池袋の老人暴走殺傷事故や、大津市の園児殺傷事故などを見て、それらに反応する文章を書いた。http://agora-web.jp/archives/2038517.html http://agora-web.jp/archives/2038727.html http://agora-web.jp/archives/2038898.html
専門外の素人の文章だ。ただ、人に見せる文章であるからには単なる感情論だけではよくないと思い、老人暴走にはどういう特有の問題があるのかを考えながら書いてみた。大津市の事件では、被害者を尊重するための記憶の継承について書いてみた。
もちろん私の文章は、素人の話だ。それ以上のものではない。
しかし正直、唖然とするのは、専門家と思われる「識者」の人々のコメントを見るときだ。
「暴走した老人を責めるだけではダメだ」
「高齢者全員から免許取り上げろというのはダメだ」
「マスコミを責めるだけではダメだ」
「マスコミの人間が全部ダメだと言うのはダメだ」
「ネットに感情的なコメントをするだけではダメだ」
ダメ、ダメ、ダメ、・・・とにかく突き放して見ていなければ、君はネトウヨだ、私は違うよ、だから私は専門家だ。
これって、少子高齢化社会の日本を停滞させるために繁殖しているという、あのダメ出し上司の姿ではないか。
「解決策は、自動運転車の開発を待って普及させることだ!(・・・どれくらいの時間が開発にかかるか、普及するのか、そんなことを考えるのは私の仕事ではないし、それについて私には何も責任がない)」
「対応策は、交通事故には十分に気を付けるように保育園に通達を出すことだ!(・・・気を付けると何をすればいいのか、そんなことを考えるのは私の仕事ではないし、それについて私には何も責任がない)」
こういう発想だけで生きている人こそが、「若者よ、もっと政治に怒れ」、みたいなことを言いながら、いつも周囲にカリカリした雰囲気をまき散らしているのではないか?と疑わざるを得ない。
いつから日本は、こういう緊張感も責任感もない紋切り型だけの人物のことを、わざわざ専門家だとか識者だとかと呼ぶようになってしまったのだろうか。閉塞感が漂う。
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母は、楠山義太郎さんのファンだった。それで、私もお付き合いさせていただくことになったのだけれど、ジャーナリストのリジェンド、楠山義太郎さんは、考える余地、自分で判断する自由を与えて下さる人柄だった。母の実父も、義父も、事業家として成功した人で、自分で考えて、決めて、「こうしときなさい。」風の命令をする人で、明治生まれの祖母たちは、それに従ったり、面従腹背をしていたが、羽仁もと子さんの「自由学園」で勉強し、「自分」というものがある母には、それができず、反論をする。つけられた批評が、「我が強い。」だった。けれど、戦後教育を受けた、女生徒がどうどうと男生徒を言い負かし、ほめられているのを毎日学校で見ている私には、それがどういう意味かよくわからなかった。
仕事の悩みで、楠山亭を訪れた時、楠山さんと二人で歴史ドラマを見て、「ほら。同じだろう。」と言われて、本当にそうだ、と思ったことがあるが、「政治腐敗で日本をだめにした」とマスコミがレッテルをつけた自民党から、「野党政権」にしたら、よけいにおかしくなった。つまり、これは、マスコミの世論誘導の結果以外のなにものでもない。
反氏の私への「無学」から始まる一連のレッテル付けにも同じものを感じるが、トップが判断しないとものごとが決まらない実業界や政界とマスコミ界は違う。その違いをよく知り、マスコミの人びとが、その地位を利用して、他人を罵倒したり、批判だけをする「世論誘導」をやめて、問題の解決策を見出すための「手助け」をすることが「人間の尊厳」を取り戻す道だと私は思う。
メディアに登場するコメンテーターと称される人々は、必ずしもそうした専門家や識者とは言い難い水準の面々が多く、世論に迎合する(κολακεύω)かのような、コメントという名の気儘なおしゃべり、放言(παρρησια)の類が珍しくないが、篠田さんが【しかし正直、唖然とするのは、専門家と思われる「識者」の人々のコメント】というのは、果たしてどのようなものだろうか。
「人々」と複数(πληθυντκον)で表現されているから、篠田さんが散見したメディアでの専門家、識者の評論を指すのであろうが、「唖然とする」という趣旨がこの文章(λέξις)からはあまりよく伝わってこない。早速、勘違いしたカ氏が、自分の無知を棚に上げて、戯けた御託並べる道理だ。
ともかく専門家、メディアでの活動であり、それを「業とする」(ἐπίστηδεύ=仕事とする)人々ならば、単に専門知識(ἐπιστήμη)を披歴するだけではなく、他と異なった何らかの芸(τέχνη=ars)、即ち、他とは異なる力量(ἀρετή)が当然要求されるから、時に奇矯な、非常識なコメントを発する場合もあるのだろう。
それは、所謂インテリの「自己欺瞞」(αὐτὸς ἀπάτη)というもので、専門家は充分な心得があるから、当該の事象を正確に、謂わば過不足(ὑπεροχὴ καὶ ἔλλειψις)なく認識(ἐπιστήμη)できず、誤認したり(ἁμαρτάνω)、騙される(ἐξαπατηθῆτε)たりはしないが、「素人」(ιδιώτης)は「勘違いしたり、騙されることがあるから…」式の欺瞞である。
それこそ専門家ならではの知見が求められる所以だが、その名に値する(ἄξιος)専門家が意外と少ないのもメディア上の議論の実態かもしれない。
もっとも「自分だけは愚かな民衆のように騙されないぞ」といった鼻もちならないインテリの自己欺瞞といったところで、専門外についてはただの無知な(ἀγνόηθος)世の大衆(ὄχλοι=τοῖς πολλοῖς)に等しい側面があるわけで、ある高名な(εὐκλεής)、ノーベル賞も受賞したような物理学者が「立憲主義」について、専門分野での名声(εὔκλεια)に比べ、如何に驚くべきナイーヴ(ἁπλοῦς)で近視眼的(μύωψ)、一言で言えば無知な(ἀμαθής)大衆と選ぶところがないのもまた、もう一つの真実(τὸ ἀληθές)であり、その点でインテリも集団としては大衆であらざるを得ない。
従って、専門家の本領が発揮されるのは、自らが熟知した分野での専門的知見に限られる。一言で言えば、専門家の取り柄(ἀρετή)とは、問題(の認識)をめぐる混乱(ταραχή)を、技術的に解消すること乃至は解消の糸口を提示することであって、社会的、公共的問題なら、その解決は別種の民主的な論議が必要になる。
そしてそこで繰り広げられる議論とは、学問的な真理(ἀλήθεια)の追求などではなく、所詮は「次善の手立て」(ὁ δεύτερος πλοῦς)をめぐる応酬(ἐνίστασθαι)でしかない。
妙な譬えだが、株式投資の理論の専門家が必ずしも有能な投資家ではないのは、株価を決定するあらゆる条件を前提に予想する専門的な技術、知識と、神ならざる身で、常に変動する不確定要因を残して実際に投資行動する投資家との違いだ。
つまり、事後的に如何に正確に株価を分析できようと、それは過去(ἦν)の事例として条件が確定しているからで、上昇下降トレンドに一喜一憂して売買に熱中する投資家とは異なるが、実践とは区別される。
このように、常に(αἰεί)生成変化(μεταβάλλειν)する不確定要因が絡む将来(τὸ μέλλον)の望ましい(ἀγαπητός)の選択(προαίρεσις)については、経験的な反証(ἀπόδειξις)が本性上不可能だから、雑多な(ποκίλος)それぞれの見解(δόξα)をぶつけ合うしかないわけで、そうした合意形成における優劣(εὐσχημοσύνη κὰι ἀσχημοσύνη)は、説得力(τὸ πιστικός)のそれでしかない。
専門的な知見が有効(περαντικόν)だとすれば、それは問題の全体像(τὸ ὄλος)を見極めた「総合的判断」を、当の専門家が如何に首尾よく為し遂げられるかにかかっている。
民主制、端的に民主主義的手法とは畢竟「政治決定に到達するために、個々人が人民の投票を獲得するための競争的闘争を行うことにより決定を行う制度的装置」(シュムペーター)でしかないからだ。[完]
直近の記事を読む限り守る処か守ってないようにも見えるのだが。
個人的に反出生主義なので少子化には大賛成の立場だが
少子化を問題視する立場の者が金の問題、
責任の問題、を問うて声高々に主張すれば主張するほど
少子化問題から遠のくような気がしてならないのだが。
それは尊重=配慮とは違い窮屈だったり
閉塞感だったりするのだろう。
「人間農場」か。子供を盾にした
国家主義者のようにしか思えないのだがな。
「尊重」というのならば誰しもが与えられるべきである。
それは子供であろうが中年であろうが
老人であろうが変わらない。何処に住んでようが
どの階層に属していようが其れは変わらない。
変わるというのならば元官僚であった
暴走老人は救わなければならないはず。
胸に手を当てて考えてみると良い。
しかし、こうやって考えてみると日本という国は
つくづくどうしようもない国だと思う。
生きていても何も楽しくはない。
老人になればゴミのように捨てられるだけ。
能力が無いとして社会で生きる見合う価値がないとして
老人ホームにぶち込まれて終わり。
ふざけた人生だこと。
(今後は知らないが)能無しが現状生きられるだけでも
マシなのかもしれない。ただ有難み自体は感じない。
そもそも能力主義の世の中。下方に位置するほど
尊厳なんてあってないようなもの。
どうせ下らない人生にしかならないのだから
最初から産まなければ良いのだ。
>「専門家」という名前をつけて愚にもつかないコメントを
>「識者」のコメントとして報道しているのはだれなのだろう?
>現状だけを批判して、解決策を考えることもせず、
>「若者よ、もっと政治に怒れ」、みたいなことを言い、
>現状打破のためにはそれしかない風に
>「安倍政権打倒」をさせようとしているのは、誰なのだろう?
