だということになる。しかしそれは必要な措置だろうか。憲法全体の趣旨や、9条の2を追加する趣旨を考慮すれば、「平和」だけで十分であるようにも思える。この点は、(2)とも関わる。
(2)「国及び国民の安全」・・・「国と国民」が並置されているという特異な内容を持つ部分である。ここで「(日本)国の安全」が言及するのは、その前の箇所にある「我が国の平和と安全」は、重複感がある。表現を整理したうえで、どちらかだけにまとめたほうがいいのではないか。
それにしても「国民の安全」と区別される「国の安全」とは何か。これは私が拙著『集団的自衛権の思想史』や『ほんとうの憲法』で繰り返し述べている日本憲法学特有のドイツ国法学の残滓そのものではないのか?このような「擬人法」的国家観にもとづく表現は、日本国憲法典には存在していないのではないか?このような「擬人法」を強引に挿入することは、戦前のドイツ国法学の影響に染まった憲法学の言語を、数十年遅れで日本国憲法典に挿入し、憲法典の現在の体系を破壊することにつながらないか?
「安全」を守ってもらうのは「国民」だけで十分だろう。それで不足だと考える人がいるなら、「国土の保全」といった概念で、より具体的に無人島を含む領土の保全策を対象としていることを明記すればよい。確かに尖閣諸島などは、無人島だ。「国民の安全」だけでは不足だ、と感じる人もいるのかもしれない。しかし領土問題への対応を考えているのであれば、なおさら「国の安全」などといった時代錯誤的なドイツ観念論丸出しの概念構成は避けておくべきだろう。「国土の保全」でよい。
それにしても現在の政府見解では、自衛権の憲法上の根拠は、13条の幸福追求権にある。ということは無人島の防衛などの国土の保全なども、結局は、「国民の安全」にとって重要なので、追求されるはずだ。だとすれば、国土の保全、といった概念も必要なく、「国民の安全」だけで十分なのではないかという気はする。
(3)「必要な自衛の措置」・・・必要な自衛の措置をとるという文言は、政局的には、集団的自衛権を認めているのか否かで話題になったりするのだろう。だが憲法典にこの文言を入れると集団的自衛権の理解が変わる、というのは、おかしい。現状は、実態として、安保法制の枠組み内では集団的自衛権の行使が可能である一方、枠組み外では実施手続きを定める通常法がないので行使できない。自衛権そのものが違憲だとする者、安保法制が違憲だとする者にとっては、この機会に改憲を潰して議論を有利に持っていくために、文句をつけたい文言であるかもしれないが、それ以外の者にとっては、特にどうということはない。「自衛の措置がとれる」というのは、これまでの政府見解から外れるものではない。
むしろ問題なのは、「必要な自衛の措置」という文言が「自衛権の行使」と言い切っていないために、国際法との関係が不明瞭にならないかどうか、だろう。その観点からは、国際法上の自衛権の要件である「必要性と均衡性」の原則のうち、「均衡性」が言及されていないことが不都合を生まないかどうかだろう。ただし、これはやや杞憂と言ってもいい懸念だ。おそらくは、極端な解釈論が出ない限り、問題はないと思う。ただし、それにしても、あえて曖昧さを残した文言のほうがいいのか、国際法との関係をよりはっきりと明示した表現のほうがいいのではないか、という気持ちは残る。
なお大きな問題として、憲法9条の主語の問題がある。憲法9条は、前文以外では、主語が「日本国民は」になっている唯一の条項である。9条が、特に深く前文と結びついていることを示す重要な点だ。もし9条の2が、現在伝えられているような形で挿入されると、その主語はそのまま「日本国民は」となる。したがって「必要な自衛の措置」をとる条項が入れば、「自衛の措置」をとっている者は、「日本国民」だということになる。
