レーダー照射問題が、日韓関係に影を落としている。ビデオ公開は正しい対応だ。うやむやにするべきではなく、日本の立場は明確にしておくべきだ。
もちろん韓国は、重要な隣国だ。しかしだからこそ、曖昧な態度をとるべきではない。ただし怒りを見せるべきではない。重要なのは、日本は批判を目的にしているのではなく、あくまでも危険行為の「再発防止」を求めている、と強調することだろう。
レーダー照射が韓国側の政治判断であった可能性は低い。しかしだからこそ曖昧にしてしまっては、再発の恐れを残すことになる。そんなことでは現場はたまらない。あくまでも韓国の政治対応を期待する態度を貫きながら、冷静に、「再発防止」のための徹底した検証を求めていくべきだ。
それにしても由々しきは、韓国のマスメディアが海上自衛隊が自らを「Japan Navy」と名乗ったことを問題視している、などという事態だ。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181230-00000006-jct-soci 困った話である。組織の固有名称ではなく、属性として「NAVY」という表現を使ったとしても、何も問題はない。軍事関係者の間で国際的なこういった表現を問題視する者はいないだろうと思う。
しかし、韓国内に、日本国内の憲法学者らの存在を利用して自衛隊の地位を貶めようとする動きがあるようだ。とんでもない話である。何を見ても、「戦前の復活」「いつか来た道」などの常套句を多用して、自分勝手な思い込みで相手をやり込めたつもりになる、あの紋切り型の論争術である。
このブログでも繰り返し繰り返し書いている。自衛隊は憲法上の戦力ではなく、国際法上の軍隊である。http://agora-web.jp/archives/2030765.html
政府はそのことを公式に表明している。http://agora-web.jp/archives/2030702.html
そこに矛盾を感じる人がいるとしたら、私の著作やブログを見てほしい。
政府の見解を否定して、憲法学者らの特定の社会的勢力の見方だけを絶対視するのも、まあ一つの立場だろう。だがそうするのであれば、安易な気持ちでやるべきではなく、その影響を鑑みてから、やってほしい。
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コメント一覧 (25)
日本の軍国主義者たちも、満州での戦争を、国際連盟で、侵略戦争、と裁定されたものを、自衛戦争と言い換え、国際連盟脱退した、松岡洋右を英雄のように出迎える。これは、マスコミのもつ力を如実に表している。、
朝まで生テレビを見ると、今でもなお、社会民主党の福島瑞穂さんは、集団的自衛権一部容認の日本の平和安全法制を、戦争法案、と呼び続けておられる。言葉、の影響力は大きい。
マスコミの方々には、言葉を煽動の道具ではなく、客観的に考える道具になるように。正しく使っていただきたい、とつくづく思う
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6308458
篠田さんが指摘する如く、何によらず「戦前の復活」「いつか来た道」等の紋切り型の常套句を弄して身勝手な信条や反撥を相手にぶつける「論争術」どころか「論理以前」の思考停止状態と、そうした知的停滞を事実上許している、「戦後日本」特有の思想的脆弱性は相変わらず深刻なようだ。
本ブログで篠田さんが繰り返し力説する「自衛隊は憲法上の戦力ではなく、国際法上の軍隊である」という、自明すぎる「命題」に対峙できず、かといって代替可能な別種の安全保障政策の基本になる有効な原理や考察を提示できずに現実追随に堕し、制度化された専門知の「門番」に甘んじている窮状に、何ら痛痒も屈辱も感じることなく、学問本来の人間の自由の条件を見極める厳しい真理探究の精神を欠いた学界一部の頽廃を疎ましく思う。
そこに特段の見識も権威も見出し難いことは論を俟たない。世論形成のため稚拙な政治活動を展開して愧じる気配もない論理と心理は、「九条解釈問題」自身が内包する虚妄や思想的貧困と相まって、「平和の論理」の追求が、戦争・紛争を引き起こす人間性自体の原理的な考察を回避しがちな凡庸さに伴う、不毛と頽廃を生む。
通説依拠の憲法学者や護憲派知識人、メディア勢力の欺瞞と偽善、浅薄さは、日本の戦後自体が孕む知的閉塞性を裏付けている、論理的思考の重圧に耐えきれない軽薄さ、感傷につながる。
