日韓関係の緊張に伴って日本では韓国に厳しい世論が形成されている。だが、気になるのは、それにともなって顕著になっている「ネトウヨ批判」を存在証明とする「知識人」たちの活動だ。
「ネトウヨ」という言葉が非常に流通している。そこに侮蔑的な意味が含まれていることも、いわゆる「知識人」の間では自明の前提である。そこで発展した紋切り型ビジネスは、「お前はネトウヨだ!(したがって私のほうが正しい)」というレッテル貼りである。
現在、日本の大学人の多くが「ネトウヨ批判」でビジネスをしている。つまり「お前はネトウヨだ!(したがって私の方が正しい)」という紋切り型に、あらゆる問題をも持ち込んでいくというビジネスである。
もう一方では「パヨク」嘲笑のビジネスもある。ただ左翼批判の基本パータンは、在野の言論人が、大手新聞社や戦後民主主義系の学者を揶揄する、というものである。これに対して「ネトウヨ批判」ビジネスは、在野の「ネトウヨ(とされている人々)」に対して大学人などが批判を加えていくのが基本構図であるため、性格が異なる。
日本の言論界の閉塞は、在野民間ウヨクによる大手新聞・戦後民主主義批判⇒左翼知識人による「ネトウヨ」批判⇒在野民間ウヨクによる大手新聞・戦後民主主義批判、と循環論法で閉じられた円環で完結してしまっていることである。
最近の日韓関係の緊張化は、この傾向に拍車をかけたようにみえる。確かに民間で韓国を感情的なレベルで嫌悪している層もいるのだろう。だが本来であれば、大学人などが執拗に「ネトウヨ」の言説を追いかけ、「ネトウヨはダメだ」という結論の文章を何度も繰り返し大量生産していく必要はない。だが今やYahooコメント欄の「ネトウヨ」を批判するのが、大学で給料をもらっている知識人の務めである、といったおかしな風潮が蔓延している。
危険である。このままでは「ネトウヨ」が死滅する前に、「ネトウヨ批判を知識人であることの存在証明にしている知識人」のほうが死滅してしまいかねない。
Yahooで「ネトウヨ批判」の記事を見た。https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyayukiko/20190817-00138706/ 日韓関係の悪化は、「ネトウヨ」が蔓延しすぎていることが原因であるという紋切り型の論旨の文章である。いただけないのは、勢いに乗って「政権交代があったのだから日韓請求権協定を守らなくなっても仕方がない、日本も日米修好通商条約をもはや守っていないではないか」といった論旨の文章を書いてしまっていることである。
これは論理が成立していない。ネトウヨ批判に熱心なあまり、知識階層として最低限のファクトチェックを怠る罠に陥ってしまっている典型例だ。
国家継承をすれば、条約義務も継承する。条約義務を継承したくないなら、国家継承をしなければよい。
日米修好通商条約が今日無効なのは、単に政権交代があったからだったり、時間がたったからだったりしたからではない。明治政府が、江戸幕府時代に締結された不平等条約を、血のにじむ努力で改正する努力を払ったからだ。
2012年にオランダの裁判所で、日蘭修好通商条約の有効性が確認されたのをご存知だろうか。http://www.irashadiary.com/2016/01/21/オランダでは日本人が労働ビザなしで働ける%E3%80%80理/ 明示的な廃棄や改変がなければ、国家継承が行われている限り、政権交代があっても、条約は有効である。
したがって韓国が民主化が進んで政権交代が起こったという理由で日韓請求権協定の有効性を否定しないのであれば、条約破棄または相手方と条約改正の交渉をするのが、正しい。国内裁判所を使って、国内法体系の側から条約内容の事実上の改変を行おうとするのは、邪道である。国際法の側から見れば、そのような邪道を許せば、法体系が維持できなくなる、という深刻な問題である。諸国の努力で、条約順守義務を履行しなければならない。そうでなければ、国際法体系の崩壊という、全ての諸国が被害を被る深刻な事態が訪れる。
「ネトウヨ」とされる人々がYahooコメント欄で間違えたことを言うのは、まだ罪が軽い。しかし「知識人」層として、署名入りの記事を書くのであれば、高い次元で責任を負う覚悟をするべきだ。
私自身も最近、インターネット媒体を使った発信を細々と始めている。外交時事問題や憲法問題など、一般の人にも知ってもらいたい問題を論じる際に、インターネット媒体を用いることに意味があると思って使っているだけだ。ただし扱う対象は学者や政治家だ。「ネトウヨ」又は「パヨク」批判をもって自分が「知識人」であることの証明にしようと思ったことはない。
私は最近、憲法学者の憲法論のおかしさを指摘する著作を出している。学者同士の論戦だが、社会的意味を考えて、一般書として書籍を出したりしている。ところが、今まで真面目な学者からの批判をいただいたことがない。その代わりに何を言われるか。
「憲法学者を批判するとネトウヨだとか言われて損しちゃうよ」
「憲法学者を批判すると保守派を利するのでやめてほしい」
「憲法学者を批判してもダメだよ、憲法学者はマスコミを押さえているからね」
これらは実際に私に親切に忠告してくれた学者連中の実際の発言である。
今や現代日本では、「お前はネトウヨだ!、と批判している私はネトウヨではない、したがって私は正しい言説を述べている『知識人』なのである」、という奇妙な三段論法を大量生産している「知識人」が蔓延し始めている。
今や大学から給料をもらって生きているいゆわる「知識人層」が、「ネトウヨ批判に忙しいんだ、学者同士の議論なんかしている暇はない」、といった雰囲気に完全に飲み込まれてしまっている。
日本の言論界の危機である。
日韓関係は、「問題が起きているのはネトウヨのせいである、ネトウヨを皆で批判すれば問題は解決する」、などと言えるほど、単純な問題ではない。しっかりと日韓関係の分析を施さないといけない。ところが「知識人層」が、「ネトウヨはダメだ、ところで私はネトウヨを批判しているので知識人であり、つまり私が言っていることは正しい」、といった底の浅い自己正当化ばかりを繰り返している。
「知識人」であるかどうかは、「ネトウヨ批判をしているかどうか」で決めるべきではなく、しっかりとした議論を提供しているか否かで決めるべきものだ。
このままでは底の浅い「知識人のネトウヨ批判を存在証明とした自己正当化」の帰結として、ネトウヨが死滅する前に、「知識人」が死滅してしまう。
「私は知識人である、なぜなら私はネトウヨ批判をしているからである」といった陳腐な自己正当化に身を委ねるのは、言論人としての自殺行為である。
https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_1?qid=1564849131&s=books&sr=1-1
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反氏は、宮澤俊義教授をケルゼン主義者とされ、その欠陥を指摘されているが、私が、「ヴァイツゼッカー」思想を選択したように、彼は、ほんとうに「ケルゼンの思想」を理解し、共感し、感銘を受けた上の、「ケルゼン主義者」なのだろうか?
私は「哲学者は如何なる観念の共同体の市民でもない。そのことが彼を哲学者にする。」(‘The Philosopher is not a citizen of any community of Idea, That is what makes him into a Philosopher.’=L. Wittgenstein, ‘‘Zettel’’, 1967.)と、かの偉大な哲学者のひそみに倣って平気で公言して憚らない人間なので、筋道の通った(ἐαυτῷ σύμφωνεῖν)議論はどんなに矯激なものでも驚かないが、カ氏の場合は、政治や歴史、哲学や法学に関する基本的な知識から始まって日本語の読解力に至るまで、その資質や潜在的能力が、およそ学問的議論(ἀκριβολογεῖσθαι)に必要な概念的思考(διάνοια)に堪え得る(δοκιμος)知的水準にはとても達していないので、正直退屈である。コメント53~54,57、61~62はその紛れもない例証である。
頭に血が上って(ἀγωνία)いるのだろう。62⇒【「イエネリクの弟子」と称して「自分の憲法学説」の普及運動をした「上杉慎吉教授」】とあるが、実物を読みもしない一知半解の早呑み込みで論じるから、「イェリネク」(G. Jellinek)がまた「イエネリク」になってしまう。何度間違えたら気の済むのやら、それこそ日頃のカ氏の天に唾する言いぐさではないが、「気がしれない」(呵呵)。
当該箇所は長尾龍一氏の著書『日本憲法思想史』からの引用(「3 上杉慎吉伝」128頁)でその旨、証示してあるが(59の6行目)、日本語が碌に理解できないカ氏には、地の文と引用との区別も覚束ないようだ。カ氏の理解力とは常にその程度だ。
耄碌する齢でもあるまいが、プライド(φρόνημα)だけは一人前の身の程知らず(ἀσύνετέω)の激情家だから、関係ないらしい。カ氏自身の引用も杜撰そのもので、とても綿密な議論ができる水準には達していない。
ベトナム戦争観も見当違いで笑止の代物だ。ベトナムが米国に負けなかったのは戦争が超大国間の代理戦争で、ベトナムの背後に中ソがいたからだろう。もっとも、その後の中越戦争でベトナムは中国にひと泡吹かせており、どんな形であれ、戦争は負けたらおしまい、ということなのだろう。
57⇒【なんども書くように、絶対的真理は、神の領域で、ソクラテスに対する「デルポイのお告げ」…一番の賢者、相対的な賢者なのである。私のその確信は、反氏が違う、と言われようと、井上達夫さんが、違う、と言われようと、変わらない】のような啖呵を切るものの、「猿芝居」に等しい独り相撲(σκιαμχία=a fighting against a shadow)に興じることでしかない。
如何にも神憑りの(ἐνθυσιασμός)、いかれたヴァイツゼッカー宗の巫女(προφῆτις)らしい言辞で、何やら、カ氏が散々非難する隣国の大統領に似ている(呵呵)。
62③⇒【「大正デモクラシー」時代の日本にも、「自由と民主主義」があった】というのは歴史認識にかかわる問題だが、普通選挙も実現しておらず、自由な言論といっても自ずと制約が多かったわけで、美濃部達吉がドイツ国法学の通説にすぎない国家法人説を焼き直した天皇機関説を説こうと、その立憲体制には限界があった、というのが穏当な判断だし、当時の日本国民が政治的に成熟していたとは言えまい(現在も似たり寄ったりだが)。
さらに、美濃部が依拠したドイツ国(公)法学が、英米仏的な立憲主義の伝統とは異なり、「ドイツ公法学自体が科学とイデオロギーの混淆物」(長尾)とされ、美濃部自身も「殊ニ英國ノ政體ノ民主主義二傾ケルヲ忌ミ、獨逸流ノ官僚政治ヲ以テ最モ我ガ國情ニ適スト信ジ」(『憲法撮要』、100頁)た伊藤博文同様、認めざるを得なかったドイツ由来の後進性は、大正デモクラシーがけっして、「学問の進歩が立憲制および国運の進展と手を携えて進むかにみえた『倖せの世代』」でもなかった証左だろう。
「フランス的明晰性とエスプリをもち、啓蒙的合理主義の伝統を継承しつつ、ケルゼンの価値相対主義的イデオロギー批判を独自の仕方で発展させた」(井上達夫)宮澤俊義が紛れもないケルゼン主義者であることは篠田さんも認めるところで(昨年6月7日・15=「戦前はケルゼン主義者として知られており…美濃部のイエリネックへの批判でもあった」)、右も左も分からない無学なカ氏が「ケルゼン主義者」の定義(ὁρισμός)を弄んでも仕方なかろう(呵呵)。[完]
この「民主主義の本質と価値」は、Gくんが求められる真に実力ある研究者による、広い読者数の多い一般書籍の形態の訳本なのであって、こういう本が、「民主主義」を知る上で、日本国民に求められている書籍だと思う。マスコミを通じて我々が知る言葉の定義、言い換えるなら、マスコミに登場する「イデオロギー」に支配された政治活動家的知識人による「民主政治」、「立憲主義」の言葉の定義はおかしい。
反氏が多用される「大衆」という言葉や「無学」という言葉も、初等、中等教育で基本を学び、大学教育を受けた「普通の日本人」に対して、「知識人」と自称する人々が、上から目線で使うにふさわしい言葉かどうか、よく考えていただきたいと思う。「普通の日本人」は、日ごろ仕事や家事に忙しいが、学生時代よく勉強したので、この程度の「一般書籍」を日本語で読む為の読解力は備えているのではないのだろうか?