果たしてそれでいいのか?日本国憲法では、9条の禁止規定を除いて、日本国民が主語になっている条項はない。それは能動的な主体を設定したうえで、その主体に権限を委譲するという行為を、憲法制定者である日本国民が行っていることの証左である。たとえば立法する権限は、日本国民は、国会に授権している。日本国民自身が立法することはない。ところが自民党案の9条の2が入ると、憲政史上初めて、日本国民が能動的に動き、自分たち自身の安全や国の安全なるものを守るために、自衛の措置をとることになる。たとえ最高の指揮監督者が内閣総理大臣だとしても、自衛の措置をとっているのは、文章上は、日本国民である。となると、そこで規定されている「自衛隊」なりの組織は、日本国民が直接動かしているという理論構成になる。9条の2によって、日本国憲法において、主権者・国民が直接動かす唯一の組織が、「自衛隊」だということになる。この理解を発展させると、「統帥権干犯」問題に類似した、国民による直接行為の性格を確保する手段をめぐる議論が発生してしまう恐れがないとは言えない。法益がない無意味な混乱の要因なので、9条の2の主語の設定については、配慮しておいたほうがいい。
(4)「実力組織」・・・「実力組織」は、政府が長年使ってきた言葉だが、意味不明なものである。正式な憲法典の用語になると英訳も考えなければならないが、翻訳不能だろう。「ability organization」と言う人もいるらしいが、全く意味不明である。パッとみて意味不明であるだけならまだいいが、「ability organizationって何ですか?」と外国人記者に聞かれて、ピシッと答えられる日本人がいるとは思えない。つまり憲法典にこの概念を入れても、精緻に説明できない。ガラパゴス憲法学の悲惨な実情を、世界に宣伝するだけの措置に終わるだろう。
憲法9条のように、国際的な活動を行う場面で問題になる条項は、国際法との整合性や、国際的に用いられている概念体系との関係が、非常に重要である。日本人だけで分かったような気になっていても、国際的に説明不能であれば、結局は憲法と現実の間のギャップが如実に見えた、といった状態に陥らざるを得なくなる。したがって「実力組織」概念の憲法典への挿入については、私は非常に否定的な気持ちを持っている。
(5)「内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者」・・・やたらと長い表現である。「内閣の首長たる内閣総理大臣」は憲法66条で、内閣総理大臣が行政各部を「指揮監督」するということは72条で、それぞれ定められている。9条が、これらの行政機構の仕組みを説明する必要はない。「内閣総理大臣が指揮監督する」と言えば十分ではないか。最高司令官規定を憲法に入れることは、必ずしも絶対に必要なことではない。もっとも自衛隊が行政府の一部であることを明示する文言を入れることには、意味があるだろう。
(6)「自衛隊」(Self-Defense Force)・・・「自衛隊」という名称の組織を合憲化することは、実際に存在する組織が持っている性質や活動の合憲性の保証にはならない。名前が合憲であるだけだ。しかも名称変更するだけで、憲法改正手続きを必要としてしまう不都合が発生する。組織名称が憲法典に記載されているのは、三権を代表する機関以外にはほとんどないため、自衛隊の位置付けは突出したものになる。そこまでの大きな意味を、あえて「自衛隊」という語に付与する必要があるのかは、疑問だ。つまり私には、「自衛隊」という語を憲法典に挿入することに大きな意味があるとは思えない。
すでに何度かブログで主張していることだが、政府見解からしても、自衛隊は「憲法上の戦力」ではないが、「国際法上の軍隊」である。http://agora-web.jp/archives/2030702.html だとしたら、「国際法上の軍隊」が合憲であることを、「軍」という語を用いて、明晰化するのが、本当に必要なことだ。そうなると国際法との関係も明確になり、ジュネーブ条約(捕虜条約等)の自衛隊員への適用を拒絶する、といった自虐的な立場をとらなくてもよくなる。
自民党は、議論の過程で、9条2項削除を唱える石破茂氏の主張を退けて、2項維持案を掲げていることになっている。それはそれでいい。だが今までの憲法解釈を維持した上で自衛隊の合憲性を明確化することが改憲の狙いであるとすれば、「憲法上の戦力ではなく、国際法上の軍隊である」、ということを明確化することが、本当は必要だ。つまり9条2項を維持して自衛隊は「憲法上の戦力ではない」という立場を維持しつつ、9条の2を追記して「国際法上の軍隊である」ことを明確化することが、最善策だ。
