いよいよトランプ大統領がシンガポールに入った。アメリカの大統領が北朝鮮の最高指導者と直接会談を行うという歴史的瞬間が近づいている。
前回のブログで「日本の団塊の世代」についてふれた。http://agora-web.jp/archives/2032999.html 「団塊の世代」とは、いわば物心つく頃には朝鮮戦争が終わっていた世代の最年長組だ。日本にも韓国にも米軍基地があることを空気のように感じているので、たまにアメリカ大統領が横田基地を使ったりすると怒りだしたりする。アメリカ軍が見えないところで、永遠にどこかにいる、という前提を誰よりも強く抱えているからこそ、薄っぺらな反米主義を気取ってみたり、従米主義なるものを糾弾してみせたりする。
こういった特徴は、1960年代安保闘争の頃くらいでも、まだなかったように私は感じている。集団的自衛権は違憲、などといったのんきな言説も、団塊の世代が学生運動をやっている最中に、米国を空気のように感じながら適当に厄介者にしておく、という風潮の中で生まれたものだっただろう。
しかし、構造的要因で生まれている条件は、容易には変化しない一方、あるときに一気に変わる。6月12日米朝会談で全てが変わることはないだろうが、その予兆を示す重要なことが起こる可能性はあるだろう。
戦後一貫して存在していたが、実は政治的事情で生まれている人工的な現実を相対化してみるためには、歴史を見る、地図を見る、理論を見る、といった作業をしなければならない。
アゴラで新たに松川るい参議院議員のブログ転載が始まったようだ。http://agora-web.jp/archives/2033015.html 松川議員は、私が自民党参議院の会合で憲法の話をした際に、熱心に質問をしてくれた方だった。松川議員のような方は、外国の大学院でも訓練を受けているから、上記のような見方ができるだろう。
私自身も、今までに何度か様々な媒体で北朝鮮問題について書いてきており、実は会談後にも、いくつかの論考を雑誌等に送る予定になっている。このブログでは、松川議員に歩調をあわせて、ただ一つのことだけ、述べておきたい。
アメリカは北朝鮮にCVID(完全かつ検証可能で不可逆的な非核化)を求め、北朝鮮は体制保証を求める、というのが、会談の基本構図になっている。それは「立場」として全くその通りだが、もちろん、それだけではない。
時間をかけて段階的に行われざるを得ないCVIDには、経費負担、経済支援、開発投資の話題が、密接にかかわってくるだろう。だが北朝鮮はすでに核開発に多大な投資をしている。すべてはそれに見合う「体制保証」の枠組みがあるかどうかにかかってくる。
体制保証の過程は、朝鮮戦争終結宣言によって、一つの新しい段階に至るかもしれない。しかしそれは本質的問題でも、最終段階でもない。朝鮮半島の問題は、朝鮮戦争によって生まれたものではない。朝鮮戦争は、朝鮮半島の問題の一表象である。朝鮮戦争が終わっても、朝鮮半島が持つ地政学的な事情に起因するが構造的な問題が消滅するわけではない。
「体制保証」の本丸は、在韓米軍の(縮小)撤退である。在韓米軍の撤退こそが、現実の実質的な「体制保証」であり、それ以外のものは、そうではない。在韓米軍撤退こそが、北朝鮮という特異な国家に「体制保証」を与えるという構造的な転換に見合う事態である。
もちろんこのような最終カードを、トランプ大統領が6月12日に切ってしまうということは、とても想定できない。しかしあるいはトランプ大統領の背広の奥底に潜んでいるカードが、交渉の過程で、ほんの少し、金正恩氏の視界に入るような瞬間が作られるかどうか。それは6月12日が終わっても、わからないだろうが、事態の展開の中で、引き続き論じられていくだろう。
6月12日を注意深く見守るために、われわれがまず気を付けておかなければならない。社会の老齢層が生まれた時から存在している空気のように感じられることでも、それが政治的な事情で生まれたことでしかないのであれば、いつか必ず政治的な事情の変化に応じて変わってしまう時が訪れる。そのことを、肝に銘じておかなければならない。
