緒方貞子・元国連難民高等弁務官が10月29日に他界した。緒方氏の業績について、私がここで書く必要はないだろう。私は学生時代に難民を助ける会というNGOに出入りしていた。そのつながりで1991年湾岸戦争後のクルド難民支援の現場に行ったのは、最初に体験した国際的な緊急人道援助の現場だった。その当時、UNHCRの存在感は、圧倒的だった。国連機関の中でも圧倒的だった。大学を卒業する頃の私には、UNHCR職員の全てが格好良く見えた。そのUNHCRを指導する緒方氏は、テレビ等で見るたびにほれぼれするほど、格好が良かった。
今、SNSでも緒方氏を悼むメッセージが多数見られる。いずれももっともな気持ちの表現になっている。ただ、しかし、私自身は、なぜかそうしたメッセージを出す気にならない。自分が多感な20歳代を緒方氏のUNHCR時代で過ごした人物であるだけに、私は、SNSで「緒方氏を悼む」などと書く気になれない。
緒方氏は、不遇の境遇にあった難民・避難民のために心を砕いていた。疑いのない事実だ。だが、そのことだけを描写し続けるのは、足りないと思う。
現代世界の難民・避難民数は7000万人をこえており、緒方氏の時代の数をはるかに上回る。どうなっているのか。緒方氏を悼む際には、そのことにもふれるべきだろう。 しかも、それだけではない。
むしろ私にとって、一番印象に残っているのは、UNHCR職員の現場での殉職に直面し、怒りの声を上げていた緒方氏の姿だ。追悼集会で「Enough is Enough(もう十分だ)」と叫んでいた緒方氏の姿だ。最高責任者が職員の殉職に対して見せた、あの真剣な怒りに接すればこそ、UNHCR職員は、またあらためて危険地での職務に向かって行った。
2018年に殺害された援助関係者の数は、131人を数えた。140人が負傷し、130人が誘拐された。2017年の殉職者数も139人だった。2019年も、それ以上のハイペースで、犠牲者が出続けている。緒方氏がUNHCRを率いていた時代よりも犠牲者数はさらに増えているのだ。だが、以前ほど注目されていない。実は国連PKO要員も年間100人近くという高い水準で毎年殉職者が出ているのだが、日本では特に、全く報道もされていない。世界的な武力紛争数・犠牲者数の増加と、対テロ戦争の拡大の情勢を見ながら、日本に暮らす者の感覚は、世界の現実から、さらにいっそう離れてきている。
たとえば、緒方氏が他界したその翌日の10月30日、南スーダンでは、エボラ出血熱の拡大予防に従事していたIOMという国連機関の援助関係者が、政府軍と武装勢力の間の交戦に巻き込まれ、3人が死亡した。しかも、もう1人の職員だけでなく、殉職した職員の4歳の息子が誘拐されるという衝撃的な事態も起こった(*犠牲になったのは南スーダン人スタッフである可能性が高い)。解放を訴える国際的アピールがなされている。 https://news.un.org/en/story/2019/11/1050421?utm_source=UN+News+-+Newsletter&utm_campaign=81f03345a3-EMAIL_CAMPAIGN_2019_11_01_05_05&utm_medium=email&utm_term=0_fdbf1af606-81f03345a3-105785473
今、この瞬間、人道援助の現場で殉職し続けている援助関係者がいるにもかかわらず、それらに注意を払うことなど全くなく、ただ、「ああ、緒方さんは素晴らしい日本人だったなあ、緒方さんの死を悼もう」、などといったことだけをのんびりと言い続けるのは、もっとも緒方氏的ではない姿勢だ。職員の殉職に心の底からの怒りの叫びをあげた緒方氏の姿勢から、もっとかけ離れた態度だ。
現代世界に紛争犠牲者があふれているが、終息していく見込みがあるわけではない。その現実に目を向けて、「緒方氏は偉大な日本人だ、緒方氏の死を悼もう」、とだけ言い続けるのは、あまりにも緒方氏的ではない。
「憲法9条は交戦権を否認している、交戦状態に巻き込まれたら、憲法違反だ!、われわれ日本人は一切絶対に交戦状態に関わってはいけない!」、とデモ行進し続ける狂信的9条主義者が、緒方さんの死を悼む、などと言っているのを見ると、正直、心の底から陰鬱な気持ちになる。
緒方氏は、日本人も世界に目を向けよう、と言い続けていた。世界の趨勢から目をそらし続けながら、ただ緒方氏を悼むことだけに専心するのが、日本人のあるべき姿なのだとしたら、私は緒方氏に申し訳ない気持ちになる。
今、SNSでも緒方氏を悼むメッセージが多数見られる。いずれももっともな気持ちの表現になっている。ただ、しかし、私自身は、なぜかそうしたメッセージを出す気にならない。自分が多感な20歳代を緒方氏のUNHCR時代で過ごした人物であるだけに、私は、SNSで「緒方氏を悼む」などと書く気になれない。
緒方氏は、不遇の境遇にあった難民・避難民のために心を砕いていた。疑いのない事実だ。だが、そのことだけを描写し続けるのは、足りないと思う。
現代世界の難民・避難民数は7000万人をこえており、緒方氏の時代の数をはるかに上回る。どうなっているのか。緒方氏を悼む際には、そのことにもふれるべきだろう。 しかも、それだけではない。
むしろ私にとって、一番印象に残っているのは、UNHCR職員の現場での殉職に直面し、怒りの声を上げていた緒方氏の姿だ。追悼集会で「Enough is Enough(もう十分だ)」と叫んでいた緒方氏の姿だ。最高責任者が職員の殉職に対して見せた、あの真剣な怒りに接すればこそ、UNHCR職員は、またあらためて危険地での職務に向かって行った。
2018年に殺害された援助関係者の数は、131人を数えた。140人が負傷し、130人が誘拐された。2017年の殉職者数も139人だった。2019年も、それ以上のハイペースで、犠牲者が出続けている。緒方氏がUNHCRを率いていた時代よりも犠牲者数はさらに増えているのだ。だが、以前ほど注目されていない。実は国連PKO要員も年間100人近くという高い水準で毎年殉職者が出ているのだが、日本では特に、全く報道もされていない。世界的な武力紛争数・犠牲者数の増加と、対テロ戦争の拡大の情勢を見ながら、日本に暮らす者の感覚は、世界の現実から、さらにいっそう離れてきている。
たとえば、緒方氏が他界したその翌日の10月30日、南スーダンでは、エボラ出血熱の拡大予防に従事していたIOMという国連機関の援助関係者が、政府軍と武装勢力の間の交戦に巻き込まれ、3人が死亡した。しかも、もう1人の職員だけでなく、殉職した職員の4歳の息子が誘拐されるという衝撃的な事態も起こった(*犠牲になったのは南スーダン人スタッフである可能性が高い)。解放を訴える国際的アピールがなされている。 https://news.un.org/en/story/2019/11/1050421?utm_source=UN+News+-+Newsletter&utm_campaign=81f03345a3-EMAIL_CAMPAIGN_2019_11_01_05_05&utm_medium=email&utm_term=0_fdbf1af606-81f03345a3-105785473
今、この瞬間、人道援助の現場で殉職し続けている援助関係者がいるにもかかわらず、それらに注意を払うことなど全くなく、ただ、「ああ、緒方さんは素晴らしい日本人だったなあ、緒方さんの死を悼もう」、などといったことだけをのんびりと言い続けるのは、もっとも緒方氏的ではない姿勢だ。職員の殉職に心の底からの怒りの叫びをあげた緒方氏の姿勢から、もっとかけ離れた態度だ。
現代世界に紛争犠牲者があふれているが、終息していく見込みがあるわけではない。その現実に目を向けて、「緒方氏は偉大な日本人だ、緒方氏の死を悼もう」、とだけ言い続けるのは、あまりにも緒方氏的ではない。
「憲法9条は交戦権を否認している、交戦状態に巻き込まれたら、憲法違反だ!、われわれ日本人は一切絶対に交戦状態に関わってはいけない!」、とデモ行進し続ける狂信的9条主義者が、緒方さんの死を悼む、などと言っているのを見ると、正直、心の底から陰鬱な気持ちになる。
緒方氏は、日本人も世界に目を向けよう、と言い続けていた。世界の趨勢から目をそらし続けながら、ただ緒方氏を悼むことだけに専心するのが、日本人のあるべき姿なのだとしたら、私は緒方氏に申し訳ない気持ちになる。
コメント
コメント一覧 (93)
義妹も緒方貞子さんに影響されてJICAに就職した一人である。ただ、難民問題を考えるとき、私にはあの頃のような純粋さは、もうない。ヨーロッパで実際に起こっているBrexitやドイツにおける極右の台頭、テロによる治安の悪化を見た時、難民はかわいそうな存在だから、受け入れるべきだ、とばかりは言っていられない気がするのである。ドイツのメルケル首相は、2015年、率先して門戸を開放し、現在までに100万人以上を受け入れてきた。その結果ドイツ国内の治安が悪化し、政権への反発が起こり、現在は、お金を払う形で、難民をトルコやギリシャの島にとどめおいてもらう措置をとっている。5月に行ったイタリアも同じ状況にあった。やはり、文化が違う、特にキリスト教徒、イスラム教徒の場合、その差が様々な軋轢を社会に与えるという現実を、島国で、外界との交流を遮断できる日本人は知るべきではないのだろうか。
朝鮮戦争も、「形式上」は、北朝鮮対国連軍の戦争になのであって、日本国憲法起草時に日本の安全保障は国連に任せる、ということを前提に軍備を放棄したその「国連軍」が南朝鮮、韓国を守ったのである。今回の北朝鮮への制裁も、米国の制裁ではなくて、「国際連合」で決議した経済制裁であって、中国も、ロシアもそれに「形式上」は参加しているのである。この形式が大事なのであって、我々日本人はもっと、「国際連合」に権威をもたせ、一国の政治指導者の、その政治的野心、横暴を見逃すべきではないのではないのだろうか。本来、「国際連合」は「平和を確立する目的」で設立された「国際機関」であることを我々は忘れてはいけないのではないのだろうか。
そうでないと、中東は、ロシアとイランとトルコに牛耳られ、東アジアも、現在の民族の結束をなによりも優先する左翼政権である韓国のムン政権は、北朝鮮を軍事的脅威とみなさず、「親中国」、「反日本」なのだから、中国、北朝鮮の勢いが増し、日本の存立も危ないし、「平和主義」、「自由と民主政治と法治国家」という、戦後国際社会が築いてきた、豊かで平穏な生活を保障してくれていた「国際社会の大原則」が壊されてしまうのではないのだろうか。
緒方氏は聖心女子大卒のカトリック信者の一方、カリフォルニア大バークレー校で博士号を取得した国際政治学者のうえ、曾祖父が犬養毅、岳父が緒方竹虎だから、外交官だった父と一緒に在外生活を送った日本人として、国連高等弁務官としての難民支援というのも、有為な日本女性が採りえた一つの選択なのだろう。
信仰と学問に生きれば父が前田多門という同じ外交官の娘だった精神医学者でハンセン氏病患者の支えとなった神谷美恵子のような選択もあり得ただろうし、同じ聖心出身の作家曽野綾子氏やイタリア文学者の須賀敦子の例もあり、有能な日本人女性は少なくない。カトリックという、国際的なネットワークも役立ったのだろう。
日本には神谷の両親の共通の師だった元国際連盟事務次長新渡戸稲造以来の歴史もある。戦後は偏頗な憲法9条解釈のあおりで、紛争処理後の平和構築の現場で苦労する篠田さんの「もどかしさ」につながるのだが、国連での日本の存在感は薄い。安保理の常任理事国入りは、望んでも中国が阻止する。国連と言っても、所詮は大国の利益が衝突する国際政治の強者の支配の調整役にすぎない。
いずれにしろ、日本人の生命(ζωή)が何より尊重されるべき、という戦後的価値観=「共同幻想」(κοινόν φάντασμα)、懦弱な(βλακικός)精神から、われわれはそろそろ脱却すべきなのだろう。
日本人の内向き志向が指摘されて久しいが、何も憲法解釈のせいにばかりできない思想的脆弱性(μαλακία)を日本人は抱えていることを認識するべきだろう。
