広島には仕事で頻繁に来る。ただ、今回は4月の広島平和記念資料館の本格的リニューアルオープン後に初めての訪問となったので、相手をしたカメルーン人の訪問団一行とともに資料館に時間を使うことができた。
検討と工事の時間をすべて含めると、10年くらいはかけているのではないかというリニューアルである。ただし長い歴史を持つ資料館なので、リニューアル自体は、過去に何度か行われてきた。たとえば戦争責任が見直された1990年代には、入り口のまず冒頭部分に戦前の軍都・広島の歴史が展示された、などの世相を反映した変更がなされてきた。
今回のリニューアルの方針は、被爆者の方々一人一人の被害と生活の実相に迫っていくことだったようだ。成功していると思われる。
今回のリニューアルの内容決定時は、子どもたちに強い印象を与えていた、原爆投下直後の様子を形作っていた人形が撤去されることが、話題になった。訪問してわかったが、代わりに被爆者の方々が書いた絵などが、ふんだんに掲示されている。人形撤去の方針の代替措置と言えると思うが、より効果が高まった、と評価できると思う。
被爆の後遺症で小学校に通い始めながら1955年に白血病に亡くなった佐々木禎子さんの例は有名だ。平和記念公園に設置されて、多数の折り鶴を受け止めて続けている、「原爆の子の像」は、佐々木禎子さんがモデルだ。リニューアル後の資料館でも、しっかりと紹介されている。しかし今回のリニューアルでは、さらに多数の犠牲者の遺品や遺した言葉、さらには被爆者の戦後の生活の苦難などが紹介されている。被爆して仕事もできず苦しみ続けている方を抱え込んだ家族が負わなければならなかった大きな苦難なども、赤裸々に画像とともに紹介されている。
膨大な数の被爆者証言が、被爆時の記録だけでなく、戦後の生活の苦難も含めて集められている広島の事例は、大きな意味を持っている。私自身、駐日ルワンダ大使に広島を案内したことがあるが、ルワンダのキガリにある「ジェノサイド博物館」などでも、生存者の証言が極めて効果的に用いられており、広島の影響も感じさせる内容になっている。
私が持っている2017年までの資料では、広島が7年連続で訪問観光客数の最高値を更新し続けていることが示されている。2017年の訪問観光客数は、1,341万人である。この中で、修学旅行生の数は、毎年減り続けており、その総数はわずか31万9千人にすぎない。その約5倍の151万人の外国人観光客が広島を訪れており、外国人観光客数も史上最高値を6年連続で更新しており、全体の総数を底上げしている。
実は「トリップアドバイザー」などの外国人の旅行口コミサイトにおいて、広島の平和記念資料館は、宮島の厳島神社とともに、京都の施設と、「満足度が高い日本の観光地」のトップ争いを常に続けている。広島のポテンシャルはもっと高いと考えていいだろう。
悲惨な経験の記録が、人を引き寄せるのは、平和への願い、という未来に向けたメッセージがそこに明確に存在しているからだ。広島という街の存在が、極限状態からも立ち上がる人間の可能性を実証しているからだ。広島は、被爆者の証言、という特殊な平和運動の文化が、大々的に開花した特別な場所なのである。平和国家の日本の象徴として国際的にアピールする意味も大きい。
ところが、日本人の中には、修学旅行で行くところ、左翼が運動するところ、といった印象を持っている人が多い。残念である。
凄惨な殺人事件、悲惨な交通事故、などが起こるたびに、被害者や遺族の尊厳をどう保っていくか、が問題になる。マスコミが配慮を欠いた取材をしないことは、もちろん絶対要件だ。だが報道しなければいいだけなら、時間がたてば、やがてそうなっていくだろう。
マスコミが無責任な行動をとる、皆がテレビを観ながらそれを非難する、やがて事件は忘れられていく、その繰り返しだ。
それでいいのか。
被害者や遺族の尊厳を尊重しつつ、なお社会を前に進めていくために、われわれに何ができるか。
そういったことを考えるために、広島を訪れる。そのような広島の意味が、世界中にもっと広がっていくことを期待する。
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「無学な人」とレッテル付けされている私は、反氏を「無智な人」と形容し、今もそう思っているが、何でもないものを、何かであると思い、大切なことを、何でもないと考える、また、「政府やアメリカを批判さえしていればいい。野党を応援してさえいればいい。」という一種の思い違い、間違った信念をもつ人が、日本のマスコミ界に多すぎるのではないのだろうか。
そして、「無知かつ無学ゆえに」(δι’ ἄγνοιαν καὶ ἀπαιδευσίαν)、要するに「知慧が足りない」(ἀφροσύνη)ために自ら手に負えない(ἀνέλεγκτος)で困惑する(πρᾶγμαἔχω)ものの、どうすることもできないため、95⇒【本当に、反氏の文章を読むとイライラしてくるの】のような堪え性のない(ὀργιλότης)、如何にも気難し屋(δύσκολος)で気分の鬱屈した(μελαγχορικός)、癇癪もち(ὁ χαλεπότης)による剥き出しの苛立ち(ὀργή)が伝わってくるような稚拙な(νήπιος)物言いで繰り言(μεμψιμοι)を並べる。
率直に言って(παρρησιάζομαι)、カ氏が書き連ねるお為ごかし(φιλανθρωπία)の「ままごと投稿」といい、暇(σχολή)をもて余している割には気の毒なことにこころ(καρδία)に余裕がない(ἀσχολία)のだろう、前のめり(προπετής)になって、不平不満(λοιδόρημα καὶ ἀκούσιον)を並べ立てているようだが、自らの「無知」(ἀμαθία)、「無学」(ἀπαιδευσία)を棚に上げて(ἐάω)にわかに(αὐτίκα)に中身のない、しかも本トッピクスとは直接関係のないテレビの討論番組でのやり取りやドキュメンタリーへの感想、最近の政治動向など、何でもござれの気儘さで議論を喰い散らかしている。投稿を日記と取り違えている。
「馬糞の川流れの」ような長短取り混ぜたチマチマした愚にもつかない(φαῦλος)文章で、不得要領の(σομφός)、「投稿のための投稿」に憂き身をやつすことで無聊(ἀναισθησία)を託つ、即ち暇つぶし(διατριβή)の気晴らし(‘divertissement’)で「反論らしきもの」(ψευδομαρτυρία)を粗製乱造して応酬する(ἐνίστασθαι)しか能がない。
歳を重ねる(γηρασκω)ことが人を少しも(τέλεον)賢く(εὐβουλός)しない見本のようで、ウンザリする。自己愛(φιλαυτος)の塊(ὄγκος)のような虚飾に満ちた(ἀλαζονικός)驕慢な(ὕβριστος)田舎者(ἄγροικος)根性丸出しの人物が、私怨(ἐπονείδιστον)や私情(ιδιώτης)に駆られて逆上し(θυμοφονέω)、成心(préjugé)なく他人の文章を読むことさえできないという偏狭性(σμικρολογία)ゆえの狂態(γαστρίμαργος)の心理的メカニズム(μηχανική)は明らかだ。
相手側の主張を充分に理解せずに、こう度々だと、コピペで盗用した他人の文章でごまかすわけにもいかず、自らが真なるもの(ἀληθες)、正しい(δίκαιος)、よい(ἀγαθός)と「思ったこと」(ἃ δοκεῖ αὐτῷ)と、真実(τὸ ἀληθές)やものの真相(ἀληθῆ)とが「異なる」(διαφέρειν)ことを、カ氏自らの能力(δύναμις)ではどうにも認識し得ず(ἀγνοωσία)、分を弁えない身の程知らず(ἀσύνετέω)の長広舌(πακρολογία)、茶番に等しい「独りよがり」(σκιαμχία)の悲憤慷慨(ὀργή κὰι θυμός)に憂きを身をやつす。
英国の女性哲学者(M. Warnock)が指摘したように、「大体において、憤激の程度は、攻撃(者)の知性の程度に反比例する」(Ethics since 1900, p. 85.)のであり、意のままに(ἐπ’ αὐτῷ, ἐφ’ ἡμῖν)にならないと、年寄りじみた(πρεσβυτικοί)気短さから、95~97のような猛り狂う糾弾(ἐπιτίμησις)を生むのだろう。
知性(νοῦς)の欠片もない。
意地悪な人間観察者ニーチェなら、カ氏のような凡庸(μεσότης)でナイーヴな(ἁπλοῦς)、間抜けなお人好し(ἠλιθίους)だから愚にもつかない綺麗ごと(κάλλος)、つまり「甘い酒」(ὁ γλυκύς οἶνος)に自ら酔っている、事志(βούλησις)に反して、「天使(ἄγγελος)のまねをしようと思うと、獣(θρέμμα)になってしまう」道理ではないが、少しも「現実的に」(κατὰ ἐνέργειαν)考えることのできない、まるでタイムマシーンから出てきたような古色蒼然とした反共主義と一種の「理想主義」(Idealismus)とが綯い交ぜになった偏頗な人物を、「道徳的自瀆者」(der moralischen Onanisten)と嘲笑ったろう。
さらに、ニーチェも敬仰した古のフランスのモラリスト(La Rochefoucauld)なら、もっと辛辣に「精神の疵(欠陥)は、顔の疵と同じように、老いるにつれて、ひどくなる。」(『箴言』112⇒‘Les défaults de l’esprit augmentent en vieillissant, comme ceux du visage.’[‘‘Réflexions ou Sentences et Maximes morales’’, 1678. Œuvres complètes, Bibliothèque de la Pléiade, p. 418)と斬って捨てたかもしれない。
人生も政治も甘くない。中国が目指そうとしている監視社会は旧ソ連や東欧の比ではない。何でも顔認証システムを駆使して、国内に6億台設置予定の監視カメラ網で、好ましからざる監視対象が外出して自宅から300メートル離れた時点で追跡を始めるという。中国は檻になる。
カ氏の贔屓の引き倒しの中国へのご機嫌取り(ἄρεσκος)の奴隷根性(δοῦλοψυχία)も醜悪だ。[完]
要するに、日本の先の戦争は、英米との覇権争いなのであって、経済的な窮地に追い込まれてヒトラーにすがるしかなかったドイツとは、状況がまるで違うのである。どちらにしろ、戦争には「大義」が必要で、日本でも「鬼畜」のような英米をやっつけることが、[[国際正義だ、と宣伝したのであって、大切なことは、私たちが世論に迷わされずに、真実と嘘、をよく見極めること、なのだと私は思う。
ヒトラーは「我が闘争」をこの文章から始めている。「今日わたしは、イン河畔のブラウナウが、まさしく私の生の地となった運命を幸運なさだめだと考えている。というのは、この小さな町は、二つのドイツ人の国家の境に位置しており、少なくともこの両国家の再合併こそ、われわれ青年が、いかなる手段をもってしても実現しなければならない畢生の事業と考えるからだ。」この意味を、私はミュンヘンに住まなければ気づかなかったろうが、ヒトラーの生まれた土地は、ハプスブルグ帝国の西の端、ドイツバイエルン州に接する土地なのである。軍事力の劣る、斜陽の国に生まれたヒトラーの、二つの国を合併して、軍事力を増強して、世界の超大国に輝きたい、などという野望は、あの土地に生まれたからこそ、考えるのである。北朝鮮から避難民の息子として、悲惨な子供時代を暮らし、弁護士として市民運動や人権運動に参加したのち、盧武鉉政権で大統領側近として活躍した文在寅さんが、南北統合に前のめりになるのも同じではないだろうか。ただ、北朝鮮がどんな状況にあるのかを、文在寅さんは本当にご存じなのだろうか?
