池田信夫氏の『丸山眞男と戦後日本の国体』を読んだ。池田氏の丸山論として異色の趣を持つが、丸山の仕事を丹念に読んだ労作である。同時代を理解するために丸山と格闘した池田氏に敬意を表したい。
本書は、丸山の全体像を見渡したうえで、それぞれの著作の時代背景について考察を加えている。池田氏の強い問題意識にかかわらず、実は丸山眞男の入門書としても読むことができるものに仕上がっている。
同時に、今日の学術的動向をふまえた丸山の個々の仕事の評価もおりまぜつつ、池田氏の大きな問題意識をふまえた批判的な戦後史の叙述という野心的な一面もある。丸山以外の誰を取り上げても、このように思想家研究と時代考察を劇的に調和させることは難しかっただろうが、池田氏は、丸山という格好の題材を相手に、活き活きとした論説を展開する。
本書の題名には「戦後日本の国体」という概念が入っているが、池田氏の問題意識の中心は、戦後日本の「国のかたち」の歴史的展開に置かれている。本書の帯には、「われわれは、いつ、どこで、間違えたのか」、という印象的なメッセージが入っている。池田氏は、「戦後日本の国体」には「間違い」が内包されているのではないか、という問題意識を持ち、そのことをより明らかにするために、丸山に取り組んだのである。
光栄にも、拳法9条を「表の国体」、日米安保を「裏の国体」として論じた私の拙著『集団的自衛権の思想史』を、池田氏に最初の注で参照していただいた。その私であるから、「戦後日本の国体」について考えるために、安易な日本属国論だか何かに向かわず、真摯に丸山に向かったという池田氏の姿勢を、全面的に歓迎したい。
個々の丸山の仕事の評価について、辛口のコメントを投げかける池田氏は、さすが経済学を専門家らしいものである。池田氏の批評には、徹底した合理主義が貫かれており、丸山の天才を高く評価しつつも、丸山が情緒に流されて合理的結論を見誤ったと言わざるを得ない点について、辛辣な指摘を加えていく。
どれか一つの丸山の限界をとって、それこそが戦後日本を決定づけた最大の間違いであった、と断定できるわけではない。ただ、池田氏も重要視する決定的なポイントを三つほどあげれば、次のようになるだろう。
第一に、丸山は、現実の国際政治に裏切られた。1951年サンフランシスコ講和会議をめぐって書かれた、有名な「三たび平和について」によって、丸山は、全面講和を唱えて日米安全保障条約体制を批判した数々の知識人の中で指導的役割を担うことになった。そこで丸山は、全ての戦争が全面核戦争になるため、中立政策が正しいと主張したのだが、現実の国際政治は、丸山が予期したようには展開しなかった。
第二に、丸山は、「国民」に裏切られた。1960年日米安全保障条約改定の際、強行採決を行った岸信介政権に憤り、政策ではなく、民主主義を理由にして、安保闘争の騒乱に加わった丸山は、その後も選挙のたびに自民党が勝利し続ける現実を、予期していなかった。また、資本主義の行き詰まりを予感していた丸山は、自民党長期政権下での高度経済成長を謳歌して生活保守化する一般大衆の姿を、予期していなかった。丸山の日本国憲法解釈は、「国民主権」を強調する東大法学部系の戦後憲法学に近いが、その「国民」は、丸山が予期したように行動することがなかった。
第三に、丸山は、日本思想史に裏切られた。1946年「超国家主義の論理と心理」で華々しい論壇デビューを飾った丸山は、一貫して日本の思想を特殊なものとみなし続けた。晩年には、「古層」などの曖昧な概念に拘泥しながら、学術的に精緻な成果を生み出すことができずに苦しんだ。日本の思想基盤の特殊性をロマン主義的に強調しながら、その中でも主体性を発揮したと言える思想家を見つけるために苦闘した。荻生徂徠や福沢諭吉、あるいは武士道の丸山ならではの読み込みは、学術的には問題のないものではなかった。同時代の世間の人々は、丸山の名前に魅かれて、丸山ならではの日本思想史の読み込みを許した。しかしそれは、丸山が「戦後日本の国体」のロマン主義的解釈の中心にいたことを意味しても、われわれが客観的に検証しうる、丸山自身が描いた問題に対する丸山自身の突破口を、丸山自身が見出していたことを、全く証明しない。たとえば、池田氏は、丸山が日本特殊と論じた無責任の体系は、ナチスドイツの戦争犯罪者にも見ることができると冷ややかに論じる。そのとき、丸山の苦闘とは、一つの自作自演のヒロイズムでしかなかったのではないか、という疑問が、ふつふつと湧き上がってくる。
もっともこういった評価には、反論もあるだろう。丸山が現実を予期できなかったことは、あるいは現実的でなかったことは、必ずしも丸山を否定すべき理由にはならない、と。丸山が求めた道を進んだ日本のほうが、今日の日本よりもずっとましだったであろう、と。
ここに丸山によって、「戦後日本の国体」の壮大な物語が、劇的に示されることになる。丸山のロマン主義は、主体的な決断にこそ、最高の価値を見出す。「超国家主義の論理と心理」における、驚くべき程度までのシュミット依存、シュミットをして日本人を批判せしめるという倒錯的態度は、丸山の世代に特有な決断主義のロマン主義的肯定の思想を生み出した。
このロマン主義は、今日でもなお、通俗化された憲法9条信仰の形で残存している。9条とは、理想主義の中の理想主義であり、だからこそ実現困難であると同時に、それを選択することに至高の価値がある、という思想である。このロマン主義は、憲法学における「八月革命」説にも通じ、護憲派の「永久革命」思想として国内社会で力を持ち、日本の「国の形」にも大きな影響を与えた。
丸山の「永久革命」は、半ば自作自演のヒロイズムを象徴する概念だ。永久に続く革命などあるはずがないこと、永久革命家とは達成されない目標をわざと掲げて万年革命家を自認することを趣味としている者のことでしかないこと、などについて、醒めた視線を送る者は、多い。私もそうだ。
政治学は、結果に関するアートだから、永久革命が永久革命であるがゆえに正当化されるということは、政治学者の間では、通常はあまりない。
もちろん、戦後日本にはそのようなロマン主義が必要だったのだ、と言われれば、私もまた、丸山の名声を見るまでもなく、それは確かにそうだったのかもしれない、とも思う。
しかし、それでもなお、あるいはだからこそ、次のように言わなければならない、と私は思う。「われわれは、いつ、どこで、間違えたのか」、という問いを投げかけたうえで、丸山を読み、その問いに対する答えを述べるならば、次のように言わなければならない、と私は思う。「最初から、その構図の本質において、間違いが内包されていた」、と。
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端的に言って、お二人はゲーテの「クラッシックは健康だが、ロマン派は病気だ。」という説そのものを体現されている方々なのではないのか、と思う。つまり、「夢の世界」に生きておられる。
「ドイツロマン派は夢の世界」なのである。「現実にはない夢」の世界を夢想する。それは、ドイツが統一した民族国家をもてなかった事情もあって、こうあればいいな、とドイツの知識人たちは、「現実にはない夢の世界」を描くしかなかったのである。ハイネにしろ、ワーグナーにしろ、ドイツ観念論の哲学者たちにしろ。
また、丸山真男さんが賛美されているカール・シュミットという法学者は、現実の民主主義的な憲法をもったワイマール共和国の議会制民主主義を否定し、ナチズムの独裁体制を生み出す、つまりナチスの法学理論を支えた法学者である。つまり、イエネリックやケルゼンとはまったく違ったタイプのドイツの法学者なのである。
丸山真男さんの見解が正しい、と日本の知識階級に錯覚されたのは、明治維新以来、日本の知識人といえば、西洋の文化の学識を身に着けている人々ということであったし、丸山さんは東大法学部教授という地位につかれており、その上に、ドイツの哲学者、ヘーゲルの原書を全部ドイツ語で諳んじおられるという噂、日本政治思想史も書かれている、という条件が相まって、丸山真男教授は、西欧と日本の文化の真の仲介者とみなされ、神格化された面が大きかったのではないか、と私は思う。(丸山真男の時代、中央公論 p201参考)。