それにしても、さすがに暇をもて余して(σχολάζω)、投稿が「日記」(ὑπομνημα)代わりのカ氏だけあって、反応は素早い。私が63~65を投稿したのが本日午前中の08:57~09:05、カ氏のそれに対する反論(ἔνστασις)にも何にもならない、愚にもつかない応答(ἀπόκρισις)である66~67が09:33~09:34で、中身は「空っぽ」(κενότης)とはいえ、30分も経っていないところをみると、大方読んでからすぐさま書き出したのだろう。御苦労なことである。
カ氏はそそっかしいから詰らぬミスを連発するが、それ以上に致命的(θανάσμος)なのは、一呼吸置いたうえで、投稿内容を吟味(ἔλεγχος)、熟慮(ἔννοια)したうえで書き始める、ということが皆無だからだ。
只管負けず嫌い(δυσεικοῦτες)、負け惜しみ(ἀπειθής)で怱卒のうちに書き始めるから、それでなくとも無学で見当違いが多い論旨が、意味をなさない、「老婆の他愛ないおしゃべり」(「老生常譚」⇒‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’;Theaetetus 653A)に堕する。
おまけに剽窃(τὸ μιμεῖσθια=plagiarism)まがいのコピペも意に介しない恥知らずだから、始末に負えない。日本版Wikipediaの内容をコピペすることをもって投稿とする体たらくで、目を覆いたくなる惨状だ。
‘Il n’y a point de gens qui aient plus souvent tort que ceux qui ne peuvent souffrir d’en avoir.(La Rochefoucauld; Maximes 386)
そもそもカ氏は、チェコ生まれのユダヤ人でウィーン大学で学んだケルゼンについて、【経歴も…訳者解説(岩波文庫版、長尾龍一、上田俊太郎訳『民主主義の本質と価値』=筆者註)から、書き写し…学生としてドイツで学問をしたことはない】(7月21日・84)と言い張っていた御仁だ。
私の指摘で5時間後に、【確かに、確認が足りなかった、と反省】(7月21日・91)という程度だ。
何のことはない、日本版Wikipedia頼みだからだろう。英語版の‘Hans Kelsen’は日本版より遥かに充実していて、雲泥の差がある。言い訳する前にさっさと調べればよさそうだが、怠惰だから、その気はない。
ことほど左様に困った、醜悪な「コピペの女王」(κλοπή βασίλισσα)が、過去を頬被りして何を偉そうなことを宣っているのか、それこそ「気がしれない」。
学者が相手の学説を批判することは、師弟関係であってもあり得ることで、別に「敵対関係」でもなかろう。同じタイトルの主著(『一般国家学』[“Allgemeine Staatslehre”])をもつ両者だが、ケルゼンはイェリネクの「国家両面説」(一般国家学を一般国家社会学と一般国法学の二部門に分ける)を方法論上の混淆として、国家は純粋法学的にのみとらえなければならない、と批判している。
読んだこともない著者について、無駄口を叩くのはいい加減にするのも、無知の自覚(‘οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι’=[無知の知])だろう。
芦田均さんは、そういうことがきちんとわかった上で、日本国憲法を修正されたのだと思う。わかっていないのは、自称知識人、「大学教授の肩書をもつ政治活動家」なのではないのだろうか?(参考:民主主義の擁護、ハンス・ケルゼン、岩波文庫 p166-168)
世間ではそれを節度(σωφροσύνη)とか、同じことだが自制心(σωφροσύνη)と称する。より古風な世代なら「襟度」(μεγαλοψυχία)とも言おうか。いずれにしても、「躾」(ἄσκησις)の疎かな不作法(ἐπαριστερότης)で堪え性のない(μαλακός)老媼には無縁な世界なのだろう。
それにしても、ケルゼンの民主主義擁護の、陳腐な(πρόχειρος)とるに足らない(φαῦλος)小著『民主主義の本質と価値』(H. Kelsen, “Vom Wessen und Wert der Demokratie; Staatsform und Weltanschauung”, 1955)の新訳を最近になって漸く読んだのをいいことに、「一知半解」で、よくもまあ法螺話(ἀλαζονεία)を撒き散らして愧じる気配もない。
岩波文庫旧訳(西島芳二訳、1948年初版、66年改版=タイトルは『デモクラシーの本質と価値』)を廃して新訳が出た年が、日本の政治にとってどういう年だったかは、「政治音痴」のカ氏ならずとも、疾うに承知だろう。
まさに、安倍内閣の諮問機関である「安保法制懇」(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会)の報告書が出た年(2014年5月15日)だ。そして、有識者公聴会で与党側証人の長谷部恭男氏が安保法制関連法案を「憲法9条違反」と断じて、政府に反旗を翻すようになるきっかけになった年だ。
またぞろ、かつての60年安保騒動時の安保改定になぞらえて、「民主主義の危機」だとか「平和が脅かされる」という大合唱がメディアで盛んに喧伝されるようになったまさにその年だ。
魂胆は「見え透いている」(εὐθεώπρητος)書いたのはそのためだ。長尾氏は利用されたのであり、ケルゼン研究者で、日本の憲法学に批判的な長尾氏もそれでも良しとしたのだろう。
岩波文庫からはC. シュミットの『現代議会主義の精神史的地位』(“Die geistesgeschichtliche Lage des heutigen Parlamentarismus”, 1923)も樋口陽一訳で出ている。商売上手だからヴァイツゼッカー演説のようなつまらない政治的小冊子も出すわけで、勘繰り過ぎてもどうかと思うが。
篠田さんが事実誤認、というかあり得ない記述ミスを指摘した岩波新書(吉次幸介『日米安保体制史』、2018年)だって、一種の「季節商品」なのだ。もっとも、新書には田中美知太郎『ソクラテス』のように、刊行から62年たっても色褪せない名著もあり、言論も研究も自由に任せたらよい。
シュミットの『現代議会主義の精神史的地位』はケルゼンの『民主主義の本質と価値』より遥かに中身がある問題提起だ。同書の趣旨は、19世紀後半以来の大衆社会の出現は民主制や議会政治にも地殻変動的な変化をもたらし、「公開の討論を本質とする議会主義(Parlamentarismus)の原則を多数決原理の形式的な運用によって空洞化させ、それに伴って多元的な社会的意思決定を政治意志に統合する政党は、社会経済的な特殊利益の代弁機関に堕する結果になった、という危機感だろう。
伝統的に職能代表的観念が牢固としたドイツではそうした傾向が顕著だった。
時代は、ロシア革命の成功と、その後のファシズムの擡頭が伝統的な西欧型議会制民主政治を挟撃する形で危機を迎えていた。時代の急激な変化に対応しきれなかったヴァイマール体制は、憲法の起草者がユダヤ系公法学者のH. プロイスだったように、一種のユダヤ的社会民主主義政権で、議会制的自由主義の存続可能性の精神的的基盤を模索していたシュミットの時代認識はケルゼンを遥かに凌いでいる。
シュミットが、謂わば病理学者の視点で、現代議会主義の危機の真の、つまり構造的原因を現代の大衆社会に探ったのは、伝統的民主主義観から共産主義やファシズムの脅威に囚われたケルゼンより目端が利いている。少し遅れて、『大衆の叛逆』(‘‘La leberión de las masas’’, 1930)を書いたスペインのオルテガ・イ=ガセや、『現代の精神的状況』(‘‘Die geistige Situation der Zeit’’, 1931)を著したヤスパースにも通じる。
もっとも、そうした的確な診断とは別に、彼が説いた「処方箋」は19世紀的な伝統的な自由主義的議会主義の理念の再認識を強調したもので、シュミットにしては陳腐すぎるが、民主的合意形成の「後進国」だったドイツならでは、の側面がある。やがて議会主義に見切りをつけ、『政治的なるものの概念』(‘‘Der Begriff des Politischen’’, 1927)で「決断主義」を打ち出すのには、充分な背景がある。
ドイツが戦後、ナチズム登場の地均しをしたとしてシュミットを厳しく糾弾する一方、ケルゼン的な法実証主義に偏した形式主義、相対主義の欠陥を認めてドイツ的な伝統にはない自然法論が勃興するのもそのためだ。[完]
戦前の朝鮮半島出身労働者への補償問題に対する韓国大法院判決をめぐる日韓の対立で激化した応酬(ἐνίστασθαι)は、昨年末の韓国駆逐艦の自衛隊哨
戒機に対する火器管制レーダーの照射問題、朴槿恵政権時の慰安婦合意の事実上の反古によって対立の度合いをエスカレートさせるなか、関係改善の見通しが一層遠のいたことを意味する。
というのが私の現時点での見立てだが、専門家を含めた共通認識だろう。
韓国側が一気にGSOMIA破棄決定という強硬措置に出た背景には、経済政策上の失政が続き支持率を下げている文大統領が、来年2月の総選挙をにらみ、日本製品の不買運動など反日姿勢を強める世論に押し切られて、日本に譲歩しない姿勢をアピールすることで支持率回復を狙う窮余の策に出た側面に加え、米朝が対話姿勢を維持ししているなか、北朝鮮がミサイル実験を繰り返しても昨年の平昌五輪以来の南北融和基調は当面揺るがず、米国との情報交換が継続している以上、半島の安全保障環境上、協定破棄が直ちに重大な懸念材料とはなりにくく、対日本との膠着状態打開に、日本にとって「想定外」の破棄を突きつけることで、日本側から交渉上の譲歩を引き出す、少なくとも日本側を交渉のテーブルに引き出す「切り札」(bargaining chip)にしたい、という思惑ものぞく。
‘bargaining chip’を意図するなら、その一手を打つタイミングと効果を入念かつ抜け目なく見極めなくてはならず、大統領府サイドにそれを周到に検討した形跡はみられない。しかし、世論頼みの政権浮揚策だけとも、常識的には考えにくい。
朝鮮半島の緊張緩和は、韓国が北朝鮮側に大幅に譲歩する、つまり一種の「抱きつき」手法によって当面の衝突回避を演出している側面もあり、米朝間に埋没しない独自の存在感をアピールするため、強気に出ている面も考えられる。政権内部の親北勢力が主導権を維持するため、この間の日韓対立を利用して日米韓の連携に楔を入れ、結果として米国との駆け引きにも利用したい思惑もあるとみられる。
現象面で一見して明らかなのは、強硬姿勢を強める世論への迎合だが、来る総選挙での保守勢力の反攻を抑え込み、次期大統領も引き続き民主派で押さえたいとの戦略が透けてみえる。「積弊清算」という保守派打倒の国内対立の論理が、日本との歴史認識の違いという「仮面」を利用して一層強まっている、とみられなくもない。
いずれにしても、安全保障の専門家からみたら、狂気の沙汰(ἡ μανικός)とも言うべき、内政の論理で国益(ἡ συμφερτός ἐγχώριος)を弄ぶ文政権の政治の貧困(πενία)は、ナイーブな理想(παράδειγμα)を掲げて朝鮮王朝時代を髣髴とさせた儒教的な素人政治が、結局「現実」の前に拝跪せざるを得なかった盟友盧武鉉政権の挫折の再来という悪夢を思わせる。
周到そうにみえて、一か八かの勝負に出たのだろう。自滅するに任せたらよい。
ドイツは、ホロコースト、「ユダヤ人大虐殺」に関しては、ドイツ人が実行したこととして、ユダヤ人にもきちんと謝罪し、ドイツ人の行った悪行として、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所も、ダッハウ強制収容所も、ミュンヘンのナチス博物館も、国際社会の「知る権利」にこたえるためにきちんと資料が展示してある。けれども、「カチンの森事件」、ポーランド人の虐殺事件、に関しては、長らくナチスドイツによってされたことになっていたが、ゴルバチョフさんのグラスノスチ政策の元、冷戦後ソ連軍によって行われたことが判明し、ドイツのマスコミはそれを大々的に報道した。そして2008年、ロシアのプーチン首相はポーランドのトゥスク首相と会談し、事件が「スターリンの犯罪」であると言うことで一致し、さらに2010年4月7日、プーチン首相はポーランドのトゥスク首相と共にスモレンスク郊外の慰霊碑に揃ってひざまずき、さらに事件を「正当化できない全体主義による残虐行為」とソ連の責任を認めた。プーチン氏は、この犯罪はスターリンによって行われたこととして、ロシア人の罪、を認めていないが、少なくとも、ドイツ人がしたことではないことを、「ドイツは国際社会に大々的にアピール」したのである。
Japans rechtskonservativer Regierungschef, Shinzō Abe, neigt dagegen offen zum Geschichtsrevisionismus, will die rabenschwarzen Seiten der japanischen Geschichte im 20. Jahrhundert kleinreden und die monströsen Kriegsverbrechen der Japaner verharmlosen.