NGO(非政府組織)であるIOC(国際オリンピック委員会)と国際条約で設立された国際機関である国連を単純比較するのは無意味です。
しかも、国連事務総長は国連事務局の代表であり国連自体を代表する権限はありません。特に安全保障問題については特殊な(常任理事国の拒否権)合議制機関である国連安保理の権限が絶大なのです。そんなことは国連憲章を読まなくても常識で分かる話しだと思います。
前半では日本のマスコミによく登場したかどうかを国連事務総長の活躍の指標にしていたかと思えば、後半では、一転して、日本のマスコミ報道が偏っている議論になっています。
(誤)偏っている議論→(正)偏っているという議論
例えば、ブッシュパパ政権のイラク戦争では、国連に権威をもたせ、米国政府は一歩引いていた印象を受けるが、トランプ大統領の場合、自分の主張が通らない場合、国連を無視しているから、このような傾向が助長しているのではないのだろうか?それこそが大国のエゴなのであって、国際協調がなければ、平和構築ができない、というのが、私の主張である。
湾岸戦争においてブッシュ・パパ政権が国連を利用したのは安保理決議を取ることが容易だったからに過ぎません。2003年のイラク戦争では、安保理の武力行使容認決議可決の見通しが立たなかったので、ブッシュ・ジュニア政権は安保理の武力行使容認決議を経ずに武力攻撃をしたのです。
米国は極端ですしトランプ政権になって更に国連軽視が目立ちますが、米国に限らず主権国家は国益のために国連を利用するときは利用するものなのです。カロリーネ氏のような理想論の「国際協調」を唱えて、国際政治の現実を踏まえない「国連信仰」に陥るのは有害無益なのです。
カ氏は、国際協調を力説する割には国連について皆目知らないようだ。国連事務総長に国連を代表する資格も権限もないことは、国際法の極めて初歩的な知識だ。
目下旅先なので具体的に頁数を明示して引用できないが、所謂国連「事務局」(Secretariat)は、一人の事務総長と国連職員で構成され、安保理の勧告に基づいて総会が指名する事務総長は、各種会議の準備や設営、加盟国間の連絡など、事務局固有の技術的、行政事務的な任務を遂行する責任者にすぎない。それがカ氏には決定的に欠落している「国際常識」だろう。
事務総長は、国際平和を脅かす虞のある事項について安保理の注意を促すことができるという政治的任務を含んではいるが(国連憲章99条)、そうした関係国間の仲介、調停などの政治的任務は、あくまで総会や安保理の委任をまって職務遂行が可能となる(同98条)にすぎない。
職務遂行に必要な範囲で、委託された権限を充分に行使できるよう、現地調査や保持機関設置などの権限が認められている。その程度の知識は、カ氏が論難する日本のメディア関係者も当然弁えている。
9②⇒【日本の報道機関でよく見たことをかいた…現在、その雄姿を見なくなった】云々は、むしろ糾弾しているメディア報道の印象に寄りかかったカ氏の「物語思考」の証左で、嗤うに嗤えない戯画だ。
もはや、つける薬がない。
‘Les vieillards aiment à donner de bons préceptes, pour se consoler de n’être plus en état de donner de mauvais exemples.’(La Rochefoucauld, Maximes 93)
今、第一次世界大戦後の平和構築の営みの失敗を勉強しているが、その原因は、英仏が自国のエゴにこだわり、敗戦国の独、墺、ハンガリー、トルコ、彼らの勝利に協力したイラク、クルド人の主張をいれなかったこと、米国が国際連盟に参加しなかったこと、日本が満州事変を正当化して、国際連盟から脱退したこと、ヒトラーがドイツの政権を取ったことがあげられるが、同じことを「国際連合」で繰り返すと、武器は過去より進歩しているのだから、人類は悲惨なことになる、ということを二人は認識すべきなのである。「国際連合」は「安全保障理事会」を筆頭として平和を構築させるための組織である。「経済社会理事会」なども活用し、どうすれば、国際協調の精神を生かして平和を構築できるか、を考え、経済先進国の日本も参加することが求められているのではないのだろうか。
私は、国立大学の付属で、小学校の頃から、県内の教師を集めて、あるいは、教師志願者の教生を受け入れて、研究授業まで担当される熱心で有能な教師の元で、この教育を受けたのである。兵庫県はまた、「知識の量」ではなくて、「思考力」で、学力を計る、ということで、高校入試も、思考力テストだった。中学からの内申書と思考力テストで合否が判定されたのである。その思考力テストを経て、当時県立で一番偏差値が高かった高校に入学できた人物に、反氏の口車に乗って、相変わらずカロリーネ氏の投稿は頓珍漢です、などという政府解釈氏の主張は、客観的に意味不明なのである。頓珍漢な知識で、頓珍漢な思考をすると、その学校に入学できなのではないのだろうか。コメント5に、国連事務総長は国連事務局の代表であり国連自体を代表する権限はありません、とあるから、ウィキペデイアでひいてみた。https://ja.wikipedia.org/wiki/国際連合事務総長 「任務は国際連合内部の組織運営をめぐるものと国際連合加盟国における紛争などに際しての調停や国際連合が扱う諸問題についての発言などの両方が含まれる。 その多忙さから、「世界で最も困難な仕事」と形容される。」とあるが、政府解釈氏や反氏の解説どおりなら、多忙でもなく、困難でもない。二人の投稿こそが(机上論ではそれで事足りるのかもしれないが)、事実に基づかず、現実を粉飾している、頓珍漢なコメントなのである。
反氏はえらく「聖心」にご執心である。私も叔母二人が聖心だし、祖父が私も進学させたかった学校だったので、思うことであるが、日本が戦前のような階層社会なら、それもいい。マナーや言葉遣いがすばらしい。けれども、民主社会なのだから、私自身は、父の考えどおり、公立の進学校で勉強できて、本当によかったと思う。教育熱心な、中流階級の親に育てられた知的能力のあるたくましい子供たちと交友関係を営んでいると、日本社会の現実がわかるし、自分の足りなさもよくわかる。「聖心」にだけ、宗教もカソリックだけ、に限定してしまうと、日本の活力が失われ、多様な文化をもつ国際社会に対応できない。また、大きく見れば、日本は東アジアに位置し、文化は仏教国である。そのことは、この前の高校時代の仲間との奈良旅行でよくわかった。あの時代、唐の仏教文明を求めて我々の先祖は、嵐の海に、決死の覚悟で船を乗り出したのだから。大事なのは、「多様性を認める寛容な心」、岸田自民党政調会長のおっしゃるとおりだと、私は思う。
一言で表現すれば、この問題に対する日本人の退嬰性と言えようか。難民問題について、極東の島国という地理的条件に加え、単一民族ではないものの文化的「蝟集性」が際立つ日本社会が、難民対策で事実上の障壁を設けて長らく国際社会の中で特異な立場を採ってきたこと、一部には憲法解釈の影響もあって、国連に多額の分担金を拠出する一方で、冷戦終結後は特に各地で紛争が相次ぐ国際平和の実現に必ずしも積極的ではなかったことなどが影響している。
こうした政治・社会的、文化的傾向の背景には現在の日本社会が抱えている多様な問題が潜んでいるが、根底的には、焦土からの奇跡の復興を遂げ、平和と繁栄を謳歌してきた「戦後」と呼ばれる価値観への共通認識(κοιναὶ δόξαι)の基盤が、特に中国の経済的急成長と覇権拡大、周辺各国の経済発展ことからその地位が「相対的に」低下したこともあって、将来展望に関して自己懐疑に陥りつつある日本人全体の自信喪失の反映でもあろう。
しかし、価値中立的にみれば、「戦後の成功」を支えた客観的条件が周辺国の擡頭で失われてきただけのことで、比較的均質性の高い日本社会の特性が、戦後の、特に冷戦期の特異な国際状況での経済発展により適合的であったにすぎない。今日の日本社会の繁栄を築いた先人たちの努力に敬意を表するとしても、その「成功の図式」はいつまでも続かず、もはや耐用年数を迎えている、ということだ。
そして、その代表格が、篠田さんがガラパゴス性を剔抉した憲法学通説に依拠した安全保障論議だろう。
普段は旅先での投稿など、よほどのことがない限りしないが、「政府解釈」氏に任せきりだった唾棄すべき醜悪なる「コピペの女王」(κλοπή βασίλισσα)「カロリーネ退治」を高みの見物(θεωρία)では聊か無責任(ἀνεύθυνος)すぎるので、加勢する必要は全くないが、カ氏の言論における「ご乱行」(ὕβριοτής)ぶりは凄まじいので、「聖戦」(ὁ ίερὸς πόλεμος)気取りのカ氏をたしなめるべく、補説する。
皆が寝静まった午前2:15=13に始まって、同6:42~6:46=14~15といういう、時ならぬ(ἄκαιρος)、作法と節度を弁えぬ無学な(ἀμαθής)ならず者(ὁ μοχθηρός)の戯けた法螺話(ἀλαζονεία)の類だから自滅(αὑτὸ φθορά)、自壊(αὑτὸ ὄλεθρος)するのに任せるのが上策というものだろうが、「政府解釈」氏に託すわけにはいかない酔狂も、無聊をかこつこともある旅先での退屈凌ぎの暇つぶし(διατριβή)には打ってつけかもしれない。
何やら怨み節(ἐπονείδιστον)のような13は相手にせず、やれ教育基本法云々とか、カ氏自身の個人的事情、国立大学附属小中で教育を受け、14⇒【熱心で有能な教師の元で…教育を受け…当時県立で一番偏差値が高かった高校に入学できた人物】のなれの果てが、他でもない現在のカ氏の惨状(πονηρία)であることを思うと、生来の「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)ゆえの身から出たサビ(τὸ ἀντιπεπονθός)とは言え、聊か憐れを催す。
私は血(αἷμα)も涙(δάκρυον)もない殺伐非情の論理主義者だから、同調者は必要ない。そもそもヴィトゲンシュタインではないが、‘Der Philosoph ist nicht Bürger einer Denkgemeinde. Das ist, was ihm zu Philosophen macht.’(=‘The Philosopher is not a citizen of any community of Idea, That is what makes him into a Philosopher.’:L. Wittgenstein, “Zettel”[1945~1948], Frag. 455; L.W. Schriften, Bd. 5, S. 380)であって、「民主制」も、それ自体の中に自己矛盾を含む政治制度と指摘しているにすぎない。運用には知恵を要する。「政府解釈」氏も私の「口車に乗る」ほど愚鈍ではなかろう。
14③⇒【頓珍漢な知識で、頓珍漢な思考をすると、その学校に入学できなのではないのだろうか】という例外がまさにカ氏なのだろう。名門神戸高等学校にもカ氏のような驕慢な「クズ」(φορυτός)が混じっている、というだけの話だ。
「神戸高校の入学者が例外なしに有能」というカ氏の主張は全称肯定命題(τὸ καθόλου καθαφατικὴ πρότασις=すべてのAはBである)だが、カ氏の議論は「少なくとも一人、そうではない出来損ないがいる」という証明にほかならない。京大でも東大でも、難関入試を通過してきた割には愚鈍な人物は珍しくない。神戸高校も例外ではないのだろう。
これ以上書くのが莫迦らしくなった。莫迦が移るからだ。[完]
昨日のプライムニュースで自民党の政治家がおもしろいことを言われていた。韓国のメデイアによれば、良識のある政治家は鳩山由紀夫さん、朝日新聞の記者、野党の政治家で、私のような考え方をもつ人間は極右だそうである。鳩山由紀夫さん、朝日新聞の記者や、野党の議員にも、東京大学卒が多いが、ほんとうに、彼らが良識をもっている、と言えるのだろうか?