ところで、池田氏の丸山への持続的関心の深さにもう一つの興趣を抱く。池田氏が大手メディアに在籍していた人物にもかかわらず、むしろそれだからこそ見える景色もあるのでは、と。私が何度も本欄で指摘した通り、メディアの度を越した丸山信仰は凄まじい。その根源は、策源地はいったい何処か、探り当てる作業も重要かもしれない。
私はそれが日本的学術ジャーナリズのメッカ、単なる学術書出版社を超えた存在である「岩波書店」にあると考える。丸山の出世作で草創期の総合雑誌『世界』のために書かれた「超国家主義の論理と心理」(1946年5月号)は、未だ母校の東洋政治思想史講座の助教授にすぎなかった地味な研究者を一気に戦後論壇の主役に押し上げた、「ジャーナリズム的興業」の一環だった、と。
この一種のドイツ理想主義哲学的(ヘーゲルとC. シュミットのhybrid)なロマン主義的政治評論である論考は、それが「ある意図」から執筆を慫慂され、経歴からは異例の巻頭論文として掲載された事情と符合し、けっして『國家学会雑誌』への発表を意図したものではなかったように、まさに時代、謂わば時代精神(Zeitgeist)が生み出したもので、極論を厭わぬならその限りで意味があることを示す。丸山が韜晦して、一連の政治、時事評論の仕事を「夜店」とし、「本店」である専門の日本思想史分野の学術論文と殊更に区別していた所以だ。
ところで、私の手元に先輩格の同僚である米国史・政治外交史研究者に贈呈された、「謹呈高木八尺先生 丸山眞男」という署名入りの『増補版日本政治の思想と研究』の初版がある。
例外は「増補版への後記」への多量の傍線であって、「二、三追加」(581頁5行)から始まって、「「意地」のようなもの」(582頁14行)▽「さまざまの階層の熱心な読者」(583頁5行)▽「「在家仏教主義」に」(同6行)▽「学問を職業としない「俗人」の学問活動」(同10行)▽「英語版」(584頁2行)▽「戦後史の一つの資料として」(同5行)▽「戦後思想史の一資料」(同8~9行)▽「戦後神話」(同13行)▽「実証的吟味を経た戦後史を作る」(585頁2行)▽「虚妄」(同4行)▽「論者の価値観にかかわつて来」=丸山は新仮名遣い表記ながら、なぜか促音[っ]は全篇[つ]=(同5行)と来て、最後に「私自身の選択」(同8行)の13箇所に及ぶ。
例の人口に膾炙した啖呵「大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける」は、全く無視されている。わが国における米国研究のパイオニアで、新渡戸稲造に私淑した篤実な研究者でキリスト教徒である高木は、あまり熱心な読者ではなったようだ。
戦前、戦中、戦後を通じて一貫した学問的良心(誠実性)と日米相互理解の促進、米国流民主制への理解拡大による日本の民主化を意図していた怜悧な知性の観察者高木は、太平洋戦争開戦前夜には私信をもって旧知の駐日米国大使グルーに難局打開の方途を説き、総合雑誌を通じて「止まれ、而して考えよ」と書いて訴えようとするも累を恐れた編集者の修正要求を受けるや掲載を断り、戦中は一切筆を絶った硬骨漢であった(斎藤真)。
高木は清水幾太郎や丸山らが主導した「平和問題談話会」の三度の声明にも名を連ねたが、明治生まれの古武士、Old liberalistの目に戦後の丸山の軽躁な立ち回りがどう映っていたかは言うまでもない。
コメント3で紹介した高木八尺の旧蔵本『増補版現代政治の思想と行動』(1964年=前回の表題表記は誤りにつき訂正)の書き込みに限らず、西洋哲学・思想史研究者の間では丸山の西洋哲学や歴史、文化理解の一面性や恣意性を指摘する声は従来から少なくなかった。その決定版はヘーゲル哲学研究の泰斗で倫理学者の加藤尚武氏(京都大学名誉教授)だろう。
竹内洋『丸山眞男の時代』(中公新書)の「主要参考文献」にはなぜか欠落しており見識を疑うが、大方の政治学者や進歩派識者、メディア人などが無批判に認めてきた丸山の権威の源泉に切り込む形で根源的な批判を加え、初出の雑誌連載時、新聞紙上(論壇時評)で取り上げた故西部邁をして、「この論文により、丸山の権威は地に叩きつけられた感がする」と評したほど衝撃的内容だ(「訣別─丸山真男論(進歩主義への葬送)」、『進歩の思想・成熟の思想 21世紀前夜の哲学』所収)。
そこで加藤が批判したのは、丸山の救い難い知的スノビズムと、旧制高校レベルの通俗的理解で哲学的概念を本来の含意や歴史的文脈を無視して論理構成に不用意に使用し、修辞的にも拘泥するという凡そ学者本来の姿からほど遠いお粗末さ、無恥ぶりだ。
その代表として丸山の学位論文で代表作『日本政治思想史研究』を俎上に載せ、ヘーゲル哲学の専門家らしい仮借なき、ほとんど絶滅させるに等しい批判を加えた。しかも、その論旨は明快でほとんど間然する所がない。逆にこの徹底性のため、丸山の信奉者からの反発は大きく、ネット上でも波紋を広げた。
丸山が戦後民主主義の支柱として揺るぎない権威を誇った時代はとうに去っており、その後の「古層」論文など、新たな展開も思想的インパクトを欠くにも拘わらず、今なお墜ちた偶像が一人歩きしている世間の現状は、よく考えてみれば奇妙な現象だ。
メディアに限れば、その知的停滞と頽廃は深く進行している。
国際政治の現実という計り難い展開にも、覚醒せざる国民の無自覚への苛立ちにも、自作自演のヒロイズムという名の感傷にも、凡そ政治的見通しや選択を誤ることぐらい、男子一生の恥辱はないと考え、長年親しんだプラトンやアリストテレス、歴史家のトゥーキュディデースの冷徹極まりない総観的思考や歴史的経験を常の戒めとしている。従って、己を欺くような余計な夢もみない。希望(ἐλπίς)は現実逃避の別名だぐらいに考えている。
無論、これは世捨て人の観想(θεωρία)的態度などとは全く異なる。夢破れた書斎の思索家・丸山ではあるまいし、そんなに女々しくもない。銀行時代の組合幹部も新聞社の特権的デスク暮らしもさっさと捨てたのは、会社勤めという食うため生きることに伴う懦弱や思考停止を嫌ったという側面だけでなく、見当違いな夢を見なければ生きやすかったからか。紅旗征戎わがことにあらず、とは言え、自前だと人生は闘いの連続で、退屈しなかった。新たな出会いにも恵まれた。
理想と現実と一言でいうが、その現実一つとっても人間=死すべき者(θνητός)の身には捉え難いのがこの世の現実。強者(勝者)の現実と弱者(敗者)の現実とを、ロゴス(λόγος)とパトス(πάθος)との比較で以前この欄で論じたことがあるが、すべてを見通すことはできない強者の現実認識にこそ危うさ、破滅をもたらしかねない重大な見落とし、陥穽が待ち受けていることも。その点で、この国の時局認識において戦前、戦後を通じて一度も過つことのない稀有の存在であった恩師の師である田中美知太郎氏の存在も大きかった。
政治も哲学も知的奴隷人の必需品でも護符でもない。
ただ丸山真男さんに興味をもち、調べると彼を有名にした戦前日本の政治体制をさす「超国家主義」という言葉は、日本国民を永きにわたって隷従的境涯に押しつけ(これは、白井聡さんの「国体論」も同じような言葉の使用法をしておられますが)、また世界に対して戦争を駆りたてたところのイデオロギーとあり、更に、このような記述があります。
「第一回帝国議会の招集を目前に控えて教育勅語が発布されたことは、日本国家が倫理的実体として価値内容の独占決定者たることの公然たる宣言であったといっていい」。
ただ、いくら教育勅語の口語訳を読んでみても、どこに、日本国民を隷属的な境遇におしつける部分があるか、まるでわからない。また、時代的にみても、帝国議会の開会後に、大正デモクラシーがあり、昭和天皇が立憲君主制を是認されているところからみて、天皇がご自身を絶対君主だと思ってもおられないし、国民を隷属的な境遇に押し付けておられる、ともとても思えないのである。
丸山真男さんが意図されたのか、そうでないのかはわかりませんが、彼の教育勅語の誤った解釈もまた、現在の憲法学会の「ガラパゴス化」の原因の一つになっているのではないのか、と思います。
丸山真男が日本の社会に絶望して隠遁したみたいなことを書く人もいるが、もともと社会に絶望するほどたいして社会に愛着もなく、義理で左翼とお付き合いしたあげく、過去の思想の瓦礫を眺める博物館館長のように元のさやに戻っただけのように感じる。