「叡知とか、しっかりした真実の思惑などは、せめて老年においてなりと人に具われば、もって幸運とすべきもの」(‘φρόνησιν δὲ καὶ ἀληθεῖς δόξας βεβαίους εὐτυχὲς ὅτῳ καὶ πρὸς τὸ γῆρας παρεγένετο’=Leges 653A)なのだろうが、現実(τὸ γιγνόμενον)はむしろ逆で、「そうするとどうやら、『再び子供に戻る』というのは、年寄りばかりか、酔っぱらいもまたそうなる」(‘οὐ μόνον ἄρ᾽, ὡς ἔοικεν, ὁ γέρων δὶς παῖς γίγνοιτ᾽ ἄν, ἀλλὰ καὶ ὁ μεθυσθείς.’=ibid. 646A)のが実態(τὸ τί ἦν εἶινι)のようだ。
プラトンの昔から、思慮(φρόνησις)に優れた老人は稀で、とりわけ老婆(γραῦς)は「世に言う老生常譚〔「老婆の他愛ないおしゃべり」の謂い〕なるもの」(‘ταῦτα μὲν γάρ ἐστιν ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’=Theaetetus 653A)というくらいで、相手にするだけ野暮なのかもしれない。
古代アテーナイにもカ氏のような女デマゴーグ(δημαγωγὸς)は、聞いたことがない。もっとも、本場のデマゴーグほどの学識(μάθημα)も技量(τέχνημα)もなく、騒々しいだけだが。
‘La fortune nous corrige de plusieurs défauts que la raison ne saurait corriger.’(La Rochefoucauld; Maximes 112)
反氏の主張されるように、思慮に優れた老人は稀だし、私がそうであるかどうかは別にして、「思慮に優れた老人」、だと思う人物が反氏と私とでは違うのである。反氏には、プラトンであり、アリストテレスであり、アドルノであり、ハーバーマスであって、私には、ゲーテであり、ヴァイツゼッカーであり、芦田均さん、楠山義太郎さんであるのである。私が考える四人とも、平和を愛し、「平和構築」の努力をされた人たちである。また、現実には日本でも、ゲーテが思慮に優れた老人だ、と思う人が多いから、最高裁判所の裁判官の愛読書が「エッカーマンとの会話」なのだと思うし、私は、その記事を読んで、その本を手に取り、自分の愛読書にもなった。ゲーテの偉さは、自分の激しい感情を、それは女性に対する恋愛感情を含むが、それを最終的には理性でコントロールできている点、自分の過去の経験をその後の人生に生かしている点にある。それができない人が多いから、殺人やテロを起こす人のであって、過去にも書いたが、哲学者しか思想を持たないわけではないのである。
逆に、哲学者が作り上げた理念、おかしなイデオロギーによって、どれだけの人々が悲惨な生活を余儀なくされたか、という面を考えてみるべきなのである。マルクスの作り上げ、レーニンやスターリン、毛沢東が実行に移した「共産主義」、ゲッペルスや大川周明が推し進めた「国家社会主義」によって、どれだけの人が犠牲になったか。
このブログのテーマは悲惨な事件の記憶の継承であり、篠田英朗さんは、広島の原爆記念館、核兵器について書かれている。その面から考えて、米国人Wペリーさんの「核兵器0」運動は、関連するテーマであって、私の日記のテーマではない。また、私が、W。ペリーさんも「思慮の優れた老人の一人である」、と考えていることもつけ加えておきたい。
それに際して、私は何も妙な理屈を捏ねて(πλάττω)そうしているわけではなく、事柄自身(πρᾶγμα)が要求する(ζητέω)正確な(ἀκρίβγβεια)論述(ἀκριβολογεῖσθαι)の結果そうなっているだけで、つまり「毀誉褒貶」のレッテル貼りなどではないこと、つまり自分が「無学」(ἀπαιδευσία)であることは、カ氏自身も疾うに承知だろう。
時折りコメントでしおらしくその種の書き込みをしているから、肝腎の自己(αὐτός)について無知である(ἀμαθαίνω)、つまり「自分で自分を知らない」(αὐτὸ αὑτὸ ἀγνοεῖν)わけでもなかろうが、よく知りもしないソクラテスをもち出して、謂わば隠れ蓑(κρύψις)にして、自らの「拙劣な欠陥のある」(πονηρός)惨状(πονηρία)を曝け出しても仕方あるまい。
カ氏はれっきとした、自他共に明白な「無学」なのであって、同時にソクラテス・プラトン的な基準、というか思考法では知識(ἐπιστήμη)と知恵(σοφία)は一体で、世間的でよく言われるような、学識(μάθημα)、専門知識(ἐπιστήμη)はあっても思慮(φρόνησις)、つまり「知恵がない」(ἀφροσύνη)、端的に言えば無学と無知(ἀμαθία)は異なるという俗信は、ソクラテスには通じない。
人口に膾炙した「無知の知」という言い方は、ある意味で不正確で、正確には「知らないことを知っている」(‘οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι’)、つまりソクラテスの表現をそのまま引用すれば、「事実確かに(οὖν)、私は知らないのだから、その通りに、また知らないと思っている」(‘ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι’=Apologia Socratis 21D)、ということであり、別の個所では「あの世のことについては、よくは知らないから、その通りにまた、知らないと思っている」(‘ὅτι οὐκ εἰδὼς ἱκανῶς περὶ τῶν ἐν Ἅιδου οὕτω καὶ οἴομαι οὐκ εἰδέναι’= 1ibid. 29B)となる。
つまり、「無知の知」のように「知」ではなく、ただ「知らないことを知っている」という、あくまで消極的、否定的な側面が「無知の知」、即ち「知らない」⇒不知(ἄγνοια)の自覚(εἰδέναι)であることは、以前にも紹介した通りだ。
だから、それは「どうみても、知らないのに、知っていると思う、かの不面目な無知(ἀμαθία)というものにほかならない」(‘καίτοι[καί τοῦτο] πῶς οὐκ ἀμαθία ἐστὶν αὕτη ἡ ἐπονείδιστος, ἡ τοῦ οἴεσθαι εἰδέναι ἃ οὐκ οἶδεν=1ibid. 29B)と、単なる探究の出発点(ἀρχὴ)にすぎない「無知の知」を学識に対抗させたり、自らの「無知蒙昧」(ἄγνοια καὶ ἀπαιδευσία)を何ら省みることなく、田中美知太郎の『ソクラテス』の粗笨な(προπέτεια)解釈に基づき、それを見当違い(πλημμέλεια)にも金科玉条にして(97②⇒【何でもないものを、何かであると思い、大切なことを、何でもないと考える】)、夥しい無知、誤謬、誤記、論点窃取、頬被りの言い訳にはならないのである。
何を現地で見聞したか知らないし、欧州留学経験をご大層に喋喋するのも結構だが、欧州の教養人の基礎的知識である古代ギリシア語は言うに及ばず、日本語の正確な読解も覚束ない(ἄπορος)、齢70近くにして怖いもの知らずの(θράσος)、最小限(ἀναγκαιοτάτη)の自制心(σωφροσύνη)にも事欠く(ἀπορέω)精神の幼児(ἔκγονος)には、「真っ当な分別に適った」(κατὰ τὸν ὀρθὸν λόγον)議論など期待できないのは疾うに承知だが、何とも気の毒で、憐れを催す。
ソクラテスに倣って謙虚(κόσμιότης)に自己を見つめ直す(θεάομαι)なら、陳腐(πρόχειρος)でありふれた「莫迦の一つ覚え」(ὑπόληψις καὶ δόξασμα)のようなメディア批判などしている場合でもなかろう。
繰り返しになるが、「無知の知」という表現は、ソクラテス(実質的にはそれをソクラテスを通じて論じているプラトン)本来の趣旨から言えば、不適切な表現であるというのが、専門家の大方の認識だ。
それはただ「知らないことを知っている」という意味での「人間並みの知恵」(ἡ ἀνθρωπίνη σοφία)という趣旨で、カ氏にも顕著なように、「無知の知」が、ある意味、分かったようでよく分からないニュアンスを漂わせ、「知識」即「知恵」という、ソクラテス・プラトン的な知識観を歪めてきたのは事実で、哲学史の中でもはや手垢まみれになってしまったこのキー概念について、専門外の日本人の一般の人々もそろそろ本来の意味の位相に立ち返って認識を改める時期かもしれない。[完]
ソクラテスの「無知の知」については、反氏が「神のように崇拝される」田中美知太郎さんが岩波新書の「ソクラテス」に書かれている。この書は戦後12年たった1957年に書かれているが、戦争の爪痕がまだ生々しかった日本、日本の政治家やジャーナリズムへの批判も同時に込められている。
元々ソクラテスの遍歴は、デルフォイの神託で、「ソクラテスが一番の智者である。」という託宣を得て、彼には、それが真理とはとうてい思えなかったので、その頃、智者と定評のある有力な人のところに行って、論争を始め、ソクラテスの主張に説得力があった為に、彼らの恨みをかって、死刑の判決を受けるのであるが、田中美知太郎さんの著述には、「ソクラテス」を通して、田中美知太郎さんの日本の政治家、マスコミ批判がそこにある。(ソクラテス 岩波新書 p128-130)より抜粋
やはり、私が子供のころから国立大学の付属小学校で、「親の言うことも、先生の言うこともきかなくていいから、自分の頭で考えなさい。」と教育を受けたように、政治についても「自分の頭で考える」習慣を身に着け、吉田茂さんが晩年遺言のように言われたように、日本で「真の民主政治」が確立されるまでは、「日本国民は深き注意をもって、常に(野党の動向を含め)政治、政局の推移を監視しなければならない」のではないのだろうか?
しかも「エッカーマンとの会話」ではなく、エッカーマン(J. P. Eckermann)著(『(その生涯の晩年における』ゲーテとの対話』の間違いだろう(“Gespräche mit Goethe in den letzten Jahren seines Lebens”, 1836~1848)が、カ氏の議論は愚にもつかない(φαῦλος)牽強附会、要するにこじつけの「弱論強弁」(τὸν ἥττω λόγον κρείττω ποιεῖν)の典型で、粗雑(συμφός)な構成(συντίθεσθαι)と文字通り粗末な措辞(λέξις)による稚拙(πονηρός)極まる冗長な素人論議(τὸ ιδιωτικόν)で、滑稽の極みだ。
しかも読まずに孫引きと、コピペ(剽窃)で語ると慢心(ὕβρις)が改まらないから、論旨を逸らし(ἐκτρπειν)、自らの過誤を言い繕った(τεχνάζω)つもりで、致命的な推論の誤謬に気づかずに何度でも繰り返し誤謬に陥るのが、「無学な人」(ἀμαθής)の習性(ἦθος)というか、宿命(εἱμαρμένη)だろう。
この世には「論理的に可能であっても到底信じがたいようなこと」(ἀπιθανον καὶ δυντόν)と、「論理的に不可能であっても信じられること」(πιθανὸν καὶ ἀδύντον)がある。真面目に議論するに際して共通した理解を妨げる(ἐξείργειν)ものは、カ氏に最も欠落している真っ当な分別(ὁ ὀρθὸς λόγος)だろう。
この世に「論理的に可能であっても到底信じがたいようなこと」と、「論理的に不可能であっても信じられること」がある、というのは、カフカやポストモダンなど、作家の作り上げる世界のお話しなのであって、歴史上の戦争でも、テレビのワイドショーで放映される「悲惨な事件」も同じことであるが、どうして、そのようなことが起こったのか、という真実を解明する努力をし、それを完全になくすことはできないにしても、それを減らしたり、悲惨の程度を軽くするにはどうしたいいのか、という解決策を考えることが、政治の役割だと私は思う。
年金2000万円にしろ、マスコミの報道ばかりきいていると、麻生さんを中心として、安倍内閣は都合の悪いことはなんでも隠して信用できない、になるが、消費税率が欧州の国々に比べて極端に低い日本で、年金は「100年安心」などという言葉どおり、貯金もなく、年金だけで生活をしていける、などと考えている日本人がいるのか、と正直思うし、逆に、金融の専門家のいうように投資して、金融の専門家の主張するとおりの資産形成ができるのだろうか?もしそうできなかった場合、そう発言した金融専門家は責任を取ってくれるのだろうか?普通の人々の退職金等で入る資産を、投資に回してほしい、という金融の専門家の意向がすけてみえるが、その種のことを日本のマスコミは一切報道しない。
米中関係は、単に覇権争いである。トランプ大統領の、America will be great againのgreatの意味が、裕福という意味なのか、偉大という意味なのか、よくわからない。アメリカがgreatであったのは、ルーズベルト大統領やケネデイー大統領の時代、国際社会の自由と民主主義のためにアメリカ人が闘ってくれ、ドイツ人や日本人を含めて国際社会の人々が、その行動で自由を取り戻すことができたからではないのだろうか。アメリカ人だけが裕福になる、ことを、greatという言葉で表現しない、思うし、覇権主義の為に対立gegenの構図を作り出して、危機を煽ると、「悲惨な事件」しか誘発しない、と私は思う。
「年寄りと酔っぱらいは再び子供に戻る」という趣旨の発言(‘οὐ μόνον ἄρ᾽, ὡς ἔοικεν, ὁ γέρων δὶς παῖς γίγνοιτ᾽ ἄν, ἀλλὰ καὶ ὁ μεθυσθείς’)がプラトン最晩年の対話篇『法律』(646A)にあるが、歳を重ねても人は一向に進歩する(ἐπιδίδωμι)ものでも、賢くなる(σοφίζω)ものでもないことは、カ氏をみれば一目瞭然だろう。
それにしても「盗人猛々しい」(ὁ τοῦ κλέπτου λόγος)とはカ氏のためにあるような措辞(λέξις)で、105⇒【思慮に優れた老人は稀だし、私がそうであるかどうかは別にして】のようなことを平気で嘯く(εἰρωνεύομαι)臆面もない(ἀναισχύντως)人物をどこまでまともに相手にしていいものかと迷うが、つける薬がある(ἰατος)とも思えないからだ。
‘Les vieux fous sont plus fous que les jeunes. ’(La Rochefoucauld; Maximes 444, Œuvres complètes, Bibliothèque de la Pléiade, p. 461.)