14⇒【反氏も…政府解釈氏も、日本の戦後の教育の目的がわかっておられない…?】というが、教育基本法の冒頭に掲げられた目的(第1条)や方針(第2条)は謂わば規範的命題(normative proposition)、その意味でカントの定言命法(kategorischer Imperativ)と同様「そうあるべき」だという意味での目的(τέλος)、実現されるべき目標であって、現実と異なることは、如何に世間知らずのカ氏にでも分かりそうなものだが、条文を真に受け、それを現実取り違える程度に愚鈍なのだろう。
それにしても、よくもまあ、いい歳をして「教育基本法」云々と、益体もない日教組並みの綺麗ごとを並べている。手前勝手な思い込み(δόξασμα)=固定観念(ὑπόληψις)が過ぎて「現実的に考える」(διανοεῖσθαι καὶ ἐνέργειαν)も何もあったものではない。
15⇒【パソコン…机上の知識はいくらでも検索できる。必要なものは緒方貞子さんのような現実に耐え(堪え=筆者添削)うる「思考力」と現実の「行動力」】とは、碌に本も読まず、学問的訓練も未熟でWikipedia頼みで剽窃(τὸ μιμεῖσθια)紛いのコピペを繰り返している御仁の言うことでもあるまい。恥を知ることだ。
16⇒【反氏はえらく「聖心」にご執心】というが、緒方貞子氏は聖心学園の出身者だから言及したまでだ。しかも、日本聖公会、つまり英国国教会(Anglican Church)系にもかかわらずカトリックを選択したことが興味深い。カトリック(Catholic=ラテン語でcatholicus)とは「普遍的な」(καθόλου)という意味だ。
愚にもつかない御託を並べる前に、萩生田文科相の表記(20⇒【羽生田文科相】)ぐらい正確にできないものか。
19~20は論評に値しない「老生常譚」(老婆の他愛ないおしゃべり⇒‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)=クズ。
‘Il n’y a point de gens qui aient plus souvent tort que ceux qui ne peuvent souffrir d’en avoir.’(La Rochefoucauld; Maximes 386)
https://jp.reuters.com/article/unhcr-ogata-japan-idJPKCN0SN1B120151029
日本の難民認定率の低さについては、第一次的には法務大臣の難民認定が他国に比べて厳格過ぎる点に責任がありますが(実際の認定実務は昔の法務省入国管理局、現在は法務省の外庁である出入国管理庁が担当しています)、第二次的には、日本の司法も難民認定についての法務大臣の裁量権を幅広く認める傾向にあり司法としての役割をほとんど果たしておらず、法務大臣の認定に対する有効な抑止となっていない点に責任もあります。このような状況が、日本も加入している「難民条約」に適合的なのかが問われていると思います。
父親がマルクス主義者で、謂わば左翼思想の信奉者だから、普段は父親への反感を隠そうともしないカ氏が、「聖心」(宝塚市にある小林聖心だろうが)に進むと、あたかも「民主社会」に逆行するかのごとく認識しているとするなら見当違いも甚だしい。カ氏も元来は左翼的心性のもち主なのだろう。
聖心を運営する聖心会はイエズス会系で、1908年(明治41)に欧州と豪州から修道女計12人が来日、直ちに聖心女子学院を設立したのが最初。聖心女子大は戦後1948年創設で、緒方貞子氏は第一回卒業生。後輩にあたる「粉屋の娘」、つまり日清製粉の創業家の令嬢だった皇太后も同大卒だが、別に「階層社会」云々と目くじらを立てる必要もあるまい。
父方の祖母=前田男爵令嬢の孫だった死んだわが妻も、母親は不二聖心に一時在籍したが、妻自身は公立進学校の女子高だった。カ氏の認識が時代錯誤なのだ。創業者の祖父から数えて3代目にしてなお、如何にも成り上がり根性が抜けきれない僻み(ζηλοτυπία)の自意識過剰な心性が覗く。
15②⇒【教育熱心な、中流階級の親に育てられた知的能力のあるたくましい子供たち】も、肩肘張った、一種の観念論的思考で、社会の現実など、別に中流以下でなくとも認識できる。
15③⇒【日本は…文化は仏教国】というが、実質は「葬式文化」にすぎまい。神道もある。カ氏の無知蒙昧ぶりのほどを端的に示す。
つける薬はない。
☆訂正 21の13行目【緒方貞子氏は聖心学園…日本聖公会、つまり英国国教会(Anglican Church)系…】は誤り。聖心学園ではなく聖心学院、日本聖公会系は立教大学などで筆者の凡ミス。
反氏や政府解釈氏の例えばコメント11の米国に限らず主権国家は国益のために国連を利用するときは利用するものなのです、を認めると、日本国憲法9条の前提条件は全く崩れてしまう。ホルムズ海峡に対する米国、トランプ大統領の「有志連合構想」が支持を得られなかったのは、米国が国益のためにそれを呼び掛けている、ということが国際社会にみえみえであったことが起因しているのだろう。
ただやはり、私は原点に戻って、「国際連合」の権威を強化すべきだと思う。ただ、国際社会の現実を鑑みた時、大国の覇権争いで、国際協調が難しいから、日本自体も、独自の防衛技術を高めていく必要があると思う。その為には、国際連合憲章第51条に規定されている「個別的」、「集団的」自衛権を認めた憲法9条の「芦田解釈」を取って、自衛隊をという軍隊を「文民が」コントロールする、というはっきりした指針をもたせた「9条の改正」が必要なのだ、と私は考えている。
即ち、幼稚な文章をそのまま引くと、
15⇒【「聖心」にだけ、宗教もカソリックだけ、に限定してしまうと、日本の活力が失われ、多様な文化をもつ国際社会に対応できない。また、大きく見れば、日本は東アジアに位置し、文化は仏教国である。そのことは、この前の高校時代の仲間との奈良旅行でよくわかった】
前半の、⇒【「聖心」にだけ、宗教も…日本の活力が失われ】の箇所は、如何にもカ氏らしく意味不明(ἁμφιβολία)だ。後半の、⇒【日本は東アジアに位置…文化は仏教国…この前の高校時代の仲間との奈良旅行でよくわかった】には無知(ἄγνοια)が満載で、従って前項24で、「カ氏の無知蒙昧ぶりのほどを端的に示す」と書いた所以だ。
カ氏は「オウム婆さん」(ψιττάκη γραῦς)だから、それを鸚鵡返しに、25末尾で⇒【無智蒙昧なのは、反氏なのである】と苦し紛れに返すしかできない。
そもそもミーハーな婆さん連中が連れ立って正倉院展の鑑賞のために大変混雑し長蛇の行列ができる奈良国立博物館に押し寄せただけの話で、何が「奈良旅行でよくわかった」のか、主張されていることだけでは要領を得ない。
一方、カ氏より若いであろうに良識(εὐγνωμοσύνη)を具え、節度(σωφροσύνη)を弁え、専門家(τεχνίτης)としての沈着さで規矩(ὅ ρος)を踏み外さないのが「政府解釈」氏で、如何にも素人(ιδώτης)の他愛のない主観的な解釈(ἐξηγέομαι)を一歩も出ないカ氏との際立った違いは、旅行で私が不在の間の応酬で、読者諸氏にはもはや明らかだろう。
現在の東アジアに仏教文化などなく、その形骸だけだ。中国は元々非宗教的な民族で、民間信仰の道教の方が隆勢だ。朝鮮は仏教を弾圧した朝鮮王朝(1392~1910)の影響が色濃く、仏教寺院は山谷に追いやられた。
日本は江戸時代の高野聖以来の影響もあって仏教は葬式の道具になり果てた。京都の多くの禅宗寺院は観光産業の一環で、唯一信仰が信徒の生活と深く結び付いているのは浄土宗系で、鎌倉以降の仏教だ。
奈良の大寺の多くは学問としての仏教で、法相宗(興福寺、薬師寺)、華厳宗(東大寺、元興寺)、三輪宗(昔の大安寺。現在は高野山真言宗)、律宗(唐招提寺)、聖徳宗(法隆寺)で、西大寺は宗派が移動して真言律宗だ。南都六宗と称される古式の仏教で、法相は唯識、三輪宗は龍樹由来の中観の教え、律宗は戒律でいずれも学問としての仏教か、華厳宗のように国家鎮護が主目的だ。
血の気の多い婆さんも、少しはお勉強したらいい。
道徳と宗教との違いは、単細胞(ἁπλοῦς)のカ氏には不可解なのだろう。これ以上書くのは、無駄だろう。
26⇒【朝鮮戦争やイラクのクウェイト侵攻の際の「国連軍」の戦争】というが、前者は確かに「朝鮮国連軍」だが、後者、湾岸戦争に先立ち1990年8月のイラクによるクウェート侵攻を受けてそれを非難する国連制裁決議があったとはいえ、軍事作戦を実行した主体は安全保障理事会が、関連する諸決議を実施し、当該地域の国際の平和と安全を回復するために「あらゆる必要な手段」を行使することを容認した(1990年11月29日の決議678)、所謂「多国籍軍」(coalition forces)であって、「国連軍」ではない。
このように、カ氏の稚拙で杜撰な立論(θέσις)の体を為していない文章を読むと、ありとあらゆる誤謬(σφάλμα)とウソ(ψεῦσμα)、無知(ἀμαθία)が飛び出してくる。
パンドラ(Πανδώρα=女神のように美しく、「すべての賜者を与えられた女」の意味)の匣(τὸ ἄγγος)というのがある。パンドラは何かにつけ意地の悪いゼウスが兄のプロメーテウスの盗み(火)を知って怒った末に密かに送りこんだ復讐の女神だった。
彼女は婚姻に先立って、天上からすべての災いを封じ込めた壺を持参、好奇心から地上に着くやいなや壺(所謂、パンドラの匣の原型)を開けたためすべての禍(δυστύχημα)が飛び出して、人間のあらゆる災禍(πάθημα)が生じた――というのが神話の筋立てだ。
ありとあらゆる不幸(δυστυχία)、災い(δυσπρτυξία)が飛び出した後、壺=匣にたった一つ残ったのが、ほかならぬ希望(ἐλπίς)。そして、希望の反対は失望ではなく、現実 (ἔργον γιγνόμενον) ということだ。
カ氏には、希望も残っていまいが、己の悲惨な(ἄθλιος)現実を得と噛みしめることだ。
現実は、反氏の主張は嘘なのである。ヴァイツゼッカー氏にしろ、ゲーテにしろ、ドイツ関係の専門家に、どちらの主張が正しいか、尋ねてみられればいい。反氏は、お得意な文才で、黒を白、白を黒、と言い含められているにすぎないのである。東アジアに仏教文化などなく、その形骸だけだ。中国は元々非宗教的な民族で、民間信仰の道教の方が隆勢だ、というのが反氏の主張であるが、ギリシャ神殿が、キリスト教の聖堂になり、今はイスラム教の寺院となっているパンテオン神殿とは違い、大雁塔(だいがんとう、簡体字: 大雁塔、拼音: Dàyàn Tǎ)は、652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔で中華人民共和国になった現在も尚、修築され、第1層には、仏菩薩の線刻画や、「大唐三蔵聖教序」(褚遂良書)及び、高宗撰の序記の2石碑が見られる。また、寺中には、王維や呉道玄らの絵画も収蔵されている。