「長く輝かしい国民的伝統を担った我が国においても明治維新をまたねばならなかった。もとより我が国家体制の特性に基づく神国観念ないし民族的自尊は建国以来脈々として国民の胸奥に流れ続けてきた」
度の過ぎた愛国調の美文を戦前に書きちらかした後遺症で、戦後はバリバリの反体制側の学者となって左翼に担がれた家永三郎を思い出す。
https://ja.wikipedia.org/wiki/国体論争
また、憲法上の主権に関係する尾高・宮沢論争や佐々木・和辻論争についていうと、憲法上の主権の所在を中心に議論をする「憲法学者」と憲法上の主権の所在以外の議論を含む「非憲法学者」との間では双方の議論が噛み合っていない側面もあるようですが、昔は、「憲法学者」と「非憲法学者」との論争があったようなので、憲法学者と篠田先生との論争(水島・篠田論争以外にも)も期待したいところです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/尾高・宮沢論争
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐々木・和辻論争
要するに、丸山真男さんの思想は、西洋かぶれの知識人には理解され、珍重されても、日本の「普通の人々」、つまり「民衆の意識」とはかけ離れているところに、学問上の間違いが内包されているのだと私は思う。
ご自分で調べれば難しい問題ではないが、『広辞苑』的には、同項の③の「主権の統治権の所在により区別した国家体制」の謂い。つまり「政体」、「国家体制」の明治国家的表現になる。これだけでは、面白くもなんともないから、以下詳説。
政体=国体は日本に限らない。古代ギリシアで「国体」に相当するのが「ポリーテイアー」(‘πολιτεία’)という概念で、言葉そのものの意味は「国制」。プラトンが理想の国家づくりを展開した際に使用した概念で、プラトンがこの語を用いる場合、‘civil policy, constitution of a state, from of government’の意味にほぼ限られ、「国(家)のあり方」、「国家組織」、「政体」で、『広辞苑』にいう「国柄=くにがら」「国ぶり」。いわば「国体」=「國體」である。
従って、ペロポネソス戦争の際の葬送演説で、ペリクレスが「われわれの採用している国制(政体)は、近隣諸国の法制を有難がって、それの真似をしたものではない。他の真似をするよりも、自らを他の規範たらしめている。国政は少数者の意向によるものではなくて、かえって多数者のそれに従って行われるが故に、デーモクラティアー(δημοκρατία=民主制)と呼ばれている」という際の‘δημοκρατία’ =デモクラシーが都市国家アテーナイの「国体」ということになる。つまり、戦死者個人を追悼、称讃する以上に、アテーナイ人が達成した国家的価値観、民主制を讃美することで、それを守るために斃れた兵士を自由と民主制を守る勇者として称えている。
「國體明徴」「國體の精華」「國體の本義」「國體護持」という表現に示された歴史的な経緯とイデオロギー色を濃厚にまとっていることから、無用な連想を誘うので、一般的に学問上も除外する傾向がある。日本国憲法を聖典視し、不磨の大典とするかのような憲法学通説的な発想と、これを拡大解釈して人民主権のように読み込む時、「國體」は唾棄すべき前時代的遺制、専制支配の象徴になるが、あくまで党派的見解で、例えば、憲法学者の宮澤俊義や佐々木惣一、両者と論争した尾高朝雄や和辻哲郎は、政治的立場、見解を異にしていても、当然のことながら別に「國體」概念を毛嫌いして忌避してはいない。
ただ、便宜上ものごとを無用な誤解から解放し、より分かりやくするために、戦前に上杉愼吉や蓑田胸喜が国家主義運動で悪用した「国がら」の場合を「國體」、政治学や法理論的概念としての「国制」を国体と表記すれば済む。もっともこれは、政治学的、法理論的には全く無用な措置。
コメント11でMLさんが言及された佐々木惣一と和辻哲郎で思い出すのは、両者が敗戦直後に展開した天皇制論争。そこで佐々木は国体について、これを二つに区分して①国家について、その「政治様式という面から見ていかなる国柄」かを問題にする場合、その国柄を指して国体と言い、②国家における共同生活に浸透している「精神的倫理的の観念という面から見ていかなる国柄」かを問題にする場合、その国柄が国体とする。前者は、政治様式からみた国体の概念、後者は精神的観念よりみた概念で、佐々木はそれぞれ、政治的国体、精神的国体と呼ぶ。
佐々木はさらに、「国体の概念に該当する事実」を問題にし、「主権の存する日本国民…ということは、明らかに、統治権の総攬者が天皇でない」ということを示すとして、「日本国民なるものが統治権または統治権総攬の権を有するのであって、天皇が有せられるのではない」と言い切る。
従って、従来の国体の概念に該当していた事実は全くなくなり、もって「国体は変更された」ことになる。佐々木にとって、国体の変更はそれ以外の意味はなく、天皇主権から国民主権への移行である。佐々木がいう国体の疑念に該当する事実というのは、「法律事実」、つまり憲法条文に規定された法的意味内容のことで、哲学者の和辻は当初それを知らず、法律事実と社会的事象を区別せずに反論していた。
以上は佐々木の法律家としての見解だが、佐々木の政治的意見は別にある。そこがこの人物の面白いところで、戦前の言論思想弾圧である京大事件(所謂滝川事件)に際し、政府の措置に抗議して辞職した六教授の一人という面目躍如で、憲法学界における京大の伝統を最もよく代表する存在。(和辻の反論は『国民的統合の象徴』、さらに湯浅泰雄『和辻哲郎 近代日本哲学の運命』、1981年参照)
余白に。
余談だが、佐々木でも和辻でも、往年の学者(一流同士とは言え)の論争は現今より品が良く、薬にしてπάθοςまみれの水島朝穂氏に飲ませたいくらいだ。治療効果があるかもしれない。学問は熱心さと同じくらいに、悠然とλόγοςを楽しむぐらいの余裕がほしいものである。
なお、「日本版wikipediaを引用すると、反時流的古典学徒さんにお叱りを受けそうですが…」とMLさんは懸念されておいでだが、気にすることはありません。日本版の場合、西洋哲学分野について、記述の内容と正確性が到底世界的水準に達しておらず、「玉石混淆」だと申し上げただけで、他意はありません。役立つ項目も少なくないと思います。それは、未だ形成途上(進化の過程)にあるネット言説の宿命で、もはや淘汰を待つ運命で絶滅危惧種化している既存メディアよりましなケースも。適宜、批判的に利用すればよいのです。
最後に、私が愛聴している「虎ノ門ニュース」、7日に登場した作家の百田尚樹氏と櫻井よしこ氏の対談には、個々の点では事実誤認につながる粗雑な理解も含まれていましたが、大筋で極めて正当な見解。どうみても、朝日やTBSより志はまともで、特に櫻井氏が既成メディアの執拗な偏向報道、党派的な政権批判に対抗するため、「未だ玉石混淆だがネット上の世論の質を上げていくことが大事」とされたのは、全くその通りで、もって自戒としたい。
話を国体論に戻して、私がなぜ、突然、この「国体」という言葉が気になったか、というと、篠田先生ご自身が「国体」を「統帥権、主権の所在」ではなくて、「国のかたち」と規定されているからである、たぶん教育勅語の「国柄」と同種の表現だと思うが、そう解釈した方が、表の国体が日本国憲法9条、裏の国体が日米安保条約という意味がよくわかる。
それと同時に白井聡教授の「国体論」では、戦前の天皇制の「国体」が、戦後はアメリカ従属の「国体」になったと主張されている。この場合の「国体」は、明らかに丸山真男さんの「超国家主義」を意識して書かれている、と思うのである。つまり、戦前、天皇が、日本国民を永きにわたって隷従的境涯に押しつけ、また世界に対して戦争を駆りたてたように、戦後は、アメリカが、日本国民を隷従的境遇に押し付け、戦争に駆り立てようとしている。そのために、安倍政権は安保法制を改悪し、9条を改正しようとしているのに、日本国民はそれに気づいていない、といったような。