拙著『ほんとうの憲法』で説明したことだが、9条2項が不保持を命じている「陸・海・空軍」は、「その他の戦力」とともに、「戦力(war potential)」の例示として示されているものにすぎない。「戦力」とは、政府見解のとおり、「戦争を遂行するための潜在力」である。9条2項が否定しているのは、「戦争」を行うための「戦力としての軍」である。「戦争(war)」は、国連憲章2条4項を参照するまでもなく、すでに9条1項によって違法化とされている行為だ。違法な「戦争(war)」という行為を行うことを目的とした組織は、大日本帝国軍のみならず、国家総動員体制の竹やり部隊であっても、9条2項によって、違憲になる。しかし「戦争」を目的にしていなければ、「憲法上の戦力」ではなく、軍隊であっても、合憲である。「戦力(war potential)」の違法化は、前文及び9条1項からの一貫性のある合理的な論理の帰結なのである。
憲法学者は、自衛権の行使、をすぐに「自衛戦争」と言い換えたがる。陰謀論めいた概念操作であり、間違いである。1928年不戦条約以来、「戦争」は、違法である。しかし侵略者が違法な戦争行為で国際法秩序を脅かす事態が発生したら、侵略行為に対抗して国際法秩序を守ることが必要になる。その必要な行動の制度的措置として、自衛権と集団安全保障がある。
憲法学者風の発想によると、ずるがしこい外国人たちが、「戦争」を禁じると言いながらこっそり作った抜け穴が「自衛戦争」、である。そこで世界で唯一純朴で美しい民族である日本人だけが、全ての戦争を放棄する。しかしこれは自己陶酔的なガラパゴス論だ。
国際法秩序を守るために、武力行使の一般的禁止原則があり、国際法秩序を守るために、自衛権と集団安全保障の制度がある。勝手に不当な形で自衛権の趣旨を貶めたうえで、自衛権ではない「自衛戦争」なるものだけを議論していこうとするのは、日本の憲法学の悪質な概念操作の所産である。
なお念のため付記しておけば、「交戦権」は、現代国際法が否定している概念だ。戦前のドイツ国法学の概念構成を振り回して現代国際法を混乱させない、というのが9条2項「交戦権」否認の趣旨である。日本の憲法学の基本書にしか登場しない架空の「国際法上の交戦権」など、そもそも全く考慮する必要がないのだ(ただし司法試験・公務員試験受験者の方は、丸暗記しなければならない)。
世界各国が保持しているのは、日本の自衛隊と同じで、自衛権行使の手段としての軍である。国連憲章2条4項で禁止されている「戦争」を行うための組織などではない。新設の9条の2は、ただ世界各国で常識とされていることを日本でも常識とするために、設定してくれればいい。何とかして「自衛権」行使を「自衛戦争」と言い換えようとするガラパゴス憲法学者に屈しないようにしてくれれば、それでいい。
確かに、日本政府の見解も、私の憲法理解とは異なる。まあ、政府は憲法学者には気を遣うが、憲法制定時の国会の憲法改正小委員会委員長であった芦田均の見解にも、9条の起草者と言えるダグラス・マッカーサーの見解にも気を遣わないのだから、仕方がない。だが政府が「実力組織」などの実定法上の根拠がなく説明困難な概念に固執しさえしなければ、あとの概念構成は細かい話だ。自衛隊が「戦力」でなければ、それでいい。「憲法上の戦力ではないが、国際法上の軍隊である」、という結論が共有できれば、それでいい。あとは、「憲法優越説」なるものを振りかざすガラパゴス憲法学者に屈しないようにしてくれれば、それでいい。「憲法上の戦力ではないが、国際法上の軍隊である」ならば、当然、捕虜になった自衛隊員にもジュネーブ条約が適用されるはずだ、といった論点を、一つ一つ整理していってくれれば、それでいい。
(7)「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」・・・最後に書いておきたい。憲法9条の「目的」は、冒頭で「誠実に希求する」と書かれていること、つまり「正義と秩序を基調とする国際平和」だ。9条の具体的な内容は、「手段」でしかない。それは、前文からしっかり通して9条を読めば、さらにいっそう明らかになることだ。