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西ドイツは、東方外交をしている間だけでなく、東ドイツと統一してドイツとなってもずっと、NATOに加盟し、現在もドイツ国内に米軍が駐留している。違いは、ゴルバチョフさんの頼みで、兵力削減のために、徴兵制度をなくしたことである。健康も、水も、空気も、電気も、平和も、あるのが当然と思っている間は、そのありがたさがわからない。それがある日突然なくなると、そのありがたみが切々とわかるが、日本の左翼系の方々も、憲法学者の方々も、マスコミの方々も、現実に足をつけて物を考えるべきだと私は思う
「団塊世代」は概して、新聞テレビの影響で戦前のことはいろいろマニアックなことを知っているが(オスプレイこともいろいろ詳しい)、たとえば戦後アジアで日米共同の安全保障体制を備えたことが、どれだけ大きな影響力をもっていたかを認識できない。
朝鮮戦争のことはよく知られてきたが、日米安保がなくなれば、とっくに台湾は中国に責められて吸収されていた可能性が高い。台湾海峡危機というのは4度もあり(蒋介石もちょっかい出したが)、90年代には台湾の総統選挙を狙って中国がミサイル発射実験をして威嚇した。昨年の北朝鮮と同じようなことをやっている。
台湾が民主主義を維持して香港がかろうじて守られてきたのも、日米の軍事が協力して東アジアににらみをきかせたからである。
日本が(経済は貿易赤字原因だから別として)米国に言いたいことを言えないのはやむえない。自衛隊さえ正式に認められるのに何十年もかかるような日本が、米国に対等にものが言える訳がない。自民党に問題ないとはいえないが、ほとんどすべての原因は憲法9条を字句通り解釈して政治と外交を混乱させてきた左翼マスコミや知識人にある。
たとえば今月シンガポールで開催されていた日米とNATO共同の最高級クラスのアジア安全保障会議などもマスコミで真剣に報道されず、南シナ海で中国のこしらえた人工島で爆撃機など軍事要塞化が(過去の約束に反して)進んでいて将来の火だねになることを日本国民が認識できない。日米安保が中国を刺激したのではない。中国の経済発展に目をうばわれて、中国共産党の野望と覇権を放置した結果である。そのように国際社会では認識されつつある。
日本の団塊世代を中心とする連中やマスコミが「中国は戦前日本に侵略されたのだから、軍事偏重や多少の野心も大目に見るべき。日本こそ中国を刺激するな」と長い年月に渡って中国共産党の横暴を野放しにするだけでなく、一種の応援団としての役割を果たした。あまりに無責任で無能である。しかし、いまさら日本のマスコミごときが何を騒いでも、もう大きな趨勢には関係ない。日本は国際協調を重視して安全保障体制を冷静に整備していくしかない。
カンボジアの知識人や農民を数百万人虐殺した張本人といわれるポルポトさえもフランスに留学して、共産主義思想と一種にフランスの人権思想を学んでました。目的のためには手段をえらばないというイデオロギーの恐怖が指導者を蝕むのではないでしょうか。
金正恩の次のNo.2も同じような行動パターンをとるでしょう。兄の暗殺も詳しいことがわかっていません。共産党という労働者の期待の星に、すべての権限を集中し言論統制して、なにもかも少数の独断で意思決定するという恐怖のブラックホールです。
旧ソ連のゴルバチョフは奇跡的に真のエリートでした。日本の文学や芸術にまで詳しいようだった。モスクワ大学にいた時期にすでにスターリンの異常性や共産主義の虚構性に内心では気づいていたに違いありません。それを隠してソ連共産党の幹部にまでのぼりつめたのでしょう。そしてソ連共産党の他のキーマンのロシア人も根っからの愛国者で、最後まで米国とチキンレースすれば同胞を滅亡させることもわかっていた。
口先だけの反米主義者が、日米安保の「有り難さ」に目覚めるか。
もっとも口先だけの反米主義者は、同時に中国の脅威を過小評価している者が多いようにみえる。