2014年に「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産に登録されている。嘘ばかり主張するのをいい加減にしてほしい。
今回のブログ記事のコメントでいえば、そもそも、IOCのバッハ会長を引き合いに出して、全く権限が異なる国連事務総長について評価を下したことが根本的に誤りで頓珍漢なことなのです。カロリーネ氏は、コメント3で、『この「東京オリンピック」のマラソン問題と「シリア難民問題」を考えていたら、あることに気づいた。』と述べておられましたが、論理を考えずに思いつきで感覚的な投稿をしていることを示しています。
また、コメント14の「政府解釈氏や反氏の解説どおりなら、多忙でもなく、困難でもない。」というのも頓珍漢なコメントです。国連は本部のみならず関連機関も多数存在する巨大な官僚機構であり、その行政の長としての業務だけでも膨大な業務量なのですし高いマネージメント能力を求められる困難な業務なのです。
すると、Wikipediaの創業者Jimmy Wales氏のインタビュー記事が載っていた。
主張は、"Fake-Nachrichten können die Wikipedia-Community nicht beeindrucken"フェイクニュースは、Wikipediaのコミュニテイーに深い印象を与えることはできない、というのが冒頭の主張である。
Jimmy Wales hat 2001 zusammen mit Larry Sanger Wikipedia gegründet. Gut 18 Jahre später spricht er über neue Herausforderungen für die Online-Enzyklopädie - von Desinformation bis Diversität.ウェールズ氏は、2001年からサンガー氏とウィキペデイアを創設し、18年経ったあと、オンライン百科事典の新しい要求について、フェイクニュースから多様性について語っているが、良心的で知識欲のある大勢の人の目がある以上、フェイクは見破られるのでは、と考えていた私と同じ主張をされていた。そう考えてWikipediaを使ってきたが、インタビュー記事を読んで、創業者ウェールズ氏の誠実な人柄もよくわかったので、これからも、利用していきたい、と思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%8A%9B%E8%A1%8C%E4%BD%BF%E5%AE%B9%E8%AA%8D%E6%B1%BA%E8%AD%B0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%BE%E5%B2%B8%E6%88%A6%E4%BA%89#%E5%A4%9A%E5%9B%BD%E7%B1%8D%E8%BB%8D
武力行使容認決議が出される前に結成された多国籍軍による攻撃は集団的自衛権としてされ、その後、国連安保理で武力行使容認決議がされたというのが正確です。
この期に及んでも「オウム婆さん」(ψιττάκη γραῦς)らしく、意趣返し(ἀντιπεπονθός)の反論偽装のため、横着者(ὁ ἀργία)の本性を剥き出しにして、引用符もなく冒頭からコピペを繰り返す。
31⇒【良識を具え、節度を弁え、専門家としての沈着さで規矩を踏み外さないのが「政府解釈」氏、専門家としての沈着さで規矩を踏み外さないのが「政府解釈」氏】と71字分を並べて(字数を稼いで)、さらに31②⇒【私をくそみそに言うこと、が目的であることはわかるけれど、それによって、なにを意図しておられるのか、判然としない】のようなおとぼけ(εἰρωνεία)ぶりだ。
目的(τέλος)が分かる(ἐννοέω)のなら、普通は意図(προαίρεσις)が了解(συνιέναι)が可能なはずだが、カ氏に限っては違うようだ。「判然としない」などという、カ氏が日頃は使いそうもない措辞を並べている。頭に蜘蛛の巣(τὰ ἀράχνια)でも張っているのだろう。
挙句の果てに、31③⇒【アリストテレスの論理学を啓蒙したいのだろうか?】とくる。論理的に(λογικός)推論する(ἐπισθημονικός)、つまり論理的にものを考える(διανοεῖσθαι)人間はすべて、アリストテレスが定式化した論理法則に依拠している。それを定言三段論法(συλλογισμός)という。西独留学した割には、その程度のことも知らないらしい。
論理法則を意識しないカ氏は、形式的には論理法則無視の言説の無頼漢(ὁ μοχθηρός)さながらで、大風呂敷の支離滅裂な(ἀκατάσταος)言説を撒き散らして愧じる気配もない。
それもこれも底知れぬ「無学」なのだから避けようもないが、これ以上、己の莫迦さ加減を証明してどうするのだろう。アリストテレスの論理学は啓蒙する必要などない。なぜならそれは、われわれの論理的な思考を根底から規定しているからだ。コンピュータの演算も同様だ。
カ氏の論法は、つまり思考法は、三段論法ではなく、論理法則を飛び越える、三段跳びならぬドイツ仕込みの「ごまかし」(τερθρύεῖσθαι)論法なのだろう。
ところで、31④⇒【ギリシャ神殿が、キリスト教の聖堂になり、今はイスラム教の寺院となっているパンテオン神殿】とは、具体的にどの施設を指すのだろう。「パンテオン」(Pantheon)という、118~125年に建てられたローマの神殿は存在するが、「イスラム教の寺院」になった事実はない。
一番最初がギリシア神殿⇒キリスト教の寺院⇒イスラム教のモスクなら(ついでに⇒ハーレム⇒火薬庫)、アテーナイのパルテノン神殿とも考えられるが、述語(κατηγορούμενον)が「パンテオン神殿」では、カ氏の想定しているものではないようだ。
東ローマ帝国の都、コンスタンチノポリス、現在のイスタンブールのハギア・ソフィア(Hagia Sophia)大聖堂というのがある。[Hagia Sophia]とは、聖なる(holy=ἃγια)知慧(wisdom=σοφία)の謂いで、ビザンティン帝国を代表する大建築である。
現在のものは、同名の元の聖堂が焼失した後にユスティニアヌス帝によって537年に建てられた。15世紀のコンスタンチノポリス陥落によってイスラム教のモスクになって、政教分離政策をとるトルコによって1930年代にモスクとしての役目を終えた。これも、「パンテオン神殿」ではない。
カ氏の議論は、ことほど左様に支離滅裂だ。
愚にもつかない抗弁(ἐπιχείρησμα)、反論めいた言い訳(ἀπολογία)を重ねれば重ねるほど墓穴を掘る。屈辱(λοιδόρημα)に耐えきれず悪あがき(τὸ ἀντιτυπές)をすればするほど、傷を深くする。「政府解釈」氏がいみじくも指摘したように、32⇒【投稿をすればするほどボロが頻出する「瑕疵」状態】なのは、火を見るより明らかだ。
それでも「政府解釈」氏は優しい。血も涙もない私なら、残酷な(μιαρός)、謂わば「死刑執行人として」(ὡς ἀποκτενῶν)、息の根が止まるまで追及の手を緩めない。獲物は必ず仕留める。断末魔(πανύστατος αυτίκα)に苦しむ「カ氏=仮死状態」であろうと。心を鬼にして「生きては返さない」のが私なりの敬意だ。
泣き言(τὸ βοᾶν)、繰り言(μεμψιμοι)は一切無駄だ。「莫迦は死なねば治らないのであり、救いの道はないのである。」(‘El tonto es vitalicio y sin poros.’=José Ortega Y Gasset; ‘‘La leberión de las masas.’’)。
31⑤⇒【大雁塔(…拼音: Dàyàn Tǎ)…寺中には、王維や呉道玄らの絵画も収蔵されている。】なる、ほぼコピペで並べた似而非反論がある。その上で、31⑥⇒【2014年に…世界遺産に登録…嘘ばかり主張するのをいい加減に】と喚き散らす。
唐は仏教を国是とした。しかし、その後のシナの歴史で仏教は後景に退く。宗教ではない儒学の影響、民間信仰の道教が、宗教的には不毛の地と称されたシナ人の精神的支柱になる。インドも仏教の発祥地だが、ヒンズー教の隆勢で仏教国ではないのと同様だ。シナにあるのは、現存する寺院を含め、仏教の文化財だけだ。それを「形骸化」という。[完]
私自身は、今回の件で、国連軍をウィキペデイアで調べてみた。https://ja.wikipedia.org/wiki/国連軍_(朝鮮半島) すると、朝鮮半島における国連軍というものがあり、それは、1950年に勃発した朝鮮戦争において組織された多国籍軍である、だとわかった。1953年7月の朝鮮戦争休戦協定は当時国連軍司令官だったマーク・W・クラークも署名し、国連軍が当事者となっており、以後も組織は存続している。このうち、アメリカ軍と韓国軍については、1978年11月に米韓連合司令部(ROK-US Combined Forces Command,CFC)が設置され、連合部隊として指揮される。なお、作戦指揮権は、1954年に作戦統制権(operational control)に名称が変更されている。 国連軍司令官と米韓連合軍司令官は兼職であり、アメリカ軍人がその地位にある。つまり、我々が、米国軍、韓国軍と思っているものは、国連軍であり、その国連軍の軍司令官はアメリカ人がなっているが、組織は、国連軍なのだから、本来、金正恩は、「休戦」については、米国大統領ではなくて、国連の事務総長と協議すべきである。
要約すると、北朝鮮に経済制裁をかけているのも、国連、休戦協定を結んでいるのも、国連軍司令官なのだから、北朝鮮が、朝鮮戦争を終結したい、経済制裁を解いてほしい、と願うなら、本来、超大国とは言っても、国連の一メンバーにすぎないアメリカの政治指導者、トランプ大統領とではなくて、国際社会の「平和構築機関」、IAEAを含めた「国際連合」の担当者と協議すべき性質のものなのである。
どうして、日本のマスコミは、このような大事なことを我々日本の民衆に教えてくれないのだろう。「知らせない権利」なるものをもっておられるのだろうか?
