日本が輸出管理の優遇対象国から韓国を外す決定を下した8月2日、文在寅大統領が「加害者である日本が居直って大口をたたく状況」を糾弾した内容の演説が、話題になっている。https://www.j-cast.com/2019/08/02364214.html?p=all
多くの日本人が、「歴史認識」とそれ以外を分けると言っていたのは、文大統領自身ではないか、という気持ちになったのは無理もない。
ただし、日韓関係の緊張の高まりは、もともと元徴用工問題を、日本が国際法の問題、韓国が歴史認識の問題として、捉えるところから、生まれてきている。
文大統領は、「歴史認識の問題である元徴用工問題を、国際法の問題だなどと主張した日本が、貿易政策にまで影響を出してきた」、と糾弾しているのである。実際の大法院判決が、植民地被害の問題は、請求権協定で取り扱うことができない、という法解釈を下したのも、同じような考え方だ。韓国側では行政府も司法府も、「元徴用工問題は歴史認識の問題」という主張を一貫して続けているわけである。
もちろん「歴史認識」にも様々な形態があり、韓国政府の「歴史認識」が絶対ではない。しかし、いずれにせよ韓国は、問題を「歴史認識」に還元しようとしている。なぜなら韓国にとって「歴史認識」問題とは、「日本=加害者/韓国=被害者」という図式を当てはめる問題、という意味であり、その図式のあてはめこそが狙いだからである。
これに対して日本は、韓国大法院判決によって引き起こされた問題は、歴史問題というよりも、具体的な法律問題であるという認識なので、国際法の論理を忘れてはならない、と主張している。日本にとっては、問題を「歴史認識」と捉えてしまうことによって、「相手の土俵で相撲を取る」ことになるので、徹底してそれを警戒している。実際、法的問題の本質は法的問題であり、歴史認識で法的解釈が変わっていくという状況は防がなければならない。日本政府の姿勢は、長期的な国益を考えれば、やむをえないものだ。
今後も日本にとっては、元徴用工判決と輸出管理の問題の切り分けだけでなく、歴史認識と国際法の問題の切り分けが、鍵となる。国際世論に訴える場合にも、その点をふまえた対応がまずは重要だろう。
このブログでも繰り返し述べているが、この現在の日韓対立の構図にかかわらず、実は伝統的には、日本人の国際法の認識度合いは、悲惨である。特にひどいのが、国際法を全く勉強しないまま法律の専門家となった司法試験受験組の「法律家」たちである。
たとえば弁護士でもある立憲民主党の枝野幸男代表は言う。「国が自衛権を行使できる限界を曖昧にしたまま、憲法9条に自衛隊を明記すべきではありません」。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190803-00000003-jct-soci&p=2
しかし自衛権は、国際法の概念である。日本国憲法に自衛権に関する規定は、もととも存在していない。「限界が曖昧だ」などと言っている暇があったら、国際法を勉強し、自衛権は国際法においてしっかりと制約されていることを、学び直すべきだ。
他国と同じように国際法の制約に服することこそが、自衛権を明確に運用していくための唯一の方法である。理由は単純だ。自衛権は国際法の概念であり、日本国憲法に自衛権を規定した条文はないからである。冷静になってほしい。「憲法学者の支配」を唱える姿勢こそが、憲法解釈を曖昧にしてしまう弊害の元凶である。
国際法の支配を拒絶し、「憲法学者による支配」を主張して憲法解釈を曖昧さの泥沼に陥らせながら、その一方では曖昧さを危険視するような発言をするのは、自家撞着の極みとしか言いようがない。
一方的に憲法学優位を唱えて国際法を拒絶する自作自演の演出の危険にこそ、今の日本は直面している。「いつか来た道」「戦前の復活」「軍国主義の再来」などの「歴史認識」問題に持ち込もうとする決まり文句を日本国内においてすら聞くときには、さらに気持ちは暗澹たるものになる。
「国際法は存在していないに等しい、憲法学の通説だけが頼りである」といったお話が、野党第一党の党首が公に堂々と主張しているという現状を何とかしないと、日本の未来はない。
野党の方々にも、国際法を尊重する気持ちを持ってほしい。「憲法学者の支配」ではなく、「国際法の支配」をこそ標榜してほしい。
https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_1?qid=1564849131&s=books&sr=1-1
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それは、今回の日本が韓国を輸出優遇国リストから外す対抗措置に対して、韓国側が過剰に反応していることを、「現実的に考える」(διανοεῖσθαι κατὰ ἐνέργειαν)ことと両立しえない(ἐναντίος)わけではない。
そもそも、編集工学者の松岡正剛氏によれば、日本文化は異文化に対して「ブリコラージュ」(bricolage=修繕)的な包摂方法を採る傾向があるとされるが、朝鮮哲学の専門家小倉紀蔵氏によれば、朝鮮、そして韓国はそれとは著しく異なり、外部から到来した思想、文化が、「既存のシステムの全面的な改変を推進する」という顕著な傾向があるという(小倉紀蔵『朝鮮思想全史』、ちくま新書、2017、18頁)。
その具体例として、高麗時代には仏教が国教とされ、社会を徹底的に変革したし、それを倒した朝鮮王朝は逆に仏教を排斥して朱子学による国家、社会改造を徹底的に進めた。それはまさに革命的な動きで、現在の北朝鮮が共産主義というイデオロギーによって国家や社会が、それ以前とは全く異なるシステムによって全面的に変革されたのと軌を一にする。
ただし、高麗時代が仏教一辺倒ではなく、逆に朱子学を建国の国是とする朝鮮時代も仏教は根絶やしにされたわけではなく、僧侶の漢城への出入りは禁止され、仏教寺院は山谷に追いやられたが命脈を保っていた点で、キリスト教文化一辺倒の欧州と異なる点は看過してはならないが。
要するに、朝鮮では外来の「思想の革命的な政治的な役割」(小倉)が、日本やシナとは決定的に異なっている、ということだ。
そして、そうした思想闘争が激烈な政治闘争に直結し、悪癖とも言える朝鮮固有の建国以来の「内紛の論理」(στάσις λόγος)と相まって、党派抗争が展開された。そうしたエネルギーに事欠かないのが隣国の歴史であり、民だということだ。
今日の事態の根底には、北朝鮮との融和政策を徹底して推進することにより安全保障上の脅威を取り除くことで経済的失政で傷ついた政権の浮揚力を維持しようとする防衛、外国政策以上に、1980年代末期の民主化以降も政治的闘争を繰り返してきた保守派と革新派の同胞相討つ(στασιάζω)、常に外国の脅威そっちのけで内輪もめを繰り返してきた「民族性」がある。
文在寅大統領の最大の標的は安倍政権でも、ましてや日本でもなく、盟友盧武鉉大統領を死に追いやった保守派への報復(τιμωρία)であることは言うまでもない。
その意味で、大統領の煮え切らない態度を通して垣間見える一連の反日的姿勢や、一国の最高権力者には例がない矯激な言辞は一種のポーズで、5年一期の在任期間を終えた後も革新政権を何としても維持しようとする行動原理、そのためには北と共同歩調を取ることさえ辞さないという政治的選択を貫いている。
そうして、国家挙げて内紛に明け暮れていることを可能にしているのが、歴史的にはシナへの朝貢の見返りに、宗主国によって夷狄の襲撃から自国の安全を守ってもらおうとする、それなりに合理的で安価な安全保障思想で、かつてのシナが現在は米国に代わったにすぎない。
朝鮮の歴代王朝が、国家の規模に比して極めて小規模な軍隊しかもたなかったのはそのためであり、有事にはシナの来援を請うほかは、義勇軍を組織するしかなかった所以だ。
今回の貿易政策をめぐる応酬(ἐνίστασθαι)は、日本側からは安全保障政策とリンクする面が大きいが、所謂徴用工問題への韓国側の不作為への対抗措置の側面もあろう。
時代錯誤の不買運動が前面に出て見えにくくなっているが、政権スローガンである「積弊清算」が、政治的には保守派の根絶やし策、民主派政権の継続に利用している側面は依然として否めない。
「反日」政策の関連で言えば、盧武鉉政権時代の2004 年に、国会で議決された「親日行為糾明法」がある。しかし、これは何も現在の親日勢力を排斥する法律ではなく、過去の植民地支配に関して日本の統治に協力した韓国人を捜し出して名誉を剥奪し、社会的に糾弾するという特異な法で、謂わば歴史を遡っての報復行為を意味する。仮令百年遡っても、糾弾するという儒教的な歴史の論理、現代版「春秋の筆法」を法制化したものだ。
それが、朱子学を「国家改造」のイデオロギーとして営々と国政の儒教化に取り組み、ある意味で朱子学の故国のシナより遥かに儒教化した、近世以降の朝鮮王朝以来の歴史を貫く「王覇」弁別の論理の衣鉢を継ぐ現在の韓国だということだ。
その意味で、現在の韓国は「朝鮮化」している。この場合の朝鮮化とは、朝鮮王朝への先祖返りの謂いで、北朝鮮とは関係がない。それが「未来志向」のツートラック外交とどこでどう折り合いをつけるか、一向に先が読めないが、大統領自身もその自家撞着は解消できまい。どうせ、そのうち自滅するか、少なくとも現在以上の窮地に追い込まれる。
なお、韓国は建国の事情から北を意識させる「朝鮮」という固有名を嫌悪する傾向があるが、韓国を含め歴史的概念だ。韓国[han guk]の[han]とは恒の当て字で、「大、一つ、王」などを意味し、韓国とは、「ハンの国」の意味だ。[完]
要するに、家永三郎さんは、一部を除いて敗訴しているのに、日本のマスコミが、都合のいいところだけをぬいてあたかも「勝訴」扱いしたところに、問題があるのである。また、原告側の証人、東京大学の名誉教授の憲法学者、芦部信喜さんの「良識」はこの裁判で、尊重されなかったことも付け加えておきたい。
(参考:歴史に目をとざすな ヴァイツゼッカー日本講演録、岩波書店、
Wikipeida 家永教科書裁判)
「われわれは伝統的な知恵だの、慣習の掣肘だのを、まったく尊重していなかった。ローレンス(D. H. Lawrence)が認めルートヴィヒ(ヴィトゲンシュタイン)もまた、正当にも、そう言っていたように、われわれには、事物に対しても人間に対しても、尊敬の念がまったく欠けていた。生活の秩序づけのために果たした、先人たちの並々ならぬ業績(今の私にはそのようなものに思われる)とか、この秩序を保つために彼らの創案した精巧な枠組みを、尊重することなど思いも及ばなかった。
プラトンは『法律』の中でこう述べた。すぐれた法典のうち最善の法律の一つは、およそ青年に対しては、それらの法律の中のどれが正しいとか誤りだとか、詮索することを禁じている半面、法典の中になにか欠陥を認めた老人は、自分の気づいた点を、青年が誰もいないときに、統治者なり同年輩の人なりに伝えることが許される、そういう法律だというのである。それはわれわれにとって、その主眼点や重大さをまったく見出し得なかった金言であった。」
結局、ケイインズは才気に溢れていた仲間同士との若き日を「今から思うと、人間の心についてのわれわれの考えが、誤りというだけでなく、その軽薄さ、皮相さ加減がいっそう明らかになったようである」(‘the thinness ad superficiality, as well as the falsity, of our view of man’s heart became, as it now seems to me, more obvious;’=ibid. p. 449.)と自戒を込めて振り返る。
それは一種の謙遜(κόσμιότης)というより、世俗性に抵抗する卓越した知性が陥りがちな、「川底の渦や水流には触れないように、小川の表面を、空気のように軽やかに楽々と、優雅にかすめて滑って行くアメンボ(water-spiders)」のような邪気のない境地への、無知で、嫉妬深く、気短な、敵意に満ちた目に気づいた際の、理解はしても同情や同調を拒む代わりに、大衆の情熱がもつある種のリアリティーに宿る一片の真実を正確に見定める覚悟と聡明さを示している。
その何よりの証拠に、植民地支配の歴史への反撥や、ある種の「反日教育」を受けているにもかかわらず、韓国の若年層はつい最近まで大挙して日本に観光に押し寄せており、逆に韓国を忌避して、韓国行きを躊躇っているのは、反韓、嫌韓教育とも無縁な日本人の方だからだ。
家永教科書訴訟に至っては、結局教科書としては不合格で採択されず、一般書籍として販売されたにすぎない、一種の「幻の教科書」で教育的影響は極めて無視してよい水準だからだ。不採択にあたって付された当時の文部省検定官の意見書によれば、主たる理由は記述が偏向しているためというより、個々の事実に関する誤りの頻出だった。
日教組の影響を加味してもカ氏のコメント20~21のような大仰な悪影響など、家永氏は与えるに至っていない。メディアが古代の仏教から近現代の政治、社会思想まで広範な知見を有するこの碩学に過度に肩入れした側面は否定できないが、その反権力的な姿勢に同情しての心情的な判官贔屓以上のものではあるまい。
控訴審に証人として出廷した芦部信喜にしたところで、憲法学の権威者ではあっても別に歴史学者でも何でもなく、良識(εὐγνωμοσύνη)を期待されたわけでもなかろう。家永には『美濃部達吉の思想史的研究』という優れた著作があるから、美濃部の謂わば孫弟子にあたる芦部が家永に加勢したのかもしれない。
要するに、カ氏が本欄で展開しているのは、まさにカ氏が糾弾するイデオロギー的見解への対抗措置として別種のイデオロギー的見解を並べているにすぎず、それを充分自覚したうえで故意に(ἑκουσίως)撒き散らしているのならともかく、Wikipedia程度のにわか知識を喋喋するのは、「クズ情報」を拡散することにしかならないのではないか。[完]
イデオロギー色の全くない、元在日韓国人であった私の親友は、日本が大好きで日本人になったが、理由は文化度である。おしゃれな人だし、感性の鋭い人で、自分のルーツということで、20代の頃、韓国に行って、まだ最貧国に近かった韓国に幻滅を感じたらしく、ドイツ語や英語は話せるが、ハングル語は話せない。私自身も、「日本人のルーツを知ろう。」と弟に誘われて、釜山に行ったが、台湾や中国に行った時は、漢字があって、親近感を感じたが、交通標識や看板が、すべてハングル語で書かれていて読めないし、食事ももう一つで、韓流ドラマに関心のない私は、また行きたいとは思わない。やはり、お金を使って旅行する場合、「居心地のいいところ」に行くのではないのだろうか?