国体(國體)の定義と適用範囲(外延)は既述の通りで、篠田さんや当該著書の池田信夫氏、白井聡氏のいう、「戦後の国体」は、三者で幾分ニュアンスが異なるうえ、戦前の天皇に相当する「核心」が不在な以上は適応対象が不分明な概念であって、あくまで比喩的(隠喩的)表現として、戦前の國體との関係でアナロジーで使っているだけだろう。国体としての確かな実体があるようには思えない。話半分に聞いておけばよいと思う。「戦後民主主義」それ自体が国体という解釈も可能だが、丸山流に表現すれば「虚妄」で、「大日本帝国の実在」、即ち実体がない。
池田氏の新著を読んでいないので以上はあくまで推察だが、「国のかたち」という表現も、本来は日本国家の優越性や特殊性を説いた戦前の国粋主義者によって矮小化される以前の国制ととる方が本筋であり、国体やそれなりに一流の(「もぐり」ではない)「戦後民主主義の錬金術師」丸山に引きつけて考えるより、同名の著書のある(『この国のかたち』)司馬遼太郎的概念ではないか。
丸山のヘーゲル解釈は杜撰の一言で、竹内洋氏が紹介した「ヘーゲルの著作をすべて原文で諳んじている」はまさに「まことしやかな噂」、即ち大嘘だろう。当時東大哲学科の教授陣はもとより、ヘーゲルを専門に講じていた東北大哲学科主任教授・小山鞆繪でさえそんな無駄な努力はしておらず、当時著作全部、つまりグロックナー版全集(全26巻=1927~40年)を「諳んじる」ほど読了するのは、外国書輸入難も手伝い戦前は物理的に不可能で、戦後も可能だった蓋然性は極めて低い。
ウィキペデイアによると、国体論争と呼ばれるものは古今東西に複数存在するとあり、続けて、たとえば、古代ギリシアのアリストテレスは政治体制を君主制・貴族制・民主制に分類した。ポリュビオスは、この3つの政体がそれぞれ、専制、寡頭制、衆愚政治へと堕落する、という図式が掲げてあります。
反時流的古典学徒さんの方がずっと詳しい、と思いますが、政治というと、この図式が私には浮かびます。
民主制が衆愚政治にならないように、しなければ、というようなことが。
ただ、戦前の日本は、君主制が「教育勅語」と共に「天皇専制」になった、とは私にはとうてい思えないのです。ナチスドイツの場合は、カールシュミットの議会制民主政治の否定、全権委任法の成立によって、民主政治からヒトラーの専制政治になってしまいますが。
日本の場合は、統帥権、という言葉を使って、軍人が権力を握ってしまった、ところに問題があるのであって、例えば、北一輝、大川周明、石原莞爾など、「政治家軽視」、「軍部独裁」の理論的裏付けをした人がいるのではないのかと思います。でも、やっぱり、国体とは、いったいなにをさすのか、いろいろの場合がありすぎて、よくわかりませんでした。
清水や丸山(当時の影響力、指導力は圧倒的に主唱者清水が上でこの席次)が主導した、発足当初は緩やかな平和運動への学者、知識人たちの参画は、著書の出版等、岩波書店との縁から、何よりも戦前戦中、暴走した軍部やそれに追従した政府、官僚組織による無謀な戦争指導に対してほとんど有効な反論も抵抗もできずに沈黙を強いられた、師の藤澤令夫流の表現で私のよく使う修辞なら「対抗重量」たり得ず(一般にいう対抗軸)、「不本意」ながらも閉塞せざるを得なかった自らの無力と怯懦、不明不見識という、謂わば「不作為の責任」を、一流の知性であればこそ誰より深刻に自覚していたことに伴う、果たされなかった責務への矜持、義務感であったろう。
改正された憲法への手放しの評価はできなくても、憲法的価値観が推進した戦後の民主的な改革を基本的に支持し、自由で民主主義的な社会づくりに資するという観点から、東西冷戦の深刻化、中国における共産主義政権の誕生、何より朝鮮戦争勃発によって緊迫感を増した当時の国際情勢の中で、事態を静観して再び戦争を招き寄せたくはない(国民レベルでは「二度と巻き込まれたくない」)、という危機感の発露であった。そういう時代だった。
誰もが「ミネルヴァの梟」である今日からみて、東欧において圧倒的武力を背景にしたソ連の共産主義拡張策が冷戦を本格化させていた時代のこの 「非現実的選択」は、それ自体驚くべき愚昧だが、占領下の日本で東欧の内情がほとんど伝えられていない事情も背景にある。そうした不利な事情を酌むにしても、チェコのクーデターやベルリン封鎖は充分に報じられており、政治運動に主体的に関与する以上、「丸山先生、ヘーゲルなど諳んじている場合ではないですよ」という状況だった。
清水や丸山は、ソ連、中国との宥和路線とも捉えられかねない全面講和を強力に推進、主張し、これを都留重人や副座長格の仁科芳雄、大内兵衛ら非共産主義者が支持することで大勢を決した。メンバー外の東大総長で丸山の師、南原繁も中立志向の全面講和を唱えて呼応した。座長の安倍は、本来が古風なリベラリストで天皇主義者だったが、それ以上に共産党嫌いで、日本が憲法で非武装を宣言した以上、それを破る米国との同盟は罪悪だというカント研究者らしい強固な信念の持ち主だった。
丸山は敗北後、清水が『現代思想』や『倫理学ノート』を通じて戦後的価値観と正面から対峙し、特に後者で分析哲学や社会的選択理論、新厚生経済学の新たな展開への問題意識を盛った英米倫理学との対決から日本を逆照射しつつ、新時代の保守主義の思想的基盤を模索し、格闘した姿と対蹠的な停滞のみが目立つ。
今朝の朝のテレビ番組に田原総一朗さんが出ておられて、「信頼される政治を実現したい。」と出馬表明をされた石破茂さんを「よいしょ」しておられたが、理由は、「安倍一強さとおもしろくないから。」だそうで、小泉純一郎さんが総裁選に出られたとき、戦況が不利なので、対抗馬の橋本龍太郎さんを蹴落とすために、亀井静香さんをだまして、小泉純一郎さんを勝利させたという手柄話を自慢されていたが、どうして、現実を伝える努力をせずにただおもしろいから、という理由で「仮想現実」を作り上げようとするのだろう、と思った。
今は、私が留学したころと違って、41か国もの言語に翻訳できるポケトークがあるのだから、マスコミの方々も、篠田先生がなさっておられるように、海外に出て、現地を知り、本当の国際情勢を伝えていただくことでしか、現在の日本のマスコミによる、国民の衆愚化を救えない、と私は思う。
そういう経緯があり、丸山ゼミでぜひ勉強したい学生も大勢いただろうから、彼が神格化されるのは、ごく自然のなりゆきだと思う。ただ、彼らがあの論文を読んで、なぜ、全身しびれるような衝撃をうけたのか?
戦後生まれの私は、「自責の念からの解放」なのではないか、と思う。大勢の同世代の若者は、戦争で亡くなった、自分たちは、戦争をすることがいいことだ、と思って、励まし、共に闘い、生き残った。自分たちに罪はないのだろうか?そう考えている時に、「あなた方は悪くない。そのようにあなた方を考えさせる教育勅語が、日本国民を永きにわたって隷従的境涯に押しつけ、また世界に対して今次の戦争を駆りたてたところのイデオロギーが悪いのだ。」と考えることで、救われた気分になったのではないのだろうか?「オウム信者には罪がない。教祖にだけ罪がある。」と考えるとサリン実行犯に自責の念がなくなるのとおなじで。
平和問題談話会には実質、東京と京都(近畿)を代表する、当時望み得る学界の指導的人物を網羅した、東西の並み居る知性が集まった。同会は、1948年夏に行われた世界的学者8人による討議結果をまとめたユネスコ声明(「平和のために社会科学者はかく訴える──戦争をひきおこす緊迫の原因に関して、ユネスコの8人の社会科学者によってなされた声明」)を受けて、①「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」(参加55人=発表1949年3月号)の後、都合三度に及ぶ声明、②講和問題についての平和問題談話会声明=1950年1月(署名56人=発表3月号)③三たび平和について(平和問題談話会研究報告)=50年9月(署名52人=発表12月号)──を公表し、非武装中立、単独講和を訴え、戦後の平和論、特に護憲平和主義の論調の主潮流となった。
その後有名無実化(矢内原忠雄)したが、59年12月に東京、京都の各平和問題談話会名でそれぞれ「安保改定問題についての声明」(署名は東京27人、京都16人=公表60年2月号)を出して事実上幕を閉じた。これとは別に、清水幾太郎や丸山など、一部重複メンバーによって58年に憲法問題談話会、翌59年には国際問題談話会が設立される。後者は非公表の内部討議組織で、59年10月号で「政府の安保改定構想を批判する」(署名20人)、60年「再び安保改定につい─第二回研究報告」(署名23人)なる共同討議内容を公開している。