日本の憲法学者は、「芦田修正説」を攻撃することには熱心だが、「正義と秩序を基調とする国際平和」については、議論しない。東大法学部時代に司法試験に合格したという弁護士の方は、「「日本国憲法が希求している目的が『正義と秩序を基調とする国際平和』だ、などという議論はこれまで一度も聞いたことがない」と証言する。blogos.com/article/280280/ 実際、日本の憲法学者が「正義と秩序を基調とする国際平和」について論じた形跡はない。せいぜい「世界最先端の9条があるから日本が世界のリーダーだ」、みたいなことを言うだけだろう。しかし、およそ正義(justice)を基調とするのなら、国際法秩序に整合した平和を求めるのが、当然だ。「正義(justice)」の確立を希求しながら国際の平和も求める「平和愛好国家」の国連憲章の「平和」の考え方と調和する形で、「国際平和」を求めて、9条を解釈運用するのが、当然だ。
9条の2を挿入しても、9条冒頭の「目的」は残る。国会議員の方々が、憲法学の基本書よりも、日本国憲法典のほうを信頼し、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」する憲法の精神を尊重し続けることを期待する。
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コメント一覧 (23)
ドイツ国法学の悪口を言われると、カチンとくるのは、大学時代から慣れ親しんだドイツ文化が大好きなせいかとも思うが、明治政府が、富国強兵政策、を取ったのは、日本国が欧米の植民地にならない、つまり、独立国であり続けたかったためだし、ヨーロッパの戦争では、多くの国が、できたり、消滅したりしている。ワイツゼッカー演説に、「故郷愛」が頻繁に出てくるが、それは真理だと思うし、戦前の反日運動を起こした中国、朝鮮の人たちのように、日本人も「日本の文化」をも守りたいからこそ、自衛戦争をするのではないのだろうか。その二つを備えると前半は、こうなります。
第9条の2 前条の規定は、日本国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つための自衛権を妨げず、国防軍として、法律の定めるところにより、内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
「名称を変えるだけで国民投票」なんて笑えないジョークに為ってしまう。
一般名詞である「軍」「国防軍」「国防隊」等の方が良いのではないか。
この際この程度のハードルは、議論の中でクリアーして欲しいところです。
また,自衛戦争と自衛権の行使は同じではない,憲法は自衛戦争も放棄していると主張する方もいますね。司法試験界で有名な方のようです。
http://www.magazine9.jp/juku/046/046.php
この方も「実際上,両者の区別は難しい」とおっしゃっていますが,自衛戦争ってなんなのでしょう。
自衛のための必要最小限度の実力行使を超えた軍事行為が自衛戦争・・・??
必要最小限度って様々な状況で変わりそうですよね。
しかし、改正案の条文づくりは解釈の対立の調整にとどまらない、いろいろ難しい問題を孕んでいることが、今回の行き届いた整理からよくみえてくる。憲法学通説に対する反論と改正上の懸案・留意点は、制定過程の内在的理解と確立された国際法規範に基づいて丹念に解明され、改正の方向性が説得的に示されているが、それが政権与党や議員らの理解を促し、改正論議への推進力になるかどうかは別問題だからだ。憲法学通説の影響力、支配力がいかに牢固なものか、篠田さんのこれまでの努力にもかかわらず変わっていない。
わが国の安全保障論議はこれまで、神学論争と揶揄される九条解釈にすり替わり、本来の政策論議とは異なる法律論議に終始してきた。国権の最高機関であるはずの国会は、長らく立法府としての本来の役割を放棄してきた。立憲主義や法の支配を主張するなら、国会議員は安全保障、改憲の是非をめぐって堂々と立法論を闘わせればよい。憲法学説は参考にとどめ、法律をつくるという政治家本来の職分を尽くすべきだが、憲法学者に隷従して判断を丸投げしている。政治は政策論と立法論が両輪で、法解釈はその前提にはなっても原理ではあり得ない。それなのに、現状は「モリカケ問題」を人質に「法廷ごっこ」に現を抜かしている。まさに自殺行為である。野党は論外だが、与党もだらしない。憲法学者の下風に立ち続ける屈辱を返上する気概もない。政治の貧困極まれり、世も末だ。
その誤解をなくす為に、ヨーロッパでは、1975年のヘルシンキ宣言で、武器の不行使と、国境線の変更をしないことを、宣言しているのではないなだろうか?