アテネのアクアポリスにある「パルテノン神殿」もウィキペデイアによるとhttps://ja.wikipedia.org/wiki/パルテノン神殿、神殿は完全な新築ではなく、この地には古パルテノン(en)と呼ばれるアテーナーの神殿があったが、紀元前480年のペルシア戦争にて破壊された後に再建され、当時あった多くの神殿と同様にデロス同盟、そして後のアテナイ帝国の国庫として使われた。6世紀にはパルテノン神殿はキリスト教に取り込まれ、生神女マリヤ聖堂となった。オスマン帝国の占領(en)後の1460年代初頭にはモスクへと変えられ、神殿内にはミナレットが設けられた、とある。
この知識は、元々ドイツ人の元教授から過去に教わったもので、コメント欄に過去に書いた覚えもあるが、反氏は、まともな知見を、Fake知見によって、まるで自分の説が正論のように主張してひっくり返す。ほんとうに、その性癖は、なんとかならないものだろうか。
韓国の「歴史のフェイクな認識」がどこからきているか、といえば、李承晩以来の反日思想、旧会社員さんが主張されているように、日本のマスコミ、特に、朝日新聞の編集委員までされた松井やよりさんの主張で、彼女が心血を注いで作られたドラマ仕立ての「女性国際戦犯法廷」がそれを端的に示している。この作品は、日本の慰安婦問題についての責任を追及するための、法廷を模した民間団体の抗議活動(民衆法廷)で、日本語での副題は「日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷」、英語での表記:The Women's International War Crimes Tribunal on Japan's Military Sexual Slavery。この作品は、「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)を中心とする団体で構成され、2000年に東京で開催し、2001年にオランダで「最終判決」として要求事項などを発表したが、その判決は、(昭和天皇)裕仁は有罪、日本政府には国家責任がある」と判断し、2001年に「最終判決」として内容を公表した。
私のいたころの東西に分断されていたドイツには、ベルリンの壁があり、東ベルリンの人々が、西ベルリンに行くことは、命がけのできごとだった。分断の壁の東側には、東独兵がいて、その壁を乗り越えようとする東独国民は容赦なく射殺したからである。制限が緩やかになった、といっても、60歳以下の東欧国民が西側諸国の旅行することは、戻ってこない可能性が大きい、ということで許されなかった。現在の北朝鮮も、原則同じなのではないのだろうか?
それに比べて、どれだけの中国の人々が、日本や西欧諸国に旅行に行き、また、中国に戻ってゆくか。分断されていたころの東欧と現在の中国は、様子がまるで違う。その国の政治は、その国の人が決めればいいことで、彼らが満足なら、その政治体制でいいのではないのだろうか。私は、トランプ大統領の「反中国」は、大国の威信争い、覇権争い、にしかみえない。
意地になって(ἀπαυθαδίζομαι)無謀(θρασύτης)にもその真似ごと(μίμημα)をすると露呈する惨状(πονηρία)を、39~41はものの見事に(καλῶς)示している。42~44も論評に値しないクズ。今さら42⇒【旧会社員さん】でもあるまい。徒党(συνωμοσία)を組みたいようだ。
夜明けには相当時間がある暗闇(σκότος)のなか、ご苦労なことだが、相当にいかれているのだろう。精神(ψυχή)の闇の中を彷徨している(πλάνη)のだろう。我執(πικρία)と私怨(ἐπονείδιστον)は凄まじいようだ。
恥知らず(αναίδεια)で心得(εὐνομία)違いの人物による、自己目的化した「投稿公害」=慷慨(θυμός)以外の何ものでもあるまい。
虚飾に満ちた(ἀλαζονικός)醜悪な人間性(τὸ ἀνθρώπειος)の顕れで、齢70近いにもなって、『論語』にいう「七十而從心所欲、不踰矩」(為政第二)という歳相応の分別(σύνεσις)もなく、人としての修養(παιδεία)が何もできていない証拠だ。
☆訂正 29の13行目は三輪宗ではなく、三論宗の誤り
39⇒【反氏は、ものごとの本質を理解しようともせず、真理に近づくために調べようともせず、ただ私の論争に勝つために、アリストテレスの「論理学」を振り回しておられるにすぎない】とは、「盗人猛々しい」(ὁ τοῦ κλέπτου λόγος)にもほどがある。
カ氏に真理(ἀλήθεια)や真実(τὸ ἀληθές)を語る資格はない。恥を知ることだ。アリストテレスの「論理学」を「振り回す」というが、人間の思考法則=論理学(συλλογισμός)を人類で最初に開明し、定式化したのは「知者たちのマエストロ」(maestro di color che sanno)と称されるアリストテレス(Ἀριστοτέλης, 384-322BC)であって、三段論法で推論するなら、それ以外にはあり得ない。カ氏のような神憑り(ἐνθυσιασμός)思考とは異なるのだ。
それはともかく、国連軍と多国籍軍とを混同して(ἁμαρτάνω)混乱した支離滅裂な議論をしていた反省が足りないようだ。Wikipediaからクズを並べても無駄な抵抗だ。
41⇒【パンテノン神殿ではなくて、パルテノン神殿…タイプミス】というが、31で【ギリシャ神殿が、キリスト教の聖堂になり、今はイスラム教の寺院となっているパンテオン神殿】と、「パンテオン神殿」としていたので、今回も恥ならぬ、誤謬の上塗りだ。
パルテノンだとしても「今はイスラム教の寺院となっている」という記述がある以上支離滅裂であることに何ら変わりはない。
ついでにギリシア語も読めない哀れなドイツ人の元教授に代わって説明するなら、パルテノン(Παρθνών)とは、「処女の部屋」の意味だ。
古典学の学徒に向かって「Fake知見」もないものだ。
莫迦が移りそうだ。οἴμοι.
よほど暇(σχολή)をもて余しているのだろう。ギリシア語の暇=スコレー(σχολή)とは、同時に「余裕」を意味する。いい歳をして精神に余裕がない(ἀσχολία)人間はみっともない。そしてゆったりとものごとを楽しむ暇=閑暇が学問(μάθημα)を生む。英語の[school]の語源たる所以だ。
この余裕について、田中美知太郎はかつて、余裕のない思考法を戒め、「眞の探求者は、時に結果を忘れて、悠々と探究を樂しみ得るのである。そしてこれは一般に學問の心掛けであるばかりでなく、特にまたプラトンを讀むための大切な心掛けである。世の才人がプラトンを理解し得ないのは、始めから純悴な學問的精神を缺いてゐるためか、あるひはその頭腦中に蓄へた無用の雜識を放下し得ないためか、またはその餘裕のない讀書法のためなのである。しかしプラトンの書はかかゝる奴隷人のためではないのである」と説いた(田中訳・プラトン『テアイテトス』、1938年、岩波書店の「序説」24頁)。
ところで、カ氏の私淑するドイツ人の元教授と私とで、48⇒【二人のパルテノン神殿、Klassiker(古典期の芸術家、巨匠)、の説明が違う】というのは、カ氏の早とちり、勘違いの類だろう。カ氏のような素人と、パルテノン神殿について無駄話をしても仕方ない。
余談だが、旅行を中断して家に帰る途中、神田・神保町で大英博物館所蔵の大理石彫刻の大図録(11巻7冊、1812~61)を買った。パルテノン神殿を飾った名品が精細な版画で再現されている。
少なくとも今回、私はパルテノン神殿について特別な説明をしていない。「パルテノン」(ギリシア語の発音はパルテノーン=Παρθνών)の意味について言及したまでだ。
古書店で3万円低度で買える。非酸性紙だが、紙質は悪い。厚ぼったくて、ごわごわして洗い立ての木綿の下着のようだ。私は新品を1万円で買ったが、赤いカバーが悪趣味な本だ。街中の公立図書館には架蔵していないだろうが、大規模な図書館なら必ず備えつけられている。
とにかく覗いてみれば、カ氏のでたらめさ加減がよく分かる。カ氏が躍起になって強調している意味は、派生的なものだということがよく分かる。さすがは、大辞典だ。語源の表示がそれなりになされ、つまり、[Klassiker]がクラシック(‘Klassik’)の派生語であり、その語源はギリシア語[κλάσις] 、それを音写したラテン語(‘classicus’)に由来することが明確に記述されている。
[Klassiker]の最初の定義は‘Vertrter der Klessik’(1870頁)だ。ギリシア・ローマの古典の信奉者ということだ。次いで、ようやく‘Künstler od. Wissenschaftler, dessen Werke, Arbeiten als müstergutig u. bleibend angesehen werden; …’(同)とあるだけだ。
ドイツ人の教授(どうせ京大でも教養部程度だろうが)も、出来そこないの不肖の生徒に隠れ蓑にされて、傍迷惑かもしれない。
‘νηπίοισιν οὐ λογός, ἀλλὰ ξυμφορὴ γίνεται διδάσκαλος.’(「愚か者どもには、言葉ではなく不運が教師になる」=H. Diels; “Die Fragmente der Vorsokratiker”, herausgegeben von W. Kranz;6 Aufl., 1992, Bd. II, S. 159)
Klassikerに関することである。私は、(規範になるような古典的)巨匠である、と主張するのは、ゲーテが念頭にあるからである。反氏によれば、ゲーテは女の尻を追い回すしか能のない男であるようであるが、第一次世界大戦後、ドイツがワイマール共和国になり、ワイマールの地で憲法を公布したり、国会審議をしたのには、二つの理由がある、とその教授から教わった。一つは、ベルリンでは、革命が行われ、落ち着いて審議を行うことができなかったこと、もう一つは、ゲーテやシラーの存在なのである。プロイセンは戦争で国土を大きくした国であり、戦闘的な国、であるというイメージが強いのに比べて、ゲーテ、シラーなど人道主義的な文化人と結びつくワイマールは人道、平和のイメージと重なるからなのだ、そうである。このイメージというのは、英米仏、欧州向けのイメージなのであって、いかにゲーテとシラーのイメージが、反氏のものと違うか、の証明にもなっているような気がする。本当に、国際感覚という側面から見て、出来損ないなのは、だれだろう?
