トランプ大統領が令和最初の国賓として来日中だ。「おもてなし」の度合いが話題になっているようだ。「属国論者」がこの機会を喜んでいるはずがないのは、想像するまでもない。
昨今は「日本は米国の属国だ」をテーマにした本が何冊も出ていて、プチブームのようになっている。米国を特別待遇することを感情的に許すことができない層の人々が、高齢者層であるかどうかは知らないが、日本に一定数いるのは確かなようだ。トランプ大統領の来日とは無関係に、とにかく日本はアメリカの属国、と主張する「属国論者」の方々である。
だが日本にとってアメリカが特別な国であることは、誰でも知っている端的な事実だ。ほとんどの国民は、それを知っている。それが嫌なら、中国にお世辞を使って上海協力機構に入れてもらったり、欧州人にお世辞を使ってEUやNATOにでも入れてもらったりするなどの代替案を考えければならない。それらがいずれも現実離れした代替案でしかないことを、国民のほとんどは知っている。
トランプ大統領は、日米の「特別な関係」を発信し、「歴史的時期に唯一の主賓」などと語ってくれている。アメリカ人の多くが、米中間の「新冷戦」の不可避性を語る緊張した時期に、そのように言っているのである。国力が停滞し、未曽有の人口減少時代に突入し始め、韓国との間の深刻な関係悪化を抱える日本に、アメリカの大統領がそう言っているのである。それが日本にとっていいことか、悪いことかと言えば、シンプルに、いいことだ、と考えざるを得ない。
ついでに日本への外国人観光客が増えるような見せ場を作って副次的な効果を狙うのも、理にかなっている。
安倍首相は、トランプ大統領との長時間のゴルフについて「きつくなかったですか」と聞かれ、「アメリカの大統領からもうハーフやろうって言われたら断れないよ。別にそこまでゴルフが好きじゃない。日本のために必死でやったんだよ」と答えたという。https://www.fnn.jp/posts/00046112HDK
シンプルすぎる発想だろうが、間違ってはいない。
やはり物事は最後にはシンプルに考えるのが、とりあえずは一番強い。
野党側も、数が限られた特定の投票者層だけではなく、国民の大半に届くシンプルなメッセージを持っていくことを、もう少し考えてみるべきだろう。
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それがけっして多数派(οἱ πολλοί)というわけではないのは、大多数の国民(πολίτης)が、生活実感としても態度(διάθεσις)としても、占領軍=米国による戦後の民主的改革(δημοτικός καινοτομία)を支持しており、その元となった戦後の憲法改正について、草案の出自(γένος καὶ γενεαλογία)が「米国製」、つまり圧倒的な軍事力(δύναμις πρὸς πόλεμον)をもつ米国による、有無を言わさぬ「力ずくで」(κατὰ τὸ καρτερός)のという意味で、「押し付け(βιάζομαι)憲法」と批判する人々ですら、戦後的な、即ち「米国的な」価値観、即ち民衆政(δημοκρατία)=民主政治(democracy)への素朴な(εὐηθικός)信念(πίστις)、言うなれば帰依感情(πιστεύω πάθη)のうえに生きている。
それは何も戦争に負けた(νῖκάομαι)被征服者(ὁ νικηθείς)の卑屈(μικρόψυχος)ということに尽きるものでもないことは明らかだろう。
憲法9条と並ぶ戦後日本の規定要因である日米同盟について、それが双務的ではないにせよ、純粋なる(κᾶτᾶρός)軍事同盟であることを頬被りして(ἐάω)、やれ首都上空の空域の相当部分が米軍管理下に属するとか、トランプ大統領が千葉県のゴルフ場に向けて飛び立った東京・六本木の米軍施設「赤坂プレスセンター」のように、れっきとした、しかもかなり広い「米軍基地」が首都の一等地にあるのは屈辱(λοιδόρημα)だとするような、一見して「もっともらしい」(ἔνδοξος)議論は、安全保障の根幹を没却した、如何にも「平和ボケ」と揶揄されそうなナイーヴな議論にすぎない。
篠田さん流に言えば、それもまた戦後の勝者(ὁ νίκη)=征服者(ὁ νικήσας)による「平和構築」の一環であることは、護憲派の知識人や文化人、その理論的主導者である東大法学部系の憲法学者、立憲デモクラシーの会に蝟集する「進歩的」識者が、どう戦後の理想と希望を語ろうと、少しも変わりはしない。
日米安全保障体制=日米同盟にせよ、すべてが守護者(φύλαξ)である米軍の乳母日傘の下でというわけではないが、米国抜きの安全保障戦略を事実上(ἔργῳ)欠いている(ἔρημος)、極言するなら全く無きに(οὐδέν)等しい現状を無視して全方位、等距離、自主外交・戦略を説くことは無責任だし、欺瞞(ἀπάτη)の最たるものにすぎない。
先の大戦で多大な迷惑をかけたアジア諸国と友好関係を維持することは、経済的な面からも必要不可欠だが、こと安全保障に関しては油断ならざる覇権国家(δύνάστης)である中国がますます存在感を増しているなかでは、他に選択肢はない。
しかも、NATOのような地域の集団安全保障体制をアジアに実現させようとしても、東アジアに限ってもキリスト教共同体である欧州のような文明的同質性は、アジアにはない。「アジアは一つ」というのは単なる要請(αἰτεησις)であって、畢竟幻想(φάντασμα)にすぎない。
いずれにしても、別の見方をすれば憲法9条と日米同盟は戦争の勝者である征服者との契約(συμβόλαιον)であり取引(συμβόλαιον)という意味での選択(προαίρεσις)であって、それは現在、ますます重要性を帯びている。米国を孤立させるような戦略は国益にも反するからだ。
それはそれでよい。しかし、勝者敗者を問わず多大な犠牲(θυσία)を伴う戦争は、日本人が単純に(ἁπλοῦς)考えるほど、愚行(μωρός πρᾶξις)ということでもない。いずれも「守る」(φυλάττω)べきものがあって戦いに巻き込まれ、「心ならずも」(οὐκ ἑκών)選ばざるを得ない厭わしい行為というだけでなく、時に利益(ὠφέλεια)を度外視して、わが身が蒙る(πάσχειν)不利益(ζημία)にもかかわらず、正義(δικαιοσύνη)と自尊心(μεγαλοψυχία)とのため、自ら進んで(ἑκούσιον)戦うこともある。
「掛け替えのない」(ἀσύμβλητος)生命(ζωή)を大事にする(φιλότιμος)点では何処も同じだ。しかし、生命だけを「至上のもの」(τὸ ὑπερβολή)に祀り上げる日本人的価値観、つまり生命以上に大切なものを失い、戦争をトラブルを招く厄介事(τὸ πονηρός)としか考えないことに救い(σωτηρία)や安逸(θαρρος)を見出す逃避(τὸ φεύξογωμαι)こそ、人を一種の奴隷にする(ἀνδραποδίζομαι)。奴隷の思考に囚われた姿こそ、反米論者や抑圧された(δουλεύω)反米感情の基底にある奴隷根性(δοῦλοψυχία)で、戦後の少なくない日本人の「自画像」(αὐτός εἱκών)だろう。
