丸山穂高議員の「戦争」発言が大問題になっているか、私が見たコメントの中では、自民党の石破茂・元幹事長だけが、国連憲章2条4項の武力行使禁止に言及した評価を書いていた。http://agora-web.jp/archives/2039087.html 大変に適切な態度だと思ったので、私もコメントしておく。
丸山議員の発言を、「憲法違反」として断ずるコメントが多い。しかし丸山議員の発言は、「憲法を変えて戦争ができる国にするしか北方領土は奪回できないと思いませんか」、という趣旨の質問だったようにも見える。「憲法を変えると戦争ができる国になる」という護憲派・野党系の主張を、そのまま使った考え方だ。
しかし憲法を変えたからといって、日本だけが戦争ができる国になることはない。他国と同様、国際法における武力行使禁止原則を守り続けなければならない。
それでは国連から脱退したらどうなるかというと、憲章2条4項はすでに慣習法化していて一般国際法原則になっていると考えられるから、無駄だ。戦争は国際法違反である。
石破氏は、「(丸山議員)のような人が国家公務員として経産省に奉職し、国会議員を務めていたことにも驚きを禁じ得ません」と書いているが、私に言わせれば、こういう経歴の人が、一番の国際法音痴である。なぜなら公務員試験や司法試験を勉強した時代に、芦部信喜『憲法』のような憲法学通説を盲目的に信じてしまっているからである。「国際法では戦争が許されているが、憲法9条だけが戦争を否定している」などと、覚えこまされてしまっている。芦部『憲法』における似非国際法の記述で、国際法を知っていると主張する厄介な人々である。
それでも最近では公務員試験では国際法の比重が高まってきていると聞くが、司法試験では相変わらず選択率が1%ちょっとで、次の改革では廃止されるらしい。国際法学会が反対声明を出しているが、ニュースにはなっていないだろう。https://jsil.jp/wp-content/uploads/2019/02/statement20190131.pdf
国際法については、日本では法律家・公務員(出身者)は信用できない、ということを、この機会に付記しておきたい。
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私が問題だと思うことは、それ以上に、丸山穂高議員には、学歴はあっても、国際感覚がまるでない、ということなのである。1984年生まれだと、冷戦時代をほとんどご存じないので、ロシアの軍事力をご存じないから、戦争したら日本が勝つ、と思われてこのような発言になったのかもしれないが、日露戦争の時代ではないのである。どれだけの核兵器をロシア、旧ソ連は開発し、保有し、使用できる体制にあるのだろう?逆に、その軍事負担が、ソ連の重荷になって、ゴルバチョフ書記長がグラスノスチ運動をして、軍国主義の方針を変えられたから、ドイツは統合できたのである。ただ、今のプーチン政権化のロシアがなにを考えて、どう行動しているのか、よくわからないが。
私は、キューバ危機の時、ものごころがついていたから、恐怖を感じたが、平和ボケの日本人には、その感覚が鈍くなっている、としか私には思えない。米国と戦争して、勝てると考えた戦前の日本人が多かったように、東大を卒業し、経済産業省に入省し、外国留学を経て、国会議員として活動していても、尚、ロシアと戦争して勝てる、と思っている日本人がいる、という事実に、日本は、これで大丈夫なのかと心配になる。
今、米国とイランの関係が緊迫しているが、これは、米国と北朝鮮との関係とは違うのではないのだろうか?米朝の場合は、「核兵器を開発し、放棄しようとしない」北朝鮮に対して、国連決議を通して、国際社会が一致して北朝鮮に圧力をかけている経済制裁を、あたかもそれが、北朝鮮と米国の関係であるかのように北朝鮮が演出し、国際社会を分断しようともくろむ北朝鮮の意図通りの世論形成を日本のマスコミがしているのと違って、イランの場合は、ロシアと組んで武力も使って、アラブ社会の覇権を握ろうとしているイランに対して、イスラエル寄りのトランプ米国政権が武力を含めた圧力で、それを阻止しようとして、結果として、戦争に発展しそうになっている。これは、あくまでも、米国大統領選挙をにらんだ、米国政権とイランの間の問題で、それがそれまで、英米独ロ中の努力で積み上げられた「核合意」を含む国際協調をこわしている。
反XX、すなわち「反アラブ」、「反中国」を煽っている「バノン戦略」が全体として「平和構築」の妨げになっていると思うと共に、「被爆国」日本は、演出に惑わされないで、真実をよく把握し、「領土問題」より、国際社会の「非核化」への努力を、まずすべきではないのだろうか?
