米朝会談について『現代ビジネス』に論評を寄稿し、http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56108 ブログにも少し書いた。http://agora-web.jp/archives/2033184.html すると「篠田さんは勇気がある」というコメントをいただいた。どういうことなのか、よくわからなかった。どうもテレビで高名な評論家諸氏が、「中身がない」、「トランプはダメだ」、「拉致問題が解決されていない」、と散々に酷評していることに、私が反論しているように見えるということらしい。
なんのことはない。私が日本のテレビ番組をあまり見ていないだけである。
だが、トランプ大統領は無能だ、と言い切る自信は、私にはない。もっとも、トランプは偉大だ、と言いたいわけでもない。一回の会合で全て解決することはない、そういう方法論を採用した、それだけのことだ。発展性のあるプロセスの枠組みを作った、それがそんなに悪いことだとは思えない。
制裁は維持している。もっとも確かに、会談を経て、中国との国境はさらにいっそう緩くはなるだろう。米韓合同軍事演習は、いつでも再開できる。もっとも確かに、譲歩に使ったと非難されれば、否定はできないだろう。だが果たしてこれ以上のことができたのか。初回から何か別のことをするべきだったのか。
日本の評論家が、通常の平凡な外交交渉の基準を持ち出して、今回の米朝会談を見ているということはないか。・・・普通は官僚が全部細部を決めて、トップはサインするだけだ、常にそういうやり方をとるのが正しいことなのだ・・・、といった基準で、独裁国家を相手にした特異な会談の評価をしていないか。
戦争当事者同士が交渉をしているのだ。アフガニスタンや、中東や、アフリカのサヘルなどを見て、もう少し「紛争解決」の考え方に近寄った基準をとっていただければ、私のような気持ちになる人も増えるのではないかと思う(たとえば篠田の『フォーサイト』連載をご覧ください。http://www.fsight.jp/articles/-/43869 )
日本の世論が、当事者意識が強い韓国や米国の世論と乖離しているのも気になる。http://www.genron-npo.net/studio/2018/06/post_75.html 北朝鮮メディアも驚くほど好意的に、会談結果をとりあげているようだ。すべては金正恩氏が、自分で合意書にサインしているからだ。合意書の詳細な文言など、何度も反故にされてきた事柄だ。しかし金正恩氏自身が、米国大統領と並んで、合意書にサインをした。その場面の画像に、大きなインパクトがあることは間違いない。アメリカ国内からも、トランプ大統領の支持率が急上昇しているというニュースが流れてくる。
われわれ日本人が、日本人なりの視点を持つのは当然だ。それは、良い。だが、だからとって「会談は失敗だった」、などと結論づけることは、果たしてそんなに簡単にできることなのか。
ウルトラマンは、アメリカのメタファーだ、という広く知られた俗説がある。普段は見えないが、危機になったら、すべて解決してくれる、というわけである。ウルトラマンは、怪獣を次々となぎ倒すのが当たり前なので、もし苦戦でもしようなら、「何やってんだ!」と離れたビルの中から罵倒する、それが地球人の態度である。ウルトラマンが強い手段をとって怪獣を倒すとしても、離れたビルにも危害が及ぶようであれば、やはり「何やってんだよ、ウルトラマン」、と地球人は言うだろう。
しかし、言うまでもなく、アメリカは、ウルトラマンではない。巨人ではあっても、能力の限界に苦しみながら、必死に生きようとしている、同じ人間の集団である。
日本は、なぜアメリカと同盟関係にあるのか。
日本は、アメリカがウルトラマンだから同盟を組んでいるのか。もしアメリカがウルトラマンではなかったら、即刻、同盟関係を解消するのか。
親米主義者であるか、反米主義者であるかにかかわらず、あらためて、アメリカはウルトラマンではない、ということを考え直すには、今回の米朝会談は、いい機会だったかもしれない。
コメント
コメント一覧 (18)
国際協調に関して、もっと私達日本人は、主体的に問題解決と言う事に取り組む時期だと言う事を、そろそろ気が付いても良い頃だと思う。
1950年代の朝鮮戦争についての、西ドイツの対応、(再軍備とNATOへの加入)と同じように、日本の吉田首相も、朝鮮戦争があったから、日米安保条約を結び、自衛隊が警察予備隊という名前で創設されたのだ、ということがわかったが、西ドイツでは、その政策が国民によく理解されていくのと違って、日本では、岸政権の時に、日米安保条約反対運動が激しくなっている。現実的に考えて、おかしい、と識者の人は、思われないのだろうか?