それは畢竟、戦後の代償(ἀμοιβή)とも言えるだろう。平和と繁栄の根底にあった歴史、国際政治の「力学と構造」を読み違える盲目と偏狭性は、再び思いもよらぬ不幸と屈辱を招かぬとも限らない。
不可逆的な人口減少社会に転じた現在、拡散した問題意識を収斂させ、新たな展望を切り開けるか、知性と覚悟が試されているようだ。
「ともあれ、知者に妄語はあるまい。だから、彼の言う通りについていってみようではないか」(‘Εἰκὸς μέντοι σοφὸν ἄνδρα μὴ ληρεῖν• ἐπακολουθήσωμεν οὖν αὐτῷ.’, “Theaetus” 152B)と、ソクラテスに語らせる。
まことしやかな、もっともらしい、「真実らしき(しかし、実際はそうではない)紛いもの」を意味するギリシア語「エイコス」=εἰκός)に基づく表現に、「ありそうな言論」(εἰκὼς λόγος)、「ありそうな物語」(εἰκὼς μῦθος)があり、「まことしやかな」、「みせかけの」、「真理を語る(騙る)」類いの物語思考(εἰκὼς λόγοι)に直結する危惧を説く。
それは世の弁論家(ῥητορικός)のある種「巧妙な」主張にありがちな「真実」(τὸ ἀληθές)そのものよりも、この世の「通念」(ἐπιλογισμός)である、謂わば分かりやすく了解しやすい安直な検証不要な「常識」⇒「真実らしきもの」(εἰκός)を尊重し、追求すべきだという俗論(所謂「デマ」⇒δημηγορία)に典型な、訳知り顔の知識人の論理的難点を穿って比類ない。
しかも「理論ぎらい」(μισόλογος)の民衆の心理とも気脈を通じる本質的に同根の論理と議論における「真実らしきもの」と、ロゴス(λόγος)との桎梏(ζυγόν)、つまり論理の必然(ἀνάγκη)=論証(ἀπόδειξις)や必然性との対立も見逃さない徹底性だ。
「それだからこそ君は、俗受けをするような議論(大衆好みの話=δημηγορίας)にすぐ耳を貸して、その気になれるんだ」(‘τῆς οὖν δημηγορίας ὀξέως ὑπακούεις καὶ πείθῃ.’= “Theaetus” 162D)ということである。また、
「ただ、俗耳に訴えることを目的にしたような議論(δημηγορεῖτε)をしているのである。……神々などというものは、それは私が、あるかあらぬかぬついて、語ることからも書くことからも、除き去っておるところのものなのだ。また、人間のうちの誰を取って見ても、家畜のうちの何を取って見ても、知恵のあることにおいては、その間に寸毫の差異もないのであるということが仮にあろうものなら、それは容易ならざることだ、というようなことを言っているが、それは聞き手が俗衆(οἱ πολλοὶ)であったなら受け入れるかもしれないようなことなのだ。これに反して、諸君の言っていることのうちには、証明(ἀπόδειξιν)も、必然的にそうならなくてはならないもの(ἀνάγκην)は何ひとつありはしない。ただ諸君はそこにおいて、まことしやかなもの(τῷ εἰκότι)を用いているのだ」と仮借ない。
(‘δημηγορεῖτε συγκαθεζόμενοι, θεούς τε εἰς τὸ μέσον ἄγοντες, οὓς ἐγὼ ἔκ τε τοῦ λέγειν καὶ τοῦ γράφειν περὶ αὐτῶν ὡς εἰσὶν ἢ ὡς οὐκ εἰσίν, ἐξαιρῶ, καὶ ἃ οἱ πολλοὶ ἂν ἀποδέχοιντο ἀκούοντες, λέγετε ταῦτα, ὡς δεινὸν εἰ μηδὲν διοίσει εἰς σοφίαν ἕκαστος τῶν ἀνθρώπων βοσκήματος ὁτουοῦν• ἀπόδειξιν δὲ καὶ ἀνάγκην οὐδ' ἡντινοῦν λέγετε ἀλλὰ τῷ εἰκότι χρῆσθε,’=ibid. 162E)
一方で、真実や真理が人間の認識能力、つまりカント的な区分で、経験的(悟性的)と狭義の理性的とを問わず直ちに認識可能であるとは言い難い以上、真実(や真理)の極限概念(Grenzbegriff)として「真実らしきもの」を措定して、つまり、真実と「真実らしさ」を質的な問題ではなく量的、つまり程度の問題として考える立場も可能である。
同じ「真実らしさ」でも、より真実に近い「真実らしさ」を想定することで、少しでも真実に近づける仮設的概念として「真実らしさ」を有効に利用することはあり得る訳だ。