小銭稼ぎの学者(と政治目的を持った匿名)たちですね。
扇動して庶民を前線に誘い込み手前は
後ろから高みの見物。前線で誰がくたばろうが
己の身は安全なので知らぬ存ぜぬを通す。
個人的には何したって解決はしないと思うがね。
唯一支持するのは近未来に於ける自動運転車くらいかな。
ボーイング墜落事故からも分かる通り完璧ではないが
まあ人間の手よりはマシかな、と。
ヒューマンエラーでの事故が最多だしねえ。
人間ほど危険な存在は居ない、ということ。
何とも皮肉なことで。
篠田は「子供」一点張りのだようだが暴走老人(元官僚)が
日本国に貢献したことを鑑みれば子供の一人や二人の命など
軽いものではないか?亡くなった子供は
神童というわけでもないのだろう。育ってどうなるか。
中卒か高卒か専門卒かFラン卒か一流大卒になるのか。
確率論から言えば暴走老人レベルの学歴(東京大学卒)を
得るのは難しいだろうな。
>今回の事故当事者と同一かはわからないが、事故時を
>彷彿とさせる園児と保育士さんの姿が、あまりにけなげだからだ。
>園児が飛び出さないように細心の注意を払い、道路から
>離れて園児を守っている保育さんたち。そして園児たちが
>その保育士さんを信頼して、手をつないで見上げている姿。
>園長先生らの記者会見の悲惨だった。
下らない感情論お疲れさん。
>今後、散歩に出かけることできるだろうか。
散歩に出ることの必然性は?後に繋がる生産性は?
>琵琶湖を目の前にして、子供たちを外に出してあげたいだろう。
いやそんな老婆心どうでも良いんで(笑)
もうさ少子化解消というなら法で強制するしかなくないか?
中国の一人っ子政策ならぬ二人三人っ子政策とかさ。
それと生産性だけを重視するなら生まれたばかりの子供を
国家が管理して軍隊のように鍛え上げれば良いよ。
それが最も公平であり平等でもある。
考えてもみろよ。望まない場所で生まれたばかりに
苦虫を噛み潰している側の気持ちをよ。
最も効率化されたコンパクトシティの出来上がり。
・・・でもこんなこと考えてると命は惜しい反面
もう今すぐにでも死にたくなってくるな。
男は精子を出す機械で女は精子を着床させる機械。
下らねえ下らねえw 人間社会が滅びるのも
そう遠くはなさそうだ。
最も効率化されたコンパクトシティの出来上がり。
男は精子を出す機械で女は精子を着床させる機械。
・・・でもこんなこと考えてると命は惜しい反面
もう今すぐにでも死にたくなってくるな。下らねえ下らねえw
人間社会が滅びるのもそう遠くはなさそうだ。
最も効率化されたコンパクトシティの出来上がり。
男は精子を出す機械で女は精子を着床させる機械。
・・・でもこんなこと考えてると命は惜しい反面
もう今すぐにでも死にたくなってくるな。下らねえ下らねえw
人間社会が滅びるのもそう遠くはなさそうだ。
上にいけばいくほど、その能力争いが熾烈で、批判を強く受ける、ということもわかった。また、歳と共に、できることも限られてくる。今はもう細かい手芸はできないし、高い声が出ないので、マーラーの8番の合唱をする、などということもできないし、新たな語学の習得も、記憶も忍耐力もついてゆかない。今は他の趣味をみつけている。ただ、そんな老婆の私から見れば、自分で自分に能力がない、と決めて若いのになにもしないのはもったいない。
少子高齢化、が問題になっている。専業主婦だった母も農学博士だった親戚の女性も、「自分の子供ほど、宝物はない。」といつも言っていた。確かに、子供を産んで育てると、キャリアアップに支障をきたす、というのはとてもよくわかるが、そのキャリアが長い目で見た時、どれほどの価値のあるものなのか、という疑問を私はもつ。
それを年長者として非礼を特段たしなめる(συμβουλεύω)でもないおべっか使い(κόλαξ)で親切ごかし(φιλανθρωπία προσποίητος)の老媼がいて、こちらもつい最近まで「籠城」と称して、児戯に等しい抵抗運動に専心していたから、格好の取り合わせかもしれない。
篠田さんこそいい迷惑で、匿名(ἡ ἀνωνῦμία)をいいことに乱暴狼藉の限りを尽くしている。頭はスカスカでもないようで、カ氏より部分的には筋の通った立論の萌芽が皆無(οὐδέν)ではないようにもみえるが、措辞と言い構成といい、全体としてスカスカの「クズ投稿」の典型だ。
「無学な人」(ἀμαθής)カ氏にも言えることだが、一件につき800字まで書き込めるのだから、殴り書きのような甘ったれた(γλυκύς)態度を改めたらよい。
よくものを考えずに、意趣返しでやにわにコピペで嵩増ししてクズ投稿を量産する手法がもち味の老デマゴーグが悪い手本(παράδειγμα)となっているのだろう。13~15の‘refrain’は、明らかに故意(ἑκουσίως)であろうが、過去に4回同一文章を送りつけていた老媼を真似たのだろう。4連発(2018年9月2日 10:05・22~同10:05・25)の老媼には劣るが。
いきり立って我を忘れて(ἀσχολεῖσθαι)いるようだが、自制心(σωφροσύνη)の欠如(στέρησις)といい、似合いだ。同類(συγγενής)相憐れむというのか、「愚者の楽園」そのもの。「引き籠もり」でも生産性が高ければそれもまた結構だが、放恣な(ἀκολασία)甘えた(γλυκύς)態度は、論外だ。
☆年寄りは悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。(ラ・ロシュフコー『箴言』93)
「どんな問題」についても、専門家だから良識がある、という権威で押しつけたり、反氏のように、相手を批判して貶めることによって、自分の論理的な主張を説得力をもって押し通すのではなくて、相手の立場にも耳を貸し、同時に、人間というものは、という原点にも立ち返って結論を出すべきではないかと、私は思う。
如何にも奇矯な言いぐさ(λέξις)から見誤る(πλημμελέω)向きもあろうが、匿名とはいえ、本ブログのような公開の言語空間では、なかなか公言する(ἀγορεύω)のに憚る(αἰσχύνω)ような種類の領域に踏み込んでおり、カ氏のような愚にもつかない、お為ごかし(φιλανθρωπία=fraternité)の綺麗ごと(κάλλος)が微塵もない。もう少し立論(θέσις)の構成(συντίθεσθαι)に留意して(ἐπιμελέομαι)精進するとよい。
少なくとも‘hikikomori’というからには。食うには困らないのだろうし、暇(σχολή)を持て余しているのだろうから、余裕のない(ἀσχολία)立論は改めたらよい。そうでないと、阿呆(ἠλίηθιος)の証明(τεκμήρια)、負け惜しみ(διαφιλονεικοῦτες)の遠吠えにしかならない。
「暇」を意味するギリシア語[σχολή]は、何もすることがないという点で「余裕」の謂いだ。悪い見本の老媼のように、前のめり(προπετδεια)になって、齢70近くにもなって碌な分別もない(ἄφρων)半可通のような「道化者」(βωμολόχος)になることもない。
「そんなもの」(τοιοῦτος)は、貴殿が唾棄(μῖσος)する、メディアに登場する10⇒【小銭稼ぎの学者(と政治目的を持った匿名)たち】にも劣る。しかし欺瞞(ἀπάτη)に満ちた、専門家や識者だって、無学な老婆ほど感違いが甚だしい「ならず者」(ὁ μοχθηρός)ではあるまい。
貴殿も承知の通り、この世はすべてがそうではないにせよ、欺瞞と偽善(ἡ ὑπόκρισις)に満ちている。
一向に進歩も向上もしないのが、救い難い人間という存在で、11⇒【殺すのが人間ならば救うのも人間。何とも皮肉なことで】というのも、否定できな現実(τὸ γιγνόμενον)だ。
しかし、だからと言ってどうだというのだ。それが人間ではないか。漁師(ὁ ἁλιεύς)と大工(οἰκοδόμος)、女(γυνή)と乞食(πτωχός)の宗教と蔑視されたイエスの素朴な(εὐηθικός)教えが世界宗教である今日のキリスト教になる過程で血みどろろの神学論争があったが、人間が万物の霊長であるという信仰は、疾うに世俗化され、今日の抜きがたい通念(ἐπιλογισμός)になった。個人の尊厳と言ったとことで、それは極めて人間的なこの世(κόςμος)の観念にすぎない。
ソフィストのプロタゴラスも「人間は万物の尺度」、つまり「人間は万物の尺度である。あるものについてはあることの、あらぬものについてはあらぬことの」(“πάντων χρηηάτων μέτρον” ἄνθρωπον εἶναι, τῶν μὲν ὄντων ὡς ἔστι, “τῶν δὲ μὴ ὄντων ὡς οὐκ ἔστιν.”=Platon, Theaet. 152A)と言ったが、それがキリスト教にもつながる人間中心主義、今日のヒューマニズムの原点だ。
そうした人間が相互に争い、いがみあい、殺し合ってきたのが歴史の一面であり、地球環境問題に象徴される環境を破壊し続けているのもまた、人間が生み出した技術(τέχνη)と知識(ἐπιστήμη)の集大成であるテクノロジー、結局は人間の欲望(ἐπιθυμιῶν)だ。
地球上の他の生命体にとっては人間が「厄介者」なのは紛れもない事実で、そうした認識を欠落させた人間観が他愛もないのは、‘hikikomori’も承知の通りだ。
阿呆は相手にしない、というのが市井の民の基本的な知恵(σοφία)であり思慮(φρόνησις)だが、別に殺し合いをするわけではない。愚かさの正体(τὸ τί ἦν εἶινι)を解き明かす(λύσις)ことは、それはそれで何ほどかの効用を生むであろう。何ごとも着実さ(κυρίως)が肝腎だ。
それは承認する(συγχωρεῖν)しないにかかわらず、推論(συλλογισμός)の赴くところ、結論(συμπέρασμα)、つまりは真偽(ἀληθής καὶ ψεῦδος)は自ずと明らか(φανερός)だからだ。この世ではそこにしか説得力(τὸ πιστικός)はなく、個別的な経験(ἐμπειρία)をもち出しでも、当該の命題(προτάσεις)自体の真偽に対して、何ら反証(ἀπόδειξις)にはならない。
一般に、経験に学ぶ(μανθάνω)ということは、ものを考える際の手段(ὄργανα)、経路(ὁδός)の一つ、特に議論の前提(πρότασις)の精査(πεῖρα)であって、その時々の思いつき(ἔννοια)を、殊更に「大いなる値打ちがあると思って」(περὶ πολλοῦ ποιεῖσθαι)過大視(ποιέω)しては、性懲りもなく現実の壁に跳ね返され臍を噛むのは、端的に愚鈍(ἀμαθία)で無思慮(ἀφροσύνη)だからだ。
繰り言(μεμψιμοι)と居直り(τὸν κρείττω ποιεῖν)との独り相撲(σκιαμχία)に余念がない老婆の醜態をじっくり観察する(θεωρημεῖν)とよい。そして観察とは利害の局外に立つ残酷な行為であり、基本的には「高見の見物」(θεωρία)だ。世間の思惑から頭一歩抜け出して、冷徹にものを見る覚悟(πίστις)が迫られる。[完]
「阪神大震災」で実家が全壊し、3か月もしないうちに、母が入院している病院に、サリン被害にあった大勢の被災者が運び込まれたら、いやでも現実感をもつ。なんの罪もないのに、たまたまその地下鉄に乗っただけの理由で、重度の身体障碍者になった人もいる。そして、それは、過失ではなくて、故意に、慎重に計画されたものである。反氏には、どうして、「力による支配」を志向している北朝鮮からの核ミサイルが日本に飛んでこないと、日本でテロが起こらないと、断言できるのだろう?人間とは、覇権を求め、争いを好むものだ、だから、仕方がない、ですませられるのだろうか?