Abe müsste inzwischen aber wissen, dass er mit seinem Geschichtsrevisionismus zwar bei der eigenen Elite und einem Teil der japanischen Bevölkerung gut ankommt, sich damit aber jegliche nachhaltige Versöhnung mit den Nachbarn verbaut.
日本の右翼保守派の首相、安倍晋三氏は、平和主義の令和の天皇、と違って歴史修正主義者であり、20世紀の日本の歴史の暗黒部を過少に述べ、愚悪な日本の戦争犯罪を軽く見せかけている。安倍首相は、この彼の歴史修正主義が彼と考えを同じにするエリートや日本人の一部とはよく調和されるが、近隣諸国との持続可能な和解を台無しにした、ということをよく認識しなければならない。
このビショップ記者の人物認識は、安倍首相の70年談話を出された安倍首相の人物認識、として正しいのだろうか?
結論から言えば、長谷川氏が批判するオーストリアの有力紙‘Presse’の社説(19日付)同様、暇潰し(διατριβή)、ルーティン・ワーク的に書きなぐった皮相な(λεπτός=flimsy)な俗論(ψευδῆ δόξάζειν)の類の他愛もない(ῥᾳθυμηος)内容だが、長谷川氏は憂国の士(ἀγαθὸς πολίτης)ではあるようだ。
‘Zwangsarbeiter und Trostfrauen: Nordostasiens vergiftetes Klima’ (一応、長谷川訳を採用すれば、「強制労働(元徴用工)と慰安婦: 北東アジアの険悪な状況」)なる社説(Leitartikel)で、執筆者はBurkhard Bischof氏だ。「ブルクハルド」ではなく、「ブルクハルト」だろう。余計な話だが、偉大なスイスの歴史家J. Burckhardtとは、綴りが違うようだ。
カ氏は南ドイツ新聞のいい加減な記事にも憤慨するが、専門外の領域について、大方社内事情で書かされたのだろう。【ニューヨーク・タイムズ(NYT)の記事を参考にしながら日韓問題をまとめたのだろう】という推測(τὸ δόξασμα)は、外れてはいまい。同紙に限らず。少なくない外国メディアの【東京特派員は朝日新聞の論調を土台として記事を書くことで知られている】のもまた、一面の真実だろう。
日本の海外駐在記者、特派員も似たり寄ったりで、現地メディアの情報を口真似して(μιμεῖσθαι)、直接取材したり調べたりせず、一見もっともらしい(εἰκός)、謂わば「やっつけ」仕事の記事をルーティン・ワークとして再生産しているのは、業界の人間なら公然の秘密だ。
多忙すぎるうえに能力にも限界があるから、メディアに限らず、海外駐在員にはそうした「語学屋」が少なくない。本社に帰還して余り出世しないのがそのためかどうかは知らないが、要するに国際派が「使えない」(ἀχρεῖος)所以だ。
【「北東アジアの経済大国、日本と韓国は目下、歴史問題で対立し、両国の和解の見通しは当分ない」】(以下、【】内の引用はすべて、長谷川良「海外紙論調に反映する『朝日』の誤報」から)は、見出し‘Zwangsarbeiter und Trostfrauen: Nordostasiens vergiftetes Klima’の下の小見出し的な記述=‘die Wirtschaftsmächte Japan und Südkorea wegen historischer Streitfragen in die Haare in die Haare( geraten fahren)’によったものだろうが、長谷川氏ならずとも目を剥きそうな杜撰な飛ばし記事だ。
本日23日付の「朝日」一面の「解説」と比べても出来が悪い。「オーストリアの代表紙」といってもその程度なのだろうし、「専門外」とはいえ、記者が劣悪(πονηρός)なのかもしれない。
所謂「歴史問題」(historischer Streitfragen)の焦点になっている元朝鮮半島出身戦時労働者(元徴用工)を、「強制労働」(Zwangsarbeit)と形容するのも、朝鮮が日本統治下にあった事情を捨象した粗雑な類推の論理(τῷ ἀνάλογον)で、日本側の両点に対する【見解は社説の中ではほぼ省略されているから、強制労働、慰安婦問題というテーマを挙げることで、日本側の責任を示唆している】のも、その通りだろう。
アジアを植民地支配した欧米の唾棄すべき過去は頬被りして、後づけのヒューマニズム(ἡ φιλανθρωπία)と正義の論理(δίκαιος λόγος)で議論の大枠を構成して愧じない神経は、汎欧州主義を掲げ、戦後は永世中立国となって国際機関が多数存在するオーストリアに限らず欧州人に珍しくない感覚で、欺瞞(ἀπάτη)と偽善(ἡ ὑπόκρισις)の最たるものだ。
それを、サン=ジェルマン条約で傷めつけられたオーストリア人が喋喋するのも滑稽だ。
ところで、慰安婦問題で⇒【日韓両国は慰安婦問題で合意し、日本側がアジア基金に資金を拠出した。韓国の文在寅政権がその合意を一方的に破棄したことには言及】とあるうち、「アジア基金に資金」拠出とあるのは、韓国側設立した「癒し財団」への10億円の資金提供のことで、かつての橋本龍太郎内閣での民間主体の「アジア女性基金」を類推させるので不適切だ。
さらに、韓国軍が米国側について参戦したベトナム戦争時の韓国兵士のベトナム人女性への性的犯罪問題には何ら言及していない点についての指摘と、当該記者の恣意的な記事の構成への批判はその通りだろう。
‘La petitesse de l’esprit fait l’opiniâtreté, et nous ne crpyons pas aisément ce qui est au-delà de ce que nous voyons.(La Rochefoucauld; Maximes 265)
【「戦争犯罪」といえば、欧州人ではナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺と結びつく。記者は日本の植民地下の問題をナチス・ドイツの戦争犯罪と同列視し、日本を批判…旧日本軍の戦争時の蛮行はあくまでも戦争下で起きたもの…ドイツのユダヤ人大量虐殺とは全く異なっている。オーストリアは…ドイツと連携し、戦争犯罪を犯した共犯国だったこともあって…「旧日本軍も同じだ」という論点が基本にある…大きな間違い】
極端なドイツ贔屓(καταχαρίζομαι)でご都合主義なカ氏も、得と認識すべき点だろう。先の大戦でのドイツの犯罪と日本の罪過は、旧秩序に抵抗した無謀なファシズムとはいえ、歴史的意味も、犯罪の位相も異なる。
このほか、Bischof氏が日韓の歴史認識の対立を議論する際の紋切り型の「集団的思考」は検証されざる俗悪な固定観念(φαῦλος ὑπόληψις)で、【韓国内の民族主義、反日ルサンチマン…に言及…「韓国は日本の過去問題で常にその要求のハードルを高くしている」と述べ、記事の公平さを保とうと努力】というのは、長谷川氏自身も囚われ陥り易い「物語思考」(εἰκὼς λόγοι)の「盲点」(τυφλός)であり、錯覚(σφάλμα)だろう。
長谷川氏は、単なるルサンチマン(ressentiment)、怨恨(φθόνος)とは異なる、朝鮮民族特有の情動、つまり「恨」(ハン)も、持病とも宿痾(νόσος)ともいえる内紛(στάσις)の論理である「積弊清算」の正確な認識もないようだ。基本的に朝鮮の歴史を規定した朱子学的伝統と論理について、無知だからだろう。
李氏朝鮮の場合、朝鮮の支配層はそうやって外敵そっちのけで、流血の事態もの珍しくなかった内紛を繰り返し518年も続いた歴史を日本人は知るべきだろう。
Bischof氏よりはましだが、長谷川氏も「朝日」の偏向を嗤えない、他愛もない俗論たる所以だ。[完]
(参考:紛争の平和的処理と 強制的処理 との関係 ―H .ケ ル ゼ ンの学 説 を中心 に―森 川 幸 一https://www.jstage.jst.go.jp/article/yearbookofworldlaw1986/2001/20/2001_20_30/_pdf/-char/ja )
そうこうするうちに、文在寅大統領の最側近で、文氏が近く法務部長官(司法相)に指名予定の初代秘書室長で前民情首席秘書官の曺国(チョ・グク)氏の家族めぐるスキャンダルが浮上し、野党側からの反撥が激しさを増すなか、その矛先を日本に向けて野党の批判をかわすため、今回の日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄決定に踏み切ったのではないかとの観測が広がっている。
スキャンダルの中身は、曺氏の娘が名門高麗大学に入学した際に不正があったのではないかというもの。
超学歴社会の韓国では不正入学はタブー。朴槿恵政権でも朴氏の親しい友人で大統領の政務に不法に影響を与えたうえ、娘を名門梨花女子大に不正入学させた問題でも大法院で実刑判決が確定した崔順実(チェ・スンシル)受刑者のケースと重なる。曺氏は長男の兵役が5度延期された問題でも疑惑が浮上している。
大統領にとってソウル大学ロースクール教授を務めた曺氏は、「公正な法秩序の確立、検察改革、法務部の革新」(曺氏)など、司法改革の完成という形をとった保守派勢力一掃への懐刀的存在で、法務部長官起用に文氏が執心しているとされる。
韓国政界では、文政権が掲げた「積弊清算」を推進する「ファーストトラック(迅速処理案件)の捜査を念頭に置いたメッセージ」(東亜日報)とみられている。ロースクール教授経験者の曺氏の辣腕で、検察・警察捜査権の調整、高位公職者犯罪捜査処の設置などが迅速に進められるとの観測が出るなか、野党陣営は反撥と警戒を強めており、曺氏のスキャンダル追及によって大統領側の攻勢を押し返したい意向だ。
結局、韓国の政治は、500年以上続いた併合前の朝鮮王朝以来、国内の絶え間ない党派対立の歴史で、それが安全保障政策にまで影響を及ぼしているのが今回のGSOMIA破棄決定とみられる。