篠田さんはそこに日本の憲法学特有のガラパゴス的性格(国際法軽視)という病巣を剔出するが、当方はもう一つ、日本人特有の概念的思考の硬直性と思考における事大主義をみる。それは篠田さんがこれまで執拗に指摘してきた、時代錯誤的なドイツ観念論丸出しの概念構成であり、日本憲法学特有のドイツ国法学の残滓、「英米風の立憲主義をドイツ風に(ヘーゲリアンの方法で?)理解する」姿勢だ。
そこで思い浮かぶことがある。ヘーゲルのことだ。例えばヘーゲルの好む表現「運動とは質点Mが同じ瞬間に同じ場所mにあって、そしてないこと」は論理的に矛盾しているが、同時代の哲学者・論理学者のボルツァーノはこれを一蹴。「質点Mが一定の時Tに運動するということは、Mが同一の場所に静止するようなTの部分tは一つも存在しないこと」と読み替えて矛盾を解消し、ヘーゲル流の観念遊戯を厳しく批判した。つまり、ヘーゲルが見落とした時間概念を導入することで矛盾律を犯さず運動を明晰に説明した。篠田さんが強調する憲法の国際法的理解とはこの時間概念の導入と同じだろう。
その憲法案は、国会で3分の2の賛成を取って、立法化されている正当なものである。、それに対して、東京大学系の学者が。8月革命であるとか、カントの定言命法、だとか、独善的な解釈をしているだけだ、と私には映る。
ヘーゲルはご周知のようにドイツ観念論の完成者で、ドイツ国法学への影響は深甚。日本の憲法学者がその影響下にあるイェリネクやケルゼンは、厳密にはヘーゲル学派に対抗する新カント派の流れを汲んでいますが、イェリネクに直接影響を与えた西南ドイツ学派の創始者ヴィンデルバントや、ヴィンデルバントの弟子、ブルーノ・バウフにも顕著なことから分かるようにヘーゲルの影響は多大で、概念構成を「ドイツ風に(ヘーゲリアンの方法で?)」とする篠田さんの指摘は的外れではありません。
そこで、当方の趣旨は、マルクス主義者を含めとかくヘーゲルを利用する憲法学者に注意を促すとともに、具体的な事例(ヘーゲルの運動の説明)を挙げて、一見矛盾に見える命題も乱用されるヘーゲルの弁証法論理などを持ち出さなくとも形式論理的に分解すれは、矛盾は解消することを指摘。その上で、矛盾解消の要因となった運動への時間概念の導入を(運動は時間との相関概念)、憲法解釈における篠田さんの国際法規範の導入になぞらえた訳です。なお、篠田説によれば、九条は芦田修正を持ち出さなくとも、憲法前文と確立された国際法から、自衛隊は軍隊だが二項の戦力には当たらず合憲、自衛権は二項の交戦権には抵触せず、国連憲章で自衛のため例外的に留保された正当な権利として個別的、集団的とも合憲という結論が導出できるのは、ご承知の通りです。
厚かましくも、知的指導者を僭称する憲法学者や進歩的文化人のインチキを炙り出す手際は見事だ。良い意味でのジャーナリストのセンスもある。元新聞記者としてそう思う。政治的な領域で、基本的な問題認識と洞察力を欠いたこの国のインテリ、知識人たちが、安全保障論議で難題への対応や改善に対していかに無力であり、近視眼的でナイーヴな理想主義に流れやすいのを見逃さない。硬直した憲法観に対抗する覚悟も危機意識もない、弁護士出身の政治家が幅を利かせるなか、政策論議が立法論ではなく憲法解釈という法律論議から一歩も出られない政治的貧困に、篠田さんの憲法解釈は重大なアンチテーゼを投げかける。
それに引き替え、既存メディアや国会審議の惨状は目を覆うばかり。モリカケ熱にうなされた朝日新聞社説は、「民主主義の両輪は公文書管理と情報公開」と囃し立てる。それを言うなら「法の支配と言論の自由」だと思うが、国民も国益も無視した田舎芝居はもはや戯画というしかない。