真実や真理を近似的な概念と位置づけるによって、つまり、微分的な問題として連続的な量、即ち「度」(Grand)=連続体としての内包量(intensive Grösse)と考えるなら、外延量(extensive Grösse)のように部分から構成されるものではなく、単一性としてのみ覚知(Apperehension)され、内包量にあって多様性が否定即ちゼロ=「0」に近づく階梯が無限に表象され得るのと同様である。
内包量=度は、どんなに小さくとも、どこまで行ってもけっして最小ということはなく、実在性と絶無性との間の中間段階のさらに小さい無限の階梯があり、連続量であるように、真実と「真実らしさ」は相対的概念という意味である。
プラトンやアリストテレスのようなギリシア世界でも非典型的な思考の達人と異なり、必ずしも世に言う詭弁家などではない自覚されざる「ソフィスト」(σοφιστής)、即ち、該博なる知識と鋭い知性を有する「知識のある人」(ἐπιστήμων)の意味での、制度的な教育によって生まれる凡庸な知識人が、圧倒的多数である所以だ。
一方で、真実や真理が人間の認識能力、つまりカント的な区分で、経験的(悟性的)と狭義の理性的とを問わず直ちに認識可能であるとは言い難い以上、真実(や真理)の極限概念(Grenzbegriff)として「真実らしきもの」を措定して、つまり、真実と「真実らしさ」を質的な問題ではなく量的、つまり程度の問題として考える立場も可能である。
同じ「真実らしさ」でも、より真実に近い「真実らしさ」を想定することで、少しでも真実に近づける仮設的概念として「真実らしさ」を有効に利用することはあり得る訳だ。
真実や真理を近似的な概念と位置づけるによって、つまり、微分的な問題として連続的な量、即ち「度」(Grand)=連続体としての内包量(intensive Grösse)と考えるなら、外延量(extensive Grösse)のように部分から構成されるものではなく、単一性としてのみ覚知(Apperehension)され、内包量にあって多様性が否定即ちゼロ=「0」に近づく階梯が無限に表象され得るのと同様である。
内包量=度は、どんなに小さくとも、どこまで行ってもけっして最小ということはなく、実在性と絶無性との間の中間段階のさらに小さい無限の階梯があり、連続量であるように、真実と「真実らしさ」は相対的概念という意味である。
プラトンやアリストテレスのようなギリシア世界でも非典型的な思考の達人と異なり、必ずしも世に言う詭弁家などではない自覚されざる「ソフィスト」(σοφιστής)、即ち、該博なる知識と鋭い知性を有する「知識のある人」(ἐπιστήμων)の意味での、制度的な教育によって生まれる凡庸な知識人が、圧倒的多数である所以だ。
翻って、日本の憲法学を取り巻く状況はギリシアの昔から、特定の価値観=合理的目的性に即して、 「人間自然の性向〔性情〕」(‘ἡ αὐτὴ φύσις ἀνθρώπων’)として変わらず継続されてきた類型的行動で、法廷弁論の一定の決まり文句のように、一定の論題に関する一定の議論や文句の共通の(κοινός)型、即ち共通のトポス(領域)=コイノイ・トポイ(κοινοὶ τόποι=loci cmmunes)と称されるものが模範や手本となる一定の弁論を示して、それを暗記させることが弁論術の教育において大きな役割を果たしていたことである。
制度化された、日本の憲法学界の通説支配と同じ構図だ。『言論の技術』(λόγων τέχνη)という題名の著作があったことが知られている。
興味深いことは、ソフィストと弁論家(ῥητορικος or ῥήτωρ)は必ずしも同一視されていないことだ。ソフィストは優れた弁論術の技術(ῥητορική τέχνη)の教師であったけれど、弁論術の教師だった者が必ずしもすべてソフィストだった訳ではではないことだ。
プラトンは両者がしばしば混同される事実(ὅτι, ἔργον)を認めながらも、双方の技術(τέχνη)、つまりがソフィストの技術(σοφιστής)と弁論術(ῥητορική)が、「立法の技術」(νομοθετική)と「司法の技術」(δικαιοσύνη, δικανική=裁判の技術)の区別に対応することを教えてくれる。
しかし、日本の憲法学界及び歪んだ立憲主義を基に護憲を奉じる政治家や知識人、メディア人は異なる。