実際にどの程度韓国の歴史ドラマ(日本でいう時代劇)を見たうえでの判断か、怪しい気がする。
日本の在京各局の、特に衛星チャンネルをみると、早朝から夕刻まで、韓国ドラマが目白押しだ。多チャンネル化に伴って、放送コンテンツが不足しがちなため、韓国ドラマは経営面からも歓迎されているようだ。韓国にとっても重要な輸出産業であり、金大中政権以来の、官民挙げての動きだ。
特に歴史ドラマは安定した人気を維持しているようで、日本では特別高い視聴率を稼ぎ出すわけでもないが、単なる埋めぐさ以上の存在感を発揮しているようだ。何んと言っても、日本と違って制作現場に活気があり、一クール三箇月限りで10~13話止まりという日本と異なり最低で20話、50話以上も珍しくない。
先月死んだ妻が好きで、よく梯子していた。根強い人気があるのが朝鮮王朝の特定の時代を描いたもので、日本の大河ドラマ、連続時代劇の人気が江戸時代なのと同じだ。ドラマだから、創作的要素を交えて興味深く、飽きさせない展開になっている。視聴率競争も厳しい。しかし、全く史実と異なる娯楽劇でもない。
何んと言っても主たる視聴者は韓国国民だから、史実を無視したファンタジーというわけにはいかず、為政者や支配階級である両班層に対してなかな辛辣な展開も珍しくない。視聴者は目が肥えているからだ。巧まずして歴史の基礎的な勉強になる。歴代国王の特徴と政治の構造、支配階級のイデオロギーである朱子学について、結構教えられる。テーマや登場人物も多彩だ。
従って、84の元京大生の感想は根も葉もない、無知ゆえの(δι’ ἄγνοιαν)曲解に等しい法螺話だろう。高がドラマと侮ったせいだろう。
記憶にある読者もあろうが、一介の宮廷料理人から王室の医師になる女性の物語『宮廷女官チャングム』、卑賤の出身ながら第21代国王英宗の母となる女性の生涯『トンイ』、両班の庶子(奴婢)から身を起こし国王の主治医になり、歴史上名高い医学書を著した『ホ・ジュン』など、いれずれも50話以上の長編で、次々に放映され高視聴率を記録した。
いずれも、それなりによくできた歴史ドラマで、現在も繰り返し放映されている。史実無視の無責任な勧善懲悪の成功物語、といったつくりにはなっていない。
日本の時代劇のケースを想起すれば分かることで、極端に史実を無視しては逆に空疎になってしまう。解釈の幅はあるが、それをもって「歴史の現実を押さえたものではない」とはならない。しかし、あくまでドラマだから、史実一辺倒でもない、というだけの話だろう。
視聴率競争が厳しいことは既述の通りだ。しかし、それに囚われて全く史実と異なる娯楽劇に堕するでもない。従来の解釈に挑戦するような形で、意欲的な人間ドラマ、性格劇に仕立てる場合もあるが、それとて日本でも同じだろう。日本統治下の歴史を描いたドラマは少ないようだ。ましてや日本で放映されることはまずない。
繰り返しになるが、主たる視聴者は韓国国民だから、史実を無視した無責任な架空物語(μυθολογία)というわけにはいかず(史実を離れて、自由な設定で物語、特に恋愛劇を展開する歴史ファンタジーは別に存在する)、国王や官僚などの為政者や支配階級である両班層に対して辛辣な描写も珍しくない。
製作陣、メディア関係者は旧体制的な価値観に否定的な立場の者が少なくない。特に支配階級の両班層の描き方は、どちらかと言えば否定的かつ皮肉的だ。
韓流ドラマも莫迦にしたものではない。
反氏は、過去に、ドイツは自ら戦争を始めた報いとして、分断国家の悲劇を味わったが、日本はその重荷を、朝鮮半島の人に負わせている、と主張されたことがあるが、ほんとうにそうなのだろうか?ドイツは、ソ連と独ソ不可侵条約を結んだのに、その条約を破ってソ連に侵攻し、ソ連がそれに反撃したのだから、ヨーロッパ分断の責任、自国分断の責任はドイツにある。けれども、日本は結んだ日ソ中立条約を破ってはいない。戦争末期に、宣戦を布告し、日本が降伏した後に、旧日本の植民地に侵攻してきたのはソ連なのである。中国は、内戦の結果、毛沢東の共産党が勝利をしたのだから、ソ連と同じでその政府は正当なものである。けれども、朝鮮の場合は、東ヨーロッパの国々と同じで、ソ連の傀儡国家なのである。
韓国制作の歴史ドラマ(時代劇)については、カ氏が朝鮮王朝の歴史について基本的に「無学にして無知ゆえに」(δι’ ἀπαιδευσίαν καὶ ἄγνοιαν)見当違いなその場しのぎの議論しかできないので困ったものだと思うが、浅知恵(ῥᾳθυμία)もいいところだ。
「勧善懲悪で罪がない」日本の時代劇と異なり、98⇒【韓国の場合、李氏朝鮮の政治がすばらしかったのに、ならずもの国家、日本が植民地支配した、というイメージで、韓国の時代劇が描かれている】というのは、基本的に韓国時代劇を観たことがないがゆえの錯覚だ。「日本が植民地支配した、というイメージ」で描かれてなどいない。
そもそも朝鮮王朝は、前朝の高麗に仕えた将軍李成桂(イ・ソンゲ)が1392年に建国し、1910年に第27代李垠(日本での事実上の「人質生活」は、敗戦後を含め56年に及んだ。正式な婚約者がいたが解消させられ、日本の皇族梨本宮守正の長女正子と結婚)の時代に日韓併合で幕を閉じるまで518年に及ぶ。
豊臣秀吉による二度にわたる侵略(1592年と1598年)、つまり文禄の役と慶長の役を朝鮮ではそれぞれ「壬辰倭乱」、「丁酉倭乱」と呼びけっして忘れないし、赦さないが、基本的に他国に支配された歴史はない。
文禄・慶長の役、つまり朝鮮出兵の時代は第14代宣祖の御代で、日本に攻め入れられ都・漢城を捨てて北辺に「逃げた」ことで評価は芳しくはない。従って、その極端な朱子学による国家改造を含め「李氏朝鮮の政治がすばらしかった」と朝鮮人が単純に考えているわけではないこと、民衆の正直な気持ちがどうだったかは、それこそ韓国時代劇を観ればたちどころに分かる。
【ならずもの国家、日本が植民地支配した、というイメージ】というが、1910年の併合以降は、通常は歴史ドラマの対象には含まれない現代史の領域で、カ氏のような議論は成立しない。実物をよく見てから議論すべきなのにそうしないから、見当違いなことになる。「何も知らない」(οὐδέν ἀγνοέω)ことについては、無駄口は叩かないことだ。
同じ敗戦国ながら、ドイツが経験した分断国家の悲哀を日本は免れたことについて、私が、98②⇒【日本はその重荷を、朝鮮半島の人に負わせている、と主張】と論難するが、朝鮮の民には共に苦しい戦争を戦った日本は敗戦によって旧植民地を手放しただけで、北朝鮮の無謀な軍事行動が戦争に発展し、今日に続く分断の「固定化」につながったとは言え、そもそも終戦後、「米ソによる分断がなぜ日本でなく、自分たちなのか」との思いがあるのは当然で、その矛先が最初の原因を作った日本に見けられるのは、ある意味已むを得ない、ということを指摘しただけだ。
冷戦に伴う対立の最前線が北緯38度線になったがゆえの悲劇で、半島の人々には気の毒だが、冷厳な国際政治の所産だ。
ヤルタでの密約の存在はともかく、ソ連が北海道に侵攻・占領して、津島海峡が東アジアの冷戦の最前線になる可能性も皆無ではなかったわけで、「分断がなぜ日本でなく…」式の反撥や違和感を朝鮮人が抱くことぐらいは大目にみてやる程度の度量(μεγαλοπρεπής=「心の宏さ」)が日本人にも必要だということだ。
カ氏の愚にもつかない103~104は、何ら有効な(περαντικόν)反論(ἔνστασις)になっていない。
103⇒【韓国の人々が、李朝朝鮮を美化】しているなら、戦後になって日本の植民地統治から解放され、独立を回復したのちに、王制(βασιλικη)を復活させてもよかったはずだ。最後の国王(βασιλεύς)、李氏朝鮮の王統を継ぐ李垠(イ・ウン, 1897~1970)は終戦時は存命で、王制は維持できたはずだからだ。しかし、そうはならず、王制を廃して共和制=大統領制になった。北朝鮮はもとより共産主義だから復活はありえなかった。
李垠が併合前の1907年以来、日本で事実上の人質状態だったのに加え、病弱で、しかも1920年に日本の皇族梨本宮正子と結婚、植民地政策の一環として皇族に列せられていた事情も大きい。終戦後祖国への帰国を願ったが初代大統領李承晩に拒否された。
それを李承晩の権威や策謀とみるより、誇り(καυχημα)とプライド(φρόνημα)だけは世界有数の朝鮮民族にとって旧皇族に列せられたことに加え、子を設けなかったものの、そもそも王家に日本人の血統が入ることを極端に忌み嫌い耐え難かった朝鮮人の民族意識がある。
李垠は朴正煕政権の誕生で63年に56年ぶりに帰国を果たすが、半身不随で、廃人同然だった。
そもそも、初代朝鮮総監伊藤博文の政治的意図は、植民地統治の障碍になる国王を最後の砦とする「反日勢力」排除を目指すうえで第26代国王高宗(初代大韓帝国皇帝)の強制的な退位に加え、朝鮮王朝の解体は既定路線であり、併合後、首都漢城は京城に変更され、首都の城壁18.5㌔の大半は撤去され、正宮の景福宮は130棟のうち8棟を除いてすべて破壊された。王制復活の基盤が、日本によって悉く破壊された後だった、ということだ。
恨みを買うことは已むを得ない。
☆訂正 101⇒【第27代李垠】とあるのは、【第27代李坧(純宗)】の誤り。李垠は李氏朝鮮最後の皇太子。
Schonung unserer Gefühle durch uns selbst oder durch andere hilft nicht weiter. Wir brauchen und wir haben die Kraft, der Wahrheit so gut wir es können ins Auge zu sehen, ohne Beschönigung und ohne Einseitigkeit.
我々自身によって、あるいは他人によって、私たちの感情を慰撫することは助けにはならない。我々は弁解や偏りなしに、できるだけ真実を直視する必要があり、その力もある。
ではじまり、
Schauen wir am heutigen 8. Mai, so gut wir es können, der Wahrheit ins Auge.