篠田さんが敢えて今回、ブログで取り上げた「憲法」認識のおける通説支配にみられる極端な国際法軽視の姿勢への文脈で、経済産業省官僚出身である丸山氏のような経歴(東大経済部卒⇒原子力安全・保安院[当時]保安課企画法規係長⇒松下政経塾⇒2012年、28歳で衆議員議員初当選)の人物の発言への反応にも色濃く影響を及ぼしている、憲法九条の通説的理解(今回取り上げているのは芦部信喜・元東大法学部教授の見解)に基づいた九条観なり「戦争観」に依拠する範囲で、苦言を呈する政府・与党や、除名処分になった日本維新の会や糾弾する野党各党、メディアの大騒ぎぶりの方に、戦後のこの国を支配してきた「道徳問題」になり下がった「戦争と平和」(πόλεμος καὶ εἰρήνη)に関する無思慮(ἀφροσύνη)、ある意味「思考停止」(ἐποχή)と定見なき世論への迎合(κολακεία)と誘導(ἄγειν)をみる思いだ。
戦後、この国が謳歌した「平和と繁栄」(εἰρήνη καὶ εὐετηρία)の裏に潜む日本人の思想的退嬰性、謂わば平和の代償(ἀμοιβή)への、痛切な感覚の欠如(στέρησις)が如実に表れている。「戦争」という言葉が飛び出すと、それだけで上を下への大騒ぎ。議論レベルでさえ「戦争」という措辞すら忌避する、要するに国民レベルでの「思考の働きとしての器量」(ἡ διανοητικὴ ἀρετή)が欠落していることを端なくも示している。
それは、かつて福田恆存が「端的に言えば、大東亜戦争は罪悪なのではなく、失敗だったのである。失敗と解っていなければならぬ戦争を起した事に過ちがあったのに過ぎない…が、それを罪悪とし、臭い物には蓋をせよという考え方によって…もしあの戦争を悪とする奇麗事にいつまでも固執するなら、その必然的結果として、それを善に高めようとする居直りを生じるであろう。皮肉な事に、この綺麗事も居直りもアメリカの占領と安全保障条約とによって、その微温的性格を破られずに今日まで保たれて来た」(福田恆存『現代国家論』、1965年、新潮社版『福田恆存評論集』第6巻、279頁)と指摘したことである。
現在の日本に、愚劣な戦争指導によって敗北し、多大な犠牲はもとより、この国の方向性を変えた戦争への透徹した思考など、どこにもない。「臭い物には蓋」する習性(ἦθος)が染みついている。
福田は何も先の戦争を讃美(ἐπαινος)しているわけではない。如何なる対象であれ、独立した思考(αὐτός διάνοια)、所謂‘Selbstdenken’の真の意味(γενικὸν ποινόν)と価値(ἀξία)を理解しようとせず、愚にもつかない「集団的思考」――その典型が憲法九条信仰と護憲平和主義、護憲ショナリズムに基づく ‘ethnocentrism’=(文化的自民族中心主義)や‘chauvinism’(盲目的排他主義)――に流れる(διαφεύγειν)日本人の思想的脆弱性(μαλακία)、精神の懦弱(ἀσθένεια)そのものを問題にしている。憲法を含め、制度(ἐπιτήδευμα)などいくらでも変わるものだ。
共に戦後「日本文化会議」を立ち上げた田中美知太郎(理事長)や小林秀雄も、同じ思いだった。
丸山発言は、元日本維新の会共同代表で政界を引退した橋下徹氏がしばしば指摘しているように、所謂北方四島は、戦争に伴って奪われた国土だから、戦後レジームの根底にあるヤルタ体制をどう認識するかの視点に戻って考えなければ、過去の北方領土をめぐる交渉の、その時々の経過をいくら云々しても詮なきこと、という基本線に基づいて、どうしても取り戻すならば「戦争も辞さない」という趣旨で元島民に呼び掛ける趣旨でははなく(氏はそれほど世間知らずでもなかろう)、飲酒の影響によって軽口を叩いたわけでもなかろう。
要するに、「戦争」が介在する問題であることを指摘したのであろう。それが現在進行形の日ロ交渉に及ぼす影響を懸念した政府・与党も、一国会議員の発言に気を使いすぎだし、他にすることはない野党は、ひょっとすると衆参同時選挙になるもしれぬという憶測が乱れ飛ぶ中で、世論の反発に、特に国民の「戦争」アレルギーに迎合して、大騒ぎしているのであろう。
篠田さんが、国会議員や官僚の国際法理解の「水準」(μέτριον)に話をもっていきたい気持ちはよく理解できるが、元々、橋下徹氏もしばしば声を大にして苦言を呈してきた、時に罵倒することもあった、ある意味、政治的には未熟な国会議員だから、ほおっておけばよい。
国会議員としての発言に当たっては時と場合を弁える、という趣旨は分かるが、私はあの程度の発言に一々目くじらを立てる特段の意味があるとする、この国の国民の漠然とした共通認識という意味での世間の「空気」(ἀήρ)を共有しない。
篠田さんは別に今回のトピックスで、丸山氏の「日本国憲法9条違反」「国際法違反」を指摘したわけではなかろう。篠田さんは国連憲章との関連で、【憲章2条4項はすでに慣習法化していて一般国際法原則…戦争は国際法違反である】としているにすぎない。
そもそも、国際社会においては、古来正当な(ὀρθός)原因(αἴτιον)をもつ戦争が肯定されてきたものの(「正当戦争原因論」)、それと並んで、戦争の際の手続きや手段についても共通のルールに従うべきだと主張された(「正当戦争手続き論」)。その後、一方を正、他方を不正とする区別を退けた「無差別戦争観」が大勢となり、国際紛争を解決するための究極的手段としてあった戦争を一般的に合法と認め、「正当戦争手続き論」が主流となったが、近代戦争による度重なる惨禍から、第一次大戦後の国際連盟規約は、戦争を触発しかねない紛争発生に際しては、国際裁判または連盟理事会の審査に紛争当事国が裁定を付託することを加盟国に求めることで直ちに戦争に訴えることを禁止するに至る。
その後の1928年の「戦争抛棄ニ關スル絛約」(所謂パリ不戦条約=ブリアン=ロケロッグ条約)で、一般的な「戦争禁止」を規定した。国連憲章もその流れの中にある。1974年の「侵略の定義」に関する国連総会決議で、戦争と武力行使違法化禁止するの規定は一層推進された。その中で、冷戦期はなかなか機能しなかった「集団安全保障」(collective securty)が機能するようになり、イラク戦争など種々議論はあっても現在に至っている。