時代や状況の変化とともに刻々と変わる安全保障環境を無視した、それこそカントの定言命法(kategorischer Imperativ)ならぬ総合的視野(σύνοψις)を欠いた現実無視の極端な理想主義で語るという袋小路に陥る愚昧(ἀπροσύνη)に至らせる。
それは畢竟、安全保障論議を立法(δικαιοσύνη)の領域(τόπος)を含めた総合的認識としてとらえる捉えることを欠いた教条主義にすぎず、その極端な観念主義が、一種の平和に対する、「平和主義」という名の、平和を祈るだけで実際には何も考えまいとする「ガラパゴス」さながらの思考停止(ἐποχή)に止まる、現実をみているようでみていない弱者(ἥττονων)の偏頗な現実認識を生む背景となっている。
それはまた、憲法という「聖域」信仰、禁忌思想を蔓延させ、延いては国民の中に本音として潜む厭戦思考、即ち、ただ戦争に「巻き込まれるのは嫌だ」式の、素朴ではあっても幼稚極まる平和観、戦争観、つまり平和を成り立たせている構造への認識に目を塞ぐベールやフィルターの役割を果たさせ、それを画一的に再生産するメディアの存在とともに、欺瞞と感傷を増幅させてきたのがこの国の戦後であることは言うまでもない。
メディアの役割と規制力などその程度にすぎず、国民はその実力に応じたメディアしかもてない、という道理だ。
いずれにしても、優れた法廷弁論家(δικανικός)が法廷(δικαστήριον)で見せる法廷弁論術(δικανική)、つまり、まさに裁判(δίκη)⇒正義(δίκη=訴訟)の術(τέχνη)である裁判術(δικανι)、即ち裁判の術(δικαιοσύνη or δικαινική)である「正義」(δικαιοσύνη or δικαιος)という古代ギリシア人が説いた裁判と正義の起源は興味深い事実を我々に教える。
我々は、現実を「自分たちのものとしては、現にあるものしかないのだ」(μόνον γὰρ ἡμέτερον εἶναι τὸ παρόν)という短絡的な受動的論理で受け取り、受け入れ難い現実から目を塞ぐために、理想という名の希望(ἐλπίς)や願望(βούλησις)に逃げ込み、希望という「危機(κινδύνευειν)の気休め(παραμῦθέομαι)」(トゥーキュディデース)に右往左往する愚行を犯してはならない。
それが、単なる「争論」(ἐρίζειν)に堕することのない、真の「論争(ἀμφισβήτησις)のため技術」として、争論術(ἐριστική)を「論争のための論争の技術」(ἀντιλογική)を超えた域へと精錬する努力を促し、他力願望ならぬ真の自前の(αὐτός)思考=自分が自らの主人(δεσπότης)であることを放棄しない思考、即ち思想的な奴隷(δοῦλος)に甘んじることを潔しとしない、本来の自由で(ἐλευθερία)徹底した思考と論理への道を開く。
安全保障政策と両立しうる本来の憲法の論理への道を開き、惰眠を貪る日本人に戦後的「迷蒙」、つまり本来の「立憲思想」からの逸脱である精神の退嬰化現象という唾棄すべき「護憲(⇒誤賢=誤憲)」平和主義」とは違った位相をもつ真の平和戦略への覚醒を呼び覚ますことになろう。
平成最後の正月に臨んで思うことは、戦後の日本人に何が決定的に欠落しているか、古代ギリシア人の「正気」の思考は、我々の戦後の歪んだ「自画像」を逆照射する「鑑」(παράδειγμα)になるということだ。[完]
現在でもなお、9条の会 をはじめとした教条的な信者がおられる。
大事なことは、日本国憲法を公布した当時、日本国憲法を修正した日本の立法者たちは、満州事変のような侵略戦争は、二度としない、と誓ったが、侵略国家に対する自衛の為の軍隊や集団的自衛権を、日本の国は持つべきだ、と考えて、日本国憲法9条を修正したことを、重く受け止めるべきだ、と私は考える。
ようするに、ナチスドイツが、ドイツ人の幸せだけを考え、世界で一番優秀なドイツ人が、世界の覇権を握れば、世界はうまく統治される、と考えたように、日本が、特に弱者の立場にある日本人の幸せを考え、また、アジアで一番優秀な日本人が、邪悪な英米人に代わって、アジアで覇権を握れば、アジア国民は幸せになれる、などという妄想を、ある一部の日本の知識人が抱き、マスコミが協力したから、おかしな幻想を日本人全体が持って、間違った道に入ってしまった。
アジアのほかの人々は、それを望んでいないのに。
本来、そういう客観的な認識をすることから、国際感覚は、磨かれてゆくのでは、ないのだろうか?