戦後、日本について「歪んだ歴史教育」をしている韓国だからこそ、ムンジェイン大統領の扇動で、「No安倍運動」が起こり、あのような現実認識の欠如した声明を、納得する韓国人が多い、ことから見て、韓国国内で、大規模な「反日運動」が起こる可能性があるのではないのだろうか?たしかに、「家永三郎」さんは敗訴され、教科書としては流通しなかったかもしれないが、「従軍慰安婦問題」をはじめとする、日韓、日中の亀裂は、彼の様な誤った、イデオロギー優先の「歴史認識」で、拍車がかかったのではないのだろうか。
現実に北朝鮮という国を考えた時、軍事力はともかく、経済力、民生部門の技術水準は、異常に低く、南北が合併すれば、経済的に、日本を凌駕する、などということは考えられない。旧西独が旧東独にどれだけ援助したか。国経営がある程度成功しているのは、「同じ民族」ということもあるが、ヴァイツゼッカー演説、「西独は自由と民主主義のおかげで、戦後経済的に飛躍的に発展できたが、東独は、政治、経済システムのせいで、そうできなかった。」「東独の人々は、おかしな政権下置かれてかわいそうだったんだ。」という認識が西独人にあるから、うまくいったのであるが、今でも、東独の人には、西独に対するコンプレックスがある。翻って、ムンジェイン大統領のような「白昼夢」的発想からはなにも生まれない。南北が協力して、日本に勝つことできるとしたら、北朝鮮が開発した核兵器やミサイルを使って、日本の国や、列島を破壊することだけなのではないのだろうか?
今日は、広島原爆記念日である。米国のトランプ大統領を説得して、米国にもロシアとの中距離核戦力(INF)廃棄条約に復活してもらい、それに中国も参加してもらう、また、北朝鮮の非核化を実現させる、すなわち、「核廃絶運動」を日本が主体的に推し進めなければならなのではないのだろうか?
ドイツに過酷な賠償金支払いを強いたヴェルサイユ条約について、パリ講和会議に英国大蔵省主席代表として出席したケインズは、結局のところ、英国の首相はどんな役割を果たしたのか、英国は究極の責任にどの程度与るところがあったのかについて、興味深い断章を残している(「ロイド・ジョージ氏――断章」、『人物評伝』[1933年]所収)。
歴史が生成する(γίγνεσθαι)現場に関する貴重な証言として、注目に値する。日韓の外交戦を考えるうえでも、示唆に富む。『人物評伝』(“Essays in Biography”)から引用する。
「イギリスの利己的な、あるいはそう言いたければ、正当な利害は、たまたま、フランスの場合ほど致命的に14箇条と抵触するところがなかった。艦隊の破壊、船舶の没収、植民地の引き渡し、メソポタミアの宗主権など、これらのうちには、大統領の宣言に照らしたうえでも、格別彼がこだわるようなものはなかった。ことにイギリスは、いつものように、その外交的節度をばフランス精神特有の論理的非妥協性のために妨げられることもなく、どういう要求が出されるにしても、形式の点で譲歩するだけの用意は持ち合わせていたのだからなおさらのことである。
イギリスはドイツ艦隊を自国のために要求したのではなく、その破壊は武装解除の一面をなすものであった。船舶の没収は、アメリカが参戦した明白な機縁となった不法な潜水艦隊に対する合法的な補償であって、休戦前の事情の下ですでに明確な取り決めの行われていたものなのである。植民地及びメソポタミアについては、イギリスは何ら排他的な主権を要求することなく、それらの場合は国際連盟の下での委任統治主義のうちに包含されていたのである。」(引用続く)
第一の点はみんなが驚いたことには、大統領によって一度も提起されなかったのであって、この沈黙はおそらく、ほかのもっと重大な問題に関するイギリス側の協力に対して、支払うことが機宜に適していると大統領の考えた代償だった。第二の点はもっと重要であった。
かくして可能にされた協力は、大部分が実際にも実現された。英米の代表団の個々のメンバーは、友情と感情と相互の尊敬のきずなによって結ばれ、公正な処遇と寛大な人間性との政策のために、たえず一緒に働き、ともに戦った。そして首相もまた、やがてラテン人の強欲だとか国際的な理想主義の欠如だとか言われたものに対抗して、大統領の支持者でしかも強力な同盟者たる立場をとるようになった。
それではなぜ、これら二人の強力で開明的な専制支配者の協力をもってしても、「善き講和」をわれわれに与えることができなかったのか。
これに対する解答は、帝国の野望だとか政治家の哲学だとか思われているものよりも、むしろ日常茶飯の悲劇や喜劇をつくり出すあの内密な、心情と性格との働きのうちに求められるべきものである。大統領と、虎と、ウェールズの魔女とが6箇月の間一室に閉じ込められていて、そうして条約はあの通りのものになったのである。
さよう、ウェールズの魔女――というのは、英国の首相はこの三者間の陰謀に女性的な要素を寄与したからである。私はウィルソン氏を非国教派の牧師と呼んだ。読者はロイド・ジョージ氏を妖婦の姿に描いてほしい。」(引用続く)
私は魔女の箒の柄が、パリの薄明の空を飛んで行った時のシルエットを描いてみなければならない。」
‘The selfish, or, if you like, the legitimate interest of England did not, as it happend, conflict with the Fourteen Points as vitally as did those of France. The destruction of the fleet, the expropriation of the marine, the surrender of the colonies, the suzerainty of Mesopatamia―there was not much here for the President to strain at, even in the light of his professions, especially of England, whose diplomatic moderation as always was not hamperedby the logical intransigency of the French mind, was ready to conced in point of form whatever might be asked. England did not desire the German fleet for himself, and its destructionwas a phase of disarmament. The expropriation of the marine was a legitimate compensation, specifically provided for in the pre-Armistice conditions, for the lawless campaign of submarines which had been the express occasion of the America’s entering the war. Over the coloniesand Mosopotamia England demanded no exclusive sovereignty, and they were covered by the Doctrine of Mandates under the League of Nations.
Thus when the British Delegation left for Paris there semmed no insuperable obstacles to an almost complete understanding between the British and the American negotiators. There were only two clouds on the horizon―the so-called freedom of the seas and the Prime Minister’s election pledgeson the indemnity. The first, to the general surprise, was never raised by the President, a silent which, presumably, was the price he deemed it judicious to pay for British co-operation on other more vital issues; the second was more important.’(to be continued)
The answer is to be sought more in those intimate workings of the heart and character which make the tragedies and comedies of the domestic hearthrug than in the supposed ambitions of empires or philosophies of statesman. The President, The Tiger, and the Welsh witch were shut up in a room together for six months and the Treaty was what came out. Yes, the Welsh witch―for the British Prime Minister contributed the female element to this triangular intrigue. I have calldd Mr Wilson a non-conformist clergyman. Let the reader figure Mr Lloyd Georges as a femme fatale. An old man of the world, a femme fatale, and a non- conformist clergyman―these are the character of our drama. Even though the lady was very religious at times, the Fourteen Commandments could hardley expect to emerge perfectly intact.
I must try to silhouette the broomstick as it sped through the twilit air of Paris.’(‘Mr Lloyd Georges: A Fragment’; The collected writings of John Maynard Keynes, vol. 10, p. 21~22.)
国際政治は国益をめぐって政治的動物(ζῷον πόλτκόν)が跳梁跋扈する世界であり、国際協調は道具(ὄργανον)にすぎない。核廃絶も今なお寝言(ἀλλοδοξία)の類だ。[完]
このエッセイは「ヴェルサイユ条約」について書かれているので、前にも取り上げたが、第一次世界大戦は、国力をつけてきたドイツを「封じ込めたい。」という英、仏の戦略的色彩が強い。「ヴェルサイユ条約」締結前は、米国のウィルソン大統領が「すばらしい世界の新秩序を構築してくれるだろう。」とパリの市民たちは期待し、熱烈に歓迎した。確かに彼は、世界の新秩序「14の原則」を発表したが、それは、英仏の政治家の思惑と違っていたし、米国議会も米国政府の国際政治へのかかわりを快く思わなかった。結果として、戦争の責任はすべて敗戦国ドイツに押し付けられ、植民地を取り上げられ、高額の賠償金の支払い義務を押し付けられた上に、1930年代、米国はヨーロッパの政治から全く手をひいていた。ヴェルサイユ条約が、ドイツ人にとって、それはあまりに不公正なものに思えたから、そこに「ヒトラー」の政権基盤が生まれたのである。現在もよく似た状況にある。英国が、貿易赤字に苦しんで、中国で「アヘン戦争」を勃発させたように、米国、トランプ大統領も、力をつけてきた「中国」を封じ込めたいから、あのような経済措置を取るのではないのだろうか?あのように力に頼った不公正な政治の仕方では、「平和」は構築できない。やはり大事なことは、「正義と秩序」を基調とする「国際平和の構築」、なのではないのだろうか?