翻って、「令和」最初の国賓であるとトランプ大統領の訪日を素直に喜べないのは、そうした戦後的価値観から自由になれない(ἀνελεύθερος)退嬰性の然らしむところだ。時代遅れの欧州尊重という名の偏向に傾きがちな知識人に特にその傾向が顕著なのは、何とも皮肉だ。[完]
同時に、米国が戦略爆撃機によって全国主要都市を焼き尽くした無差別焼夷弾攻撃、最後にとどめを刺すように続いた広島、長崎への原爆投下のように、日本を破滅に追い込み、地獄の責苦を与えた、無慈悲にして最大の敵国であることに伴う恨み(ἐπονείδιστον)が想定される。
このうち、特に非戦闘員である無辜の民にも多大の犠牲(θυσία)を強いた無差別の焼夷弾攻撃と原爆投下は、正しい戦争のルール、所謂「戦争における法」(jus in bello)への重大な「不正行為」(ἀδίκημα)という疑義が生じる攻撃であって、米国の掲げる対ファシズム戦争という大義(μείζον δίκη)が、所詮は国益に応じた名分(πρόφασις)にすぎないのではないか、という疑念を抱かせ、日本人の心の奥底で疼くように燻っているとも考えられる。
この問題については、1994~95年にワシントンのアメリカ航空宇宙博物館で企画された「戦後50年記念展」の一環である原爆資料の展示が、保守派の政治家や退役軍人組織の激しい反撥、世論の批判もあって、当初計画の大幅な縮小に追い込まれた出来事がすぐさま想起される。
原爆投下によって必要以上の犠牲を増やさずに戦争を終結に導くことができたという、今なお米国の大勢を占める世論を背景に、原爆投下を無辜の民への大量虐殺、つまりジェノサイド(génocide)と同等に扱うことは、歴史に対する不当な(ἄδικος)「告発」(κατηγορία)であって、中傷する(συκοφαντεῖν)ことに等しい「修正主義」であり「冒瀆」に外ならないとする見解が根強い。
『正義論』(1971年)の著者で法社会哲学者のロールズ(1921~2002)のように、「日本各地への無差別爆撃と8月6日のヒロシマ原爆投下とは、ともに極めて大きな過ち(great wrongs)」とする識者も例外的に存在するのが米国の特質だが、彼とて、戦争を未然に抑止する「戦争に対する法」(jus ad bello)ではなく、いったん始まってしまった「正しい戦争のルール」(jus in bello)を6つの命題を掲げて説く、畢竟「まともな」(decent)民主社会が当事者となる「正しい戦争」(a just war)の存立を否定しない点でけっして感傷主義的な平和論者ではない。
ロールズは、戦争目的を果たすための(または利益以上の害悪をもたらさない、という謂い)手段(ὄργαναの選択において、軍事行動や政策が妥当かどうかを判定する指標である戦争遂行の諸規範に関する五つの原理(正しい戦争の目標▽敵国の政情▽戦争責任の軽重を判断する原理▽人権の尊重▽戦争目標の公示)を掲げて厳格に論じている。
篠田さんがよく指摘する必要性と均衡性(目的と手段の均衡)は、原爆投下に至っては、それを全く欠いた残虐行為の典型だったことは明白で、戦争遂行のルール(jus in bello)を逸脱している、と「凄まじい道徳的悪行」(great evils)と断罪する。
その点で、この国の一部に根強い反米感情、しかも反日米安保や反米軍基地という政治的主張とは異なる領域での反米主義にも一定の合理的根拠が存在することは否定できないが、それは硬直的で偏狭な反米ナショナリズムを後押しする論理では全くない。
当初から勝つ見込みがない世界最強国相手に指導部が承知で挑んだ日米戦争は、3年8箇月を要する激戦の末、双方に多大の犠牲をもたらしたが、別の観点からみれば曲がりなりにも4年近い長期にわたって超大国相手に四つに組んで戦う国力があったことも意味する。
戦後は有無を言わさぬ強制力(τὸ βίαιον)を背景に、戦後統治の、つまり「平和構築」の歴史的成功例であった日本の戦後処理が一部に根強い反米感情を醸成し、今なお引きずっている底流には、戦争の勝者と敗者との確執(ἀγών)や憎悪(μῖσος)とは異なる彼我の「距離」があるのだろう。
憲法9条と日米同盟を同時に受け入れた矛盾に国民の大多数は必ずしも自覚的ではなかったが、60年安保騒動のように、一定量以上の国民的エネルギーを放出した社会的現象も存在したわけで、新憲法を占領軍=米国による「押し付け」という事実を糊塗するため、欺瞞に満ちた論理構成によって護憲平和主義の支柱にしようと換骨奪胎するアクロバティックな憲法解釈を生みだし、その後の「護憲ナショナリズム」の簇生に至る。
それは現在の在日米軍基地問題にもつながる根深い問題で、条約に伴う日米地位協定上の協議や米軍の東アジア戦略の面も無視できないが、基地の受け入れ自体を国民が暗黙のうちに是認している以上、受け入れ先をめぐる「国内問題」の側面もある。
ところで、一般に戦争犯罪(war crimes)と言っても、「平和に対する罪」(crimes against peace)はともかく、「人道に対する罪」(crimes against humanity)は、1928年の「パリ不戦条約」にその規定はない。平和に対する罪も第二次大戦後に日本とドイツの戦争指導者等を処罰するために、東京とニュルンベルクに設置された国際軍事裁判所で新たに適用された罪責である。
ニュルンベルク国裁判所条例をめぐる法的な議論に際して、裁判所が審理、処罰する権限を有するとされた、従来の狭義の戦争犯罪(「国際法の交戦法規に違反する行為」)とは異なる新しい戦争犯罪の概念については、「不戦条約」によって自衛戦争を除くすべての戦争が一般に違法化されていたことを承認するとしても、戦争の「犯罪性」について、実定国際法上はそれを明示的に示したものは存在せず、侵略戦争に有責の国家機関の特定個人の罪責追及の如何についても、戦争が国家間の現象であり、遂行主体は国家であるから、その機関に属する者が個人的に責任を負うべきではない、という議論があった。
東京裁判でも、検察側はこの裁判が史上初めて個人の戦争責任を追及するもので、先例がないことを認めている(「平和に対する罪」の萌芽は、ヴェルサイユ条約228条によるドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の訴追規定にあるとされるが、皇帝がオランダに亡命し、オランダ政府が身柄引き渡しに応じなかったことで訴追されなかった)。
