『現代ビジネス』さんに、砂川判決に関する拙稿を掲載していただいた。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56703 1959年砂川判決については、このブログでも何度か取り上げた。それにしても、60年近くたって、なお論争の対象になっているというのは、大変なことだ。日本人の多くが、いまだに砂川判決で何が語られたのかを、わかっていないということだ。
憲法9条の問題を扱った比類なき判例である。その例外的な性格は、本質的な意味において、砂川判決が、憲法学だけの問題にとどまらない内容を持っていること示している。
といっても、私は、判決内容が、法的問題だけでなく、政治的問題にかかわっている、といったことは強調したいとは思わない。確かに、日米安保条約の問題には高度な政治性がある。ただし、だからといって判決の内容が法的なものでなくなるとは思わない。それは、本質的な問題ではない。
気づいておくべきなのは、本来、最高裁判所というのは、憲法学だけの審査を入れるものではない、ということだ。もちろん憲法の観点からの審査は、必須だ。だが、だからといって、唯我独尊で「憲法優越説」の学説だけを手掛かりにして判断をくだすことが、最高裁の仕事だということにはならない。むしろ、たとえば前文の国際協調主義の精神や、憲法98条2項の条約遵守義務をふまえるならば、国際法の体系をふまえて、憲法判断を下すべきであることは、当然だ。
個別的自衛権と集団的自衛権は、国連憲章51条において結び付いている。それだけではない。国連憲章7章において、個別的・集団的自衛権は、集団安全保障と体系的な関係を持って、位置づけられている。
「個別的自衛権は合憲だが集団的自衛権は違憲だ」、「集団安全保障を認めても集団的自衛権を認めたことにはならない」、という主張は、大変な主張なのだ。相当な論証義務が、主張する側にあるのだ。
「日本では憲法学者の多くがそう考えているから・・・アンケート調査をすればわかります・・・」といった理由で、「集団的自衛権だけは異物です」といったエキセントリックな主張を、自明視することはできない。アンケート調査にしたがわなければ立憲主義の破壊だ、といったレトリックを使っても、それは本質的な議論ではない。
砂川判決は、そうした基本的なことを思い出すために、とてもよい題材だと思う。
憲法9条の問題を扱った比類なき判例である。その例外的な性格は、本質的な意味において、砂川判決が、憲法学だけの問題にとどまらない内容を持っていること示している。
といっても、私は、判決内容が、法的問題だけでなく、政治的問題にかかわっている、といったことは強調したいとは思わない。確かに、日米安保条約の問題には高度な政治性がある。ただし、だからといって判決の内容が法的なものでなくなるとは思わない。それは、本質的な問題ではない。
気づいておくべきなのは、本来、最高裁判所というのは、憲法学だけの審査を入れるものではない、ということだ。もちろん憲法の観点からの審査は、必須だ。だが、だからといって、唯我独尊で「憲法優越説」の学説だけを手掛かりにして判断をくだすことが、最高裁の仕事だということにはならない。むしろ、たとえば前文の国際協調主義の精神や、憲法98条2項の条約遵守義務をふまえるならば、国際法の体系をふまえて、憲法判断を下すべきであることは、当然だ。
個別的自衛権と集団的自衛権は、国連憲章51条において結び付いている。それだけではない。国連憲章7章において、個別的・集団的自衛権は、集団安全保障と体系的な関係を持って、位置づけられている。
「個別的自衛権は合憲だが集団的自衛権は違憲だ」、「集団安全保障を認めても集団的自衛権を認めたことにはならない」、という主張は、大変な主張なのだ。相当な論証義務が、主張する側にあるのだ。
「日本では憲法学者の多くがそう考えているから・・・アンケート調査をすればわかります・・・」といった理由で、「集団的自衛権だけは異物です」といったエキセントリックな主張を、自明視することはできない。アンケート調査にしたがわなければ立憲主義の破壊だ、といったレトリックを使っても、それは本質的な議論ではない。
砂川判決は、そうした基本的なことを思い出すために、とてもよい題材だと思う。
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常識的に考えれば、最高裁長官の田中耕太郎氏は、反ファシズムの論陣をはった河合栄治郎と同じような正統的なリベラルである。対して、日本の左翼はリベラルとは程遠い。ファシズムは憎悪するが、共産主義には寛大であった。そして「反共」をファシズムの仲間と定義して、共産主義国家に迎合した。
「終戦後に米国の命令に呼応して旧日本軍を解体した日本人は良い日本人だが、日米安保や米国の圧力に呼応して自衛隊を正当化した日本人は悪い日本人だ」というような二重基準を持っている。全般的にダブルスタンダードを平然とふりまわす。
彼らの特徴は(内心に隠しもった)日本という国への強い憎悪または復讐心である。人格形成の時期に、そういったメンタリティを植え付けられたのだろう。こんな自称リベラルはいずれ日本でも淘汰されていくのは間違いない。
歴史的経緯を見ても、日本は国連軍創設を前提とした戦後の集団安全保障の蚊帳の外に置かれており、英米法云々の国際協調主義に基づいて国連復帰に合わせて集団安全保障の枠組みに組み込まれることが当初から想定されていたという篠田氏の説はファンタジーに近いでしょう。
篠田氏が目の敵にしているいわゆる修正的護憲派の理論ではどうしても9条と13条の間の緊張を避けられませんが、結局彼らと同じ手法で集団的自衛権まで説明しようという篠田氏の理論も同じ(かそれ以上の)矛盾を避けられません。
修正的護憲派を批判しながらもその手法に乗っかっているため、井上達夫氏のような方の批判には耐えられないでしょう。
多くの憲法学者が言うように、現行憲法では集団的自衛権は説明不能、個別的自衛権の合憲・違憲は微妙というのが納得しやすい。(もちろん政府も集団的自衛権の単独行使は違憲という立場です。)
個別的自衛権すら微妙な状態で実質的な戦力を持っていることが問題だから、憲法に①個別的自衛権を明記するのか②集団的自衛権を明記するのか、という段階的な改憲議論を行うのが正当だと思います。
これは、石原莞爾さんなどがマスコミと一緒に作り上げた戦前のイデオロギー「鬼畜米英」のせいなのかどうかわからないが、戦後、ソ連や、中国や、北朝鮮がバラ色の国家、であるというイメージが左翼系マスコミによって60年代から70年代にかけて現実に醸成されていた。それは偽りだ、と私はヨーロッパを実地に見聞してわかったが、ソ連を見聞された田原総一朗さんは、それを発言すると、マスコミに干される心配があったから、僕は言えなかった、とあるテレビ番組でおっしゃっていた。
大事なことはワイツゼッカー演説の中にもあるように、ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になるのではなくて、歴史の真実を冷静、かつ公平にみつめ、人間はなにをしかねないのか、を歴史に学ぶこと、それができれば、答えはみえるのではないか、と思う。
第一次世界大戦後、新しい憲法が、「ワイマール憲法」という名前になったのも、第二次世界大戦後、ナチズムの悪いイメージを払しょくするために、[本当のドイツ文化普及]の意図で西ドイツ政府も参画して作られた「ドイツ文化センター」の名前が、「ゲーテインスティテュート」となったのも、ドイツ人が、ドイツの文化をゲーテと結びつけて考えているからです。もちろん、カントやヘーゲルは、ドイツの著名な哲学者ですが、ゲーテほどのインパクトをドイツ人にもっていません。
私は、軽い気持ちでドイツ語を選択した。英語は、必須だった。大阪万博の西ドイツパビリオンで働いていた叔母のようになりたくて。でも、軽い気持ちで選択しても、必死の気持ちで選択しても、それを仕事の手段に使おうとすれば、それ相当の大変さがある。私はGoethe Institutをたどってゲーテにたどり着いた。そのGoethe Institutにいざなってくださった関西学院大学の荒木泰教授は、ご自分が東京大学のドイツ文学科を卒業し、フンボルト奨学金を得て、西ドイツに留学されたのだけれど、ヒアリングができなくて苦労した、という失敗から、文法が一応わかったら、ネイティブなドイツ人の下でのドイツ語の勉強も必要だ、と考えられて、勧めてくださったのである。
知識人ゲーテは、もちろん、ラテン語、ギリシャ語で自由に読み書きができたが、知的階級しか読めないラテン語ではなくて、「普通のドイツ人」が読めるドイツ語で詩を作り、劇を作り、小説を書いた。そして、世界文学という言葉を作り、その中のドイツ文学の作家になった。
以前、日本の最高裁判所の裁判官の特集をしていて、その愛読書、にゲーテの「エッカーマンとの対話」とあげておられる裁判官が多くおられて、日本語に訳されたものを買って読んでみた。すると、日本のマスコミを通じていろいろ耳にする言説、に対する疑問や疑念が、嘘のように氷解した。「哲学は、常識をただ難しく言いかえているだけだ。」というゲーテの言の意味が、本当によくわかったし、私の愛読書の一つにもなった。
ドイツは、ナチズムの反省から、「戦う民主主義」を掲げ、政党にしろ、宗教団体にしろ、「内面の自由を侵す権利は国にはない」などといって、なんでも自由に認めているわけではない。つまり、「民主主義体制を覆す自由」を制限しているのである。
私は、Goethe Institutにいざなってくださった、荒木泰教授に、留学中、ヒアリングという面ではあまり困らなかったこともあって、本当に感謝している。ただ、反時流的古典学徒さんには、「教育が悪い」というレッテルを貼られているが。
そもそも日本の左翼はあまりに特殊。欧米や共産主義国家、アジアやアフリカなど世界中どこの国でも称賛するが、日本に対してだけは憎悪をむき出しにした。だから、「西欧の左翼などは愛国心をもっているが、日本の左翼は愛国心を持っていない」などと言われた。あまりに観念が先行して頭でっかちで人間的に未熟であったから、子供じみた罵倒が習性になっていたのだろう。