その意味で、その時点では、「だったら、中国と組めばよい。」などと言い出すのかもしれない。
「属国」への道か?戦争はないかもしれないが。
「朝鮮戦争は朝鮮半島の問題の一表象」であり、終戦宣言によって新段階に移行しても半島の「構造的な問題が消滅するわけではない」という視点に注目したい。篠田さんは事態を突き詰めれば突き詰めるほど、興奮とは対極にある覚醒に向かう。それは「醒めてあることに異様な情熱を持ち続けた」と評された私のよく知る哲学者の覚悟と重なる。「群盲象を撫でる」が差別的修辞だとすれば、言い方を変えて、誰の「目にも見えない大きな像を撫でる」レベルから一歩も出られない俗論や希望的観測を排して、群衆から頭一歩抜け出す見地を見出す試みだ。だから、他の知識人とは異なる安定感、信頼感がある。平衡感覚と鋭い嗅覚が同居する。篠田さんに預言者並の先見の明は必要ない。篠田さんが見極めようとしているのはたぶん歴史の必然性なのだろう。それが、会談後の受容可能な選択を示すことになるからだ。
戦後の日本を対米従属の傀儡国家と断じた『永続敗戦論』で注目された白井聡氏(京都精華大講師)の『国体論──菊と星条旗』がベストセラーになっているという(6刷7万部)。「天皇とアメリカ。──誰も書かなかった日本の深層!」「自発的な対米従属。──この呪縛の謎を解くカギは、「国体」の歴史にあった!」──商魂逞しき編集者が考え出した宣伝文句とはいえ、紋切り型の空疎な問題設定といい、悪しきジャーナリズムの見本のような陳腐で鬼面人を驚かす体の修辞といい、著者自身も苦笑しているのでは? と訝しむ。
白井氏は天皇が統治権を総攬した戦前の国家体制である「国体」が敗戦で崩壊した後、占領と日本国憲法によって誕生した民主主義体制は装いを変えた「戦後の国体」に外ならないとして、アメリカの事実上の属国と化した戦後日本が抱える諸矛盾を抉り出す。悲憤慷慨している。
左翼によくある反米ナショナリズムかと思いきや、それほど単純でもないらしい。リベラリストの戦後観を代弁したジョン・ダワーの感傷的な『敗北を抱きしめて』が戦後日本の「陽画」だとすれば、こちらは、「安倍腐敗政治に終止符を、共産党躍進で政権追い詰めて」(赤旗日曜版、2017年7月)と呼び掛ける白井氏らしい、屈折した戦後の「陰画」なのだろう。戦後の日本は天皇の上にアメリカを押し戴く形で国家体制を再編、存続させる屈辱の道を自ら選んだとする。日米安保を対米従属の構造と読み替える主張に新味はないが、一度滅びた国体を慈悲深くも復活させた主体を米国に求め、途絶えたはずの国体の不連続の連続による復活という秘儀を解き明かすというレトリックだ。沖縄問題や日米地位協定の不条理を説き、従属に甘んじている国民に覚醒を促している。
「国体が二度崩壊するという仮説は、もともとヘーゲルの「歴史的な大事件は二度起こる」という議論に基づいています(中略)重大な出来事は構造的必然性から生じるものです」。つまり、ヘーゲルの歴史哲学のモチーフでヘーゲルも驚くような仮説を捻り出しているわけだ。典型的なアナロジーの論理で、先にあるのは二つの異なる国体ではなく、ヘーゲルやそれを継承したマルクスの図式的理解だ。図式に当てはまるようピースを無批判に組み立てた風情で、学部学生の論文だったら、指導教官に実証の根拠を厳しく追及されるところだ。ヘーゲルの図式と二つの国体を無媒介に結びつける素朴な論理は、歴史を弑逆し無理やり鋳型に嵌め込むという、汎論理主義者のヘーゲルでも躊躇し、最も嫌悪したスピノザ顔負けの発出論というか神秘主義の論理だ。
哲学者でもこうした無軌道な思弁は慎むものだ。それは悪しき歴史主義、観念的思弁の典型だと言える。西田幾多郎の後継者で戦前の京都学派の総帥田邊元は、現実社会の論理と国家の道義性を求めて独自の国家社会哲学「種の論理」を提唱し、その骨格となった独自の弁証法論理は「絶対媒介の哲学」と呼ばれたが、水も漏らさぬ尖鋭な論理意識に貫かれている。ヘーゲルの肩車に乗った安易な観念遊戯はほどほどにして、将来ある有為な研究者らしく、もう少し着実な議論をされるよう望む。