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_1000734_po_0453.pdf?contentNo=1
このように朝鮮国連軍を代表する立場にあるアメリカが朝鮮国連軍を構成する日韓を含む関係国の意見も踏まえて休戦協定の他方当事者である北朝鮮(と中国)と交渉をするのが当然であり(当初の国連安保理決議や北朝鮮に対する経済制裁決議とも関連するため、交渉の見通しがついた段階で国連安保理に承認を得ることはあり得ますが)、北朝鮮も一貫してアメリカとの交渉を望んでおり国連事務総長やIAEAと交渉をする意思は無いのであり、国連事務総長等が北朝鮮と交渉するのは無意味であり、カロリーネ氏の主張は相変わらず頓珍漢です。なお、北朝鮮の核廃棄に向けた査察等について、専門的・実務的な知見を有するIAEA(国連の専門機関ではなく関連機関です)を活用することはあり得ますが、それと北朝鮮との交渉担当者として相当かどうかは別問題です。
第一次世界大戦後、米国大統領のウィルソンの肝いりで国際連盟を作ったが、米国は上院の反対で不参加、敗戦国ドイツは1927年加入が許されたが、常任理事国の日本が1933年満州問題で脱退、同じくイタリアも脱退、ドイツも脱退し、国際連盟は、平和を構築する機関としての、意味をなさなくなって、第二次世界大戦に突入してしまうのである。私は、平和を乱す端緒となった日本の責任は重い、と思っているが、その反省に立った場合、北朝鮮がそう主張しているから、という理由で、妥協していいのか、と思うのである。北朝鮮は、軍国主義国家であり、核兵器を廃絶する気持ちはあるとはとうてい思えない私は、国際協調の姿勢でしか、北朝鮮を説得して、核兵器を廃絶させられないのではないのか、と考えているのである。核兵器が使われたら、世界は悲惨になることは目にみえている、からである。
カロリーネ氏は、『「国連に権威」をもたせ、国際社会の戦争、核兵器の問題を処理しないと、国際連盟の二の舞になる』とコメントしていますが、具体的論証が無い論理飛躍です。「国連信仰」の「信仰告白」もカロリーネ氏の「表現の自由」として保障はされますが、「国連に権威」を持たせる実現可能性のある具体的な国連改革案を示さないと机上の空論の単なる「信仰告白」に過ぎません。これでは、パフォーマンス先行で、耳障りの良い口先だけで現実的な解決策を示せていない日本の野党と同じです。
また、カロリーネ氏の「私は、国際協調の姿勢でしか、北朝鮮を説得して、核兵器を廃絶させられないのではないのか、と考えているのである。」というコメントも、「国際協調の姿勢がある」とどのようにして北朝鮮を説得して核兵器を廃絶させられるのかの具体的過程が明らかではなく意味不明です。国連が出てきて「国際協調」という御題目を唱えても北朝鮮を説得できるとは到底思えません。「朝鮮国連軍」の主力構成国であり、経済制裁を決議した国連安保理の常任理事国でもあるアメリカが北朝鮮と直接交渉をする方が遥かに現実的で合理的なのではないかと思います。国際社会においては、主権国家は法的に対等な地位にあり、主権国家が加盟している国連は「世界政府」とは異なるシステムなのです。
妻が好きで、母親が戦時中、沼津市から親戚を頼って一時疎開していたという京都にはなじみのカフェやバーがあるから、一人旅でも退屈しない。京都人は田舎者流儀の野暮てん(ἄγροικος)を嫌うから、妙に馴れ馴れしく話しかけられることもなく、一人の(写真立ての妻がいつも同道しているが)時間を満喫できる。
ホテルに帰るとすることがないので本を読む。結局、よせばいいのに本欄に投稿も。旅先でもよく、本を買う。今回は思わぬ収穫があった。最大のものは英国貴族の大邸宅チャッツワース(Chatsworth)旧蔵の1619年刊の2巻本『アリストテレス全集』(“Aristotelis opera omnia quae extant Graecè & Latinè”, 1619, Paris.)だが、そのほかにも、49で言及した『大英博物館所蔵大理石彫刻図録』(“A Description of the collection of Ancient Marbles in the British Museum with engravings”, 11巻7冊、1812~61=Aliddlesbrough Free Library and MuseumのRffference Department旧蔵。素晴らしい大理石模様のヴェラム革装幀)も。
極めつけは限定版『ポール・ヴァレリー著作集』(“Œuvres de Paul Valéry”, 1931~39)10冊で、京都の素封家らしい「田中☆一氏」という人物が、当時三条通麩屋町西入にあった丸善京都支店を通じて1冊あたり最低23円を投じて購入した納本伝票の控えが挟んである。
「宝石」(λιθίδιον)のように美しい本だ。心が和む。頓馬を相手にする気にならない。
『若きパルク』(“La Jeune Parque”)と並ぶヴァレリーの代表的詩集で私の愛好する『魅惑』(“Charmes”, 1922年初版)を含む詩集(Poésies)が一冊になっていて、これで『魅惑』の中の白眉、『海辺の墓地』(‘Le cinetieme marin’)を読むと心地よい。
堀辰雄の『風立ちぬ』の人口に膾炙した、「風立ちぬ、いざ生きめやも」の基になった詩句、‘Le vent se le ! ..Il faut tenter de vivre !’は163頁にある。
泣き言(τὸ βοᾶν)と怨み節(ἐπονείδιστον)を並べるばかりで自ら墓穴を掘っていることにも気づかず、哀れにも焦慮(μανία)を募らせていきり立っている無学な「コピペの女王」(κλοπή βασίλισσα)カ氏にも打ってつけの詩句がある。即ち、
「神聖なる不滅の焦慮も、また死ぬ」(‘La sainte impatiene meurt aussi !’)というものだ。102行目(162頁)だ。
カ氏のような矯激な憂国の士(ἀγαθὸς πολίτης)ならぬ老デマゴーグ(δημαγωγὸς)は、自意識過剰であるほか、何やら充たされぬものを抱えているのだろう。社会心理学的にはよくあるタイプで、政治学者のS. M. リプセットが‘‘Political Man.’’(1960年、邦訳は『政治の中の人間』)で、「不満をもった者や心理的に家庭をもたない者、人間としての失敗者、社会的に孤立している者、経済的に不安定な者、教育のない者、理論をもたない者、及び社会のあらゆる地位の権威主義者」(邦訳194頁)と分析している心性だ。カ氏は無学で単細胞の権威主義者かもしれない。
人は見かけによらないものだ。
ゲーテやシラーなど、他愛ないものの象徴で、ヴァイマール憲法はユダヤ人の法学者が起草したものだし、ヴァイマール体制というドイツの「化けの皮」はすぐ剥がれた。
反氏の私の評、 カ氏のような矯激な憂国の士は、自意識過剰であるほか、何やら充たされぬものを抱えているのだろう。社会心理学的にはよくあるタイプで、政治学者のS. M. リプセットが‘「不満をもった者や心理的に家庭をもたない者、人間としての失敗者、社会的に孤立している者、経済的に不安定な者、教育のない者、理論をもたない者、及び社会のあらゆる地位の権威主義者」と分析している心性だ、という文章をなんど読まされたかわからないが、なんども書くように、客観的に私はその分類はあてはまらない。夫が現役で、経済力があるから、コメントする余裕があるのであって、趣味は他にもあるし、仲間もいる。いろいろ忙しいから、投稿が主に早朝になる。私の学識の発表の場、皆様のお役にたてば、としてこの欄を使わせてもらっているのである。無学で単細胞の権威主義者、であれば、ドイツ語でSpiegel誌を読み、ドイツ人の教授のドイツ語によるドイツやヨーロッパの歴史、哲学、文学についてのレクチャーは理解できないし、学生時代からの教養の蓄積がなければ、反氏の主張が、正しいか、間違っているかは判断できない。
ヴァイマール憲法はユダヤ人の法学者が起草したものだし、ヴァイマール体制というドイツの「化けの皮」はすぐ剥がれた、という反氏の主張も、ことはそう簡単ではないことが、ドイツ人の元教授の解説をきいてよくわかった。つまり、第一次世界大戦前の「三国協商」、英仏ロの軍事同盟は、「三国同盟」、独墺伊に対抗するものであったが、イタリアが寝返ったのである。英仏特に、普仏戦争で敗れたフランスの首相クレマンソーが、躍進する独の力を封じ込めようとした結果、国力を削ぐために、戦争の責任はすべてドイツにあると主張し、ドイツ代表団に対して、過酷な条件のヴェルサイユ条約を受諾しなければ、再び戦争をする、と脅して、英経済学者ケインズがその理不尽さに席をたつほどドイツに多額な賠償金を要求し、その上に様々な条件を上乗せした上で、領土の13%、人口の10%を奪うヴェルサイユ条約に調印させたのである。民族の自決にしろ、同じ民族の独と墺の統合は認められず、旧独、墺の領土に限ってスラブ民族の自決を促したが、アラブ圏で認められたわけではない。その為に、現在もクルド問題が存在しているのであって、第一次世界大戦後の、自国中心の英仏の在り方が、その後の欧州、近東アジアにおける混乱の遠因を作っているのである。ヒトラーは、ヴェルサイユ条約を結んだドイツの社会民主党の政治家を糾弾し、平和と引き換えに「屈辱的な条約」を結んで、ドイツ国民の名誉をずたずたにし、しかも不幸にした、と主張して、ドイツ国民の支持を得てゆくのである。
「軍事同盟」の存在は巨大な戦争を引き起こす、という考えの元、米国大統領ウィルソンの提唱で、1920年に国際間の協力によって国際平和を維持するために国際機関「国際連盟」が、第二次世界大戦後、国際平和と安全の維持、国際協力の達成のために、国際連盟の欠点を補正し、強化し、発展させた組織、「国際連合」が設立された。朝鮮戦争後、米ソの冷戦構造が激化し、拒否権をもつソの存在があったために、国連安全保障理事会は、機能することが難しかったが、それでも、歴代の国連事務総長は、その平和構築の尽力をされたのである。そして、ゴルバチョフさんという「新西欧」政権が現れ、国もロシアになって、国連は役割を取り戻すかに見えた。けれども、プーチン政権による外交政策の「反欧」、「ユーラシア主義的外交政略」で国際協調は難しくなった。その上に、米国トランプ大統領が「反中国」を推し進めると、国際間の協力による国際平和の維持はおぼつかなくなるのではないのだろうか。アメリカ大統領選挙に勝利するために、国際協調を無視し、自国優先主義の米国のトランプ大統領。TPPの離脱、「パリ協定」の離脱、イランとの核合意の破棄、シリアからの撤兵。大国のエゴそのものである。その意味をこめて、戦争の悲惨さを認識し、「国際連盟」や、「国際連合」を設立した原点に戻るべきだ、と私は主張しているのである。
また、カロリーネ氏の投稿は体系的な整理ができていない一知半解なコメントが多く「理論をもたない者」(コメント56参照)という分類にも当たっているように思います。カロリーネ氏に関する反時流的古典学徒氏の社会心理学的な診断結果(コメント56参照)はあたっているのではないかと思います。
なお、カロリーネ氏はWikipediaの利用について弁明されていましたが、体系的に整理された理論的基礎がないと、いくらネット検索で得られた情報をコピペをしても有害無益です。そもそも、体系的に整理された理論的な基礎があって初めて、どのような検索ワードで検索すべかも明確になるのです。また、得られた断片的知識を結びつけ体系的に理解し使いこなす基礎的能力も必要なのです。カロリーネ氏のように、闇雲に関連しそうな雑多な断片的情報をコピペしただけでは、論理法則無視の頓珍漢な文章が量産されるだけなのです。
ここまでカ氏を増長させた責任(αἴτιον)が奈辺にあるかは、敢えて言及しないが、議論において言うべきことを指摘せず、真っ当な論争を避けがちな「もたれ合い体質」という日本人的悪癖が、カ氏のような言論のならず者(ὁ μοχθηρός)を生んだことは明白だ。
「建設的な議論」とか称して論争に及び腰なのが、日本人の思想的脆弱性(μαλακία)の最たるものだからだ。怯懦(δειλία)とも言う。
57~59は幼稚な議論で、ドイツ人の元教授などどうでもよいが、高が週刊誌のDer Spiegel程度を読んだ云々で上せ上がっている‘intellectual yet idiot’の域にも達しない道化者が、稚拙なお子様論議=クズを撒き散らして(κατασκεδάννυμι)いるのがカ氏の実態だ。カ氏のドイツ語能力も高が知れていることは、私の過去の指摘で充分なはずだ。
ドイツに対して過酷な賠償金支払いを盛った講和条約案に異を唱えたケインズは、58⇒【その理不尽さに】席を立って英国大蔵省主席代表を辞したわけではない。「どのみち払えないものを課することは却って将来に禍根を残す」として反対しただけだ。
ケインズは甘くない。責任は負けたドイツにあり、他を責める資格はない。ウィルソン米国大統領にも手厳しい。論争を巻き起こした『平和の経済的帰結』(‘‘The Economic Consequence of Peace’’, 1919)でも読めばよい。
無知、怠慢にもほどがある。
‘El tonto es vitalicio y sin poros.’