そして、気づいた。非武装中立政策を取った人、というのは、マルクス主義者、都留重人さんも、丸山真男さんも、左翼系の支配を望んだから、日米安保反対運動の理論的な支柱になられたのだ、と。
天安門事件についてのコメント30の会社員の、逆説的ですが、あまりに国家に対して敵対的であると民主主義が育たないのです。という意見、そのとおりだと私も思います。
職業外交官はその最も代表的なファクターだろう。何しろ、難関の外交官試験に合格して選ばれたという正統性がある。彼らは国益を担う自らの役割を熟知した有能な人材であり、職業柄語学に堪能で、海外事情に精通している。もとより、国際政治の舞台裏で活躍する上で必須な人脈や情報収集に加え、いやしくも一国を代表するエリートして、教養や上品な趣味、作法にも事欠かない。相手をもてなす上で必須の料理の知識、例えば上質なワインの選定や芸術についても一家言を有している。そういう自負心がある。少なくともそうあるべきだと、自らの現状を省みて自覚している。エリートならざる庶民は秘かな反発を覚えつつ、「そんなに偉いんだぁ~」、So what? 「だから何」、と反応はさまざまだろうが、代議制民主主義社会での官僚というものはそうしたものだ。
そうした外交のプロや識者らは、今回の米朝首脳会談を個々に温度差はあっても概ね否定的に評価する。それは、焦点のCVID について、対象や期限、検証方法などに関する具体的な内容を欠いた共同声明に対してであったり、トランプ節が炸裂した記者会見での北朝鮮を利するかのような不用意で逸脱したな発言にであったりする。合意文書作成のプロであり、虚々実々の交渉に秀でたプロに外交は任せて余計なことはしないでほしい、という外交官の習性が垣間見える。
篠田さんの主張するように、トランプ大統領は全知全能の超人=ウルトラマンではない。その評価は分かれようが、北朝鮮核危機という容易ならざる現実と格闘し、常識を打ち破る手法で難題解決に挑むという優れて政治的な課題に挑戦している。少なくとも、北の「封じ込め」戦略を北との直接会談を実現させることで端緒を就けた。北の背後に控える中国も絡めて状況は刻一刻と変化する。そこに求められる高度な政治判断は前任者のオバマ元大統領に劣るとは思えない。既成のワシントン政界やリベラルデモクラシーを信奉するエリートたちはオバマ氏に親和性があるとしても、現政権の責任者は紛れもなくトランプ氏だ。
今回の一連の動きをみて、私は「ハーヴェイロードの前提」(Presuppositions of Harvey Road )という言葉を想起した。『J.M. ケインズ伝』の中で経済学者のハロッドが、ケインズの生家があるケンブリッジのハーヴェイロード6番地にちなんで、ケインズの政治思想をそう評したことで流布した。政策の立案・決定を行う人々は、私心にとらわれない公正無私な知的エリートであることが前提だという言葉だ。
奇妙というか滑稽なのは、そうすることで凡百の知的エリートたちがケインズに自らを擬するような錯覚に陥っているようにも見えることだ。エリートにあるまじき自己瞞着であり、そこにはエリート特有の度し難い権威主義、事大主義が透けて見える。それは、刺激的な回想『若き日の信条』の中で、知的権威に反逆する偶像破壊者であった往年を回顧した偉大な経済学者が、「彼の精神は、批判的な知性は創造的な知性とは両立しない、という通俗的な誤謬に対する完璧な反例であった」(ブレイスウェイトが哲学雑誌『マインド』に寄せたケインズの追悼文)のと対極にある。
自身の利害得失にしか関心をもたない凡庸な庶民といえども、知的エリートが道徳心に富む高潔な集団だとは最初から期待しないが、「お勉強ができる」だけの如才のない秀才とケインズ、そしていささか品位を欠くリアリスト・トランプ氏との格の違いぐらいは見抜く。今回のトランプ批判で後になって不名誉な不見識の誹りを被らないために、知的エリートならではの群盲から頭一歩抜け出す展望を示し、精々分析を研ぎ澄ませてほしいものだ。
篠田さんの「ウルトラマン」論の他の側面、戦後日本の平和主義の欺瞞と対米依存の構図については、次回に譲る。