片山氏は吉田秀和賞の審査員で私も記者時代に立ち話をしたことがあり一目置いているが、今回の対応はいただけない。まして内田樹氏(神戸女学院大名誉教授)のように、「菊と星条旗の嵌入という絶望から、希望を生みだす知性に感嘆。爽快な論考」などと、手放しの褒めようがかえって白井氏を勘違いさせ、将来を危うくすることにならないか真面目に考えていないとしたら、思想家として無責任この上ない。仲間褒めの「相互不可侵」というか、アカデミズムのもたれ合いはあるまじき頽廃で、新進気鋭の学者にしてこの惨状なのだ。
前著『永続敗戦論』の評判に気を良くしたのか、当時「本書刊行前後から現在までで目についた(中略)いずれの事象も本書で私が示した構図が真実を抉ったものであることを証明している。その意味で、私の分析家としての力量は証明されたと言えるわけだ」と辺り憚る様子もなく悦に入るお目出度いメンタリティーを、陰で笑う意地悪も大概にした方がいい。
それにしても、白井氏が「戦後民主主義」の虚構性、即ち「対米従属⇔敗戦の否認という相補関係により成り立つ日本の政治体制を「永続敗戦レジーム」」と呼ぶのは勝手だが、そんなものは氏の発見でも何でもない。
そして、その使用されなくなった理由は、朝鮮戦争、勃発なのである。「軍備廃止」を賛美する論調が、朝鮮戦争を機に始められた日本の再軍備が始められた現実と、米国当局の新しい方針、逆コース、に合わなくなったのだそうだ。逆コース、とは、非軍事化、民政化から、主眼が、レッド・パージ、非共産化、に移ったのである。西ヨーロッパと同じじゃないか、と思わず、私は思った。
西欧では、恐怖感としてそのまま残ったものが、どうして、日本では、その後、団塊の世代にとって、北朝鮮は地上の楽園になったのか?誰かが魔術をかけたのだろうか?
「米朝会談」を解説するテレビ報道を見ても、海に隔てられている国、日本は、現実に侵略されたことがほとんどないから、諸外国に比べて危機意識が低い、と感じる。
「つい先日まで、一億玉砕を教えられていたのである。平和を守って死ぬのなら、わけのわからない犬死によりましではないか。
この考えは今でも私の中に伏在している。個人としてはーー人を殺すくらいなら自分が死ぬーー
そんな倫理を抱いているが、これを国家レベルにまで広げることは無理なのだろうか。いずれにせよ平和憲法を守るということは・・・丸腰で国を守るということは、やっぱり命がけの営みにほかならない。」
まさか妻やこどもが殺されそうなときも、人を殺すくらいなら殺されても仕方がないと阿刀田氏がお考えかどうかは、わからない。
自国を守るために戦って死ぬことがすべて「わけのわからない犬死」なのか、とか、「丸腰で」国を守ることが果して「国を守る」といえることなのか、とか、数々の疑問が湧く。
しかし、このような考えが団塊世代以外にも染み込んでいることは認めざるを得ない。
いずれにしても、今回一回の会談で実現できることには限界がある。膠着状態に陥った局面を次の展開に転換できるかどうかが焦点だろう。トランプ大統領が荒業を駆使して金正恩委員長をねじ伏せる、という場面はありそうもない。会談の意義は、開催すること自体にあるという穿った見方もあり、それは一面の真実かもしれないが、今回篠田さんが指摘した朝鮮半島をめぐる歴史的、地政学的構図に照らしてない知恵を絞れば、また別の風景が見えてくる。
お叱りを受けることを承知で言えば、隣国のわれわれにとっても朝鮮民族は実に厄介な存在だ。極東の近代史を少しでも知る者は、朝鮮半島とその付け根の遼東、満州が日露清を軸とする列強各国の角逐の最前線であったことを知る。日本も自らの国益(権益と防衛線の維持)を期して当時のルールで帝国主義戦争を戦った。その結果、朝鮮に迷惑をかけたが、日本も歴史の大きな歯車に巻き込まれざるを得なかったわけで、当時の選択を責められはしない。
ただ思うのは、北の首領を支えるスタッフ(金正哲72、金桂冠75、李容浩62、崔善姫60)の存在だ。毎回同じ顔ぶれだが、彼らが北朝鮮のbest & brightest なのだろうか?という疑問だ。最も頭脳明晰で優秀な補佐官が後ろに控えているようにも見えない。「政策形成者はしばしば歴史を誤用する」というが・・。