無学なカ氏でもあるまいし。1984年生まれで冷戦時代をほとんど知らず、ロシアの軍事力にも無知で、2②⇒【戦争したら日本が勝つ、と思われてこのような発言になった】わけでもあるまい。老婆の戯けた「減らず口」(ἀδολεσχεῖν)は他愛がない。カ氏が懸念する、2③⇒【平和ボケの日本人には、その感覚が鈍く…東大を卒業し、経済産業省に入省し、外国留学を経て、国会議員として活動していても、尚、ロシアと戦争して勝てる、と思っている日本人がいる、という事実】など、丸山発言のどこにもない。篠田さんの立論の趣旨を全く理解できずに、素っ頓狂なことを臆面もなく宣っている。つける薬がない。
カ氏一流の見境のない「迎合」であろう。「阿諛する人」(κόλαξ=佞人)の面目躍如だ。
橋本淳輔氏が1で指摘した如く、石破氏だけが国連憲章2条4項の武力行使禁止に言及したコメントを公表しているのでなければ、特段の見識というレベルでもなさそうだ。
新元号「令和」が発表された際の発言でも同様だが、石破氏は新「小言小衛兵」よろしく、メディアの問い掛けに応じて、「『令』の意味について国民が納得する努力をしなければならない」とくさしていたが、笑止な話で、メディアにも「国民」なるものにも媚びて(ἀρεσκεύομαι)、四方八方に迎合する(κολακεύω)しか、今後の政治的展望が開けない御仁の無駄口の域を出ないようだ。
漢文=中国語漢文なら「初春令月、気淑風和」から「有意味な」二文字を選ぶとするなら、「淑和」もしくは「和淑」だという(小島毅東大教授)。読みも、「れいわ」ではなく、同時代の「律令」(りつりょう)や「令旨」(りょうじ)のように当時の法制度で「呉音」が想定されたであろうから「りょうわ」がより適切ではないかと。
もちろん、異論(ἀμφισβήτησις)も出るであろうが、専門的学識(ἐπιστήμη)に基づく見識とはそうしたもので、具体的な論拠に基づかない石破氏程度の評論家気取りの御託は、論外である。
その点で、石破氏の指摘を「大変に適切な態度」とする篠田さんの「評価」には,賛同できない。石破氏は、あれでも有力な政治家(ὁ πολιτικός)として、昔風な言い方なら「電波芸者」的なメディア露出が目立つが、実に詰らない男だ。疾うに命脈は尽きていると思う。
[完]
☆余白に ところで、昨年5月19日に本欄に最初のコメントを投稿してから昨日19日で、丸一年になった。この間の投稿は本件を含めて1,991に上る。われながら酔狂なものだと自得(カ氏のような自瀆ではない)しつつ、今後も縁がある限り、出来るだけ体系的で原理的な考察を心掛けたいと念じている。片言隻句の感想になど、私は何の興味もない。
ものを自由に考えるという行為は、元来傲慢(ὕβρις)なものなのである。
‘μὴ ὑψηλὰ φρόνει, ἀλλὰ φοβοῦ.’(Προς Ρωμαιους, XI, 20)
例えば、ブッシュパパの時の米国、イラクがクウェイトに侵攻した後、国際連合の安全保障理事会で可決された後の、米軍を中心とした多国籍軍のイラク攻撃は、国際法違反ではない。日本の満州事変は、日本でどう報道されていたにせよ、事実は、日本軍が中国軍を侵略したのだから、侵略戦争なのである。ドイツの例えば、第二次世界大戦の導火線となったポーランド侵略でも、ドイツ人には、ドイツ語のラジオ放送によって、ポーランド人がドイツ人に攻撃をしたその復讐、と報道されたが、現実は、ドイツ軍がポーランド国民を攻撃したのである。要するに、日独の報道が嘘なのであって、国際連盟のリットン調査団の調査結果を嘘、と日本人に信じこませたのも、嘘に嘘を重ねた日本の軍国主義者たちなのである。
中国の習近平国家主席は15日、北京で始まった「アジア文明対話大会」の開幕式で演説され、「自らの人種や文明が優れているとしてほかの文明を改造し、果ては取って代わろうとするやり方は愚かで破滅を招く」と述べられたそうであるが、そのとおりのことを、戦前日独がし、現在米国がしようとしているのである。
明日から夫とイタリアに行き、歴史大好きの夫の希望でパルチザンの疑いで住民がナチスドイツにイタリア人が大虐殺されたマルツァポットにもゆく。イタリアのグルメ、美術鑑賞だけではなくて、「人間はなにをしかねないのか。」という不条理も同時に味わう実り豊かな旅にしたい。
特に、この日本国憲法9条は、敗戦後の窮状下、GHQの草案を修正し、現実に立法府でこの日本国憲法を成立させた吉田茂さん、金森徳次郎さん、芦田均さんなど戦争体験者の「国際社会に平和を確立」するんだ、という強い気持ちからも、日本国憲法前文、9条の「平和主義」が歌われているのである。篠田教授がおっしゃりたいことは、日本国憲法9条の精神は、日本人が作り上げたものではなくて、第一次世界大戦後、戦争の悲惨さを知った欧米の人々も、同じような考えをもっていた、ということなのである。
日本の歴史には、「刀狩」があった。けれども、皆が刀を取り上げられた訳ではない。武士階級は武士道徳を授けられた上で刀を所持した。そうして、戦国時代から平和な江戸時代へと歴史は移行し、民衆は繁栄と平和を享受したのである。仮想現実ではなくて、現実を見てそれにあうように憲法に改正しなければ、「日本の最高法規」は、現実社会で起こる様々な問題に対処できない。核兵器の問題も、自衛隊問題も、同じなのではないのだろうか?「平和を確立する為」には、武力を持つ人が、道徳を身につけなければならない。つまり、核大国であるトランプ大統領にも、プーチン大統領にも、習近平主席にも、一国主義、覇権主義に陥らず、国際社会の民衆の為に、「平和確立」の為に協力してがんばっていただきたい、と心から願う。
ソクラテスが、尊敬されているのは、自分の哲学や考えが正しい、と主張したからではなくて、自分の考えとは違うが、アテネの民主的な政治のシステムで判断された「死刑判決」にアテネ市民として従う決断をしたからで、ソクラテスを尊敬している弟子のプラトンが、民主制のシステムはおかしい、と主張する気持ちはわかるが、自分の考えとは違っても、決まった憲法や法律に従うが、民主的な法治国家の基本なのである。日本の法律は、国民の代表者が決め私たちは、その法律に拘束されている。その日本の国の一番根幹の部分に、「日本国憲法の精神」の「平和構築」がわからない人がいては、困るのではないのだろうか?
議論次第では、敵国に領土を奪われて停戦状態になった場合、停戦破棄又は停戦期限終了後に領土奪還のための戦争を行うことができないとも解釈できますね。その場合、停戦する可能性が低くなりませんか?
過去には第三次中東戦争でゴラン高原をイスラエルに奪われた上で停戦したシリアが第四次中東戦争でゴラン高原を奪還するための戦争を仕掛けた例があります(軍事的には失敗)。これも明白に国際法違反とするソースはあるのでしょうか? または国連でシリアへの国際法違反として避難的な決議が出た例はあるのでしょうか?