問題は、中身。戦前の日本と同じように「自国の利益」だけを考えて、「他国」や「他民族」を劣等国、劣等民族とレッテル付けをして、無視したり、利用するのか、それとも、「共存、共栄」を考え、「国際協調」を志向するのか。「EU」や「国際連合」はいろいろ問題があっても、「共存、共栄」を考えて設立され、その実をあげてきた。それに対して、懐疑を醸造して、分断工作をし、「自国の利益だけを考えることが正しい」を促している勢力があることに対して、私は危機感をもつのである。日本に、日本国憲法の成立過程で、それを教えてくれたのは、米国なのではないのだろうか?
齢70近くにもなっても、世間知らずのお嬢様と何ら変わりはなく、持論の国際協調の他愛なさはともかく、「いくら何でも無学な老媼には言われたくないよ」といった体の戯けた法螺話(19⇒【「専門家」という権威をかりて、愚にもつかないことを主張しておられる人】)が止まないようだ。
ドイツの高が週刊誌の電子版を読むことが「国際通」なら、こんな気楽なことはない。碌にドイツ語のしっかりした文献のテキストを押さえた議論もできないで、滑稽にも「第二の祖国」と称するドイツについて、「50年間近くドイツ文化に慣れ親しんだ…「継続は力なり」」(9月1日・18)とか、「長い間ドイツ文化を勉強し…神髄を知る年長者」(9月14日・23)と豪語して、稚拙な「おままごと投稿」に執心する(ἐπιθυμέω)割には、現実はお寒い惨状(πονηρία)に終始してきた。
それもまあよい。しかし、噴飯なのは19②⇒【無知人さんの批判…コメント77…と私も同意見】というが、「無知人」氏の批判の対象の一人は自分であることを自覚していないようだ。惚けているとしたら、なおのこと悪質だ。
「無知人」氏の評言について、媚を売って(ἀρεσκεύομαι)、阿って(κολακεύω)どうするのだろう。「無知人」とは、即ち[ὁ ἀμαθής]で、文字通りの意味は「愚か者」だろう。少しは考えて文章を書けばよい。
‘Hikikomori’さんではなく‘hikikomori’。20も、それこそ「主観的憶測」の産物で、カ氏の妄想(φαντασία)だろう。
西ドイツから戻った後、ドイツ語の勉強を続けたいと思って、相談したら、Spiegelを船便で取ればいい、と教わって、一年ぐらいとったが、あのころは、届くまで2か月かかった。すると、ニュースの価値は薄れてしまう。今は、即座に電子版で届く、それなのに、その新鮮な記事をふまえずに、戦後すぐに書かれた丸山真男やトーマス・マンの書いたあるいは、フランクフルト学派の「ドイツ観」だけにこだわっているのは、どういうことなのだろう。
私は、諸君を誇りに思う。ドイツの未来である若者たちよ。
諸君は信頼に足りる存在である。
諸君は、再び、ドイツを大きな存在にするだろう。
より美しく、より大きく、より意味のある存在に。
我々は再び世界で筆頭の地位を占めるのだ。
かつての地位に比べて、より大きく、より高く、美しくなるのだ。
1980年にレーガン大統領が始め、現在トランプ大統領が引き継いでいるといわれる、
Make American Great Again,も類似しているのではないのだろうか?この言葉も、アメリカ人には魅惑的に響くだろうが、「国際協調」を前提にせず、「自国民」の繁栄ばかり考えていたら、美しくもないし、greatでもない、ということを歴史は証明している様に、私には思える。
カ氏は、外資系企業によくいるタイプの所謂「語学屋」で、それも大した程度ではないことは、本欄へのこれまでの投稿から、もはや説明不要だろう。相変わらず威勢がいいようだが、自分の実力の程度が分かっていないから、笑止この上ない。
文章を書けば、稚拙で間違いだらけ、日本語の文章さえ、その含意を正確に把握できない程度の人物でも何とか務まった、ということだろう。
日本の多少程度の高い週刊雑誌を読んだところで、日本について一体何が分かるのであろうか。知らないよりはましな雑識、二次情報が得られる程度で、その程度のものは、読者を特段の日本通にしない。
カ氏がしていた日本の新聞の英訳というのも、それ以外に取り柄(ἀρετή)がない、一応何らかの外国語の読み書き、通訳に必要な会話が達者な、帰国子女や元留学生が即戦力として重宝されるだけの話だ。
私の友人にも特別に有能な人物が二人、いずれも女性だが、彼女たちは特段の「国際事情通」を名乗ったりはしない。カ氏など足許にも及ばない卓越した語学力の持ち主でさえ、である。
日本駐在の外国メディア特派員の日常業務の相当部分も、日本の新聞、テレビ報道の「通辞」で、直接的な取材は少ない。外国メディアの日本の政治報道が、あたかも「朝日」の口移しの観を呈するのはそのためだ。
ことほど左様に、元語学屋の知ったかぶりは他愛がない。結局無学だから、自覚されざる迷妄のうちに漂っている。カ氏の職歴は、「だから何なの?」程度の話だ。
相手にするのも阿呆くさい。
また、楠山義太郎さんは、リットン調査団のスクープ記事、ルーズベルト大統領の単独会見に成功された、つまり、直接取材に成功されているジャーナリストで、だから、私はジャーナリストのリジェンドとして尊敬しているのだけれど、楠山さんは、90歳をすぎても、朝早く起きて、外国の新聞を読まれるのが日課だった。そして、「現役で取材していた時より、今の方が世界の情勢がよくわかる。」とおっしゃったことがあった。だから、若い私は、楠山さんのお話を聞くのが楽しかったし、相談にものっていただいた。そして、なるほど、と思うことが多かったのである。
専門家だとか識者だとかと呼ばれてマスコミで活躍している人物は、そのプロセスを踏み、「世界の中の日本」の知識人として緊張感と責任感をもって発言されているのだろうか?