それはともかく、今年のDer Spiegel 26号に載ったという、“Stunde der Abrechnung”(「報復(決着)の時」)が含意する第一次世界大戦の全体像に関する認識は皮相にすぎるようだ。
商売敵の新興工業国であるドイツを封じ込めたいという動機が、特に英国に顕著だったことは事実だとしても、それは第一次大戦に限ったことではない。
ケインズの分析なら、「英国は過去のどの世紀にもそうしてきたように、商売敵を打ち破ったのであり、ドイツの栄光とフランスの栄光との間の、積年の争いにおける大きな一章が閉じられた」というのがドイツの敗北で終わった第一次大戦だった。しかし、ケインズが指摘するように、以上のことは入り口の一般論にすぎない。
「総力戦」(guerre totalale)という言葉を歴史上最も最初に使った人物とされるフランス首相のクレマンソー(1917年7月22日の議会での質問演説)が、フランスの勢力と安全とのために必要だと考えていた平和条約の実際の細目について検討するには、彼の生涯を通じて働いていた歴史的な諸原因にまで遡る必要がある。
つまり、普仏戦争以前には、フランスとドイツの人口はほぼ等しかった。しかし、ドイツの石炭や鉄、船舶はまだ揺籃期にあり、フランスの富は遥かに大きかった。アルザス=ロレーヌを失った後でさえ、両国の実物資源の間にさほどの開きはなかった。しかし、その後のドイツの急速な産業化に伴って、両国の相対的な地位が全く変わってしまった。
フランスにとって今回こそ英米両国の支援で何とか勝利を収めることができたが、欧州の内乱はこれを正常な、少なくとも将来もまた繰り返される事態とみなすべきものだとすれば、フランスの将来の地位は安泰ではあり得ず不安定さを免れない以上、今回の勝負が最後というわけにはいかないと、覚悟せざるを得ないもので、旧秩序は常に変わることのない人間性(ἡ φύσις ἀνθρώπων)に基づいて、本質的は変わらないとみるべきものだということを教える。
そうした見解や信念に基づけば、フランスの、そしてクレマンソーの取りうべき政策的な選択肢は論理的に導き出せる。米国大統領の掲げる14箇条のような、一種のイデオロギーに基づく寛仁大度の、あるいは公正にして平等な処遇による講和は、ドイツの回復期間を短縮し、ドイツがもう一度、より大きな人口やすぐれた資源と技術的熟練をもってフランスに襲いかかる日を早めるようなもので、だからこそ、講じられた保障のそれぞれがかえって刺戟を強め、ドイツからの報復の見込みを増すことにもつながることから、それを粉砕するためのさらに一層の備え、カルタゴ式講和の要求を増す、という帰結になる(‘The council of Four, Paris, 1919’ in “Essays in Biography”; The collected writings of John Maynard Keynes, vol. 10, p. 5~7)。
以上は、ドイツへの過酷な講和が将来に禍根を残すし、実際問題として現実的でもないとして職を辞して反対したケインズの分析を紹介したものだが、その予言は不幸にして現実となる。
だからドイツに同情しこそすれ感傷的になることは微塵もないし、各国首脳を俎上に載せて、その内奥にまで分け入る分析の冴えと表現力、論理の刃の鋭さは類をみない。クレマンソーの知性に敬意を表しつつ、その評価は極めて厳しい。
カルタゴ式講和が、実際に正しくもなければ可能でもないことを正確に見抜いており、「それが由来している一派の考え方は、経済的要因には気づいているが、にもかかわらず、未来を支配するはずの一層深い経済的傾向を見逃している」と斬って捨てる。時計の針を後戻りさせることはできないからだ。中欧を1870年代の昔に引き戻そうとするフランスの政策の矛盾を抉り出している。
ウィルソン米国大統領への評価も手厳しい。幻滅そのものである。そして「旧世界は、意地悪さにかけては一筋縄でいく代物ではなかった。旧世界の石の心臓は、最も勇敢な遍歴騎士の最も鋭い刃物さえ、鈍らせたことであろう。ところがこの盲聾のドン・キホーテが、すばしこくてぴかぴか光る刃を手にした敵の潜む洞窟へと入りこんできたのであった。」(‘The Old World was tough in wickedness, anyhow; the Old World’s heart of stone might blunt the sharpest blade of the bravest knight-errant. But this blind ant deaf Don Quixote was entering a caven where the swift and glitterring blade was in the hands of the adversary.’=ibid. p. 10~11)
勝負の行方は、その時点でみえていたのだ。[完]
同じ意味で、文在寅氏が韓国でしていること、「反日」を煽っている、ということは、日本人への「憎悪」煽っていることを意味し、極めて危険なのである。文氏は、ヒトラーがユダヤ人に対してドイツでしたことと同じ、「日本人への憎悪の感情」を韓国国内で増幅しているのである。それが、韓国内でどのようなことを引き起こすか、は火を見るより明らかである。ただ、文さんの場合も、ヒトラーと同じで、「戦略」というよりも、「信念」なのではないのだろうか?朝鮮戦争によって、故郷から引き離され、済州島で極貧に近い生活を余儀なくされた。自分の運命がこうなったのは、日本のせい、と思われているのではないのだろうか?学生運動をしたことで、裁判官にもなれなかった。つまり、「元徴用工」の韓国の大法院の裁定は、彼の考えと同じだから、変更する必要性を認めず、あのような発言になるのだ、と思うが、このような大統領をもつ、韓国という国は、日本にとって極めて危険な国だと私は思う。
それを今回焦点になっている韓国を輸出優遇国リストから外す日本側の輸出管理の見直し策について、ある政治的意図から韓国側が過剰に反応し、文在寅韓国大統領が2日の臨時閣僚会議で「明白な経済制裁」と安倍政権の対応を批判し、一昨日5日は、北朝鮮との経済交流を促進することで大幅な輸入超過である日本からの部品輸入に依存しない自立した経済構想を打ち上げ、対抗意識を剥き出しにしている。
主に国内向けのメッセージで、一度振り上げた拳を簡単に下ろすこともできず、確たる展望も描けないなかで、経済的失政を重ねていることへの反省もなく、ただ言葉が躍っている印象の如何にも軽率な発言だが、それで支持率を維持しようと躍起になっている(προθυμέομαι)のだから、滑稽である。
先にも「賊反荷杖」(チョクハンカジャ=「盗人猛々しい」[ὁ τοῦ κλέπτου λόγος])なる表現(ῥῆμα)で支持者を煽っている。朝鮮語のネイティヴの感覚だと悪いことをしたり、発覚したりして「居直る」程度の意味で、日本語の「盗人猛々しい」というほどの強い意味はないようだが、ギリシア語の[ὁ τοῦ κλέπτου λόγος]が「盗賊の論理」を意味するように、翻訳によって煽情的なニュアンスが強まるのかもしれない。
耳で聞くと「チョッパンカジャ」と聞こえ、口から唾を飛ばして言い募るイメージがある。
この朝鮮民族特有の表現は単なる恨み(ἐπονείδιστον)や怨嗟(φθόνος)の感情とは異なり、相手に報復して(τιμωρέω)「晴らす」だけではない、自他に対して自ら解消、即ち「解く」、抑圧され傷ついた感情のもつれを示す情動(πάθη)なのだという(朝鮮哲学の専門家小倉紀蔵氏)。
パトス(πάθος)という点で情動には違いないが、そこには「ハン」を「自力で」(καθ’ αὑτό)打開する(εὐπορέω)、つまり解消できない自らに対する無力感、もどかしさ、悲しみ、無念の情が、怨恨と一体になっている。自らに対する「憾み」の層が根底にある、ということだ。英語で言えば傷つけられ、嘆き苦しみ、怨嗟(φθόνος)の情を差し向ける憤激(grievance=θυμός)に近い。
それは明らかに歴史上、さまざまな屈辱(λοιδόρημα)を嘗め、忍ばざるを得なかった弱者(ἥττονων)の感情であるがゆえに屈折しており、ちぢに乱れる感情のもつれが噴き出す印象だが、一種観念的でもある。
慰安婦に関するスタンスにしたところで、慰安婦の実像を離れて、旧日本軍兵士の「性奴隷」というイメージが先走りして、実際の慰安婦たちを置き去りにしている印象さえある。
7割近くの元慰安婦が先の日韓合意に基づいて「補償金」を受け取っていることと合わせ、自己膨張した慰安婦像も、後から構成されたもの、つまり、事後につくり上げられた虚像(εἰκός)を含めた「物語思考」(εἰκός λόγοι)の産物という側面も否定できない。歴史認識にはそういう側面がある。
歴史認識とは必ずしも客観的な事実判断ではなく、特定の価値観による記憶と想起の構築物だからだ。
2日に「日本に二度と負けない」などと国民の自負心(φρόνημα)をくすぐる冗語を並べていたのに続き、5日にも「『過去を記憶しない国、日本』という批判を日本政府自身がつくり出している。日本が自由貿易秩序を乱したことへの国際社会の批判も極めて強い」として、時代錯誤の日本製品不買運動の広がりを座視している自らの二重基準を頬被りした。
こうした、一国の最高権力者には稀な相手国批判を、リスクも顧みず行うことには、文政権を支える支持基盤へのアピールというより阿諛追従がある。それにもまた、党派(συνωμοσία)の論理で動く、朝鮮民族特有の論理だ。
従って、現実は「反日」を煽っている(ἐφίημι)ようで、実は国内向けのメッセージ発信に利用しているに過ぎない側面がある。危険なゲームだが、元々安全保障も経済復興も他力本願の強い国だから、内在的に理解しないと真相を見誤る。
そうした民族的な土壌を措いて、文氏個人の資質に着目すれば、何と言っても政治的盟友だった故盧武鉉大統領の影響が大きい。それを理想主義者の「道徳的素人主義」(「君主不器」)の政治と名づける専門家もいる。
韓国社会は任期一期5年の大統領の交代とともに5年に一度生まれ変わる社会であり、盧武鉉氏を大統領に押し上げたのは所謂「三八六世代」、「2030世代」に象徴される「市民の参与」=政治参加の熱気だった。その楽天性、というかナイーヴさは類がない。そこに、儒教的教養を体現した士大夫(サデブ)の精神が垣間見える。
「正しいことは通じる」というお目出度さ(εὐήθεια)、つまり独善性(λῆμμα)は、大統領の如何にも軽薄な薄笑いの中に潜んでいる。
彼らは、国際政治の酷薄さを知らない。だから臍を噛む。[完]
屈辱的な植民地統治の記憶や歴史的評価が絡むということであるが、アジアで植民地にならなかったのは、日本とタイだけである。他のアジアの国々は、すべて植民地になったのである。ヨーロッパでも、ポーランドはドイツの植民地になっている。「ホワイト国」の評価についても感じたことであるが、欧米は韓国を「ホワイト国」と認定していない、という事実を全く重視しない韓国は異常なのではないのだろうか?自分たちの国の「貿易管理システム」が、欧米で日本の「貿易管理システム」ほど信頼されていないから、「ホワイト国」判定されていないのであって、自分たちは、今まで「日本に優遇」されていたのだ、と自覚し、日本からの評価が下がり、ランクが下がったら、「屈辱的だ」、と反発するのではなくて、自分たちの「貿易管理システム」のどこが悪いのか、考えるべきなのではないのだろうか?日本の「国際連盟」脱退も、北朝鮮の「国際連合」による経済制裁も、同じであるが、本来それが、「国際協調」の在り方なのである。
(追記)家事をしながら「ワイドショー」を見たので、「展示」の表記が間違っていてすみません。正確さを期すために、反氏のコメントにある名称をコピペさせていただきました。さすがです。
私から見れば、韓国の現在の繁栄は、米国軍を中心とするによる「朝鮮戦争」と日本による「経済援助」のおかげで、西ドイツ人が、米国、英仏に感謝したように、韓国人もそうあるはずだ、と思うのであるが、それがない。「反米左翼」の日本の進歩的知識人も似たようなところがあるが、「日本に二度と負けない」と主張し、「『過去を記憶しない国、日本』という批判を繰り返す。彼らの事実認識は、イデオロギー優先で、現状認識が相当歪んでいるのではないのだろうか?
軽率な思いつきで自己に都合がよい構図をもち込んで(hineinlegen)論じるから、荒唐無稽な法螺話になる。
北朝鮮の核について、盲目的に(τυφλόστομος)危機感を募らせていることを含めて、その言辞は誇大妄想的な誇張(ὑπερβολή)が著しい「悲憤慷慨」(ὀργή καί θυμός)の趣で、どこか虚ろに(κενός)響く。薔薇の指さす(ῥοδοδάκτυλος)「曙」(φᾶνή)から、何もそうカッカして(ἀγωνία)、怒り(θυμός)に我を忘れた(ἀσχολεῖσθαι)かのように本欄で怒りを募らせる(θυμοφονέω)のもどうかと思う。血圧が上がりますョ。
その様は、地を叩いて悲しみ(λύπη)や悲嘆(θρῆνος)を訴える韓国、朝鮮の民と選ぶところはない。そうした人々が、いろいろの策謀(ἐπιβουλή)に乗せられて、民主的手続きである選挙(ἀρχαιρεσία)を通じて、文在寅氏のような人物を国に最高権力者に選んだ。彼も一種の「誇大妄想狂」だ。
「平和の少女像」のような、ナイーヴで情動過多の見え透いた(εὐθεώπρητος)嫌がらせに怒りたい気持ちは分かるが、ソウルの日本大使館の前に設置されたような、外交儀礼上の侮辱行為とは異なる。
「芸術作品」か否かは措いて、美術館に展示された程度のことで血相を変えることもない。それ自体は、アーチストによる多様な表現の中の一つで、特筆大書する必要はない。
創作家(ποιητής)としては卓越した才能を有する人物でも、その政治認識は幼稚(νήπιος)で愚かな(ἀμαθής)人物を探し出すことは難しくない。芸術に人間の活動領域の一つとして他に比して特段の価値(ἀξία)や意味(διάνοια)を要求できるわけでもない。アーチストを有難がる世の風潮はともかく、それは社会の中で消費され、やがてそのほとんどは忘れ去られ、歴史の闇に埋もれてしまう他愛もない(ῥᾳθυμηος)ものだ。「平和の少女像」に真の芸術作品がもつ卓越性(ἀρετή)が欠けているように。
「平和の少女像」は、政治的な闘争(ἀμφισβητεῖν)の道具(ὄργανον⇒διὰ τίνος[「何を方策として」の謂い])だからだ。
そもそも現在の日韓の対立を、45のように戦前の日本とアジアを植民地支配した欧米各国との対立の構図で描くことに、何の意味もない。そうした類比によって(τῷ ἀνάλογον)この問題を語ることは見当違いも甚だしく、あまりにも粗雑な傾向的議論でしかない。
「反日」と「鬼畜米英」=「反英米主義」を同一次元で並べても無意味だ。素人の歴史的議論によくある、俗悪な(φαῦλος)類比(ἀναλογία)による、一種のモデル思考ぐらい、 およそ「現実」を無視した、嘲笑されるに値する(χλευαστικός)、莫迦げたもの(τὸ καταγελάσιμος)もない。
アジアで欧米列強の植民地化を免れたのは、45⇒【日本とタイだけ…他の…国々は、すべて植民地】というが、朝鮮の民にとって屈辱的なのは当のアジアの一員であり、東アジアの伝統的な華夷秩序の中では下にみていた東贏の日本に併合されたことだ。欧米のそれとは次元が異なる。
「現状認識が相当歪んでいる」ことに無自覚(ἀγνοέω)なのは、カ氏も同じだ。
「芸術作品」も、政治体制に影響を与えるのである。戦後、東独では、社会主義体制を賛美する「劇」が多数上演されたようだし、戦中の日本も、軍歌などで戦意を煽った。また、ナチスが「ワーグナーの楽劇」を使って、ナチズムを煽ったのは、周知の事実である。ワーグナー自体も、ユダヤ人たちが実権を握るパリで自分のオペラが認められなかったこともあって「反ユダヤ主義者」であったし、国粋主義者になったが、「ユダヤ民族を抹殺すべきだ。」という主張はしていない。ヒトラーが、「ワーグナーの音楽」を使って、ドイツ国民をその気にさせたのである。ニュールンベルグのナチスの党大会で、「ベートーヴェンの第9を聴いたように」鳥肌がたった、と当時のナチスに心酔していたドイツ人の感想が示唆深い。そういう面であの「平和の少女像」は危ないのである。
私はつくづく、欧米の強国と「対等関係に立とう」とした明治時代の日本の政治指導者は偉かった、思うが、ことほど左様に、「政治指導者の人選」は大事なのである。正しい選択をする為には、マスコミの主張を無条件に信じるのをやめて、もう一度自分で考え、おかしな理論を「世論」にしたり、おかしな人を「国民の代表者」にしないことが、一番大事なのではないか、と思う。
というように論理的に矛盾することを平気でテレビ解説しているのを見て、本当に法学者なのかと疑わざるを得ない。自分の都合の良いように、好いとこ取りをする平凡な市井人と変らないのではないか?