言うに事欠いて、学識(μάθημα)ときた。意趣返しの悪ふざけ(παίζειν)なら、それもよい。カ氏はどうやら「本気」?(σπουδή)のように見えるから、畏れ入る。
日本語の語彙の理解も怪しい時がある。元より最も不足しているのは、「論理的思考能力」もそうだが、「真っ当な分別」(ὁ ὀρθὸς λόγος)だろう。齢70近いとは、とても思えない。不見識(ἀφροσύνη)というより未成熟(ἀλελῆ)なのだろう。
私は語学の達人の友人が何人かいる。大半が女性である。カ氏とは対照的なタイプで、語学のスキルを磨いても、それだけではどうにもならない日本社会の現実を身に染みて感じているようだ。
チヤホヤされながら、所詮は「語学屋」として使い捨てられることも熟知している。代わりはいくらでもいるからだ。いずれも学業成績は極めて優秀で劣等感など微塵も感じさせないが、大半が謙虚そのものだ。カ氏はよく、「語学力だけでは駄目で、中身が伴わなくては」という趣旨の指摘をするが、天に唾する行為だろう。
多くの海外留学組が日本社会で充分、その資質や才能、経験が生かしきれないのは、周囲の無理解より、語学的卓越性を生かす別の資質が欠けているからだ。カ氏程度の日本語能力と思考力では「外資系だけ」でしか務まるまい。その意味でカ氏は選択を誤らなかったようだ。
しかし、禍福はあざなえる縄の如しで、それが現在の狂態(γαστρίμαργος)につながっている。巫女(προφῆτις)とはよく言ったものだ。
ともかく、カ氏の鬱屈した(μελαγχορικός)姿勢は、贅沢な不幸と惨めな幸福との間で揺れ動く凡庸さ(μέσος)の象徴なのだろう。
なんども書いたが、ヨーロッパ社会が「国の交戦権」を認めたのは、紛争や内乱を防ぐためだった。17世紀の30年戦争で国土が荒廃した、という反省に鑑み、略奪や婦女暴行を防ぐために、国に軍隊を常駐させ、兵士に給料を支払う、国にしか交戦権を認めない、ということで、紛争の武力による解決を抑止しようとしたのである。それが第一次世界大戦の民衆を含む総力戦で、戦争の様相が一変するのである。本来、ヴェルサイユ条約が、敗者の立場にも配慮した第二次世界大戦後のような条約であれば、政治指導者ヒトラーは出現しなかったのである。
このようなドイツ人元教授に教わったことは、教授が大学生に教えておられる「学識」なのであって、単なる本を読んで得た知識ではない。
有り余る客観的事実(οἷα ἦν ἢ ἔστιν)を示しているだけで、誹謗中傷(λοιδορία καὶ συκοφαντία)は不要なのである。それを自覚できない人間を頓馬(ἀφροσύνη)という。驢馬(âne=ὄνος)は西洋では昔から「愚鈍」の象徴で、驢馬並みの脳みその頓馬がだれかは、言うまでもない。ある種の「☆人」(ὁ μαίνομαι)だから、神経も強靭(σκληρός)だ。
62末尾の‘El tonto es vitalicio y sin poros.’(José Ortega Y Gasset; ‘‘La leberión de las masas.’’, Obras Completas, Vol. 4, p. 187)は、過去に何度か引用したので分かる読者には容易に了解可能だろうが、「莫迦は死なねば治らないのであり、救いの道はないのである。」の意味だ。
カ氏は支離滅裂(ἐναντίος)で、文章(λόγος)も措辞(λέξις)も論理構成(συντίθεσθαι)も貧弱な抗弁(ἐπιχείρησμα)、というか似而非反論の言い訳(ἀπολογία)に等しい大風呂敷の議論を躍起になって展開しているだけで、真っ当な立論の体をなしていないクズ投稿であることは言うまでもない。
前回までで2751件に上る私の投稿の相当の部分は、そのクズ処理に費やされてきた。われながら、酔狂なものだ。
そのすべてが『カ氏誤録』カに克明に記録され、膨張を続けている。
他の投稿者は狂信的な「ドイツ教(狂)」の巫女(προφῆτις)である婆さんの祟り(ἡ δίκη)を恐れて遠巻きに様子見しているが、老媼の狂信性(μανικός)、偏狭性(σμικρολογία)は議論自体が自ずと(αὐτόματος)示している。戯けた冗談である「学識」(μάθημα)も、64末尾からカ氏以外には通用しない独自解釈であることが分かる。
それにしても憲法学者との対比で自らを篠田さんに擬している厚かましさ(ἀναισχυντος)は驚異的だ。
私は本欄での私の文章に特段著作権を主張しようとは思わないが、カ氏の度を越した怠慢ゆえの「コピペ病」は、独立した思考を志向し、63⇒【筋道をたててものごとを考えていくことこそが、「論理的」なものの考え方】とする人間のすることでもあるまい。
カ氏は左翼同様、何かというと憲法を振り回すが、「著作権」を冒さないのも「公共の福祉」というものだろう。剽窃(τὸ μιμεῖσθια)は盗み(κλέπτω)であり、いい加減に止めることだ。
65⇒【外国語の場合、主語がある…主語が明記…日本語の場合はない】というが、どちらにも主語(κατηγορούμενα)は存在する。言われていること、即ち陳述=言明(φάσις=statement)の形式、内容は何も変わらない。だから、アリストテレス由来の三段論法が可能になる。文脈から明らかなので明示しないでも了解可能だ。それが、翻訳調ではないこなれた日本文を生む。
カ氏の「無学」は底知れない。投稿時刻同様、精神の闇(σκότος)の中を彷徨って(πλάνη)いるのだろう。
莫迦に救い(σωτηρία)はない。οἴμοι.
①「誤字脱字のミス」ではなく、夥しい(大量の)、カ氏以外にはあり得ないぶっ飛んだ、しかも一度や二度ではなく繰り返される。金正恩⇒金日恩▼石原莞爾⇒石川莞爾▼高見勝利⇒岩波勝利▼…)誤記(カ氏の決まった「言い訳」はタイプミス)。「タイプミス」という、昭和風の表現が年代を感じさせる。
②単純ミスを含めた誤謬(ストア派とスコラ哲学の混同⇒指摘されて「スコア派」に化ける▼「統帥権」と「統治権」の混同▼「国法」と「国法学」の混同▼日本の16~65歳人口の10%は「ひきこもり」…)。
③歴史的な事実認識の誤り。ソフィストについては、一体何年前の「学説」という水準の俗説にしがみついて、やれ学校で習ったこと、辞書の説明(大概は日本版Wikipedia)と違うと非を鳴らす。辞書編集者が「無学」だということに思いも及ばないのは、怠惰なカ氏にとって「虚偽」(ψεῦδος)のままの方が都合がよいからで、「真理への愛」(φιλαληθής)など、微塵もないことを窺わせる偏狭性と狂信性がもたらす「虚偽体質」)が顕著。
④剽窃(盗用)を意に介しない醜悪さと、立論の際の論理的推論、その前提に対する徹底した未熟さ(ἀλελῆ)と慢心(ὕβρις)。己に惨状を棚に上げて「投稿を続けているのは、未熟な若者が、おかしなデマゴーグに騙されてほしくない」と臆面もなく書き連ねる厚顔無恥(ἀναισχυντία)。
⑤極端な事大主義⇒欺瞞と偽善に満ちた戦後ドイツの自己正当化の典型であるヴァイツゼッカー演説への狂信的信仰と、それを否定するものへの剥き出しの攻撃性。「ゲーテ狂」とも称すべき偏愛。
‘Il n’y a point de gens qui aient plus souvent tort que ceux qui ne peuvent souffrir d’en avoir.(「過ちを犯しても、それをどうしても認めたがらない人間が、繰り返し過ちを犯す。=La Rochefoucauld; Maximes 386)
前項で挙げた386に加え、‘Les vieillards aiment à donner de bons préceptes, pour se consoler de n’être plus en état de donner de mauvais exemples.’(「年寄りは悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。」=‘‘Réflexions ou Sentences et Maximes morales’’, 1678.: Maximes 93)もそうだし、‘Les défaults de l’esprit augmentent en vieillissant, comme ceux du visage.’(「精神の疵(欠陥)は、顔の疵と同じように、老いるにつれて、ひどくなる。」=112, ibid., p. 418)など、まるでカ氏のためにあるような言葉だ。
他に、‘La petitesse de l’esprit fait l’opiniâtreté, et nous ne crpyons pas aisément ce qui est au-delà de ce que nous voyons.(「精神の狭量は頑迷をもたらす。われわれは自分の理解を超えるものをなかなか信じようとしない。」=265)というのもあって、カ氏が典型的な狂信的資質であることが分かる。
政治的性向の社会心理学的分析では慷慨型(indignants=近代の内面志向型が大衆世界に適応しえず、フラストレーションに陥り、それを異常な道徳的公憤というスタイルで、その攻撃性と憎悪の情動を政治に投射するタイプ)であることも納得がいく。カ氏の身の程知らずの激昂しやすい性向がそれを裏づける
カ氏が何ら具体的根拠を示さずに、闇雲に64⇒【反氏と政府解釈氏…カロリーネ氏の投稿のほとんどが論理法則無視で事実誤認が多数の「瑕疵」があることは客観的に明らか…と捉えている二人が異常】と言われても困惑する。
ましてや、その後に続く⇒【「集団的自衛権」論争のいわゆる憲法学者と篠田英朗教授の論争】云々は論理的にリンクしない。カ氏の脳みそが論理的思考に全く不向きな決定的証拠だ。
自己を知らずに、投稿などしている場合ではなかろう。
ドイツ語を読めない市井の善良な民には、西独留学経験があり外資系企業での勤務実績もあるカ氏程度の凡庸な人間でも一目置かれるのかもしれないが、こけおどしもいいところだ。逆に、碌に日本語の文章も理解できないで見当違いな立論に終始し、それも手に負えなくなると、他者のブログから剽窃して自らの立論のように装う人間のどこに、⇒【学生時代からの教養の蓄積】があるというのだ。莫迦も休み休み言うものだ。
しかもカ氏が能くするのはドイツ語と精々英語だろう。古典語(ギリシア語やラテン語)の素養もなくては欧州で教養(παιδεία)も何もあったものではない。カ氏は国際感覚を騙りながら結局、その本質は日本人の感覚で留学経験を過大視しているにすぎない。洋行帰りの明治のエリートならいざ知らず、高が70年代の劣等学生ではないか。
58⇒【ゲーテやシラーなど、他愛ないものの象徴でなどという反氏の主張は、ウィーンやワイマールに行ってみれば、「嘘」であることがすぐばれる】――ドイツが300を超す領邦に分裂し、近代化の蚊帳の外に置かれていたとも言える牧歌的なゲーテやシラーの時代を懐かしく思い、祖国の偉大な文学者として重要視するドイツ人の心情は理解する。しかし高が文士ではないか。ゲーテは政治家でもあったが、彼が仕えたヴァイマール公国は人口10万人にも届かぬ小邑の田舎宮廷だ。「嘘」も何もあったものではない。
カ氏のような田舎者根性を夜郎自大という。
反氏の嘘の一つを嘘であると「表現の自由」を使って主張する。
ゲーテやシラーの時代は、300に分かれた牧歌的な時代ではない。統一国家英仏が出来上がり、仏は絶対王政下国力が高まり、その後革命が起こり、ナポレオンによる侵略戦争も起こる。どのようにすれば、母語としてドイツ語を話すドイツ人が、ドイツ人としてまとまり、共通の文化がもてるのか、あの時代はゲーテ、シラーをはじめとするドイツ文化人が真剣に考えていた時代なのである。それは、日本のように、ドイツ民族の統一国家をもたなかったからである。ベートーヴェンの第9は、それに根差したもので、ドイツ語が歌詞であることが示しているように、本来は国際協調を志向したものではなく、ドイツ民族にあてたものなのである。
その時代を知る教養ある日本人、あるいは、ドイツの歴史を自国の歴史として勉強したドイツ人にシラーやゲーテについてきいてみればいい。現在、ドイツ国内でも、古典語の教養がある人は少ないし、それを求めることは、日本国内で、あるいは、韓国国内で、漢文が読めない人は、教養がない人、と主張していることとまるで変わらない。いかに、反氏がくだらないことを、正論として主張されていることがわかるのではないのだろうか?