プラトンやアリストテレスの辛辣さは、彼らが比類のない観察者であるだけになかなか穿っていて、実に興味深いことを指摘している。
アリストレテスは家庭人としては誠に優しい男で、生涯独身を貫いたプラトンとは随分気質的に異なるが、世間智に長けた長者の趣があって、ある意味峻厳なプラトンとの違いに驚かされる。
独身の謹厳実直(κοσμιοτης)な、所謂「道徳家」(Tugendheld)のイメージが強いカントとは異なり、ヘーゲルが如何にも現実主義者の側面を覗かせるのと類比的に考えればいい。謂わば、観念論者と実在論者の違いだ。
しかし、プラトンやカントが単純な世間知らずの観念論者(Idealist)と思ったらとんだ間違いで、アリストテレスやヘーゲルが単なる経験的実在論者(empirische Realist)ではないのと同じだ。
ヘーゲルなどあらゆるものを、つまり非合理的なものまで概念(Begriff=νόημα)によって明らかにしようという概念的思考を徹底させた点で「汎論理主義者」(Panlogist)と称される(「理性的なものこそ現実的であり、現実的なものこそ理性的である」/‘Was vernünftig ist, das ist wirklich; und was wirklich ist, das ist vernünftig.’=‘‘Grundlinien der Philosophie des Rechts’’)。
そうした卓越した社会や人間観察の達人たちが共通に指摘していることは、子供には人間の獣性(θριώδης)が残る未完の存在だということで、経験(ἐμπειρία)が糧になって老いることで賢くなる老人が少ないという、事実だ。
篠田さんが瞋恚(ὀργή)を募らせて池袋で母娘二人を轢き殺した(想定される罪状は自動車運転過失致死で、殺人ではなかろう)元高級官僚の87歳老人を糾弾している訳ではなく、老いがもたらす負の側面を――それは加速度的に進む少子高齢化であり、対策に手を拱いているうちに種々社会政策的な難題が積み重なっている――今回の不条理極まりない事故に事寄せて問題提起しているわけだ。
篠田さんのように、紛争処理後の現場で、謂わば戦後の平和構築に当たる人材育成にかかわっている人間が、不条理な人間の死(θάνατος)に敏感でないはずがない。
戦争や武力衝突に限らず、飢餓や病気、衛生状態の悪さで多くの子供が死んでいく実態を具に望見したはずだ。平和な極東の島国で、北朝鮮のミサイル実験に神経を高ぶらせて、極端な例だと人類の滅亡(ἄνθρώπων φθορά)紛いのことを揚言して焦慮を募らせている、カ氏をはじめとする素朴な平和主義者やナイーヴな核廃絶論者を眺めていると、この国の現状認識の他愛なさを痛感する。
原理的平和論者に限って、愚にもつかない平和憲法の世界史的意義とか国際協調、核兵器の即時廃棄を真顔で解いたりする。彼らにとって「現実的に」(κατὰ ἐνέργειαν)考えるということは、単に、それぞれの思慮の及ぶ範囲、自己の思考の容量、枠組みにあった、限定された「現実」(τὸ γιγνόμενον)の断片で判断することであって、それを現実の構造(ἔργον γιγνόμενον)、つまり全体像(τὸ ὄλος)と思い込んで(δοξάζω)いるだけだろう。それはどこまで行っても「現実」という名の「観念」(ἑπίνοια)と格闘しているにすぎない。
カ氏をはじめとする多くの無思慮な人々は、現実を「壁」のように、容易には乗り越えられない、どこか正体不明の対象として焦慮を募らせている。彼らにとって核兵器の恐怖(τὸ δεινός)とは、自分や家族がひょっとしたら「巻き込まれる」かもしれない恐怖にすぎず、そうした危険がなければ、如何に残忍な兵器(ὅπλον)であっても無関心(ἀμέλεια)という体たらくだ。
‘hikikomori’氏の投げたボールから、妙な議論になったが、いずれ先に死ぬ運命の、大した知恵などない老人の焦慮など嘲笑って、逃げずに、人間という難題(ἀπορία)に取り組んだらよい。みんな欲得で生きている。食うためだけに働くのは奴隷(δοῦλος)だし、食うに困らぬなら、引き籠もりもよいのかもしれない。
問題はだらけた立論の方だ。時間があるのだか、精進されるとよい。[完]
日本のマスコミ知識人が学歴を売り物にするから、神童というわけでもないのだろう。育ってどうなるか。中卒か高卒か専門卒かFラン卒か一流大卒になるのか、ということに価値基準がいくのであって、大事なことは、生きている人間一人一人が、他人と協力しながら、自分自身の個性を発展させるように努めることが大事なのである。プラトンやアリストテレスやカントやへ―ゲルの話は、興味のある人が、哲学を専攻し、それが好きな仲間と話し、自分の考えを発展させてゆけばいい。クラシック音楽好きがベートーヴェン、ワーグナー、シューマンについて話すのと同じ、十人十色である。
「国際協調主義者」と 「原理的護憲主義者」は、対極にあるのであって、「原理的護憲主義」は、日本国憲法の主権は日本国民にあるのだから、日本国憲法の規定は国際法の規定よりも優先される。平和を構築する為に、日本国民は、日本国憲法9条を、カントの定言命法に従って解釈する。つまり、軍備をもたない、そして、戦争を誘発する恐れのある「集団自衛権は違憲」である、と主張する人々である。国際協調主義者は、パリ不戦条約、国際連合憲章に基づいて、日本国民は、国際紛争を解決する手段として戦争を放棄する、つまり国際紛争を平和裏に法律や話し合いで解決しようとするが、侵略戦争に対しての個別的、集団的自衛権の為の軍備はもち、地域の集団安全保障を確立していく、と主張する人々である。核兵器廃絶については、世界の文明を崩壊させる核兵器は廃棄しなければならない、と考えている。この考え方は、日本国憲法9条を修正された芦田均さん、米国元国防長官、W.ペリーさんと同じ考え方で、非現実的な考え方とは思わない。
論争は勝つことが目的ではなくて、手段である。専門家と自称して、その権威で叩くのではなくて、本来、どうすることが、国際社会の為なのか、平和を構築することになるのか、ということを、現実的、民主的に、筋道をおって、よく考えるべきなのではないのだろうか?
20~21、36を眺めて(θεάομαι)いると、「今や美徳がすっかり自分のものであるかのような顔をしている。『われわれだけが善人だ、義人だ、われわれだけが善意の人間だ』(homines bonae voluntatis)、と彼らは称する。彼らは非難の権化、われわれにたいする警告となって、われわれの間を徘徊する」(同)ということがそのまま当て嵌まる。「親切ごかし」、というか「偽善」(ἡ ὑπόκρισις)の最たるものだ。
「田舎者」(ἄγροικος)根性丸出しのドイツ人に多いタイプで、だからあれほど同胞のニーチェが攻撃したのだろう。彼の嘲笑う(σκῶμμα)声が聞こえてきそうだ。
「徳、それは聞くものが薄笑いして、教師もそのような言葉では、もはや何も考えることができないような時代遅れの言葉なのだ」(‘Tugend ist ein Wort, bei dem Lehrer und Schüler sich nichts mehr denken können, ein altmodisches Wort, über das man lächelt ―und schlimm, wenn man nicht lächelt, denn dann wird man heucheln.’(‘‘Unzeitgemäße Betrachtungen’’, Drittes Stück, Schopenhauer als Erzieher, Werke, hrsg. von K. Schlechta, Band 1, S. 292.=『反時代的考察』第三篇「教育者としてのショーペンハウアー」)
例えば、36⇒【大事なことは、生きている人間一人一人が、他人と協力しながら、自分自身の個性を発展させるように努めることが大事】とある、主語(ὑποκείμενον)が「大事なこと」、述語(κατηγορούμενον)が「…が大事」で、重複表現の稚拙極まる文章だが、論理的には要するに同語反復(tautology)に当たる。「命題は、それが語っていることを示しているが、同語反命題と矛盾命題は、何ごとも語らないということを示している」(『論理哲学論考』:‘‘Tractatus Logico-Philosophicus’’4-461)ということになる。
神経(νεῦρον)が行き届いていない、愚にもつかない文章を綴って愧じる様子もない。神経がピアノ線かクジラの髭でも、できているのだろう。並みの(κοινός)神経ではないことは確かだ。少しは「文は人なり」という芸(τέχνη=ars)がほしいところだが、「思考の働きとしての器量」(ἡ διανοητικὴ ἀρετή)も、「人柄としての器量」(ἡ ἠθικὴ ἀρετή)も並み(ὁ τυχών)以下だから、自らの偏狭性については一向に気が回らないようだ。
老媼の議論は、カ氏がよく言う一方的な断定(λῆμμα)に基づく、着実な論理的推論を欠いた狂信的な(μανικός)戯言に等しい。「思慮を欠く」(ἄφρων)老人(πρεσβύτης)は、幼児に劣る(φλαῦρος)所以だ。
もっとも、「ゲーテ・ヴァイツゼッカー教」の巫女(προφῆτις)の、何やら信仰告白めいた「神がかり」(ἐνθυσιασμός=霊感)状態の御託宣(μαντεία)、畢竟「物語の領域に属する」(μυθώδης)妄説(ἀλλοδοξία⇒‘Karoline Doctrine’)を作る(ποιέω)ことに躍起になっているだけだろうから、相手にしない。
自分を「ほったらかしにして」(ἀμελέω)、愚にもつかない「投稿のための投稿」に憂き身をやつすしかない憐れさは、‘hikikomori’ 氏以上の焦慮(μανία)に満ちている。居たたまれぬ思いに突き動かされて(ὁρμάω)、政治や政治家について軽率に語る倨傲は無謀極まりなく、ほとんど狂気の沙汰(ἡ μανικός)だ。熱意(σπουδή)を通り越して熱病(θερμόν)にうなされているのだろう。
精神の幼児(ἔκγονος)に等しい人物が、国家公共の事柄(τὰ τῆς πόλεως πράγματα)を、しゃかりきになって論じる。自身の感覚では切実で気の利いた議論(ἀστεῖος λόγος)をしているのだろうが、結局ドイツ贔屓の自己欺瞞(αὐτὸς ἀπάτη)でしかない。
トーマス・マンやアドルノが嫌なら、アーレントの『イェルサレムのアイヒマン―悪の凡庸さについての報告』(“Eichmann in Jerusalem, A Report on the the Banality of Evil”, 1963.)でも読めばよい。
同書のそこかしこにも、「ナチスとの訣別」を掲げながら、元ナチス関係者、協力者が行政や司法、アカデミズムを支えていた戦後の西独の実態が如実に示されていて、ナチスの確信犯的協力者のハイデガー批判さえタブーだった実態がよく分かる。[完]
☆狂人と愚か者は、気分でしかものを見ない。(ラ・ロシュフコー『箴言』414)
Wenn Tugend und Gerechtigkeit
Den grossen Pfad mit Ruhm bestreut;
Dann ist die Erd' ein Himmelreich,
Und Sterbliche den Göttern gleich.