TVそのものも、「少女像」以外にも糾弾されたという展示物の映像を放映しなかった。そこにある種の作為性があったように思われる。視聴者に判断材料を与えるという正論を述べながら、「表現の自由」を論じるには、ちょっと偏向した番組であったと思う。
篠田先生の「憲法学者の病」によると、東京大学の憲法学者の宮澤俊義さんは、1941年12月8日の日米開戦の日、このような発言をしている。「だいたい、アングロ・サクソンほど虫のいい人種はいない。・・アングロ・サクソン人のこういう虫のいい考えが根本的に間違っていることをぜひ今度は彼らに知らせてやる必要がある。・・願わくはこのたびの大東亜戦争をしてアジアのルネッサンスの輝かしい第一ページたらしめよ。」。この発言が、どれほど、「奇跡でも起こらない限り、日本は負ける。」と同じ日に発言された私の尊敬するジャーナリストのリジェンド、楠山義太郎さんの現状認識といかに違うか。宮澤さんのまとめられた「日本国憲法」草案、松本甲案には、「国民主権」の重要性も、現在の護憲派のような「絶対平和主義」はみじんもないのにwww.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi001.pdf/$File/shukenshi001.pdf 、芦田均さんが中心になって修正された「日本国憲法」が公布されたとたん、なぜ「8月革命」や「絶対平和主義」を、さも大事なものであるかのように主張されるのだろう。
韓国が、「反日」のロビー活動を欧米で繰り広げているそうであるが、それに日本の憲法学者も参加している。篠田先生の7月28日付のブログ「まず、憲法学者を議論に引きずり出すべきではないか」http://shinodahideaki.blog.jp/archives/32750546.html#commentsコメント10で紹介したが、7月19日に南ドイツ新聞に掲載された東京特派員Christoph Neidhartさんによって書かれた記事によると、安倍首相は、日本の民衆に好かれていない首相であり、メデイアを軽視し、民主主義を空洞化させ、7月の初めから、政治的な目的の為に、韓国との間で貿易戦争を始めている、そうであるが、その記事をあの憲法学者が7月29日付のHPで紹介している。その憲法学者は、その報道にかかわったか、少なくとも、同じ認識をもつから、南ドイツ新聞掲載という、ドイツでの「反日のロビー活動」の記事を紹介するのではないのだろうか。木村草太教授の「愛知トリエンナーレ」の展示物に対するテレビ出演も、同じものを感じる。
ドイツは、米国からのホルムズ海峡への軍隊の派遣を断ったが、これができるのは、ドイツが集団的自衛権のある軍隊をもち、英米仏の協力も元、世界平和の為に、軍隊を送る意志はある、ことをこれまでの実績で国際社会が理解しているからである。いつまでも「絶対平和主義」、実質、「一国平和主義」のような、現実無視の日本のやり方は、国際社会では通らないのではないか、と私は思う。
何らかのものに固執する(ἐπιθυμέω)のは人間の本性(φύσις)で取り立てて驚く(θαυμάζω)にはあたらないが、カ氏はものごとの軽重(καῦφοτης καὶ βαρῦτης)を入念に(ἱκανώς)に注意深く扱う(εὐλαβέομαι)質ではなさそうだし、精神の平衡感覚(συμμετρία)を欠いているから、ある種の自覚されざる「無知なる者」(ὁ ἀμαθτής)に止まり、それを取り繕うことに汲々とするから「虚飾の人」(χαῦνος)であり続ける。
直接経験や体験(πείρα)は、それが充分に検証(ἔλέγχω)され、確実な知識(ἐπιστήμη)にならなければ、意味はない(μάτην)。
われわれが議論を通じて目指すべきものとは、理論的な「必然である存在」(τὸ ἀναγκαῖον)ではない、実践理性(ὀ πρακτικὸς νοῦς)上の「人間的な善さ」(τἀνθρώπινον ἀγαθόν)にかかわる「許容しうる存在」(τὸ ἑνδεχόμενον)でしかない。
その意味で言えば、シナを中心とする東アジアの儒教文化圏の文明の論理=華夷秩序から言えば、日本はその末端に位置する東贏に浮かぶ東夷であって、儒教が国策の根幹になった歴史はない。
江戸時代に朱子学を護国イデオロギーとして採用したことはあったが、それも正統(ὀρθός)ではない特異な形態においてだ。
それは、儒学のルネサンスである朱子学を国家経営に根幹に据え、日本による併合(1910年)=植民地化まで、江戸時代の倍近い500年以上続いた朝鮮王朝(1392~1910)を貫く基本的認識だ。
東アジア最大、最長の文化的イデオロギーである儒教の文化圏は、そうした「華夷」秩序で構成される。李氏朝鮮はその強烈な信奉者で、儒教文化の故国シナが、元や女真族(清)に征服されるなかでも一貫して東亜の文化的伝統を守り抜いたという「自負」(φρόνημα)がある。周縁の夷狄(非文明圏)である日本の下風に立つことへの屈辱(λοιδόρημα)意識が、いかに彼の国、民族において根深いかの歴史的、文明的背景だ。
シナ文明の正当な継承者として「小中華」を任じる朝鮮民族の矜持(μεγαλοψυχίαは、遺憾ながらその点で日本に抵抗感があるのは否めないし、どうしようもない。夷狄=非文明人=蛮族(βάρβαροι)が基本であり、「歴史観」とはそうしたもので、客観的基準などない以上、勝手にさせておくしかないのである。なぜなら、日本の文明的伝統が世界の標準、普遍(καθόλου)になったことなど、歴史上一度もないからだ。
シナ大陸中原の文化・文明が中心(華)であるとする「華夷秩序」(「文化」とは語源的には、中華文明の「文徳による感化」の謂い)の正統な継承者は、清代以降、シナより朝鮮であるとする強烈な文化意識が朝鮮王朝によって純粋培養され、善くも悪くも国家アイデンティティーとなり、自負心と同時に足枷になったことが、欧米列強が本格的なアジアの植民地支配に乗り出した時期に有効な近代化策を打ち出せなかった根本的要因になる。
時代の環境変化に対応できなかったがゆえの停滞で、彼らなりに、途方もない自負心に基づく文明国意識ゆえの代償(ἀμοιβή)を充分に支払ったとも言える。
シナを宗主国、周辺国を朝貢国とする華夷秩序は、近代の場合は清が盤石であれば、朝貢の見返りに各国の支配地域を「冊封」されることで安全保障上の緊張関係が緩和され、低コストで済むという、ある意味で合理的な宗属関係だった。
近代的な「支配―被支配関係」ではないため、特段の問題は露呈しなかったが、清自体が欧米列強の蚕食を許すようになった結果、19世紀前半まではシナを中心とする東アジアの伝統的な国際秩序が、欧米列強による近代的な「力の支配」(δεσποτεία δύναμις)を「正義の論理」(δίκαιος λόγος)とする帝国主義的な秩序(κόςμος)によって圧倒されていくなかで、逆にそれが桎梏(ἀμοιβή)になっていった。
新たな対応を迫られたにもかかわらず、朝鮮にとってそれは容易な選択ではなかった。そこにも、朝鮮併合を必然化する過酷な国際性にの論理があった。
素朴な実感信仰からはみえない論理で、それもまた一つの「現実」だ。[完]
水は高い所から低い所に流れるように、文化も逆はあり得ず、シナを中心とした文明観、孔子が礼讃した⇒「周の文化=文明=華(中原の文明=中華)」ということを念頭に置けば、所詮は「東贏の島」にすぎない日本に文明の基準などはない、というのが東アジアの歴史だということだ。ということであるが、ほんとうなのだろうか?ヨーロッパの歴史は、どう見るのだろう。ヨーロッパの「キリスト教文化」も、やはり、ローマ、イタリアが中心である。低いところにある、遠い島国のイギリスは、北贏の島国で、その中間のフランス、ドイツは、朝鮮にあたるのかもしれない。けれども、そのようなことをフランスやドイツは主張しているだろうか?イギリスも日本も言えることであるが、海で隔てられているからこそ、独自の文化を生み出すことができたのである。
日本の1910年の朝鮮併合についてであるが、李朝朝鮮の場合、現実的に見て、李朝は、独力では国家経営ができなかった。中国は反植民地で、国力が落ち、李朝に援助できなかった。もう一つの選択はロシアの植民地になることであるが、朝鮮人にとってどちらがよかったのだろう?反氏は、儒学のルネッサンス、と主張されるが、ムンジェイン大統領は、「韓国」の統治方法として、「朱子学」を国家経営の基盤にすえることを本当に望んでおられるのだろうか?私には、「進歩知識人」、現実が見えていない反日の左翼の政治家としかみえない。
第二次世界大戦では、日本が、外国の土地を戦場にして、中国人をはじめとする東南アジアや南方の島の人々に悲惨な戦争体験をさせてしまったが、日本の国土が、外国勢力の戦場になる場合、武力によって併合される場合もあるのである。日本は、今まで、日本に世界で一番の軍事大国の米国の基地があり、日米安全保障条約を結んでいたことが、抑止力になって侵略されていないだけで、ウクライナのクリミア半島は、ロシアに侵略されたし、核兵器をもつ、武力で朝鮮半島を制圧するために朝鮮戦争を始めた過去を持つ北朝鮮もわからないのではないのだろうか?日本国憲法の9条の条文がこのままでいいのかどうか、国会議員や学者の論議を十分にきいて、国民が決めることができることが、「本当の」意味の民主主義であって、憲法学者やマスコミがその「権威」や「影響力」で自分の意見を押し付けることを民主主義とは呼ばないのである。
そもそも、「イデオロギー」抜きで歴史をみる、ということ自体が、カ氏が安易に考えるほど容易ではない。「歴史的な事実の組み合わせ」と言うが、歴史上の事実(ὅτι)は必ずしも一つではない。何が真実(τὸ ἀληθές)かをめぐって、常に(αἰεί)意見(ἔνδοξος)の対立(ἀντίθησις)があり、立証(πίστις)が不可能(ἀδύνατον)な相容れない(ἐναντιότης)主張(ἀπόφανσις)、主観的な臆測(ψευδὴς δόξα)の類が並立する。
自衛隊の哨戒機に対する韓国艦船の火器管制レーダー照射問題のように見えやすい「事実」もあるが、それにしたところで、日韓で決着がついていない。別途客観的なデータや証拠をもっていると推測される米軍が「事実」を示し、裁定を下す(κρίνω)気配もない。それが現実(ἔργον γιγνόμενον)というものだ。
ましてや記憶(μνήμη)と想起(ἀνάμνησις)が絡む歴史上の出来事(ἔργον)の真実や真相(ἀληθῆ)なるものを追求する(ζητεῖν)ということには別種の困難(ἀλλοῖος ἀπορία)が伴うことは、歴史認識をめぐる対立でも分かる通り避けられないのも、ものごとを「現実的に考える」(διανοεῖσθαι κατὰ ἐνέργειαν)うえでの前提だろう。
「本来の『歴史学の姿』」など、そう容易には見出せないし、相手がそれを承認したり(στέργειν)同意する(ἔπαινεῖν)ことも難しいのが実態だ。
19世紀にドイツで盛行し、多くの成果を上げた、ニーブルやランケ以来の実証主義的な歴史学にしたところで、つまり学問(μάθημα)としての歴史学というのは精密な仮説の集合体であって、歴史の多様な側面について多くのことを教え、示唆するけれど、必ずしも歴史の真相を反映しているわけではない。価値判断(Werturteil=Beurteilung)をできるだけ排除しようとするその姿勢が、かえって歴史の真相から人々を遠ざける面がある。歴史自体が客観的なものではないからだ。
相互承認(τὸ ἐνδεχόμενον)が可能な歴史上の「個々の事物」(τὰ καθ’ ἕκαστον)があったとしても、それで直ちに歴史となるわけではなく、歴史は常に修正可能な構成されたもの(τὸ σύνθετον)だからだ。