「平和に対する罪」と「人道に対する罪」について、こうした議論を受け国際法犯罪として適用する原則を確認する「人類の平和と安全に対する罪についての法典草案」が国際法委員会(ILC)によって作成されたのは1951年である。もっとも、「人道に対する罪」に関する本質的な部分、ナチスドイツによるユダヤ人大量殺戮(holocauste)のようなジェノサイドの罪については、1948年にジュネーブ・ジェノサイド条約が国連総会で採択されているものの、いずれにしても「事後法」であることに、変わりはない。
最後に、私が考える米国との共存策は全くシンプルで、米国とだけは戦争につながらないでも、深刻な確執に至るような対立を回避することが日本の国益に適うという総合的な判断(συλλογίζεσθαι)だ。中国やロシアとは敵対した場合の脅威の次元が異なるのである。少なくとも、原爆を敵国に落とす決断を辞さない国家であることを肝に銘じたらよい。
そして、今後の滔々としたグローバル化の潮流のなかで、人種の坩堝であるこの人工国家こそ、たぶん人類の未来の標準になる。そして、もはやヨーロッパ基準の文明の論理は時代遅れで命脈が尽きかけているのは、残念ながら事実なのだろう。
EU各国のインテリ指導者など、束になっても彼らが軽侮(ὀλιγωρία)するトランプ大統領に敵うまい。[完]
冷戦期には、「平和攻勢」と称して、それがソ連や中国の政治的意図の実現に向けて幇助的役割を果たすことさえあった。「平和」はソ・中など共産主義陣営が米国などの容喙や掣肘をかわして、国際政治において自陣営に有利な形で勢力拡大を目指す際に、自分たちこそ世界の友好平和に努力する「平和勢力」であることをアピールし、米国を盟主とする自由主義、資本主義陣営に対して、核兵器を含む一方的軍縮の呼び掛けや緊張緩和の提案を行うことで国際世論を味方につけ、あわよくば主導権(ἡγεμονία)を握ろうとする明確な牽制策だった。
すべてではないにせよ、そうした見え透いた(εὐθεώπρητος)戦略の走狗となる役割を無意識のうちに担っていたのが、55年体制下での「平和運動」や「核廃絶運動」を主導した社会党や共産党であり労働組合、平和主義団体などの、米国を中心とした自由主義陣営の世界的伸長を歓迎しない、「社会主義」に平和への希望(ἐλπίς)を託した、所謂左翼や進歩主義陣営で、その主張の核心にあるものこそこそ、まさに反米主義者だった。
『隷従への道』(“The Road to Serfdom”, 1944年)で、個人の自由を目指す政策こそ真に進歩的な唯一の選択されるべき政策であると説いたハイエク(1899~1992)の流儀にならえば、「左翼運動の偽装の要素」と揶揄されたリベラリズムをも退け、ハイエクが「社会主義」と同義(ἡ αὐτή)とした「計画化」によるバラ色の平和で繁栄した社会の実現を目指すという虚偽を流布する提灯もちの浅慮こそ、親ソ中・反米の社会改造論者たちであり護憲論者だった。
そこにあるのは、まず単に戦死者(ὁ ἐνπολέμῳ ἀποθνῄσκω)にとどまらない、戦争によって「死んだ者たち」(οἱ ἀποθνῄσκω)への痛切極まりない悲しみ(θρῆνος)や嘆き(λύπη)、哀惜(ὀλοφυρμός)の念であろう。
しかも、同胞の兵士たち(οἱ στρατιώτης)の、「侵略」という汚名(διαβολή)につながる死(θάνατος)は、戦争で犠牲(θυσία)になったアジアの同胞への死のようには素直にその死を悼み(ἐπιτᾶφέω)、犠牲的行為を讃美(ἐπαινος)も感謝もできない、一種のもどかしさを伴って、日本人の心に複雑な影を落としており、「靖国」の英霊(ἥρως)が、「アーリントン」に眠る祖国の(πάτριος)英雄(ἥρως)たちのようには胸に迫ってこない原因になっている。
私は以前、戦後日本を規定した二大要因である日本国憲法と日米同盟を語るうえで、避けて通れなのが、戦後五十周年を受け、文芸評論家の加藤典洋が問題提起した「敗戦後論」(『群像』1995年1月号、のちに『敗戦後論』所収)の中で明らかにした、戦後「民主主義とナショナリズムの閉回路」、とりわけ戦後の日本特有の人格分裂の心理構造、いわゆる「ねじれ」の感覚について指摘したが(7月11日・36)、反米主義もそうした心理的メカニズム(μηχανική)の一つかもしれない。
「侵略戦争」で敗れた敗戦国の国民であるわれわれが、何ゆえ、アジアの犠牲の彼方にしか真の意味で同胞の死に向き合えないのか、と問う(ἐρώτησις)加藤の問題意識の延長線上で、憲法も含めてこの国の戦後を総体(τὸ ὅλσν)として受け止める必要性がある、ということだ。
不可逆的な人口減少社会に転じ、近未来の相対的な国力維持に苦悩し、沈みゆく危惧さえある日本だけが、いつまでも特殊な(ἐν μέρει)存在として、国際社会に背を向けた一種独自の「聖域」(τὸ ἱερός=sanctuary)に立てこもる不自由な思考から自らを自由にする(ἐλευθερόω)ことなくして、真の尊厳(σεμνόν)や誇り(καυχημα)はもとより、自尊心(μεγαλοψυχία)も取り戻せないだろう。
反米主義は、米国の世界戦略を「帝国主義支配」として非難しながら、憲法一つ改正できず、その核の傘に安住する自己欺瞞(αὐτὸς ἀπάτη)と同じ心性に根差している。
日本が米国の「属国」だと明言する『国体論―菊と星条旗』の著者で小児病的な革命願望ボーイである白井聡氏に、隷従(δούλωσις)を脱する特段の妙策があるとも思えない。プロレタリアート革命を鼓吹する思想的推進力があるはずもなく、騒々しいだけだ。
他愛ないぶんだけ、それもよい。天皇制を維持(謂わば「共和制移行」の阻止)して軽武装による経済復興を急いだ保守も、絶対平和主義と戦後民主主義の空念仏を唱える革新、リベラル勢力も9条を防波堤として利用したことについて驚くほど無自覚で、憲法論議をめぐる左右の「終わらない対立」も一種の虚妄だろう。
米国の支配(ἀρχή)を脱したければ知慧も覚悟(πίστις)も必要だろうが、反米主義者に限ってそれを真面目に考えた節がない。だから、冷厳なリアリスト岸信介の孫が担う長期政権を倒す算段さえつかない体たらくである[完]
ケネデイー大統領の西ベルリンでの Ich bin ein Berliner演説は、日本国憲法9条のような精神から生まれたものではない。当時の西ベルリン市長のブラント氏が、1958年のソ連のフルシチョフのベルリンの非武装提案と自由都市要求を即日拒否し、1959年のバートゴーデスベルグでの社会民主党の新しい綱領で、マルクス主義を否定し、階級政党から国民政党へ移行させ、また、経済政策についても、計画経済から市場経済へ移行させた。そして、左翼のブラント西ベルリン市長、のちの、西ドイツ首相が、ソ連ではなくて、アメリカの武力で、西ベルリンや西ドイツの自由を守る嘆願をケネデイー大統領にされた結果なのである。