共産主義国家というものが永久に存続するとは到底思われないので、いつの日か必ず崩壊する。その崩壊時に、なにかのきっかけで軍事暴発する懸念がある。自由主義諸国との戦争にならずに人民の反抗等で内部崩壊するだけなら日本には(難民は殺到するかもしれないが、再び、あの悲惨な傘下にまみれるという)深刻な影響はない。でもそう楽観視できないのが現実。こういうことを頭の片隅でさえも考えないという恐ろしい勢力が日本の狂った左翼である。そして左翼言論人に追随したマスコミ共同体である。
アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の最終巻(第10巻7章)にある言葉だ。殺伐非情の元祖のような言葉で、古代ギリシア人の妄言と嗤うことができない、醒めた認識だ。
戦争であろうと、和平工作、交渉であろうと、紛争後の平和構築であろうと、それが「正しい行為をする」(δίκαιοπραγεῖν)場合であろうと、「不正の行為をする」(ἀδικεῖν)場合であろうと、人は必ずしも憲法や国際法(正義)や国際協調に基づいて、拘束されて行動するわけではなく、常に「選択に基づいて」(ἐκ προαιρέσεως)行っているにすぎない。
それは、現実(τὸ γιγνόμενον)を見据えれば了解可能な陳腐な(βαναυσία)「常識」(τὰ ἔνδοξα)=現象事実(τὰ φαινόμενα)の類であって、敢えて良識(εὐγνωμοσύνη)を持ち出すまでのこともない自明の理、事実(ἔργον)であろう。
従って、「正しい行為」(δικαιοπράγημα)や「不正の行為」(ἀδίκημα)を行う人が、必ずしも「正しい人」(δίκαιος)だったり、「不正の人」(ἄδικος)だったりするわけではない、ということだ。
それは格別驚くほどのことでも、取り立てて言うほどのことでもなく、ロシアや中国の行動(ἔργον)を見れば明白なように、現在の国際政治の実態だ。国際法規範が体現するのは、人類の長い歴史を通じて形成された暫定的な知恵、共通認識としての合意や契約ではあっても、未だに「人類不朽の真理」の域には達していないのが残念ながら実情であろう。
この世は理想の世界ではない。往古とは形も名分も変えたとはいえ、国際協調という美名(κάλλος)=「通念」(ἐπιλογισμός)や共通観念としての強者(κρείττων)の論理(λόγος)の側面もある国際の「正義」(δικαιοσύνη)が支配し、経済のグローバル化が推進力となって、その桎梏(ζυγόν)の下に強者が跳梁跋扈する世界である。その規制力は、宗教的正義の名を借りたテロリズムや、もはや「亡霊」の如き存在と化し色褪せた「共産主義」というドグマより遥かに大きい。
国際協調という願望(βούλησις)は願望でいい。希望(ἐλπίς)も希望に止まる限り、憲法九条解釈の現実=実態にも似て、信念の空中戦を戦わす舞台としては好適かもしれないが、一種の仮構の問題に過ぎない。
戦後初期は国民を欺瞞のベールに包んで誤導したとしても、占領下の公布・施行という拘禁状態を脱して曲がりなりにも独立を回復した後の長い「戦後の」歩みを通じて、次第に明瞭になってきた多様な矛盾(ἀντίφασις)、難題(ἀπορία)が常に存在してきた。憲法の規定をめぐる「冷戦構造」の日本的顕現であった政治闘争としては存在意義を保持し得ても、何処までも「日本的特殊性」を帯びた二義的、付随的(ἀκούσιον)な問題でしかなかった。