各分野で赫々たる実績を上げた、長老格を含む当時の学界を代表する研究者で、現在の「立憲デモクラシーの会」に拠る学者とは明白な格の違いが際立つ。集団的思考に惑わされない慧眼の士が少なくない。声明自体は今日からみて、現実の政治過程や国際政治へのリアルな認識を欠く理想論に終始しているが、自由で熱心な討議と苦悩の一端がそこには窺える。
議長の安倍や天野貞祐、和辻哲郎ら「旧世代自由主義者」は、田中耕太郎、大内兵衛ととも同心会グループを形成していて、左旋回した『世界』を離れて別の雑誌『心』を創刊、保守論壇の重しになる。長老格の矢内原や高木八尺、脇村義太郎、有澤廣巳、末川博、恒藤恭もやがて後景に退くと世代交代が加速し、談話会は所謂進歩的学者、文化人の巣窟となる。
これには裏方の『世界』編集長から正式メンバーとなった吉野源三郎の巧みで執拗な誘導がある。48~59年まで陰の組織者として「表」の清水や丸山と並ぶ「裏」の司令塔として中心的な役割を果たす。陳腐な『君たちはどう生きるか』の著者でマルクス主義者、共産党シンパと多様な顔をもつ吉野こそ、丸山を戦後民主主義のイデオローグに仕立てた張本人かもしれない。この点でメディアの罪状は確かに重い。
当時を振り返った対談の中で丸山は、吉野の策謀に「吉野さんの底意は読めなかったな。もっと素朴に参加した」と共犯関係を否定している。
しかし、政治運動は結果だ。政治学者としての卓説と政治音痴が同居する丸山の悲喜劇は「日本的」知識人の典型である。
調べると、副題が「文学者の社会的責任」となっていて、所在は、世界1951年1月号P59-62 となっているけれど。
楠山義太郎さんの、戦前のマスコミに対しての批判、「結局、国際感覚が全く欠如していたんです。軍部が強硬になっていく過程で、 社内でも支那(中国)派が勢力を握り、英米派は冷や飯をくわされた。 支那問題を連盟で論じていると、『欧米に支那のことがわかるか』と反発をくい ましてね。私は『支那通の支那知らず』とことあるごとに言ったんだがね。とにかく、新聞を含めて、日本人全体が井の中の蛙になっていた」。
私は現在のマスコミのコメンテーター、大学の教授の肩書のある人々が、本当に中国のこと、国際情勢がわかって発言されているのか、といつも批判的に見ているが、吉川幸次郎さんは、戦乱の続く時期に活躍した中国の文人、杜甫の研究家として知られ、論語の注釈も書いておられるほどシナに詳しく、また、ゲーテの権威である大山定一さんとも書簡を交わし、大山定一さんの追悼文も書いておられる。
そんな方が、どのような考えを述べておられるのか、とても興味深い。
「何よりも戦争をいみきらい、何よりも平和をこいねがう」私が、「憲法によって戦争の抛棄を規定した国に、国籍を持つことをよろこびとする。……平和問題談話会の会員であるのも、その為である」と前置きした上で、「現実政治にくらい」との自覚から、「現実の政治の方向について直接な提議をすることは、この会の任務ではない。少なくとも会員全部の任務ではないと理解する」として、専門外の領域への提言の是非に関する判断留保を一つの理由にする。
さらに、「現実の問題にふれた声明に、責任をもって署名するだけの知識を、もっていない」以上、「軽率な署名は無責任である」と断ずる。声明が特殊な政治的主張と誤解される懸念を誤解としつつも、「その渦中にまきこまれることは,めいわく千万」として、宋の欧陽修の『五代史記』の「唐六臣伝」の故事を引き、(「夫れ人の国を空しくして、其の君子たちをのぞき去らんと欲する者は、必ず朋党の説を進む。夫れ君子たる者、故より常に過ちあること寡なければ、小人たち之に罪を加えんと欲するも、誣う可き者有り、誣う可からざる者有りて、遍くは及ぼすこと能わず……」)三番目の理由とする。
加えて、「戦勝国である連合国の人々が、この報告を見て」どう思うかとして、「この報告の趣旨は、日本人はもはや戦争をしない国民として、どこまでも終始したいこと、そうしてその前提としては、連合国の人々にどういう風に行動してほしいかということを切々と訴えるにある。……その趣旨には誰も賛成であり、署名していない私も賛成である……ただ、その措辞には、希望が切実なあまりに、おしつけがましく聞こえるところが万一あるとすれば、それは希望の切実さが、そうさせたのであるとして、諒恕ありたい」と署名した会員に理解を求めている。
詳しく知れて嬉しかったです。
ある意味とても責任感のある、賢明なお答えと思いました、お礼まで。
以下は別に衒学を気取った訳ではなく、15日の命日を目前にした盆休みの一興に試みた丸山眞男論のパロディーであり、いつまでもこの戦後の亡霊にかかずりあっている自己への戯画である。
人は、自己にとって最も確実な「現にあるもの」(παρὸν πάθος)としての現実(ἔργον γιγνόμενον)に囚われ、現在(παρουσία)に執着することで、かえって現実逃避に行き着く。
それはロゴス(λόγος)の重圧に耐えきれない、パトス(πάθος=受動の状態)偏重の偏狭な思考、論理であって、知識人(Σοφιστής)の繰り返される現実認識の欠落に伴う時局認識の過誤という悲喜劇は、弱者や民衆(δῆμος)の目線を強調しながら、かえって弱者や市井の人々の現実も論理も心理も、自らの判断基準や構図、換言すれば自らの器量でしかみない、ナイーヴな理想主義者が陥りながちな暗愚、懦弱(δειλία, ἀργία)に通じる。
それは、一筋縄ではゆかない弱者や民衆の根底に宿る現実に届かず、真相(φύσις)を見失うことにつながる。護憲平和論や絶対平和主義という空理空論に著しい理想主義という名の弱論強弁(‘τὸν ἥττω λόγον κρείττω ποιῶν[ποιεῖν] ’)=『ソクラテスの弁明』18B, 19B, 23D)の論理(λόγος)は、高邁なようで実は、弱者や民衆、世間一般の人々(大衆、多数者、群衆=πλῆθος, οἱ πολλοί, ὄχλος)に媚びた、突き詰めれば、眠れる大衆の知的覚醒を見くびった悪質で偽善的な俗論、俗受け(δημηγορία)を狙った驕慢(ὕβρις)な理想論、つまり、どこまでも観念論であって、己の知的優位性に安閑として惰眠をむさぼる凡百の学者や知識人にありがちな自己保身であり、現実認識(感覚)の欠如を理想主義(当為)によって糊塗する不徹底が観念論(idealismus)への頽落を避け難くしている。
しかし、「世界史の多元化」による世界史の哲学を唱え、総力戦の世界史的考察に挑んだ誠実さが、事志に反して必ずしも首尾よい結果を保証しないのは、政治はもとより人間世界の現実である。そこに理想主義の陥穽という最大の過誤がある。知識人なる者、現実を見誤り欺かれる愚昧を恥辱とすべきである。
京都学派の試みは戦後、戦争責任を追及する観点から「戦争協力、迎合のパフォーマンス=日本型ファシズムの擁護、戦争肯定のイデオローグ」として、哲学的内容を度外視して一方的に断罪された。その発言と行動は、わが師藤澤令夫の批判するように「偏狭な国粋主義への対抗重量たり得ず、むしろ同調の気配が濃厚であった」としても、同時代に生きた知識人にできたそれなりに誠実で同情の余地を残す選択と行動であったことも否定できない。
戦前の多層的な権力構造のなかでは、政治勢力としては弱劣な海軍の一部(知=親英米派)と結ぶという、慧眼の士には結果のみえた空しい努力だったことも否めない。戦争の主導者たる陸軍に道義的認識をもたせ、中国などの主体性を認めながら世界の新世界秩序を目指すというその意図は、冷徹な現実認識を欠いた理想論として現実の前では無傷ではすまず、政治的暗愚という蹉跌を自ら引き受けなければなかった。
戦後彼らが背負った公職(教職)追放という十字架は、畢境は政治的なものにすぎないが、彼らがそれに甘んじ積極的にはけっして弁明しようとしなかったのは、彼らが有能である故に(特に高坂正顯)、理想主義者の敗北の意味を噛み締めていたからかもしれない。
翻って、果たして丸山にその自覚があったであろうか?