徳と正義を名誉と共に、道一杯振りまこう。
そうすれば、地球は天国となり、死すべき人間も神に近づく。
この「魔笛」は、私が手術に失敗されたために、弟のいたニューヨークから私の看病のために戻ってきた母が、ちょうどテレビ中継されたこのオペラを見て、感動をし、心が落ち着いたそうであるが、私がミュンヘンにいたころは、小さなオペレッタ専門の劇場で上演されて、大勢の子供も来ていた。
子供は人間の獣性が残る未完の存在で、経験が糧になって老いることで賢くなる老人が少ないという、事実を指摘し、だから仕方ない、と論を進めていてもなにも変わらない。
獣性のある未熟な子供が、徳と、正義を知って、自分を修養していく、というのが大事なのではないのだろうか?それが、修行なのであって、人生の意味だと思う。前にも書いたと思うが、ドイツにはフランスと違って、様々な経験を積んで、少年が成熟していくという「教養小説」の分野がある。戦後のフランスでは、ニーチェはフロイト、マルクスと並んで三大懐疑派の一人で、フランス文化、特にジャック・デリダたち、ポスト構造主義の哲学者に大きな影響を与えたようであるが、ドイツ文化圏の捉え方はまた違う。
また、「魔笛」のパパゲーノとパパゲーナのデユエットには、自分たちの子供を大勢もつ夢が、歌われているのではないのだろうか?
私は、ハイデガーを責めるのなら、カール・シュミットだと思うが、ハイデガーは、ユダヤ人のアウシュビッツでの大虐殺に賛成したのだろうか? ユダヤ人の公民権のはく奪、アウシュビッツでの大虐殺、を除いた「国家社会主義」は、戦前の日本でもしたことだし、現在ヨーロッパの極右勢力が志向していることである。それは、マルクス主義と同じ、実行に移すと一つの危険な理論だ、ということがよくわかったはずなのに、また始めている。
私自身は、はじめて米国に行って、人種のるつぼのような国で生きるのは、大変だな、と思った。親友は、今でもニューヨークで頑張っているから、性格に合ったのだと思う。ただ、私は住みたくない。
また、あのナショナリズムの強い時代、戦争に負けたから、というだけの理由で、多額の賠償金を払わされ、英仏の思いのままにふるまわれたら、民族のプライドをかけて、ドイツ魂、が発揮されても、不思議でない。ヒトラーは、それをうまく利用したのであって、ドイツ人が非政治的国民、野蛮な国民、などとは全く思わない。
バノングループが、緊張関係を促しているのは、米中関係だけではない。イタリアの教会を学校に改装して、ユダヤ教徒とキリスト教徒が組んで、イスラム教徒をやっつける、教育機関まで創設している。これは、アラブ世界で米国軍がイランと対峙しようとしている構図とも呼応するが、これもまた、イランのナショナリズムをかきたてる。彼らは、ジハード、聖戦、と考えるし、その犠牲者の数ははかりしれない。また、その戦争の為の難民は、ヨーロッパに流入し、社会問題を引き起こす。
本来、この悪の連鎖を断ち切るためには、レッシングが「賢者ナータン」で主張した3者の「共存、共栄」、また脱亜入欧ではなくて、アジア文化を含めた「国際協調」を志向する必要があるのではないのだろうか?
それにしても、臆面もない(ἀναισχύντως)からご都合主義も驚異的(θαυμάσις)で、その鈍感さ(ἀναισθησία)、厚かましさ(ἀναισχυντος)はまさに何でもありで、比類がない(ὑπερβολή)。例えば、最近の次のような「籠城」の言い訳をしていた。即ち、
19⇒【私が書きたい内容が、篠田教授の投稿されたブログのテーマとかけ離れていた…無知人さんの批判…(「憲法学者の憲法解釈の指針はなにか」…77)と私も同意見…こうなる前の、篠田教授の投稿されたブログのテーマとからみあったことに、様々な人がコメントを投稿し多種多様な意見が交わって】という発言の趣旨からして、カ氏が当該の「投稿されたブログのテーマ」に厳格に従っているとも思えない。
☆老いた狂人は、若い狂人よりさらに狂っている。(『箴言』444)
それにしても、恐れを知らない(ἀφοβία)というのは、狂気(μανία=マニア)に等しい。
カ氏が一種の「道徳家」(Tugendheld)、実質はニーチェの措辞なら「道徳的自瀆者」(der moralischen Onanisten)であることも指摘した通りだが、その愚劣なおしゃべり(λήρησις)を聞いていると、実は、ニーチェの仮借ない批判の対象である「偽りの道徳」(eine verlogene Moral)であることは明らかだろう。嘘ばかりつく「不誠実な人間」(ein verlogener Mensch)=嘘つき(Verlogenheit)というのは世に多いものだが、誠に凡庸な人物(οἱ μέτριος)にすぎないカ氏にもその習性(ἦθος)は色濃い。
そこに「本当の意味で知識と称されるに値すると考えられる」(τῆς κυρίως ἐπιστήμς εἶναι δοκούσης)確かな(κυρίως)認識(ἐπιστήμη)など何一つないこともまた明瞭で、早朝からまた何をいきり立っているのか知れないが、何とも血気盛んだ。
最近はめっきり陽が伸びた。アテーナイが位置するアッティケ地方の暦では、夏至(θερινὴ τροπή)をもって新年の始め(ἀρχὴ)とする。第一の月を「ヘカトムバイオーン」(Ἑκατομβαιών)という。「牡牛百頭の犠牲」(ἑκατόμβαι)がゼウスに捧げられる月というほどの意味で、この月28日は、ゼウスの娘でその頭から生まれたとされるアテーナイの守護神、アテーナー(Ἀθηνᾶ)の誕生日を祝う大祭「パンアテナイア」(Παναθήναια)の初日と定められている。
ついでに言えば、ギリシア人は今も昔も自分たちの国を「ギリシア」とは呼ばない。「ヘラス」(Ἑλλάς)と称する。「ギリシア風の」を意味するヘレニズムはその形容詞[Ἑλληνίς]が語源。「ギリシア」とはラテン語の‘Magna Graecia’(マグナ・グラエキア)に由来し、ラテン語風の発音なら「ギリシア」で、専門家はこちらを使うのが多数派(οἱ πολλοί)であり「ギリシャ」ではなかろうが、日本語なら「ギリシャ」でもよいのかもしれない。
ゼウスの娘で、トロイアの王子パリス(Πάρις)が連れ去ったことでトロイア戦争(πόλεμος)の原因(αἴτιον)になった絶世の美女ヘレネー(Ἑλλένη)も「ギリシアの」(Ἕλλην)という形容詞に由来する。
閑話休題。半可通(ἡμιπόνηρος)の自らの無知蒙昧を棚に上げて、44⇒【自分たちは…「正確な言葉」で表現しようとせず、扇動者の使う言葉をそのまま使って、視聴者をだます】というのも妙な話で、「戦争と摩擦」云々の幼稚な議論は救いようがない。「平和構築」の用法も、カ氏一流の拡大解釈だろう。
社会(共産)主義や専制支配を糾弾する割には、中国共産党の一党独裁、人民ならぬ実質的に世界最大の党派による寡頭制(ὀλιγαρχία)支配で、「人権侵害大国」、覇権国家(δύνάστης)そのものの中国には随分点が甘い。二重基準もいいところだ。
ハイデガーとかC. シュミットとか、読みもしない、読んでも理解できない名を挙げて、何ごとかを語った気になっている愚劣な老デマゴーグ(δημαγωγὸς)を相手にしても仕方ないが、このところの隠れたテーマである老害(γηράντων κακός)というのも、人ごとではなさそうだ。
余りに早く目覚め、お頭に血が上っているのだろう。[完]
明治時代に高等商業学校を卒業した祖父の方が、京都大学の哲学を専攻した父よりも、少なくても、私がものごころついてからは、政治のセンスがあったように思う。祖父の本棚には、ルーズベルトに始まって、吉田茂さん、岸信介さんなど歴代の政治家の外交録があり、父の本棚には、カント、ヘーゲル、マルクスの本があった。私は、祖父の本棚により興味があって、いつか読もう、と思っているうちに、大震災になってごみになってしまったが、 父のように純真で、社会経験がなく、哲学を学ぶと、理論先行になり、論理的に納得して、マルクス主義やおかしな理論に騙されてしまうのではなのだろうか?父は、京大の世界史で90点がついた、とよく自慢していて、すごい、と思ったが、そのことと、政治のセンスは違うのだな、とつくづく思う。
ワイツゼッカー演説にこんな箇所がある。Wir haben wahrlich keinen Grund zu Überheblichkeit und Selbstgerechtigkeit. Aber wir dürfen uns der Entwicklung dieser vierzig Jahre dankbar erinnern, wenn wir das eigene historische Gedächtnis als Leitlinie für unser Verhalten in der Gegenwart und für die ungelösten Aufgaben, die auf uns warten, nutzen.(戦後、自由で民主的な経済先進国になったという理由で)、西ドイツが、傲慢、或いは、独善的であっていい、という理由はありません。けれども、もしわれわれ自身の歴史的な記憶が現在の我々の行動のガイドラインとして、あるいは、我々を待ち受けている問題の解決に役立つのなら、この40年の発展を感謝して振り返ってもいいでしょう、という言葉に、日本のことを含めて考えても、そのとおりだ、と私は思う。
やはり、音楽家モーツアルトが「魔笛」で主張しているように、徳と正義を名誉と共に、道一杯振りまこう。そうすれば、地球は天国となり、死すべき人間も神に近づく。が正しいのではないのだろうか?