日本のマスコミ知識人は、共和制をえらくいいものと考えるが、ドイツとイタリアが共和制になったのは、日本の天皇家と違って、二つの王家に国民への責任感がなかったためなのである。ドイツの王室は第一次世界大戦中に、イタリアの王室は第二次世界大戦中に、国民の苦境をそのままにして逃げ出したから、無責任な国王はこの国にはいらない、という理由で、国民の選挙で共和制になったのである。自分の身よりも、まず、日本の国民のことを考えて、無条件降伏をし、敗戦後日本中を慰問された昭和天皇とは、対極にある。それを考えた時、日本の天皇家の偉大さ、に心をうたれ、日本のマスコミ知識人の無責任体制には愛想が尽きる。
お詫びして、訂正します。
私は、この国の進歩派の知識人に少なくない、型通りの反米、反安保を軽侮こそすれ何の興味もない。それは、戦後になって日本人と日本社会が「本心」の感覚と「信義」(πίστις καὶ δικαιοσύνη)の感覚を、共に失ったことを意味するなかでの、一症例(παράδειγμα)にすぎないと考える。
然らば、悠久なる(μόνιμος)國體の大義(μείζον δίκη)を唱える民族派、所謂「右翼」や、もう少し穏やかな保守陣営はどうかと言えば、左翼・進歩派陣営と大差はない。同じ日本人であるから異とするに足りないが、日本人の思想的脆弱性(μαλακία)、精神の懦弱(ἀσθένεια)の点では同じで、選ぶところはない。
戦前に「鬼畜米英」を唱えた国家社会主義者がほぼ例外なしに「反共」を隠れ蓑に親米派に鞍替えし、やがて占領が終わって周囲から米兵の姿が消えると、台風が去って稲が穂先をもたげるように次第に自尊心(μεγαλοψυχία)の疼きを覚え、しまいには米国に全面帰依したわけではなく、それは上辺だけで、面従腹背で信念(πίστις)を保持(φυλάττω)した、という自己弁護(αὐτὸς ἀπολογία)をすることが、しばしばみられる。
しかし、それは単に、圧倒的な強者(κρείττων)=覇者(δύνάστης)の前で、頭を低くして(ταπεινόω)、戦後の生存(σεαυτοῦ)に余念がなかった(σπουδάζω)だけの話だろう。代わりに(ἀντί)負け惜しみ(διαφιλονεικοῦτες)を言ったところで相手にされまい。
もっとも、悪い見本はよそにもあって、ナチスの大罪(κακία)を自分たちには「責任がない」(ἀναίτιος)、むしろ被害者(ὁ πάσχω)、受難者(παθητός)だと今なお(ἔτι)言い募るドイツ人ほどわれわれの先人たちが恥知らず(ἀναισχυντος)でも臆面がない(ἀναισχύντως)わけでもないだけの話だろう。
今回の丸山穂高氏の「失言」問題をめぐる騒動で思い出すのは、文芸評論家の加藤典洋がかつて発表した瞠目すべき論文「失言と癋見─『タテマエとホンネ』をめぐって(『思想の科学』、1996年4月号=『可能性としての戦後以後』、1999年、岩波書店に所収)の中で分析した、「タテマエとホンネ」という、「戦後の思考装置」となった言葉(λόγος=ἐπος)だ。
加藤はそれが、憲法や日米同盟を語る際の「暗黙的了解の共同体」の無意識の基底とみており、反米主義を考える点でも有益な視点を提供している。
加藤によれば、「タテマエとホンネ」という措辞(λέξις)は、「戦後の起点(敗戦と占領)の切断の記憶を隠蔽するため、わたし達が無意識に編みだした、いわばわたし達戦後日本人の、戦後日本人による、戦後日本人のための、自己欺瞞の装置」 (『可能性としての戦後以後』161頁)となる。
そうした議論の趣旨は以前紹介したものに譲るが(昨年7月2日・109~113)、要するに、政治家が公的な言語空間で失言と全面撤回、謂わば「ホンネとタテマエ」を繰り返す精神のメカニズムを、「表と裏」「公と私」などと違って純粋に戦後由来の言葉である「タテマエとホンネ」の詳細な用例分析を通じて明らかにしたものだ。
戦後の日本人が無意識に考案し、自画像(αὐτός εἱκών)の確認をめぐって混乱(ταραχή)し、困惑する(πρᾶγμαἔχω)なか、謂わば‘Identity crisis’を回避するための思考装置であるのが「タテマエとホンネ」ということになる。
この二重の自己欺瞞が戦後の裏の自画像であり、単なる言葉の使用法の変化の文脈を超えて日本人を強く規定していると論じている。
例えば、「戦後の原点に、ある完全な戦前からの切断の経験、わたし達をニヒリズムに陥らせるような経験があったことを、想定させる」として、「1945年の敗戦は、日本にとって異国人による最初の国土占領、全面的な敗北を意味した。それが当時の日本人に驚天動地、前代未聞の経験だったことは疑われない。…それまで鬼畜米英を唱えた国家主義者達の団体がほぼ例外なく「反共」を隠れ蓑に親米派に転じたこと、さらに、天皇信奉者の中に昭和天皇が死ぬまで、その責任を指摘する声が、ほぼ一つとしてなかった…それまで列島を金縛りにしてきた国家主義的心情と信条の、一転しての軽さは、どんな社会においてもありうることとはいえ…その程度の強さにおいて、特徴的である」(163~164頁)と。
加藤はそこに敗北の凄まじさをみると同時に、天皇を「まっさきに責任を取るべき」存在と主張する国が連合国の中にもあったなかで、意図的に天皇を免責した米国の「善意」という名の狡知(πανουργία)をみている。
加藤はこの「アメリカなるものへの完全脱帽、絶対帰依の経験こそが、抑圧され、見えないままに、日本の戦後の原点に埋め込まれている」(同166頁)とする。この絶対帰依が独立回復後に「タテマエ」として、「あの時は面従腹背だった」という言い訳になり、「ホンネ」=信念は別にあったとなるが、所詮は敗者=弱者(ἥττονων)が自己を取り繕う(τεχνάζω)言い訳で、自己欺瞞に陥らざるを得ない所以だ。
加藤はそこに戦後の日本人の大多数の「全面的な自己喪失」をみており、この「自己放棄」に等しい屈辱的な全面屈服の経験に正面から向き合い、正確な自己認識に徹することからは、左右を問わない「反米主義」のような退嬰的態度は生まれない。
米国に誇り(καυχημα)も何もかも粉砕された屈辱の記憶(μνήμη)を消去したり、戦後民主主義の美名(κάλλος)に逃げることは真の意味での覚醒にはつながらず、誇りを回復することにもならないことを銘記すべきだろう。
論文の表題「癋見」(べしみ)とは、翁と一対をなす能楽の面の謂いで、「しかめっ面」=弱劣者の困惑の表情(渋い感情と幾分かの不満、圧し隠された屈従的抵抗)を指すが、それは反米主義者の「渋面」の滑稽さをよく示している。
無事帰国したらしい「無学な」(ἀπαιδευτος)老媼の、相も変わらぬ不満症にも似て。[完]