110⇒【これだけ色々時間と手間を使って説明しても】というもの言い自体が意味不明(ἁμφιβολία)だが、カ氏は他人のブログ記事(「TANTANの雑学と哲学の小部屋」)を剽窃したり、高校時代に倫理社会の教師に英文テキストで購読を受けたこと、事もあろうに田中美知太郎の『ソクラテス』の記述に見当違いな思い入れでしかない俗説を勝手に読み込む以外、一体何を説明(ἐξηγέομαι)したというのだ。
具体的なテキストの記述(συγγράφω)に基づかない素人の無駄話(ἀδολεσχία)など、それこそカ氏が日ごろ激しく批判する「観念遊戯」(ἑπίνοιαν παιδιά)以外の何物でもなく、何の説明(ἐξήγησις)にもならない。田中は教室での講読でその種の冗語を極端に嫌った。フランスの古代史家フュステル・ド=クーランジュ(Numa Denis Fustel de Coulange, 1830~89)の口癖だったという、‘Avez-vous un texte?’、という学問的議論の鉄則(ἀξίωμα)を、口を酸っぱくして説き聞かせた。
カ氏はそうした骨の折れる(πραγματειώδης)、しかし必要不可欠な(ἀναγκάῖος)論証(ἀπόδειξις)の手続きを一切していない。できもしないギリシア語の原文で読むよう求めているわけではない。無謀で軽率な、無意味な信念(πίστις)の類をソクラテスの発言に投影しても意味がない、ということだ。
それは、何の根拠(τὸ διότι)もない手前勝手な臆測(δόξασμα)をソクラテスにもち込む(hineinlegen)、つまり願望(βούλησις)=「そうあれかしと望む」(προαιρεῖσθαι)ことを投影しているだけで、具体的なテキストの裏付け(διὰ τι)に基づく説得力(πειθώ)などありはしない。
そこには、解釈の過不足(πᾶλλον καὶ ἦττον)に対する真っ当な(ὀρθότης)配慮(ἐπιμέλεια)が欠けている。
それを自覚せず(ἀγνοέω)、怠惰(ἀργία)を改めようともしないから、行き当たりばったりの(ἐπίφθονος)「似而非反論」(ψευδομαρτυρία)や、それにも窮すると、胡散臭い「妄言」をコピペして意趣返し(ἀντιπεπονθός)するしかない。
しかも、何が「発展的解決」か一向に不明だが、110②⇒【そうとしか考えられないのは、その人が無学のせいで、と理屈をつけて自分の…論理を強化する…三流蓑田胸喜、と命名された篠田英朗教授が水島朝穂教授に使われたロジックも似たようなもの】と、どこまで厚かましい(ἀναισχυντος)のか、無学な自分を篠田さんになぞらえ、あたかも水島朝穂氏になぞらえた私の攻撃にあっている被害者(ὁ πάσχω)のようなそぶriをしている。
それを論じる文章も意味をなさず、【篠田英朗教授が水島朝穂教授に使われたロジック】ではなく、【篠田英朗教授を攻撃する際に水島朝穂教授によって使われたロジック】か、【水島朝穂教授が篠田英朗教授を攻撃する際に使われたロジック】であって、主客が逆になっている。カ氏は論理的思考ができないに等しいから、まともな日本文が綴れないことを端なくも示している。
一事が万事この調子で、112⇒【ヴァイツゼッカー氏の結論が正しい、という結論にいきついたのは、数学や物理のように、いろいろな歴史的事実、政治や経済の状況を組み合わせ、筋道立てて、論理的に、考えた結果】というのは、カ氏に限って言えば、悪い冗談(παίζειν)だろう。
もともと、矛盾対立(ἀντίφασις)と反対対立(ἐναντιότης)との違い、矛盾律(law of contradiction⇒aā=O[a∧ā=F])と排中律(law of excluded middle⇒a∪ā=I[a∨ā=T])の違いも分からなかったくらいの論理学音痴だから、何をか況やというところだが、「数学や物理のように」というが、数学は記号操作としての推論であり、物理(学)は帰納推理(ἐπαγωγή)と実験を含む仮説(ὑποθεσις)の合理的な(λογικός)論証を目指す実証科学で、いずれも論理学が根底にあるとはいえ、数学的思考と論理学的思考は基本的には別ものだ。
「いろいろな歴史的事実、政治や経済の状況を組み合わせ」といっても、恣意的に組み合わせて、厳密な演繹的関係など無視して、都合のいい結論らしき虚偽の命題をでっち上げただけの話だろう。話にならない。
ヴァイツゼッカー演説などに、真理の欠片もない。論理的必然性は経験を全く必要としない、つまり非経験的な特質を有するがゆえに論理なのだということを、カ氏は全く理解できていないようだ。だから「無学」という。
ただ、「知らないことを、知らないと思う」(‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι’=Apologia, 21D)とあるだけだ。そこでは単に、「知らない」(μὴ οἶδα)ことを「知っている」(εἰδέναι)と言っているだけにすぎない(‘ἔοικα γοῦν τούτου γε σμικρῷ τινι αὐτῷ τούτῳ σοφώτερος εἶναι, ὅτι ἃ μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι.’)。
以前にも紹介した通り、文法的に初歩的な説明をすれば、引用部分の最初の[μὴ]は「~ない」という否定詞で、続く[οἶδα]は「知る」「知っている」の謂いだ。[οὐδὲ]は「そして~ない」「~さえもない」の意味で、[οἴομαι]は「~と思う」、最後の「εἰδέναι」は「οἶδα」の「不定法」で「知っている」を意味する。
「私(ソクラテス)より知慧のある者はいない…私(ソクラテス)を一番知慧があると宣言する」(‘ἤρετο γὰρ δὴ εἴ τις ἐμοῦ εἴη σοφώτερος. ἀνεῖλεν οὖν ἡ Πυθία μηδένα σοφώτερον εἶναι.…τί οὖν ποτε λέγει φάσκων ἐμὲ σοφώτατον εἶναι’=ibid., 21A~B)という、所謂「デルポイの神託」(μαντεία)の謎(αἴνιγμα)の「知慧がある」(σοφώτατον εἶναι)の場合も同様だ。
異論があるなら、それを覆す具体的な証拠を見つけ出してくることだ。それがお手上げなら何を言っても無駄だ。
「無学」と言えば、カ氏は芸術学を専攻する者が読むべき古典としては基本書中の基本書であるアリストテレスの『詩学』(“περὶ Ποιητικῆς”)さえ読んだ形跡がないのには、正直驚く。
底なしの「無知」というもので、いずれも『詩学』の中にある議論だ。
「ある詩の叙述内容が不可能なことであるという批判に対しては、創作(詩作)の創造性に着目するか、あるいは『よりよいこと』(理想化)に着目するか、あるいは一般の通念になっている定説や伝承に訴えるかしなければならない。即ち、詩作の狙いからすれば、詩は享受者を言葉で納得させなくてはならないので、論理的に可能であっても到底信じがたいようなことよりも、論理的には不可能であっても信じられることを、筋立てとして選ぶ方が望ましいのである。」(‘ὅλως δὲ τὸ ἀδύντον μὲν ἢ πρὸς τὴν ποίησιν ἢ πρὸς τὸ βέλτιον ἢ πρὸς τὴν δόξαν δεῖ ἀνάγειν πρός τε γὰρ τὴν ποίησιν αἱρετώτερον πιθανὸν ἀδύντον ἢ ἀπίθανον καὶ δυντόν.’=De Arte Poetica 1461b9~12)
一体何を考えているのやら、かつての共産主義者以上に偏狭で狂信的な「巫女」(προφῆτις)のお頭の中は窺いしれないが、「作家の作り上げる世界のお話」以上の夢想家(ὀ ονειρώττω)がカ氏であろう。
過去の夥しい誤謬、誤記、論点窃取をこの期に及んでごまかし、それを114⇒【私の間違え…そのほとんどが形式的なミスで、スペル或いは誤字脱字のミス、今回は、題名のミス】のように矮小化して頬被りする嫌悪すべき「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)こそカ氏のありのままの姿であって、「真実」など口にするのも片腹痛い、厚顔無恥(ἀναισχυντία)な人物も稀であろう。
とんだ道化者(βωμολόχος)による一人芝居は、嗤えない喜劇(κωμῳδία)だ。[完]
過去のコメントに、反氏は、プラトンは芸術(詩歌・演劇)についても否定的な態度を表している、と書かれたことがある。芸術学を勉強し、阪神大震災後、ドイツ語を教えてほしい、と頼まれて、ドイツの詩、特にゲーテの詩にふれ、心を癒すことができた私には、承服できない考え方ではあったが、田中美知太郎さんの「ソクラテス」を読んで、プラトンがなぜ、そう考えたのか、は理解できるようになった。プラトンが尊敬してやまないソクラテスが、高名な芸術家たちを批判した為に、アテネの民主的な裁判で、死刑を下されたからである。
昔のギリシアでは、このような(ジャーナリズムのような)仕事は・・・、舞台や朗読を通じて人々を導く、各種の作家、詩人たちが、主としてこれに当たっていた。だから、当然ソクラテスの遍歴も、これらの人々に向かわねばならなかった。そして、彼がそこにみたものも、やはり自分でよく考えもしなければ、また真面目に考えてみようとしない人たちであった。彼らには、自分の言っていることが、自分にわからないという、奇妙な無智がみられた。つまり彼らは、自分で本当に考えて、ものを言っているのではなくて、何か神がかりにかかって、他の考えをのべているにすぎないのである・・・、という記述である。
なんども紹介したと思うが、ゲーテも、晩年の若い詩人への遺書に、詩を書く場合、「体験が生きているか。」、を呼びかけたし、クラシックは健康で、ロマン主義は病気だ、と主張したが、芸術の中には、夢想の世界、ありもしないユートピアの世界、を描くものが少なくないのである。
昨日の中国の習近平さんをもてなす、北朝鮮のマスゲームにも、同じようなものを感じた。あのマスゲームに参加している北朝鮮の人々も、鳥肌のたつような、一体感と高揚感を感じているに違いない。また、その題材は「朝鮮の歴史」である、という識者の解説も気になった。「朝鮮の歴史」ということは、「反日のパルチザン」の歴史である。筋道立てて考えると、北朝鮮の「仮想敵国」は、具体的には日本なのである。そのような現実認識を「自分で本当に考えて、ものを言っていない」専門家と自称されている日本のマスコミ知識人は、ジャーナリスト、はもつべきなのではないのだろうか?
改めて指摘するまでもないが、「論過の人」(παραλογισμός)であるカ氏の驚くべき(θαυμάσις)「無学」ぶりは、アリストテレスの『詩学』(“περὶ Ποιητικῆς”=de Arte Poetica)さえ読んだことがないのを否定(ἀρνεῖσθαι)していないことでも明らかなように、もはや証明(τεκμήρια)済みの事実で、別に論破する(ἀναιρεῖν)までもなく自分ですぐにぼろを出す始末で、125⇒【反氏の意見には発展性がない。私を論破しようとする気持ちしかうかがえない】も何もない。
カ氏には負け惜しみ(διαφιλονεικοῦτες)で、「論争」から逃げ回る(διαφεύγειν)ばかりだから思いついた冗語を返すしか能がなく、「発展性」、つまり議論としての豊かな展開をもたらすような、質実な論証(ἀπόδειξις)の労を取る(περιεργάζομαι)ことさえ、一切ない。ただ、不平不満を並べることしかできない。
そこに真っ当な「問いと答え」(ἐρώτησις καὶ ἀπόκρισις)の遣り取りが成立しないのは、偏にカ氏に論争に必要な知的能力(δύναμις)と技量(τέχνημα)、知識(ἐπιστήμη)と訓練(ἄσκησις)が欠落しているからで、知りもしないことについて種々陳腐な(πρόχειρος)、しかも見当違いも甚だしい御託を並べているが、それ自体が阿呆(ἠλίηθιος)の「証明」になっている。
そうした元西独留学生にあるまじき「低劣さ」(πονηρία)は、カ氏が2年間在籍したミュンヒェン大学の問題ではなく、カ氏のような東洋から来た劣等学生はそもそも対象外だったのだろう。
だから、以前「スフィンクス」(Σφίγξ)をめぐって議論した際、ギリシア神話、ギリシア悲劇を喋喋する割には、その代表作として『詩学』の中で緻密な検討の対象になっているソフォクレスの『オイディプス王』(“Οἰδίπους Τύραννος”)についてさえ碌に知らなかったのも道理だ。
プラトンが代表作『国家』の中で展開した詩人追放論について、またもや懲りずに「無知ゆえの」(δι’ ἄγνοιαν)の妄説を披瀝している(φθέγγεισθαι)が、まずは対話篇の該当箇所(第10巻595A~608B)を読んでからにするという真っ当な分別が働かないのが、永久に(ἀίδιότος)「無学な人」(ἀμαθής)であり続ける所以だろう。
私が世話になった田中美知太郎の後継者でギリシア哲学の研究者の藤澤令夫(岩波文庫版『国家』の翻訳者)に、「文芸のχάρις(歓び)、ὀρθότης(真実性、正確性)、ὠφελία(有益性)―プラトンの文芸論に関する若干の考察」(『西洋古典学研究』Ⅳ)という論文があるから、読めばいい。
いずれにしてもこのテーマは、その正否をめぐって文字通り西洋の学問観、芸術観をめぐる論争の宝庫だったから、恥をかかない程度に少しは「お勉強」したたらよい。
少なくとも、125⇒【プラトンがなぜ、そう考えたのか、は理解できるようになった…ソクラテスが、高名な芸術家たちを批判した為に、アテネの民主的な裁判で、死刑を下されたから】のような、途方もない思い込みは通用しないことぐらいは理解できるだろう。
‘Les fous et les sottes gens ne voient que par leur humeur.’(La Rochefoucauld; Maximes 414, Œuvres complètes, Bibliothèque de la Pléiade, p. 458.)
国民の戦意高揚、一体感を盛り上げて洗脳する目的のヒトラーと金正恩のメデイア戦略の共通点、あるいは、自国だけが偉大で、優れた国であり続けるために、ヒトラーが金持ちのユダヤ人への反感をドイツ人に植え付けたように、あたかも中国が不道徳な、信用できない国、という反感を世界中で植えつける、というのは、許されるのだろうか、それは、戦前の日本が「鬼畜米英」や「中国蔑視」でしたことなのではないのだろうか。その世論づくりに、マスコミも協力して、そのような空気を作り上げた。日本もナチスドイツと同じことをしているのである。
Hitler hat stets damit gearbeitet, Vorurteile, Feindschaften und Haß zu schüren.
Die Bitte an die jungen Menschen lautet:
Lassen Sie sich nicht hineintreiben in Feindschaft und Haß
gegen andere Menschen,
gegen Russen oder Amerikaner,
gegen Juden oder Türken,
gegen Alternative oder Konservative,
gegen Schwarz oder Weiß.