近代実証主義歴史学の故国である当のドイツにしたところで、第二次世界大戦の敗戦が決まった1945年5月8日を、国家の公式的イデオロギーとしては、第三帝国の不正な(ἄδικος)統治から「解放された」日という「まことしやかな物語」(εἰκός μῦθος)を説き、保守派を中心に1932~45年の悪しき(κακός)ドイツは自らの固有の責任(αἴτιον)、罪悪(κακία)ではない、と大統領が敗戦40周年記念演説で強弁するばかりか、それに疑問を呈し自由な研究による実態解明を志向する研究者を批判しているくらいだ。
カ氏の生真面目(σπουδή)そうにみえて実は偏狭(ακληρός)な歴史観は、本人にとっては一見明白な事実(τοῖς φαινομένοις)で真っ当な(ὀρθότης)ものにみえて、実は天に唾する行為なのである。
唐や百済や新羅、高麗ならともかく、基本的に非宗教的民族であるシナを貫くのは宗教的要素の希薄な儒教であり、民間信仰としての道教である、という程度の認識がないらしい。朝鮮王朝においては仏教寺院は山谷に追いやられ、その欠落を補ったのが呪術的シャーマニズム信仰(巫俗[ムソク]信仰)だということだ。
60②⇒【反氏は、儒学のルネッサンス、と主張されるが…】も無知ゆえの発言で、朱子学、別名「宋学」が儒学を東洋的近世である宋代において再興するルネサンス運動だったことは学問的常識で、朝鮮王朝の建国のイデオロギーとして朱子学が採用され、朱子学による国家改造が進んだことを指して「儒学のルネサンス」と称しているわけではない。
文在寅政権はかつての盧武鉉政権同様に、政権中枢を形成する急進的改革志向の理想主義者たちが、朱子学的理想の体現者=士大夫(サデブ)である科挙官僚の理想像「君子不器」、つまり専門家(「器」)ではない「不器」=ジェネラリストこそ政治の主体となる正統性(ἡ ὀρθότης=orthodoxus)を担う、という「朱子学的思考」が基底にあるから「朝鮮化」の側面があると指摘しているわけで、カ氏にみられるような、甚だしい無知(ἄγνοια)、無学(ἀπαιδευσία)にもほどがある。
まず、学問や芸術に加え、民主制の先駆になるなど、その高度の達成と固有の文化的潜勢力により欧州文明の基礎をつくったギリシア文明は、後発で「女と乞食」(γυνή καὶ πτωχός)、漁師と大工(ὁ ἁλιεύς καὶ οἰκοδόμος)の宗教と揶揄されたキリスト教とは基本的に関係ない。ローマがキリスト教を国教化する過程で、キリスト教の教義(δόγμα)がギリシア哲学の用語と概念を駆使して世界宗教に相応しい神学体系を具えるようになって以降、独自の進化を遂げたということだ。
ローマにしたところで、‘Graecia capta ferum victorem cepit’(「征服されたギリシアが野蛮な征服者を捕らえた」=Cicero, Tusc, 2, 15, 36)と称されるように、その内在的力で文化的にローマ征服し、教化したわけで、古来のシナが周縁の夷狄(βάρβαροι)である征服民族を文化的に教化=文明化してきたことと類比的だ。
現在のギリシアがEUのお荷物であり、長らく異民族の支配に甘んじてきたことと、ギリシア文明の価値は何の関係もない。カ氏の素人論議(τὸ ιδιωτικόν)の無邪気な欧州文明観は、嘲笑(ὀλιγωρία)の対象で愛かない。
そもそも、現在のギリシア本土に住む、所謂ギリシア国民の大半は古代以降に流入したスラブ系で、プラトンやアリストテレスの後裔ではない。古代のギリシア人はクレタ島など島嶼部に追いやられたのが実情だ。[完]
単なる学徒とはいえ、西洋古典学の専門家の端くれとしては、誠に不注意な誤りで、汗顔の至り。間違えた理由は至って簡単で、手持ちのラテン語辞書、A Latin Dictionary; Founded on Andrews’ Edition of Freund’s Latin Dictionary. Revised, Enlarged, & in Great Part Rewritten by Lewis, C. T. & Short, C., 1975.の、『広辞苑』より遥かに細かい字を斜め読みした結果(888頁左欄)、目測を誤ったため。
もっとも、標記の句はあまりにも有名で、ラテン語の初歩の文法を学ぶ際によく出される用例だから、本来は間違えるはずもないが、うろ覚えの出典元と違うので、「変だな」と思って、最初に記述したキケロの該当箇所を、これも手持ちの羅独対訳本(M. T. Cicero, Gespräche in Tusculum, Tusculanae Disputationes: mit ausführichen Anmerkungen neu herausgegeben von O. Gigon, 7 Aufl., 1998)を覗いたら、該当箇所に一向に当該句が出てこないので気づいたという事情。誠に、恥ずかしい。
なお、cepitは、「捕らえる、占領する」を意味する動詞capioの直説法能動態完了の三人称単数で、捕らえたとは「魅了した」という意味。群小の都市国家からなるギリシアはマケドニアに敗れて独立を失った後も、アレクサンドロス大王の死後、大帝国が分裂し5人の後継者による分割統治になるが、ギリシアとマケドニアの支配者となったアンティパトロスを嫌ってアテーナイの民衆は抵抗運動を続け、結局その漁夫の利を得る形でローマの侵攻を招いた。
ただ、アテーナイを核とするギリシアの文化・文明力は高度で、どの地域でも指導層のギリシア熱、ギリシアかぶれが目立ち、征服者の祖国に新たな文化を形成する原動力となった。
政治的には滅びても、ギリシアの文化的遺産は世界標準の普遍性を有し、不滅だったことになる。
このイデオロギーは朱子学とはまるで関係がない。
偏ったイデオロギーに翻弄されなければ、歴史の実像が見えてくるのではないのか、と私は思う。
この「ポツダム宣言の受諾」は、9月2日東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言ははじめて外交文書として固定された、とある。私が尊敬する国際派ジャーナリストのリジェンド、楠山義太郎さんは、この重光葵さんに日本を立て直すために協力してくれ、と頼まれた、とおっしゃったことがあったが、私は、戦後のマスコミ界で、左翼の政治活動家の意見ではなくて、良識的な楠山義太郎さんの見解がもう少し重用されていたら、日本のマスコミ報道は、もっとまともなものであった、と思う。
参考:ウィキペデイア ポツダム宣言 https://ja.wikipedia.org/wiki/ポツダム宣言
「征服されたギリシアが野蛮な征服者を虜にした」‘Graecia capta ferum victorem cepit’、と言えば、ローマの詩人ホラティウス(BC 65~8)は、ギリシア熱を苦々しく思っていた伝統的ローマ人気質(ラティウムの農民気質)の大カトー(BC234~149)が、ローマの頽廃を招くとの恐れからギリシア文化を排撃したのを代弁したとも言える。
実際にギリシア文化は、必ずしもローマを弱体化させはしなかったが、伝統的な価値観を蚕食していったことは事実かもしれない。
五賢帝の一人でストア派の哲学者でもあるマルクス・アウレリウス(121~80)は、『自省録』(‘‘τὰ εἰς ἑαυτόν’’)をギリシア語で書き残している。ラテン語で著作したカエサルでさえ、公式の場での会話はローマ支配層の習慣でギリシア語だったとされ、暗殺された際のいまわの句、‘et tu, Brute?’( 「お前もか、ブルータス」)も、実際はギリシア語で(‘Καὶ ού, Τέκνον’)だったとされる。
著名なイタリア人歴史家は、それを「平民には宗教と演劇、上流階級には哲学と芸術を武器として、ギリシアは征服者を逆に征服する」と皮肉る。紀元前197年のキュノスケファライの戦いでマケドニア軍を破り、のちのギリシア征服への道を開いた名門貴族のT. フラミニウス(BC c 229~174)は、ギリシア文化に心酔した、今日で言えば「進歩的文化人」だった。
プルタルコスの『対比列伝』には、敗れたマケドニア王フィリッポスを殺さずに王位を回復してやり、全ギリシアの代表者を呼び、解放宣言を下す。曰く「ギリシアの人民と都市は今後完全に自由だ」と。
ローマはその後もギリシアに対する寛容策を継続し、内政にも干渉しなかったが、反ローマの「正義の戦い」を訴え民衆を煽動した(ἐφίημι)マケドニア王ペルセウスの下、ピドナの戦いで敗れ、その同調者だった1000人のギリシア知識人も人質としてローマ送りになる。
いつの世も、歴史は過酷だ。
私は、とてもそうは思えないのである。それは、例えば、朝鮮と台湾には、日本の帝国大学があり、朝鮮や台湾の知的エリートが大学教育を受けていたし、義父の話によると、旧制高校にも、朝鮮からの生徒が在籍していたからである。奴隷にするのなら、なんのために、国費を出して、高い教育を受けさせるのだろう。ウィキペデイアで植民地を見ると、英米と違って日本とフランスは、同化主義が強かった、とあるし、ハプスブルグ帝国の末期もそうだった。だからこそ、ヒトラーに不満がたまったのである。私は、普通の日本人は、マスコミの作り上げた「世論」に騙されているのではないか、と思うし、事実から真実を追求し、「戦後の歪んだ歴史教育を受けた韓国人」に伝え、「ムンジェイン的考え方」を是正するべきだと強く思う。
憲法をめぐる憲法学者の解釈(ἐξηγέομαι)の作法(τέχνη καὶ μέθοδος)についても、大して興味がない。見え透いた(εὐθεώπρητος)、論理形式的に真理値(truthe values=真偽[ἀληθής καὶ ψεῦδος] )が成立しない、「虚偽的な命題」(ἡ ψευδής προτατικός=a false proposition)であるのが主たる理由で、篠田さんが説くまでもなく事実上の答えは既に出ており、思考経済上、別途の解を要する必然性(ἀνάγκη)が見当たらない。
よって、その真偽を問うこと自体が無意味(ἄσημος)だし、憲法解釈における対立(ἀντίθησις)、というか混乱(ταραχή)は、実際のところ条文自体の枠外にあるとみて差し支えない。
一見して深刻のようにみえる解釈の「多様性」(ἡ ποικιλία)は、条文から過不足のない意味を取り出す(herauslegen)より、畢竟各自の「憲法観」という名の思い入れ(δόξασμα)や思想(διανόησις)、願望(βούλησις)を条文にもち込む(hineinlegen)、つまり「そうあれかしと望む」(προαιρεῖσθαι)ことの個別的な表現(ῥῆμα)でしかない。
「オッカムの剃刀」(「数多性は必要でなければ措定されるべからず=‘Pluralitas non est ponenda sine neccesitate. Frustra fit per plura quod potest fieri per pauciora.’)ではないが、無駄口はほどほどにして、憲法を人質(ὁ ὅμηρος)にとった解釈論(ἐξηγέομαι λόγος)過多の現状の安全保障論議は見直すべきだ。
宮澤俊義の「八月革命説」は憲法の護教的(σῦνήγορος)イデオロギーとしては破綻しており、憲法の神学(θεολογική)として有効性(τὸ κῦρος)を主張できない。
憲法学通説を主導し、アカデミズムのみならず、行政や法律の実務者養成課程にも深甚な影響力を及ぼすことで、制度化した法律家共同体の解釈の正統性を事実上独占する優位性を確立している学界主流派の影響力は圧倒的だ。
解釈に際してドイツ国法学(Staatsrechtslehre)的概念構成で憲法を再構成する技術的不当さを含め問題点は多いが、それを放置してきた政治や国民の側にも、日本的な欺瞞と退嬰性が際立っている。
制定過程からみて、現憲法は「ポツダム宣言」に盛られた敗戦の代償(ἀμοιβή)としての戦勝国による日本改造プログラムの具体化という意味で、有無を言わさぬ力ずくの(κατὰ τὸ καρτερός)戦後処理であり、平和構築であることは論をまたない。