例えば、政治の世界における「議院内閣制」、「中選挙区制」、学校制度における「国公立学校の優遇」、東京大学法学部卒業のキャリア官僚に代表される「年功序列」を敗戦後も「日本政府」、「日本社会」は遺した。もちろん、初めての敗北で、異国人による最初の国土占領であり、屈辱感も並大抵のものがあったかもしれないが、国土全体が戦場となり、ユダヤ民族をはじめとする異民族を強制収容所に入れたり、虐殺したドイツとは、他民族からの恨みの桁が違う。また、日本の敗戦後、財閥解体、農地解放など、米国のGHQと日本の吉田茂首相の共同作業は、うまくいったのではなかったのだろうか?
祖父などは、ヨーロッパに留学したから、英国びいきで、父と違ってドイツが大嫌いだった。占領時代の米国兵に対する屈辱感を思い出すのだろう。子供の頃ガムをかむと、品がない、と異常に叱られたが、「鬼畜米英」とは言っても、神戸育ちのせいか、明治生まれの祖母をはじめとして、例えば紅茶やパンなど、私の周りは西洋の食文化を愛した人は多い。それは当然、貿易を通じて外国文化を知っている実業家の家庭がそうであったのであって、政治も、彼らが、政治献金をし、自由民主党を支持し、戦後の日本を再構築していったのだと思う。左翼思想をもったのは、どちらかというと、戦前は国家社会主義の理論、戦後はマルクス主義の理論に魅せられた哲学を勉強した学者、文芸評論家などマスコミ知識人たちではなかったのだろうか?
Aber die Vorfahren haben ihnen eine schwere Erbschaft hinterlassen.
Wir alle, ob schuldig oder nicht, ob alt oder jung, müssen die Vergangenheit annehmen. Wir alle sind von ihren Folgen betroffen und für sie in Haftung genommen.
しかしながら先人は彼ら(若者たち)に容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
また、「共和制」のアメリカ合衆国が、日本の「天皇制」を遺した、ということ自体、米国への完全脱帽、絶対帰依でない証拠であり、それに異を唱えたのは、日本の左翼系のマスコミ知識人たちではなかったか。吉田茂首相がおっしゃったように、日本は戦争には負けたけれど、外交面では、第一次世界大戦後のドイツと違って、吉田茂さんの努力で、日本は米国に負けなかったから、日本の戦後の繁栄があったのだと私は思う。
私は、大学時代米国に行って、いかに、米国社会は日本社会と違うか、を感じ、豊かだとは思ったが、それが理想だとは思えなかった。その後、父の勧めでドイツに行って、似ている、と感じた。今回の旅行でイタリアに行き、滞在先のイタリア人がとても家族を大切にしているさまを見て、そういえば、イタリア人と国際結婚をしていた親戚が、「イタリア人はとても家族を大切にする。」って言っていたことを思い出した。食事もファーストフードではなくて、手をかけたスローフードでとてもおいしかった。
日本はアメリカよりはるかに、ヨーロッパに近い。けれども、違ってもいい関係というのはあるのであって、日本人は敗戦後さえ、絶対的な帰依をアメリカにしてこなかったのだから、自然体で、日本伝来のよさ、を貫いてもいいのではないのか、と私は思う。
しかも、いかにも老人らしい口ぶりで、他愛のない(ῥᾳθυμηος=light-hearted, easy-tempered, frivolous[取るに足らない、軽薄な]⇒H. G. Liddelle & R. Scott(ed.); “A Greek-English Lexicon”, rev. and augmented throughout by H. S. Jones, with a Supplement ed. by E. A. Barber, 1978., p. 1564)戯けたお喋り(μωρολογία)を懲りずに(ἀκολᾶτος)繰り返す(παλιλλογία)ことで憂き身をやつしているようだ。
愚にもつかない(φαῦλος)思い出話や半生の体験、身辺事情を並べられても、何ら説得力をもたない。分析哲学の祖G. E. ムーアが批判した自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)の典型をみる思いだ。経験という事実(ὅτι)からは、ただちに有意味な規範的(ἐπιτάττουσαι)判断(⇒normative proposition)は生まれない。
老い(γῆρας)先の有り余る暇(σχολή)をもて余している。[σχολή]=スコレーは学校(school)の語源だが、カ氏に限っては無聊(ἀναισθησία)を託ち鬱憤(χαλεπότης)を募らせるのみで、何も(οὐδέν)学ぶ(μανθάνω)ことがないようだ。ヨーロッパに留学したという愚にもつかない経験(ἐμπειρία)を特筆大書して逆上せ上がっているが、「留学」は学を留(止)めるの名(ὄνομα)の通り、文明人である欧州人の肝腎の隠れた(λανθάνω)偽善(ἡ ὑπόκρισις)を何ひとつ(οὐδέν)知らない(ἀγνοέω)ようだ。如何にもナイーブ(ἁπλοῦς)で畏れ入る。
それこそ、自らが現実(τὸ γιγνόμενον)と称して囚われているみすぼらしい、陳腐(βαναυσία)かつ凡庸な(μέτριος)思い込み(δόξασμα)=固定観念(ὑπόληψις)と偏狭な(ακληρός)党派心(φιλονεικία)に踊らされているだけだろう。
20⇒【なんど書いても反氏には共感が得られない】と繰り言を並べるが、立論の工夫が足りない。立場(σεμνόν)こそ違え、「より良い立論には、強制を伴わない強制力がある」(zwangloser Zwang des besseren Arguments=ハーバーマス)という意味での説得力(πειθώ)が、カ氏の議論には決定的に欠けている。老デマゴーグの暇潰しの「投稿のための投稿」だから、論点ずらしも剽窃(κλοπή)も何でもありの詐術的議論(παραλογίζεσθαι)に狂奔し、しかも怠惰(ἀργία)でお座なり(αὐτίκα)だから、それをコピペで済ませて恥じるどころか、気に病む(δυσφορεῖν)気配も反省する(λογίζομαι)様子もない。
そうした、ほとんど詐欺師(φέναξ)まがい「悪事」(κακουργία)の動かぬ証拠(τεκμήριον)を示して暴露(ἐκφαίνω)してみせても、平気なようだ。大型連休前の捨て科白にも凄まじいものがあった(「100の全文567文字中、実に298字、52%、つまり過半数はコピペをして、どこが悪いのかと思う」⇒4月27日・107)。
過去にも「自分の名誉が、汚されたままでは、いやなので」と、ネットの上の辞書、事典をまとめた「コトバンク」なるサイトからコピペして、杜撰に切り貼りした投稿文を仕立たこともあった(4月25日・84)。