済みません、間違えました。確かに国際政治学者でした。大変失礼致しました。
当該個所は「今回のトピックスは国際政治学者であり、まさに今、最前線で動いている国際政治の動向に通暁した篠田さんならではの見識あふれる正論で、凡百の政治学者、知識人、国際ジャーナリストのお株を奪っている。」に訂正のうえ、深くお詫び申し上げます。
追伸 厳密には専門外の領域で「国際法学者が国際政治学者のお株を奪う」というレトリックのつもりでしたが、とんだケアレスミスでした。凡百の国際政治学者として誰が念頭にあったかは、あえて申し上げません。三浦瑠璃さんでないことは確かです。
それは白井氏とは別の次元で戦後日本の虚構性を暴いた。「戦後の国体」という持って回った装置を持ち出すまでもない。私は篠田さんの憲法解釈に出会うまで、福田のこの卓見を基本的に支持してきた。福田には独自の憲法論(「当用憲法論」,1965年『平和の理念』所収)もある。憲法学通説の域を出ない白井氏の憲法観こそ長年にわたる制度的思考の枠内にあり、唾棄すべき「戦後民主主義の所産」そのものではないか。
なお、私が篠田説に出会う以前に福田に覚えた不満は、罪悪、悪、善の厳密な使用を欠いた概念使用にある。罪悪と善悪は日本語の日常的使用のレベルでは明確に区別できないが、罪悪(=邪悪=wickedness, vicious 不正な=wrong, injustice)と正義(justice, right)、善(good, goodness)と悪(badness, evil)は厳密には異なる概念だからだ。
反米感情むき出しの白井氏は、日本の現状は「極東バナナ共和国」「一等国だと思い込んでいる四等国」と悪態をつくが、正確を期すなら、米国海外領土のうちCommonwealth (自治連邦区)と称される保護領(自治領)プエルトリコ並みだとすべきだ。「極東バナナ共和国」は意味不明だ。
こうして、福田は「左翼にとって論争しても勝てない随一の保守知識人」(磯田光一)となった。彼の憲法解釈は憲法学者からは門外漢の議論と無視されたが、憲法学通説の矛盾を突いて余すところない。篠田さんによる国際法規範に照らした首尾一貫した憲法解釈が出現するまで、私は最も正鵠を射た議論だと評価していたが、現在はその考えを改めた。しかし、彼の戦後への原理的批判は今なお高度の思想性を有しており、白井氏のようなヘーゲルやマルクスの肩車に乗っただけの軽佻浮薄な議論の到底及ぶところではない。
不敗の福田は「論争においては、敗ければ問題はいつも自分の外にしか存在せず、永久にそれを自分の内に取込む事は出来ない。敗者は自分の文章に、或は自分の考え方や生き方に責任を持たなくても良いからである。それに反して、曲りなりにも勝てば自分に責任が生じる。論敵と自分と両者の問題であったものが、それからは自分だけの問題になる」。私はそこに、白井氏にはない真の思想家、モラリストの矜持をみる。(完)
私は、祖父の縁で、20代の頃、リットン調査団のスクープ記事や、ルーズベルト大統領の単独会見に成功された楠山義太郎さんに、本当にお世話になった。米国夏季留学も、西独留学も、就職も、親身に応援してくださったから、東京に来てから、よくお家に伺っては、いろいろお話した。おじ様もオールドリベラリストだった。
この件の時も、取材でジュネーブの国際連盟におられたみたいである。http://maesaka.sakura.ne.jp/bk/files/030715_comu.pdf
ジュネーブで、松岡洋右さんは、「失敗した。」と非常に落ち込んでおられたのに、帰国されると、日本国内では、「よくやった。」という大喝采とちょうちん行列。「そういうこともあるもんだね。」と言われていたが、今思うことは、そういう世論を作りたい人、が日本国内でその画策をしたから、彼は英雄視されるようになってしまったのである。そして、その政策が、日本の国際協調路線を壊し、日本は坂道を転がるように、米国との戦争に突入したのではないのだろうか?