カ氏は日頃から、「現実的に考える」(διανοεῖσθαι κατὰ ἐνέργειαν)と称して、篠田さんの肩車に乗って、憲法学通説を支配する東大法学部系憲法学者による憲法9条の「定言命法」(kategorischer Imperativ)的な解釈(ἐξηγέομαι)を繰り返し批判しているが、自らが偽善(τὸ εἰρωνικός)と欺瞞(ἀπάτη)に満ちた「似而非道徳」(eine verlogene Moral)に執心している(ἐπιθυμέω)ことを忘れて(πλημμέλια)いる。
ドイツの恥ずべき自己弁護の象徴(σύμβολον)である「ヴァイツゼッカー演説」の巫女(προφῆτις)よろしく、「神がかり」(ἐνθυσιασμός)状態で御託宣(μαντεία)を取り次ぐ、それこそ「我を忘れて」(ἀσχολεῖσθαι)ご大層な綺麗ごと(κάλλος)、を並べる「道徳家」(Tugendheld)のそぶりをして、実態はそれとは逆なのを頬被りしている。
無学ゆえの(δι’ ἀπαιδευσίαν)夥しい誤謬(σφάλμα)、誤記に加え、剽窃(κλοπή)や論点ずらし(τὸ ἐξ ἀρχῆς αἰτεῖν)の詐術的議論(παραλογίζεσθαι)、不得要領(σομφός)の粗雑な文章と立論、論理的理解力(λογιστικόν)の欠如、苦しい紛れの弱論強弁(τὸν ἥττω λόγον κρείττω ποιεῖν)と、何でもありの狂態(γαστρίμαργος)は、本欄読者には周知の事実(ὅτι)だ。
「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)と臆面のなさ(θαρραλέος)で見当違いの「悲憤慷慨」(ὀργή κὰι θυμός)に終始する醜態(ἀσχημοσύνη)は、既に論証済みだと思う。
「高貴な憤激ぶりを演じてみせたくてたまらない」(der am liebsten »die edle Entrüstung« spielt)、あの病的パリサイ主義(Pharisäer)、噛みつかんばかりの嘘八百と憤怒(die bissige Verlogenheit und Wut)、中身の空疎な陋劣極まる道徳的法螺太鼓の、度を越した耳障りな喚き(das heisere Entrüstungs-Gebell der krankhaften Hunde)――篠田さんも学部卒業論文・修士論文に際して読み込んだという、ニーチェの円熟期を代表する異形の道徳哲学の書『道徳の系譜―一つの論駁書』にそうした檄語が並ぶ。
きょう21日からイタリア旅行だというカ氏に相応しい一節がある。無事の帰国を願う餞に贈ろう。
‘o wie sie im Grunde dazu selbst bereit sind, büßen zu machen, wie sie darnach dürsten, Henker zu sein. Unter ihnen gibt es in Fülle die zu Richtern verkleideten Rachsüchtigen, welche beständig das Wort »Gerechtigkeit« wie einen giftigen Speichel im Munde tragen, immer gespitzen Mundes, immer bereit, alles anzuspeien, was nicht unzufrieden blickt und guten Muts seine Straße zieht.
Unter ihnen fehlt auch jene ekelhafteste Spezies der Eitlen nicht, die verlognen Mißgeburten, die darauf aus sind, »schöne Seelen« darzustellen, und etwa ihre verhunzte Sinnlichkeit, in Verse und andere Windeln gewickelt, als »Reinheit des Herzens« auf den Markt bringen: die Spezies der moralischen Onanisten und »Selbstbefriediger«.’(Friedrich Nietzsche Werke in drei Bänden, hrsg. von K. Schlechta, 5. Durchgesehne Aufl., München 1965, Band 2, S. 863.)
彼らのうちにはまた、あの虚栄的存在のなかでも最も厭うべき種類のやから、あの嘘つきの片輪者どももいるが、この連中ときては、美しき魂をひけらかそうとして、たとえば自分らの駄目になった官能を詩句やその他の襁褓にくるんで、それこそ「心情の清純」だとばかりに市場に売り出そうと企てる。こういうのが道徳的自瀆者、自慰者のやからだ。」(信太正三訳、ちくま学芸文庫版『ニーチェ全集』第11巻526頁)
定言命法を説く謹厳実直(κοσμιοτης)で高邁な義務(Pflicht=καθῆκον)の哲学者カントなどとは異なり、ニーチェは所謂「道徳家」ではないが、一種並み外れたモラリストの側面があり、われわれが気づかずに見過ごしている(λανθάνειν)人間の偽善と欺瞞の仮面(πρόσωπον)を見逃さない、仮借なき人間性(τὸ ἀνθρώπειος)の観察者(θεατής)であるその言いぶりは実に穿っていて、正鵠を射ている。
ニーチェの批判の矢面に立たされているのは、「ベルリンの復讐の使徒」(an jenen Berliner Rache-Apostel)と揶揄された、唯物論、実証主義の立場から社会哲学を説くドイツの哲学者で、ドイツ社会民主党の理論的指導者のオイゲン・デューリング(Karl Eugen Dühring)だが、微温的な「似而非道徳」(eine verlogene Moral)へのニーチェの批判は容赦ない。
カ氏にとって、戦争と平和(πόλεμος καὶ εἰρήνη)は、畢竟「道徳問題」であることを示している。
世にはカ氏同様、世を憂えて憂えて(κήδομαι)、御門違いの「憤激の嵐」(‘ein Sturm der Entrüstung’)を撒き散らす(κατασκεδάννυμι)、自称「道徳家」が少なくないが、要するに(ὅλως)、人間性を周到に(ἀγχίνοια)認識する(ἐπισθήμων)点で、無条件に(ἁπλῶς)「甘い」(γλυκύς)のである。
だから、愚にもつかないヴァイツゼッカー演説のような、身勝手な「物語の思考」(εἰκὼς λόγοι)という「甘い酒」(ὁ γλυκύς οἶνος)に酔いしれ、熱狂(μανία)するのだろう。熱狂と言えば、ナチズムを支えたドイツの中下層階級に際立った特性とする政治学者の心理学的分析があるが、ドイツを「第二の祖国」とする老媼も、いい歳をして、「甘ちゃん」(ἡδὺς)なのである。
無学な婆さんをこれ以上からかったり(καταγελάω)、愚弄する(χλευάζειν)ことは退屈だし、無意味だが、カ氏にはそれほど「愚弄されるに値する」(χλευαστικός)、笑うべき(καταγέλαστός)莫迦げた(καταγελάσιμος)習性(ἦθος)があるということだ。
だから、「本当の意味で知識と称されるに値すると考えられる」(τῆς κυρίως ἐπιστήμς εἶναι δοκούσης)確かな(κυρίως)「知」(ἐπιστήμη)とは何ら関係ない、一種の極端な思い込み(δόξασμα)=固定観念(ὑπόληψις)を抜け出ないのだろう。
気の毒である。
Wie schwer mußte es aber auch einem Bürger in Rotterdam oder London fallen, den Wiederaufbau unseres Landes zu unterstützen, aus dem die Bomben stammten, die erst kurze Zeit zuvor auf seine Stadt gefallen waren! Dazu mußte allmählich eine Gewißheit wachsen, daß Deutsche nicht noch einmal versuchen würden, eine Niederlage mit Gewalt zu korrigieren.
ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難なことだったでありましょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。
日本も、戦争中、中国やインドシナ半島で、或いは、太平洋上の島で、多くの中国人や米兵や英兵に同じことをしたのではないのだろうか?ヨーロッパでは、このワイツゼッカー演説により、平和が保たれ、EUの絆が深まり、ドイツという国が信頼できる国、という定評が高まり、米、英、仏、露の了解の元、「平和裏に」東西の再統一が達成できた歴史がある。
そういう第二次世界大戦後の歴史を、丸山穂高議員や反氏など、学歴の高い日本人も学ぶ必要があるのではないのだろうか?
しばしば、経験(ἐμπειρία)に学ぶ(μανθάνω)ことの重要性を説くが、経験はどんな「阿呆」(ἠλίηθιος)でもする。経験を「真っ当な思慮に適った」(κατὰ τὸν ὀρθὸν λόγον)、ものを考える手段(ὄργανα)として生かすことは、言われるほど簡単ではない。
12⇒【私を「無学」扱いをする反氏も、本当に国際法がわかっておられるのか…よくわからない】と言うが、私が9で述べた所見は、標準的な国際法の教科書である栗林忠男『現代国際法』(1999年、慶応義塾大学出版会)の第16章~18章、特に第17章「国際安全保障」(501~532頁)を参考にしている。栗林氏は慶応大教授で、1999年から世界法学会理事長を務めた人物で、その所説に特段の「偏向」はない。
カ氏もたまには本を読むといい。索引も含め610頁もあって大変だが、学術用語による正確な論述(ἀκριβολογεῖσθαι)を度外視した素人論議は、閑人の戯言に似て、他愛ないだけだ。所詮はどんなに深刻でも老後の暇つぶしの「クズ投稿」だから、意に介しないのだろうが。戦後日本の「虚妄」を説く福田恆存など、読んだこともないのだろう。「無学」は気楽でいい。
政治家の説くお題目が好きなようで、13⇒【習近平国家主席は…「アジア文明対話大会」の開幕式で演説…】のような政治的発言を、あくまで国益を保守するための戦略とは受け取らずに真に受けるシナ贔屓が際立っている。どこまでも、偏狭的な(ακληρός)党派心(φιλονεικία)でしかものを考えられないようだ。
それこそ、カ氏が唾棄する「左翼的心性」そのものではないか。
国会議員が「戦争」(πόλεμος)の二文字を口にしただけで、寄ってたかって.「憲法9条違反」「国連憲章違反」だと袋叩きにするメディアを含めたこの国の幼児性こそ、日本人の思想的脆弱性(μαλακία)の最たるものだ。
だから、制定以来73年たっても憲法一つ改正できない。「最高法規」(ἔσχατος νόμος)といったところで、占領者(ὁ νικήσας)である連合国、特に米国の圧倒的な軍事力(δύναμις πρὸς πόλεμον)を背景に、有無を言わさぬ形、つまり「力づくで」(κατὰ τὸ καρτερός)改正草案を突きつけられ、帝国議会における改正審議でも、常に見えざる(ἀόρατος)「強制力」(τὸ βίαιον)を意識しつつ成立したという特異な事情を考えれば、それが憲法前文の掲げる理想(παράδειγμα)の憲法などではけっしてない、戦後処理としての「平和構築」であったことは明白だろう。
自衛隊は国際法上の軍隊(στρατιά)であり、戦争のための実力装置(δύναμις)ではない点で、憲法上の所謂「戦力」(war potential)ではないにせよ、れっきとした軍事力であることを頬被りして、お茶を濁して(τεχνάζω)いるのと同じだ。[完]
‘Les vieillards aiment à donner de bons préceptes, pour se consoler de n’être plus en état de donner de mauvais exemples.’(=93, La Rochefoucauld; ‘‘Réflexions ou Sentences et Maximes morales’’=「年寄りは結構な教訓を垂れたがる。それは、もう悪い手本を人に示すことができなくなったことを、自ら慰めるためである。」)
米中間のような「貿易戦争」という名前の「貿易摩擦」は、日ロ間にはない。露のウクライナとの関係、これも領土問題であるが、クリミア半島を強引にロシア支配にした、ということで欧米はロシアに経済制裁をかけているが、日本は、それにも参加していない。
反氏や自称識者や専門家、に望みたいのは、正しい国際社会の現状認識なのであって、「ああいえばこういう」式を続けていても、議論の内容は深まらないというのは、丸山穂高議員の発言に対する視聴者の感想でわかるのではないのだろうか?