名誉(τιμή)を語る資格(ἀξίωμα)などあるとも思えない。
思慮を欠く老人は、幼児に劣る(φλαῦρος)。
ドイツのメルケル首相が、アメリカ、ボストンのハーバード大学で5月30日に行われた卒業式で行われた演説にこのような個所がある。
"Protektionismus und Handelskonflikte gefährden den freien Welthandel und damit die Grundlage unseres Wohlstandes", sagt Merkel. Und: "Mehr denn je müssen wir multilateral statt unilateral denken und handeln, global statt national, weltoffen statt isolationistisch. Kurzum: gemeinsam statt allein." 「保護主義と貿易戦争は自由な世界貿易と我々の豊かさの土台を危険に晒す」、と彼女は言う。「そして、ますます二国間よりも多国間主義で物事を考え、貿易をしなければならない。国家主義ではなくてグローバル主義、孤立主義ではなくて解放主義・短的に言えば、個別ではなくて共同して物事を考えなければならない。
Auch auf Trumps Hang zum Tricksen und Täuschen geht sie indirekt ein: "Wir dürfen Lügen nicht Wahrheiten nennen und Wahrheiten nicht Lügen." An dieser Stelle erhält sie den meisten Applaus. Es gibt "Bravo"-Rufe im Publikum.
また、トランプ大統領のトリックやペテン的傾向にも彼女は名指しをさけてほのめかしの手法で言及している。「私たちは嘘を真実、真実を嘘、と名付けてはいけない。」。
つまり、国民投票でEUを脱退することに決めた英国国民も、ヒトラーや近衛文麿に政治的権力を与えた戦前のドイツ国民、日本国民も、嘘を真実、真実を嘘、と取り違えたのである。
理性的に考えたら、経済的側面から考えてBREXITは、イギリス国民にいいことは一つもないのに、「大英帝国の栄光」、という幻想にイギリス国民は取りつかれている。米国民も「アメリカという国はもう一度偉大になるんだ。」というアメリカンドリーム時代の栄光を取り戻そうとしている。白昼夢なのである。
逆に、ナチスドイツのヒトラーの「言葉の魔力」、「演説の力」に騙されて敗戦した後、東独のホーネッカー政権の元、ベルリンの壁の外で育ち、西側の自由や豊かな生活を求めながら、現実には得られなかった少女時代を過ごしたアンジェラ・メルケルさんには、政治家の言葉の中で、なにが嘘で、なにが本当か、また「壁」の存在の実態が身をもってわかるのである。彼女は、哲学者や法学者ではない。宗教家でもない。彼女は物理学者出身の政治家である。つまり、言葉の虚飾にまどわされず、現実の物ごとを理性的、客観的に見て、なにが嘘で、なにが真実か、事実をふまえて冷静に判断できる女性なのである。
専門家ではまるでないが、東大の経済学部を卒業し、経済産業省に入省し、松下政経塾で学ぶ、いわば政治家になる為のエリートコースを歩んで、国会議員にまでなってもなお、あのような国際認識、現実認識しかもてない丸山穂高議員の言動を見ていると、「マスコミという世論」に先導された日本の国は本当に大丈夫かと思う。メルケルさんや習近平さん、プーチンさんやバノンさんや文在寅さんと同世代で、若い頃吉田奨学金をいただいて米国という国を見聞し、父に壁のあるころの西ドイツで生活させていただいた日本人の私も、コメント欄を使って、微力ながら日本の若い人々の為になにかお役に立てばいい、と思うようになる。それは、老いの暇つぶしでもなければ、論点ずらしも剽窃も何でもありの詐術的議論に狂奔し、しかも怠惰でお座なりに投稿しているつもりもない。コピペ、ウィキペデイアを使う手法が一番、読者によくわかる、と考えるから、そうしているのである。
取るに足らない(φλαῦρος)凡庸(μέσος)で稚拙極まる悪あがきの「ままごと投稿」=暇つぶし(διατριβή)以外の何物でもなかろうし、詐欺師(φέναξ)まがいの、知的には極めて低劣な(ταπεινότης)小中学生の意見発表会並みの戯けたおしゃべり(μωρολογία)、愚劣な「独り相撲」(σκιαμχία)に興じるしかない老人の法螺話(ἀλαζονεία)の類は、威勢がいい分どこか虚ろ(κενός)に響く。まさに老いたる(πρεσβυτικοί)「デマゴーグ」(δημαγωγὸς)の愚にもつかない御託にすぎない。
反復(παλιλλογία)でリズム(ῥυθμός=リュトモス)をとるのはホメーロスの詩作(ποίησις)技法由来で、カ氏と一体となった「無学」(ἀπαιδευσία)、「デマゴーグ」はもとより「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)、「論過」(虚偽推理=παραλογισμός)、「厚顔無恥」(ἀναισχυντία)、「虚飾」(ἀλαζών)、「虚栄」(χαυνότης)、「田舎者」(ἄγροικος)、「おべっか使い」(κόλαξ)、「追従」(ἄρεσκος=ごますり)、「陳腐」(βαναυσος)、「凡庸」(μέτριος)、「勘違い」(ἑτεροδοξία)、「無謀」(ὁ θρασύς)、「半可通」(ὁ ἡμιπόνηρος)などは、形式だけは、いずれもホメーロスの英雄叙事詩にならった措辞(λέξις)である。
ただ、カ氏のエピテトンがみすぼらしいのは、カ氏の醜悪な(αἰσχρός)人間性を物語っているからで、トロイアの英雄ヘクトール(Ἕκτωρ)の妻アンドロマケー(Ἀνδρομάχη)のように、美人の代名詞=定型句(formula)であるエピテトン、「白い腕の」(λευκώλενος)を奉呈したいがそうもいかず、誤謬を頬被りして逃げ脚が速いから、ヘクトールを斃すアキレウスの母テティス(Θέτις)のように「白銀の足もてる」(ἀργυρόπεζα)と、如何にも優美な名もあるが、カ氏には似つかわしくないだけの話だ。
間もなく退任するメルケル独首相など、どうでもいいではないか。最近の欧州情勢は商売上手が取り柄の中欧の大国ドイツの女性宰相の手に負える代物ではないし、トランプ大統領がそんな命脈の尽きた落ち目の女性指導者の嫌味など、歯牙にもかけまい。
ハーバードはチャールズ河の「クレムリン」と揶揄されるくらい左翼色、リベラル色の強い土地柄で民主党支持者が多数派だから、口先だけのインテリを小馬鹿にする「非知性派」の大統領を嘲笑する(σκῶμμα)「トランプ嫌い」(μισότρα[ύ]μφ)が多い卒業式の講演に招かれた客人(ὁ ξένος)にエールを送ったのは怪しむに足りない。