金日恩さんが、国際協調路線に沿った核廃棄に関するいい決断をしてくださったらいいな、と祈るような思いだ。
朝鮮戦争は、北朝鮮の生みの親だったソ連・スターリンの賛同が得られぬまま金日成が強行した。韓国侵攻は明白な国際法違反の侵略行為で、対する国連軍の応戦は国連安保理決議(武力攻撃撃退・韓国援助=ソ連は欠席)に基づく正当な集団安全保障の行使であり、中心になったのが米国だった。この武力行使は憲章が禁じた戦争ではないという法理で、この非対称の戦争で連合軍が十分実現可能な北朝鮮の滅亡をためらった最大の理由は、西欧との二正面作戦を嫌った以上に、それが実質的に国連の治安維持活動だったからだ。北朝鮮はこの時も戦後の国際秩序に対する挑戦者だった。
前年10月の中華人民共和国の誕生を受け、性急に半島の武力統一を目論んだ金日成の野心と誤算という属人的要素もあった。それが東西両超大国の冷戦ゲームの一環にすぎない半島の分割統治の撹乱要因だっただけに、戦線拡大に伴う対立の連鎖を嫌ったソ連が、開戦後は抑制的態度に終始した。そこに割って入ったのが中国であり、東西ドイツや南北ベトナムとは明らかに位相が違う。そこに北朝鮮問題の複雑さと特異性がある。
社会主義国家なのに血統で国の指導者を選ぶという他のどこにもない異様な「国体」は、長らく儒教文化が支配した半島ならではのアジア的後進性の刻印が消し難い。それは、覇権拡大に意欲を漲らせて膨張する中国とも異なる。習近平が独裁色を強め、強権的体質が濃厚な中国共産党の一党独裁システムは革命エリート層の競争的均衡のモデルであって、古色蒼然とした北朝鮮のような王朝支配ではない。この体制の存続を保証することに、P. ヴァレリーがかつて「平和に耐える」と言ったことを思い出した。
対ファシズム戦争の正義は疑わなくとも、戦争への引き金をひく多くの大義名分が胡散臭いことは誰でも承知している。膨大な犠牲に苦しんだのは何処も同じだ。だから戦後に国連ができた。
武力行使が許容される条件を厳格に定め、自衛権としての武力行使と戦争が必ずしも同一ではないことを国際法規範として確立した。国連を中心とする国際安全保障を規定し、それがさまざまな要因で十分機能しない場合を想定し、国連憲章51条による例外的措置として各国による個別的・集団的自衛権を認めた。朝鮮戦争は北朝鮮の明白な国際法違反の侵略行為で、国連軍の投入は国連安保理決議に基づく正当な集団安全保障の行使であった。
かの国で蹂躙される人権より、取りあえず非核化の意思確認で合意。実際は使用不可能な核が脅かす米国やわれわれの生命と、北朝鮮国民の奴隷のような生存。こちら側の人命が最優先だというのは、「人命が地球よりも重い」かのように他者の生命も最大限尊重すべきという趣旨であって、無制限に優先されるべきものではないと考えることは実は人命軽視ではない。そもそも「地球よりは重い」は倫理的要請に基づく仮構の論理であり、彼の国の地獄の生存を座視する理由にならない。
アフリカの部族対立では凄惨な虐殺が起きた。大量難民を生んだシリアの惨状は周知の通りだ。武力衝突でなくとも、直接間接につながる飢餓で人はいとも簡単に死ぬ。同盟国の米兵も多数死んでいる(Tomodachi 作戦でさえ間接的死者が出た)。日本人のために死んだと言わないだけだ。果たしてそれで人々の道徳心は保たれ、良心は疼かないのだろうか。私は基本的にトランプ氏を支持するが釈然としない。米国の名誉のために。
人命より重い地球が存在しなくなったら、われわれはどこで露命をつなぐのか。ノアの箱舟など期待できまい。宇宙のコスモポリタン(世界市民)として生きるにしても、日本人が優先されるべき理由はない。究極の仮定として、われわれにとって人命以上に大切なものが一つもなくなった時、われわれの悲惨と頽廃が始まり、われわれは内部から崩壊し人間であることの根拠を失うのではないか。文明を担う資格を喪失した単なる生命体に逆戻りするしかあるまい。