そもそも、そうした発言を可能にする、見識(φρόνησις)と資格(ἀξίωμα)が、ありとあらゆる「まやかし」(γοητδεύειν)に満ちた、嫌悪すべき(μισητός)「無学な人」(ἀμαθής)であると同時に、争論(ἐρίζειν)において終始、論点窃取(τὸ ἐξ ἀρχῆς αἰτεῖν)の詐術的議論(παραλογίζεσθαι)を事とし、論理的な不正(ἡ λογικὸς ἀδικία)を全く省みない「論過の人」(παραλογισμός)にして、剽窃(κλοπή)さえ厭わない「下劣な人」(ὁ μοχθηρός=「ならず者」)であるカ氏にあるとも思えない。
僭越(πλημμέλεια)の謗り(λοιδορέω)を恐れぬ厚かましさ(ἀναισχυντος)もカ氏ならではで、その驚くべき(θαυμάσις)低劣な(ταπεινότης)人間性(τὸ ἀνθρώπειος)を曝け出していながら、愧じる(αἰσχύνω)様子もない。
私に限らず、カ氏との間で、普通の意味での「意思疎通」が成り立たないのは、党派心(φιλονεικία)と敵愾心(ἔχθρα)剥き出しの「狭量な精神」(σμικρολογία)に基づく独善(λῆμμα)の為せる業(τὰ γενόμενα)だろう。
ゲーテ教(狂)の信者(ὁ πιστεύω)で、ヴァイツゼッカー宗の巫女(προφῆτις)を自認する老媼をして、かかる発言を可能にさせているものは、米独に留学したことや、外資系企業の勤務経験、ドイツの週刊誌の電子版を読んでいるという他愛ない自負があるのだろうが、日本についてさえ無知かつ無思慮な御仁だから天に唾する行為で、「あんただけには言われたくない」と、まともには相手にされまい。
そうでなくとも、日本語の文章のまともな読解でさえ覚束ないカ氏が、丸山穂高氏の発言から、25②⇒【武力を行使しないまでも、この日ロ間の国際紛争を解決する手段として、ロシアへの武力による威嚇が必要だ、と主張しているのと同じ】と本気で考えているとしたら、途方もない妄想(φαντασία)だろう。それは、「憲法の規定」云々の問題ではなく、ロシアとの軍事力の格差を考えれば、如何に丸山氏でも、「威嚇」の必要性など、想定もしていまい。
北方四島の法的帰属はともかく、敗戦(戦争)によって不当に奪われた事実を島民に問い掛け、それを条約交渉のような平時の駆け引きで取り戻すことの困難さを語る際の言葉として、「戦争」の二文字が出たからと言って、直ちに武力による威嚇の必要性を主張することになると受け取る軽率さこそ、カ氏の妄想癖の産物だろう。
‘On ne se peut consoler d’être trompé par ses ennemis et trahi par ses amis, et l’on est souvent satisfait de l’être par soi-même.’(=114, La Rochefoucauld; ‘‘Réflexions ou Sentences et Maximes morales’’=「人は敵に騙されたり、味方に欺かれれば大騒ぎするくせに、しばしば自分身を騙したり、欺かれて悦に入っている。」)
16⇒【哲学と法学、憲法論は違うのではないのか…哲学は学問として考えるもの、法律は、実際の要請から生まれるもの…それを一緒にするから、カントの「定言命法的」解釈が生まれて、世の中が混乱する】。
最初の対比は哲学と法学、憲法論だ。それが次の文章では哲学と法律の対比になる。つまり、比較の対象がずれ、議論が意味をなさないことに気づかない。哲学はもとより、法学、憲法論も学問だ。発想や手法の違いがあるものの、古来からある学問で、概念的思考を本領とする点でも変わりない。
一方、法律自体は、社会の特定の需要や要請に応じて生まれ、解釈されるもので、直ちに法学や憲法論のような学問ではない。
カ氏の立論の趣旨は、哲学のようなあらゆる前提条件(ἡνούμνον)なしに、事柄自身(πρᾶγμα)が要求する(αἰτεῖσθαι)厳密な(ἀκριβῶς)概念的思考(διάνοια)を徹底する高度に「抽象的な思考」(ἀπαίρεσκον διάνοια)の抽象性(ἀπαίρεσις)と対比して、法学や憲法論が経験(カ氏の意図する現実的に[κατὰ ἐνέργειαν]の実質的な含意)に即したものであるべきだ、とでも言いたいのであろうが、法学も概念的思考の産物で、特に憲法論はその色彩が強い。
しかもカ氏は、憲法(Verfassung)と憲法論(Verfassungslehre)との区別に思いも及ばないようだ。哲学と言えば、莫迦の一つ覚えのように、カントの定言命法(kategorischer Imperativ)の一点張りだ。C. シュミットの『憲法論』(‘‘Verfassungslehre ’’, 1928年)でも読めば分かる。
理論ぎらい(μισόλογος)の致命的弱点を露呈している。後段の16②⇒【ソクラテスが、尊敬…】以下は、無知ゆえの妄想なので相手にしない。知りもしないことについて、「☆呆」(ἠλίηθιος)ほど饒舌(ἀδολεσχία)に語る。
16後段の16②⇒【ソクラテスが、尊敬されているのは…自分の考えとは違うが、アテネの民主的な政治のシステムで判断された「死刑判決」にアテネ市民として従う決断をしたから】は、カ氏の「無知ゆえ」の単なる思い込み(δοξάζω)、手前勝手な主観的臆測(δόξασμα)に基づく妄想(φαντασία)の類であることを前回28で指摘した。
テキストの裏付け(διὰ τι)に基づく説得力(πειθώ)を欠いた世の俗説(ψευδῆ δόξάζειν)や通俗的な教科書、辞書、Wikipediaなどの記述(συγγράφω)に頼らざるを得ない、しかも呆れたことに「怖いもの知らずの」(θράσος)の「無学」の憐れさから、臆測(δοκεῖν)に臆測を重ねるしかない杜撰さで、恥の上塗りをしている。
「そうあれかしと望む」(προαιρεῖσθαι)こと、つまりカ氏の願望(βούλησις)をソクラテスに投影しているだけで、 そこには過不足(πᾶλλον καὶ ἦττον)のない解釈(ἐξηγέομαι)で、ものごとを正確に(ἀκριβῶς)理解することに対する真っ当な(ὀρθότης)配慮(ἐπιμέλεια)が全くみられない。
しかも、ソクラテスをして、「善く生きる」こと(「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということ」(‘τὸ ζῆν περὶ πλείστου ποιητέον ἀλλὰ τὸ εὖ ζῆν.’=Crito, 48B))や、正義(δικαιοσύνη)、祖国アテーナイの古風な、父祖伝来の(πάτριος)祖法(νόμος)や法秩序(νόμιμος)に従う意味について語らせているプラトンの政治観を最もよく示す代表作『国家』さえ読んでいない。告発(κατηγορία)の不当性を滔々と述べた自己弁護である『ソクラテスの弁明』だけでは足らない。
カ氏に「真理への愛」(φιλαληθής)など、微塵もないことを窺わせる。