今日5月8日にあたって、できるかぎり真実を直視しようではありませんか。
で終わっている。ヴァイツゼッカー演説の巫女の私も当然、美化されたり、歪曲された日韓の歴史ではなくて、日韓の歴史の真実を見たいのである。
まず、「日韓併合」、伊藤博文は、日韓併合に反対をしていた政治家である。大日本憲法をつくるときも、日本国憲法の解釈を「権威主義的に」押しつける日本の憲法学者のようではなく、「民主主義的に」みんなで議論して明治憲法を作ろう、と主張した政治家である。ほんとうに反氏の主張されるようなことをしたのだろうか?ウィキペデイアの日韓併合の著者も、反氏と見解を異にする。
今度はどこからコピペしてきたか分からないが、ソクラテスの「無知の知」(μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι[Apologia Socratis, 21D])について、【「人間には限界があるが、限界があるなりに知の境界を徹底的に見極め、人間として分をわきまえつつ最大限善く生きようと努める」姿勢】なのだという。
「ああ、そうですか」、というしかなく、それなら‘Avez-vous un texte?’、というほかはない。私は、素人論議の「ソクラテス文学」「ソクラテス物語」の類には興味はない。むろん、「学問」(μάθημα)とも「哲学」(φιλοσοφία)、何ら関係ない。
カ氏はそうした骨の折れる(πραγματειώδης)、しかし必要不可欠な(ἀναγκάῖος)論証(ἀπόδειξις)の手続きを一切していない。できもしない。
ギリシア語の原文で読むよう求めているわけではない。無謀(θρασύτης)かつ軽率な(ῥᾳδιος)、「無意味な信念」(ἄσημος πίστις)の類をソクラテスの発言に投影しても意味がない、ということだ。
それは、何の根拠(τὸ διότι)もない手前勝手な臆測(δόξασμα)をソクラテスにもち込む(hineinlegen)、つまり願望(βούλησις)=「そうあれかしと望む」(προαιρεῖσθαι)ことを投影しているだけで、具体的なテキストの裏付け(διὰ τι)に基づく説得力(πειθώ)など、最初からありはしない。
ヴァイツゼッカー演説の口真似(μιμεῖσθαι)とお追従(ἀρέσκεια)しかできない分際で、よく大口を叩く。滑稽(γελοῖος)を通り越して悲惨(πονηρία)だ。
「無知の知」、正確には、「私は知らないから、その通りに、また知らないと思っている」(‘ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι’=Apologia, 21D)、または、「つまり私は、知らないことを、知らないと思う、ただそれだけのことで優っているらしい」(‘ἔοικα γοῦν τούτου γε σμικρῷ τινι αὐτῷ τούτῳ σοφώτερος εἶναι, ὅτι ἃ μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι.’=ibid., 21D)ということであり、別に特別な「知」(σοφία)を語っているわけではない。
同じソクラテスの言い方だと、「人間を教育する」と豪語して大金を取るソフィストたちの「知」を「人間並み以上の知」(‘μείζω … ἢ κατ᾽ ἄνθρωπον σοφίαν’=ibid., 20E)として皮肉を込めて語り、それに対する自分の知、即ち「不知の自覚」を「人間並みの知」(‘ἡ ἀνθρωπίνη σοφία’=ibid., 23A)と語っているにすぎない。それ以上でも、以下でもない。極言すれば、無知の「知」など騙ってはいない。
「本当の知者は神だけ」というのは、神についてソフィスト同様、何も知らない(「彼らと同等の弁論家ではない」‘οὐ κατὰ τούτους … ῥήτωρ’[ἀμείνων ἢ κατὰ οὐτούς=「彼ら並み以上の」という皮肉を込めて]=ibid., 17B)ソクラテスが、神を基準(κριτήριον)にして「人間の知恵」を語ったわけではない。
「無学」な素人は気楽でいい。
新憲法の特色として、まず一番にあげられているのが、「民主主義政治」である。その意味は、「国民による、国民のための、国民の政治」ということであるが、国民、といった場合、権力側、安倍首相も、キャリア官僚も入るのであって、反安倍、反自民の人だけを意味するわけではないのである。続く文章、「民主主義を正しく実行するためには、まずすべてのものごとをよく知り、正しい判断を持つように心掛けなければならない。特にわが国では今まで政治は一部の人々が思うまま動かしていたため、一般国民は政治について教えられることが少なく、自分の意見をのべることも窮屈であった。また自分の考えをまとめるだけの勉強も足りなかった。・・これからの政治の責任はみな、私たちみんなが負うことになったからである。」とあるが、一部の人びと、というのは、戦前も戦後も、マスコミを牛耳る知識人、政治活動家、であったのではないのだろうか?日本のマスコミ、新聞やラジオが「おかしな世論」を作り上げなければ、「軍国主義」にもならなかったし、日本国民が「鬼畜米英」と叫んで、日米開戦に突き進まなかったのである。
そんな国際情勢下、平和を愛する精神をもった日本人、唯一の被爆国、原子爆弾の悲惨さを知っている日本人がすべきことは、世界の国々の平和を愛する人々と協力して、北朝鮮の核開発をやめさせ、米露中の「INF条約の締結」に向かわせる努力なのではないのだろうか?「ヨーロッパ」は政府首脳を含めてそう考える人は多い。
とにかく、「覇権主義」のトランプ型、ムンジェイン型外交は、もうたくさんである。
(参考; 「新しい憲法、明るい生活」、岩波現代文庫)
すべからくカ氏の怠惰(ἀργία)怠慢(ῥᾳθυμία)が生んだ結果なのである。そして如何ながらこの世は「愚者の楽園」(τὸ ἄφοβον μακάρων νῆσος)ではなかろう。合理的な反論ができない腹いせ(τιμωρία)というか仕返し(τίσις)というか、謂わば負け惜しみ(διαφιλονεικοῦτες)で110⇒【自分と考えの違う人に、おかしなレッテル貼って、人を蔑む】のような御託を並べることしかできないから、不当な「レッテル」か否かは措いて、蔑む(καταφρονεῖν)に値する(ἄξιος)、ということだろうし、「嘲笑されるに値する」(χλευαστικός)ということではないか。
すべては、身から出たサビ(τιμωρεῖσθαι)なのだ。
いずれにしても、ソクラテス解釈のような学問的議論(ἀκριβολογεῖσθαι)で、常に優劣(εὐσχημοσύνη κὰι ἀσχημοσύνη)を決するのは、「多数者の支配」(πλῆθος ἄρχον)に基づく民主的な原理(ἀρχή)ではない。それは政治(πολιτικός)の原理であっても、学問(μάθημα)の原理ではない。
学問的な真理(ἀλήθεια)は、多数者(οἱ πολλοί)の判断とは関係ない。むしろ、鋭く対立する(ἀντικεῖσθαι)。
‘Les vieillards aiment à donner de bons préceptes, pour se consoler de n’être plus en état de donner de mauvais exemples.’(La Rochefoucauld, Maximes 93; Œuvres completes, Bibliothèque de la Pléiade, p. 415=「年寄りは悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。」)
真理は民主的な手続きで決まるものではないことぐらい、カ氏の甘ったれた心性でも分かりそうなものだ。プラトンやアリストテレスで気に入らなかったら、ニュートンでもアインシュタインでもいいが、彼らは別に民主制に気遣って(ἐπιμέλεομαι)、学問的探究に勤しんだわけでもあるまい。「気遣わねばならない」(ἐπιμελητέον)理由などあるまい。
哲学者も科学者も一般社会では法を順守し、民主的な合意形成の中で生きているが、それと学問とは自ずと別、だということだ。
そして、何ごとによらず民主主義的な平等(ἰσότης)を振り回すカ氏のような人物こそ、無思慮な(ἄφρων)現実追随(κολακεία καὶ κολακεία)に堕する。この世は不平等(ἀνισότης=inequality)で不公平(ἡ ἀνωμαλία=enevenness)な社会なのだ。
大体において、110②⇒【ソクラテスの「無知の知」については、ウィキペデイアからひいた】というが、日本版Wikipediaの「ソクラテス」(そして「ソフィスト」)は、「でたらめの宝庫」である。そもそも、ソクラテスは「無知の知」(ἀμαθής γνῶμη)という言い方は、どこでもしていないことは、ギリシア語を解する研究者には自明な、つまり周知の事実だ。
Wikipediaの筆者は、素人(ιδώτης)、即ちそれを理解できない程度の「もぐり」なのだろう。
「『無知の知』という言い方でよく知られている、『人間並みの知』とソクラテスが呼んだ知のあり方…プラトンは、ソクラテスによるこの知のとらえ方こそ、『哲学』(philo-sophia=知の探究)の確かな出発点であり、立脚点であると見てとったにちがいない。なぜなら『無知の知』とは、――自分が何事かを知っていると思い込む以前の状態に、つねに自分を置くことへのたえざる習熟ということである…ほんとうに知っていることと、たんに知っていると思いこんでいることとを、あくまで厳格に区別しようとする構え」(『プラトンの哲学』、1998、岩波新書、43~44頁)と、「知」(ἐπιστήμη, φρόνησις, σοφία)とは、カ氏が考えるような生易しいものではないことを教える。
そのための探究(ζήτησις)の単なる出発点(ἀρχὴ)=希う(φιλεῖν=愛する)であることを示唆する。「哲学」(φιλο-σοφία)がその名の通り、端的に「知」(σοφία=ソフィア)の「学」(μάθημα)ではなく、「知」を愛する(φιλεῖν=フィレイン)活動であることの原初の姿を伝えている。
以前にも指摘した通り、何も書き残さなかったソクラテスのような人物の思想について、専門家(τεχνίτης)にはプラトンやクセノポン、アリストテレスの原文を補足(προσθήκη)して真偽を自ら解明する自由と責任(ἐλευθερία καὶ αἴτιον)があるけれど、素人の門外漢(ἀνεπιστήμων)には主観的な解釈の自由という幻想(φάντασμα)しかない。
研究者は他人の翻訳を頼りにあれこれ頭を悩まし、お勉強する素人とは異なる。憲法解釈とソクラテス解釈を類比的に(κατ’ ἀναλογίαν)語ることも、ほとんど意味がない。
それに気づかない(λανθάνειν)カ氏は、錯覚(σφάλμα)と幻想に生きている。[完]
カール・シュミットは、絶対的な真理の体現者がいる、ヒトラーだ、ということで、「全権委任法」の下地を作ったのであるが、ケルゼンは、その風潮を危惧し、「いない。」と主張して、「民主政治」を擁護したのである。「民主政治」は、我々人間は神ではないので、相対的な真理しかわからない。国政について、みんなで責任をもとう、ということで、政治参加の法的平等を担保し、国民が選出した政治家が、「三人寄れば文殊の知恵」的手法で、妥協し、折り合いをつけながら、「法律を作る」ことを奨励したものである。
シュミットの主張する「全権委任法」から、「人種法」が制定され、「ホロコースト」が起こったのに対して、ケルゼンの推奨する「闘う民主主義」によって、ドイツではこの80年余り「東西冷戦」時代、「東西統一」を経て、現在に至るまで、平和が維持されている。この前のヨーロッパ議会選挙でも、普通のドイツ人が、選挙に関心をもったから、「自国第一主義」の極右が大きな力をもたなかった。
そういう危惧が、日本のマスコミ界にはなさすぎるのではないのだろうか?今、朝鮮半島の政治指導者は「反日」の法律家出身のムン・ジェイン氏と、「軍国主義的専制国家」のキム・ジョンイル氏だということをよく考えて、日本の取るべき道は、どの政党に、政治家にゆだねるべきなのか、ということを、洗脳されるのではなく、「現実的に自分の頭」でよく考えるべきだ、と思う。
笑止なのは、カ氏がそれに半ば気づいているようで、実際は気づいていない(λανθάνειν)ことだ。前項115末尾で、「カ氏は、錯覚(σφάλμα)と幻想(φάνταμα)に生きている」とした所以だ。
ソクラテスの真理観、知識観について、最も根本的な資料であるギリシア語テキストの記述(プラトン『ソクラテスの弁明』の関連箇所)を示して具体的に論じている私に、「権威主義的」と非を鳴らす(ὀνειδίζειν)割には、自らは間違いだらけのWikipediaの記述を鵜呑みにして、そこに着実な根拠があるかのように思い込んで、つまり権威(ἐξουσία)ならざるものを、あたかも権威のようにありがたがって揚言している。
他人の頭で考えたこと、しかも根拠が不確かな虚妄(ψεῦδος)に等しいクズ記述にわけも分からず飛びついて共鳴する(συμφνέω)。謂わば党派(συνωμοσία)の論理、カ氏が激しく批判するイデオロギーで糾弾(ἐπιτίμησις)する、それこそ似而非「権威主義的」な「観念遊戯」(ἑπίνοιαν παιδιά)で何かを論じた気になっているお手軽さ(ῥᾳθυμία)に呆れる。
単純(ἁπλοῦς)でお目出度い(εὐήθεια)の一語に尽きる。 それを知的な奴隷根性(δοῦλοψυχία)という。
その虚飾に満ちた(ἀλαζονικός)驕慢な資質からして、コピペを繰り返し少しでも楽をして、半ば日課と化した「クズ投稿」を続けたいようだが、遺憾ながら日本版Wikipediaは真理を論じる条件(ᾧν οὐκ ἄνευ)を満たしておらず、その夥しい誤謬にも気づかない哀れさだ。
大方、真理についてなど、本当は関心もないのだろう。そして、それを「充分に自覚していない」(ἱκανῶς ἄγνοέω)、つまり、肝腎の「自分について無知で」(αὐτὸ αὑτὸ ἀγνοεῖν)、盲目である(τυφλοώττω)ことを示している。「無知の知」も何も、あったものではない。
それでメディア批判に躍起になっている(προθυμέομαι)のだから、滑稽を通り越して質の悪い冗談(εὐτραπελία)、というか戯画(ἡ κωμῳδεῖν)でしかあるまい。
最後に、ソクラテスは不当な死刑宣告後もアテーナイの裁判所や国家に【「民主的な法治国家の裁定」】を理由に従い、周囲の脱獄の勧めも断って毒杯を仰いだわけではない。国法(ὁι νόμοι)に従う形を通して、アテーナイという国家公共体(τὸ κοινὸν τῆς πόλεως)に殉じたにすぎない。
なぜなら、命を惜しんで脱獄することは、「われわれ国法と国家全体をお前の勝手で一方的に破壊する」(‘τε νόμους ἡμᾶς ἀπολέσαι καὶ σύμπασαν τὴν πόλιν τὸ σὸν μέρος’)ことだからだ。『クリトン』(50B)にそうある
民主制への忠誠心などではない。それはケルゼンも含め、近代人が陥りがちな偏見だ。
今夏の日本の蒸し暑さは格別だ。先月28日に死んだ妻を連れて先月13~16日、古来「瘴癘の地」と称された台湾を旅して、渡航前はその蒸し暑さを恐れたが、何のことはない、日本の方が凄まじい。台湾と異なるのは、「瘴癘」の二文字が示すような、暑さゆえの風土病が日本には存在しないことだ。
妻が死んだことで「おさんどん」から解放され、一段と暇(σχολή)になった。8月4日に投稿を再開してから前回119まで都合121本書いた。1回きっちり800字近いから、原稿用紙換算で約240枚、一日平均11枚4,400字書いている計算になる。
1回当たり30分弱だから、5時間弱を費やしたことになる。われながら酔狂なものだ。一日6~7時間は本を読み、睡眠は4~5時間、たまに外出するが、妻に先立たれてもはや余世だから、新聞は購読しているがあまり読まない。テレビはラジオ代わりに終日つけっぱなしだが、ほとんど観ない。観なくとも、少しも困らない。新聞も同じということを再確認した。
そういう観点からみると、篠田さんの今回のテーマは少々愚痴っぽく聞こえる。苛められて(ἀδικέομαι)いるのは分かるが、そう苛立つこともない。干支が一回り違う先輩として、諫めたい。
私の愛好する詩人西脇順三郎の詩に、「地球つてあまりいいところではない/なにしろ住みにくいところだ/生殖が終わつたらすぐ死ぬといい/豊饒の女神のへそにたまる/けし粒になる方がいい」(「天国の夏」、『禮記』108頁)とある。
詩人の乾いた哄笑が聞こえる。人間も人生も詰まらないし、他愛がない存在だ。滅びても、地球上の他の生命体は少しも困らないが、「万物の霊長」などと尊大に振る舞っている。
少々のことで苛立つことはない。οἴμοι.