何のために、政治も法も学問も芸術もその一つである文明があるのか。われわれの中に潜む獣性を抑えて人間的自由を実現するためではないか。人はそれぞれ固有の価値観や欲求、希望をもって生きている。その権利は「公認された私利私欲」として可能な限り尊重されなくてはならないし、国家も法そのためにある。
戦争の否定や平和の永続は切実な願いであり、「自分が死ぬのは嫌だ」というのが正直な気持ちであり直ちに否定されるべきものではないとしても、それ自体に平和を生むため世界を動かす特別な力はない。政治や道徳の前提にはなっても原理にはなり得ないからだ。文明や人間的自由という人類の価値を生むのは単なる生命存続欲を超えた、人間が獣性と同時にもつ知性、高邁な心ではないか。それは人間が唯一もつ一種の神性で、そのために自らの生命を犠牲にすることさえ厭わない強靭な精神を生む。そこに人間の真の尊厳があるのだと思う。
玉川氏は日頃、それはどうかと訝しむ発言が多く辟易していたが、きょうだけは見直した。太田氏の見解はワシントンの反トランプ派の元官僚やシンクタンク、メディアなど専門家の平均的見解の引き写しで、特別の見識もないことを直観的に見抜いていたからだろう。太田氏は声明の英文の語句を盛んに引用して自説の正当性を強調していたが、「だから何?」という程度だった。
凡庸な専門家の陥りやすい思考の枠にとらわれて、いま目の前で起きていることへの柔軟で鋭敏な感覚を欠いた定型的、というか硬直した見方しか示さず、自分の頭で考えた痕跡がなかった。会社員さんがよく言う亜流=Epigonen そのものだった。玉川氏はそれを見破ってひと暴れしたわけで、きょうの情報番組では群を貫いていた。
出ずっぱりの中林美恵子氏の見解も新味はなく、同じく各局を梯子していた辺真一氏が「トランプはルビコンの橋を渡った」とはしゃいでいた。ルビコンは辺氏によると「帰らざる橋」らしいが、紀元前49年冬、カエサルが「賽は投げられた」と軍団を率いて渡ったルビコンは小川であって、橋など必要ない。一々揚げ足をとる意図はないが、一知半解のマスコミは困ったものである。
今回の米朝会談でも明らかなことは、トランプ氏が「アメリカファースト(トランプ氏の考える)」を一貫して貫いていること。
玉川氏の見方も結局そういうことだろう。
当たり前だが、日本も、幻想を持つことなく、日本としての望ましい結果(立場により色々で厄介だが)に少しでも近づくべく、冷静に対処する必要があるということだろう。
朝鮮戦争は1950年6月25日午前4時の北朝鮮の韓国侵攻で始まり、休戦協定が発効した53年7月25日午後10時をもって休戦となった。開戦以来3年1カ月2日18時間の戦いだった。半島全域での組織的戦闘は最初の一年でほぼ終了し、残りの二年余は休戦待ちという特異な様相を呈していた。
開城での休戦協定調印式に臨んだのは国連と中朝軍の休戦会談代表の二人。休戦協定は、敵対する軍隊の指揮官が合意する軍事協定である以上、双方を正当に代表する指揮官、つまり国連軍最高司令官M. クラーク大将と金日成・朝鮮軍総司令官、彭徳懐・中国人民義勇軍司令員が直接協定文書に署名するのが本来だが、中朝側が最高指揮官の身柄の安全に懸念があるとして出席を拒み、調印は休戦会談代表二人が行い、最高指揮官は後で別個に署名する形をとった。
この極度の警戒感は、セントレジスホテルを占拠して厳戒態勢だった今回の金正恩委員長の姿と重なる。休戦協議自体、実に158回に及んだ原因は、「論議のための論議を繰り返す」中朝軍側代表の非妥協的な態度にあった。それも今回、CVIDの確約を拒んだ北側の頑なな姿勢に通じる。それは半島の小国の生存戦略であると同時に、北朝鮮のDNAなのだろう。北側の戦争の評価は「アメリカ帝国主義者は……戦争を挑発したその(境)界線から一歩も前進せずに膝を屈してしまった」である。これも、儒教文化に由来する変形した「春秋の筆法」ならではの特異な歴史観で、経済を犠牲にして手に入れた身分不相応な核兵器をカードに、ハリネズミの弱小国が超大国に挑むという歪んだ自尊心が透けて見える。