目下苦境にある英国と異なり、ドイツは昔から変わり身が早く無節操で、信用ならない。中国にも媚びるし、ロシア最大の貿易相手国は、確かドイツではなかったか。
ドイツは昔から変わり身が早く無節操で、信用ならない、という主張で反氏は一貫しているが、ヒトラーは確かにそうであるが、戦後の政治家、アデナウアー、ブラント、シュミット、コール、ワイツゼッカーメルケルさんの、どこが、変わり身が早く無節操なのだろうか。私から見れば、あんな無節操で変わり身の早いヒトラーのような政治家を信用し、同盟を結ぶ戦前の日本人の政治家の神経がよくわからない。
要するに、カネ勘定ばかりしていても、優れた製品を作る努力をなければ、物は売れないし、経済は発展しないということだと私は思った。それは、『イーリアス』や『オデュセイアー』を読むことでわかったことではなくて、時代の推移を観察した結論なのである。
大事なことは、真実を嘘、嘘を真実、と取り違えないこと、メルケルドイツ首相のおっしゃる通りだと私は思う。
「別にそこまでお好きでないゴルフを、米国トランプ大統領の対日感情をよくするために、必死でがんばって」くださった安倍首相に感謝するのは、当然だし、それこそ、日本の伝統文化「茶道」の精神なのではないのだろうか?このおもてなし文化は、米国に長い親友の話でも、米国でも通用するそうだし、ヨーロッパでも通用する。アメリカの大統領に好感をもたれている首相を日本の国がもっている、ということは、シンプルにいいことだ、と私も思う。
カ氏の紹介法は如何にも杜撰だから改めて正確に分析すると、2017年の輸出総額は3,578億ドル、輸出総額は2,275億ドルである(外務省HP、財務省貿易統計、ジェトロ世界貿易投資報告=2018年版等を参照)。
大幅な輸出超過なのは、ロシアには外貨を稼げるような製造業がなく、天然資源しか目立った輸出品がないことと深く関連しており、輸出品の上位を占めるのは、原油28%▽石油精製品17%▽天然ガスなどガス5.8%▽石炭・錬炭4.7%――といった具合だ。
貿易相手国のうち、輸出先上位五傑は中国 389億ドル(10.9%)▽オランダ 356億万ドル(10.0%)▽ドイツ 257億万ドル(7.2%)▽トルコ 187億ドル(5.2%)▽ベラルーシ 186億ドル(5.2%)の順で、オランダがここのところドイツを上回っている事情は詳らかにしない。日本 は104億ドル(2.9%)。近隣国だが、領土問題があって平和条約を締結していないから仕方ない。
注目すべきことはこの中に英国(2.1%)、フランス(1.8%)、イタリア(3.9%)などは含まれていないことだ。ドイツはロシアのクリミア武力併合に伴う経済制裁にもかかわらず、制裁破りに等しいロシアと天然ガスのパイプライン計画を水面下で進めていた国であり、その当事者が2011年以降、脱原発政策を推進し、エネルギーの安定供給を望む経済界に後押しされたメルケル首相であることを忘れてはならない。
一方、輸入は中国 481億ドル(21.1%)▽ドイツ 242億ドル(10.7%)▽アメリカ 126億ドル(5.5%)▽ベラルーシ 120億ドル(5.3%)▽イタリア 101億ドル(4.4%)が上位五傑。米国が第4位なのも驚かされる
ここでも英国(1.9%)、フランス(3.4%)と、ドイツを大幅に下回っている点に着目すべきだ。
同じEU域内相手だけではジリ貧になるから販路=市場をロシアや中国に求めるのは自然の道理で、ドイツが欧州大陸の中原に位置する事情もそれを説明するし、歴史に根差していて、ドイツは抜け目のない(ἀγχίνοια)国だ。大事な取引相手である中国にも媚びを売ってちゃっかり稼いでいる。人権問題に喧しい国だが、商売は商売で使い分けている。
こうした点が目下EU離脱問題で議会が混乱し、苦境に立ったメイ首相が辞任表明に追い込まれた英国との際立った違いで、ロシアとの天然ガスパイプライン計画ではないが、昔から変わり身が早く無節操で、信用ならない国柄をよく物語っている。
欧州には今も語り継がれる民主主義に対するドイツの重大な背信行為で、ドイツによる裏切りの代名詞「ラッパロの悪夢」というものがある。背に腹が代えられないと、ドイツが何を仕出かすかを物語る歴史の教訓だ。
第一次大戦後、ヴァイマール共和国体制下、西欧諸国で最初にソ連承認して1922年に「ラッパロ条約」を結んだのがまさしくドイツで、明白なヴェルサイユ条約違反だった。西側自由主義陣営への明らかな裏切りであると同時に、終戦後三年、破綻の予兆とされた。ヒトラー出現以前の話だ。
ドイツが東に向かって動く時、ラッパロ条約でも、独ソ不可侵条約(1939年=外務次官として条約締結をとりまとめたのが、ヴァイツゼッカー元大統領の父)でも、ドイツは他の国以上に国益に執着し、巧妙に動く。カ氏の「第二の祖国」であるドイツ観は、いつもながら身贔屓が過ぎ笑止だ。
退任間近の落ち目のメルケル婆さんは、米国で偉そうなことを言えた立場ではないのである。
それよりも、興味深かったのは、旧コメコンの加盟国、例えば、ポーランド、チェコ、ハンガリーの貿易はどうなっているのか、ということだ。これは、2017年の実績であるが、ポーランドの輸出は、ドイツ(27.4%)、イギリス(6.4%)、チェコ(6.4%)、輸入はドイツ(27.9%)、中国(8%)、ロシア(6.4%)、チェコの輸出は、ドイツ(32.8%)、スロバキア(7.8%)、ポーランド(6.1%)、輸入はドイツ(29.8%)、ポーランド(9.1%)、中国(7.4%)、ハンガリーの輸出はドイツ(27.7%)、ルーマニア(5.4%)、イタリア(5.1%)輸入は、ドイツ(26.2%)オーストリア(6.3%)、中国(5.9%)の順となっている。3位以内にロシアがかろうじて顔を出すのは、ポーランドだけで、完全にこの地域は、EU域内とはいっても、ドイツ経済圏に属していると考えることができるが、特筆すべきことは、中国からの輸入も多い、ということである。貿易面でのロシアの影響力も少ないが、米国も日本も蚊帳の外、である、ということである。この3国とも、調査された195か国中、20-30位の貿易額を誇っていて、決して弱小国ではない。安倍首相はがんばっておられるのだから、日本のマスコミもただ米国だけを意識し、内向き、ひきこもりを促すのではなくて、日本人はもっと開放的に外に目をむけてもいいのでは、とつくづく思った。
ワイマール共和国の「社会民主党」は、左翼政権だからこそ、ソ連ともラッパロ条約を結んだのであって、ヒトラーのナチスドイツ「国家社会主義」とは対極にある政党で、「民主的な」政権運営をする努力もしていたのである。その民主的な政権運営を、ヒトラーは激しく批判して、真実と嘘をないまぜにして、「演説の力」で国民の支持を得ていった。反氏の歴史認識はどこかおかしくないのだろうか?