Lernen Sie, miteinander zu leben, nicht gegeneinander.
ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。
若い人たちにお願いしたい。
他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
ロシア人やアメリカ人、
ユダヤ人やトルコ人、
オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
黒人や白人
これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。
これが「平和構築」の神髄だ思うと共に、ヴァイツゼッカー氏の精神を受けついだメルケル首相がハーバード大学で講演されたように、「嘘と真実」を取り違えないことが、我々に一番求められていることだと私は思う。
そして、篠田英朗教授は、スフィンクスではない、と主張した。それは、スフィンクスは、それまで、なぞかけをして、解けない旅人を食べてしまっていた怪物なのであるが、オイデイプス王は、そのなぞかけを解いたために、怪物スフィンクスは、恥じ入って自殺してしまうのである。篠田教授の『集団的自衛権の思想史──憲法九条と日米安保 』の主張は正しい、と思うからこそ応援しているのであるが、たとえば、水島「オイデイプス王」に対して、どういう理由で、恥じ入らなければならないのだろう?まったく理解できない。
ヴァイツゼッカー演説の熱狂的な(μανικός)信者(ὁ πιστεύω)で、巫女(προφῆτις)を自認するカ氏が後生大事に掲げる政治家の欺瞞(ἀπάτη)と偽善(τὸ εἰρωνικός)に満ちた敗戦40周年記念式典での演説など、所詮はドイツ民族の新たな自己主張――例えば、その後に東西統一を果たし、1995年4月19日のDie Frankfurter Allegemeineに、「自覚せる国民」(selbstbewußte Nation)になることを呼び掛けた意見広告が大々的に掲載され、「5月8日」をナチスからの開放に加え、東欧におけるドイツ人追放、東独の長く暗い隷従の日々の始まりを告げる日と、国民的アイデンティティー論が渦巻いたような出来事――のための政治的構築物(拵えもの)という意味での見え透いた「公式見解」にすぎない。
以前に何度も書いたが、その程度の代物は所詮は政治には避けられない不可避な(ἀναγκαῖοπρσς)ものであるとしても、道徳的にはパリサイ的偽善、心理的には道徳以前の感傷である。
敗戦直後から、世界中で学生の叛乱が起きた60年代後半まで、ドイツでナチスの犯罪に対する国民の実質的関与の実態や責任、戦後をどうにか生き延びた政治家や公務員らの出処進退とナチス時代に果たした役割の実態を正面切って問うことは、事実上タブーだったことははっきりしており、それこそ、戦後を頭を低くして(ταπεινόω)生き残るための自己防衛(φυλακή)に余念がなかった(σπουδάζω)人々と国家の反省(λογίζομαι)や謝罪(ἡ ἀπολύτρωσις)、将来に向けた平和への誓い(ὅρκος)といったところでその倫理性は高が知れている。
何を「自覚せる国民」だかも見えやすい道理で、第三帝国の犯罪を他の戦争犯罪と比較可能なものとして矮小化したり、相対化する歴史「修正主義」(Revisionismus)が公然とメディア上で語られるようになった時期と、カ氏が熱を上げるように、一見して高邁な(μεγαλοπρεπής)理念を盛ったヴァイツゼッカー演説が行われた時期とが一致するのは偶然ではない。
ナチスを生んだ「過去の克服」(Bewältigung der Vergangenheit)という戦後を支えたお題目=リベラル・コンセンサスにしたところで、特に1986年以降の「歴史家論争」(Historikerstreit)前後から、ナチスの犯した忌まわしい犯罪の尻拭いという責任分担と心理的な重圧から解放されたいという国民的意図は明らかで、「アウシュヴィッツ」に象徴される過去の責任追及を問い直そうという「修正主義」の擡頭は、ドイツに限らぬ民主制国家の国民性を如実に表している。
東西統一を果たし、国民的自覚や集団的自尊心が高まるのはある意味自然な現象だし、ドイツのような民衆レベルでの‘ethnocentrism’の盛り上がりは、経済大国となった現在の中国を引き合いに出すまでもなく不可避で、本当の意味でおぞましい過去の蛮行の罪劫を自らの問題として引き受け、徹底して向き合うことなど、とりわけ民衆には無理なこと物語っている。民主国家の政治家が、そうした国民感情を無視できないことは、言うまでもない。
カ氏のような、共産主義やメディアには大いに警戒する(φυλάττω)ことはあっても基本的にお目出度い(εὐήθεια)人物が、国家公共の事柄(τὰ τῆς πόλεως πράγματα)のことを前のめりに(προπετής)なって真顔で語る他愛なさ危うさもそこにある。
舞台を見ても、あの薄い本を読むには至っていないようだ。藤澤令夫訳が岩波文庫にあるから読むといい。
ところで、作品の解釈は自由だから無知な素人をいたぶってはこちらの品性が問われるから遠慮するとして、篠田さんをスフィンクスになぞらえたのは確かだが、別に水島朝穂氏をオイディプスに仕立てた事実はない。カ氏の勘違いだ。私が篠田さんが容易に解けない謎(αἴνιγμα)を掛けたとした対象は日本国民である。
カ氏はこの作品については半可通にも達しない無知だから、何時ものそそっかしさを発揮して珍解釈を披露しているが、この物語は知らずに父親を殺し、母親を妻にして子を設けた神のごとき知性のもち主であるテーバイの王オイディプスが、人生の頂点ですべてを知って破滅し、放浪の旅に出る結末だ。水島氏にしたらオイディプスに比定されても困るだろう。
すべてを知った=認知(ἀναγνώρισις)、つまり自己認識したことで転落に至るわけだが、この得意満面の人生の頂点からの転落、どんでん返しを「逆転変」(περιπέτεια)といい、悲劇作品のよく知られた手法であって、それを最も鮮やかに示したのが『オイディプス王』であり、アリストレテスが『詩学』で取り上げた所以だ。
人間の知恵など、如何に儚いかの譬えだ。
無知な婆さんも、逆上せ上がる前に身の程を弁えて、少しは勉強したらよい。
統一前の西ドイツ、統一後のドイツも、集団的自衛権でNATOに加盟して国を守っている。仮想敵国は、ソ連なのであって、核兵器を保有せずに、連邦軍という軍隊ももっている。どれだけ説明しても、本当の意味でおぞましい過去の蛮行の罪劫を自らの問題として引き受け、徹底して向き合うことなど、とりわけドイツの民衆には無理なことを物語っている、という考えを反氏は変更することができないようだ。
大事なことは、現実をきちんと把握すること、真実と嘘を、混同しないことである。反氏も、特定の人びとトーマス・マン、アドルノ、ハーバーマスの影響を受けられすぎているのではないのだろうか?端的に言って、この差は、ドイツの歴史認識、現状認識が違う、ということにつきるのである。
中国の新疆ウィグル地区の監視カメラを大問題のように日本のマスコミは報道するが、あの地域は大量の難民を生み出しているアフガニスタンにも近く、部族対立も激しく、テロ活動によって、治安が安定しない地域なのではないのだろうか?「民主化運動」という名前のテロが頻発すれば、旧ソ連の国々、シリアの二の舞になって、平和が脅かされる。とにかく、日本のマスコミが真実であると主張をしている、なにが真実で、なにが嘘なのか、を判断する目を身に着けることが、我々には求められていると思う。
しかし、厄介なことに被害者と加害者(ὁ ἀδικέω)との言い分(λόγος)が異なるように、戦争の記憶についても、敗者(ὀ νικάομαι)と勝者(ὁ νίκη)、つまり弱者(ἥττονων)である被征服者(ὁ νικηθείς)と強者(κρείττων)である征服者(ὁ νικήσας)との主張(ἀπόφανσις)と正当化(ὀρθόω)の論理が異なるのは避けられず、その結果として戦争の記憶も異なってくる。
この一見不毛とみえる応酬(ἐνίστασθαι)こそ、実はギリシア語で元々「探究」(ヒストリアー=ἰστορία)を意味する歴史(ἰστορίαι)の本質(ἡ αὑτῆς φύσις)であって、歴史が単なる出来事(ἔργον)の時間的羅列ではない、記憶と想起(ἀνάμνησις)の断片を後世から特定目的の下に繰り返し行われる叙述(διήγησις)の集成にとどまる限り、避けられないことなのである。
その意味で探究=歴史から発する、ドイツ語(Geschichte)を除く主要近代語の歴史(英仏伊西の順にhistory, histoire, storia, historia)が同時に「物語」(μῦθος=虚構)、極言すれば空想物語(μυθολογία)とは言わないまでも、恣意的な、まことしやかなもの(εἰκός)、「真実らしき物語」(εἰκός μῦθος)にすぎない。
要するに勝義の(κύριος)の客観的歴史、真実の(ἀληθινός)歴史など、実際において(ἔργῳ)、この世のどこにも存在しないし、歴史の本質からしてそれは不可避(ἀνάγκη)なのである。
そう断定(λῆμμα)すると、生真面目な人々を憤慨(θυμός)させるかもしれないが、別に茶化す(ἐπικωμῳδέω)つもりはなく、それもまたこの世の現実で、だからといって真実の追求(ζήτησις)の意味でもある歴史の根源である「探究」が何の意味をもたないわけでもない。
なぜなら、それは勝者にとっては自己正当化にとどまらず、将来の敗北や破滅を避けるための省察(ἐννόησις)の材料や戒め(νουθησις)、「よすが」となろうし、敗者にとっては、やがて屈辱(λοιδόρημα)を晴らし、正義(δικαιοσύνη)を回復するため、あるいは失敗(ἀτυχία)を反省し(λογίζομαι)繰り返さないようにもっと巧妙に(τεχνητός)抜け目なく(ἀγχίνοια)立ち回る原動力(ἀρχή=始動因)ともなるからである。戦後のドイツを観察すれば、それがよく分かる。
そして敗者の認識(γνῶσις)ほど、実現しなかった希望(ἐλπίς)や理想(παράδειγμα)をめぐって屈折し、受難の境位から怨恨が生じ、観念的になる。つまり逆境にあって(ἀτυχεῖν)内訌し、常に痛苦(λύπη)の意識が際立つ 「受難者」(παθητός)として「不当な」(ἄνισος)権利剥奪(ἄτνμία)を恨む一方で、現実に悲観して、現実を見ないこと、考えないことに救いを見出すなかで逃避(τὸ φεύξογωμαι)に行き着く。
パトス(πάθος)に支配されるのは弱者の宿命(εἱμαρμένη)だ。
強者はすべてを自己に都合のいいようにしか理解せず、すべてを見ているようで見ていない(λανθάνειν)錯覚(σφάλμα)を免れ難い。それは弱者のように意識的でないから救い難く、なかなか自覚されないから命取り(θανάσμος)になる。
そして、強大とみられたこの世の勝者にも見落とし(πλημμέλια)は避けられない。何事も可能(δύνατόν)だと尊大になって(ὕβρίζω)いることに伴う重大な過失(σφάλμα)、失態(ἁμάρτημα)が、覇者の衰退と破滅(φθορά)を生む。
歴史の興亡がそれを物語る。予期せざる未来の選択(προαίρεσις)を誤るからだ。そして、この不確実性が政治な行為、つまり未来の選択(προαίρεσις)にかかわる実践的な行為の本質となる。
いずれにしても、歴史上の出来事を裁定するような法廷(δικαστήριον)は、厳密な意味では存在せず、裁き(κρίσις)は常に時々の勝者による恣意的な裁定でしかない。ヘーゲルの説くような歴史的必然としての歴史の裁定、即ち世界史の法廷もまたレトリックとしては有用でも「牽強附会」というもので、この世の「正義の論理」(δίκαιος λόγος)は、どれを取っても恣意的なものだ。多くは歴史の必然(ἀνάγκη)というより、「強者の論理」(κρείττονος λόγος)の顕現(ἐνέργεία)にすぎない。
一方で、敗者であるドイツの敗戦が、ナチスの支配の被害者だったドイツという国家と国民のナチスからの「解放」(ἐλευθεροῦντες)にすり替わり、広島、長崎の犠牲者を悼み核廃絶と絶対平和を願う多数の日本人の素朴な願いが、米国民の多数派とはすれ違い宙に浮く(もっとも、日本人の大多数は日米同盟と米国の核戦力の一環である核の傘を事実上容認している、という別種の現実もある)という事態が生まれる。
核兵器への恐怖と左右の全体主義を否定する点では認識を共有(μέθεξις)できても、こと歴史上の、特に戦争にかかわる評価(ποιέω)と記憶になると、鋭く対立する。原爆を投下した爆撃機の乗組員は、輝かしき対ファシズム戦争の英雄(ἥρως)であり、原爆投下の正当性(ὀρθότης)を問うことなど歴史に対する冒瀆(ἀνόσιος)だとして、その修正主義(Revisionismus)的解釈は米国から激しく非難される。
一方で、国家の政策としてのユダヤ人への計画的絶滅政策は、スターリンの富農層虐殺やポル=ポト政権の大虐殺と比較可能なものとして矮小化して相対化するドイツのE. ノルテら保守派の修正主義的ホロコースト観が、それを支持するFAZやDer Spiegel誌上で公然と論じられるようになるのも、弱者側の意思表示として見えやすい道理だ。
そこにあるのは、一概に歴史認識、戦争の正義をめぐる勝者と敗者の認識のずれや対立という側面だけでなく、一枚岩ではないとしてもそれぞれの国民的アイデンティティとしての一種の心的共同体(τὸ κοινός)のありうべき自己認識、理想像と現状の齟齬とが生む不満や違和感が、時にはナショナルな感情(πάθη)とナイーヴな心情論理として、分かり合えない相手へのもどかしさや憎しみ(μῖσος)や敵意(ἔχθρα)ゆえの瞋恚(ὀργή)として噴き出すのだろう。
その解決(λύσις)に妙策などありはしない。国益をめぐる角逐は常に存在しており、いかなる国際協調の仕組みもその例外ではあり得ないからだ。要は耐え難い平和に耐える人々がおり、将来の覇権(ἡγεμόνεια)をめぐって着々と既存の秩序に挑戦する中国のような国家が入れ替わり立ち替わる歴史の表舞台に登場するだけだ。
戦後広島や長崎が見事に復興したように、ISが去った瓦礫だらけの街もまた、新たな抑圧を孕みながら動き出し、ドイツ人に至っては歴上未曾有の悪行の限りを尽くしながらも、現在はEUの指導的立場(τὸ ἡγεμονέω)を不動のものとしてご大層な綺麗ごと(κάλλος)を並べ、それに媚びるカ氏のようなお調子者もいる。
人間はしぶとく、一筋縄ではいかない。「仕方がない、それもまた人生」(‘Que voulez-vous, déjà vu.’)なのだろう。[完]
何を勘違い(ἑτεροδοξία)しているのか、反共産主義とメディア批判に専心する割には共産党独裁の中国にも「阿諛する人」(κόλαξ)である「無学な婆さん」(ἀπαιδευτος γραῦς)によれば、136⇒【大事なことは、現実をきちんと把握すること、真実と嘘を、混同しないこと】だそうである。