深刻なのは、冷戦崩壊で決着がついた保革の対立が、その後の保守・リベラルの対立図式に変わっても矛盾は一向に解消されず、政府の現実的対応によって事実上は無化されてしまったことだ。現在、自衛隊を違憲とする見解は国民の中には全く支持を見出せず、ただ憲法学者が通説で違憲説を維持するという思考停止=政治的凍結という彌縫策で現状を糊塗している。一貫して違憲論の共産党も即時武装解除を主張してはいない。この(革新の平和主義という)「綺麗事も(保守の)居直りもアメリカの占領と安全保障条約とによって、その微温的性格を破られずに今日まで保たれて来た」(福田)とされる所以だ。
沖縄への米軍基地集中や首都上空を覆う横田空域など、米軍地位協定の不条理が手を変え品を変えて指摘され、国民に「対米従属」の屈辱を説く反米ナショナリズムを煽り、同盟解消による「属国状態」の解消を訴えるが、与野党の圧倒的勢力格差によって政治課題化されることはなく、それぞれのアイデンティティーを確認する政治的メッセージに留まっている。保守、リベラル双方とも、「戦争に巻き込まれたくない」で一致する国論を、日米同盟と連動する自律的安全保障策の展開につなげる複眼的思考を欠いている。国民は惰性で安閑と平和と繁栄を享受し、国外では理解されない一種の「ガラパゴス的平和観」で閉塞している。憲法学者やリベラル派知識人の安全保障論は昔の文学青年の政治論の域を出ないものが多く、「平和の代償」が生む思想的頽廃と直結しているように思う。
現在のマスコミの政治家についての報道の仕方も、人気偏重の傾向があるが、過去の例、あるいは、ヒトラーのことを考えても、それは、非常に危ないのである。ヒトラーは国民にいい印象を与えるために、オペラ歌手に演技指導を受けていたらしい。
とにかく、朝鮮問題は、核問題もからんでいて、文明、人の生き死にからむ大変深刻な問題なので、地に足をつけた世論をとにかくお願いしたい
米国にとって民主主義体制からあまりに程遠い北朝鮮はあくまで潜在的敵国のままである。ただしソウルを火の海にしてやると脅迫されている韓国が北朝鮮との融和を模索せざるをえないことも米国は理解している。複雑な状況下で各国が微妙な綱渡りをしているなかで日本の評論家は綺麗事を言っているだけだ。
あと科学特捜隊が、あくまで「日本支部」という扱いは、戦後日本人の国際機関へのあこがれを象徴するとか。日本人の「国連信仰」は左翼の反国家、反日本の裏返しだったのですが、ずぼらで陰湿なな左翼の先導により屈折した形で日本を呪縛しています。
進歩的知識人やメディアはその派手な立ち回り方はともかく、政治的意思決定のプロセス、つまり政治過程に与えた影響に限れば所詮は外野に過ぎない。ナイーヴな国民は、例えば講和条約の締結による独立回復をめぐる論争で全面講和を主張した学者や知識人を結集した「平和問題談話会」(清水幾太郎や丸山真男が中核メンバー)の声明に盛られた理想に表向きは感銘したとしても、選挙時の投票行動や世論調査をみる限りほとんど影響されていない。
識者やメディアが国民を誘導しようとして多くは失敗するのは昔も今も変わりはないが、それは国民が危機を充分認識していないからだとか選挙制度の欠陥ではなく、彼らの現実認識に欠陥があるからだ。現実を仔細に分析して最善ではなくとも実現可能でよりましな次善の選択を、各勢力の利害調整を巧みに図りながら実現する、という当たり前のことがリアリズムというものなら、その感覚が恐ろしく欠落しているのが識者でありメディアだった。有権者はそれを感覚的に見抜いていた。その点で、日本人は良くも悪くも健全だ。
私は敗戦後の政治過程を見ていて、それを戦後の冷戦構造という全体的構図でとらえながら、与党政権に与えた経済人、端的に言えば財界の存在感を重要視している。
これに関連して、カロリーネさんが前回のコメント60で「私の大学生のころ、産経新聞を読む層、というのが、どれだけいたでしょう。普通は、朝日ではないですか?」と書いておられたが、「大学生のころ」とは恐らく70年代前半と推測されるから、当時の高学歴層は確かにそうだったと私も思う。しかし、朝日は肝腎な所でいつも見立てを誤る不名誉な実績がある新聞であるのを皆が何となく分かっていた。それが「偏向」というものだ。「そうは言っても、毎日は中途半端だし、読売も朝日ほど知的ではないからパス、日経はちょっと面倒.....産経は幾らなんでも.....」というのが恐らく世間の平均的な見方だろう。わが家も仕事の都合で「サンケイ」を読むが購読は朝日だ。今後も変えるつもりはない。その代わり、昔から論壇誌を気をつけて読む。