すると、このような記述がある。進歩の先にソ連や中国の社会主義国を想定していたため、日本社会党又は日本共産党応援団として、反自民党・保守派の立ち位置をとり、護憲平和、非武装中立、戦後民主主義の擁護などを唱えた学者や作家、芸術家などを指した呼称である。英語では socialist intellectuals(社会主義的な知識人)となり、1948年から1980年代までの論壇を独占し、岩波茂雄亡き後の吉野源三郎社長時代から、岩波書店の世界や朝日新聞社を中心に、日本に強い影響を与えた[1]。
要するに、その人々が、社会主義国が、進歩の象徴ではない、ということがわかっても30年近くも、マスコミ、新聞やテレビを通じて日本国民をそう洗脳しようとし続けていることが問題なのだ、と私は思う。
進歩的知識人に対して、このような記述もある。2018年に金正恩は「(日本にいる)人民(北支持在日韓国・朝鮮人)」に「総連と在日同胞は母の祖国を熱烈に愛し、しっかりと擁護し、金正日愛国主義を大切にし、社会主義強国の建設に特色を出して寄与していかなければならない」と朝鮮総連に在日民族主義や朝鮮学校など事業や宣伝について命令した。「日本の進歩的な人物」と連携し、日本を総連の事業と在日朝鮮人運動に有利な環境にしろと指令を出しているそうであるが、その勢力が、安倍政権の「平和安全法制」を「戦争法案」と批判し、安倍首相を糾弾し、9条の改正に反対しているのではないのだろうか?オール沖縄と自称している方々も、その関係の方々ではないか、と訝る。
つくづく「中国文学者」の吉川幸次郎さんの引用された故事の引用、宋の欧陽修の『五代史記』、
夫れ人の国を空しくして、其の君子たちをのぞき去らんと欲する者は、必ず朋党の説を進む。夫れ君子たる者、故より常に過ちあること寡なければ、小人たち之に罪を加えんと欲するも、誣う可き者有り、誣う可からざる者有りて、遍くは及ぼすこと能わず……
人の国で事実でないことを主張して、その学識、人格共に立派な人を除き去ろうとする者は、必ず、主義、利害が一致した人々と徒党を組んでそのイデオロギーに進む。学識、人格共に立派な人々は、古き時代より、過ちがあることが少ない。度量や品性が欠けている人たちがこの学識、人格共に立派な人を罪に陥れようとして、事実を曲げることがある。けれど、事実を曲げるべきではない、という者がいるから、真実が保たれるのである。(漢文はそれこそ高校以来勉強していないでないので、誤訳があるでしょうが)、という言葉は重いな、と感じる。
自民党総裁選に出馬表明し、昨12日はテレビ各局の報道番組を朝から晩まで、文字通り席捲して自説を訴えた石波茂氏の誠にナイーヴな政治観、政治信条についてそう思った。
石波氏の主張を紹介する体裁を装いつつ、石波氏の思惑に迎合するかのような各局の見え透いた安倍政権批判は、「正直で公平、公正」を掲げ、「透明で丁寧な国民に寄り添った政治」を目指し、圧倒的不利な情勢にもめげず、安倍一強を打破する「挑戦と決断」を無邪気にアピールする姿に、小学校の道徳レベルの政治哲学の貧困を見せつけられ暗然とした。国民が政治的に未成熟と侮られると、この程度の政治家しかメディアに慫慂されないという典型例をみる思いだ。
政策にみるべきものはなく(特に経済政策)、憲法九条改正は「時間をかけて」と事実上先送りで「応援団」のメディアに迎合する。戦中に度重なる粛軍演説で衆議院を除名された斎藤隆夫に自らをなぞらえる厚顔無恥な事大主義と時代錯誤の自己陶酔、「★☆につける薬はない」と、篠田さんに「勉強家」と一応は評価された有為な政治家を罵倒するだけでは芸がないし、格調高い本コメント欄の趣旨にもそぐわないから、ここはいっそのこと、泉下の丸山眞男よろしく政治学的分析を試みることにする。
石波氏によれば、「死ぬ覚悟」だそうである。ソクラテスによれば、哲学(φιλοσοφία)は「死の練習」(μελέτη θανάτου=meditatio mortis)だという。そして、弟子のプラトン以来、哲学と政治との関係は密接だ。
哲学と政治が密接不可分なのは、人間は自己の可能性を追求するために知識や技能を駆使する存在であって、しかもソクラテスの確信にもかかわらず、人間の知性は善(創造)の能力(δύναμις)に向けられるだけでなく、悪(破壊)の能力にも奉仕する、即ち政治的な性格を有しているからだ。
人間には本来、悪の能力が具わっており、それに付随する被害が日常的に観察される通りなら、人間の共存生活、つまり社会やその調整機能である政治において、文明が与える便宜を維持、発展させるため、人間による悪を、人間の手で、抑制ないし排除する必要性が生まれる。悪と知りながら悪を行うことが少なくない。仮に心に善を志向しても、現実には悪を行ってしまうのが人間性の宿業だ。
この世の政治権力は、社会と文明によって正統化され、その権威を認知された権力機構である。法とともに政治権力が悪を抑制する威圧的存在になるのは当然で、さらに法は最低限の道徳である、という考えに従えば、政治権力が最低限の道徳を支える制度的構造になる。
政治という活動の中身は、個人または集団の利害の対立や競合を、取りあえず調整、仲介して、文明のもたらす便宜を維持できるよう保証することにある。そのため、政治という分業機能を実際に担う政治家や官僚に期待されている「職業道徳」や職能は、一般市民の狭い交際の範囲で期待される道徳の物差やルールと、少なからず異なる。この事実に伴い、「政治の非道徳性」という誤解(一面的理解)や自己欺瞞、偽善と感傷が生まれる。
政治の世界では、本来個人ないし集団の利益の自己否定ではなく、自己実現の追求が第一であり、その意味で、本人性ないし党派性こそが政治の根本的性格だ。自己実現を追求する人間にとって政治は不可欠な存在であり、終点がない。こうした事情から、政治家が例えば「はったり」を弄し、必ずしも正直でないのは当然の職業道徳、職人芸である(京極純一「人間と道徳と政治」参照)。
しかし、そうした評価は、場合によっては世間の側の誤解と自己欺瞞の源泉になる。政治の「実技」という観点からは、政治家と庶民との差は五十歩百歩という量的な差であって、悪魔と天使に比するような質的な差ではない。実践できもしない道徳の物差や規則を使って政治の世界を運用できる、または運用すべきと主張する向きがあるが、それは人間がひしめき合って活動するこの社会と文明について無知である以上に人間観察の未熟というべきで、道徳でいえばパリサイ的な偽善であり、心理的には道徳以前の感傷である。
政治という分業形態を職掌する政治家や官僚も、自己について、誤解と自己欺瞞に陥る場合がある。メディア主導のナイーヴな中高生レベルの道徳的政治観がはびこる昨今、政治家や官僚が罹りやすい職業病は、自分だけを例外的に扱い、自らがもつ善と悪との能力を誤認することだ。そのため、自分の責任感、使命感が道徳的に純粋無垢であるという自己欺瞞を生み、偽善家になってしまう。
「面従腹背」を座右の銘にする元文部事務次官・前川喜平氏が典型例のように、天下り斡旋の元締めである自らには責任感、使命感など皆無で、権力欲の塊にすぎないという自己欺瞞を促し、偽悪家になってしまうこともある。政治家や官僚もまた、善悪双方向の能力をもつ。実体はありきたりの生身の凡俗にすぎないから、この二様の自己欺瞞が実際と一致しないのは指摘するまでもない。
自己と他人と双方を含めて、人間がもつ善と悪との能力について深い洞察をもつことが、有能な政治家であるための第一の条件である。道徳は二義的だ。
石波氏を見て、つくづく政治家が幼児化したなと思う。<完>
コメント33の「岩波茂雄亡き後の吉野源三郎社長時代」とあるのはWikipediaに依拠したのなら、Wikipediaの致命的なミスで、1946年4月25日の岩波茂雄死去後の後継は次男の岩波雄二郎(東大卒)、その後は78年5月30日付で緑川亨(元『世界』編集長)が務め、以降は安江良介(90年5月31日付。元『世界』編集長)⇒山口昭男⇒岡本厚と続き、吉野ではありません。
吉野は戦後直後の46年5月18日結成の従業員組合の初代委員長。51年5月10日に常務取締役。
なお、都合で割愛したコメント29の吉川幸次郎の引用(欧陽修の『五代史記』「唐六臣伝」の「論」)には続きがあり、「……もし天下の善きひとを挙げ、其の類を求めて尽[す]べて之をのぞき去らん欲すれば、惟えに指さして朋党となさんこそよけれ。故に曰く、人の国を空しくして、其の君子をのぞき去らんとする者は、惟えに朋党として之を罰せんとす」。