なぜなら、金銭目的、イデオロギー至上主義者への核兵器の拡散、特に、テロリストへの技術移転は、地球、文明の破壊をもたらす、核兵器は通常兵器とは違う、と言われるペリー元米国防長官の見識を支持するからである。今まで、フルシチョフや、歴代ソ連の元首が、理性を働かせて使用を踏みとどまったから、惨事が起きていないだけで、ピストルや、なたのように、もし感情のままに使用する政治指導者がでたら、文明は破壊される。それ故、抑止力のために、当時国が核兵器をもてばいい、という考えに組できない。
知識人、と自称する上から目線の人々は、もう少し、現実的な脅威も考えなら、マスコミで発言すべきだと思う。
井上達夫さんなどもそうした指摘を、例えばテレビ番組などでは口にする。井上さんが何となく反米的なのは、米国の原爆投下への根源的反発があると思うが、五大国という核クラブに限って核保有を認めた体制に、それが核拡散の連鎖を未然に防止する目的で生まれたNPT 条約によって正当化されても、本来の法的正義にかなうか疑問だ、という法哲学者らしい問題提起だろう。
とにかく、進歩派、左翼系の人々はメディアを含めNPT について基本的理解を欠いている。インド、パキスタンの核はNPT条約の発効(1970年)以後だが、最初から条約を批准してないのに対し、北朝鮮の場合は加盟したNPTから離脱後、初めて核開発したケースで、それ自体が国際秩序に対する重大な挑戦であることを見落としている。だから、国連が制裁決議をしてる。核抑止は恐怖の均衡であり、そこでは意思と能力が左右する。核の脅威と一言に言っても、保有の正統性という問題もある。少なくとも五大国については意思と能力への疑念はない。北朝鮮の核保有は能力は高が知れていても、地域の安全保障環境を極端に悪化させ、報復的使用という意思の面での危うさが厳存する。北には核をもつ文明国としての資格と資質がない。それを見分ける指標が人権侵害だ。
北朝鮮の歴史はその証左だ。
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/4/41669/20170126131717798063/HLJ_40-2_196.pdf
「NPT 第 10 条が規定する脱退権の行使は、従来、主権的な権利の行使として、締約国の裁量に委ねられていると考えられてきた。しかし、国際社会の維持にとって枢要な規範として認められつつある、NPT の条約規定からの逸脱行為の適合性判断については、国際の平和と安全の維持に主要な責任を持つ、安保理による公権的判断に従属するという考えが生まれつつあるのではないか。もちろん、北朝鮮の核問題は、NPT 第 10 条の権限行使の唯一の事例であり、このような実行が維持されるかどうかは注視していかなければならない。また、安保理の現在の構成ならびに拒否権の存在を考えれば、次回も同様な方法が採用される保障はない。しかし、NPT からの脱退問題は、もはや脱退を意図する国家一国の主観的判断のみに依拠するものではないという潮流の存在を指摘して本稿の結論としたい。」
その証拠に、憲法学者の皆さんは、憲法典の具体的解釈が本務でしょうが、その根拠を求めて判例や学説だけでなく法哲学者、たとえばドイツ系ならH. ケルゼンやC. シュミット、G. ラートブルフ、英米ならもっとゆるやかに哲学者や政治学者、J. ロールズやR. ノージック、A. マッキンタイア、M. サンデルらの見解を援用して学説の根拠を組み立て、体系化するはずです。そうではない解釈論一本槍の学者が存在することを否定しませんが、その禁欲は学問の可能性を自ら狭めていると思います。
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