そこにカ氏が並べ立てる「民主制」(δημοκρατία)への、16③⇒【自分の考えとは違っても…憲法や法律に従う…民主的な法治国家の基本】のような見解を示してはいない。古代のアテーナイに、近代的な「法の支配」(δεσποτεία νόμος)の観念をもち込む(hineinlegen)こと自体がナンセンスだ。
カ氏の立論は、プラトンら身近な弟子たちにとっても謎(αἴνιγμα)だったソクラテスの死を説明するのに、その言動や歴史上の証言(μαρτυρία)から具体的な何かを取り出す(herauslegen)のではなく、自らの解釈をソクラテスの行動にもち込む拡大解釈(zur viel verstehen)の典型、誤っ解釈(falsch verstehen)だ。
具体的なテキストを示さず自説にこだわっても、原文のどこにそのことを裏付ける(συμβιβάζειν)証拠(τεκμήριον)がありますか?(‘Avez-vous un texte?’)と問わざるを得ない。
結論を言えば、国家公共体(τὸ κοινὸν τῆς πόλεως=ibid. 50A)への忠誠心で、いったん決まった判決が個人の勝手によって無効にされるようなことになれば、国家は存立できない(‘τί ἐν νῷ ἔχεις ποιεῖν; ἄλλο τι ἢ τούτῳ τῷ ἔργῳ ᾧ ἐπιχειρεῖς διανοῇ τούς τε νόμους ἡμᾶς ἀπολέσαι καὶ σύμπασαν τὴν πόλιν τὸ σὸν μέρος; ἢ δοκεῖ σοι οἷόν τε ἔτι ἐκείνην τὴν πόλιν εἶναι καὶ μὴ ἀνατετράφθαι, ἐν ᾗ ἂν αἱ γενόμεναι δίκαι μηδὲν ἰσχύωσιν ἀλλὰ ὑπὸ ἰδιωτῶν ἄκυροί τε γίγνωνται καὶ διαφθείρωνται;’=ibid. 50A~B)という理由による国法(οἱ νόμοι)尊重であって、けっして民衆政への顧慮などではない。
ソクラテスに民主制的な国家観、国法意識はない。
制度(ἐπιτήδευμα)はいろいろな(ποκίλος)意味で変わる(ἀλλοιοῦσθαι)ものだが、人間自然の性情(ἡ φύσις ἀνθρώπων)はそう簡単には変わらない。善・悪(ἀγαθόν-κακόν)と正・邪(δίκαιον-ἄδικον)は措いて、それが世の現実(τὸ γιγνόμενον)というもので、しかもこの現実なるものが不断に生成変化して(μεταβάλλειν)、止まることをしらない。
福田恆存にならって、篠田さんが説く戦後日本の二つの「國體」、即ち憲法9条と日米同盟とが一体となった体制を、戦争を「罪悪とし、臭い物には蓋をせよという考え方によって…あの戦争を悪とする奇麗事にいつまでも固執するなら、その必然的結果…それを善に高めようとする居直りを生じる…皮肉な事に、この綺麗事も居直りもアメリカの占領と安全保障条約とによって、その微温的性格を破られずに今日まで保たれて来た」という(『現代国家論』、1965年、新潮社版『福田恆存評論集』第6巻、279頁)実態が否定しがたいのが、われわれの戦後史だろう。
その際、私は日本人を表向き支配して(ἄρχω)いる一種の「道徳論」として、戦争(πόλεμος)を「悪」とする強固な思想(ἕννοια)、というか先入見(ὑπόληψις)、固定観念(ὑπόληψις)、つまり極端な思い込み(δόξασμα)を抜け出せない頑迷固陋さ(δυστράπελος κὰι ἀκληρότης)について、想定される非難を憚る(αἰσχύνω)ことなく原理的な考察(σκέψις)を試みてきた。
私が説く戦争の原理的な考察とは、何も戦争へのハードルを下げるような論理とは異なる。むしろ、戦争のように人間の歴史とともにある、不易の(ἀμετάβατος)、普遍的(καθόλου)とさえ言える行動様式について、思考上のあらゆる前提を取り外して根底からその構造(συστασις)と全体像(τὸ ὄλος)を、真の(ἀληθής)意味で考える(διανοεῖσθαι)ことを主張する、謂わば「哲学の勧め」(προτρεπτικός)に外ならない。
そうした思考上の実験は戦後、「戦争」を正面から語ることさえ避け、しかも自衛隊がれっきとした国際法上の軍隊(στρατιά)であるという自明(φανερός)の事実を頬被りする一方で日米同盟を必要悪として受け容れ、篠田さんのように、それを確立された国際法規範の中に位置づけ、安全保障論議に資する試みさえ等閑にしてきた。
とりわけ政治家、憲法学者、メディアが大筋で、憲法改正はもとより、真っ当な安全保障論議さえ忌避してきたこの国の唾棄すべき退嬰性は、思想、政治的立場上の左右、保守、進歩派の違いを問わず、暗黙の「集団的思考」が支配する滔々とした流れになって民衆を支配しているのが戦後の偽らざる実像だろう。
戦争と平和をめぐる論議が教条的な道徳論に低迷する現状を、今回の「丸山発言騒動」は、如実に物語っている。
戦争の否定や平和への願いは、道徳や政治の前提にはなっても、それだけでは現実に平和を維持する強固な原理となる構想力を欠いている。
分かる人には中学生でも分かるのだろうが、「戦争」(πόλεμος)という言葉(λόγος)に恐れをなし、丸山発言をめぐる大騒動のように、それを禁忌として封印し、一種の思考停止状態(ἐποχή)に陥る憲法9条信仰が根強い原理的平和主義者――9条二項の説く「戦力」や「交戦権」の否定(ἀπόφασις)を自衛隊にも該当するとする所謂「護憲平和主義」のタイプと、国際紛争を武力で解決しようとすることを退ける憲法前文や9条の趣旨は肯定(κατάφασις)しつつ、侵略の手段ではない「必要最小限」(ἀναγκαιοτάτη)の自衛措置、実力組織として認め、国際法上の軍隊ではあるが「戦力」ではないとする篠田さんの論理も受け入れつつ、何があっても戦争は避けるべきだというタイプに大別できるであろうが――には、何のことかさっぱり理解できないと反撥されそうである。
もう少し詳しく言い換えるなら、戦争の否定(ἀπόφασις)や平和(εἰρήνη)への願い(βούλησις)や祈り(εὐχή)、誓い(ὅρκος)や決意(ὅρκια)、希望(ἐλπίς)を語ることは、それはそれで自由(ἐλευθερία)だし否定もしないが、それは道徳(Tugend=ἀρετή)や政治(τὰ πολιτικός)を考える前提(πρότασις)やきっかけ(ἀρχὴ)、動機(ὑποθεως)にはなっても、それだけでは現実に(κατὰ ἐνέργειαν)平和を維持継続する強固な(ἰσχυρός)原理(ἀρχή)となる構想力を欠いている、という趣旨である。
平和主義とは国会議員を憲法の奴隷化(δουλοω)することではなかろうが、それでも、平和は何よりも優先されるべき至上命題ではないか、という応答が返ってきそうだ。