勝者(ὁ νικῶν)が体現する「正義の論理」(δίκαιος λόγος)によって、日本は戦争の一般的禁止規定であるパリ不戦条約や確立した国際の法規範、即ち国際の「法の支配」(δεσποτεία νόμος)への許されざる挑戦者、反逆として厳しく指弾された。
しかし、その内実は英米仏など先行する帝国主義列強の「強者の論理」(κρείττονος λόγος)による既得権益の維持、正当化であって、現憲法は「配給された自由」の象徴に外ならない。それを、日本語の普通の意味で「押し付け」という。
占領下の審議、制定、施行といい、占領者の意向が貫かれており、日本人による微々たる修正をもって、その主体性を主張することには無理がある。
今年100年になる「3・1独立運動」は併合前の出来事だが、火種が燻っていたことは明白だ。朝鮮併合には消極的だったとされる初代朝鮮総督伊藤博文の狙いは、事実上「有名無実化」したとはいえ、植民地統治にとって障碍でしかない朝鮮王朝の「解体」だった。
連合国の一部、ソ連や豪州などに天皇の戦争責任を問う声が根強かったものの、戦後統治をスムーズに進める道具として天皇制存続を「政治的に」(πόλιτικῶς)選択した戦後の米国とは際立った違いだ。
大韓帝国政府軍の解体の3カ月後(1895年10月)、高宗の妃で純宗の生母・明成皇后、所謂「閔妃」が日清戦争後の三国干渉を主導して日本と対抗したロシアと結び、高宗の父で摂政だった大院君と対立して国政の主導権を奪って王妃の縁戚が国政を牛耳る「勢道政治」で日本に敵対した結果、大院君を担いだ日本の策謀によって惨殺される事件も起こっている。日本側の強引な、併合前の強行策が軋轢を引き起こしたことは「事実」だ。
事件は米露の二人が目撃して駐在外交官の周知の事実なったが、日本が朝鮮側に圧力をかけて朝鮮人犯人を仕立て上げてもみ消し、外交問題に発展するのを阻止した。前任者に代わって弁理公使として急遽派遣された小村寿太郎(その後、朝鮮駐在公使)が動いた。小村はその後の混乱を受けてロシア側と交渉、ロシアの進駐拡大を防ぎ、権益を確保するためロシアと密約を結ぶ。国際政治の過酷な現実だ。
韓国の反日教育は一面の真理を強調しすぎるが、根に葉もないでたらめ、というわけでもない。大半の日本人は「無知」(ἄγνοια)だから対抗できない。[完]
1919年の、所謂「3・1独立運動」は、言うまでもなく朝鮮併合後の事件であり、文章の加削除を施すなかで間違えた。「一見して明らかな事実」(τοῖς φαινομένοις)で申告するまでもないとも言えるが、文意を損なう恐れがあるので、念を期した。
ところで、昨日11日から酷暑を避け、再び山荘暮らしで、まだ夜明け前。寝つかれず、薔薇の指さす(ῥοδοδάκτυλος)「曙」(φᾶνή)以前の闇の中で文章を綴ることは、注意力が散漫になるようだ。
プラトンの最晩年の対話篇『法律』に「夜明け前の会議」(νυκτερινὸς σύλλογος=Leges, 908A, 951D~952C, 961A~Cほか)という、人々が寝静まっている時間帯に行われる最高意思決定機関の挿話が出てくるが、彼らはよほど頭脳明晰で、精力的なのかもしれない。
「ヴェルサイユ条約」の失敗に懲りて、英米仏は、ドイツに対して「強者の論理」を振り回すことをやめ、戦争の賠償金を取らず、西ドイツの経済復興のために自分たちが資金を出し合う「マーシャルプラン」を作成したのである。そして、ドイツ人の法学者が作り上げた西ドイツの「基本法」、現在の「ドイツ憲法」をそのまま認めたのである。
敗戦後、日本人による憲法作成の動きはあったのである。衆憲資第1号日本国憲法の制定過程 における各種草案の要点、www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi001.pdf/$File/shukenshi001.pdf
に詳しく書かれているが、敗戦後、西ドイツの法律学者たちがまとめた「ドイツ基本法」は、連合国、英米仏を十分満足させる内容であったが、日本の東京帝国大学憲法学教授、宮澤俊義教授がまとめられた松本甲案、は米国のマッカーサーの怒りをかったのである。要するに、国民主権も、民主主義も、彼にはわかっていないから、あのような条文になるのではないのだろうか?現在の長谷部恭男教授の、「憲法解釈は憲法学者の良識に任せよ。」という主張も、まるっきり、民主主義がわかっていない。「国民が権威」である、ということは、ある意味、長谷部教授の様な「権威の否定」なのである。宮澤案はだめであったので、「国際法を熟知しているから」外交官でもあり、法学博士でもある芦田均さんに憲法改正草案の審議をする立法府の衆議院帝国憲法改正小委員会の委員長の「白羽の矢」がたったのである。
そして日本国憲法の成立過程における帝国憲法の改正審議は異例の形をとる。つまり、占領軍の圧倒的な軍事力(δύναμις πρὸς πόλεμον)を背景に、有無を言わさぬ強制力(τὸ βίαιον)、つまり「力づくで」(κατὰ τὸ καρτερός)原案=改正草案が示され、その後の帝国議会における審議でも、陰に陽に、常に(αἰεί)見えざる(ἀόρατος)戦争の勝者、即ち征服者によるさまざまな「規制」を意識しながら進められた結果成立するという特異な事情があった。
それを考えたとき、新憲法が憲法前文の掲げる理想(παράδειγμα)の憲法などではけっしてなく、所詮は勝者による裁きとしての日本の紛れもない国家改造である所以が明らかになる。
降伏勧告文書であるから、それに相手が応じなかった場合の対応を突きつける文言の高圧的調子は類がない。正義の仮面(πρόσωπον)、即ち欺瞞(ἀπάτη)と偽善(τὸ εἰρωνικός)を被っているものの、「強者の論理」(κρείττονος λόγος)に基づく剥き出しの「力の支配」(δεσποτεία δύναμις)を前面に押し立てており、さまざまな美名(κάλλος)にもかかわらず、対立する国家間の利益の決裁(=対等な主権国家間の相手方に対する報復)を戦後処理の本質としていた第一次大戦の際の講和条約交渉との違いは、ゲームのルールの変更にすぎない。
領土はともかく、膨大な報復的賠償金が科せられなかったからといって、特段温情的だったわけではない。融和策が支配的になったのは、共産主義ファシズムという容易ならざる別の敵が、東西冷戦の進行とともに、対応を迫られる喫緊の課題となったからにすぎない。
同時並行的に進められた東京裁判(極東国際軍事裁判)も、遡ってポツダム宣言と地続きであることは言うまでもない。
ポツダム宣言受諾の政府判断が遅れた最大の理由の一つとされるのは、それによって天皇制を維持し、「国體」(πολιτεία)護持の実質を何とか実現できそうだとの確証がなかなか得られなかったためだ。
改正案を審議中の1946年7月17日のケーディスGHQ民政局次長との面会で吉田内閣の憲法問題専任国務相の金森德次郎は、天皇制の維持と民主的な政治体制の実現を求めた「ポツダム宣言」との関係、所謂「国體」の継続如何の問題を、専門家らしく「技術的問題」として自らの「國體」観を説明しているが、国会答弁と比べると二枚舌の典型で、吉田の意図を斟酌した結果だろう。
衆議院憲法改正案特別委員会の特別委員会小委員会(芦田小委員会=秘密会。修正案作成のため芦田以下の十四人で構成)の小委員長芦田均、「八月革命説」の宮澤俊義については、いずれも天皇制を維持して「国體」護持の実質を何とか実現しようと腐心している。
結局は勝てば官軍、正義の旗は勝者の側にあり、大義は名分(πρόφασις)にすぎない。第一次大戦後の戦後秩序、即ちヴェルサイユ=ワシントン体制は、英米主体の、その意味ではアングロサクソン的な支配と秩序、即ち、国際的な経済的協調と海軍軍縮を骨格とする緊張緩和によって取り繕った暫定的なものにすぎなかったからだ。
所謂「東亜の新秩序」を模索した大東亜戦争の論理にしたところで、戦後は何から何まで日本が悪かったかのように酷評されるが、少なくとも「アジアをアジアに人に返せ」という目標自体は不当なものではない。
そうした当然過ぎる道理が、当然のように主張されるようになっやのは、実際のところ、日本が暴れ回った第二次大戦後のことだ。それ以前は、大国の論理で、「アジアの欧米植民地は、アジア人自身の問題ではなく、嚴然たる歐米の國内問題で、指一本さされなかった」(宮崎﨑市定『アジア史研究 第二』はしがき、1963年、同朋舎、2頁)という「現実」を看過してはならない。
歴史に相対するということ、「歷史家になるには一種の鈍感さ、冷淡さなどの惡德が必要である。それがなければ、人類に代わって運命の重壓を感知し、捉え所のないほど大きな世界史の構圖を、しっかり摑んで描きおおせることが出來ない」(同7頁)所以だ。[完]
私は、この1930年代からの国際社会での日本の政治のこの動きを、「二つのスクープ記事」に象徴されているように、一貫して別の方向にもっていこうとされた国際派記者のリジェンド、楠山義太郎さんに、にかわいがっていただいたせいか、伯父様はさぞ歯がゆかったろうな、と思うのである。そういう日本人にとっての「負の歴史」を、「負の歴史」として心に刻むことが、国際社会に「平和を構築する」第一歩なのではないのだろうか。
結局は勝てば官軍、正義の旗は勝者の側にあり、大義は名分(πρόφασις)にすぎない。第一次大戦後の戦後秩序、即ちヴェルサイユ=ワシントン体制は、英米主体の、その意味ではアングロサクソン的な支配と秩序、即ち、国際的な経済的協調と海軍軍縮を骨格とする緊張緩和によって取り繕った暫定的なものにすぎなかったからだ。
所謂「東亜の新秩序」を模索した大東亜戦争の論理にしたところで、戦後は何から何まで日本が悪かったかのように酷評されるが、少なくとも「アジアをアジアに人に返せ」という目標自体は不当なものではない。
そうした当然過ぎる道理が、当然のように主張されるようになっやのは、実際のところ、日本がアジア各地で暴れ回り迷惑をかけた第二次大戦後のことだ。それ以前は、大国の論理で、「アジアの欧米植民地は、アジア人自身の問題ではなく、嚴然たる歐米の國内問題で、指一本さされなかった」(宮﨑市定『アジア史研究 第二』はしがき、1963年、同朋舎、2頁)という「現実」を看過してはならない。
歴史に相対するということ、「歷史家になるには一種の鈍感さ、冷淡さなどの惡德が必要である。それがなければ、人類に代わって運命の重壓を感知し、捉え所のないほど大きな世界史の構圖を、しっかり摑んで描きおおせることが出來ない」(同所収「世界史序説」、7頁)所以だ。[完]
Immer wieder hat Hitler ausgesprochen: wenn das deutsche Volk schon nicht fähig sei, in diesem Krieg zu siegen, dann möge es eben untergehen.
ヒトラーは、いつもこう公言していました。もし、ドイツ民族がこの戦争に勝てなければ、没落するだろう。と述べておられるが、ヴェルサイユ条約後の悲惨な経験もあるドイツ人は、「そのヒトラーの言葉」を信じたのではないのだろうか?「ヴェルサイユ条約」の顛末を見ていた日本の政治指導者も同じだ、と思う。ヴァイツゼッカー氏の次の文章は、
Die anderen Völker wurden zunächst Opfer eines von Deutschland ausgehenden Krieges, bevor wir selbst zu Opfern unseres eigenen Krieges wurden.はじめ、他の民族がドイツによって引き起こされた戦争の犠牲者になり、その後我々自身が自分で始めた戦争の犠牲になりました、とあるが、この言葉は、東京の空襲や沖縄の地上戦、広島、長崎の原爆の投下を思い浮かべた時、そのままそっくり日本にあてはまるのではないのだろうか?