あまりに憎悪が強いのは天皇制に関する日本国民の支持や愛着が根強かったからと見ている。戦後すぐにフランス革命のような王室転覆が起こると期待したが、そういうことは国民の中から起こらなかった。
典型的な教師や学者はだれもがこう強調していた。岩波書店と朝日新聞と日教組という、この3点セットが(左から右に思潮が流れていく)そういう固定観念をつくりだしているように見えた。さらにNHKがこの3者が予定調和するように、左翼のトゲを中和するかのように演出している感じでうまい具合にまとまっていた。
何にも普遍性はない。普遍性があるように口先だけでレトリックを駆使して、日本人を洗脳し続けた最悪の教養体系だった。
書き出すと左翼の悪口になるが、徹頭徹尾ひどかった。それは「戦争をはじめた野郎が悪い、悪だ」と罵倒していれば大学や学校の教師になれたのだから、どんなボンクラでもインテリの顔ができたのだろう。腹立たしいことだ。
しかしドイツの戦後においてゲーテが重要な意味をもったということは非常によく理解できる。それはナチズムによってドイツ人のプライドが破壊され宗教の権威も低下し、その戦後ドイツにおいて人間の「良心」というものをどう鍛えるか(と言ってよいかわからないが)ということが重大な関心事になったためである。
良心は上から専制的な教育で押し付けられるものではなく、自らが自発的に呼び起こすものであるという考え方にたつと、ゲーテは恰好の題材となり、さらに多くの名手といえる思想家によってゲーテがどう解釈されたかを吸収するのも非常に学ぶことが多い。
ところで、トピックスなどお構いなしに(牽強附会に)ほぼ毎回、いの一番に投稿することが趣味らしいご婦人が何やら訳の分からぬことを宣っているようだ。
この数週間の私との遣り取りで何が分かったか、知れたものではないが、曰く
「真理愛、というよりも、教授への尊敬、その教えを受けた自分に対する非常に高いプライド、負けるものか、という強い信念」とは、言うに事欠いてよくも言ったものだ(呵呵)。「負けるものか」はそっくりそのまま、お返ししたい。
確かに恩師(藤澤令夫)もその師(田中美知太郎)も、学界の指導的立場にあり、研究上の専門的業績に加え、後進の育成にも多大な成果を残すという第一級の人物だった。師に当然の敬意を表したまでで、師の権威を笠に着て発言しているわけではない。頭を冷やして考えれば、分りそうなものだが、「普通の人」の意図(魂胆)は別の所にあるのだろう。
別に歴然たる無知、無学を憐れむ気持ちはないが、「伊達や酔狂で苦労してギリシア語やラテン語を修得したわけではない」という点について、説明しておくことは無意味ではなさそうだ。
私が専門とする古代哲学、端的にはプラトンやアリストテレスは写本の形でしか著作は残っていない。ルネサンス期以降、欧米で公刊された数多くのテキストは、そうした写本から、校訂者(編集者)がそれぞれの観点で最も妥当だと思う読み方を採用して、いわゆる原文を構成している。採用しなかった読みも、脚注の形=apparatus criticus(テキスト批判資料)として詳細に示される。
そうしたことは、Oxford古典叢書(英)やTeubnerの原典叢書(独)、Bude(仏)やLoeb(米)などの対訳本を少しでものぞいたことがあれば分かるはずだ。
さらに、古代末期以来の註釈書の記述によって補足しないと、原文の正確な意味を確定できない。この註釈書の厄介にならないと分からないという点が、理解や解釈に専門家を必要とする所以だ。註釈書は大半がギリシア語かラテン語(時にはアラビア語)で書かれており、出発点において素人と専門家の壁が厳存する。専門家には補足の自由と責任があるが、素人には主観的な解釈の自由という幻想があるだけだ。
研究者は他人の翻訳を頼りにあれこれ頭を悩まし、勉強する素人とは異なる。翻訳でさえ、どの原文を台本(テキスト)にするかで当然違ってくる。素人流に複数の翻訳を比較検討しても、肝腎のテキストを補足する力がないから、より厄介になるし、努力は労多くして報われない可能性が大きい。
原文で読めなければプラトンやアリストテレスを論じる資格がないとは言わないが、それは勉強であってとても研究にはならないし、本質的な限界と無知ゆえの錯誤を生む危うさが常に付きまとうことを忘れてはならない。翻訳もできるだけ信頼できるものを選ぶ必要がある。
「普通の人」は、盛んに篠田さんの九条解釈への主流派憲法学者の無理解を論難するが、篠田さんは専門の憲法学者ではなくとも、その実力、資質において彼らに充分伍してゆけるだけの見識の持ち主だ。私との遣り取りでの自分の無知と不見識を、篠田さんを引き合いに「至難の業」などと嘯くのは僭越の誹りを免れないだろう。
間違いだらけの過去の行状からみて、よくもまあ、平静でいられるものだと、感心する。
ゲーテよりも重要なこと。国内の分裂と内紛に苦悩した近世ドイツは1871~1918年の第二帝政期、官僚と軍閥を支配した封建的ユンカー貴族層と、それに癒着した富裕な重工業資本家とがKaiserの権威の許で「隔絶型」の支配様式で人民に君臨するという、政治学者ラスキの言を借りれば「近代技術の力を駆使する一八世紀国家」だった。この後進国ドイツの歴史は心理的に二つの大きな刻印を色濃くドイツの国民性に印した。
第一に多くの国民の政治的未成熟と政治的責任感の欠如であり、法律、伝統、慣習等の社会規範と権威に対する服従という心理的惰性、官僚組織の優越と議会=政党政治の未成熟であり、第二に、自由と人文主義的精神に溢れた教養市民層に際立つ文化と政治の乖離は、非政治性とナショナリズムの自意識過剰を招き、フランス語が18世紀まで上流階級で使用されていたという事情にも通じる文化的劣等感が、ナショナリズムによる過剰補償をもたらした、という政治学者の分析もある。
それでもドイツ民族の知の伝統が無視できない水準に達したのは多くのユダヤ人エリート層の存在を無視できない。数百万人の殺害と数千人の知識人、科学者の欧州からの追放は、ドイツに限らず今後ますます欧州文明にとって負の遺産となろう。逆に難民の大半を受け入れた米国の優位が当面は揺るがぬように。残念ながら、ドイツは昔日のドイツではない。身から出たサビだ。
ユダヤ系人材の国際的ネットワークの存在を見逃せない。東方ユダヤ人(アシュケナージ)と呼ばれるガリツィア地方を父祖の地とするユダヤ人は、ニューヨークのユダヤ人コミュニティーを形成して圧倒的な存在感を示しており、経済的成功を求めてウィーンやプラハ移住したユダヤ系の子孫がケルゼンや投資家のジョージ・ソロス、キッシンジャーである。
マルクスやフロイトはもとより、フッサールもカッシーラーやその師のヘルマン・コーヘンもジンメルもアーレント、ベンヤミン、レヴィナスも皆、同化ユダヤ人だ。オーストリアの鉄鋼財閥の御曹司ヴィトゲンシュタインもユダヤ系の人物である。遡ればカフカだって。
ナチスの蛮行はこうしたユダヤ系市民の知性も人脈も根こそぎ破壊した。戦後の「解放」を偽善的な政治家のように喜んでいる場合ではないのである。
失われたものは余りに大きく、目下読んでいる『純粋理性批判』を収める『カント全集』はカッシーラー版(1913年)で縦24㎝の大型本、コーヘンの『カント経験の理説』(‘‘Kants Theorie der Erfahrung’’)も同じ。出版元はベルリンのBruno Cassirer で今はない。〈完〉
なぜユダヤ人が優秀かは、もちろん一言で分析できるものではないですが、ユダヤ教と国際性が顕著な特性だと思う。ユダヤ教は考える力を育てるのに役立つ。
やはり明治時代の賢人たちがそうであるように、土台となる精神の上に本物の国際性が加わると尋常ではない人物になる。最近会った若者は、ヨーロッパの人間ですが、フランス語、ドイツ語、英語、日本語をネイティブレベルで話す。ヨーロッパ有数の大学の大学院に在籍して、今後イギリスや米国の大学院でも学びながら研究者になり母国に戻っておそらく教授職になるのだという。日本語でも漢字の読み書きには難があるが、会話していると日本人と話しているのと違わない。ただし、この若者はユダヤ系ではなくてフランス系と日系のハーフだったが。
池田信夫氏のブログにあった分野別の論文発表数の世界比較を見ると衝撃である。日本の大学は実社会で生きていけない左翼の逃避場所になっているようで、自由に見せかけて、ただだらだらしているだけ。封建的な徒弟制度が支配してるようで、さぞ不自由な場所だろう。比較的実力主義の理系は少し違うと思うが。
いつまでも、この繰り返しで騙し、騙しでやってきた。
こんなみじめなことをやっている日本は世界の笑い物になっていることを全く日本人が理解していない。外国人も無責任な変人だけが憲法のなかの非武装平和の理想を支持する。
日本国憲法の制定を一種の革命(8月革命)というなら、解釈改憲で自衛隊をつくったのも一種の革命だろう。あるいは「8月革命」に対する「反革命」とも見れる。もちろん自民党の政治家や良心的な官僚や学者は口が裂けても、そんなことは言うわけがない。あくまで民主的な手続きのもとで法的な合理性や連続性をも担保して決定しましたと言うに違いない。でも革命に対する反革命ととらえればわかる側面もある。平和憲法を踏み台にして日本で革命を起こそうとした左翼から、日本の主導権を取り戻そうとする革命だったのだ。その流れで理解すると田中耕太郎なども一種の革命戦士に見えてくる。ただの思考のお遊びではあるが。
まず、ドイツ文化はユダヤ人の貢献抜きにして考えられない例として、(アメリカ)で
原爆を開発したマンハッタン計画を主導したオッペンハイマーは移民ではないがユダヤ人だし、を上げておられるが、原爆を開発したことが、世界にとって本当によかったと、本気で考えておられるのだろうか?原爆が開発されなければ、広島、長崎の惨事もなかったし、今の北朝鮮の脅威もない。また、もし、原爆がヒトラー政権のもとにあったら、ヨーロッパはどうなったのか、を考えて記述されているのだろうか?