井上氏の主張は九条削除論。その点では改憲論の一種だが、趣旨は護憲的改憲の変種。国際法上の軍隊である自衛隊を認知した上で専守防衛・個別的自衛権のみに限定、集団的自衛権を排除する。この点で政府解釈、修正主義的護憲論の結論に近いが、九条を死文化させる国内外での使い分けを欺瞞だと批判、解釈改憲の悪弊を封じることで袂を分かつ。一方で、自衛隊を違憲としながら現状を追認、武装解除も法的に認知する改憲もせずに放置して違憲の烙印(正統性剥奪)を押し続ける原理主義的護憲派を、立憲主義への裏切りと糾弾する。
解釈自体は自衛隊=軍隊=二項の戦力だから違憲、自衛でも交戦権は違憲という通説の枠組みから出ない。篠田さん(憲法上の「戦力」ではないが国際法上の「軍隊」)とは異なり、国際法への顧慮は希薄だ。一項削除は、前文で国際協調と平和主義が明白だから不要という趣旨。こうして、自衛隊保有は論理的に可能となり、軍隊であっても違憲論が出る余地はない。誤解を未然に防ぐ首尾一貫性と、憲法学者にしか理解できない「密教的解釈」を排除する法哲学者らしい論理主義的帰結だ。同時に戦力統制規範条項を盛り込み、自衛隊の設置、組織編成、行使は法律事項とする。小手先の弥縫策ではない形式的には最も正統的な案で、集団的自衛権を否認する以外、私も反対はしない。実現の可能性はないが、議論を不毛の対立と欺瞞から解放する効用はある。一種の思考実験の試みで、問題解決を問題自体を論理的に解消する形で実現している。
井上説の眼目は、安全保障論議を政策論として展開する上で障碍となっている九条解釈、つまり法律論から解放することであり、自衛隊を国際法規範の文脈に正統に位置づけることで、同感だ。ただ、同意できないのは集団的自衛権の否認。九条解釈自体は守旧的で新味はないが、改憲論の趣旨が、憲法と現実との乖離と欺瞞を助長、封印してきた「従来の憲法解釈の論理的解消」にあるなら、一つの見識だし、法哲学者としては誠実な態度だと思う。
私は、憲法9条に限っては、最低限この一点に絞る改憲で良いと思う。
なぜならば、表現の自由を含む憲法原理を支える国家体制を守る重要な役割を担う自衛隊について、「憲法判例百選」の編者として「権威ある」憲法学者が、「自衛隊保持は違憲」とか、「特別の良識を働かせない限り、自衛隊は違憲」と主張するような現状はどう考えても異常であり、一刻も早く解消すべきと思うからだ。
つまり、彼の考え方は。上杉慎吉の、世界は、国際法によって支配されているのではなくて、力よって支配されている、の対極にある考え方である。ところが、上崎の考え方が、学会で、引き継がれたから、日本国憲法は戦争に勝った米国から押し付けられた、という主張や、国際法の存在を、全く無視するような学説が生まれたのだと、私は思う。
私もカントやヘーゲルを随分読みました。ドイツ人研究者によるギリシア哲学の研究書や注釈書の世話にも。フッサールの全集‘Husserliana’ を最新刊まで全巻揃えて無邪気に喜んでいた時期もあります。トーマス・マンは最も愛する作家の一人でS. Fischer Verlagの13巻本全集を大事にしています。
ドイツ国法学と言えば、清宮四郎が訳したケルゼンの『一般国家学』、法哲学に現象学的アプローチを試みた尾高朝雄の『国家構造論』を読みました。井上達夫さんの師である碧海純一は尾高の後継者です。尾高は宮澤俊義との「ノモス主権論」論争が有名で、宮澤が勝った形になっていますが、その判定は党派的なものです。機を見るに敏で「偽装転向」した宮澤の「八月革命説」が進歩的な印象を与えたのに比べ、尾高は国家の主権は天皇や国民に帰属せず、正しい法の理念としての「ノモス」にあるとして、その担い手が天皇か国民かは国家にとって二義的な問題だとします。それが宮澤によって明治憲法と日本国憲法の連続性を強弁する論理と糾弾され、「天皇制のアポロギア」という不名誉な烙印を押されます。強靭で明晰な論理で、政治的恣意を統制する法の支配という理念を擁護した尾高が、皮肉にも天皇制擁護論に走る保守反動という構図。私が尾高のために惜しむのは、天皇や国民とノモスを無媒介に結びつける概念実体化の誤謬です。ドイツ的思弁の強みも弱みもそこに宿っています。