「互いに異なったものの中から共通なものを見出し、同じように見えるものの中から異なったものを見出す、それが分析」だとして、質的な差異を、できるだけ量的な差異に還元することを説く。
その点からみれば、戦前の日本のアジア進出の正当性の主張、当時アジアの大半を植民地化して既得権益を貪っていた英米仏蘭という欧米各国、「列強の不当な支配から解放すべき」だという、別種の侵略のイデオロギー=「大東亜共栄圏構想」が生まれることに、特段の不思議はない。
弱肉強食の国際政治にも既得権の保護に加え、一定のゲームのルールがあり、それが確立された国際法規範(νόμος)に基づく国際秩序だが、あくまで恣意的なものだ。強者の支配の別名でしかない。
だから、相手の国際法違反を楯に(προβάλλω)、しかも戦争の早期終結という自国の都合のため、米国のように正しい戦争のルール「戦争における法」(jus in bello)を逸脱する重大な「不正行為」(ἀδίκημα)を顧みず、非戦闘員を含む何の罪もない人々を無差別に殺傷する原爆を投下したりする。
それによって、敗者(ὀ ἡττάομαι)のように罪に問われる(αἰτιάομαι)こともない。対ファシズム戦争の大義(μείζον δίκη)のため、無条件降伏を強いたりもする。
相手が不正行為である戦争に訴えたからといって、何をしてもいいわけではない。自由の旗手米国の手も、「汚れている」(ἀκάθρτος)所以だ。それが国際政治の現実だ。
8月11日が、「ワイマール憲法」制定100年だそうであるが、このワイマール憲法は、きわめて「民主主義」的な憲法である。ところが、ヴェルサイユ条約、世界大恐慌の影響で、ドイツ国民が疲弊し、「民主主義」への不信が蔓延するのである。民主主義的精神の生きる空間である経験的、批判的合理主義の明晰性は、今や浅薄と誹謗されて、背を向けられ、形而上学的朦朧性が深淵、と解されて、曖昧模糊たる非合理性崇拝の回帰が唱えられる、・・・「合理主義」から「非合理主義」これが現代の標語である。「学問」的変化は、哲学戦線における変化と手をたずさえている(p159)、とハンス・ケルゼンは主張しているが、古代ギリシャ哲学者、プラトンをはじめとして、民主主義を疑問視する哲学者も多い。
そして、ドイツ人はメシア(救世主)を望んだから、ナチスヒトラー政権、専制政治、を生み出してしまうのである。「ワイマール憲法」に「全権委任法」を付け加え、その成立に助力したのが、カール・シュミットである。「敵味方理論」のカール・シュミットの考えと「妥協」を志向する民主主義は対極にある考え方だし、もし、「全権委任法」が成立していなければ、「人種法」も成立しなかったから、「アウシュビッツの大虐殺」も起こらなかったのである。
日本のマスコミが、「社会主義」と「民主主義」を混同するから、おかしな結論になるのであって、「民主主義の平等」、は「経済的平等」を意味していないのである。政治的「代表者」を選ぶ上での平等である。ケルゼンは、「正しく理解された民主主義が実現しようとするのは、平等の原理ではなく、自由の原理、政治的自立の原理だ、(p160)、と主張している。「経済的にすべてを平等」にしようとすると、それに反対をする人も当然いて、「専制政治」にならざるを得ないから、社会主義圏では「一党独裁」になったのである。「国境も階級もなき労働者の一つの世界」、という理想の現実は、「ソ連の専制政治的帝国主義」であったから、「ベルリンの壁」は崩壊したのである。
韓国のムンジェイン大統領は、いまだに、「階級のない労働者の一つの世界」を
理想とし、日本人は戦後、「民主主義」を理想とする民族に変貌し、異国人と対等関係でつきあっているつもりなのに、いまだに韓国民族が、劣等民族だとみられたこと、に対しての恨みを持ち続けておられるから、「反日思想」の権化になってしまっておられるように、私にはみえる。これも、戦後の「韓国での歴史教育」所以なのではないのだろうか。
(参考:民主主義の擁護、1932年出版、ハンスケルゼン著、長尾龍一、上田俊太郎翻訳、岩波文庫
Wikipedia 憲法裁判所)
盆だから、先祖の霊魂(ψυχή)が帰ってくるという人々の素朴な(εὐηθικός)祖先(πρόγονος)を崇拝する(προσκυνέω)風習(νόμος)は、私が日頃親しんでいる合理的思考には馴染まないが、習慣、習わしを示すギリシア語[νόμος=ノモス]はまた、法、しきたり、掟の意味だから、私もまた社会的存在=政治的動物(ζῷον πόλτκόν)である以上、大人しく迎え火(πῦρ ἄγειν)でも焚くことにしている。
亡くなって四十九日にもならない妻は、未だ天国(ὁ οὐρανός)ではなく、もとより地獄(Ἅιδης)でもなく、霊界の(ἐν Ἅιδου)というか、あの世(ἐκεῖ)、つまり冥府(ἐκεῖ)の入り口で順番待ちの合間、地上の高い場所辺りを、立ち去りがたく亡魂(φάσμα)のように彷徨っている(πλάνη)のかもしれない。
慈しみの女神(Εὐμενίς)に姿を変えて。そう言えば、母校のある沼津の海岸沿いに、三保の松原ならぬ千本松原があるから、天の羽衣に化けているかもしれない。仮祭壇に好物の西瓜に加え、シジミ汁を供えた。
自らのために焚かれたのではない迎え火を、あの日永遠に(ἀίδιότος)閉じられた巨大な眼(ὀφθλμός)で面白がって、あるいはつまらなそうに眺めているかもしれない。魂の目(ὄμμα τῆς ψυχῆς)というものもあるからだ。
取り残された鰥夫の妄想(φαντασία)、というか益体もない饒舌(ἀδολεσχία)はこのくらいにして、八月は死者(νεκρός)の季節である。近親者に限らず、靖国に眠る先の大戦で斃れた兵士(ὁ στρατιώτης)たち、即ち英霊(ἥρως)も、人々にこの世(χρόνος ὁ παρών)の寄る辺なさを物語っているようだ。
先には文大統領自身が旧植民地支配に伴う歴史認識の違いを指摘し、日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄の可能性にも言及していたのと同様、最高権力者としては狂気の沙汰(ἡ μανικός)だ。
日本に経済的に対抗すべく連携を目指す北朝鮮は先月25日から、合計五回のミサイル発射実験を繰り返しており、韓国は米国との共同軍事演習を批判されて「低質」呼ばわりされ、こき下ろされている。北の政治的意図は見え透いており、苦境に陥りつつある文政権の足元を窺っているようだ。
韓国も15日、日本統治からの解放を祝う「光復節」を迎える。わが国が盂蘭盆と重なることもあって概ね死者を悼み(ἐπιτᾶφέω)、平和への誓い(ὅρκος)が専らなのに対して、日本統治下だから第二次大戦の戦場となることなく、海外に亡命政権はあったものの、ほぼ労せずして国際政治の論理で独立を回復した韓国の「解放」は、祈り(εὐχή)ではなく、屈辱(λοιδόρημα)の記憶(μνήμη)を噛みしめる日なのだろう。
「3.1独立運動」100周年という、お誂えあつらえ向きの「物語思考」の舞台も調った。けっして忘却(λήθη)を許すまじ、と。
米国に原爆を投下されて命脈尽きた日本に、反米主義はあり得ても、朝鮮の民ほどの旧宗主国への怨念(φθόνος καὶ μῖσος)はない。民族性の違いもあろうが、戦争で徹底的に戦って負けた敵国と、それすらままならなかった旧宗主国とでは、事情が異なるのだろう。
韓国にとっての戦争(πόλεμος)とは朝鮮戦争で、敵は北の共産主義政権であり、それを実質支えた中国であるはずだが、東アジアの牢固たる華夷秩序は、それを忘れさせるらしい。
歴史を再現させる(ἀνιστημι)ことはできない。あくまで記憶(μνήμη)や想起(ἀνάμνησις)を通じて再生産される(ἐκμιμεῖσθαι)ものでしかない。従って、真偽(ἀληθής καὶ ψεῦδος)を検証する(ἔλέγχω)ことができない。
カ氏がWikipedia頼みで並べる「クズ情報」から権威書の記述まで、条件は同じだが、そこには自ずと(αὐτόματος)信じるに足る(πιστός)説得力(τὸ πιστικός)が異なる。
カ氏はよく無鉄砲(τόλμα)に思い込んだ(δοξάζω)ことを、ソクラテスを引き合いに出して「無知の知」と揚言していたが、それはソクラテスの意に反して「知らないことを、知らないと思う」(μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι=Apologia, 21D)という自覚を欠く軽率な行為で、「あの世のことについては、よくは知らないから、その通りにまた、知らないと思っている」(‘ὅτι οὐκ εἰδὼς ἱκανῶς περὶ τῶν ἐν Ἅιδου οὕτω καὶ οἴομαι οὐκ εἰδέναι’=ibid. 29B)とした先達の言葉を肝に銘じるべきだろう。歴史も同じだ。
「正確に過去を知りたい、多少なりとも將來を豫測したい、現在を後世に傳えたい」という三つの希望が人類の本能だとした歴史家がいたが、アリストテレスの言をまつまでもなく、‘πάντες ἄνθρωποι τοῦ εἰδέναι ὀρέγονται φύσει.’(「すべて人は生まれつき知ることを欲する」=Metaphysica 980a)。
しかし、歴史も国際政治も人間自然の性情(ἡ φύσις ἀνθρώπων)を反映して一筋縄ではいかない。
歴史の真実を見極めるには、「一種の鈍感さ、冷淡さなどの惡德が必要である。それがなければ、人類に代わって運命の重壓を感知し、捉え所のないほど大きな世界史の構圖を、しっかり摑んで描きおおせることが出來ない」(宮﨑市定)という覚悟(πίστις)が求められる所以だ。[完]
新幹線の中でもう一度民主主義の擁護、読み直しました。
そして、ハンスケルゼンも、訳された長尾龍一さんも、ソクラテスの無知の知の信奉者であることが、よくわかりました。要するに、神でない人間は、誰であっても、絶対的真理を実行することができないから、専制政治を否定して、相対的真理に基づく、妥協のある政治体制、議会制民主主義を、信奉されているのです。その考え方こそが、基本的人権の尊重と学問の自由を担保する考え方なのではないでしょうか?
そんなわけで、しばらくコメントは、おやすみします。
韓国のムンジェイン政権が、民主派、とされていることに、日本の安倍政権が、右翼の軍国政権だとされていることに憤りを感じているのである。承服できないのである。
民主政治、というのは、何度も説明したように、妥協の政治であり、積弊清算のように、保守派を根絶やしにすることではないのである。それは、保守派も国民の一部であり、彼らにも自分たちの意見を表明する基本的人権が、あるからである。日本の野党は、十分すぎるほど十分に、自分たちの意見を述べ、日本のマスコミは、安倍政権を批判しているのではないのだろうか?
逆に、野党とそれを支持されている学者の立憲主義の解釈がおかしい。憲法は、権力も縛るし、国民も縛るのである。法治国家、の原則がそうなのであって、共同生活をする以上無際限な自由などというものは、あり得ないのである。私がマスコミの人にお願いしたいことは、世論に対して大きな影響力をもっておられるのだから、権威を無条件に信頼して、誤った認識で、世論を作り上げたり、それで国民を洗脳しようとするのではなく、国民に考えさせるような、報道をしていただきたい、ということである。
そして、岸信介さんの孫という理由で、右翼の親玉であるかのようにみなされている日本の安倍首相であるが、もし、日本が、1960年の時点で、学生たちの要求どおり、日米安保条約を
破棄していたら、今日の日本の発展はあったのか、平和な暮らしはあったのか、ということをもう一度、冷静に考えていただきたい。あれから60年近く経って、あたかも、日米安保条約の改定が間違っているかのような主張し続けるという主張は、日本の歴史認識を歪めているのではないのだろうか?
古代ギリシア世界における国家(πόλις)の自由とは抽象的な概念などではなく、自らが奴隷になる(δουλεύειν)ことはないし、他を奴隷にもしないということだ。こうした関係は、アテーナイとスパルタとの関係が不安定かつ緊張したものであっても、なお可能であろう。
しかし厄介(πονηρός)なのは、アテーナイからみて、その緊張関係を維持するためには他のギリシア諸国家を支配し続けなくてはならず、スパルタ側にとっても盟主として君臨するペロポネソス同盟諸国に対して、同じように一種の指導者(τὸ ἡγεμονέω)的な地位(σεμνόν)を保持しなくてはならない点で、畢竟両者は共存し得ないから、戦わざるを得なくなった、という事情だ。
現在の米国と中国との関係になぞらえることもできるかもしれない。なぜなら、アテーナイの支配(ἀρχή)が拡大してスパルタの支配を脅かす、つまり抵触する事態が生じたからだ。米国からすれば、自由で民主主義的な価値観を奉じない中国が、国際社会におけるこれ以上の軍事的経済的な脅威(ἡ ἆπειλή)になる前に、少なくともその潜在的な可能性(δύναμις)見えてきた以上、その芽を事前に摘む動機(ὁρμή)が生じてきた、ということだ。
もっとも、現代と類比的に(κατ’ ἀναλογίαν)この問題を考えることの当否を論じる前に押さえておく必要があるのは、古代ギリシアの新興国で民主制のアテーナイが現代なら中国の立ち位置になり、寡頭制の軍事大国のスパルタが米国に相当するという一種の「ねじれ」現象で、類比(ἀναλογία)による「モデル思考」とはそうしたように、厳密な考察(ἀκριβῶς σκέψις)には向かない、ということだ。
そうしたなか、開戦に踏み切ったアテーナイの卓越した指導者ペリクレスは、開戦一年後の危機的な状況のなかで、当時のアテーナイ人の伝統的な考え方を代弁するように、一部の和平派の動きを牽制しつつ、アテーナイ城内への退避を余儀なくされ、疫病も発生するなど恐怖と不平不満による一般の市民の非難(ὄνειδος)や攻撃(ἐπιχείρησμα)が相次いだのに答えて、次のように戦争の継続を説いている。
それは、宥和を説く国内の平和主義者を批判して、そうした和平論は「手を汚さず上品ぶる」(ἀνδραγαθίζεται=「手のきれいな上流紳士気取り」の謂い)政治論だと手厳しい。憲法9条を楯に(προβάλλω)、真っ当な(ὀρθότης)安全保障論議が憲法解釈という名の法律論(ἡ νομοθετικός)に終始してきた戦後の日本人を支配する戦争観との違いが際立っている。
アテーナイ人は「奴隷の平和」(δουλεία)など受け付けないからだ。
昨日13日、郷里山口・長門市で父親の墓前に憲法改正の実現を誓った首相が格別惰弱(μαλακία)というわけではないが、日本人的な作法とは明らかに異なる。
先の大戦での敗北で、われわれが失った心性だ。戦争に負ける(νικάομαι)、ということはそうしたことなのだろう。現在の日本人がけっして戦前の日本人より賢くも、現実的でもない所以だ。演説の一部を引用する。
‘τῆς τε πόλεως ὑμᾶς εἰκὸς τῷ τιμωμένῳ ἀπὸ τοῦ ἄρχειν, ᾧπερ ἅπαντες ἀγάλλεσθε, βοηθεῖν, καὶ μὴ φεύγειν τοὺς πόνους ἢ μηδὲ τὰς τιμὰς διώκειν· μηδὲ νομίσαι περὶ ἑνὸς μόνου, δουλείας ἀντ᾽ ἐλευθερίας, ἀγωνίζεσθαι, ἀλλὰ καὶ ἀρχῆς στερήσεως καὶ κινδύνου ὧν ἐν τῇ ἀρχῇ ἀπήχθεσθε. ἧς οὐδ᾽ ἐκστῆναι ἔτι ὑμῖν ἔστιν, εἴ τις καὶ τόδε ἐν τῷ παρόντι δεδιὼς ἀπραγμοσύνῃ ἀνδραγαθίζεται· ὡς τυραννίδα γὰρ ἤδη ἔχετε αὐτήν, ἣν λαβεῖν μὲν ἄδικον δοκεῖ εἶναι, ἀφεῖναι δὲ ἐπικίνδυνον. τάχιστ᾽ ἄν τε πόλιν οἱ τοιοῦτοι ἑτέρους τε πείσαντες ἀπολέσειαν καὶ εἴ που ἐπὶ σφῶν αὐτῶν αὐτόνομοι οἰκήσειαν· τὸ γὰρ ἄπραγμον οὐ σῴζεται μὴ μετὰ τοῦ δραστηρίου τεταγμένον, οὐδὲ ἐν ἀρχούσῃ πόλει ξυμφέρει, ἀλλ᾽ ἐν ὑπηκόῳ, ἀσφαλῶς δουλεύειν.’(『歴史』第2巻63章)
それを使うと、文明は廃墟となる。それがあの頃との徹底的な、差なのである。
そのことを、唯一の被爆国の国民として考えなければならない、のではないのだろうか?