仮令それが本人曰く「夜店」的営為であったうえ、無謀で近視眼的とはいえ、時代と格闘した結果であることは一面の真実であり、ある種の救いがある。それは、彼が専攻した政治学という学問が本質的に具えた在り方(φύσις)であり、丸山も苦衷を余儀なくされたアクチュアルな性格(ἦθος)に伴う現実との距離感であって、手前みその自己規定にすぎない概念の縄張り(パラダイム)の中で居丈高に遊弋するわが国の憲法学界とは本質的に異なるのは明らかだ。
それぐらい、七十年来のお家芸、憲法学通説に盤踞する主流派憲法学者の知的頽廃、退行は覆い難い。その矮小化された人物の典型として、水島朝穂氏が思い当たる。
水島氏による篠田さんへの敵意を剥き出しにした長大なブログ記事「憲法研究者に対する執拗な論難に答える」(2017年10月16~20日)は、水島氏がいかに篠田さんから衝撃を受けたか、全篇「語るに落ちる」に等しい内容で、何のためにこの役を買って出たか(お先棒を担いでいるか)、「想像がつく」と以前に書いた(7月19日、com. 11)。
水島氏の常軌を逸した悪罵、悪態は末尾の「連載を終わるにあたって」でも明白であって、氏が小心翼々たる軽輩であることを物語る格好の事例である。面識もない私が、ある種の確信をもって「学界の権威に右顧左眄し党派的な行動では軽挙妄動を厭わないお調子者、唾棄すべきパリサイ人」と斬り捨てた所以だ。
私など、哲学が趣味というジャーナリスト崩れの、しがない一古典学徒にすぎないが(故吉田秀和氏に「あなたには将来がある」と言うそばから、「奇特な人」と、褒め言葉か揶揄か何とも意味不明な「褒辞」を頂戴したことがあるが…)、以下の措辞は、矜持や教養ではなく、羞恥心が邪魔してとても真似できない。丸山クラスの知識人だったら、あれほど逆上しないであろう、と容易に想像がつく。
昨日のテレビ番組を観ていて、私以上に石波茂氏にも同じ心性を嗅ぎ取ったのは、「政治的な無知」を公言して憚らない妻である。「この人、何をそんなに苛立っているのかしら?」と。女性の直観は侮れない。
末尾で、「論争」を拒否した水島氏の言い分はこうだった。
①「他分野からの憲法学への建設的な批判というものではなく、名指しされた当事者が反論するのもはばかれるような難癖に近い(中略)権力に迎合する「学者公害」のわかりやすい症例」⇒▼安全保障環境の変化という現実と格闘するような建設的な立論を回避した研究室での「静的な」解釈、議論に終始=思考停止している二流学者に言われたくない措辞。
②「篠田氏の場合、いざとなったら、「自分は憲法の専門家ではない」という「安全地帯」に逃げ込むことができる(中略)バックには、「発行部数だけは日本一」の新聞社がいる(中略)安倍政権が今後改憲を進めていくなかで、憲法学や憲法研究者に対する「鉄砲玉」として、しばらくは重宝がられるのだろう」⇒▼政府から完全に無視され、(お座敷に)お呼びが掛からない二流学者の僻みが歴然。
③「私が沈黙を破って、篠田氏の難癖に対して徹底した批判を加えたので、彼の少なくとも「憲法論」についての使用価値はかなり落ちたのではないか。(この項続く)
私の友人の妻の口癖ではないが「So What?」。まさに「だから、何なのよ~」である。
この措辞を眺めて私が想起したのは、憲法学界ではなく相似形ともいえる哲学界の人間模様である。学者とて超一流でなければ、所詮は狭い世界で鎬を削る世間知らずの凡俗の徒にすぎない。知的虚栄心がせめぎ合うアカデミズムの世界は厄介だ。誇り高き哲学者たちもポストや勢力拡大をめぐって研究以外の分野で「哲学者らしからぬ」陰湿というか浅ましい勢力争いや神経戦を繰り広げているのを直接間接に見せつけられ、疎ましい気持ちになった経験がある。
学者や知識人ぐらい、自らが目指す理想像(肥大した希望、願望)と実態(「現にあるもの」=‘παρὸν πάθος’ である貧相な立ち居振る舞いが示す自画像)とのギャップが、滑稽なくらい際立つ存在はない。自意識過剰な分滑稽だが、本人にとっては深刻だ。
人は、自己にとって最も確実な「現にあるもの」としての現実(ἔργον γιγνόμενον)に囚われ、現在(παρουσία)に執着することで、かえって現実と自己を見失う。それはロゴス(λόγος)の重圧に耐えきれない受動の状態=パトス(πάθος)偏重の偏狭な思考、論理であって、憲法学者や哲学者に限らず、知識人(Σοφιστής)によって繰り返される現実認識の欠落と同居する総合的価値判断の欠如という悲喜劇であって、専門家であればこそ、グロテスクな観念の肥大=現実離れした憲法観(知的頽廃に陥った冴えない頭脳が吐き出し絡みついた蜘蛛の巣であって、改正によって訳なく破られてしまう)にも如実に表れている。<完>
丸山を飛躍的に有名にしたのは岩波だという見解は正しいと思う。岩波書店の場合は、裸の王様どころか「ごみ屋敷」と同じだと思うてる。
ずっと以前に柄谷という左翼の著名人が憲法9条の本を出版して、それに関して行った公開対談を岩波の看板雑誌「世界」で読んで絶句した。
石原莞爾は米国との世界戦争を計画したが、敗戦後は憲法9条を受け入れ、武装排除こそ神のみちびきというようなことを考えたらしい。柄谷は、それに共感して、「敗戦したからこそ手にいれた憲法9条。これは神から与えられたと考えるほかないような運命だった」とたしか絶賛するのである。
これを読んで岩波は人寄せパンダであれば誰でも集めて紙面を稼ぐようになったか。まるで、古びたごみ雑誌や壊れたラジオや扇風機を家に散乱させて、「まだまだ価値がある」と絶叫するゴミ屋敷の住人のようだと感じてしまったのである。
当該コメントで述べた、岩波茂雄の死去(1946年4月25日)後の岩波書店の歴代社長は都合6人。その際に第5代社長の大塚信一が抜けていたので、正確を期するため補充して再説する。以上は、基本的な事実に関する限り(緑川亨を除く)、Wikipediaでも確認できる。
最初が次男の②(丸囲み数字は第2代の意味)岩波雄二郎(東京帝大文学部卒)で、32年間務めた。その後は、創業家以外から初の社長として78年5月30日付で③緑川亨(立教大文学部卒)が務め、以降は④安江良介(金沢大法文学部卒。 90年5月社長)⇒⑤大塚信一(国際基督教大教養学部卒。96年代表専務取締役=社長代行、97年社長)⇒⑥山口昭男(東京都立大経済学部卒。2003年5月社長)⇒⑦岡本厚(早稲田大第一文学部卒。2013年5月社長)と続く。講座類や学術書出版に実績を残した大塚以外はすべて『世界』編集長を経験。
なお、安江は67~70年、美濃部亮吉東京都知事特別秘書。北朝鮮に5回訪朝したように故金日成北朝鮮主席の崇拝者、大江健三郎と長年にわたり親交。岡本は「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人。
私が大学時代、父が、私の高校時代の親友たちと、読書会をしないか、と誘った。あのころまだ、学生運動のなごりが残っていたし、「マルクス主義」を知っておくことも大切かな、と思って、「若きマルクスの思想」の勉強会が成立した。一人は京大の薬学部生、もう一人は神大の理学部生、そして、関学の文学部生の私だったが、神大の理学部生の親友は、興味をもったようであったが、私たち二人は興味がもてず、父に「失望した。」と言われた。 そして、マルクス主義は資本主義と違って素晴らしいイデオロギーだ、貧富の差がなく、みんな協力するから幸せになれるし、公害問題もないし、計画経済なので、無駄な天然資源も使わないから、資源の無駄も防げる、と主張していた。けれど、卒業後現実に東欧に行ってみると、公害は西欧や日本よりひどいし、秘密警察がいて自由は制限されるし、出世のために秘密警察に仲間を密告する人までいる。そして、東欧の人々は、西欧に憧れていて、まるで幸せそうではないし・・。つまり百聞は一見に如かずなのである。
戦前一般の日本人が、「英米と戦争をすることが正義だ。」と信じたのも、マスコミ対策をした人がいたからで、例えば、外務省の上層部からは、異端児、危険思想とみなされて白鳥敏夫は、閑職にいることをいいことに、マスコミを使って自説を浸透させようとしたし、戦争への道を推し進めた「近衛文麿」や「松岡洋右」もマスコミ界の寵児だった。
書斎に籠っていても、世界の実情がわかる天才的な現実感覚のある知識人がおられるのかもしれないが、やはり、百聞は一見に如かず、特に、若い間は、「なんでも見てやろう」式の態度が、マスコミに惑わされないためには、必要なのではないのか、と思う。吉川幸次郎さんの経歴にも、戦前の北京に数年留学されていた、とある。
私が篠田先生を応援しているのも、篠田先生の主張が、実際に外国に行って、「平和を構築しよう」と活動された結果をふまえたものだから、である。