問題は別の所にある。産経の見立てはなぜいつも朝日より正確なのか? 産経がよく揶揄されるほど政権や財界べったりだからでは無論ない。結論から言えば朝日ほど知的ではないが偏向していないからだ。「知性派」の朝日も自分たちが偏向していることに無自覚なのではない、むしろとっくに気づいている(彼らはお勉強だけは得意な擬似インテリ集団だから)と彼らの名誉のために言ってもいい。自己欺瞞なのだ、ただ、建前上そうせざるを得ない事情がある。変に理想主義的な体質と改革志向が進歩的知識人や西欧型社会民主主義的なイデオロギーへの親和性に災いされ、依存体質を生んでいる。度し難い権威主義はインテリ集団ならではの宿痾だ。
水野は池田内閣当時、首相の信頼も厚く、小林中(日本開発銀行総裁、アラビア石油社長)、永野重雄(富士製鉄社長、新日鉄会長、日本商工会議所会頭)、桜田武(日清紡、日経連会長)とともに「財界四天王」と呼ばれ保守政界に大きな影響を与えた。水野の経歴が面白い。東京帝大法科卒業の翌1925年に日本共産党に入党。党を代表してコミンテルン極東政治局に派遣されたり、中国の武漢政府樹立に参画。しかし、28年の共産党員一斉検挙(三・一五事件)で逮捕され、翌年に獄中転向する。共産党中央委員の転向第一号となる。転向はインテリの弱みとも言えるが、頭脳明晰で目端が利くという点で岸信介といい勝負で、服役後しばらくは翻訳で生計を立てるが、転向者仲間の南喜一(国策パルプ社長、ヤクルト会長)との縁で経済界に転身する。軍の援助で大日本再生紙を創立し、戦後は山陽国策パルプの社長、会長に。
戦後、各企業とも激化する労働運動に手を焼いており、元共産党幹部の水野は労働問題対策の財界指南役になる。南が吉田茂の東大同期で支援者だった宮島清次郎(日清紡社長、日銀政策委員)と水野を橋渡しする。桜田が終戦直後、同郷で同じ旧制第六高卒の池田勇人を宮島や吉田につなぎ政界入りの契機になる。水野はこうした強力な人的ネットワークと鋭敏な政治感覚を武器に今度はメディア対策の一環として56年に文化放送社長、翌57年フジテレビ社長、さらに翌58年産経社長になる。
異色の経済人としての水野の黄金期であり、戦後メディア界に革新・進歩主義陣営への対抗軸となる「橋頭堡」を形成したことの意味は小さくない。
水野は吉田茂の特別な配慮と池田勇人の厚い信頼があったとはいえ、アナトール・フランスの小説『神々は渇く』(岩波文庫)を訳したほどの文才と、革命運動に身を投じた気概、卓抜なる経営感覚、その人間的魅力を背景にした人心掌握術という点で、財界の懐刀であった。何ものにも欺かれないそのリアリストの感覚は、革新政党や労働運動指導者、進歩的知識人のかなう相手ではなかった。岸信介同様、毀誉褒貶の多い「怪物」だが、戦後政治に与えた影響は想像される以上に大きい。
いずれにしても、あまり議論されることはないが、戦後の長期保守政権を支えた重要な要素として、財界の無視できない影響力は改めて見直されるべきだと思う。
最後に、新聞の不足を補うように論壇誌があるわけで、ほぼ中立的立場の『中央公論』をはじめ、新聞とは異なりもっと自由にというか、多様な見解を競い合っており、進歩派的論調が目立つ岩波書店『世界』は特異で、『自由』、『経済往来』、『展望』、『潮』、『日本』、『諸君』、『思想の科学』、『社会思想研究』などいろいろあった。これらを一々図書館で閲覧するのは大変だったとしても、大手各紙には月毎に「論壇時評」があったから、それを手掛りに他の見方を発見できたはずで、「騙された」は言い訳にも免罪符にもならないことは、今日も往時も少しも変わっていない。
振り返ってみれば日本の近代は立派な知識人を生み出したものだった。学問のすすめの福沢諭吉や茶の本の岡倉天心、武士道の新渡戸稲造など。それが現代においてあまりに醜いレベルに落ち下がった。それは、なぜか。
これは様々な要素があるが、自立した知識人がでた近代を経由して、その後に訳のわからない大衆ジャーナリズムが世論をかき回す時代が来たからだというのが大きい理由に思える。西欧でもオルテガやホイジンガが大衆マスコミに深刻な危機と教養の弱点を感じたように、大衆ジャーナリズムが日本を危機におとしいれたのだ。何もわからないくせに、すべてお見通しのような滑稽なジャーナリズムの夜郎自大性と滑稽な上から目線の説教屋の根性。すべてがあまりに醜い。三流の知性のたまり場であった。信用できるものは一切ないと言い切ってよい。また大学や人文業界にいる無能な自称知識人の下請けでもある。