ところで、117・9行目の⇒【「軍国主義的専制国家」のキム・ジョンイル氏】とあるのは、文脈からして先代の金正日ではなく、金正恩の誤りだろう。人様を嗤えないが、それにしてもカ氏はそそっかしい(προπέτεια)。表記が安定しないのも氏の特徴で、ムンジェインとよく書くが金正日、金正恩と対比させるなら文在寅だろう。
ウェストファリア(Westphalia)条約だったり、ウェストファーレン(Westfafalen⇒der Westfälische)条約だったりもする。両者とも間違いではないが、首尾一貫(ταὐτὰ λέγειν)しないのは立論と一緒だ。その時々の気分次第でというのか、移り気な(ἀσύμφωνος)ころころ変わる(ἀστάθμητος)性質は別に女性だからでもなかろうが、感心しない。
‘οὐδὲν τῶν πεπραγμένων οὔτ’ εὔλογν οὔθ’ ὁμολογούμενον αὐτὸ ἀὑτῷ φαίνεθαι.’(‘Nothing of what has been done seems rational or honest or consistent.’=Demosthenes, 1114)というが、戒めたいものだ。
冗語ついでに、同じく前回「一日6~7時間は本を読み」と書いたが、私などは少ない方で、20世紀前半の英国のギリシア数学研究者で、エウクレイデスの『原論』を英訳したり、名著“History of Greek Mathematics”(1921, Oxford)を著した T. L. Haethという人物がいて、大蔵省勤務のアマチュア研究者だが超一流で、遅い結婚前は一日13~14時間以上勉強していて、結婚して1~2時間減ったので、「結婚すると暇になる」と豪語したという。
私など足許にも及ばない。
ところで、カ氏の意味不明な(ἁμφιβολος)文章、122⇒【反氏の‘small Latin, less Greek’という域にも達しない…他者の愚にもつかない見解をもって回ることはいい加減改めたらよい。という主張…ドイツ文化は、ドイツ語で作られ…宗教改革以前は、ドイツ人にとっての教養、文化は、ラテン語で書かれたものであった】を読むと、別の意味で憐れを催して、「あ~ぁ」である。
「反氏の‘small Latin, less Greek’…」で始まる前段の文章と、後段の「ドイツ文化は、ドイツ語…」とが論理的に接合しない、全くナンセンスな文章だ。
ギリシア語もラテン語も全く解さないカ氏に対して、「‘small Latin, less Greek’ という域にも達しない『無学』」云々は、他に形容のしようがないから不満だろうと已むを得ないが、その含意はソクラテス解釈は、一切の著作を残さなかったソクラテスの言行を伝えるプラトンやクセノポン、アリストテレスのギリシア語の原文に拠らなければ、正確な解釈は不可能であり、ギリシア語が読める専門家(τεχνίτης)とそうでない素人(ιδώτης)、即ち非専門家(ἀνεπιστήμων)とでは当然に比較の対象にならない、という趣旨であって、ドイツ文化云々は全く関係ない。
カ氏の論法は、形式的には論点窃取の詐術的議論(παραλογίζεσθαι)、平たく言えば論点ずらしのごまかしで、本欄で懲りずに繰り返してきた過去の夥しい行状(πρᾶξις)を想起すれば充分だろう。
「『ウェストフェリアー条約』」について…」以下の俗説は、昨今では気の利いた高校生でも「世界史」の知識で論駁できる水準なので相手にする意味がないが、122②⇒【「学問の自由」はローマンカトリックの権威主義から解放された結果生まれたもの】というのは、余りに視野狭窄(μύωψ)な見解だ。
プロテスタントがどれくらい独善的で不寛容かは、欧州のキリスト教史を知る者の常識(τὰ ἔνδοξα)だろう。
宗教改革では当初共同歩調を取り、ルターのドイツ語訳「新約聖書」の原典である校訂本を出したエラスムスとの、自由意志をめぐる論争に端を発した対立と決裂は、主にルターの独善性と尊大さが招いた。
カルヴァンに至っては、自らに批判的で、三位一体説を否定し、キリストの先在・予定を否認して善行の功徳を認め、幼児洗礼を非難したスペインの神学者で医学者(血液循環の原理を発見)のミシェル・セルヴェ(Michael Servet=Miguel Serveto)がカトリック教会によって異端宣告され、一旦は逃れジュネーブを訪れたのを捕縛し、宗教裁判の末火炙りで処刑している。
ルターは、聖書をドイツの民衆に理解させようとドイツ語に訳したというが、実態はカトリックとの聖書解釈の主導権争いにすぎない。その訳はカトリックの公式なラテン語訳「ウルガータ」(Vulgata)より学問的に劣るうえ、近代語訳はルター訳(1534年に完成)に限らない。
フランスの人文主義者ルフェーブル・デタープル(J. Lefèvre d’Etaples)による新約聖書の訳は1523年に完成、さらにカルヴァンの従兄弟オリヴェタン(P. R. Olivétan)訳が1535年に出た。それを改訂した『ジュネーヴ聖書』が出るのは1588年で、近代聖書翻訳史上最高の作と言われ、ルター訳よりかなり高水準とされる(聖書学者の田川建三)。英語圏でも広まった。
「過ちの記憶を遺すことで反省を促すことは、明るい未来には必要だ。」はその通りである。けれども、それが本当にあったことかどうか、を検証することが先だし、「平和の少女像」を展示し、それを日本国内で巡回展示する、ということは、韓国国内や米国にそれらを常設する、ということと同じ意味をもつ。そのことをマスコミ関係者は、よく考えるべきなのではないのだろうか。
ホット開戦ではなく、ホットラインあるいは、ホット回線です。お詫びして訂正します。
聖書の近代語訳が宗教改革当時、既に複数あったことは既述の通りだが、ルター派ではない改革派による、所謂『チューリヒ聖書』(Züricher Bibel, 1524~25)については、字数の関係で割愛したので追加しておく。主にスイスのドイツ語圏で広まった。
カ氏の議論を眺めていると、如何にも古い通説(ἔνδοξα)、というか俗説ばかりで何とも退屈(ἀναισθησία)この上ない。124⇒【ガリレオ・ガリレイの、「それでも地球が回っている」が典型的】として、ニュートンに先駆けて近代の機械主義的自然観を確立するうえで重要な存在だったガリレイについて特筆大書しているが、有名なピサの斜塔からの落下実験で、それ以前のカトリック教会の公式見解だったアリストテレスの物理学説を実験によって覆したことが、学問がカトリック的桎梏から解放される端緒となったとでも言いたいのだろうが、極めて皮相で、一面的見解だ。
所謂近代自然科学以前の考察なので、如何に「知者たちのマエストロ」(maestro di color che sanno)であっても無謬とは言えない。しかし、その規制力はその後も続くのであって、スコラ哲学は言うに及ばず、哲学や論理学を筆頭に、その他の学問(生物学、修辞学、倫理学、政治学、文学理論など)は、アリストテレスへの註釈とも言える。
カ氏のご本尊のゲーテは地動説に固執したが、地動説も天動説(太陽中心説)も、アインシュタインの相対性理論を導入すれば、共に相対的な真理でしかない。
デカルトやカントをはじめ近代哲学の遺産を再検討する現代哲学の最先端の思考も、「アリストテレスを援軍としている」(中畑忠志京大教授)ほどだ。アリストテレスの強みは、その論証や観念、分析に多彩さと緻密さ、強靭さであって、人間的思考の極限の一類型を示している。
124⇒【「共産主義嫌いの」ドイツでも…中国習近平支持の方が多い】は、ドイツが商売優先だからだろう。
これは、「常識的真理」なのであって、それに対して、皮相で一面的である、とか、陳腐である、とか批判してみても仕方がない。
「商売優先」というよりも、「筋を通す国民性」なのである。商品の売買契約でも、普通、日本で商売をするのだから、普通の会社は、他の日本の会社と同じように、契約書にサインをして、商品を売ろうとする。そうではなくて、ドイツ国内では、商品を売る場合、このような契約なので、お互いに了解した契約を結んだ上で、取引をしよう、とする。その条件でもいい、という日本の会社は少ない。けれども、私は、その方が、よほど合理的だし、何かあった時、対応が誠実にできる、と思った。そういう国民性だから、私は信頼できるのである。
韓国のムンジェイン政権に対して、日本人が怒っているのは、「日韓請求権協定」に定められてい条約上の規定をを韓国が履行しないせいで、そういう国の政府は、信頼できないと考えるのが、国際常識なのではないのだろうか。
それにしても、私の▽126⇒08:33に対して、128⇒08:56、同じく▽130⇒09:56に対して、131⇒10:28――だ。早押しが死命を決するクイズ番組でもあるまいし、とにかく一矢を報いようと気がはやるようだ。滑稽だ。
前者の致命的な方は、論点窃取または論点先取と論理的には称されるもので、要するに論証すべきことを、あらかじめ前提とした議論をすることだ。頭が論理的にできていないから、その意味を未だに了解できないようだ。生まれながらの「論過の人」(παραλογισμός)たる所以だ。
ルターやカルヴァンを挙げるまでもなく、歴史上、プロテスタントがどれだけ独善的で不寛容かに反論するのに、そうとは言えぬ個々の事例をいくら枚挙(ἀπολογίζεσθαι)しても、何ら有効な(περαντικόν)反論にならないことを、理解できないようだ。「そんなことはない」と力み、「独善的または不寛容でない」人物が、別の時代に存在したことを例示してみても、何ら反証したことにならないからだ。
私の主張は、「すべてのプロテスタントが…独善的で不寛容だ」という論理形式、即ち全称肯定命題(τὸ καθόλου καθαφατικὴ πρότασις=すべてのAはBである)ではないからだ。
後者の方は、読んだこともないので何度でも間違える「イエネリク」(ドイツ語の綴り=Jellinekで一旦覚えれば、カ氏以外はそうは間違えない)だし、キムジョンイルだ(息子のLittle rocket man=金正恩をよく「金日恩」と繰り返していた)。
これまた見え透いたドイツへの「ごますり」(ἄρεσκος)で、呆れてものが言えない。カ氏にはドイツといい中国といい、ご贔屓(καταχαρίζομαι)があるから、何と言っても党派の論理で、臆面もなく(θαρραλέος)「白を黒」と言い包めては気に病む(δυσφορεῖν)様子もない。
何でも、132②⇒【互いに了解した契約を結んだ上で、取引】だから信頼できる云々と意味不明な御託を並べているが、商取引というのはドイツに限らず、法的にはすべて契約関係だ。「筋を通す国民性」と胸を張るほどのことでもあるまい。実定法偏重の法実証主義の伝統は根強い。安全保障は米国依存の何でもありで、米国のような世界水準の指導理念がない。