「また、アテーナイがもっている名誉ある国際的地位はいま、諸君のすべてが誇りとしているものなのだが、これはわが国の諸国支配に由来するものなのであって、諸君は当然この名誉と誇りを擁護しなければならない。それに伴う労苦を今さら回避することはできないのだ。もしそれが嫌なら、名誉を求めることも断念しなければならない。
またこの戦争は、単に自由か隷属かというようなことを争っているのではない、ということも知ってもらわなければならない。事と次第では支配者の地位を追われるかもしれず、仮にそうなれば、いま諸君が支配者であるために被った諸国の人たちからの憎悪で、どんな危険な目に遭わされるか分からないということが賭けられているのだ。
一部の諸君は現在の状況に怖気づいて、何もしない消極策によって、手を汚さず上品ぶることを考えているようだが、平和理の支配権放棄は、もはやできない相談なのだ。そんなことではもう済まされず、諸君が既に手中にしている諸国支配の権力は、まるで独裁的支配者のそれのように、それを掌握することに不正の疑いがあったかもしれないが、それを手放すことはいまや誠に危険なのだ。
仮に彼の説に他の諸君が従うなら、たちどころにアテーナイを滅亡に導くことになるだろう。それは彼らが、どこかに彼ら自ら独立した国家を築こうとしてみたところで同じだ。
なぜなら、何も余計な手出しをしないという政策も、それは断乎たる行動力と組み合わされなければ、全うされるものではないからだ。また奴隷となって安全を保つなどということは、他の命令に従うしかない属国においてのみ意味をもつのであって、そのような政策は他を支配する国家にあっては無益なのだ。」
ついでに紹介すれば、古代のギリシア人はざっくばらんに(παρρησιαζόμενος)、驚くべきことを言う。プラトンの『ゴルギアス』の一節から引く。
‘ἐπεὶ πῶς ἂν εὐδαίμων γένοιτο ἄνθρωπος δουλεύων ὁτῳοῦν; ἀλλὰ τοῦτ’ ἐστὶν τὸ κατὰ φύσιν καλὸν καὶ δίκαιον, ὃ ἐγώ σοι νῦν παρρησιαζόμενος λέγω, ὅτι δεῖ τὸν ὀρθῶς βιωσόμενον τὰς μὲν ἐπιθυμίας τὰς ἑαυτοῦ ἐᾶν ὡς μεγίστας εἶναι καὶ μὴ κολάζειν, ταύταις δὲ ὡς μεγίσταις οὔσαις ἱκανὸν εἶναι ὑπηρετεῖν δι’ ἀνδρείαν καὶ φρόνησιν, καὶ ἀποπιμπλάναι ὧν ἂν ἀεὶ ἡ ἐπιθυμία γίγνηται.’(Gorgias, 491E~492A)
「けれども、人間、およそどんなものにもせよ、何かに隷従しているのであれば、どうして幸福になれるだろうか。いや、むしろ、こんなふうにするのが、自然本来における(κατὰ φύσιν)美しいこと、正しいことなのだ。それを今、僕はあなたにざっくばらんに話してみよう。
つまり、正しく生きようとする者(τὸν ὀρθῶς βιωσόμενον)は、自分自身の欲望は抑えるようなことはしないで、欲望はできるだけ大きくなるがままに(τὰς ἑαυτοῦ ἐᾶν ὡς μεγίστας εἶναι)放置しておくべきだ。そして、できるだけ大きくなっているそれらの欲望に、勇気と思慮をもって(δι’ ἀνδρείαν καὶ φρόνησιν)、充分に奉仕できる者とならなければならない。
そうして、欲望の求めるもの(ἡ ἐπιθυμία γίγνηται)があれば、いつでも何をもってでも、これの充足を図るべきである、ということなのだ」[完]
戦争に敗れた(ἡττάομαι)のはもとより、その屈辱(λοιδόρημα)の記憶(μνήμη)もけっして忘れはしない。しかし、戦場に斃れた死者(νεκρός)を悼む(ἐπιτᾶφέω)大切な日である。言葉遣い(ῥῆμα)というものには歴史と作法がある。それが分別(σύνεσις)というものであり、大人の知恵というものだ。
先の戦争は種々の事情があったにせよ、しかも結果としてそれによって欧米諸国への隷従に苦しんでいたアジアの同胞が植民地支配から解放されるきっかけになったとしても、をれを容易に正当化する(τεχνάζω)ことを拒む「正義の戦争」(δίκαιος πόλεμος)、即ち正戦(bellum justum)ではなかったとしても、われわれ日本人にとって兵士たち(οἱ στρατιώτης)の死は尊い犠牲(θυσία)であり、最大限の尊重を要することは論をまたない。
「侵略」という汚名(διαβολή)につながるその死(θάνατος)が無駄な(ἄχρηστον)、つまり無意味な(ἄσημος)「犬死」であってよいわけはないし、事実無駄でもなかった。戦後、特に護憲派の平和主義者たちから、アジアの同胞への死のようには素直にその死を悼み、犠牲的行為を讃美(ἐπαινος)も感謝(χάρις)もできない、一種のもどかしさも手伝って、戦死者を英霊(ἥρως)視するのを拒絶してきたが、「靖国」の英霊が、「アーリントン」に眠る対ファシズム戦争を戦った祖国の(πάτριος)英雄(ἥρως)たちと、本質的に異なるわけではない。
その特徴は、戦死者個人を賞讃する以上に、アテーナイ人(Ἀθηναῖοι)が達成した国家的価値観、民主制を讃美する(ἐπαινέω)ことで、それを守るために斃れた(ἀποθνῄσκω)自由と民主制の勇士(ἥρως)を悼む民衆政へのオマージュ(ἐπαινος)になっている。
先の大戦での侵略行為が日本人の心に複雑な影を落としており、靖国の御魂(ψυχή)がいまひとつ胸に迫ってこない原因になっているのとは随分事情が異なる。
ペリクレスの追悼演説は、戦没者の徳を讃え、冥福を祈る儀礼的な弔辞にとどまらず、アテーナイ人の達成したものを讃美する形を通じて、結果的に国のために死んだ故人を賞讃する頌詞として構成されている。私の雑駁な解説は切り上げ、その雄頸な内容をトゥーキュディデースの『歴史』から引く。
「何の故に私は国家(ポリス)について、かくも長く語ったのか。それは、以上に述べたような恩恵に等しくあずかることのない国々の人間とわれわれとでは、この勝負に賭けているものが、同価値ではないのだということを知ってもらうことにもなり、また同時に私がこの人たちに捧げようとしている誉め言葉を実際の証拠によって明白にすることにもなるからだ。そしてその誉め言葉の最大なるものは、以上において既に言われてしまったことになる。」(引用続く)
‘Δι᾽ ὃ δὴ καὶ ἐμήκυνα τὰ περὶ τῆς πόλεως, διδασκαλίαν τε ποιούμενος μὴ περὶ ἴσου ἡμῖν εἶναι τὸν ἀγῶνα καὶ οἷς τῶνδε μηδὲν ὑπάρχει ὁμοίως, καὶ τὴν εὐλογίαν ἅμα ἐφ᾽ οἷς νῦν λέγω φανερὰν σημείοις καθιστάς. καὶ εἴρηται αὐτῆς τὰ μέγιστα· ἃ γὰρ τὴν πόλιν ὕμνησα, αἱ τῶνδε καὶ τῶν τοιῶνδε ἀρεταὶ ἐκόσμησαν, καὶ οὐκ ἂν πολλοῖς τῶν Ἑλλήνων ἰσόρροπος ὥσπερ τῶνδε ὁ λόγος τῶν ἔργων φανείη. δοκεῖ δέ μοι δηλοῦν ἀνδρὸς ἀρετὴν πρώτη τε μηνύουσα καὶ τελευταία βεβαιοῦσα ἡ νῦν τῶνδε καταστροφή.’(Β. 42.1~2)
前後するが、
「すなわち、われわれの採用している国制(πολιτεία=政体)は、近隣諸国の法制を有難がって、それの真似をしたものではない。他の真似をするよりも、自らを他の規範たらしめている。国政は少数者の意向によるものではなくて、かえって多数者のそれに従って行われるが故に、公民統治(δημοκρατία=民衆政)と呼ばれている。しかし、個人的利害の衝突に関しては、何人も法の前に平等であり、各人が何らかの栄誉を得る場合の評価に関しては、家柄その他が個人の実力よりも公に優先させられるようなことはない。そして国家に何らかの寄与をなしうる者あらば、その貧しきがゆえに名もなく朽ちることはない。この公共生活における自由は、日常生活における個人相互の気遣いにも及ぼされ、隣人がなにか放逸に流れても怒らず、悪意をもって私事に干渉することもない。」(引用続く)
‘Χρώμεθα γὰρ πολιτείᾳ οὐ ζηλούσῃ τοὺς τῶν πέλας νόμους, παράδειγμα δὲ μᾶλλον αὐτοὶ ὄντες τισὶν ἢ μιμούμενοι ἑτέρους. καὶ ὄνομα μὲν διὰ τὸ μὴ ἐς ὀλίγους ἀλλ᾽ ἐς πλείονας οἰκεῖν δημοκρατία κέκληται· μέτεστι δὲ κατὰ μὲν τοὺς νόμους πρὸς τὰ ἴδια διάφορα πᾶσι τὸ ἴσον, κατὰ δὲ τὴν ἀξίωσιν, ὡς ἕκαστος ἔν τῳ εὐδοκιμεῖ, οὐκ ἀπὸ μέρους τὸ πλέον ἐς τὰ κοινὰ ἢ ἀπ᾽ ἀρετῆς προτιμᾶται, οὐδ᾽ αὖ κατὰ πενίαν, ἔχων γέ τι ἀγαθὸν δρᾶσαι τὴν πόλιν, ἀξιώματος ἀφανείᾳ κεκώλυται. ἐλευθέρως δὲ τά τε πρὸς τὸ κοινὸν πολιτεύομεν καὶ ἐς τὴν πρὸς ἀλλήλους τῶν καθ᾽ ἡμέραν ἐπιτηδευμάτων ὑποψίαν, οὐ δι᾽ ὀργῆς τὸν πέλας, εἰ καθ᾽ ἡδονήν τι δρᾷ, ἔχοντες, οὐδὲ ἀζημίους μέν, λυπηρὰς δὲ τῇ ὄψει ἀχθηδόνας προστιθέμενοι. ἀνεπαχθῶς δὲ τὰ ἴδια προσομιλοῦντες τὰ δημόσια διὰ δέος μάλιστα οὐ παρανομοῦμεν, τῶν τε αἰεὶ ἐν ἀρχῇ ὄντων ἀκροάσει καὶ τῶν νόμων, καὶ μάλιστα αὐτῶν ὅσοι τε ἐπ᾽ ὠφελίᾳ τῶν ἀδικουμένων κεῖνται καὶ ὅσοι ἄγραφοι ὄντες αἰσχύνην ὁμολογουμένην φέρουσιν.’(ibid. Β. 37)[完]
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