もっとも、カ氏のコメントに頻出する「現実」(τὸ γιγνόμενον)とは、政治や社会、経済の現実などではなく、カ氏の特異な体験(πείρα)と稚拙で一種「狂信的」(μανικός)な思い込み(δόξασμα)、即ち独善(δόγμα)の集合体としての頑迷固陋(δυστράπελος καὶ ἀκληρότης)な「固定観念」(ὑπόληψις)の別名に外ならず、少しも現実的に考える(διανοεῖσθαι καὶ ἐνέργειαν)ことにはなっていない。
テレビとドイツの週刊誌、Wikipediaを頼りに、愚にもつかない法螺話を撒き散らすしか能がない体たらくであるようだ。
生まれつきの「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)のもち主が、136②⇒【反氏も…トーマス・マン、アドルノ、ハーバーマスの影響を受けられすぎ…端的に言って、この差は、ドイツの歴史認識、現状認識が違う、ということにつきる】というのもとんだご挨拶で、ハーバーマスはともかく、マンもアドルノのもナチスと戦った人間だし、ドイツ国民に媚びを売っていないだけの話だろう。もっとも私の政治認識はプラトンやアリストテレス由来で、マンやアドルノの影響は皆無に等しい。丸山眞男も関係ない。
カ氏はどうしようもない無学だし、アドルノなど読むはずもないから、党派心=イデオロギー体質を剥き出しにするあまり、勘違いしているのだろう。
篠田さんの論旨を隠れ蓑に『オイディプス王』についての無知をごまかすしか能がないのも、哀れだ。135の論理は巫女らしく錯乱(μαίομαι)している。
言わずもがなの、詰らぬことを書いた。
「東西ドイツ統一」の際、ヴァイツゼッカー演説にもあるように、東独の秘密警察の民衆への締めつけはきつかったし、ソ連内部では、東独の民衆を抑え込むためにソ連軍を動かす意見もあったのに、ゴルバチョフさんが、それを押さえられたのである。そのおかげで、平和裏にドイツが統一できたが、統一をドイツが急いだのは、ゴルバチョフ政権下しか、統一はできない、というよみが西独側あったためだし、その後軍部によって、ゴルバチョフさんは、政権の座を追われた。話が飛ぶが、日本の選挙制度、にしろ、日本国憲法では、人を選べ、と規定してあるのに、おかしな選挙制度にしたから、選挙に勝つために、与野党は対立の構図になってしまい、満足な国会審議がない。この選挙制度を導入した専門家の学者たちは、ほんとうに智慧のある人、といえるのか、と正直思う。
あまりに無邪気に、なぜ連合国軍最高司令官、国連軍最高司令官兼米国極東軍最高司令官のマッカーサー元帥が1951年4月11日に解任されたか、その背景に朝鮮戦争での戦略をめぐりトルーマン大統領と確執があり、その一因として原爆使用をめぐる対立があったとされる事情について、145⇒【なぜ、去りゆかなければならなかったか、は知らなかった】のだそうだ。
日ごろは嘘とでたらめばかり並べている割には何とも正直な話で、底なしの無学というのは、随分とご気楽なものだ。呆れるやら感心するやらで、莫迦莫迦しさが募る。
もっとも、単なる無知を通り越してより重大なのは、145②⇒【マスコミ知識人は、核抑止力、という言葉をすぐに使う】なる条だろう。そもそも核戦略(nuclear strategy)、端的に核抑止(nuclear deterrent)は、核をそう簡単には先制使用しないことを前提(πρότασις)にした戦略で、その核心をなす相互確証破壊(MAD=mutual assured destruction)は、双方のプレーヤーの意図(intention=προαίρεσις)と能力(ability=δύναμις)に基づく駆け引き、ゲームであり、そう単純なものではない。
大陸間弾道ミサイル(ICBM)に加え、捕捉困難な第二次撃破能力として潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM=submarine-launched ballistic missile)や同巡航ミサイル(SLCM=submarine-launched cruise missile)が配備されたことで戦略的には完結した。
「マスコミ知識人」が誰を指すのかは不明だが、そうした古典的な核戦略に疑念を呈しているのはっむしろメディア関係者の方だ。
莫迦も休み休み言うといい。
147⇒【プーチン…金正恩…文在寅…は、政治家として全く信頼していないが、習近平…はゴルバチョフ…のような人なのではないのか】は、如何なる根拠(τὸ διότι)と目算(λογίζεσθαι)があって書いているのか知らないが、大方単なる怖いもの知らず(θράσος)の当てずっぽうだろう。
「老婆の他愛ないおしゃべり」(「老生常譚」⇒‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’;Theaetetus 653A)というのは救いようがない。饒舌に無駄口を叩き、法螺話(ἀλαζονεία)を撒き散らすばかりだ。
147⇒【政治というのは、イデオロギーではなくて、政治家個人が動かす】というが、それもまたお人好し(ἠλιθίους)の早とちりだろう。
政治はカ氏のような真っ当な分別(ὁ ὀρθὸς λόγος)など期待しようもない精神の幼児(ἔκγονος)が考えるほど単純ではなかろう。単なる好き嫌いで政治家を論じる無思慮な人物に、一体何が分かるというのだろう。
「イデオロギー」と簡単に使うが、本当の意味を弁えたうえで使っているとも思えない。左右個々の政治信条を越えて、現実を事柄自身(πρᾶγμα)に即して「ありのまま」(ἀληθῆ)捉えることなく、独善的な自己主張をドグマ(δόγμα=Dogma)のようにもって回るカ氏のような人物の虚偽意識(das falsche Bewußtsein)を意味しており、カ氏そのものではないか。「平和構築」にしたところで、本来の意味を逸脱した拡大解釈が過ぎる。
中国のような共産党独裁の集団指導体制は、政治を「政治家個人が動かす」とはとても言えまい。老婆の床屋政談並みの「与太話」は気楽でいいが、今さら選挙制度改革でもあるまい。メディアに登場するコメンテーター並みの俗論で、如何にも凡庸(μεσότης)で陳腐(βαναυσία)極まる。
ヴァイツゼッカー演説後、西ドイツのマスコミ界でいくらその後激しい論争があったとしても、ヴァイツゼッカー演説で示された歴史認識が、正当だから、ヴァイツゼッカーさんは、大多数の西ドイツ国民に支持されて、無投票で、大統領に再任されたのであって、西ドイツ国民や英米仏ソ連政府首脳がヴァイツゼッカーさんの歴史認識を嘘やでたらめと判断していたら、大統領として再選もされないし、東西ドイツ統合での演説も、できないのである。
とにかく、反氏には、ものごとを筋道立てて考える練習をしていただきたい、と思うと共に、ご自身の偏見によって、人々を誤った先入観に導くことをやめていただきたい。
コメント欄を、篠田さんに阿り(κολακεύω)追従する(ἀρέσκεια)小中学生並みの意見発表会とでも勘違いしているらしく、要領を得ない(σομφός)、老後の有り余る暇(σχολή)をもて余した末の「投稿のための投稿」、しかも誤謬(ἁμαρτία)と誤記だらけで、何より論理的に(λογικός)筋道(μέθοδος)の通らない幼稚な(νήπιος)議論を、知性(νοῦς)の程度(μέτριον)を示す稚拙な(νήπιος)日本語で綴ることしかできない「クズ投稿」を量産する形で日々実践しているのが醜悪な実態(τὸ ἀληθές)だろう。
150~152など「老婆の他愛もないおしゃべり」(‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)=「老生常譚」(田中美知太郎の訳語)そのものだ。
150⇒【核ミサイル投下はゲームではない。現実に人が亡くなり…被爆者になる】というのは素朴な核廃絶論者が並べる幼稚な理屈で、ゲームといっても幼児の「おままごと」やコンピュータゲームではなく「勝負、競争」の謂いで、そうした利害関係を含む複数の主体間の行動のメカニズム、つまり行動原理を数学的に分析して、一般化した行動数学である「ゲーム理論」(theory of games)に基づいており、軍事や経済分析でその有効性が認められている。
その創案者の一人であるフォン・ノイマン(J. von Neumann)は天才的なユダヤ人数学者で、共産主義体制の祖国から逃れてドイツを経て米国に移住、29歳で『量子力学の数学的基礎』という論文を書き、それによって集合論の新たな公理系を確立したほか、原爆開発の「マンハッタン計画」にも参加し、原爆の衝撃波の数学的処理を担当した。
被爆者のように当事者ならともかく、ただ通常兵器と違って万が一、自らも死の危険性や放射能汚染に巻き込まれる可能性がある核兵器にいたずらに恐怖(τὸ δεινός)を募らせ、一方で、最新技術を駆使した無人爆撃機やドローン兵器など自らが巻き込まれる懸念(φροντίζω)のないものは、通常兵器というだけでたかをくくって核ほどには大騒ぎせず、その脅威に鈍感(ἀναισθησία)でいられる。
中国当局が不当に抑圧して住民が反撥を強めている新疆ウイグル自治区で、テロ対策の名目でどんな人権無視の非人道的行為を行ってもカ氏が平気でいられるのと同じだ。
核兵器が人類の滅亡(ἄνθρώπων φθορά)を招きかねない悪魔(ὁ Ζατανᾶς)の兵器(ὅπλον)のように騒ぎ立てる一方で、自分はちゃっかり米軍の核の傘にとどまり、結局はすべての科学的思考が数学、端的に「数」(ἀριθμός)に還元されるように、核兵器の場合も犠牲者(παθητός)の数、即ち死者(νεκρός)の「多寡」(πλῆθος καὶ ὀλιγότης)を基準(κριτήριον)に比較考量する(φροντίζω καὶ φροντίζω)ことでいたずらに恐れているのが、大半の核廃絶論者の自覚されざる(ἄγνωστος)心性だろう。
そこには、無意識に自らが危険に巻き込まれる脅威の程度を計算する(λογίζομαι)一方で、戦争(πόλεμος)を数量に還元される「善悪無記」(ἀδιάφορα)の科学とは異なる「道徳問題」に仕立てて、皆でお手々繋いで仲良く程度の「国際協調」のような綺麗ごと(κάλλος)を並べて、事実上の思考停止(ἐποχή)をもって究極の(τέλειος)平和への道だと勘違いする姿がのぞく。
ニーチェも『反時代的考察』(‘‘Unzeitgemäße Betrachtungen’’, Drittes Stück, Schopenhauer als Erzieher)でそうしたカ氏のような 「道徳的自瀆者」(der moralischen Onanisten)について、
「徳、それは聞くものが薄笑いして、教師もそのような言葉では、もはや何も考えることができないような時代遅れの言葉なのだ」(‘Tugend ist ein Wort, bei dem Lehrer und Schüler sich nichts mehr denken können, ein altmodisches Wort, über das man lächelt ―und schlimm, wenn man nicht lächelt, denn dann wird man heucheln.’(Friedrich Nietzsche Werke, hrsg. von K. Schlechta, Band 1, S. 293.=『反時代的考察』第三篇「教育者としてのショーペンハウアー」)と嘲笑っている。
洋の東西、古今を問わず、人間自然の性情(ἡ φύσις ἀνθρώπων)は、変わるはずもないし、従って人間は進歩する(ἐπιδίδωμι)こともない。ただ、核抑止によって、大国間の戦争が起きていないのは事実だろう。核廃絶などという、贅沢を言うものではないのかもしれない。
例によって早朝から番犬のように喚いているのが、底なしの「無学」で、齢70近くにして最小限(ἀναγκαιοτάτη)の自制心(σωφροσύνη)にも事欠く(ἀπορέω)、ヴァイツゼッカーの巫女(προφῆτις)にして、負け犬(τὸν ἡττώμενον)根性が染みついた「第二の祖国」ドイツの犬(κύων)とも称すべきカ氏だろう。
152のヒトラーの「反ユダヤ主義」の分析など皮相で見当違いもいいところだし、戦争遂行そっちのけで行われたホロコースト観に至っては粗雑すぎて、如何にもドイツの中でも反ユダヤ感情が根強いとされるバイエルン地方に留学した元劣等学生らしい無頓着ぶりだ。
言うに事欠いて153⇒【私が日ごろは嘘とでたらめばかり並べている割には、というフレーズ…どこが嘘とでたらめなのだろうか?反氏と捉え方が違うだけ】もないものだ。「盗人猛々しい」(ὁ τοῦ κλέπτου λόγος)というか、114⇒【私の間違え…そのほとんどが形式的なミスで、スペル或いは誤字脱字のミス、今回は、題名のミス】のような厚かましい(ἀναισχυντος)でたらめを並べておいて、大した言い種だ。
何んとかにつける薬はないようだ。[完]
直前まで碌に知らなかったことを、こうも軽々しく喋喋するのを憚る(αἰσχύνω)ことのない比類なき(ὑπερβολή)軽薄さ(κοῦφος)こそ、まさに醜悪なる(αἰσχρός)「無学の女王」(βασίλισσα ἀμαθής)であるカ氏の独壇場かもしれない。狂気の沙汰(ἡ μανικός)以外の何物でもなく、いずれにしても、つける薬はない。
しかも、つい最近まで、112⇒【ヴァイツゼッカー氏の結論が正しい、という結論にいきついたのは、数学や物理のように、いろいろな歴史的事実、政治や経済の状況を組み合わせ、筋道立てて、論理的に、考えた結果】のような、数学と物理学を無条件に(ἁπλῶς)ありがたがって、愚にもつかない、わけの分からないことを宣っていた当の人物が、20世紀前半の最も卓越した数学者にして理論物理学者であるフォン・ノイマン(J. von Neumann, 1903~57)に出会った途端、恐れをなして宗旨替えでもしたような前言撤回ぶりだ。浅ましいご都合主義で論旨をコロコロ変え、節操も何もありはしない臆面のなさだ。いい加減に口を噤めばよいものを、「老生常譚」(‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)そのままの、無駄口を叩く(ἀδολεσχεῖν)しか能がない。
‘La petitesse de l’esprit fait l’opiniâtreté, et nous ne crpyons pas aisément ce qui est au-delà de ce que nous voyons.(La Rochefoucauld; Maximes 265, Œuvres complètes, Bibliothèque de la Pléiade, p. 439.)