ドイツは経済的に苦しくなると、どうしても東に動く歴史を繰り返してきた。その好例が、第一次大戦後、西側陣営として最初にソ連を承認した「ラッパロ条約」締結という裏切り行為であり、次いでナチスの独ソ不可侵条約だ。
敗戦後はナチスに対する被害者意識を募らせて「解放」(ἐλευθεροῦντες)とか称して、すべての罪過をナチスに被せて愧じる様子もない国民のどこが、筋を通したのだろう。厚かましい(ἀναισχυντος)にもほどがある。
欧州の冷戦の最前線だったのをいいことに「非ナチ化」(Entnazifizierung)もそこそこに米国に取り入り、再軍備を果たして経済復興を遂げ、東西統一、EU拡大とともに商売を広げ、昨今は偉そうに振る舞っている。
「商売左翼」の「朝日」や「岩波」と、選ぶところはない。肝腎なところで、米国に仇を為す。
ロシアの一方的なクリミア併合とともに、戦後の世界秩序に対する明白な挑戦である強硬で急速な海洋進出を進める中国は、最近の「逃亡犯条令」をめぐる香港の混乱をみるまでもなく、世界を主導する政治的理念の埒外にある。
急激な経済的膨張で世界第二の経済大国に躍り出たが、米国に指定されるまでもなく事実上の「為替操作国」であり、共産党幹部の利益線である国営企業改革は一向に進まず、米国との貿易戦争が現在進行形の中国に展望はない。
党員8,000万人を擁する共産党が国家の中枢に、「核心的利益」の名の下に巣食い、それ自体が悪夢のような国家だ。
歪んだ人口構造、経済格差、情報公開に逆行する監視社会化、民主的合意形成の軽視など、未来型の先進国家に脱皮する展望は描き辛い。
21世紀型の政治理念とほど遠い共産党独裁を変えないことをもって「核心的利益」、「原理原則」とする国に、資格はない。香港、台湾が躓きの石となる可能性も皆無ではなかろう。中国マネーによる急速な経済的膨張は、世界各地で軋轢を生み、期待感以上の警戒感を生んでいる。
それに対して米国は建国から未だ二百数十年の人工国家ながら、自由と民主主義、資本主義市場経済をもって今後も世界的覇権を窺う。圧倒的軍事力は当面揺らぐまい。歴史なき人工国家である点が、旧弊な欧州に優る潜勢力をもつ理由だろう。
欧州は黎明期に逆戻りし、党首を退任しながら、今なおG7サミットでうろうろする女性宰相を含む寄せ集めに未来の芽はない。メルケル氏の力動感なき笑顔は、ドイツの政治的貧困の象徴だろう。
ヴェルサイユ条約による対独講和内容が、所謂「カルタゴ式」の過酷なものとなったのは、第一次大戦の戦後処理が、「さまざまな美名にもかかわらず、なお基本的には国家利益対立の決済という性格を本質としていた」からだ(長尾龍一『日本憲法思想史』、講談社学術文庫、200頁)。甘ったれたことを言ってはならない。
英国大蔵省代表としてパリ講和会議に臨んだケインズが、職を賭して条約案に反対したのは、別にその不公正さ(ἡ ἀνεπιείκεια)に憤慨し、ドイツに同情(συγγνώμη)したからではない。ケインズは感傷的(μαλακός)でもなければ道徳家(ὁ ἠθικός)でもない。甘い優男(ὁ φιλοικτίρμων)ではない。ただ、経済学的に考えて講和は実現困難で、戦後の政治的経済的安定に禍根(ἀτύχής αἴτιον)を残す見抜いていただけだ。
戦争に負けて(νῖκάομαι)領土(χώρα)を失うのは当然で、不公正な(ἀνεπιεικής)、不公平な(ἄνισος)、不正な(ἄδικος)、筋の通らない(ἄπορος)ことが起きたわけではない。帝国主義列強の角逐とはそういうもので、ケインズはただ経済学的に考えて、実現不可能なことを無理強いする(βιάζομαι)ことは合理的ではない、と考えただけだろうことは疑う余地がない(ἀνέλεγκτος)。
カ氏のたわけたお喋り(μωρολογία)⇒137~139を聞いていると、つくづく甘い(ἡδὺς)と思う。
以上がケインズの観察で、講和会議の表面上の勝利者は、クレマンソーだった。
スペイン国境に近い保養地ビアリッツであったG7サミットに居並んだ各国首脳もそれぞれに難題を抱えて四苦八苦しているようで、イランの外相を呼んだマクロン仏大統領はホスト国の意地もあったのだろうが、NATOは集団安全保障といっても、米国抜きでは安全保障政策は成り立たない。
米国によるイランとの核合意破棄も、INF(中距離核戦力)全廃条約の破棄も米ロの問題というより、特にINFの場合、その枠外で世界の核戦略バランスを崩しかねない中国の擡頭が背景にあるのは言うまでもない。
日本国憲法前文の唾棄すべき「美辞麗句を弄する」(καλλιεπέω)のがカ氏は好きなようだが、笑止この上ない。この世は所詮、国家も個人も「万人の万人に対する闘争」に外ならず、極言すれば「血塗られた道」なのだ。手が汚れていない者など、どこにもいない。
そうしたなか、「公正と信義に信頼して」などという甘ったるいものではなく、正義=Justice(δικαιοσύνη)を実現するには、個々の常に対立する「利害得失」の争いにおける調整規準としての「配分における正義」(τὸ διανεμητικὸν δίκαιον)を現実の課題とすることだ。
それは、「正義とは何か」という定義(ὁρισμός)をめぐる不毛な対立を避ける方途として、アリストテレスが2,300年以上前に説いたことだ。
あのサンデル先生がよく言及する。
中国、つまり中華人民共和国の建国間もない時期のチベットに対する侵攻は明白な国際法違反の侵略行為であり、現在なら南シナ海島嶼部で相手国との軋轢をものともせず、フィリピン沖のスカーバラ礁(Scarborough Shoal)に至っては国際司法機関の判決もものともせずに不法行為(ἀδίκημα)を無理押して、明らさまな軍事基地化に奔走している姿を、どう釈明するのだろう。
ベトナムとは西沙諸島、マレーシアとは南沙諸島と、係争が絶えない。インド、ネパール、パキスタンのカシミール地域にもちょっかいを出している。世界の紛争地に中国の息のかかった勢力の影がちらつくのは、周知の事実だ。紛争地域でなくても、経済停滞や資金不足に悩む地域にすり寄って、ちゃっかり占有されかねない小国さえある。オーストラリア、ニュージーランドでは政財界への影響力拡大に、手段を選ばぬ猛進ぶりだ。
その覇権主義と膨張主義は明白で、特に南シナ海での海洋進出の既成事実化を「核心的利益」などと言い募って正当化(ὀρθόω)している。「核心的」とは、如何なる譲歩もあり得ないという意味だ。既得権益保持の革命政党、即ち中国共産党の国家支配と同じだ。「一帯一路」にしたところで、国内のインフラ整備の不振、国有企業改革の停滞を国外に活路を求める形で代替しようと展開しているにすぎず、剥き出しの経済進出という名の擬似侵略行為の側面さえある。
中国は欺瞞(ἀπάτη)の国だ。
本項でテーマであるネット上の反リベラル的、反左翼的、反「非国家主義的」、反「非愛国主義的」言論に対する剥き出しの敵意とカ氏のそれとが同質なのは明らかで、所謂「ネトウヨ」の典型だろう。
本人がどれだけ自覚的かが問題だが、それも怪しい程度に他愛もなく、しかし偏狭的な(ακληρός)「反共産主義者」ということなのだろう。
それは西独留学中に東欧の実態を見聞した、という程度の取るに足らない(φλαῦρος)陳腐なものだが、それを「特別な価値がある」(περὶ πολλοῦ ποιεῖσθαι)かのように喋喋する。「だから、何なの?」という程度の水準の議論でお茶を濁す(τεχνάζω)。西欧留学が珍しかった時代の、古ぼけた歌謡曲のような話だ。
本人は至って真剣だから喜劇じみてくる。反論に窮して結局は、128⇒【とにかく、反氏とは、ほとんどの解釈が違うが、それは決して、私が無学だからではない】のような、魂の叫び(δακρύειν)にしかならない。
中身が伴わないプライドぐらい、滑稽なものはない。私とカ氏とは同一対象について解釈が異なっているわけではない。端的にカ氏が「無学」で有効な反論ができず、私は無学たる所以を具体的に論証しているだけだ。
意味のある人生はあるが、それが必ずしも価値を生まない、という点でこの世には価値の序列(τάξις)、即ち「優劣」しかない。
ドイツのように、商売で中国に尻尾を振る(κολακεύω)のを、卑屈(μικρόψυχος)という。抜け目なく(ἀγχίνοια)立ち回っているつもりなのも笑止だ。
一知半解のクレマンソー憎悪も滑稽だ。それだけフランスの被害は甚大だった、ということだ。
ところで、142⇒【仏のマルコン大統領】って? οἴμοι
私は議論が退屈で平板に流れないように、限られた字数の中で、できるだけ立論に工夫している。パリ講和会議について、日本語訳にケインズの英語の原文を添えたりするのも、広範な学識とジャーナリスト的センスを併せもった優れた筆致で諧謔と皮肉を交えながら各国首脳の様子を活写したケインズの才筆を紹介する意図もある。
そうしないと、せっかく30巻本(31冊)のMacmillan社の『ケインズ全集』を所持している意味がないからではなく、私は新聞社の元コラムニストでもあるから、その程度のサービス精神は常に心掛けている、ということだ。
何ごとも、文章一つ書くのにも、カ氏のように調べものはWikipedia一本やりというのは感心しない。労苦(πρᾶγμα)を惜しむことは、単なる手抜きを越えて怠慢(ῥᾳθυμία)、即ち精神の脆弱性(μαλακία)の表れだ。
142⇒【過去のコメント欄でなんども主張した通り、「ヴェルサイユ条約」が…】のような、壊れかけた蓄音機から流れるレコードの音色ような陳腐な物言いは、その典型だ。条約のドイツに対する過酷な内容が、142②⇒【講和会議での勝利者が、仏のクレマンソー首相だったからだ】のような乱暴な議論は、私も、ネタ元のケインズもしていない。
公開の場では歴史上初めて「総力戦」(guerre totalale)という言葉を使ったとされる(1917年7月22日のフランス議会での質問演説中)、フランスの老獪な(πανοῦργος)政治家は、彼は彼で祖国の国益(ἡ συμφερτός ἐγχώριος)を一身に背負っていたのだ。
しかし、彼はどこまでも醒めていて、獲物を射止めるまで、警戒を怠らない。気負いもない代わりに、他を侮って自ら倦むこともない。そうした人物にとって、「彼にとってフランスは一つの幻想であった。そうして人類は、フランス人や同僚たちも何ら例外ではなく、彼にとっては幻滅であった。彼の講和に対する原則は簡単に述べることができる。」(‘He had one illusion―France; and one disillusion―mankind, including Frenchmen and his colleagues no least. His principles for the Pease can be expressed simply.’: ibid., p. 5.)