アメリカ人は、無能で屈折したジャーナリズムを破壊しようとして破天荒なトランプを大統領に当選させたが、もうこんな大統領は次には登場しないはずだ。たまたまの例外だった。創造的破壊と呼べるかどうかはまだわからないが、気取ったメディアの鼻をあかしたのは痛快だった。これだけは功績。
日本にもトランプは現れないものか。「明日から記者クラブを相手にしない」と一言だけ宣言して、その翌日からは官邸に置いたカメラに向かって、なんやかんやの国民向けの説明を行い、SNSから支持の多かった質問に直接答えるという破天荒だが、本当に誠実で真面目な政治家が。
私のヴァイツゼッカーへのスタンスは否定的なものですが、正面の論争相手はヤスパースやハイデガーですので、どうぞお気遣いなく。西尾幹二氏には『日本とドイツ 異なる悲劇』の前に、『全体主義の呪い 東西ヨーロッパの最前線に見る』(新潮選書、1994年)という著書があって、『日本とドイツ…』は謂わばおまけのような感じです。そこでは、チェコスロバキアが共産主義の軛から解放された1989年11月のビロード革命の際にハヴェル大統領が行った国民融和の呼び掛けとか、ポーランド知識人との対話、旧東ドイツの国家保安省、所謂シュタージについての現地ルポが詳細に述べられており、ハヴェル大統領演説は、ヴァイツゼッカー大統領との比較でいろいろ考えさせられます。
つまり、ドイツではなくポーランドやチェコの視点からも問題を掘り下げるわけです。ハヴェルは「すべての人に罪がある。チェコの市民で責任のなかった者はいない」と国民融和を目指した政治的判断を演説に滲ませます。それは特定の個人の罪に問題を還元するのではなく、どこまでも集団の罪を追及し、「行政による(国内法的には合法な)犯罪という現代の全体主義の特性」をはっきりと理解させ、ドイツ側の視点とはズレがあります。
日本からだと見えにくいのですが、第二次世界大戦中のドイツで、共産党は最大級の抵抗勢力でユダヤ人に次ぐ犠牲者だったがゆえに、東独の精神的基盤は、ナチズムを克服できてない西独に対する、自称「道徳的優位」だとの東側の認識もあります。その一方で、ユダヤ人への莫大な賠償を担ったのは西独の方で、「親アラブ反イスラエル」姿勢の東独は賠償金の支払いを事実上免れたという東側の西に劣らぬ欺瞞です。東西統一でウヤムヤになりますが、かの国はまあ、大変です。
皆さんもご周知の通り、司馬遼太郎は大阪外国語学校蒙古学科を卒業後、京都の弱小新聞社を経て1948年、産経新聞社に入社し、13年間在籍した。この偉大な国民的作家の代表作、例えば『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』、『菜の花の沖』は産経に、『関ヶ原』は週刊サンケイに連載された。当時の朝日はそれを通俗時代小説扱いで侮っていた。「明治礼讃」も気に入らなかった。結局、見る目がなかったのだ。その後、『世に棲む日々』を69年から、『街道をゆく』を71年から急逝する96年まで「週刊朝日」に連載するに至り、態度を変える。司馬が古巣の経営陣に批判的になっていったことに便乗し、「司馬史観」の提灯持ちに転じた。見事な変わり身の早さ。
このほか、生前はその政治姿勢について極めて批判的だった田中美知太郎について85年の死去の際、一面に訃報記事を掲載し、批判は一切控え、称賛した。
生前はことごとく論破されて煮え湯を飲まされた福田恆存についても、94年の死去とともに批判は影を潜め、負け惜しみとも言える訃報記事を掲載した。田中、福田とも、いわゆる保守系知識人に小林秀雄ら文化人を結集して68年にできた「日本文化会議」の発足以来のメンバーで、田中は死去まで17年理事長を務めた。両者とも朝日の論調については、一貫して批判的だった。論壇誌『正論』の創刊を促したのもこの三人。
私的経験では、世界的プラトン研究者で元京都国立博物館長の藤澤令夫氏が2004年に死去した際は、15行の死亡記事で済ませた。藤澤氏が文化功労者や文化勲章受章者でなかったことによるとみているが、一カ月以上経過した同年4月2日、不明を悟ったのか、にわかに哲学者でエッセイスト・池田晶子氏の長文の追悼文を夕刊に掲載し、取り繕った。知性を誇る名門新聞社の嗤えない一面を物語る。
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