所詮は日本改造プログラム的宣言規定的性格をもつ憲法条項の一環である「不戦の誓い」=九条と、地政学的要因とからんだ米国の世界戦略に組み込まれて戦後の進路を選択した日本と日本人が、真に自主的に問題を選択できる余地は少ない。
戦後を規定した憲法九条と日米同盟は、隠微な「護憲主義的ナショナリズム」を生み、国民の意識を支配する思想的閉塞空間を培養する桎梏であり続けた。
戦後の平和と繁栄に不可避な代償(ἀμοιβή)を支払う時期を迎えたということだろう。
ところで、アリストテレスは極めて合理的な人間であって、まず、「常識」=現象事実、私の言葉で言えば、「自分たちのものとしては、現にあるものしかないのだ」(μόνον γὰρ ἡμέτερον εἶναι τὸ παρόν)という素朴な現実認識を提示したうえで、そこに含まれるさまざまな難題の構造を徹底的に究明し、検証されざる常識の虚偽(ψεῦδος)を証明(τεκμήρια)する。他方で真理とされる常識を同じように証明=証示する(δεῖξις)というように、二方向の難問の解決(λύναμις)を図る周到さだ。
この至極「真っ当な分別」(ὁ ὀρθὸς λόγος)は、ソフィストなら、弁論術を「技術というよりは技術以前の予備的学習」(τὰ πρὸ τῆς τέχνης ἀναγκαῖα μαθήματα)としたように、極めて合理的な考え方だ。
いずれにしても選択は手段(δι’ ἄλλο)にかかわり、願望は目的(τέλος)にかかわる。現代風に言えば、両者を事実(ὅτι)と価値(ἀξία)の問題として峻別し、二千数百年前の古代人に劣らぬよう、論理意識を開明しなくてはならない。
簡単には答えの出せない問題について議論を重ね、前のめり(προπετδεια)にもならず、たとえ好まざる(ἄκων)不愉快な(δύσκολος)問題であっても、それ自身に即して(καθ’ αὑτό)、極限(πέρας)まで検討する、真に真理を愛する(φιλαληθής)精神を心掛けたいものである。[完]
☆訂正
10の14行目以下、ソフィストの技術は [σοφιστική]の誤り。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
要するに、自国第一主義は、いけない、戦後の日本は、その政策を取らない、という方針でここまできたのであって、西ヨーロッパもEECから始まる国際協調できたから、この二つの地域は、平和が保たれたのである。
本来、それを教えてくれた、アメリカ合衆国も、それを教わった日本も、それを守って、偉大な国になる為には、一国第一主義はいけない、という基本原則を思い出さなければならないのでは、ないのだろうか?
掲げるドイツでは、民主主義を破壊する可能性のある政治活動は、ナチスの反省から禁止だし、現実の社会主義国家は、秘密警察が暗躍して、言論の自由を許さない。北朝鮮は未だにそうだと思うが、そういう国を礼賛してきたのが、進歩的知識人なのである。
謝罪にしろ同じである。ドイツ文化は、あやまるということは、自分に非があることを認めることにつながるのて、日本人のように簡単に謝らない。歴史を美化したり、自分に都合のよいように解釈するのではなく、純粋に歴史をみつめれば真実がみえてくるのではないのだろうか?