人文科学も自然科学とは違った意味で学問である以上、「人間の命の重み、健康の尊さ、自分に身近な人の喪失感のつらさ」などを直接扱うことなどない、という程度のことが、頭に血が上った婆さんには理解できないらしい。出来の悪い三文小説か何かとはき違え(πλημμέλεια)ているのではないか。田舎文士のゲーテなどどうでもいいが、カ氏には人文科学の何たるかも理解できていないようだ。
158②⇒【自然科学の天才が、人文科学の天才とは限らないし、数学的処理はできても、感情面がわからない人は少なくない】も、数学や物理学の天才が、必ずしも古典学や歴史学の天才である必要がないように、命題自体がナンセンス(ὁ ὕθλος=idle talk, nonsense)で、つくずく下らないことを言う(ὑθλέω)という外ない。
158③⇒【「核兵器」の使用…悲惨なできごとが起こるの…を防ぐために、「核の傘」をさそうとするのは、当たり前】に至ってはまさに噴飯もので、敵対勢力の核攻撃を許さないためにこちらも報復能力があることを相手に理解させることが核抑止であり、その適用範囲にあるのが「核の傘」の意味であって、別に相手の使用=攻撃を防ぐシェルターやバリアとは異なる、という程度の認識もないものか。
159はWikipediaの愚にもつかない無批判な受け売りだから相手にするまでもないが、【「京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっているからこそ殲滅すべき」だとして、(フォン・ノイマンが=筆者註)が京都への投下を進言した】なるWikipediaの記述は、何ら典拠が示されておらず、信憑性に乏しい俗説であろう。米国映画『博士の異常な愛情』のモデル説も含めて、比類ない天才なるが故の嫉妬と興味本位の伝説が、敵も多かったフォン・ノイマンの周囲には渦巻いていたようだ。
このようにWikipediaには、私の気づいた範囲でも誤りが散見される。例えば、⇒【ノイマンは、1937年にアメリカに移住してほどなく応用数学を研究し始め、ドイツとの戦争には数値解析が必要であると考えた】も、アメリカに移住するのは1933年、プリンストン高級研究所の終身所員になった年で、1937年は米国の市民権を得た年だ。
水爆開発の父エドワード・テラーとの対立は、テラーもフォン・ノイマンと同じハンガリー・ブダペスト出身で、1935年に米国に移住した同郷の後輩をフォン・ノイマンが必ずしも高く評価せず、その後の水爆開発をめぐる政治状況の変化のなか、ロス・アラモス研究所長(1949~52)として水爆開発の中心人物となるテラーにとって、1954年に米国原子力委員になって政治的影響力を一層強めたフォン・ノイマンが目の上のたん瘤だったが、翌57年のフォン・ノイマンの死によってその関係に変化が生じたことやマッカーシズムの影響なども手伝って、さまざまな「伝説」が生まれる土壌が形成されていたことも遠因だろう。
いずれにしても、Wikipediaの安請け合いは、愚劣極まる。[完]
マスコミ報道を見ていると、「感情だけ」に訴えるものが、あまりにも多すぎるのである。「悲惨な事故」はなくさなければならない、が、0にすることはできない。人間だからミスもある。「悲惨さ」だけ焦点をあて、遺族感情だけを煽って、その事故を起こした人を悪者にする、のはどうなのだろう?逆に、「計画的」に「その悲惨な事件」を引き起こした人の場合、「社会」が悪いから、「周りが」悪いから、あのような事件を引き起こした、と「その人の考えを正当化」するのは、どうなのだろう?
反氏はウィキペデイア批判ばかりされるが、自分の資料や自分の認識が間違っているかもしれない、という認識がまるで欠如している。
脳死の臓器移植について、の法案審議の時、医師だけではなくて、宗教関係者、をはじめとする、さまざまな分野の人が意見を出し合って、成立した、ということが、「知と愛のバランスが一番大事である」、ことを示している。
何せ158⇒【「核の傘」をさそうとする】だし、相変わらずものをよく考えないで書くから158②⇒【周近平氏】になる。
後者は大方変換ミスで、その限りで114⇒【形式的なミスで、スペル或いは誤字脱字のミス】になるのだろうが、前者に至っては「核の傘」どのようにさすのかとんと見当がつかず、単なる表現(ῥῆμα)、言葉(ἐπος)の問題ではなく、事柄自体(πρᾶγμα αὐτό)に関するカ氏の認識の欠如(στέρησις)を示す致命的な(θανάσμος)誤謬(ἁμαρτία)であり、論理的な思考(λογιστικόν)が全くできない凶暴な婆さんの情動論理の欠陥(κακία)を証明する(συμβιβάζειν)何よりの証拠(τεκμήριον)だろう。
欺瞞(ἀπάτη)と偽善(ἡ ὑπόκρισις)の塊であるヴァイツゼッカーについて、112⇒【氏の結論が正しい…のは、数学や物理のように…筋道立てて、論理的に、考えた結果】というのも本人のとんだ思い違い(ἑτεροδοξία)で、数学的(μαθηματικός)にも物理学的(φύσικῶς)にも、ましてや論理的に(λογικός)考えることなど覚束ない(ἄπορος)精神の程度も幼児(ἔκγονος)だが、蜘蛛の巣(τὰ ἀράχνια)が張ったようなお頭(ἐγκέφαλον)の程度からして、推論(συλλογισμός)の法則(κατὰ τὸν νόμον)を体系化した科学(μάθημα)である論理学(λογικόν)に即した、謂わば「真っ当な分別に適った」(κατὰ τὸν ὀρθὸν λόγον)立論など、カ氏には望みようもないのかもしれない。
それもまた悲惨な(ἄθλιος)事実だ。阿呆(ἠλίηθιος)くさ‼
呆れたたことに、本欄で以前、米国の原爆投下を是認するような発言、7⇒【「原爆投下」は、日本人が…IS…と同じで、命を捨てても、日本の勝利の為に戦ったから、という理由から下された…米軍にどれだけの犠牲…米国民の安全を考える米国大統領として、そう判断されても…致し方なかった】としていた同じ人物が、原爆開発の責任者でもない一介の数学者にすぎないフォン・ノイマンについて、165⇒【開発を主導した事を後悔しているオッペンハイマーとは違って、核兵器を開発…広島、長崎の人々を悲惨な目にあわせたことについて…後悔はまるでない。オウムの松本智津夫やアウシュビッツを引き起こしたヒトラーと同じ】とするのは、為にする議論の典型だし、論旨をコロコロ変えるカ氏の生まれつき(φύσει)の「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)そのもので、呆れてものが言えない。
そもそも原爆開発をアインシュタインを通じて大統領に進言したのはナチスによってドイツを追われたノーベル賞受賞のユダヤ人物理学者(H. A. Bethe)であり、その動機はドイツによる原爆開発を恐れたためで、水爆開発の責任者はテラー(E. Teller)だ。
核兵器開発は不可避だったとしても、諸悪の発端はドイツにある。
ヨーロッパでは、「アウシュビッツ」での悲惨さに驚いて、ウガンダで「部族単位での虐殺」のようなことも起こったが、少なくとも、宗教上の理由で、一番ターゲットになりやすい「ユダヤ民族の大虐殺」を引き起こす「反ユダヤ主義」は許さないというコンセンサスを国際社会で作ろうとし、政権を担うドイツの政治家はその重要性を幾度も公的に発言しているが、「広島、長崎」で悲惨なできごとがあった核兵器の方は、悲惨な事態が起こったのに、「核兵器は0にしよう」、という動きにはならなかった。そして、von Neumanのような人が戦後も核兵器の開発を推し進め、核兵器の軍拡競争が起こった。そして、現在では、韓国は60%を超える人たちが、抑止力の為に韓国も核兵器をもつべきだ、と考えているし、日本人でも、反氏のように、「核兵器を特別扱いすべきでない。」と考えている人もいる。そのことが問題だ、と私が思っているのであって、いくら「悲惨な記憶」を継承しても、それが政治的な動きにつながらなければ、なんの意味もない。「映画」を見て、いい映画だった、というのとまるで変わらない。
そして、今日のニュースを見て、アメリカのトランプ大統領は本当に無謀な人だと思うが、いい悪いを別にして、イランのハメネイ氏は、イラン人の宗教(イスラム教シーア派)的指導者で、イラン国民から神のように思われている。あのように指摘されれば、プライドの高いイランの国民に、反米感情がなおさらつのり、自分たちの命をかけてもと、戦争に突き進むのではないのだろうか?トランプ大統領とイランの人々は、信じる宗教が違うのである。
ユネスコ憲章、戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と不信の為に、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。という言葉は、その言葉に全く頓着しない超大国、米国大統領として、トランプ氏は大丈夫なのか、という心配を引き起こす。
。
阿呆(ἠλίηθιος)だから、黙っていれば恥をかかずに済むものを(‘Le silence est parti le plus sûr de celui qui se défie de soi-même’, La Rochefoucauld, Maximes, 79)、いい歳をして堪え性がない(ἀκαρτής)から無駄口を叩かずにはいられない。
米国が原爆開発に踏み切った理由はさまざま挙げられているが、懐疑的な姿勢を崩さなかった軍の意向に抗して最終的に大統領を動かすに至ったのは、アインシュタインの影響力である。
しかし、彼自身は核物理学者ではない。発案は彼に仲介を依頼したナチスの迫害による亡命ユダヤ人物理学者でノーベル物理学賞受章者のベーテ(H. A. Bethe, 1906~2005)の存在が大きかったことは、開発に当たった数多くのノーベル賞受賞者を含む研究者やアインシュタイン自身の証言、米政府内部の関係者の生前の回想などでかなり明らかになっている。
ロス・アラモスの原子爆弾研究所(「原爆開発プロジェク」)理論部長(1943~46)として、ドイツのミュンヒェンで同じ師ゾンマーフェルトの下で学んだ兄弟子で所長の同じくユダヤ人物理学者オッペンハイマー(J. R. Oppenheimer)の下で開発の中心にあった彼は、恒星内のエネルギーが核融合反応に由来することを突き止め、原子核の結合エネルギーに関する質量公式「ベーテ・ヴァイツゼッカーの式」の考案者だった(ここに言うヴァイツゼッカーは、のちのドイツ連邦大統領の兄で著名な物理学者のCarl Friedrich Weizsäcker。ハイゼンベルクの弟子)。
ドイツも量子力学の発展に中心的役割を果たしたハイゼンベルク(W. K. Heisenberg)やウランの核分裂の発見者でノーベル化学賞受賞者のハーン(O. Hahn)を中心に新型爆弾の開発に入っていたが、理論的な可能性は広く知られていても、それを実際の爆弾として完成させる方法は全く解明されておらず、膨大な予算や人員、シュミレーションのための演算作業に要する計算機の開発も重なって開発は困難を極めた。
米国が恐れたドイツの先行開発は結局断念された。その最終決断を下したのは外でもないヒトラー自身で、原子爆弾のような「ユダヤ人の兵器」は、第三帝国には相応しくない、というものだった。彼の「反ユダヤ主義」が思わぬ形で開発の壁になったと言える。
実際、核物理学を含む極微の世界の物理的現象に先端的成果を挙げていたユダヤ人研究者が多かったことが考えられる。ナチス政権誕生までドイツの物理学界で大きな存在感を示したユダヤ人研究者の協力なしに、開発にこぎつけるのが事実上困難だった状況を物語る。
さらに、のちにハンガリー出身のテラー(E. Teller)が実現にこぎつけた水爆のように、核分裂より強力で核融合の際のエネルギー(水素、重水素、三重水素[トリチウム]の同位元素を利用した熱核融合が爆発をもたらす可能性が発見されたのは1942年6月)を利用する手法も検討され、開発は錯綜を極めた。
同じロス・アラモスの研究員だったテラーはそのため、原爆開発に協力するのを断ったほどだ(ベーテの証言)。
それに比べるとドイツや日本の原爆研究は理論段階で停滞し、具体化のめどは立たなかったのが実態だ。戦局が逼迫するなか、資源や実験場所の確保も含め、国外に出た有能なユダヤ人研究者や、夫人がユダヤ人だったために祖国イタリアから米国亡命したフェルミ(E. Fermi)のような人材、アインシュタインの後ろ盾、圧倒的な工業生産力を擁した米国との違いは歴然で、後塵を拝したのは必然だった。
そこに狂信的な(μανικός)人物は皆無で、カ氏のように、169⇒【ナチスドイツ国民も、「神の国」の大日本帝国国民も…一つのカルト宗教に騙されたようなもの】という甘ったれた見当違いな認識の入り込む余地はない。彼らは皆正気(τὸ σωφροσνέω)である。