その精神は、日本国憲法の前文にも符号しているのだから。
論証の材料(ὕλη)はすべてカ氏が提供しており、誹謗中傷(λοιδορία καὶ συκοφαντία)に相当するとも思えない。帰謬法(ἡ εἰς τὸ ἀδύνατον ἀπόδειξις)で、カ氏の立論(θέσις)における夥しい誤記と誤読、事実誤認の虚偽的議論(παραλογίζσεθαι)である理由(πρόφασις)を洗い出して、論証以前とでも称すべきカ氏の主張が、如何にでたらめで、到底、真っ当な(ὀρθότης)推論(συλλογισμός)とは呼べない、つまり論理的(λογικός)に不可能な(ἀδύνατον)=不成立の所以(τὸ διότι)を具体的に論証する(αποδείκνυμι)、つまり証明する(συμβιβάζειν)ことに徹してきた。
従って(οὖν)、それがカ氏にとって如何に不名誉(ἀτιμία)で、それを認めることがたとえ致命的な(θανάσμος)打撃(τὸ κακός)を蒙る(πάσχειν)ことであったとしても、すべては自ら播いた種なのである。今さら、泣き言(τὸ βοᾶν)を言っても仕方がない。
論争(ἐρις)とも呼べない、一見不毛(κενός)にみえる応酬(ἐνίστασθαι)を通して、私は無駄な(ἄχρηστον)論証の必要がなかった。カ氏の立論が含む虚偽(ψεῦδος)を技術的に(τεχνικός)解消する、つまり論理的にあり得ない事情を示しただけだからだ。
つまり、誰が言ったかではなく、何が言われたか、そうした論理的推論の帰結(ἑπόμενον)が導く(ἄγω)不可避な(ἀναγκαῖοπρσς)事態、つまり「認識の赴くところ」(ἐπισθημονικός)に従って、カ氏のまやかしに満ちた醜悪な姿が明らかになっただけの話だ。
カ氏は論理的思考(λογιστικόν)が酷く苦手のようだ。初歩的な知識(ἐπιστήμη)や技量(τέχνημα)さえない。
例えば49②⇒【(カ氏の)父のように純真で、社会経験がなく、哲学を学ぶと、理論先行になり、論理的に納得して、マルクス主義やおかしな理論に騙されてしまう】という、「マルクス主義の信奉者はすべて現実認識が欠落している」というに等しい、一種の全称肯定命題(τὸ καθόλου καθαφατικὴ πρότασις=すべてのAはBである)に反証(ἀπόδειξις)することは容易だ。
その否定(ἀπόφασις)、即ち「マルクス主義の信奉者で少なくとも一人、現実認識が欠落していない人物が存在する」ことを示せば、命題の「偽」(ψεῦδος)を証明できるからだ。
逆に、カ氏の父親で世間知らずらしい単細胞の元哲学学徒が、如何に現実的な政治認識が欠落した人物であることを証示したとしても、それは「マルクス主義の信奉者はすべて現実認識が欠落している」ことの論証(ἀπόδειξις)にはならない。
カ氏が行っているのは、実例を示す枚挙(ἀπολογίζεσθαι)の一環の例示でしかなく、父親というたった一つの個別的事例をそれと指し示す(δεῖξις)だけでは、元より何の証明(τεκμήρια)にもならないからだ。
このようなことは、カ氏が端的に愚鈍(ἀμαθία)である証拠(τεκμήριον)だが、分かり切ったことなのでそれはこの際、どうでもよい。それより、カ氏個人の特定の見解(τὰ ἔνδοξα)や個別的体験(πείρα)=素朴な直接経験(περιπτωσις)を愚直に(εὐθύς)信奉する(πιστύω)「実感信仰派」(ἐμπειρικός)にありがちな、単なる思いつき(ἔννοια)を、殊更に「大いなる値打ちがあると思って」(περὶ πολλοῦ ποιεῖσθαι)過大視する(ποιέω)お目出度さ(εὐήθεια)こそ滑稽だ。
憲法前文の理想や、オペラのモチーフなどをもって回る単純さ(ἁπλοῦς)も(49③⇒【徳と正義を名誉と共に…振りまこう。そうすれば、地球は天国となり…人間も神に近づく。が正しい…その精神は、日本国憲法の前文にも符号】)、「純真」で理想化肌のナイーブな父親と、一体どう違うのだろう。
「何んとか」につける薬はない所以だ。
ナチスからの解放と訣別を掲げ、「非ナチ化」が国是だった」戦後の西独の欺瞞(ἀπάτη)について、43⇒【反氏の理論は、韓国の進歩派の主張と同じ…元ナチス関係者、協力者が行政や司法、アカデミズムを支えていた戦後の西独は、韓国におきかえてみれば…「親日派」への批判、彼らを排除すべきだ、と同じ】というが、日本の植民地統治下の協力者として指弾される「親日派」はドイツとは根本的に異なり戦争犯罪者ではない。類比的に(κατ’ ἀναλογίαν)論じることなど、不可能だし、論外だ。
見境のないドイツ弁護で、醜悪そのもの。[完]
ただ、私は、東大系憲法学者のようにナイーブではないので、軍事力を日本が放棄すれば、世界の国々も日本を見習って、国際社会の平和が確立される、とはまるで思っていないし、国際社会の現状もそうなっていない。また、日本が軍事力をもっていないわけでもない。
けれどももし、北朝鮮が、武力で韓国を侵略した場合、日本は、米国や国連軍と協力して、韓国を守るべきだと私は思う。それは、北朝鮮が自国のことのみに専心して、韓国国民の意思を無視しているし、それを放置すると、ナチスドイツと同じ、領土拡大をめざして、日本にまで武力で攻めてきかねないからである。それが、「集団的自衛権」の行使で、本来の日本国憲法9条が、「平和確立」の為に認めているもの、そして、モーツアルトが「魔笛」というオペラで主張したものだと、私は考えている。
ヨーロッパでナチスドイツにたいするレジスタンス運動が各地で起こり、戦争中は、ナチスドイツによってレジスタンス運動をした人々は虐殺されたし、逆に、戦後すぐは、ナチスドイツ協力した人々は、ヨーロッパ社会で虐殺されたのである。戦後すぐは、なんでも、悪いことはすべて、ドイツ人がした、という勢いだった。だからこそ、普通のドイツ人は、身を守る為に、ドイツのパスポートを隠さなければならなかった。それは、ドキュメンタリーでも描かれているし、ワイツゼッカー演説でも言及されている。韓国の場合、例えば、ポーランドと比べて、戦争中の反日のレジスタンス運動が少なかったから、戦勝国になれなかった。
要するに、現実の姿は、戦争中は親日であったのに、戦後、独仏が友好関係になったのと違って、米国帰りの李承晩の「反日」の強硬姿勢路線がずっと続いたために、表現を変えれば、戦後の反日路線(ワイツゼッカー氏の嫌うgegen)が、韓国の「歴史教育」でずっと続いているから、それをナイーブに信じる「ムンジェイン」大統領の元で、日韓関係が最悪になっているのだと、私は考えている。
以前に書いたと思うが、ミュンヘンにパリから「ワーグナーのリング」を見るためにやって来た東大の文学部を卒業した男性も、「テロリスト」である重信房子さんは、やさしい、いい人だよ、と述べていた。要するに、やさしい人が、理論的に納得すると、理論の奴隷になって、「正義を行っている。」と錯覚して、テロを含む殺人を起こすのである。その例は、連合赤軍だけでなくて、ナチス、血盟団、オウム、イスラム国、など枚挙のいとまがない。、
そういう歴史を知り、人間とは、こういうものだ、という認識をもつことも、「平和を構築」する上で、大事なことなのではないのだろうか?