http://www.jicl.jp/hitokoto/index.html
弁護士のくせに、憲法の統治論の部分を全く忘れているのではないかと疑わせるくらいの低レベルなものでした。護憲・改憲以前に、彼らは日本国憲法そのものを知らないのではないかと思わざるを得ません。
結局は「戦争と平和」(πόλεμος καὶ εἰρήνη)の問題、「自由」(ἐλευθερία)と「正義」(δικαιοσύνη)の条件(ἡνούμενον)を如何に見定めるかという永遠(ἀίδιος)の難問(ἀπορία)に向き合い、しかも放恣(ἀκολασία)を戒め厳密に(ἀκριβῶς)思考する(νοεῖν)先にしか「真なるもの」(ἀληθής)の開示、即ち認識(ἐπισθήμη)はないと思う。
現代の国際社会にも共通の法(κοινὸς νόμος)である確立された国際法規範がないわけではない。1928年の「戦争抛棄ニ關スル絛約」(所謂パリ不戦条約)や日本が独立を回復したサンフランシスコ講和条約(1952年発効)、日ソ共同宣言(1956年発効)、改定された日米安全保障条約(1960年発効)、外交関係に関するウィーン条約(1964年発効)、核兵器不拡散条約(1976年発効)、1922年の最初の形態以来、数次にわたる人種差別撤廃条約(現行は1996年発効)、国連人権規約(1966年採択)、何より国連憲章(1945年創設、調印。日本は1956年発効)がある。
不戦条約と並ぶ存在として、かつて統帥権干犯批判を惹起したロンドン海軍軍縮条約(1930年)もあった。帝国海軍の軍事的脅威を牽制しようとした英米の思惑が背景にあった。平和志向などではない、軍事的均衡の論理だ。
それらは、すべてではないにしても、その根幹的な部分が目標(σκοπός)とする「国際の正義」を保守し得ず万能でないどころか、国際社会の強者(κρείττων)の論理(λόγος)の前に、有効性さえ定かではない。
畢竟、代替可能な制度的保障が見出せないなかでの一つの希望(ἐλπίς)の象徴であり、言うなれば、説得の手段(πίςτις=日本語にはない概念で、敢えて訳せば説得の手段である議論の結果としての間に合わせの論証の謂い。英訳はproof、独訳はBezeugungsmittel、仏訳はpreuve)にすぎない。
今なお「冷戦思考」を捨て切れずに惰眠を貪る日本人が勘違いし、見当違いな独善的で他者依存の盲目的排他主義(chauvinism)に浸っているだけの話だ。戦後の「虚妄」という真空状態から、保守、リベラル、革新を問わず訣別したらいい。
人間という存在(τὸ ὄν)は優れた立派な(σπουδαῖος)面も少なくないが、自然界においては結局、動物(ζῷον)の一種(γένος)であって、所詮は欲望(ἐπιθυμία)の赴くままに、賢慮なる(φρόνησις)者は抜け目なく(ἀγχίνοια)気儘に生きている。それが「人間自然の性情〔性向〕」=‘ἡ φύσις ἀνθρώπων’(トゥーキュディデース『歴史』3巻82章)、または 「人間の自然的条件」=‘τῆς ἀνθρωπείας φύσεως’(同3巻45章)であろう。
時には神妙なことを宣って畏まってはいても、どこまで行っても本性(φύσις)は変わらないから、過去の出来事や、これに似たことは人間特有の普通のやり方(人間性の導くところ=‘τὸ ἀνθρώπινον τοιούτων’というべきか)に従って再び将来にも起こるものだということである(同1巻22章を参照)。
それが人間の生きた証である「人間の所業」(‘τὰ γενόμενα ἐξ ἀνθρώπων’)であり、「循環史観」やヘーゲル亜流の悪しき歴史主義者や、その後継である史的唯物論を奉じるマルクス主義的な歴史的決定論とは異なる。
だから、27年に及ぶ古代ギリシア世界の両巨頭が激突した「世界大戦」であったペロポネソス戦争を記述した末の冷厳な認識は、別に驚くほどのことでもなく、そこに込められた洞察は、今日なお、米中が冷戦後の新たな覇権、世界秩序をめぐって動き出すなかで「閑人の寝言」と揶揄されることもあるまいと思うだけである。
人はとかく生きるため、畢竟は正当化された欲望と欲得(κέρδος)のために生きている。平和は手段としての条件であって、自由と正義を欠いた奴隷の幸福(εὖ πραττειν)はどうみても国際標準ではなさそうだ。
従って、国際協調という美名(κάλλος)の衣に包まれようとも、所詮は国益と国益の調整プロセスにすぎない国際政治の現実から目を逸らさず、理想を理想として可能にする、つまり、「それ以外の仕方であることのできない」(μὴ ἐνδεχόμενον ἄλλως ἔχειν)、必然性を我々は自らの問題として思考しなくてはならない。九条改正や集団的自衛権の容認などより遠くを見据える必要がある。
年末年始の政治的討論番組の不毛をみて、日本人の思想的脆弱性を痛感させられた(三浦瑠璃氏は健闘していた)。あたかも愚者の楽園だ。
我々は、後戻りできない「欲望の資本主義」の渦中に生きている。悲観や感傷は認識を生まない。[完]
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