日中戦争にしろ、日本の都合で、中国を侵略して、負けたのだし、アヘン戦争にしろ、英国が貿易上の理由で、戦争をしかけて、反植民地にした。つまり、中国は被害者なので、それに備えて軍備を増強するのは、自然な気がする。
米国のルーズベルト大統領が、国際連合を作る上で考えられた、「米、英、ロ、中」の4人の警官構想を実現させることは、そして、物作りが上手な独と日本が国際社会で経済面で協力するという案を実現させるのは、夢のまた夢、なのだろうか?
英仏とドイツとの対ロシア貿易額の差は、製造業の優位性を頼みにした輸出がドイツ経済生命線であり、欧州大陸の中原に位置する地政学的な要因からも当然だが、クリミア制裁にも拘わらず、中国を除けば世界トップ水準の経済的関係をロシアと維持しているから、原発大国のフランスや北海油田を擁し、遠く離れた英国だった考えられない天然ガスパイプライン計画を、国際社会の警戒感にも拘わらず画策するのだろう。
ドイツのまやかしに満ちた剥き出しの国益追求は何も今に始まったことではないし、ナチスの専売特許でもな。ドイツという国家の本性であり、不可避な宿命(εἱμαρμένη)だからだ。
旧共産圏の、しかもEU加盟国の東欧がソ連崩壊後の後継国家であるロシアを毛嫌いし、ドイツとの結びつきが強いからと言って、カ氏の幼稚な議論を正当化しない。「無学」につける薬はない。
私がドイツ語の原子力関連の翻訳のアルバイトをしていた時から、ドイツの試算による原子力発電のコストというものは、日本の試算より、はるかに高かったし、地球温暖化の観点からみても、コスト面からみても、天然ガスが一番いい原料である、という見解であった。それに対して、日本は東日本大震災まで、原子力発電に力をいれていた。
つまり、フランスは原子力発電を、イギリスは北海油田開発を、ドイツは天然ガスによる発電に主眼をおいていたのである。ドイツは原子力発電で得られた電力をフランスから買っているし、もちろん、風力発電など自然エネルギーにも力をいれている。けれども自然エネルギーには、安定供給、という面で限界があるのである。日本のマスコミは、このような大事な問題に対しても、政府を批判する政局にからめる報道ばかりで、どうして日本国民に基本的な情報を与えないのか、理解できない。
また、米国のトランプ政権は、この環境問題をどう考えておられるのかは、まるでわからない。5月26日、世界規模で、環境デモがあったのではなかったのだろうか?東京でもあったそうだが、私は、そのデモをイタリア、フィレンツエの「共和国広場」で見た。
統合後東ドイツと西ドイツの豊かさに、はるかに差があったが、それは、ワイツゼッカー大統領のスピーチにもあるように、米国に占領されたか、ソ連に占領されたか、によっての差だし、それまでの歴史、文化が共通なのだから、を考えて、幸運な西ドイツ人は不運な東ドイツ人を助けたが、アフリカやアラブからやってくる難民は、歴史も文化も言葉も違う。また、受け入れて、普通の生活をしているようにみえても、疎外感を感じ、SNSで勧誘されてISの戦闘員になってしまう場合もある。
反氏には、本や映画で得た先入観、固定観念、偏見から解放されて、現代の「世界の現実」をしっかり把握いただきたい。本来、それが、マスコミの、報道に携わる人のつとめ、なのではないのだろうか?
米ソに代わる米中の覇権争い、と騒ぐこと自体が異常だし、戦後日本と比べて中国の国力が上がらなかったのは、伝統を破壊し、文化大革命などを扇動した毛沢東さんに多大な責任がある。現在の専門家と自認するマスコミ政治部記者は、すぐに、選挙対策という技術的なことで騒ぐし、民主主義体制では、選挙に勝たなければ政治指導者になれないのだから、その要素を加味することが大事であるが、一昔前、statesmanとpoliticianの差という言葉がはやった。Statesmanとは、国家の指導的役割を果たす政治家、であるのに対して、politicianというのは、政治屋、策士、出世主義者と意味があるが、マスコミの人びとは、あまりにもその策略、選挙戦略のみに主眼がいきすぎていて、彼らのメデイア戦略に加担しすぎるのではないのだろうか?
どの政治家が世界の中のそれぞれの国で、国家の指導的役割を果たす政治家にふさわしいか、という観点で、ものをみなさすぎるのではないのだろうか。メルケル首相を、賞味期限の終わった婆さん、などと形容する反氏は、その代表格である。
メイ首相は、トランプ政権の対イランへの強硬策、対中国、特にファーウェイへの見方、「気候変動」への対処法、に対して異を唱えられている。政治の表舞台から退場する婆さんの主張ではあっても、そこにメイ首相の英国民への愛、政治家としての信念を、感じ取ってあげないといけないのではないのか、そして、我々も、真実と嘘、をはっきり見極める必要があるのではないのだろうか。
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