「日本国憲法の前文にはこう規定」と称して、薔薇の指さす(ῥοδοδάκτυλος)「曙」(φᾶνή)、つまり夜明けに(ἃμα τῇ ἡμέρᾳ)、覚醒する(γρηγορεώ)そばから、血気盛んと言うか逆上せ上がって(ἀγωνία)愚にもつかない御託を並べている。即ち。
55⇒【普遍的な政治道徳の法則を、全力をあげて達成することを、日本国民は、国家の名誉にかけて誓っている、ということは、「徳と正義を名誉と共に、道一杯振りまこう」という意志…「魔笛」の「童話的表現」から、「日本国憲法」の「格式のある法律的に表現」に変換しているにすぎない…地球は天国となり、死すべき人間も神に近づく、という表現は…平和が確立され、我々は自由に、豊かに生きられる、と読みかえることも可能】らしい。
小中学生程度の分別のつかない子供が、教師に教え込まれたことを、親の前で得意げに吹聴する(περιφέρω)姿をどこか髣髴とさせる。
ヴァイツゼッカー演説を崇拝する(προσκυνέω)だけでは足らず、憲法「前文」盛られた理想(παράδειγμα)を本気で信じている(πίστεύω)ようだ。日頃は「現実的に」(κατὰ ἐνέργειαν)考えるなどと称して、護憲派やメディアを理想主義(Idealismus)、「観念遊戯」(ἑπίνοιαν παιδιά)と糾弾している論調との落差に驚かされる。
カ氏にとって、理想と現実(τὸ γιγνόμενον)との矛盾(ἀντίφασις)など、さほど驚くべきこと(τὸ θαυμάζω)ではないようだ。単純な護憲論者ではないにしろ、原理的平和論者である所以だが、前文に、あたかも「真理」(ἀλήθεια)が宿っているかのような口ぶりだ。
憲法前文の趣旨というか精神は、国連憲章と似たもので、それこそ世界の現実と取り違える(ἁμαρτάνω)のでなければ、人類(τὸ ἄνθρώπινον γένος)が目指すべき目標(προθέσις)として、それはそれで構わないが、自らの他愛もない(ῥᾳθυμηος)、それこそ単純でお目出度い(εὐήθεια)、つまりナイーブな(ἁπλοῦς)信仰(πίστις)の類を憲法前文に読み込み、そこに逃げ込むのは、思考における人間的自由(τἀνθρώπινον ἐλευθερία)を尊ぶ独立した大人の態度とは、到底言えない。
ギリシア語のテキストを読むのに疲れた目で、何気なしに寺田寅彦の遺した雑記帳の類をめくっていたら、「人間真善美など(と)云ふ観念は四十歳頃になれば消ゆるなりと或人語りぬ」(『寺田寅彦全集』第17巻雑三「覚えがき帳」〔明治31年頃〕、12頁)とあった。
出典がいずれかは、にわかには判然としないが、まあ、大人の分別(σύνεσις)というのは、そうしたものだろう。
憲法(Verfassung)が最高法規(τέλεον νόμος)だからといって、それを金科玉条にして、他の条件を度外視して教条的に論じるのは、法解釈(ἐξηγέομαι λόγος)、つまり法律論(νομικός ἐξηγέομαι)としてもどうかと思うが、安全保障など立法論(立法術=ἡ νομοθετικός)、それと不可欠な政治論としては問題外だろう。
政策論が憲法の解釈論、つまり立法論ではなく法律論にすり替わって、所謂「神学論争」の観を呈して先に進まない窮状(九条)は、以前から心ある識者の指摘してやまない戦後の政治的貧困(πενία)だった。
そもそも、「絶対」(absolut)とか「純粋」『Reinheit, rein』とかいう言辞を弄ぶというか、ありがたがる人間に限って、論理的思考能力(λογιστικόν)が恐ろしいほど(φοβερός)が欠如(στέρησις)している。「絶対平和主義」は空語に等しいし、「平和憲法」(Friedensverfassung)という呼称も、単なる形容詞である。
この世(κόςμος)の現実に「絶対」や「純粋」が存在しないという一般的な理解の話ではなく、例えば「絶対」とは、それが当てはまるクラス(集合)のメンバーが皆無(οὐδέν)ということの論理的、数学的表現であって、ものの名前に「絶対」の二文字を重ねても、実質的な意味(διάνοια)は何もない、ということなのである。
現実世界ではメンバー、即ち外延(extension)のない「空集合」の謂いにすぎない。思考の過程で使用する概念程度に考えておけばよく、その含意(ἔμφασις)は「無条件に」(ἁπλῶς)ということを意味するにすぎない。
半可通のカ氏が、意味を正確に(ἀκριβῶς)理解せずに、莫迦の一つ覚えのように喋喋するカントの「定言命法」(kategorischer Imperativ)にしたところで、「定言的」(kategorischer)とは論理的には「無条件」の謂いで、従って「定言命法」とは、「絶対命令」のこと意味する。
カント自身が「無条件に妥当する命令」として、道徳法(Sittengesetz)の原理に据えた定言命法は、道徳法は意志(Wille)の法則(Gesetz)であり、ある行為を強制するのではなく命じるという趣旨に沿ったものだ。自然法(Naturrecht)が必然(Müssen)を表しているのに対して、道徳法は人間の自由意志(ἑκοῦσα=aus freiem Willen)の世界、つまり当為(Sollen)=「…すべし」(sollen)という命令=命法(Imperativ)の形をとるからだ。
いずれにしても、分を弁えずに(πλεονεκτεῖν)、虚栄心(χαυνότης)から何の心得もなく、騒々しく(θορῦβώδης)「国家公共の事柄」(τὰ τῆς πόλεως πράγματα)を無邪気に(ῥᾳθυμηος)語る齢70近くにして精神の幼児(ἔκγονος)に等しいカ氏は、究極的な価値判断(Werturteil=Beurteilung)は認識(Erkenntnis)の問題ではなく信仰(Bekenntnis)の問題であるとする、徹底したカント流の方法二元論を全く理解してないようだ。
稚拙極まる、年寄りの暇つぶしにすぎない「ままごと投稿」の相手はこの辺で御免被るとして、早朝の悲憤慷慨の件で、プラトンが最晩年の対話篇『法律』で説いた「夜明け前の会議」(νυκτερινὸς σύλλογος)のことを思い出した(Leges, 908A, 951D~952C, 961A~Cほか)。
中期の『国家』で説いた哲人王の構想、「王たるべき知力を具備した人」(ἄνδρα τὸν μετὰ φρονήσεως βασιλικόν)とは幾分異なる、成熟した考察、「知識と技術による支配は、法律のみの支配に優る」所以が展開されている。[完]
デジタル大辞泉によると、理想とは、理性によって考え得る最も完全な状態、また、実現したいと願う最善の目標、あるいは状態とあり、理想は、現実から出発する。その目標は、高すぎるかもしれないが、理性的に考えれば、できそうだ、と考えて、努力し、達成する。イチロウは、そういう存在だから、理想の野球選手、とみんなが認め、尊敬されているのではないのだろうか?なれたらいいな、と思ってなにもしなければ、夢はかなわず、白昼夢になる。日本国憲法の前文は、それをめざしていて、日本国民が、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓って、一人一人が努力すれば、平和で、戦争のない、自由で豊かな世界になるのではないのだろうか?
そのために、ゲーテは、「ロマン派は病気だ。」と言ったのであるが、「仮想現実」は芸術、文化の世界ではなりたつが、政治などの現実世界では成り立たないことをよく考えるべきだと私は思う
カ氏が、「哲学音痴」のゲーテを頼りに、しかも自分で判断したというより、「コピペの女王」(κλοπή βασίλισσα)の流儀で、大方は誰かの見解を引き写しているのであろうが、64⇒【「仮想現実の世界」は、ドイツのロマン派が作り上げたもの…現実にはないものを仮想し、「ドイツ文化」として作り上げた…哲学も、その範疇】のような妄説を並べて怪しまないほど、「無学」極まりない。自分の頭で了解(συνιέναι)できないことを糞度胸で並べ立てるから、立論自体が何とも不得要領(σομφός)で、トンチンカンなことになる。
カントに始まり、フィヒテ、シェリングを経て、ヘーゲルをもって一応完成する、所謂「ドイツ観念論」(der deutsche Idealismus⇒Deutscher Idealismus)は、別名「ドイツ理想主義」と称する。つまり、概念の正統な(ὀρθός)意味内容(γενικὸν ποινόν)として、カ氏が論難する「観念論」とは「理想主義」のことなのである。それが、西洋哲学史を貫く伝統である。
多少、考証的な説明を加えるなら、観念論(Idealismus, idealism)の[Idea]、またドイツ語の[Idee]は、語源的にはプラトンの「イデア」(ἰδεα=事物の規範的なあり方⇒範型 [παράδειγμα])、その音訳であるラテン語の[idea]に由来するが、ドイツ観念論=理想主義の場合もその系譜に属することは、言うまでもない。
もっとも、語源はイデアだとしても、プラトンの「イデア」は主観的な存在ではないから、近代的な「観念」とはずれがあることを留意しなくてはならない。そして、その意味での観念は、古典期のギリシア哲学、つまりプラトンやアリストテレスにはほとんど見当たらない概念で、プラトンの対話篇『パルメニデス』に観念 (νόημα)と訳すのが相当な箇所(132B~C)があるが、例外的だ。
近代以降の観念に近い用例として、ストア派の観念(ἑπίνοια)があり、現在につながる観念は、それを近代的な意味で使い始めたデカルトや英国の経験論哲学のロックに由来する。
従って、あくまで現代用語である「仮想現実」(virtual reality)を過去に読み込み、観念または観念論と同一視することは、歴史を無視した拡大解釈(zur viel verstehen)で、「仮想現実」に相当するものを歴史を遡って探すなら、「まことしやなもの」「真実らしきもの」を意味する[εἰκός]に行き着く。
英語の観念=[idea]は、カントなら「表象」(Vorstellumg=英語は[representation])に相当し、カントはわれわれが「物」(Ding)と思っている存在は、実際には観念の別名である表象にすぎないとする。そして「物自体」(Ding an sich)はわれわれには全く知ることができない存在だとも。
呼び名はプラトン由来の「イデア」につながる、わが国で通常「観念」と訳されるものは、ロックの場合、心(Mind)または知性(Understanging=所謂「悟性」)の直接対象であり、知性(νοῦς)とは心がもつ「知覚の能力」(power of Perception)であって、心は心の外部にある物ではなく、心の中にある観念しか知覚(αἴσθησις)できない。
観念、理想主義に限らず、言葉には歴史がある。
Im Zeichen der Paulskirche suchte das Volk Einigkeit und Recht und Freiheit. Es wollte durchaus die Einheit, die schließlich 1871 geschaffen wurde, war aber an den Entscheidungen nicht beteiligt. Immer wieder gab es die romantische Suche nach einem dritten Weg für die innere Ordnung Deutschlands und für seinen Platz in Europa. Aber es waren Illusionen. Auch die Weimarer Republik schaffte es nicht, eine lebensfähige Demokratie durchzusetzen パウロ教会が象徴するように、民衆は、統一と法律と自由を求めた。ようやく1871年に成し遂げられた統一をしゃにむに求めた、が民衆は、その決定に参加できなかった。なんどもなんども、ドイツの内部秩序やヨーロッパでのドイツの位置についての、第三の道へのロマン主義的模索があったが、それは幻想だった。また、ワイマール共和国も生存能力をもった民主主義を.成し遂げられなかった(拙訳)。つまり、ロマン主義的歴史観は、幻想である、とワイツゼッカー氏も述べられているように、そう考えることの方が、自然なのである。