それは学者、知識人としての真の(ἀληθής)卓越性(ἀρετή)を考えることであり、ロゴスへの愛(φιλολόγος)=Philologyを通じて知を愛し求める(φιλοσοφεῖν)=Philosophy、哲学の精神であり、哲学者(Φιλόσοφος)の神髄にして、国を愛する(φιλόπολις)ことへの正道でもある。Philologyは単なる文献学的考察に留まらず、厳密で確実な思考の基盤として、哲学(Philosophy)=根源的で徹底した思考の前提条件になる。
吉川幸次郎、字は善之は、国際港湾都市・神戸の貿易商の次男。旧制三高同級で生涯に及ぶ親交を結んだ河盛好蔵の証言を伝えた桑原武夫によれば、「神戸花隈遊郭を制する」場所(花隈通りが始まる角屋敷)にあった宏壮な吉川邸は「庭には舟を浮かべ」られるほどの池があるほど殷賑を極めた。
吉川少年は後年の和国随一の中国語力という語学の達人にしては、中国語修得を始める時期は、三高三年次に中国人留学生からとけっして早くはない。しかし、多くの中国系居留民、所謂華僑が住む神戸という土地柄や生家の商売の影響もあって、小学三年で「シナジン」との渾名をつけられるほどの中国に傾倒していたようで、三高入学と同時に創刊直後の中国学研究専門誌『支那学』を購読する早熟ぶりだった。
三高卒業後に初めて大陸に渡り、春休みを上海や杭州など江南に遊ぶ。日本人の渡航がビザなしで可能な時代だった。
1928年に24歳で主任教授狩野直喜に随行して北京に留学、病を得て翌年一時帰国するも、31年までの本場の清で厳密な文献学、音韻学を修め、経学に新機軸を拓いた学者である黄侃の緻密な学風への傾倒を深め、江南游歴を経て帰国後に東方文化学院京都研究所(のちの東方文化研究所)の研究員となり、京大文学部講師を兼ねる。日頃「長袍」(チャンパオ)と呼ばれる青色の中国服を着用し黒い小帽を被るという、しばしば中国人に間違われる徹底ぶりだった。
「中華文明」に通暁しながら、明治、大正期の学者や文人にみられたシナ趣味はみじんもなく、逆に反撥さえした。研究者との会話も流暢な中国語(北京官話)であった。長年にわたって受け継がれた、中国語である漢文を訓読みするというわが国の漢学の伝統を打ち破って、中国語で中国の文物を直截かつ正確に捉えるという本来の研究手法をわが国に導入した。
その輝かしい業績の最初のピークとなる研究所での同僚倉石武四郎らとの共同研究、シナの「経」の一種『尚書』(『書経』)の註釈書である唐の孔穎達『尚書正義』のテキストの異同を精査して本文確定につなげる「定本」作成の作業は6年に及び、完成に8年を要した。
戦時下に上梓されたその日本語訳である全4巻の『尚書正義』(1940~43年、岩波書店)は、いわばその副産物であって、本場中国にもなかった文献学的研究の精華であった。司馬遼太郎が儒教文明の本場「現実の中国にも存在しなくなった鴻儒」と称した所以だ。
保守論壇の名伯楽として知られる粕谷一希(元『中央公論』編集長)がその著書の中で田中美知太郎を取り上げた際に、田中と吉川という一代の碩学を「東の田中美知太郎、西の吉川幸次郎」と並称している(『対比列伝 戦後人物像を再構築する』1982年)。
田中の場合は、「一冊の書物が、わが国のギリシア哲学研究水準を一挙に世界的な水準までに高めた、文字通り劃期的な、記念碑的な」労作(松永雄二)とされたプラトン『テアイテトス』の翻訳(1938年、岩波書店)による。いずれもほぼ同世代(田中1902年、吉川1904年)の学究による、壮年期の力作であった。しかも、公刊当時の肩書は田中が東京文理科大講師、吉川は京大講師にすぎないものの、いずれも既に鬱然たる大家として、斯学における衆目一致の傑物であった。
竹之内が京大での吉川の教え子(哲学科支那哲学史専攻。主任教授は小島祐馬)で社長時代、『田中美知太郎全集』と『吉川幸次郎全集』を相次いで刊行、奥付に両者の名と自分の名が併記(著者吉川幸次郎 発行者竹之内静雄)されたことを「一生の誇り」と回顧している(『先師先人』1982年)。
戦中戦後を通じて一度も時局認識を誤らなかった田中が、戦時中に軍や政府に極めて厳しい判断を下し、戦局の行方を正確に見抜いていたことや(それを純粋な学術論文の形で公にしたのが1942年11月の雑誌『思想』に掲載した「現実」)、戦後は一転して「保守」の立場から軽率で安易な理想主義に堕した一般的風潮に、あたかも冷水を浴びせるような「良識」で対峙し、保守論壇の「主柱」と称されたことも既に縷説した通りだ。
他方の吉川は、平和問題談話会声明への「非署名者の所感」を例外として、ほとんど時局的発言を控え、禁欲的だった。この点で田中と対蹠的である。しかし、両者とも、それぞれ古代ギリシア・ローマ文明、三千年来の中華文明という古今の偉大な世界的文明への血の滲むような研鑽を通じて、自ずと事態の真相を見抜く眼力が養われ、思想的成熟をもたらしたと考えられる。
吉川も、杜甫の辞ではないが「読書万巻を破り、筆を下せば神ある如し」とされた並外れた読解と文章力は、弱冠22歳で漢文で提出した卒論『椅声通論』が母校の並み居る支那学の碩学たちを驚嘆させたほどで、中国人研究者をも顔色なからしめた天稟の性に、「漢籍読破数は有史以来日本随一」と噂されるほど、「顔色憔悴形容枯槁するに至るまで」(桑原武夫)孜孜として学に勤しんだ。
時代への洞察力と先見の明は、仮令碩学であっても容易に身につくものではない。二人にはイデオロギー的偏見や最新流行の西欧思想の安直な解釈学的適用によるアナロジーの論理で事足れりとする現今のアカデミズムに瀰漫する弊が全くない。もって他山の石としたい。
他の特筆すべき共通点は、比類なき学殖の成果を、市井の一般人に平易に説いたことだ。田中は『文藝春秋』などに豊かな学識に裏打ちされたエッセーを多数寄稿して、護憲平和思想の一面性を解き明かして蒙を啓いた。吉川も中国詩や『論語』の翻訳、中華文明の多彩な側面を教えるエッセーが江湖に迎えられた。けっして象牙の塔に盤踞していない。
吉川の墓所は京都・東山区五条坂の大谷本廟墓地(通称西大谷墓地)、田中は円山公園音楽堂奥の東大谷墓地である。法名は田中が「美徳院釈浄智」、吉川が「文徳院釈幸善」。死してもなお、「東の田中美知太郎、西の吉川幸次郎」である。
それに比べ、丸山も憲法学も実につまらない。<完>
どうしてこういう評論家の本がベストセラーとなり、若い世代にも受け入れられて過去に一世を風靡したのだろうかとずっと考えていた。社会人となり、いろんな会社の社史を見たときに頭にひらめいた。
つまりこういうことである。
戦後日本は、まともな日本人の大部分は日本を復興させるためにビジネスや官僚や科学技術、商工業、金融、市井の職人の世界にむかった。実際の社会を豊かにする技能をもったり、すぐれた人間性をもった人物はそちらにむかったので、文系学問や評論の世界は二流、三流の人間の寄り合い所のようになってしまった。(もちろん例外的にすぐれた文人や評論家、学者もいたが例外的だった)。二流、三流の人間は排他的に社会主義にとびつき、戦前や戦中の日本を呪った。小田実みたいのも世界をまわってもさほどすぐれた観察などしてないだろう。共産主義に親和的なこういうインテリ層がオピニオンリーダーになれたのはベトナム戦争の影響が極めて大きかった。
丸山真男の抽象的で、どこかきどった鬱陶しい文体も、朝日新聞記者である父親ゆずりのものだったのかもしれない。
ある評論家が、憲法9条に自国の安全をたくした戦後日本を「一種のカルト国家」だと呼んでいた。自国民を守るのを放棄してまるごと戦力を放棄するのが絶対平和だと信じたのだから一種のカルト国家の類であるかもしれない。それがカルトであることがばれないようにジャーナリズムや教育者たちが日本国民を洗脳し、それに疑義をもつものを魔女狩りのように言論を封殺された。
吉川幸次郎さんのこと、いろいろ教えていただき、ありがとうございました。
実は、吉川幸次郎さんは、私の卒業した高校の校歌の作詞をされた方なのです。新制の高校だから、終戦後の作詞、ということになるのでしょうが。
在学中は、校歌だから、ということで、なにげなく歌っていましたが、
数年前、クラス会で、クラスメートのチェロの伴奏で、校歌を歌ったとき、みんな、とても感動して、いい作詞だな、ということになり、次のクラス会の時に吉川幸次郎さんのことを調べてくれたクラスメートもいて。
私自身は、父がとても大山定一教授を尊敬していたので、大学時代授業も取り、亡くなった後、そのお仕事を見て、ゲーテの詩の翻訳家としてすばらしいと思ったのですが、その大親友、吉川幸次郎さんも、そういう方だったのですね。だから、シューベルトやシューマンが作曲したゲーテの詩と同じように、校歌を歌ったときに、深みがある。
よくその理由がわかりました。
お礼まで。
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