165⇒【今でも、核兵器を開発している研究者がいる…「サリンの開発に成功した」オウム信者と同じタイプ】というのも余りにナイーヴな議論で、旧日本軍もドイツ軍もカルト宗教にいかれたテロリスト集団ではないし、国民の大多数も実際には騙され(ἐξαπατηθῆτε)たりなどしていない。カ氏が考えるほど愚鈍でもなく、騙されたふりをしていただけだろう。
核兵器の誕生は米国が主導しなくとも、科学技術の発展の不可避な帰結だったろう。しかし、その誕生を早めたのは、ユダヤ人研究者を追い込んだドイツの蛮行だ。[完]
反氏はドイツへの敵愾心からこの原爆をユダヤ系の人々が開発した、と言われるが、迫害したナチスドイツに使うのなら、それはよくわかる。けれども、使ったのは、多くのユダヤ人をナチスの手から逃がした日本人に、それも、ナチスドイツが降伏してから3か月もたった後に使ったのである。その上に、日本に対して原爆投下の目標地点を選定する際には「京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっているからこそ殲滅すべき」だとして、京都への投下を進言した、などというのは、情のある人間のできることではない。
私事になるが、私が高校時代に最も好きだった科目は物理で、授業とは別に朝永振一郎の『量子力学』やディラック『量子力学』のような教科書を買いこんで、数式の一部を飛ばしながら、よく理解できないなりに繰り返し読み、そうした末にフォン・ノイマンの名著『量子力学の数学的基礎』(“Die Methematische Grundlagen der Quantenmechanik”, 1932)にも出会って1972年当時、1200円で買って読もうとしたが、全く歯が立たなかったことをよく覚えている。
1957年に初版が出た翻訳の序文は湯川秀樹で、カ氏が真に受けたWikipediaが紹介するような、フォン・ノイマンによる京都壊滅につながる原爆投下の進言なるものが、どの程度の信憑性をもつものか、あれこれ見当をつけながら、初期の原水爆開発にかかわった一癖も二癖もある個性豊かな科学者たち相互の人間関係をめぐる確執や愛憎など、虚実織り交ぜた複雑な人間ドラマのなかで、原爆開発計画は当初こそ科学者がなかなか理解が進まない政治家や軍人たちを説得して動かしたが、やがて科学者自身が政治や軍内部の駆け引きや対立などの動きに巻き込まれ、時代の波にもまれ、巨大な流れに絡めとられていく傾向が強まっていく。
全体を統括する所長のオッペンハイマーの野心や、開発の理論部門の実質的責任者で、実際の使用には極めて慎重だったベーテ、科学研究振興会長として、当局と科学者たちをつなぐ立場にあったヴァニヴァーブッシュ(MIT工学部長兼副総長)の存在もあって、如何に天才数学者とはいえ、投下候補地の選定に実質的な影響力を行使できるとは考えにくい状況がある。
フォン・ノイマンの翻訳書の序文で、その物理学史上における歴史的意義を強調した湯川にしたところで、平和運動に尽力するようになる初期に、フォン・ノイマンが実際に京都への原爆投下に固執したような人物だったら、果たしてああした序文になったかどうか。
湯川自身、第二次大戦勃発直後に、滞在していた欧州から引き上げ船で帰国する際に、米国で大学や研究機関を回り研究者と交流を深めている。そのため、湯川が原爆投を事前に知っていたのではないか、との疑念を指摘する教え子もいるくらいだ。
実際に原爆が投下されたのは広島や長崎、しかも長崎の場合は、当初予定の小倉が変更になっての悲劇で、京都や東京は最初から候補地になっていない。京都や奈良が外れた理由は、知日家の東洋美術史研究家のラングドン・ウォーナー(Langdon Warner, 1881~1955)の尽力が指摘される(京都の国際的美術商・山中商会重役の宮又一が伝えるGHQ文教部長ヘンダーソン中佐の証言)。
戦後、早速来日して古美術品の保護や海外流出対策のためにGHQに献策したことも伝えられている。
それによると、米国は開戦と同時に「戦争地域における美術及び歴史遺蹟の保護救済に関する委員会」を設置して、連邦最高裁判事を責任者に対策を進めた。ウォーナーはこの委員会を通じて京都、奈良の文化的価値を説き、戦火からの保護、救済を求め、当局や軍部に働き掛けた。吉田茂自らが戦後にウォーナーを招き、謝意を伝えている。
ウォーナーは日本や中国の仏教美術に造詣が深く、『推古彫刻』(“The Japanese sculpture of the Suiko period”, 1923)なる著書もある。
歴史はカ氏が考えるような単線ではない。
とにかく、なにが真実か嘘であるか、という目が問われている、ということをひしひしと感じる。
つい数日前までフォン・ノイマンや「ゲーム理論」はもよより、核抑止の意味(διάνοια)さえ碌に知らなかった(ἀγνοέω)憐むべき「無学な婆さん」(ἀπαιδευτος γραῦς)が、例によって薔薇の指さす(ῥοδοδάκτυλος)「曙」(φᾶνή)に逆上せ上がって(ἀγωνία)何やら喚いている。「第二の祖国」(‘ἡ δεύτερος πατρίς’)ドイツや中国にごまをする(κολακεύω)「おべっか使い」(κόλαξ)、言うなれば従順な犬(κύων)らしい習性(ἦθος)だ。
「無学ゆえに」(δι’ ἀπαιδευσίαν)、自らが真なるもの(ἀληθες)、正しい(δίκαιος)とかよい(ἀγαθός)と「思ったこと」(ἃ δοκεῖ αὐτῷ)と、真実(τὸ ἀληθές)やものの真相(ἀληθῆ)、その実態(τὸ τί ἦν εἶινι)とが実際には「異なる」(διαφέρειν)かもしれないということに思い及ばず、カ氏が自らの能力(δύναμις)ではどうにも認識し得えない(ἀγνοωσία)から、カ氏にとっては、177⇒【ウィキペデイアに書かれている事実】という語句(ῥῆμα)が端的に示すように、「無料ガラクタ簡易知恵袋」であるWikipediaに記述(συγγράφω)されていることそれ自体(αὐτό)が事実(ὅτι)になってしまうようだ。
倒錯した話だ。そしてカ氏のWikipediaの記述をただ並べた議論は「盗作」(κλοπή)に等しい。テレビばかり見ている怠け者(ὀ ἀργίας)だから、それ以外は面倒臭くて(ἄπορος)手に負えない(ἀνέλεγκτος)のだろう。
匿名の素人によるただの孫引きの寄せ集め、しかも複数の典拠に当たって慎重に検討したものなどではない後世の、誰とも知れぬ揣摩臆測(ψευδὴς δόξα)や不確かな記憶(μνήμη)の類がカ氏によって「事実」になってしまう。
そういうのを、日本語では「阿呆」(ἠλίηθιος)という。何のことはない(ἀτεχνῶς)、騙されるのは愚鈍だからだ。そうでなければ別の魂胆(προαίρεσις)があって騙された(ἐξαπατηθῆτε)ふりをする。ナチスに騙されたと称して被害者(ὁ πάσχω)意識を募らせた戦後のドイツの民衆と同じ心性だ。
だから何度でも懲りずに(ἀκολᾶτος)騙されるし間違える(ἁμαρτάνω)。ソクラテスは「魂をできるだけ優れたものにするには、どうすればよいか、心を用いる」(‘τῆς ψυχῆς ὅπως ὡς βελτίστη ἔσται οὐκ ἐπιμελῇ’=Apologia Socratis 29E)よう求めているが、どうするかはカ氏の自由だ。
178⇒【戦後のノイマンは、原爆投下の功績をかわれて、さまざまな仕事…】以下の記述はWikipediaさえ逸脱する。そもそもノイマンは原爆を投下していないし、開発もしていない。その数学の知識を生かして原爆炸裂時の衝撃波の研究に貢献し、設計に助言しただけだろう。別に酷薄な殺人狂というわけでもない。シュミレーションのために新たな計算機開発の基礎理論を提供したにすぎない。
開発は物理学者、総指揮はオッペンハイマー、投下の決断は大統領、実際に投下したのはエノラ・ゲイの乗組員、京都、奈良を救うのに貢献したのがウォーナー、ミサイル開発は戦後米軍に身をゆだねたドイツ人工学者フォン・ブラウン(W. von Braun)、そして水爆開発の中心はテラー、というだけの話だ。
カ氏の妄想癖は、如何にも他愛ない、「老婆の戯言」(‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)。
何んとかに、つける薬はない。
165⇒【核兵器開発を主導した事を後悔しているオッペンハイマーとは違って、核兵器を開発したこと、広島、長崎の人々を悲惨な目にあわせたことについての彼の後悔はまるでない。オウムの松本智津夫やアウシュビッツを引き起こしたヒトラーと同じ…今でも、核兵器を開発している研究者がいるが…「サリンの開発に成功した」オウム信者と同じタイプの人びと】
ここに言う「彼」とは、数学や理論物理学、経済分析、コンピュータ開発など情報工学、気象学などにおいて多面的な業績を残し、米国の原爆開発計画にも参画したハンガリー出身のドイツ系ユダヤ人で、20世紀前半の数学界で、物理学におけるアインシュタインの存在にも匹敵すべき歴史的天才だったフォン・ノイマン(John von Neumann, 1903.12.28~57.2.8)だ。
その数学上の業績(ἐπιτήδευμα)については、手元の『岩波数学辞典』(第3版、1985)によると、
「初期には、主として集合論、実函数論、数学基礎論について研究し、集合論の公理化について重要な寄与…同時に理論物理学、ことに量子力学の数学的基礎づけに深い関心をもち…Hilbert空間論の研究に導かれ、その作用素論について基本的な結果を得た。作用素環の理論に関連して連続幾何を導入し、群の上の概周期函数論、コンパクト群の場合のHilbert空間の第5問題の解決など…晩年はゲーム理論や電子計算機の設計運用にも関与し、アメリカにおける各方面への数学の応用上、重要な役割」(1020頁)を果たした、とある。
父親がブダペストの銀行家であること、1921年に同地の大学を卒業し、その当時すでにM. Feketeと共著の論文を発表したことや、ワイル(H. Weyl)の影響を受けドイツの大学で私講師を務めたのを経て1930年に米国に移住、1933年からプリンストン高級研究所(Institute for Advanced Study)の教授に就任、1954年に米国原子力委員になったという略歴が示されている。
それにしても間違い(σφάλμα)が多い上に、論旨が混乱(ταραχή)していて、文章=命題(πρότασις)自体として形式化を拒む体の虚偽の(ψευδής=誤った、即ち真理値が「偽」の謂い)言明(φάσις=statement)である。
【広島、長崎の人々を悲惨な目にあわせたことについての彼の後悔はまるでない。】については、ひとまず「是」としよう。米国が原爆投下を「正戦論」(bellum justum)の観点から是認し、肯定している(κατηγορεῖν)以上、投下を命じたわけではなく開発に関与しただけの一介の科学者に、反省(λογίζομαι)や後悔(μεταμελεῖται)を求めるのは筋違いに等しい。
米国人は実に率直で、その代表格とも言える科学研究振興会長として、政権中枢と科学者たちをつないだヴァニーヴァー・ブッシュ(Vannever Bush=微分方程式応用の計算機の発明者)のように、後年のテレビインタビューで「実験では誰も事態を理解しない。われわれは原爆とともに生きていくしかない。それを痛感したよ。人類はやがて、原子戦争を起こすかもしれない。その時人類は始めの状態に戻るのだ」と言い切っていて、感傷的態度は微塵もないが、冷酷な殺人者(ὁ φόνος)というわけではない。
問題は、【オウムの松本智津夫やアウシュビッツを引き起こしたヒトラーと同じである】という条だ。フォン・ノイマンは、神経ガスによる無差別殺人を命じたカルト宗教の教祖でないのはもとより、第三帝国の独裁者のように、絶対的な政治権力をもっていたわけでもない。
別の言い方なら、「ならず者」(ὁ μοχθηρός)と言ってもよい。[μοχθηρός]は、「人」としての(性質や状態について)「悪い、堕落した、駄目な、劣等な」ことを意味する。「劣悪な人」(ὁ πονηρός)なのだろう。以前、カ氏20番目の枕詞(ἐπίθετον)として進呈した。
真っ当な分別(ὁ ὀρθὸς λόγος)を具えた、齢70近い人間は、そうした態度は慎む(κόσμιοσθαι)。世間ではそれを節度(σωφροσύνη)と称する。より古風な世代なら「襟度」(μεγαλοψυχία)とも。いずれにしても、「躾」(ἄσκησις)の疎かな不作法(ἐπαριστερότης)で堪え性のない婆さんには無縁な世界だ。
【核兵器を開発している研究者…「サリンの開発に成功した」オウム信者と同じタイプ】も、感傷的な文章だ。そこには、原爆投下やホロコーストのような次元の異なる罪業を、一カルト集団の凶行の域にまで矮小化し、相対化する見え透いた意図が透けてみえる。