いい機会なので、ドイツの歴史をよく知るドイツ人の大学教授から教わったこと、学生時代に習ったこと、通訳や解説の仕事をした時に勉強したことをベースにドイツの歴史について書いたみようと思う。
ユダヤ人問題は、私も、卒論でマーラーを扱ったから、考えた。マーラーにしようと、と思ったのは、ユダヤ人だからという理由ではなくて、ただただ、音楽が感覚的にすばらしかったからである。ベートーベンやワーグナーの音楽がすばらしい、と思ったように。また、世界レベルのユダヤ人のクラシックの音楽家、演奏家は枚挙のいとまもないし、メンデルスゾーンやマーラーは、ドイツ文化を体現した作曲家だと現在も思う。
また、普通のヨーロッパ人の反応、マーラーがカトリックに改宗したのは、ウィーンの国立歌劇場の総監督になりたかったからだと、と揶揄されたし、メンデルスゾーンのおじいさん、アブラハムメンデルスゾーンの時代は、ユダヤ人だけ通行手形が必要であったし、1894年フランスでドレフェス事件が起こっている。そして、なぜ、ユダヤ人が第二次世界大戦前にポーランドに多かったか、の理由は、ヨーロッパの他の諸国から排除されたユダヤ人をポーランドが受け入れたから、と早稲田大学のエクステンションセンターに通っていた時、その専門の研究者から習った。それを口実にして、ナチスドイツの罪がなくなるわけではないが、キリスト教国のヨーロッパの人々のユダヤ人に対する一般認識がどういうものであったか、は押さえる必要がある、と思う。
という反時流的古典学徒さんの見解を私は共にしない。ドイツは、ワイツゼッカーさんの表現にもあるように、国土が、「回廊的な位置」にあったために、戦場になったり、分断されたりして、苦杯をなめてきた。
現在、ようやく、長年の夢、統合して民族国家になれたのである。今までの他国との人的交流、文化交流を元にヨーロッパの中心的な国として、ヨーロッパを引っ張ってくれると思う。ユダヤ人で、戦後ドイツに戻っておられる方も大勢おられると思うし、私の場合、親戚が異国に住んでいる人が多い、ということがあるのかもしれないが、自分が住みやすいところに住むのが一番だと思う。留学中のドイツ人の助言、「きっと、君はこのまま西ドイツにいたら、日本なら、と思うだろうし、日本に帰ったら、西ドイツなら、と不満を抱くだろう。でも、その国と決めたら、行ったり、来たりしないこと。僕は、それで失敗したのだから。」という言葉、は深いな、と今も思う。
今回の「ヘーゲルを尊敬」云々の気ままな感想は、およそ知的論議を交わす上で悪質であり、何より公共的儀礼の欠如を思わせる‘‘プロパガンダ’’の類いですから、事実を指摘してみました。
当該トピックスとの関連は常に留意しており、「普通の人」を相手にするためだけに投稿欄を使用するに忍びないので、問題をより広範かつ根源的な視点で考える視座を提供しています。前回と今回なら「反米主義」です。直情径行型の「普通の人」には何のことか分からないようですが、お気の毒という外ありません。
オッペンハイマーとアインシュタインの原爆開発への関与は、それを慫慂する意図はなくとも、第二次世界大戦後、代理戦争はあっても超大国間の武力衝突または戦争が回避されたのは、核兵器の存在を抜きに語れないことが重い事実です。その意味でユダヤ系の貢献は、Pax Americanaのもう一つの相貌です。核兵器禁止条約などのナイーヴな理想主義はパリサイ的偽善であり、道徳的には感傷にすぎません。
ドイツが欧州大陸の中原に位置するがゆえの歴史的アポリアーは今後も続くでしょう。ドイツ主導を嫌った英国のEU離脱という訣別も民主的選択にみえて、実体は文明論的な選択です。未だドイツに欧州の盟主たる資格はなく、先祖がドイツ系のトランプはそれを見抜いており、かの国民が本当に政治的に成熟できるかは、疑問です。
「ドイツの下層中産階級によく見られたように、彼らの政治に対する憎悪は底なしであり、ナチズムの破壊的エネルギーの主要な根源となった」という政治学者の分析は重い問いかけを残しています。
また、ドイツ主導を嫌った英国のEU離脱という訣別も民主的選択にみえて、実体は文明論的な選択です、と本当に考えておられるのだとしたら、どうかしている。もともと、英国は、文明論的選択をして、EUに入り、難民の割り当て、がいやで、EUをぬけた。そうしたい国は、現在EUに多いが、これは、ロシアがしかけたことなのではないのだろうか?EUの結束が乱れれば、一番得をする国はロシアだから。
元ジャーナリストなら、もう少し、時代に即応した意見表明ができないものだろうか?
ユダヤ人のことにしろ、同じであるが、キリスト教の道徳では、金融業に従事することは卑賤なこととみなされ、ユダヤ人が主に、その職業についていた。ウオールストリートに端を発する株価暴落、によって、経済的な危機にあったドイツ国民は、株の売買で利益を上げ、裕福な暮らしをしているユダヤ系金融業に対して、反感があったから、ヒトラーの主張が受け入れられ、ナチズムの破壊的エネルギーの温床になったのである。
自国の安全保障のためには避けては通れない国際平和活動に積極的に参加するのか、しないのか。冷戦後大国間戦争の可能性は低下したとはいえ世界の様々な地域では、民族や部族の対立を解決して国家を統合することができずに内戦や内戦状況を継続させている例が見られる。さらに、大規模暴力の形態としてのテロリズムの問題が大きく浮上してきた。もちろん北朝鮮は核兵器等の大量破壊兵器や、弾道ミサイルを保持し、周辺諸国との間で、武力の行使を辞さない姿勢を示したりする。そうした環境の中で素直に考えれば、日米同盟を更に実効性の高いものとして維持して行く事は必要であろうし、逆に大国依存主義に陥らない為にも、PKO等の国際平和活動の積極的参加、国際社会全体との協力をするための努力が必要とされている、と言う考え方はごく自然な物だと思う。国際的に理解されない「個別的自衛権の拡大解釈」をいつまでも捏ね繰りまわす労力を先ず止めて、集団的自衛権の行使及び集団安全保障への参加が憲法上禁じられていないとの立場をとれば根本的に解決する。そうなれば砂川判決が60年近くたって、なお論争の対象になる現実も無くなるのではないか。
「現代ビジネス」の投稿を拝読しました。篠田教授の文章はいつも腑に落ちて膝をポンとたたいて「なるほどな」と理解できる。
この最高裁判決については本ブログでも丹念に論点を整理していたが、既視感のある主張が簡明にまとめられており、ブログ読書以外で判決に関心をもつ一般読者の理解に役立つことを期待したい。
この点で特段付言したいことはないが、文中、立憲デモクラシーの会のメンバーで共産党支持者の白井聡氏について、「さらに白井聡氏になると、ベストセラー『国体論』(集英社、2018年)で、アメリカが田中(耕太郎)長官に「圧力」をかけ、田中長官が「おもねった」、といった描写で紹介した」と言及されていることに加え、昨3日夜、「国体」をテーマにしたBSフジの討論番組に出演して、持論の日本属国論を展開していたので、その根底にある意識されざる属国意識=隷属状態(奴隷状態)を、白井氏や多くの護憲派知識人に共通する、憲法九条というベールを顧慮するあまり米国と正面から向き合うことを忌避させ、確立した国際法規範への軽視に向かわせるに至ったいびつな認識の淵源について、私見を披露してみたい。
レーニン主義者である白井氏の場合、米国隷属論の論理的からくり=図式のアイデアは、ここでもまたヘーゲルではないかと考えられる。以前、『月刊日本』6月号での対談の発言(「国体が二度崩壊するという仮説は、もともとヘーゲルの「歴史的な大事件は二度起こる」という議論に基づいています」)を手掛かりに、ヘーゲルの歴史哲学のモチーフでヘーゲルも驚くような仮説を捻り出す典型的なアナロジーの論理を批判したが、今回の隷属論のネタ元は『精神現象学』の中の著名な「主人と奴隷論」ではないかと見定めて、以下考証する。それによって、ヘーゲルの肩車に乗った安易な図式的理解という名の俗説の実態が明らかになると思う。
『精神現象学』(‘‘Phänomenologie des Geistes’’)の筋立ては、感覚から出発して哲学的認識としての絶対知に至る意識の発展を叙述したもので、意識発展の六段階とは、意識(Bewusstsein)▼自覚(自己意識)(Selbstbewusstsein)▼理性(Vernunft)▼精神(Geist)▼宗教(Religion)▼絶対知(absolutes Wissen)、である。
第一段の意識はさらに、感覚(感覚的確実性=sinnliche Gewissheit)、知覚(Wahrnehmung)、悟性(Verstand)の階梯を上る。意識とは対象意識(gegenständliches Bewusstsein)。このうち第三段階のものの独立性を否定するのが悟性で、知覚がとらえた単なる外的な現象を超えて、概念によってものの背後にある力(Kraft)をとらえる。
悟性さらに自己意識即ち自覚(Selbstbewusstsein)の段階に至り、今までの感覚、知覚、悟性がすべて対象を認識する意識、つまり対象と意識とが対立して真理は対象の側に存すると考えられたのを、今や意識は自己を反省する自己意識となったことで、真理が対象ではなく自己自身にあることを意味するようになる。自分自身が対象となり、意識の対象と対象の意識とは相覆い、真理と確実性が一致する。
この段階に至って、自己意識にとって自己以外の者は真理として妥当しない。自己意識にとって対象は享楽の対象で自己意識の欲望(Begierde)を満足させるだけである。欲望は本来矛盾した性格をもつ、即ち対象の独立を否定すると同時に承認するからだ。自己意識に対して本当に否定的なもの(対峙するもの)は、ものではなく人になる。
人に対して立つのは他の人、自己意識に対して立つものは他者の自己意識である。欲望の満足ということを媒介として自己意識は人対ものの関係から人対人の関係に深化する。