そして反時流的古典学徒さんが、篠田説の論理的な完成度及び先生の学者としての態度の誠実さについて私が常々強く心に宿しつつ語彙の乏しさから表せずにいたことを、過不足なく整理し表明して下さったことに、大変感銘を受けました。井上達夫教授の著書も以前じっくり拝読しましたが、一つの首尾一貫した見解だという点で反時流的古典学徒さんに同感です。また、現存する国家が保持すべき実効性と安定性のある憲法典として、国際法、国際社会の現実や我が国固有の問題点と向き合ったときに、具体的な解を示しているかという点においては、残念ながら論理構成の不足を漠然とした理想論で補っている部分も少なからずあり、篠田説を建設的に検証するための有効な対抗軸とはなり得ないとは認識しています。ただし、健全で活発な憲法論議を著しく妨げる憲法学者の振る舞いに対し根本的な疑問を提起すという意味で、篠田先生と同様、勇気ある立場をとっている方ではないでしょうか。
戦後は、内容や、学説は、正反対であるが、宮沢学派が、子供用の教科書、マスコミ、司法試験や国家公務員試験の参考書というメディアを使って日本社会をせんのうし、その結果ガラパゴス化してしまっている、と私は考えている。
次に、上杉愼吉の国粋的・神権主義的な憲法論と、美濃部達吉の国家法人説、天皇機関説による立憲主義的憲法論は、いずれもドイツ国法学の影響にあり、上杉説が戦前どんなに支配的影響力をもったとしても、それだけでガラパゴス的とは言えません。上杉説は敗戦とともに滅び、学統は途絶えました。篠田さんもガラパゴス性を上杉にまで遡及してはいません。
問題は戦後、新憲法制定に反対の立場をとった美濃部の緻密な手法が、改正後の憲法解釈を主導した宮澤俊義に引き継がれたことです。ケルゼンの影響を受けた宮澤らが展開したのは、ドイツ国法学の概念構成でニューディーラーの価値観(国連主義に通じる)を盛った新憲法を解釈し、体系化するというアクロバティックなものでした。それが、国際的には理解されず、国内で独自な展開を遂げたという意味でのガラパゴス性の始まりだと思います。
ガラパゴス化はドイツ国法学から直接生じたのではなく、新憲法解釈に不適切に導入された。適用する相手を間違えたのです。その責任は宮澤らにあり、昭和4年に死んだ上杉にはありません。
このコメント欄は言うなれば、篠田さんお座敷です。お声が掛からなくとも自由に出入りでき、自由に議論できるのは篠田さんなればこそです。ただ、招待客や芸妓でなくともお座敷にはお座敷のマナーがあると肝に銘じております。メディアに在籍したこと、政治家や哲学について多少詳しいぐらいが取り柄ですが、細かい字を読むのに苦労しながら、皆さんのコメントを楽しんでおります。見解に少々ずれがあるようですが、カロリーネさんに敬意を表しております。議論は真剣に徹しつつも朗らかさを忘れず、結果を恐れない自由な精神で参加したいと思います。
私が篠田さんに感謝し、深く同意するのは、「明白にされ得る誤謬は曖昧な正しさよりも遥かに貴重」とした師の教えに通じる学問本来の自由な探究精神であり、孤立無援であっても余裕を失わない大らかさです。このブログには、そうした篠田イズムが満ち溢れています。
ユダヤ人博物館もいってみました。イエリネックの資料がありました。彼も、篠田先生流のオールドりベラリストの定義に入っているとおもいました。カールシュミットは、上杉慎吉と同じで問題が多い人物だと思いますが。ドイツ文化圏の人だから、軍国主義と規定するのではなく、それは、個性の差てはないか、というのが私の見方です。
それは、9条解釈にもつながるので、敢えてご批判を承知で書いてみました。
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