それは、戦争が引き起こす不幸、端的に厭うべき(μισητός)厄介事(τὸ πονηρός)に目を塞ぎ(τυφλώττω)、できるだけ考えないようにすることに等しく、死(θάνατος)はそのうちの最大のもの(τὸ κμέγιστον)で、万が一自分や親族が巻き込まれる(πάσχω)かもしれない核兵器攻撃が、あたかも人類滅亡(ἄνθρώπων φθορά)のように、差し迫った危機(κίνδυνος ἕξις)として、一種の臨場感をもって受け取られるのだろう。
しかし、それが客観的事態(οἷα ἦν ἢ ἔστιν)かどうかはまた別の話で、北朝鮮による核の脅威を「正しく恐れる」(φοβέω ὀρθῶς)ことが肝要だし、闇雲に思考停止して、9条が説く平和の理念を、呪文(ἐπῳδή)の如く唱えて(ἀείδω)もどこか空々しく(κενός)、無に等しい(ὡς οὐδέν)わけだ。
幸いに冷戦期を含め、戦後は戦火の舞台(τῇ μάχῃ)となることを免れ(ἀποφεύγω)、日米同盟もあって首尾よく平和と繁栄を謳歌したが、それは憲法9条とは独立した事態、少なくとも9条は「変数」でしかなかったことが歴史上の事実のように思われる。
平和を唱える(ἀείδω)ことと、実現する(ἐργάζόμαι)ことは違うのである。
別の箇所では、「ものを自由に(ἐλευθέριος)考えるという行為(πρᾶξις)は、元来(οἰκεία φύσις)傲慢(ὕβρις)なものなのである」(11)とも書き、別段キリスト教徒でもないが、「新約聖書」にある聖パウロの言葉(『ローマ人の信徒への手紙』第9章20節)から、‘μὴ ὑψηλὰ φρόνει, ἀλλὰ φοβοῦ.’(Προς Ρωμαιους, XI, 20=「高ぶりたる思いを抱くな、却って懼れよ」)を引いた。
戦争の一般的禁止規定として確立した国際法上の法規範(νόμος)である1928年の「戦争抛棄ニ關スル絛約」(所謂パリ不戦条約=ブリアン=ケロッグ条約)や国連憲章について、それを重要視する(περὶ πολλοῦ ποιέομαι)ことは大事だが、「戦争の禁止」という初歩的な知識、認識(ἐπιστήμη)や顧慮の程度(μέτριον)を問い、その有無(εἶναι καὶ μδηέν)を論じ、今回の丸山発言への大方の対応のように、それを批判し(επιτιμᾶν)たり、議員辞職勧告決議案提出のような形で糾弾(ἐπιτίμησις)する一方で、嘲笑し(καταγελάω)、愚弄する(χλευάζειν)だけでは一歩も前に進まない問題がある。
少なくとも、われわれ自身を少しも(τέλεον)賢く(εὐβουλός)しないであろう。
平和(εἰρήνη)の維持継続に向けた国際協調といい、安全保障上でのより善い(βελτιων)条件での外交的な選択(προαίρεσις)といい、所詮は国家としての自由な独立自存に加え、国民の欲望(ἐπιθυμιῶν)を満たす環境を調えることでしかない。国際関係に限らず、それが政治(τὰ πολιτικός)、延いては歴史の現実(τὸ γιγνόμενον)ということだろう。
憲法(Verfassung)が最高法規(ἔσχατος νόμος)といったとことで、われわれは何も憲法の奴隷(δοῦλος)である必要(ἀνάγκη)はなく、国家議員に憲法99条が規定した「尊重擁護義務」があるとしても、憲法は「不磨の大典」ではなく、不都合なら変える(μεταβάλλειν)こともできる。
立法(νόμος)、即ち法律を作り(νομοθετέω)制定する(νομοθετέω)「立法家」(νομοθέτης)として、単なる法の解釈論(ἐξηγέομαι λόγος)、謂わば法律論(ἡ νομοθετικός)ではない立法論(立法術=ἡ νομοθετικός)に収斂する見識こそ、国権の最高機関の構成員である国会議員に求められる資質(ἀρετή)であり本分(πρᾶγμα)であろう。
国権の最高機関に参与し、法の制定者(νομοθέτης)の一翼を担うべき有為な人材の役割とは、そこにあると考えるのが常道で、丸山発言はその観点から論じるのが至当であろう。
ものを考える(διανοεῖσθαι)ということは、例えば戦争の否定(ἀπόφασις)や平和への願い(βούλησις)を前提とするにしても、われわれの思考自体を自由にする(ἐλευθερόω)ことでなくては、真に(ἀληθῶς)考えることにはならない。
事柄自身(πρᾶγμα)が要求する(αἰτεῖσθαι)厳密な(ἀκριβῶς)概念的思考(διάνοια)を徹底させ、「認識の赴くところ」(ἐπισθημονικός)に従って、ものごとの本質(τὸ τί ἦν εἶινι)見極めること以外に正道はない。
「考えが人間の偉大さをつくる」(‘Pensée fait la grandeur de l’homme.’)とはパスカルの遺稿『パンセ』(“Pensée”)にある断片(346)だが、「人間はひと茎の葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である」(‘L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature; mais c’est un roseau pensant.’=Frag. 347)とも。
思うに、人はものごとを徹底して考えなくてはならない問題から精神の目を逸らすなら、真理と思しきものに対して盲目(τυφλός)であるほかはない。精神の懦弱さ(μαλακία)とはそうした態度に外ならない。[完]
「人間は、天使でも、獣でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようと思うと、獣になってしまう。」(‘L’homme n’est ni ange ni bête, et le malheur veut que qui veut faire l’ange fait la bête.’=Frag. 358[前田陽一訳]: Pascal, B.:Œuvres. publies suivant l’order chronologique avec documents complementaires, introductions et notes par L. Brunschvicq, et P. Boutroux. , 1925, Tom 13, 271.)
国際法を遵守することが現代国家の義務であるならば、我が国が批准した条約や慣習国際法は厳に遵守する必要があるのであって、国内法の解釈を国際法の解釈と違わせることは、あってはならないことです。ましてや、日本国憲法98条2項は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」と、国際法の遵守を義務付けています。従来の内閣法制局による解釈は、憲法98条の蹂躙と言って間違いないでしょう。
このような異常な事態を、憲法学者も官僚も気が付かなかったことは、やはり我が国における国際法の理解が浅過ぎる証拠だと思います。
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