独立性を有する自己意識としての主人性(Herrschaft)と独立を有しない自己意識としての奴隷性(Knechtschaft)の関係。主人は奴隷をものとして扱い、奴隷はものを作って主人に仕える。奴隷は労働し主人は享楽する。しかし、転機が訪れ、奴隷は主人に仕えるなかで欲望を抑えることを学び、制作活動を通じて自己の精神を造形することを修得する。足枷をはめられた状態ながら、自己の自由を知る。そこに自己意識の自由(Freiheit)が成立する。
ところで、思惟の自由を生活の原理としたのが古代のストア派(Stoizismus)であり、さらに現実を否認してそこに自己意識の自由を実現しようとしたのが懐疑主義(Skeptizismus)であった。懐疑主義は判断中止(エポケー,ἐποχή)すれば、心の平静(アタラクシアー,ἀταραξία)が得られると考えた。
この懐疑主義は一切の恒常性(不変的なもの=das Unwandelbare)を否認しながら自己の立場だけは不変的と考えるところに根本的矛盾がある。恒常的なるものと自己の個別性(可変的なもの=das Wandelbare)との矛盾が自覚されるようになると、「そこに不幸な意識」(das unglückliche Bewusstsein)が生じる。
ヘーゲルは古代没落期の精神=不幸な精神の内面劇を描きながら、不幸な意識の叙述は、失われた善への憧憬と、労働も享楽も不満足な状態、さらに自己自身に関する完全な断念を経て、断念した個体(可変的)にあって恒常的との調停を実現させる次の理性を志向する。
主人を米国、奴隷を日本と読み換えると、なぜ、日本人は米国への隷属状態から覚醒し、奴隷状態を脱却しないのか? 気づいて何もしないのは奴隷根性ではないか、という白井氏の苛立ちが沸点に達するのが分かる。
「世界ではどんな偉業も激情なしに成就されたことはない」(‘Nichts Grosses in der Welt ist ohne Leidenschaft vollbracht worden.’=『歴史哲学講義』)。その過程で特殊は滅び普遍は成就する。「理性自身は安全に背後にいて」、激情を自己の目的実現のための手段として駆使する。それは理性の詭計(List der Vernunft)である。
テレビ討論で見せた白井氏の確信に満ちた子供っぽい威嚇的言辞は、「革命青年」としての気負いなのかもしれない。
白井氏が解き明かした、日米安保を通じた米国の骨の髄までも食い込んだ日本支配の構図は、日本がそのまま米国の属国に堕するという、心情的ナショナリストには耐えがたい屈辱なのだろうが、究極的には革命戦士を目指す白井氏が愛国的なナショナリストのはずもない。
グローバル化で金融独占資本が最高段階に達した米国帝国主義に一矢を報いたいという、子供っぽい知的虚栄心が居丈高さと、どことなく落ち着かない挙措を伴ってテレビ画面の中で空回りしていた。平成最後の年に登場した空疎な鬼面人を驚かす体の政治的パンフレット『国体論』。どうやらそこに、ヘーゲルの理性の詭計(理性の狡知)はありそうもない。「国体の崩壊」など、ありそうもないし、すべてを見終えて、夕暮れに‘‘ミネルヴァの梟’’が飛び立つ気配もない。
『夏の夜の夢』とも言うべき白井氏によるヘーゲル亜流の観念遊戯。革命の伝道者が立憲主義や護憲を説くのも滑稽だが、それが現代日本の反体制勢力の戯画なのだろう。<完>
ここなんですよね、焦点は。またこの連中が滑稽なのは。
不思議と左翼は、なんとかかんとか理論を構築しようとして、一週して結局は反米右翼の考えているようなことと同じ位置に到着したということです。
でも、いくら彼らが傍証をあげて、その結論に誘導しようとも、まともな日本人が洗脳されるわけがないのです。
主人と奴隷とは何か。国民にもっとも影響が大きい経済では、米国は7兆円の対日赤字に苦しんでいる。主人と奴隷なら、すぐに是正できるだろう。
文化的にも、映画や音楽などを挙げると、日本は先進国のなかでも米国への依存が少ない部類に入る。
またその時代のもっとも強大な帝国の力を利用または連携して、2番目または3番目等の後続に位置して次の時代の飛躍を狙うのは、優秀な国家または民族が歴史的に採用してきた戦略でもある。日本人にそんな野望はまったくないだろうが。
それは他国や世界から見て、もっとも奇妙で「日本が奴隷状態にあるのではないか」と認識されうる点である。
それこそが米国の「占領憲法」を、特に実態と合わない憲法9条を、日本人が70年以上経っても自ら改正できないという点である。
つまりその9条を改正させまいとして、日本人を洗脳しつづけてきた左翼こそが、日本を一種の奴隷状態に仕立てようとしている張本人であることがわかる。ところが、倒錯した理論を構築して、日本人にそれを気づかせないようにしてきたわけだ。そして米国とそれに屈従する日本人を奴隷状態と見せかけることによって、左翼の醜さに批判ば向かわないように偽装している。
憲法学界が篠田さんが揶揄するように、 「砂川事件最高裁判決を客観的に分析しようとする勇気のある憲法学者は、もうなかなか現れないだろう」とか、「うっかり学会大御所の逆鱗に触れる砂川事件の理解でも述べようものなら、憲法学者としての生命を絶たれてしまうかもしれない」と本気で危惧する人間によって構成されているとするなら、学問を生業とする者の風上にも置けない唾棄すべき保身集団と蔑む以前に、誠に憐れむべきいじましい存在だということになる。もっとも、憲法学者は九条解釈ばかりやっているわけではないから、このアナロジーは限定的な意味でしか有効でないのは言うまでもないが。
それにしても、 「憲法学者が委縮してやらないとすれば、国際政治学者であっても、あえてやってみることに意味がある」と部外者に言わせたまま放置して、だんまりを決め込む学問的良心とは、一体何だろうか?
「(砂川判決は)統治行為論に類する考え方」といった程度の認識を示した論文を発表していた芦部信喜の弟子であり、現在の憲法学界(日本公法学会常務理事、国際憲法学会副会長)の指導的立場にある長谷部氏は、「砂川事件判決で示された議論は、統治行為論としては異形である」とする見解を明らかにしている、という(長谷部「砂川事件判決における『統治行為』論」=『法律時報』)。長谷部氏の弟子で砂川判決は「統治行為論」を採用したものではない、と述べる木村氏もなぜか歯切れが悪い。モリカケ問題で盛んに安倍首相を批判した「忖度」を学界内の権威に向けているからか?
しかし、より問題なのは、それが敗戦の紛れもない所産である憲法九条という政治的構築物が内蔵する本質的に不可避な難問(ἀπορία)なのか、それとも学界ポリティクスと裏腹の日本人特有のロゴス的不徹底さの表れなのか、その解明すら迷妄の霧に包んで糊塗ないし封印して、聊かも恥じることなき学界的権威の知的怯懦、怠慢である。それこそが、私がよく用いる修辞=憲法学の「窮状」である。問題自体の難しさは、知的怠慢や根強い集団的思考の言い訳にはならないからだ。
物語の語源であるミュートス(μῦθος=神話)は、プラトンが対話篇で言葉や理屈=ロゴス(λόγος)で充分に説明できない対象や領域を、譬え話(虚構)という形で説いたものであって、便宜的かつ暫定的なものながら物語は「真実」を告げていることを示唆しており、けっして最終的なロゴス的説明の放棄ではないことがプラトンのミュートスの特質であるということを以前にも指摘した。
破壊的ロゴスの威力であらゆるものを論じて倦むことがなかった古代ギリシア人のような強靭な論理と知性は、憲法学界には不在なようで、それがこの国の戦後が孕む知的不幸であることを憾む。
それに対して、護憲派は「立憲デモクラシーの会」に立てこもって、梁山泊ならぬ児戯に等しい抵抗運動に注力または韜晦している。
しかし、「法律家共同体のコンセンサス」は、カント哲学的に表現するなら、学界や法律家集団内部の実務上の要請(Postulate)に基づく実践的原則で主観的に妥当する格率(Maxime)ではあっても、学問の根拠ではあり得ない。
ましてや、頼みの綱の一つ「内閣法制局長官」が慣例に反した人事によって国際法専門家になると、立憲主義を破壊するクーデターであって、「それ以降の内閣法制局見解はすべて無効化される、といった複雑怪奇な」長谷部説は、ダブルスタンダードの政治的ご都合主義以外の何物でもない。
繰り返せば、「法律家共同体のコンセンサス」による法的安定性の最大限の尊重などという憲法論議の多数説支配は唾棄すべき集団的思考であって、学問の名に値しないし、現実の平和構築に何ら役に立たない。課題は仲間内の単なる共通認識ではない本来の学問的思考を良識、つまり現実的知慧につなげる回路だ。憲法学者にはそれがないから、学界アウトサイダーの篠田さんとの論争を忌避し続けている。
誠実な論争を呼び掛けた篠田さんは、成員以外による異議申し立て(道場破り)=制度化された秩序への挑戦者とみなされたわけで、篠田さんに与して擁護や論争はおろか、議論に加わる有為な憲法学者もほとんど見当たらない惨状は深刻だ。法哲学者や政治学者もほとんどいない。それはそのまま、九条解釈に関する限りこの国の憲法学は学問の名に値しないことを端的に物語っている。<完>
この主張の根本的欠陥は、9条1項後段の文言が「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と、戦争等を目的を限定して放棄するに過ぎないと定めていることを失念しているところにある。逆に言えば、国際紛争を解決する手段たる地位を有しない戦争等を、日本国憲法9条は放棄していない。条文を正直に、端折らず読む限り、このように解するしかない。
そして、9条2項が「前項の目的を達成するため」とあるからには、飽くまで2項による武力の放棄は、第1項後段の目的達成の手段に過ぎず、国際紛争の解決以外の形で戦争等を実行する実力を保持することは、憲法9条の禁ずるところではない。それを、現在のところ「自衛力」と呼んでいるが。集団的自衛権もまた、国際紛争の解決を目的とするものではないから、9条に違反しないと解するのが妥当である。
