池袋老人暴走事件の遺族の方の会見があった。事件から一カ月たち、「生き地獄」と描写した状況を伝えてくれた。https://www.youtube.com/watch?v=lwwu59i9TTI
会見を開いた遺族の方の勇気に感銘を受ける。悲しいことだが、こうした現実が、この事件の不条理を物語っている。こうした現実も知られていくべきだ。敬意を表する。
俳優の風見しんごさんのように、継続して事故と向き合って伝え続けてる方もいらっしゃる。https://gozzip.jp/28755/ だが突然の事故に遭遇した一般の方には、こうした方法もとれない場合が多いだろう。
裁判も終わらないどころか、うっかりすると始まらないうちに、加害者のほうはこの世界から去る。https://www.daily.co.jp/gossip/2019/05/16/0012335710.shtml それなのに被害者のほうが取り残され続ける。 https://blogos.com/article/376643/ 数多くの戦争、犯罪、災害、事故の不条理の度合いに程度の違いがあるとは言えないが、老人暴走事件にわれわれが受ける不条理感は、半端ではない。http://agora-web.jp/archives/2038727.html
大津市の園児殺傷事件の際の記者会見のあり方をめぐって、マスコミ批判が巻き起こった。「国民の知る権利」なるものを持ち出す識者の方々もいた。正しくは「伝える義務」のことだろう。権利あるところに、義務がある。マスコミは権利行使の代行者というよりも、社会的に意義あることを伝える「義務」の遂行者のはずだ。「国民」などといった集合的な他人の権利の代行を言うのであれば、マスコミの「伝える義務」をどう継続的に果たしていくか、メディア関係者には、そういう正しい「義務」の遂行方法を、考えていってほしい。
少子高齢化社会では、統計的には、相当程度の蓋然性で、類似の事故が増えていくのだ。池袋暴走事件の一度の報道で、日本全国の老人たちが、事故を起こさない人間に生まれ変わっていく、などいうことは、決してない。継続的に「伝える義務」を果たす方法を考えていかなければならない。
遺族の方々は、人生の意味を見出すために苦闘していく。https://inochi-museum.or.jp/information もちろん遺族の方々の迷惑になることについて「知る権利」も「伝える義務」もない。しかし遺族の方にとって意味があることについては、今後も継続して伝えていく「義務」が、事件を報道した者には、今後も存在し続けるのではないか。
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老人が起こす交通事故だけではなくて、若者の起こす交通事故もあり、交通事故の死亡者の件数は減っている。今も昔も、交通事故の被害者、その家族に与える悲惨な現実はあり、その被害者やその家族のお話をなんどか伺ったが、問題は、今は、高齢者ドライバーが、つまり、高齢者が自動車を運転すると、被害者が出て、家族は悲惨な状況においてしまう、というイメージが出来上がってしまっていることである。
児童虐待にしろ、野田市の事件で、児童相談所が悪の元凶のようであるが、Spiegel誌によると、ドイツでも児童虐待事件が起こるそうである。そして、子供を実の家族から引き離したら、引き離したで、批判されるそうである。ただ、引き離さずに死亡事故が起こると、なぜ引き離さなかったのか、と、児童相談所が異常に批判される、そうである。日本でも、そうだから、野田市の児童相談所の腰がひけてしまったのだと思うが、大事なことは、バッシングすることではなくて、どういう場合に、親から子供を引き離す、或いは、運転免許所を返納させるか、という客観的な基準をはっきりさせることだと思う。そして、自動車メーカーも、高齢者用に、例えば、アクセルとブレーキの高さを変えるなど、高齢者がより安全に運転できる車のシステムを開発する努力をし、オプションとしてつければいい。誰だって、加害者にはなりたくないから、そのシステムをつけるのではないのだろうか?もちろん、100%の安全策はないが、大事なことは、問題の解決であって、厳しいバッシングではない、と私は思う。
人は種類こそ違え、自らが責任(αἴτιος)を「問われる必要のない」(ἀναίτιος)ことによって身に被る(πάσχειν)不幸(δυστυχία)や災難(πάθημα)、苦難(παθήματα)、苦痛(ἀλγηδών)、苦悩(λύπη)、とりわけ死(θάνατος)から、つまり不合理な(ἄλογος)受難(παθήματα)である不条理(ἡ ἄλογος)から自由(ἐλευθερία)でなくてはならない。
池袋での脚の不自由な87歳の元高級官僚による暴走事故で母娘二人が犠牲になる事故をきっかけに、このところ、子供が犠牲(θυσία)になる痛ましい交通事故の報道が相次いでいる。
交通事故統計を見れば明らかだが、事故による犠牲者(παθητός)、被害者(ὁ πάσχω)は、むしろ圧倒的に高齢者が多い。自らの過失によるケースを含め、車社会の相対的な弱者(ἥττονων)である老人の事故も後を絶たない。
運転免許証書き換えに伴う講習で警察官から受ける指摘はその種の話が多く、運転に際しては常に予測(πρόνοια)不能な子供と合わせ、咄嗟の事態に対応できない高齢者に充分に用心する(εὐλαβέομαι)、警戒しなくてはならな(φυλακτέον)所以を諭される。車は常に凶器(ὅπλον)になり得る可能性(δύναμις)を秘めているからだ。
今回の事故を引き起こした87歳の男性が、事故の際に負った怪我が快方に向かい退院し、謝罪の意向を示したという。メディアの質問に答えた。事故の際に同乗していた男性の妻は、沈黙した(σιωπάω)ままだ。警察が事情聴取に入っており、今後の捜査の行方が注目される。
それは、加害者が87歳の高齢者であろうとなかろうと、関係ない。故意に(ἑκουσίως)であろうと過失(σφάλμα)であろうと、法の定めるところに従って、正義(δικαιοσύνη)が実現されなくてはならない。つまり、不正行為(ἀδίκημα)は裁き(κρίσις)によって糺され(διορθοῦν)なくてはならない。
生い先短い老人(πρεσβύτης)であろうと、限りない(ἄπειρος)未来(τὸ μέλλον)の可能性を秘めた子供(ἔκγονος)であろうと、生命(ζωή)の重さ(βαρῦτης)に差異(διαφορά)はない。軽重(καῦφοτης καὶ βαρῦτης)があるとすれば経済的(οἰκονομία)な効要(ἠ χρῆσιμος)だろうが、それは民事訴訟で果たされるだろう。
メディアの報道の自由と民衆の知る権利(ἰσονομία)との関係については、知る権利が民主制の前提とする見解に基づくが、それは義務(καθῆκον)でさえない代わりに、お題目(κάλλος)である。
メディアが現代社会において「必要欠くべからざるもの」(τἀναγκαῖα)であるとしても、その存在理由(raison d’ être)自体は、完結した(εἶναι τελέα)ものではなく、そこに有用性(ἡ χρῆσιμος)が正当化(ὀρθόω)されなくてはならない固有の(οἰκεῖος)の根拠などないし、元来有徳な(χρηστός)存在でもない。
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