しかし、今回の一連の投稿では、当初トルーマンの原爆投下を是認するかのような発言(7⇒【「原爆投下」は、日本人が…IS…と同じで、命を捨てても、日本の勝利の為に戦ったから、という理由から下された…米軍…の犠牲…米国民の安全を考える米国大統領として、そう判断されても…致し方なかった】)をしておいて、その舌の根が乾かないうちに、それまで無知のフォン・ノイマンに関するWikipedia仕込みのにわか知識で大騒ぎである。
道化者(βωμολόχος)なのだろう。
これ以上続けるのが、莫迦らしくなった。[完]
開発は物理学者、総指揮はオッペンハイマー、投下の決断は大統領、実際に投下したのはエノラ・ゲイの乗組員、京都、奈良を救うのに貢献したのがウォーナー、ミサイル開発は戦後米軍に身をゆだねたドイツ人工学者フォン・ブラウン(W. von Braun)、そして水爆開発の中心はテラー、というだけの話だ、という反氏の主張であるが、では、日本が戦争についても、形式的な責任者だけが責任をおうべきなのだろうか?反氏の論理を踏襲すれば、戦争を決断したのは、東条英機だし、その決断を承認したのは、昭和天皇だから、形式上は、この二人の責任になる。けれども、昭和天皇は、反対ではあったが、立憲君主制の日本の立憲君主として、「日本国民の総意を尊重して」承認された。
生前の母の話でも、国際連盟を脱退して帰国された松岡洋右さんへの日本人の歓迎ぶりは「ちょうちん行列」など大歓待であったそうであるが、それは当時の日本の「世論」がそうであったからで、「ジュネーブの情勢を知る」国際派ジャーナリスト楠山義太郎さんなどは、憤懣やるかたなかったのであるが、この世論を作ったのは誰なのか、という問題なのである。
そういう世論を必死に作り上げたかった人々が、軍部に、政治家に、そして、お調子者のマスコミ関係者にいたのではないのだろうか?「そういう世論を作り上げた人々」には、責任がないのだろうか?騙された人が悪い、というのが反氏の主張であるが、いじめ問題でもそうであるが、いじめられた人にも問題があるが、いじめた人の方が道徳的に悪い。だから、漢学者の曾祖父が母に「いじめられるのはいいが、人をいじめてはいけません。」と諭したのだと思う。また、反氏の論理に従うと「振り込め詐欺」をも許してしまう。
「歴史」や「悲惨な事件」に対しての解説にしろ、なにが「真実」でなにが「嘘」の説明なのか、ということを混同しないことも、「悲惨な事件」の記憶する場合、求められているのではないのだろうか。
かつて軽薄にも【「アウシュビッツよりも広島よりも、もっとショックを受けた場所…それは、鹿児島…「知覧の特攻隊の基地」】(8月8日・61)のような妄言を平然と並べていた婆さんが、今度は ‘Les vieux fous sont plus fous que les jeunes.’(La Rochefoucauld; Maximes 444)のような、言葉を換えれば、英国の女性哲学者M. Warnockががいみじくも指摘したように、「大体において、憤激の程度は、攻撃(者)の知性の程度に反比例する」(Ethics since 1900 , p.85.)の格好の症例(παράδειγμα)のような憤慨ぶりだ。
「知恵足らず」(ἀμαθία)の狂信的な、しかも齢70近いのに、『論語』に言う歳相応の規矩(「七十而從心所欲、不踰矩」=『論語』為政第二)、即ち克己心(σωφροσύνη)も慎み(κόσμιότης)もなく、無軌道(ὕβριοτής)ぶりが際立つ、浅ましい狂態の限りを尽くしている。
相手にするだけ阿呆くさいが、186⇒【反氏の論理に従うと「振り込め詐欺」をも許してしまう】というのには、牽強附会を通り越して畏れ入る。大体において騙される(ἐξαπατηθῆτε)方にもそれ相応の原因(αἴτιον)や落ち度(σφάλμα)、が少なくないのは経験(ἐμπειρία)も教える(διδάσκω)事実で、それを自覚しない(ἀγνοέω)から何度でも騙される。
自らの莫迦さ加減や別の魂胆を反省(λογίζομαι)しないからそうなるわけで、不覚に臍を噛むのは自業自得だが、他にも迷惑をかける場合だってある。
184⇒【日本が戦争についても、形式的な責任者だけが責任をおうべきなのだろうか?】というが、東條英機は「形式的な責任者」ではない。
何を寝言をほざいて吠えているのか、莫迦も休み休み言うものだ。
知覧の特攻隊の若者は、ナチスドイツの若者と同じように、そうすることが、自国の為、世界の為だ、と信じて、若い命を犠牲にしたのである。
Die meisten Deutschen hatten geglaubt, für die gute Sache des eigenen Landes zu kämpfen und zu leiden. Und nun sollte sich herausstellen: Das alles war nicht nur vergeblich und sinnlos, sondern es hatte den unmenschlichen Zielen einer verbrecherischen Führung gedient. 。。。Der 8. Mai war ein Tag der Befreiung. Er hat uns alle befreit von dem menschenverachtenden System der nationalsozialistischen Gewaltherrschaft.
大多数のドイツ人たちは、自国の発展の為に、戦い、苦しんでいると信じていた。しかし、そのすべてが、無駄で、意味がないだけではなく、一つの暴力的な政権の非人道的な目的であったことが敗戦で明らかになった。5月8日(敗戦記念日)は、解放の日である。その日は、我々すべてを国家社会主義の暴力政権という人権蔑視の政治システムから解放した。(ヴァイツゼッカー演説より)
東京裁判で明らかになったように、日本の戦争犯罪人に温情を示してくれたのは、インドとオランダの裁判官であって、大東亜共栄圏などと主張して、その国を戦場にしたフィリピンや中国の裁判官の態度は、日本の戦争犯罪人に厳しかったことが、そのことを如実に表している。
米国のケネデイー大統領の西ベルリンでの演説の意味が違う。社会主義国家の中の陸の孤島のような西ベルリンを、「自由が享受できる西側の都市」であるかのように、英米仏西独が協力して、維持したのである。その「自由」を東欧の人々が求めたから、ヨーロッパでは冷戦が終結したのであって、現実には、東アジア、特に北朝鮮では人々はそれが享受できていないのである。日本では、マスコミ知識人の影響で、社会主義の負の側面がほとんど報道されず、あたかもアメリカが世界戦略の野望で、世界で戦争をしているかのような印象があるが、「国際連合」規約にのっとって、アメリカが、国際平和、民主主義、自由の為に戦っている場合の方が多いし、日本にあるアメリカの駐留地は、日本の安全だけではなくて、韓国や香港や台湾の「自由と安全」を守っているのではないのだろうか?私が一環として主張しているのは、嘘と真実を混同しない、ことである。
何の考えもなしに、衝動に駆られて(ὁρμάω)「やにわに」(ἐξαίφνης)書き始めるから、冒頭は大概、私の文章のコピペで始まる。
【私が高校時代に…よく覚えている】の178文字、全体で587字中の30.3%がコピペで、それ以外は益体もない(ἄχρηστον)婆さんのおしゃべり(「老生常譚」)に費やされる。
「von Neumanのことを知らなかった」らしいが、綴りが違う。[von Neumann]の誤り。いつものことで驚かないないが、如何にも神経(νεῦρον)が行き届いていない立論同様、杜撰な(σομφός)性格(ἦθος)を物語る。
そこには、何の弁え(σύνεσις)もなしに軽はずみ(ῥᾳθυμηος)に「国家公共の事柄」(τὰ τῆς πόλεως πράγματα)を論じて怪しむ気配のない身の程知らずの(πλεονεκτεῖν)、人柄としての器量(ἡ ἠθικὴ ἀρετή)も、真っ当な(ὀρθότης)知的能力=思考の働きとしての器量(ἡ διανοητικὴ ἀρετή)も欠いた(ἀπορέω)逆上せ上がった幼稚な人物がいる。
188⇒【日本で、古典と表現した時、ギリシャ哲学ではなくて、中国文化の漢文を意味する】というのは、基本的に無知ゆえの(δι’ ἄγνοιαν)誤りだ。
一般的に言って日本の古典とは、『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』や『源氏物語』、『古今和歌集』、『平家物語』などを指し、歴史上知識層の教養の規準となったのが、シナの思想書や歴史、詩文だったということだ。
西洋のclassics(ラテン語 [classicus]、語源のギリシア語 [κλάσις])を指すことから始まるの日本語の「古典」という言葉(ῥῆμα)は、中華民国以前のシナには、というか中国語には存在しない。この言葉をシナ由来と考えるのは、中国語についても、シナ文化についても、無知である証拠だ。
もっとも、それは中国語で「古」と「典」とを「むすびあわせた複合語が、全く中国の文献に」見当たらない、という意味ではない(同235頁)。魏晋時代の文献に、稀に古典という言葉があるという。
しかし、吉川によれば「それはみな、『古きおきて』という意味で、書物を意味しない」。また、そうした意味で使われる「古典」の二文字も、まさにシナの古典とも言うべき書物が出た「それ以前の千数百年間、また以後千数百年間、中国の文献には、ほとんど表れない。つまりほとんど無視してよい少数の例」(同)だという。
要するに、クラシック(classics)を指して「古典」というのは、「明治以降の日本語として生まれたもの」(吉川)で、本来の中国語ではない。あくまで、西洋の古典との類比(ἀναλογία)でそう呼ばれるにすぎない。
中国語で今日われわれが「古典」という言葉で意味するような書物や文化的伝統がないわけではない。その代表的なものが、儒学の祖、孔子が編纂した「五経」で、「経」とは「永遠の書物」、「不朽の書物」を意味し、今日なら「古典」に相当する。
厳密な学問である文献学的には、以上のような結論になる。明治期の翻訳語である「古典」とは、基本的に当の翻訳者が想定した、西洋におけるギリシア・ローマ文物、特に哲学や歴史、詩や演劇など、西洋における「教養」の対象になった諸作品を指し、それは何もギリシア哲学に限らない。
カ氏の母校の校歌作詞者の吉川も、妄言に頭を抱えていよう。この点でもカ氏の無知は致命的で、つける薬はない。
カ氏に夜郎自大の「虚言癖」以外のどんな才能があろうか。莫迦も休み休み言えばいい。
日本、中国など東洋の場合は、西洋のキリスト教にあたるのが、仏教で、仏教の祭式で使う、木魚や銅鑼などを、日本の楽器と習う。大まかに見た時、西洋キリスト教美術、に対応するのが、東洋の仏教美術で、どちらも芸術的な価値から見ても、精緻を極める。中国の場合、戦乱が続いたので、木造建築や木像は、破壊されてしまったものが多いが、石窟寺院、石仏がシルクロード沿いに、残っている。朝鮮は、漢字を全くなくしてしまったが、日本に漢字が遺っているのはその影響である。キリスト教文明とのつきあいは、ここ150年であるが、英語を日本語に訳す時、明治時代に、膨大な量の日本語が必要になったわけであるが、筋道立てて考えると、日本文化が多大な影響を受けた、中国の古い文献は古典、となる。
195⇒【日本でもドイツでも、きちんと単位を取って学んだ…】以下のような混乱した議論は、カ氏の底知れぬ虚偽体質(ψεύστης ψυσικός)を端的に(ἁπλῶς)示している。
「単位を取って学んだ」結果、果たしてどうなったか、が問題だろう。
ヨーロッパの歴史と文化、学問的伝統について、結局のところ何の学識(μάθημα)も、学問的な議論(ἀκριβολογεῖσθαι)に必要な技量(τέχνημα)も身につかなかった元劣等学生のなれの果てが、ヴァイツゼッカー宗の巫女(προφῆτις)よろしく、血迷った(βακχεύω)戯言(ἀλαζονεία)を並べる浅ましい醜態(ἀσχημοσύνη)を自ら晒しているようだ。
そこには、真面目に(απουδαῖος)議論する(διαλέγεσθαι)気などそもそもない、負けず嫌いの(διαφιλονεικοῦτες)驕慢さ(ὕβρις)だけは一人前のとんだ心得(εὐνομία)違いの狂信的な(μανικός)人物がいる。
火を見るより明らかな「無学」を取り繕う(τεχνάζω)ことしか念頭にはないようだ。それでよく、192⇒【私が一環として(一貫して?)主張しているのは、嘘と真実を混同しない、こと】のような御託を並べる。よほど厚かましい(ἀναισχυντος)のだろうし、性根が腐っている(μοχθηρία)のだろう。
本件のテーマは「悲惨な事件の記憶の継承」だが、まさにカ氏の生態こそ、悲惨(πονηρία)そのもので、道理で憐れむべき(ἐλεεινός)魂に潜む獣性(θριώδης)をよく示している。
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