ワイツゼッカー演説の中にもあるように、歴史の真実を冷静、かつ公平にみつめ、人間はなにをしかねないのか、を歴史に学ぶこと、そうすれば、なぜ、日本の左翼的な人々、白井聡教授や、憲法学者やマスコミの人々も含むが、砂川事件を無視しようとするのか、理解できると思う。
戦後、日本の左翼系進歩的知識人は、第一次世界大戦時のソ連やドイツのように、「左翼革命がおこる」と期待していた。ところが、彼らの期待を裏切り、昭和天皇も退位されなかったし、米国の占領の後、日本は、55年体制下、消費生活が始まり、革命はおろか、左翼の政治運動は盛り上がらなかった。丸山真男も落ち込んだそうである。ただ一つの期待、それは、昭和35年に予想される日米安全保障条約の改定問題だった。そこに、政治運動の焦点をもっていこう、清水幾太郎も丸山真男もそれに動き始めた。
私が一番怒りを感じるのは、左翼系進歩的知識人たちの手法である。安保条約の内容、に問題があって反対するのなら、日本国民にとって意味がある。そうではなくて、拙速な強権的な岸の手法を批判し、反対を煽るのである。現在の安倍批判のように。今年の、憲法の日に、ヒトラーに似せた安倍首相のお面をかぶせたのが典型的な姿である。その姿を、「安倍政権が憎すぎてナチスと同一視する朝日新聞」agora-web.jp/archives/2034032.htmという古森義久さんのアゴラでの主張がなによりもそれを雄弁に語っていると思う。(これは、竹内洋著、中公新書の丸山真男の時代、大学・知識人・ジャーナリズムを参考にしました)。
時ならぬ投稿の主は「146. 通りすがり/ 08月01日」。
趣旨は一読即明瞭で「白井氏は左翼だ、というレベルの低いレッテル貼り・批判になぜこれだけの文字数…」という誠に安易な反撥のようだ。
「対米自立派」の見地から、白井氏や矢部宏治、孫崎享両氏を擁護したいらしい。肝腎の対米自立の中身は少しも明確ではないが、東アジアとの関係改善によりわが国の外交の立ち位置を修正し、件の三氏に倣って「対米従属路線をひた走る安倍政権」に物申したいようだ。東アジアとの関係改善の中身が全く不明なので評価のしようがないが、「アジアの一員」としてナイーヴな願望を述べている。
学術的な議論を装う傍ら、「政策的指針がない批判の為の批判」と篠田さんを批判するも、そのまま切り返されそうな稚拙な論法は学部学生レベルで、挙句「アカデミズムに相手にされない不満を世に訴える前に、こうした自らの姿勢を省みるべき」と‘‘ケツヲ捲る’’。如何にも「通りすがり」らしい捨て科白で、名は体を表すとはよく言ったものだ。
「絶対平和主義」などという戯言を臆面もなく披瀝するコメント3は、どちらがファンタジーか分からない能天気な思考停止ぶりで、言うべき言葉を知らぬ。
私など古典学徒を任じているが中身は元新聞記者よろしく擦れっからしで、やんごとなき出自の妻の軽蔑の眼差しを頂戴すること一再ではないが、歳相応の教養人としての口上は奮っていて、とてもこう粗野かつ野卑には振る舞えない。篠田さんの回答にみられる自制心(σωφροσύνη)は誠に立派で、改めて見直した。
見ている人は見ているものである。
‘μὴ ὑψηλὰ φρόνει, ἀλλὰ φοβοῦ. ’ (Προς Ρωμαιους, IX, 20)
コメント38の末尾、「 ‘μὴ ὑψηλὰ φρόνει, ἀλλὰ φοβοῦ. ’ (Προς Ρωμαιους, IX, 20)」は、(Προς Ρωμαιους, XI, 20)の誤り。
文字数の都合で割愛したが、「高ぶりたる思いを抱くな、却って懼れよ」(‘noli alutum sapere sed time’)の意。新約聖書『ローマ信徒への手紙』11章20節。信徒ではないが、もって自戒としている。
天皇機関説を排撃することで政治的主導権を取ろうとしなければ、マスコミの圧力で1935年の「国体明徴声明」の政府による発布がなければ、日本は、立憲君主国のままで、「国体問題」は大問題にもならなかったし、無謀な満州事変から太平洋戦争には突入しなかった。
昨日、「どうして、明治維新150年なのに、大規模な祝賀行事がないの?」とある事情通にきいた。すると、「明治維新に対して、歴史上マイナスイメージをもつ人もいて、歴史観が一定しないから。」という返事が返ってきた。私から見れば、「士農工商」の身分制度をなくしたということからも、「無血革命」、に近いということからも、英国の名誉革命と同じほどすばらしい革命だった、と思うのだが、やはり、明治政府と国体問題や教育勅語問題を一緒にする知識人、政治活動家、が日本には多くおられるのだと思った。
明治元年3月14日に発布された「五箇条の御誓文」を読んでも、「教育勅語」の口語訳を読んでも、天皇を中心として、という表現はあっても、現人神的表現は皆無で、民主的な政治作法の大切さが記されている、にもかかわらず。
国体明徴運動の際、篠田先生が3流という但し書きで例えられた「蓑田胸喜」の考えの違う大学教授への糾弾、誹謗中傷は篠田先生の様な客観的な冷静なものではなくて、感情的な憑かれたような話しぶりであったそうであるが、彼の主催する「原理日本」では、このブログで「オールドリベラル」として登場する田中耕太郎、河合栄次郎、滝川幸辰、美濃部達吉、などが軒並み糾弾され、東京帝国大学では、1938年「国体学講座」が新設される。そして、日本中の大学から、「天皇機関説」的な学問が追放されるのであるが、はっきり言って、これは、戦後も他の省庁と比較した時、いったいどうなっているんだろう、と訝ることが多い「文部行政」が悪いのではないのだろうか?
丸山真男さんの言説を丸呑みするのではなくて、自分で調べ、考えてみる「ソクラテス的学問の大切さ」をつくづく感じる今日この頃である。
砂川事件最高裁判決の直後、翌1960年1月の論壇誌は、当然のようにこの判決をめぐる論考や記事が目立つ。判決(大法廷)が「15対0」で原判決破棄を決定したのと対蹠的で、井上達夫氏流の惹句で表現すれば判決に抗議する「原理主義的護憲派」ら「正反対の違憲だけを集めて、逆にn対0の陣容を調えるのに大わらわ」(田中美知太郎)という皮肉な観察もあったほどだ。
メディア、この場合は雑誌編集者の「習性」がそうさせたのであろうことは想像に難くない。誰かの指示、音頭取りというよりは、日本人特有の集団的思考が如何なく発揮されたわけで、それが反体制の亜種である反最高裁の形をとったのだろう。今日に引き継がれているメディアの伝統芸である。まるで「弁護団側法廷弁論のくりかえしみたいなもの」と揶揄した田中は、古代ギリシアの法廷弁論でも見るような冷徹な目で、官学民、戦前戦後を問わぬ日本人の思想的弱点を衝いている。
こうした判決批判一色の大勢と対照的なのが、同じ論壇誌(『自由』)で、英米法に通暁した憲法学者高柳賢三が展開した「正気の」議論だ(「世界的にみた日本国憲法の性格」)。高柳は、篠田さんの『ほんとうの憲法』の読後感を自身のブログ日記上で公開している法哲学者の長尾龍一氏も指摘するように(「基本線は九条を宣言規定と見る高柳解釈」「篠田氏の議論が不思議にも棚上げしているのが、戦後憲法学が戦後日本左翼の病理の被感染集団であるという論点」=2017.6月26~27日)、篠田さんの正当な隠れた理解者が自由な立場の識者に少なくないことをうかがわせる。
高柳は今日からみてもバランスのとれた議論を展開していた注目すべき存在だが、衆寡敵せずで学界主流派から疎んじられ、無視された。憲法学界は原子力業界と撰ぶところはない風通しの悪いムラ社会だからだ。
逆説的だが、私は憲法学者はその見え透いた稚拙な政治運動にもかかわらず、有能な政治家を動かす思想の力を欠いている点で非政治的だし、真の政治的現実に向き合っていない点で致命的だと思う。九条改憲以外の危機意識は驚くほど低いこともその証左だ。
北朝鮮の核危機も、結局はこの異形の独裁国家が中国の憐れむべき衛星国でしかないことがトランプ大統領の一連の力業によってより明確になったわけで、核兵器は使用を前提とした兵器ではないという、国際政治学の常識が通用しない世界に生きている識者、インテリ層が、未だこの国に如何に多いか、暗然となる。
北朝鮮核危機の本質は、北が国力不相応の厖大な開発費用を回収するために技術、兵器が拡散すること、特にイスラム圏やテロ集団に流出することにある。それがなければ、北の核など高価な玩具にすぎない。正面の脅威はあくまで中国であるという事実は、一歩も動かない。
高柳は「日本国憲法は日本の改造を目標としたイデオロギー的、プログラム的色彩のつよい憲法である。その目標は自由主義的かつ福祉国家的な法秩序の建設にある。この点で基本組織法的色彩の強い明治憲法と著しくその性格を異にする」。それに対して「アカデミックな法律学者による憲法解説は、明治憲法の解説におけると同じように、分析的に、法実証主義的に、憲法を固定的なあるものとし、平面的な規範体系として描写し、よりプラグマチックな態度で、従って憲法を、動的なプロセスとして描写」していないと手厳しい。
この批判は篠田さん同様に根本的だ。
改めて広島原爆忌。たじろがず現実を直視したい。
世間は現金なもので、学術ジャーナリズム主導のリバイバル興業に追随した。むろん、そこに丸山自身の思想的インパクトの影響が全く介在していなかったわけではないが。篠田さんも認めるように、丸山は一流の政治学者であることは間違いない。政治的見解を異にする京極純一や永井陽之助が丸山を認めているのも、単に同じ東大政治学教室の教え子だったからだけではない。