曰く、「まず第一に、彼はドイツ人の心理について、次のような見解を真っ先に信奉している人であった。即ち、ドイツ人というものは威嚇以外には何も理解しないし、また理解もできない。交渉にあたっては情け容赦も仮借もない、有利とみればすかさずつけ込んでくるし、利 益のためにはどんな下劣なことでも敢えてする、彼らには名誉も誇りも慈悲もない。だからドイツ人とはけっして交渉したり、これを懐柔しようとしたりしてはならぬ。ドイツ人にはただ命令しなければならぬ。それ以外の条件ではドイツ人は人を尊敬しないし、また彼らに人を欺かせないようにすることはできないであろう、と。」(‘In the first place, he was a foremost believer in the view of German psychology that the German understands and can understand nothing but intimidation, that he is without generosity or remorse in negotiation, that there is no advantage he will not take of you, and no extent to which he will not dream himself for profit, that he is without honour, pride, or mercy.=引用続く)
カ氏を激昂(θυμός)させた箇所であろう。クレマンソーはそれ以来、カ氏の「不倶戴天」の敵になった。C. シュミットの「政治的なるもの」を、味方と敵、「友と敵の区別」(die Unterscheidung von Freund und Feind=「政治的行動や動機が帰着することになる特殊政治的な区別とは、友と敵との区別[『政治的なるものの概念』=‘‘Der Begriff des Politischen’’, 2 Aufl., 1932, S. 26.])とする理論について糾弾して、綺麗ごとを並べているが、カ氏の隠れた魂胆は見え透いている。
いずれにしても、カ氏はドイツの損失ばかり指摘するが、国際政治は敗者には甘くない。わが国のケルゼン研究の第一人者で、カ氏が名著と上にも下にも置かないケルゼン『民主主義の本質と価値』の訳者である長尾龍一氏も指摘するように、第一次大戦後の戦後処理は、ヴェルサイユ条約に象徴されるように、さまざまな美名(κάλλος)にもかかわらず、「基本的には国家利益対立の決済という性格を本質としていた」(『日本憲法思想史』、1996年、講談社学術文庫、200頁)からだ。文句の言えた筋ではない。
ただし、支払い切れないものを要求するのは、現実的にも経済学的にも不当かつ不合理だというのがケインズだが、国土が戦場となり甚大な被害と損失を被ったフランス側も背に腹は代えられず、戦費調達に要した負債も嵩んでいた。
「フランスもドイツに自国の価値観や憲法体制を押しつけようとは考えなかった。その代わりに領土を奪い、賠償を取り立て、ルール進駐によってドイツ経済を破壊することを意に介しなかった」(同)ということだ。
所詮、負けた方が悪い。
高校世界史の解説書に以下のような記述がある。
「賠償支払いについてはドイツ側も最初からその用意があることを認めており、焦点はその対象範囲と総額にあった。英・仏の世論は広範な賠償金支払いを期待し、とくにフランスはドイツの再強国化への警戒という政治的意図もあって高額な賠償を要求した。…ドイツ側は条約の個々の内容にもまして、交渉無しの一方的通告、戦争責任条項、さらにヴィルヘルム2世など主要責任者の国際法廷への訴追など、大国としてのドイツの名誉や体面にかかわる条項、それまでの国際慣行にはなかった新規事項を中心に批判した。…賠償額については…連合国内部でもそれが過大になることに懸念があり、それらを含めてヴェルサイユ条約はドイツに対して苛酷であるとする見方は長い間定説となっていた。
しかし近年、これはドイツに主張に引きずられて条約のマイナス面だけを強調し…ドイツの国土が占領されず、領土も基本的部分では保全され、また経済構造も手つかずで残され、さらに軍備制限も国際的な軍縮の先取りと位置づけられていることなどが十分に考慮されていないと批判されるようになった。現在では当時の状況を考慮に入れれば比較的寛大で、問題の多くは条約自体より、むしろその後の対応にあったとする見方が有力になっている。」(『詳説世界史研究』、山川出版社、2008年、462~463頁)。
余計な註釈は不要だろう。カ氏の見解のドイツ偏重を裏付ける内容だ。カ氏は「教科書」に弱い。
ともかく、講和条約の改定を求める動きがドイツを中心に高まるが、それが「修正主義」(Revisionismus)の語源だ。ドイツは「歴史修正主義」の本家だ。
142でもちゃっかりホロコーストの犠牲者数を修正している(οἴμοι)。[完]
彼のドイツ観「ドイツ人というものは威嚇以外には何も理解しないし、また理解もできない。交渉にあたっては情け容赦も仮借もない、有利とみればすかさずつけ込んでくるし、利 益のためにはどんな下劣なことでも敢えてする。」によって、敗者ドイツには、交渉での発言権が全く与えられなかったのである。それは、第二次世界大戦後の「マッカーサーと吉田茂」の関係とは全くちがうし、ドイツ人はそのような国民性をもってもいない。その証明に、現在のドイツの首相メルケルさんをあげたが、彼女は、Brexit交渉においてもわかるように、仏のマクロン大統領よりも穏健である。また、勝者が敗者トルコと結んだセーブル条約において、Briten und Franzosen schacherten darum,,wer sich welches Gebiet unter den Nagel reissen durfte.
イギリスとフランスは、どちらがどの地域をちょろまかしていいか、あくどい商いをしたそうであるが、アラブ地域に住んでいる、勝利に貢献した民族の自決、民族の立場についてはまるで考えず、二人の個人的な好みで分割し、英仏の統治領にしたから、クルド問題をはじめとする民族問題が、現在も火種となって中東では内戦が続いているのである。
反氏の主張は所詮、負けた方が悪い(コメント150)、と主張されるかと思えば、勝者の理論で日本が裁かれるのはおかしい、とダブルスタンダードを主張されるが、国際社会の現実は、「ヴェルサイユ体制の失敗」を反省して、第二次世界大戦後、「ニュールンベルグ裁判、東京裁判」を行い、「国民は悪くない、政治指導者が悪い。」として敗者の国民救済の「マーシャルブラン」を作成したのである。ドイツはその結果を受け入れ、「ヴァイツゼッカー演説」になっているが、日本の場合は、「政治指導者の責任」というよりも、軍隊があったのが悪い、軍備をなくせばいい、とその責任を人から物に転嫁しているのではないのだろうか?その手法では、なぜ日本が、客観的に見て負けるとわかっているのに、国民や戦場としてしまった異国の人びとに悲惨な状況をしいることになる戦争を始めたのか、の真相に到達しないし、似たようなことが起こった時の歯止めがきかない。また、軍隊や軍備をなくしてしまえば、侵略戦争の餌食になる。それができないことは、今回のGsomia問題で、はっきりしたのではないのか、と思うが、侵略される危険がまるでないのなら、韓国とのGsomiaはいらないのである。
Der Spiegelにも、von Dirk Kurbjuweitさんのエッセイが載った。Der Spiegelは、歴史を別冊シリーズで発行している歴史にも重きをおく出版社であるが、敗者であるドイツ人の目からみたヴェルサイユ体制の総括は興味深いものであり、次回のドイツ語の勉強会のテーマにして、ドイツ人の元教授にいろいろ教わろうと思っている。
(参考: Stunde der Abrechnung, von Dirk Kurbjuweit, der Spiegel 26/2019)
お詫びして、訂正します。
ただ、私の今おもうこと、ホロコーストの犠牲者と、原子爆弾の被爆者の人生はどちらが悲惨なのだろう。
原爆の後遺症を考えた時、あのような兵器を、戦争に使うこと、覇権争いの手段、抑止力に使うことも、禁止にすべきなのではないのだろうか?
その為に、朝鮮戦争で使おうとしたマッカーサーを米国トルーマン大統領は、解任したのであって、どこの国民に対しても、このような兵器は使われてはならない。朝鮮半島の非核化、北朝鮮の核開発、ミサイル発射は、短距離であろうと、国際社会はやめさせなければならないのではないのだろうか?
カ氏をはじめ、一般のドイツの民衆の認識レベルでは、政策的かつ計画的な、つまり合法的な「最終解決」(Endlösung)という名の一民族の抹殺という史上未曽有の悪業について、いかに鈍感(ἀναισθησία)かを示す何よりの証拠だ。ドイツ人にポーランド・カチンの森で起きた旧ソ連軍による大虐殺を云々する資格(ἀξίωμα)などない。
とにかく、命令されれば何でもやる。ホロコースト(ヘブライ語で丸焼き)という名の「人非人」による大量殺戮は、法に基づいたものだった。ただ、ユダヤ人というだけで夥しい無辜の人々が不条理にも殺されていった。人間としてのあらゆる尊厳を奪われ、ごみくずのように。
「悪も法も法なり」を地で行く暴挙で、実定法偏重の法実証主義的伝統が牢固としてあるドイツでなければ、これほどの暴走はなかったろう。
ドイツ人は、英国はもとより、カトリックの伝統があるフランスやイタリアとは明らかに異なる蛮性が、歴史の歯車が狂うことで飛び出す国民性、ということだろう。そのことに敏感で、弱点を熟知していたM. ウェーバーら少数のエリートは存在したが、彼ら世界有数の教養市民層(ドイツ版‘mandarinism’=「文化的保守主義」を特質とする知的教養層)と民衆の乖離がドイツほど際立った国家は他にない。
ホロコーストには「反ユダヤ主義」(Antisemitismus)だけでは説明しきれない人間の獣性(θριώδης)の深淵(σκότος)が口を開けている。
第二次大戦を主題とする刊行物の大半は、犠牲者数を600万人とするが、その根拠は明確にされず、各種の議論があった。
もっとも、600万人説の「起源」は明確で、戦争重罪人国際法廷(所謂「ニュルンベルク裁判」)。判決文266頁以下に、「ヒトラーにより絶滅計画の遂行を任されたアドルフ・アイヒマンは…600万人のユダヤ人が命を奪われ、うち400万人は絶滅収容所で最期を迎えたと推定した」とある。
この決定が依拠するのは二人のSS隊員の伝聞的証言。アイヒマン自身は後年のイスラエルでの裁判で500万人と600万人を揺れ動いた。戦後、東独とは異なりイスラエルと一貫して友好関係にあった西独政府は、この数値を追認した。ヴァイツゼッカー演説に600万人とあるのはそのためだ。
ヒムラーが1943年、第三帝国統計検査局長コルヘアに命じて作成させた報告書の中に、43年1月時点で、「欧州ユダヤ人の減少は既に400万人に達するものと思われる」とあり、そこに1937~43年にかけ、(移動中の自然死を含め)「欧州ユダヤ人住民の減少分は450万人と見積もられる」とも。
そこには東部占領地域のユダヤ人の死者数が「部分的に含まれるのみ」で、ロシアの残余の部分と戦線一帯での死者数は全く含まれていない」とあることから、600万人説を補完する。
以上からも、カ氏の議論の杜撰さは明白で、原爆被害の悲惨さと比較するのは、論点ずらしの「ごまかし」。
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