ドイツの「統一式典」の世界に向けたスピーチの中で、「民主主義の大切さ」をドイツ民衆から選ばれた「ドイツ元首」として、(一学者の個人的見解としてではなく)、述べられているのである。この意味は重い。
「民主主義」について、或いは、「ドイツの歴史」について、何でもないものを、何かであると思い、大切なことを、何でもないと考える、一種の思い違いであり、間違った信念をもつ反氏に、「無智の人」という言葉を再度贈りたい。
そして、最後はすべてヴァイツゼッカー演説を御託宣(μαντεία)のごとく繰り返す、如何にも巫女(προφῆτις)にふさわしい、何やら信仰告白めいた「神がかり」(ἐνθυσιασμός)状態の独善(δόγμα)に陥る(συμπίπτειν)ことしかできない。
ことほど左様に67~68で語られているのは、ロマン派音楽に関する誇張(ὑπερβολή)された特定の見解(τὰ ἔνδοξα)、しかもそれを無媒介に一般の政治や歴史に結びつける無謀極まる論理である。
音楽(μουσική)は人々を楽しませ人生を豊かにすることは事実だが、所詮は人間の制作=創作活動(ποίησις)であり、真の理論的的知識(τῇ θεωρικός ἐπιστήμην)や実践的知識(τῇ πράξει ἐπιστήμην)にかかわるものではなく、虚構(μῦθος)の作り話=物語(μῦθος)を組み立てる、現実(τὸ γιγνόμενον)の模倣(ミメーシス=μίμησις)にとどまる。
実物の「似像」(εἱκών)であり、現実の模造品(μίμημα)である「影像」(εἴδωλον)という、謂わば二次的存在だということだ。
そして、この所詮は現実の偽物(φάντασμα⇒虚偽[ψεῦδος])である「似像」(エイコーン=εἱκών)こそ、畢竟「まことしやなもの」「真実らしきもの」を意味するエイコス(εἰκός)、当世風に言えば「仮想現実」(virtual reality=εἰκός)に外ならない。
そしてこれは何も私の個人的(ιδιωτικός)見解などではなく、プラトンの代表作『国家』の中で展開した見解で、音楽も含めた虚構の作り話=物語(μῦθος)、つまり詩人(ποιητής)や音楽家(ὁ μουσική=音楽を意味するムウシケー[μουσική]はもともと、「ムゥサ」[Μοῦσα=ミューズ]の司どる技芸[τέχνη=ars⇒art]という意味)の想像力の産物である創作(芸術的創造=ποίησις)は、実物の真似=模倣(μίμησις)=「似像」にとどまり、謂わば二次的存在で、それが作り出すものは「実在」(イデア=ἰδέα)から遠ざかること第三の序列にあり」(Respublica, 497E)、詩人(作家)は自分が真似て描くものごとについて、真の知識(ἐπιστήμη)をもたないことを挙げている。
従って、真似(描写=μίμησις)による詩作(ποίησις)は「魂の劣った部分に働きかけるもの」であり、真理(ἀλήθεια)の認識(ἐπιστήμη)の妨げとなり、有害だとするもので、彼の構想(συντίθεσθαι)する理想の国家からは、詩人たちは追放されなくてはならない、ということになる。
哲学(φιλοσοφία)の追求する真理というものは誠に厳しいものなのである。
‘The Philosopher is not a citizen of any community of Idea, That is what makes him into a Philosopher.’(L. Wittgenstein, ‘‘Zettel[1945~1948]’’, 1967. =「哲学者はいかなる観念の共同体の市民でもない、それが将に彼を哲学者にする」)
私程度の人間でもグラウト(Dnard Jay Grout)の大著『西洋音楽史』(“A History of western Mmusic”, 1960, New York)を日本語訳で高校時代に読んでいる(翻訳で1114頁もある)。
グレゴリウス聖歌に興味をもったことが原因だが、そこでは当然ながらカ氏の吹聴する極端なロマン派音楽観ではない、バランスのとれた記述が、16章=声楽、17章=器楽、18章=オペラと音楽劇にわたって示されている(服部幸三、戸口幸策訳[音楽之友社、1971年刊]の672~767頁)。無学な老婆に教わることなど、何一つない(οὐδέν)。
そもそも、ロマン派の代表的な音楽家、Schubert、Schumann、Mendelssohn、Berlioz、A. Franck、Chopim、F. Liszt、Paganini、Tschaikovsky、Dvřák、Brahms、Bruckner、Rossini、Verdi、V. Bellini、C. M. F. von Weber、Wagnerもまた音楽の遺産なのであって、カ氏のような「ゲーテ狂」の見境のない暴論(πονηρολογία)は為にする議論の典型だ。
翻って、私が前回論じたのは「観念」(idea)であり、観念遊戯(ἑπίνοιαν παιδιά)ということが言われる時の「観念論」(Idealismus=その代表的事例がドイツ観念論)、カ氏が濫用する当世風の「もっともらしい」(ἔνδοξος)概念である「仮想現実」とは異なる、「観念」と同根の理想(ἰδεα=παράδειγμα⇒事物の規範的なあり方、範型)を語る理想主義(Idealismus)である。
しかも、観念論は哲学と同一ではない、哲学上の一つの見解にすぎない。
68末尾の⇒【「民主主義」について、或いは、「ドイツの歴史」について、何でもないものを、何かであると思い、大切なことを、何でもないと考える、一種の思い違いであり、間違った信念をもつ反氏】とあるが、「何でもないものを、何かであると思い、大切なことを、何でもないと考える、一種の思い違い」は、わが師藤澤令夫の師である田中美知太郎『ソクラテス』からの引用(170頁)を不正確に口真似しているのであろう。
正確に言うなら「ソクラテスのいう無智(ἄγνοια, ἀμαθία)は、何も知らない(ἀγνοέω)、全くの無(μδηέν)の知(ἐπιστήμη, φρόνησις, εἰδέναι)というものではなく、かえって何でもないものを、何かであると思い(περὶ πολλοῦ ποιεῖσθαι)、大切なことを、何でもないと考える(οὐκ εἰδώς)、一種の思い違い(πλημμέλεια)であり、間違った(ψεῦδος)信念(πίστις, δόξα)の如きものであると言うことができるだろう。」(括弧内のギリシア語註記は筆者)を、まるで鬼の首でも取ったかのように無邪気に(ἁπλοῦς)振り回して、かえって墓穴を掘ることになる。莫迦莫迦しさを通り越して、溜息しか出ない。
「莫迦」とは「途方もない」(ὑπερβολή)の謂いである。[完]
‘Les défaults de l’esprit augmentent en vieillissant, comme ceux du visage.’(=112, La Rochefoucauld; ‘‘Réfleexions ou Sentences et Maximes morales’’, 1678. Œuvres complètes de La Rochefoucauld, Bibliothèque de la Pléiade, p. 418=精神の疵(欠陥)は、顔の疵と同じように、老いるにつれて、ひどくなる。)
ヨーロッパの音楽と、日本などのアジアの音楽、との違いはなにだろう?それは、多声音楽、である、ということである。
1831年、ゲーテが亡くなる一年前に「わかき詩人におくる言葉」にこう書いている。「ポエジーの内容は、作家の生活の内容である。その内容は誰も与えることができぬものだ。虚飾、すなわち空しい自己欺瞞は、もっとも醜悪である。・・・きみたちの詩には体験が生きているか?きみたちの体験がきみたちの生活を高めているか?遠く離れた恋人、不実や裏切りによって失われた恋人、きみたちが繰り返し彼女の喪失をなげいたとて、君たちの生活は高められはせぬ。そのような詩は何の価値もない詩である。」つまり、反氏によって、「女の尻だけを追う人物」と評されているゲーテは、自分の体験を土台にして「ファウスト」という大作を生み出すのである。その作品の評価は、読者にお任せするが、マスコミが専門家だとか、識者だとか呼ぶ人に、緊張感も責任感もない紋切り型の人が多いような印象を我々が受けるのは、その意見がその人自身の体験を踏まえた「真実の声」ではなくて、本そのほかで得た知識、あるいは、マスコミの人びとを忖度した意見を表明するせいだと、私は思う。
73⇒【反氏の私への罵倒、「話の通じない人」…「ドイツの文化人」、「ドイツの良識の象徴」、ゲーテやワイツゼッカーを…蔑むという意味で、「向こう見ずな人」、という言葉をそっくりそのまま返したい】という。
さすがは、度を越した「ゲーテ狂」で、欺瞞(ἀπάτη)と偽善(ἡ ὑπόκρισις)に満ちた、ドイツの恥ずべき自己弁護の象徴(σύμβολον)であるヴァイツゼッカー演説の巫女(προφῆτις)を自認しているくらいだから、身贔屓(καταχαρίζομαι)で、益体もない(ἄχρηστον)戯言を繰り返すしか能がない。
73②⇒【これだけしつこく説明しても、なぜ…意見が対立するのか、理解できない】は、端的に愚鈍(ἀμαθία)だからだ。ソクラテス・プラトン流には「無知」(ἀμαθία)ともいい、ギリシア語では同じ語だ。読めもしまいが。
もっとも、「理解できない」のは真っ赤な大ウソで、体面にこだわって、どうしても認めたくないのであろう。魂胆は見え透いている。莫迦莫迦しくて、相手にする気にもならない。
73末尾の【ヨーロッパの音楽と、日本などのアジアの音楽、との違いはなにだろう?それは、多声音楽…ということ】と、勝手に愚劣な「独り相撲」(σκιαμχία=a fighting against a shadow)をしていればよい。
観念論や理想主義を論じていたはずだが、それと東西の音楽の違いに、どんな立論上の関連性があるというのか。論点ずらしもここまで来ると病気で、狂気の沙汰(ἡ μανικός)だ。
‘Notre amour-propre souffre plus impatiemment la condemnation de nos goûts que de nos opinion.’(=13, La Rochefoucauld; ‘‘Réflexions ou Sentences et Maximes morales’’)
フランスという国が、ルノーという自動車会社の大株主であることが、フランスも、ライン型資本主義の国である、ということを示している。また、アングロサクソン風の資本主義システムがあまりよくないから、裕福な国、という名前をほしいままにしていた覇権国家米国が、中国に焦りを覚えているのはないのだろうか?ドイツの競争力はあまり衰えていない。
経済システムについては、マスコミで専門家、識者と呼ばれている人に惑わされないで、日本は米国型ではなくて、従来取っていた「ライン型資本主義」に戻し、またいろんな面で、システムが近いヨーロッパと歩調を合わせて、米中問題を解決する、それが、「国際協調」によるデタントの姿勢であり、国際社会に「平和を確立する道」だと私は思う。
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