ともかく、メディアの思想的伝統(正統)を形成しているのが、団塊の世代を中心とする特異な政治意識であり、失われた政治の季節への無批判な郷愁だったからかもしれない。今日に続くメディアの丸山礼讃は、とにかく自分の頭で考えることを避け、時々の流行思想や支配的言説に過敏に反応しつつ無自覚に(無節操に)に依存するという媒体(メディア)の本性と不可分の権威主義、事大主義が、イデオローグ・丸山に投影されたものだ。
少し野暮ったいが優れた文章家でもあった丸山は元々メディアと親和性がある一方で、メディアの丸山理解は一面的で紋切り型だから、その憲法観、安全保障論議は安保闘争時の丸山の不見識と挫折にとどまったままで、憲法学通説に依拠する立憲デモクラシーの会のメンバーと共通する。恐るべき知的停滞で、丸山だけの責任ではないのは言うまでもない。
それにしても、「8月15日」の死とは、肝臓がんの悪化によるものだから、予め企図されたものではないにせよ、極めて象徴的なものだ。
ナチスの蛮行(人種絶滅政策)は確かに表向きは断罪された。言い逃れができない規模と周到な計画性、「ガス室」に象徴される身の毛もよだつ残虐性が計算と管理、技術的冷淡さ、官僚機構特有の無機質な目的合理性と同居する圧倒的現実として厳存するからだ。それは戦争犯罪の域を超えている。
そこにあったのは物化された死であった点で広島、長崎の惨劇も重いが、実行した米国の責任は問われぬままだ。戦後の保守政権が選択した米国との和解は、すべてを過去の例外的な蛮行として歴史の彼方に押しやったとはとても思えないし、沖縄と並んで燻ぶる反米感情の温床になっている。
ジェノサイド(génocide=民族大量虐殺)、ホロコースト(holocauste=「丸焼き」)、ショアー(Shoah=ヘブライ語で「破壊」)と並ぶと、59年前の砂川判決さえ、正面から受け止めきれずに統治行為論で事態を糊塗している日本の憲法学主流派が如何にも卑小な存在にみえる。そこにあるのは、紛れもない日本人の思想的脆弱性であり、絶対平和主義なる物語思考から一歩も抜け出せず、冷戦後の国家戦略を国民的合意として充分打ち出せていない政治的貧困につながっている。
政治的陰謀論を振りまく党派的人物や、その提燈もちに終始する一部メディアも唾棄すべき存在だが、それを最終的に許しているのは、外ならぬ国民である。メディアを軽蔑し憎悪しても、軽蔑すべきメディアしかもてないという逆説の意味を改めて噛みしめたい。それが、私の原爆忌の観想である。
例えば、最近の安倍首相に対する世論調査、NHKのにしようかと思ったが、もっと衝撃的な結果があったので、週刊ポスト8月17・24日号にしたが、記事は、安倍晋三首相の評価は先人たちと比べてどうなのか──について取り扱っていた。政治記者・評論家・学者52人に実名アンケートで「戦後歴代最低の総理大臣」を調査した結果だそうであるが、1位:菅直人、2位:安倍晋三、3位:鳩山由紀夫、4位:宇野宗佑、なんと安倍晋三さんは2位にランク付けされている。安倍首相のどこが「日本をダメにした」と評価されたのか。
「三権分立を壊すという、とんでもない政治を行なっている。国会軽視、官僚は萎縮、そして政権に対するチェック機能を潰してきた。あげく、司法にも人事で介入する始末。第4の権力とも称されるマスコミにも、圧力を加えてナアナアの関係を築いた。つまり、戦後の立憲主義を破壊した」。
この見解は本当なのだろうか?彼は、きっと前原元次官問題を含めて、安倍首相の文部行政に対する不満がその根底にあるのだろうが、「まともな見識のある文部行政をよく知る人物」として、マスコミのワイドショーに出ずっぱりで、批判を繰り広げている。「ゆとり教育」を含めて、「彼の主張がまとも」だと思えることは少ないが、政府首脳がそう批判すると、マスコミに圧力をかけた、と彼はテレビを通じて主張する。
「私の専門である組織論の観点から指摘すれば、安倍政権は内閣法制局長官、NHK会長などへの人事に介入し、自民党がこれまで恣意的な人事権行使を自制することで保たれていた権力のチェック機能を壊した。安倍政権をチェックするシステムをなきものにすることで批判をできなくしたのは民主主義を破壊する行為といっていい」
今私は、時間の余裕があるから、政治や歴史、果てはソクラテスにいたるまで、疑問があれば調べたり、読んだりができるけれど、OL時代というのは、会社の仕事と家事で精一杯だった。仕事に関しては、もちろん、経済紙、業界紙を読むが、どちらかというと二の次的な政治についての情報源は、反時流的古典学徒さんのあげられるような高尚な七面倒くさい雑誌ではなくて、週刊ポストのような週刊誌の記事か、テレビのニュースになる。それが、学歴を問わず「普通の人」の日常なのではないのだろうか?
そういう場で、「中立公平無私」、かのような体裁で上記二人のようなコメンテーターの主張が続くから、日本の世論はミスリードされてしまうのだ、と私は確信している。また、「言論、報道の自由」があるから、メデイアの規制もできない。
どのようにすればまともなメデイアをもてるのか、という有効な解決法がないことが、日本の一番の社会問題のように私には思える。
早朝から興奮して、そういきり立つものではないとご諫言申し上げたうえで、せっかくの「御下問」ですからお答えしましょう。
「政治的陰謀論を振りまく党派的人物や、その提燈もちに終始する一部メディア」で念頭にあったのは、差し当たり前者は白井聡、矢部宏治、孫崎享の三氏、後者はフリージャーナリスト田原総一朗、元共同通信の後藤謙次、青木理の三氏、組織なら朝日や東京、TBS(土曜の「報道特集」=キャスターは金平茂紀氏)です。
世間的には一定の評価や過去の履歴careerから見てそれ相当の見識を期待できそうでも(例えば孫崎氏は元外務省条約局長)、せっかくの学識や職能の使い方を知らない歪んだ党派的世界観、政治的認識の人物が紛れ込み、あたかも主流派の観をなしているのはよくあることです。メディアや学術ジャーナリズムの世界は狭いムラ社会だからです。同業者として仲間討ちしないための彼らの身内意識を示す共通認識は、大方は学歴信仰であり、共通言語は丸山真男であり、柄谷行人です。非主流の毛色の変わった向きは吉本隆明であり、廣松渉です(柄谷、廣松両氏には迷惑でしょうが…)。実に詰らない見かけ倒しの自他への優越意識と組織を背景にした特権意識がその根底にあります。
田原総一朗氏は岩波映画出身で東京12チャンネル時代に頭角を現した人物ですから、既存メディアの外縁にありけっして主流にはなりませんが、周囲に右顧左眄しない破天荒でアウトサイダー的な実績(「朝まで生テレビ」も)が評価され現在の地歩を築きました。
しかし、実体は「突撃取材」が取り柄の典型的な現場主義の下士官タイプの人物で、特段の見識など期待できません。一知半解の徒の典型です。最近は何やら偉くなったと勘違いしている「裸の王様」風で、聴く耳をもたないでしょうが、「ニュースは面白ければいい」式の暴走で晩節を汚さないよう忠告したいくらいです。
メディア人にもそれぞれ知的な「お里」(信条や信仰の対象、根拠)があります。独立した自前の思考の持ち主は皆無に近く、虎の威を借りるのを特技とする習性が、似而非知識人としてのメディア人を生むのです。取材=「人の頭で考える」を習い性にした宿命で、独立したSelbstdenkenから最も遠い存在ですから、あまり長居するものではないと私は14年余りで辞めました。
凡百のメディア人の見識など高が知れており、機会があれば得意のドイツ語でいろいろ質問してみればよいのです。
私なら、アウシュヴィッツ(Auschwitz)はオシュフェンツィムというポーランド南西部の都市のドイツ語名だが「ご存知か?」とか振って出方を待ち、ジェノサイド(génocide)は、ギリシア語で人種の意味のゲノス[genos=γένος]とラテン語の接尾辞[coedes]の合成語であるとか、フランス語ではjudéocide(ユダヤ人虐殺)ともいうこと、ホロコースト(holocauste)は1950年代末に生まれた造語で、ギリシア語起源の12世紀のラテン語‘holocaustum’= 「丸焼き」に由来し、ユダヤ人には生贄となる犠牲者が集団儀式中に焼かれる神への供物を意味し、神罰とか殉教による贖罪の観念を含むから、歴史認識には不要な連想を伴う点でも問題があり、ヘブライ語で「破壊」を意味するショアー(Shoah)の方が適切だとか言って、相手がどれだけ知的に誠実な人物か判断します。
七面倒臭い奴だと逃げ出すか誤魔化す相手なら、相手にする必要はありません。その程度なのです。
いずれにしても、現職にはいつの時代も点が辛いものです。この種の識者アンケートに唯一利用価値があるとすれば、意外な人物が安倍首相を評価し、まともな良識ある人物だと思っていた識者が、いかに偏頗な政治観の持ち主であるか、表向きの回答では窺えない底意、認識の程度を知る手がかりとなることです。軽率にアンケートに答える識者は大概、凡庸で陳腐な人物です。政治的アンケートの大半はメディアによる誘導尋問で、政治闘争の一環として利用されます。
「三流官庁」のスポークスマンである元文部官僚・寺脇研氏の指摘は編集者に迎合した見当違いな俗論です。「前原元次官問題を含めて、安倍首相の文部行政に対する不満がその根底にあるのだろう」との貴所の指摘はあながち的外れではないでしょう。
なお、「前原元次官」ではなく、「前川(喜平)元次官」です。気をつけましょう。
裏芸とも言えなくなった得意の映画批評をアピールするためメディアに気遣い、ついでに稼ぐため出演が増えているのでしょう。それはそれで、商業ジャーナリズムの世界では当然の出来事で、相互に利用しあっているのです。
元NHK経営委員長代行の上村達男氏が指摘する政治手法への反撥も一面的な見方で、「安倍政権が人事権を濫用して民主政治家としての“禁じ手”を使っている」とまでは言えません。安倍首相が従来の日本的=永田町的、霞が関的合意形成の慣行をそれほど重視していないだけの話です。
日本的良風美俗に頓着しない首相の感覚が、既成エリート層の神経に障るという程度の話で、安倍氏は正当な民主的手続きを経て選ばれ、革命政権ではないのですから。
最後に、正確な情報を取得するには暇も金も必要です。新聞を複数併読することが有効な時代がありましたが、それだけでは池上彰氏程度の雑識しかもたらしません。真の識者を探し当てる捷径はなかなか見当たりませんが、論壇誌も必要なアイテムです。しかし、活字文化の衰退で論壇誌はもはや絶滅危惧種であることを思うと、ネット上の言説を併用するしかないようです。これは、貴所のようにDer SpiegelやThe Japan Timesも読めない(読まない)、市井の「普通の人」にも可能な努力です。<完>
余白に。
現代の大衆社会における政治意識の特徴は、第一に圧倒的多数の政治的無関心(apathy)、第二に19世紀のモラライザー(moralzer =D. リースマンの説いた内面志向型の政治スタイル)のもっていた「実力と情熱のバランス」の崩壊、第三に政治参与の発条としての自己利益(selfinterest)の消滅。
その一種である慷慨型(indjgnants)は、近代の内面志向型が大衆世界に適応しえず、フラストレーションに陥り、それを異常な道徳的公憤というスタイルで、その攻撃性と憎悪の情動を政治に投射するタイプで、旧中間層(中小企業者、銀行家、小売商人)によくみられる。異常な公憤、病的な不安懊悩、そねみ、憎悪などをもち、彼らの放出する政治的エネルギーは極めて高い。その異常性が亢進すると、「血も凍るような悲憤型」(curdled indjgnants)が生まれる。かつてドイツの下層中産階級によく見られ、政治に対する憎悪は底なしであり、ナチズムの破壊的エネルギーの主要な根源となった(永井陽之助『政治意識の研究』)。
貴所にその懸念はないはずですが、大衆メディアを憎悪するあまり陥りやすい陥穽であり、もって自戒としたいものです。
また、勝手に私がDer SpiegelとThe Japan Timesを読んでいない、と決めて下さっていますが、確かに、ジャパンタイムズは読んでいませんが、Der Spiegelは読んでいますよ。ドイツ語の勉強会の教材を選ぶ係なので。また、今は、リアルタイムで記事をスマホで読めます。なかなか興味深い、例えば、ポーランドやサウジアラビアについての記事が並んでいます。
そういう長い間のドイツ文化、ドイツ人との交流を経ている私にはとても前提条件抜きでの永井陽之助さんの意見に同調できません。つまり、その一種である慷慨型(indjgnants)は、近代の内面志向型が大衆世界に適応しえず、フラストレーションに陥り、それを異常な道徳的公憤というスタイルで、その攻撃性と憎悪の情動を政治に投射するタイプで、旧中間層(中小企業者、銀行家、小売商人)によくみられる。異常な公憤、病的な不安懊悩、そねみ、憎悪などをもち、彼らの放出する政治的エネルギーは極めて高い。その異常性が亢進すると、「血も凍るような悲憤型」(curdled indjgnants)が生まれる。かつてドイツの下層中産階級によく見られ、政治に対する憎悪は底なしであり、ナチズムの破壊的エネルギーの主要な根源となった(永井陽之助『政治意識の研究』)。
私は、メデイアを憎悪している、というよりも、メデイアの歪な世論誘導に危惧を抱いている。以前、ユーゴ紛争のテレビ番組で、メデイアに煽られて戦争を始めてしまった、という感想を述べておられた女性がおられたが、考えてみれば、戦前の日本にしろ、メデイアの誘導で、「国際連盟を脱退したこと」が正義だと考えられ、「鬼畜米英」だと日本国民が信じ込んでしまったのだから。
Der Spiegelを読んでいると以前、コメントに書いていたのは貴所自身です。記憶にないですか? 私は誤読はしません。固有名の誤記も変換ミス以外はまずはありません。
The Japan Timesは読んでいないそうですが、あの程度の英語、貴所ならわけなく読めるはずです。貴所が敬愛されている、楠山義太郎氏は確か戦前、毎日社内で孤立し、重光葵に請われて一時期(1943年4月)、社名変更のNippon Times社長に就任しており(44年には上海タイムス社長兼務)、一度や二度はお読みになったことはあるはずですが…。まあ、それはよいでしょう。The Japan TimesをThe New York Timesにしても、趣旨は同じです。
いずれにしても、貴所はドイツ語も英語も簡単には読めないし、特殊な事情でもなければ読もうとも思わない市井の「普通の人」ではないことは明らかです。
永井陽之助氏の分析は、永井氏自身の見解と、英米独の政治学者、心理学者のほぼ一致した見解を紹介したもので、反論は容易ではありませんよ。ドイツ人が、ドイツ人というだけで最もよく第三帝国時代のドイツを知っているとは言えません。事実と知っても彼らはなかなか老獪であり、よくも悪くも狡猾です。市井人も頑迷です。ユダヤ人問題はとりわけ。
貴所はあまり誠実な方ではないようですね。
ナチスドイツのユダヤ人大量虐殺と並び、その戦慄は紛れもなく前世紀に離陸した西洋科学技術文明に内在する基本的経験であって、唯一の戦争被爆国の経験が示す悪魔性、ほんの僅かな誤算からいつでも起こり得る人類滅亡の核戦争の脅威を示す最初の黙示録的惨事にあるのではない。
国際法違反のこの「犯罪」を忘れぬため、戦争という悪を告白し続けることは大切だが、核兵器という「悪魔」が、科学技術信仰とともにある文明のもう一つの所産だということを見落としてはならない。文明が到達した非人間性の頂点が、残忍で悪意に満ちた特定の国家や指導者の意図だけで現実化した訳ではない。
呪術からの解放が工業化された虐殺に「退行」する衝撃。ヒロシマ・ナガサキとアウシュヴィッツとを並べ、人類が以降、不可避的に自己破滅に陥り得る新時代の扉を開いた。啓蒙の自己破滅の象徴とみた亡命ユダヤ人思想家らの警告は、科学技術文明の嫡子としての道具的合理性の負の破壊力に注がれている。野蛮は「近代的、技術的、工業的文明」のAntitheseではない、と。
平和への祈りと同じくらい「ヒロシマを思考」すること。一挙に人類を滅亡させかねない大量破壊兵器の極北にある核にのみ黙示録的恐怖を募らせ、航空機や爆弾を抱えた人間そのものが凶器と化する犠牲の構図に目を背けることは、死への無感覚に通じる。
日本人の平和への思考を規定してきたのは、先の戦争で味わった途端の苦しみに基づく「戦争は、もう二度と御免だ」という心情と、憲法の戦争放棄の思想だろう。しかし、その平和主義が世界を少しも動かさないのはなぜか。
砂川判決の思考停止もまた戦後日本の自画像だ。
ただ、ドイツ人が、ドイツ人というだけで最もよく第三帝国時代のドイツを知っているとは言えません。事実と知っても彼らはなかなか老獪であり、よくも悪くも狡猾です。市井人も頑迷です。ユダヤ人問題はとりわけ、などと私は到底思えないのです。よく、西ドイツの学校では第二次世界大戦のことをよく勉強するのに比べて、日本の学校では、と批判されましたよね。でも、それはよく考えると自然です。
ドイツ人は罪のないユダヤ系の市民を大虐殺したことによって、加害者とみなされたのと違って、日本人は、戦争への突破口は日本が米国を攻撃したことだけれど、米国政府に罪のない広島、長崎の市民を標的に原爆を落とされたという被害者の側面がありました。人類は有史以来、幾度となく戦争を起こしていますし、歴史という意味のドイツ語Geschichteのもう一つの訳に、空虚な物語、という訳があるほど、歴史は勝者の都合で書かれていることが多い、とみなされてきました。ただ、第二次世界大戦は、証拠や証言によって裁かれたニュールンベルグ裁判、東京裁判があり、現実にあったことをなかったことにする、ということができなかった。「ホロコースト」と呼ばれるユダヤ人強制収容所での惨事がなかった、ということにすることはできなかったのです。そして、その凄惨な事実が、マスコミを通じてヨーロッパ中に大々的に報じられ、ドイツ人とアウシュビッツは切っても切り離されないものになってしまった。そのために、ドイツ人は自分の国籍を知られないために、パスポートを隠さなければならなくなった。
日本の場合はそうではなかった。戦後、戦前財界で活躍した祖父は経済パージを受け、実業界から追放されたので、社交の為に使っていた洋館を関西に勤務する外国人に貸していた。私が生まれた時、オーストラリア人家族が住んでいたそうであるが、その方から、私は銀の腕輪をもらった。敵国人であるはずのオーストラリア人に。
戦後すぐ、その洋館で、祖父は国際派のジャーナリスト、NHKのワンマン会長であったとされる前田義徳さんや楠山義太郎さんなどを招いて、なぜ、日本は戦争を始めてしまったのか、を話し合ってまとめたそうだ。高度な内容だった、と傍で拝聴していた父は言っていたが、それしかわからないし、資料も残っていない。それが残っていれば、実地でヨーロッパの取材をされたジャーナリストの指摘だから、貴重な資料だったのに、と残念だ。
そういう理由があるからかもしれないが、永井陽之助氏の分析は、永井氏自身の見解と、英米独の政治学者、心理学者のほぼ一致した見解を紹介したものだ、としても、私には、ベルサイユ条約の不公平、極度な経済的貧困、と生活の不安、という前提条件をつけないで、ただドイツの旧中間層(中小企業者、銀行家、小売商人)が、異常な公憤、病的な不安懊悩、そねみ、憎悪などをもち、フラストレーションに陥り、それを異常な道徳的公憤というスタイルで、その攻撃性と憎悪の情動を政治に投射する傾向にあるから、ナチスドイツが誕生した、などという結論を到底受け入れることはできない。
たとえ日本が焦土となっても! 満州国承認へという声明を出した内田外相と同じように、このような作戦を命令した人格に、非人間性、異常さを感じた。
そんな私を、5日の日、お施餓鬼をしてお寺にお迎えにゆき、お盆で地上に戻っているはずの、お先祖様、祖父母、両親はどうみているだろう?
当該の箇所「貴所のようにDer SpiegelやThe Japan Timesも読めない」は、「貴所のようには」と「は」の一文字を加えておけばより明確だった、と思わないでもない。日本語は必ずしも非論理的言語ではないが、微妙なニュアンスの違いが文意全体に影響しかねない側面があり、文脈で一目瞭然だからと安閑としていられないケースがあるということ。私など、元ブンヤの習性でこの投稿一本分(800字)を25~30分で一気に書き上げるから、気をつけないと、と再認識した。
誤読はしない私でも、固有名ではないものの、WeltgeschichteがWeltgeschichiteと[i]一つ余分になっている始末で、あまり偉そうなことを言えない(4日のCom. 29)。気息記号が必要なギリシア語表記ほど留意しないからだ。
歴史のGeschichteは元々は「出来事」の意味で、動詞[geschehen]=「起こる、生じる」に由来する。歴史や物語を意味するHistoryはもともと探求、追究を意味するギリシア語の[ἱστορία]=ヒストリアー([ἱ]は有気音で[hi])に由来し、羅英仏西伊の各語はその変形なのに、ドイツ語だけは異なるのは面白い事例。
ドイツ人の政治的性向についての政治学者の分析については、ナチズムの研究の一環として膨大な研究の積み重ねがあり、当事者のドイツでも1986年夏から、ナチズムとドイツの「過ぎ去ろうとしない過去」をめぐって、論壇に留まらず政治家や経済人、一般市民を巻き込む大論争となった。‘‘Historikerstreit’’ , Die Dokumentation der Kontroverse um die Einzigartigkeit der nationalsozialistischen Judenvernichtung, München, 1987(Piper).はその記録である。
要するに、ナチスの犯罪はスターリンの大量粛清やポル・ポトの大虐殺など比較し、相対化しうるか、という重い問い掛けだ。
第一次世界大戦後の世界秩序を決定したパリ講和会議で、ドイツに課された厳しい制裁と莫大な賠償はよく「カルタゴ式講和」と称され、それが逆に戦後の欧州に構造的緊張関係をつくり出す大きな要因になった。
英国政府全権団の一員として会議に参加した経済学者ケインズは、将来に禍根を残す過酷な講和内容に抗議して、会議半ばで大蔵省主席代表を辞したほどだ。その後の歴史を見れば明らかなように、ケインズの懸念は的中する。『平和の経済的帰結』を上梓して、講和条約案を厳しく批判して、欧米各国に激しい論争を巻き起こした。その舞台裏、米英仏の三首脳を精彩ある筆致で辛辣に描いた。
話は逸れるが、そこにみられる冷徹な現実感覚の欠如が、思想的脆弱性と相まって最高裁砂川判決にみられる不毛な論争であり、59年後の今日もなお、批判的再検討を拒む硬直した護憲派勢力の知的頽廃という宿痾の根源になっている。篠田さんとの論争を厭うその姿勢を見て、つくづく思う。紹介するのは、「羊皮紙の無感動な顔」と形容されたフランス首相クレマンソーの仮借のなきドイツ観である。以下、引用する。
クレマンソーはフランスについて、ペリクレスがアテーナイに対して感じていたこと、つまり、他のことはどうなろうとも、ただ二つとないアテーナイの価値ということ、を感じていた。だが、彼の政治理論はビスマルクのそれであった。彼にとってフランスは一つの幻影であった。そうして人類は、フランス人や同僚たちも何ら例外ではなく、彼にとっては幻滅であった。彼の講和に対する原則は簡単に述べることができる。まず第一に、彼はドイツ人の心理について、次のような心理を真っ先に信じている人であった。
(中略)彼の哲学には、国際関係について「感傷性」の入り込む余地はなかった。国とは現実的なものなのであって、人はその中の一つを愛し、それ以外の国には無関心か、それとも憎悪を抱く。愛する国の栄光は願わしい目的ではあるが、それは普通は隣人の犠牲においてのみ得られるものなのだ。(中略)このたびの戦争について、あるいはこの戦いの目的について、格別新しく学ぶことなど何もない。イギリスは、過去のどの世紀にもそうしたように、商売敵を打ち破ったのであり、ドイツの栄光とフランスの栄光との間の、積年の争いにおける大きな一章が閉じられたのであった。
抜け目なく立ち回るには、愚鈍なアメリカ人と偽善的なイギリス人との「理想」に対して、いくらかでも口先だけは賛意を表することが必要であった。しかし、現実の世界において、国際連盟のような事柄に対して大きな余地があるとか、あるいは民族自決の原則のうちに、自国の利益のために勢力均衡の再取り決めをしようとする巧妙な方式として以外に、何らかの意味があるなどと考えたら、それは馬鹿げたことであったろう。(大野忠訳『人物評伝』を一部修正)
1920~21年、大戦後最初の恐慌が日本を襲い各国に波及。23年から世界経済は上昇局面に転じるが、そこに再び襲ったのが29年の米国発世界恐慌でドイツを一気に呑みこんだ。
砂川事件最高裁大法廷判決の補足意見から明らかなとおり、15人の最高裁裁判官の意見は一様ではありませんでした。法廷意見は、「積極的合憲論」、「純粋な統治行為論」、「政治的裁量論」に分類される3種の意見の「カクテル」(尾吹善人・解説憲法基本判例46頁)のようなものになっているとして「変則的統治行為論」と分類されています(新正幸・憲法訴訟論(第2版)299頁以下)。篠田先生が引用する(故)芦部信喜・元東大法学部教授、「砂川事件判決で示された議論は、統治行為論としては異形である」と評する長谷部恭男・早稲田大学教授も、同じ趣旨と思われます。木村草太・首都大学東京教授の主張は、集団的自衛権の行使容認は「一見極めて明白に違憲無効の場合」に該当するから統治行為論が適用されないという極めて主観的な議論のように思います。
憲法判例百選の「統治行為論的」との浦田一郎・一橋大学名誉教授による判例評釈については、法廷意見が「一見極めて明白に違憲無効の場合には」司法審査が可能という例外を前提としており、「純粋な統治行為論」ではない留保付きの「変則的統治行為論」という趣旨で「統治行為論的」と「的」をつけているのであり、「純粋な統治行為論」を主張する趣旨ではないように思います。ちなみに、「純粋な統治行為論」の最高裁判例としては、衆議院解散に関する苫米地事件が有名です。
なお、再審請求で公電の翻訳に関して裁判所が言及しているのは、専ら刑事訴訟法の解釈論を判断した東京高裁決定ではなく憲法37条1項の「公平な裁判所」かどうかについて判断した東京地裁決定の方ではないかと思います。
http://datehanketsu.com/20171115_kou.pdf(東京高裁決定)
http://datehanketsu.com/chisaikettei.pdf(東京地裁決定)
「変則的統治行為論」という用語についてですが、衆議院憲法調査会事務局の資料にも出てくる概念なので(下記の10頁)、ある程度、流通している概念のようです。ただ、元々は憲法学界で流通している用語と思われるので、その扱いに注意を要するのは、ご指摘のとおりと思います。その意味では、「一見極めて明白に違憲無効の場合」には例外的には司法審査を許容した留保付きの統治行為論である点を明確にする意味で、「留保付き変則的統治行為論」の方がより適切・相当な表現なのかもしれません。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi004.pdf/$File/shukenshi004.pdf
https://www.mc-law.jp/kigyohomu/10871/
白井聡氏や矢部宏治氏などの所謂対米自立派の方々を著作の主張を正確に引用せず(対米自立派なのですから東アジア外交を重視してアメリカと距離を取るべきという主張が背景にあるのは当然です)、「政策的指針がない」「ただアメリカとアベを否定」などと批判している方からそのようなお言葉を頂戴するとは思いませんでした。
自衛権を巡る議論では井上氏の9条削除論は市民権を得ていると思いますし、このブログのコメント欄でも修正的・原理的護憲派という井上氏独自の言葉が当たり前に使われているので通用しているのかと思いましたが、あなたに反対意見を述べる場合は改めて引用しなければならないのですね。
ただ私が書いているような「9条は絶対平和主義に基づいて書かれており、生存権・幸福追求権で個別的自衛権を説明する修正的護憲派のやり方は無理がある」というのは井上達夫氏のご意見なのは当然ご存知でしょうから、こちらの意見そのものに答えるのではなく書き方を否定するという反論をされたのでしょう。
この失敗に懲りて、戦争は、悲惨な経済に起因するという確信の元、米国はマーシャルプランを牽引し、フランスは、国際連盟の事務次長を務めた実業家、ジャン・モネと仏外相であったロベール・シューマンが1950年、EEC構想を発表する。そして、戦争の原因になりやすい天然資源の問題を協調して解決するために、仏、西独、イタリア、ベネルクス三国によるEEC(欧州石炭鉄鋼共同体)が設立されるのである。それが、今日のEUの基礎である。
つまり、国際社会の平和、日本の平和と、日本国憲法9条とはあまり関係がなく、戦争は、経済状況、国民の不平、不満によってもたらされるのである。日本が米国に無謀な戦争をしかけたり、満州や東南アジアを侵略したのも、天然資源の確保、が主な目的だった。楠山義太郎さんの「日本は天然資源のない国だからね。」という言葉が、今でも耳に残っている。
日本国憲法は絶対平和主義に基づいて書かれたものではなくて、「国際協調主義による平和」を達成する悲願に基づいて書かれたものである。それは、東大系の憲法学者の方々に揶揄され続けておられる、衆議院に設けられた帝国憲法修正小委員会の委員長、芦田均さんの「新憲法解釈」を読めば、明らかなのではないのだろうか?
「単なる非難のための非難であればコメントはしないでください」――貴殿はこの言葉に示された篠田さんの寛闊な作法が理解できますか? 真に言いたいことがあるなら、何も井上達夫さんの袖の下に隠れていないで、さらに白井聡氏や矢部宏治、孫崎享両氏を騙らず、堂々とご自分の思うところを、引証をしっかり行ったうえで、条理を尽し展開したらいいのではないですか。
それには、あくまで「単なる非難のための非難」ではないという前提(マナー)で、「篠田道場」の門戸はいつでも開かれています。篠田さんの雅量に感謝して下さい。ご希望であれば、コメント36で言及したご縁で、お相手しましょうか?下手な理屈だと、事と次第によっては絶滅の態にかける批判をお見舞いします。その際はぜひ、commentaryは貴殿のような気ままなessayではなく、articleでありtreatise でお願いしたいですね。essay、つまり気ままな感想や雑感ならもう少し上品に願えませんか。
井上達夫さんは私も何度か言及しましたが、氏の九条削除論は論理的には一つの見識です。しかし、その拠って立つ九条解釈は、まことに古風な原理主義的護憲派的な通説そのもの。それに耐えられないからこそ九条削除論という外科手術的解法を示したにすぎません。絶対平和主義なる阿呆話を氏が重視していると貴殿は本当にお考えですか? だとしたら、実にnaivですね。カントが超越論的観念論者にして経験的実在論者なのと同じです。両者は矛盾しません。井上さんはああ見えて老獪な二元論者なのです。碧海純一の弟子たる所以です。
補遺
コメント50の孫崎享氏は元外務省「条約局長」ではなく、「国際情報局長」の誤り。
コメント63末尾の「彼はドイツ人の心理について、次のような心理を真っ先に信じている人」のうち、後者の「心理」は「見解」の誤り。他人の訳を借用=引用しておいて誤記はない。伏してお詫びのうえ、訂正します。
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