前回末尾に、田舎者根性丸出しの野暮てん(ἄγροικος)=「夜郎自大」と評した所以だ。
72⇒【ブログのテーマ…コメントはほとんどなく】というが、カ氏が見落としている(πλημμελέω)だけで、4と16に尽くしてある。
72②⇒【壊れたレコードのように、私への誹謗、中傷】というが、壊れたレコードなら音が出まい。それを言うなら壊れた(正確には一部機能が)蓄音機だろう。カ氏は措辞も不得要領だ。誹謗中傷(λοιδορία καὶ συκοφαντία)ではなく事実だし。
72③⇒【ゲーテやシラーの時代は…牧歌的な時代ではない】というが、前後の時代に比べれば平和で牧歌的な時代、という意味だ。フランスで革命があったり、その後の混乱が欧州全土を巻き込むが、300を超す領邦に分裂し、英仏のような近代化の蚊帳の外にあった田舎のドイツは、政治的には毒にも薬にもならない弱小国の寄せ集めだから牧歌的なのだ。
ゲーテはハンブルク版の全集(J. W. von Goethe Werke Hamburger Ausgabe in 14 Bänden.; hrsg. von Erich Trunz)でそれなりに読んだから、現代のドイツ人から学ぶほどのことはない。カ氏から学ぶことは何もない。
72④⇒【古典語の教養がある人は少ない】ということは、それが欧米で今なお正統な教養(ὀρθός παιδεία)の最重要部分なのと矛盾しない。無学な大衆に古典語の素養など求めても詮ないが、それが【くだらない…正論】にみえるのは、カ氏が教養人ではない証明だ。
そうした人間が、冗談でも「学識」を騙るのは、戯画(ἡ κωμῳδεῖν)でしかあるまい。
カ氏による上記のクズ投稿は、一見して知性の程度(μέτριον)窺わせる幼稚な(νήπιος)文章であることは、それこそ一定以上の学識と教養(μάθημα καὶ παιδεία)を具えた人物なら誰にでも明白な事実だろう。「政府解釈」氏はその一人かもしれない。
そうした自覚(εἰδέναι)を欠く暇をもて余した婆さん連中が、修得したドイツ語が錆びつかないように件のドイツ人の元教授の下、ドイツの高が週刊誌Der Spiegel程度を素材に続けているのが、カ氏が頻りに言及する「お勉強会」だろう。
元教授は小遣い稼ぎか否かは判然としないが、ギリシア語も読めぬらしいから本国では研究者としては問題外だろう。京大でどういう身分で教えたか、カ氏の要領を得ない記述からは判然としないが、学部の講座の主宰者でもなければ大したことはあるまい。
留学経験者仲間が他愛もない学習会をして益体もないことを学んだだけで「学識」を云々するのだから、畏れ入る。その国際感覚も同類だろう。
ご気楽(ἀπράγμων=easy-tempered)というか、「教養」のレベルがあまりに低次元なので、唖然とする。日本語の文章、推論をみれば、一目瞭然だが。
「話の通じない人」(βάρβαροι)であるカ氏が、‘intellectual yet idiot’ の域にも達しない「阿呆」であるのもまた。
「大体において、憤激の程度は、攻撃(者)の知性の程度に反比例する」所以だ。οἴμοι.
ドイツのSpiegel誌は、米国ではタイムやニューズウィークにあたる一流週刊誌でもある。その定評を失わないように、自己検証もし、その結果を読者に公表する、という努力もしている言論機関なのである。日本にそれにあたる週刊誌を考えてみるが、文春にしろ、新潮、にしろ、AERAにしろ、サンデー毎日にしろ、違う気がする。あまりに暴露的な要素が強すぎたり、イデオロギー色が強すぎて、啓蒙的な読み物ではない。
「名誉棄損」を言うなら、以前も指摘した通り(10月18日・197)、「カロリーネ」という匿名(ἡ ἀνωνῦμία)を外して、爾後は「実名」で投稿することだ。仮令紛れもない「事実」だとしても、法の趣旨に沿った範囲内でコメントを工夫せねばなるまい。カ氏に天下(κόςμος)に恥を曝す覚悟(πίστις)があれば、の話だが。ゲーテやヴァイツゼッカーについては、全くその必要がなかろう。
元教授については、それが学部と教養課程に在籍する教員との違いに関する京大内部の「言わぬが花」の公然の秘密的見解だ。
ゲーテのような高が田舎宮廷の文士の尻尾をつけた政治家が中途半端な認識に低迷しているから、形骸化した神聖ローマ帝国の下、300を超す領邦国家に分裂し近代化に後れを取ることになるし、その反動としてプロシア王国宰相ビスマルクの強烈な政治的指導力による国家統一に道を開くのだ。ゲーテとは異なり、ルターのような凶暴な心性をドイツ人は多かれ少なかれ抱えているから、結果はどの道同じだろうが。
少しはプライド(φρόνημα)があるなら、匿名を隠れ蓑に甘ったれた御託を並べるものではない。私は「政府解釈」氏ほど優しくはない。息の根を止めるまで、絶滅させるに等しい言論上の打撃を与えるのが、カ氏自身のためでもあるし、「愚者の楽園」(τὸ ἄφοβον μακάρων νῆσος)ではない本欄の品質維持のためなのだ。
緒方貞子氏が聖心学院出身でカトリックの信者であることを枕に種々論じたら、15⇒【反氏はえらく「聖心」にご執心】ような「あてこすり」や、同②⇒【「聖心」にだけ、宗教もカソリックだけ、に限定…日本の活力が失われ、多様な文化をもつ国際社会に対応できない…日本は東アジアに位置し、文化は仏教国…】なる意味不明なコメントが返って来た。
この日(11月5日)は、深夜(02:15)の13から始まって上記の15(06:46)に至る未明、早朝の獅子吼(μύκημα)だった。とにかく,よく吠える(ὀλολύζειν)婆さんで、番犬(φύλαξ κύων)に「カロリーヌ」の名をつけるのも一興かもしれない。
48⇒【老人のせいか、朝早く目がさめてしまう、コメントしてみようかな、それだけの理由】というのも見え透いた大嘘で、妄執(φιλοψυχία)と憤激(θυμός)に我を忘れて(ἀσχολεῖσθαι)ぐっすり眠れないから、怒りに駆られて02:15~06:46のような時間帯の投稿に及ぶのだろう。
いくら老人でも、睡眠障害でもなければ当該時間に起きている人間は稀だ。安らかに眠れないほどの鬱屈したもの(τὸ μελαγχορικός)をカ氏は抱えており、それが「日課」と化した一種異様な投稿の主たる動機(ἡ ὁρμή)なのだろう。
02:15に投稿するにはそれ以前から目覚めていなくてはならず、私のように書見で起きていてそれが暁(φᾶνή)に及ぶという形ではなさそうだ。
もっとも、私でさえ妻が入院中はいつ何時入るか分からない病院からの知らせに即座に対応する側面もあったが、カ氏の場合はそうでもあるまい。以前は亭主が起き出す前に先に新聞に目を通すためとか称していた記憶がある。
なぜなら、国立大学付属小中で、戦前の「皇民教育」の裏返しである「民主主義教育」の実験材料にされ、65⇒【事実をもとに、論理的に、知性的に、理性的に…「民主主義」的人間のすること…「親や先生の言うことはきかなくていいから、自分の頭で考えなさい」】のような、一種の思想教育の憐むべき犠牲者(παθητός)であるのがカ氏だ。
未熟な(οὐ πέπων)子供に向かって、その人格を尊重する(περὶ πολλοῦ ποιέομαι)とかこつけて、一見もっともらしい理想(παράδειγμα)、その実軽率(ῥᾳθυμία)極まる独善的見解で子供に「独立した思考」(αὐτός διανοιά)を促すなど僭越(πλημμέλεια)極まりなく、もってのほかだ。
「親の言うことを聞かなくていい」と教える教師(διδάσκαλος)は、左翼思想の教導者や宗教家と選ぶところがない。所謂教育によって何でも変えられると思い込む「教育狂」がそこにいる。カ氏が頻りに糾弾する「洗脳」と少しも違わない。「親孝行」を封建道徳の遺風(νόμος)として問題視した戦後教育の悪しき側面がそこにはある。まさに日教組と同じだ。
もっとも、国立大付属校に入学してくるような子供は知的に早熟で、そうした教師や教育の見え透いた魂胆は早晩見破るから、弊害は少なかろう。カ氏のような単細胞が真に受け、齢70近くになっても親不孝な言辞を本欄で撒き散らしている。
左翼思想の信奉者である親も親なら、子も子なのだ。οἴμοι.[完]
冒頭の古代ギリシアの弁論家デモステネスの言葉は、首尾一貫した立論が一向にできないし、その気もないようなカ氏のためにあるような指摘だ。
とにかく、やにわに反応する。強情(αὐθάδεια)で負けず嫌い(δυσμεταχείριστος)の性向が透けて見えて滑稽だ。
ともかく、趣味も多彩なようだが、暇(σχολή)をもて余しているのだろう。暇、即ち余裕をもつことは齢70近くにもなるのだから結構な身分と言えようが、その余裕のない(ἀσχολία)前のめりな(προπετής)言辞とは対照的だ。それでは優雅な趣味も興醒めだろう。
‘La modération des personnes heureuses vient du calme que la bonne fortune donne à leur humeur.’(「幸福な人の節制は、幸運がもたらした静かに落ち着いた気分から生まれる。」=La Rochefoucauld; Maximes 17)というが、日本の高度成長と共に歩んだカ氏の世代は年金でも医療でも、弱年層に比べたらよほど恵まれた世代であろうに、カ氏をみれば不平不満(λοιδόρημα καὶ ἀκούσιον)の塊らしく矯激な法螺話を並べ立て愧じ入る様子もない。
趣味や運動、学習会、旅行とご気楽に遊び回っていながら充たされないものでもあるのだろう。人としての修養ができていないから仕方ないが、贅沢な不幸に焦慮を募らせているともみえるし、愚にもつかない投稿に躍起になっているところなど、何を勘違いしているのか、逆に惨めな幸福にどっぷり浸かっているようにもみえる。
誠に他愛もない80~81の「クズ」投稿の唯一の取り柄は、コピペだらけの普段のそれと違って、幼稚なりに日本語の文章になっている点だ。
ただ、凡庸さの刻印(τύπος)は隠しようがない。
また、カロリーネ氏は、忙しい合間を縫って早朝に投稿をされているとのことですが、仮にそれが事実だとしても、無理をして時間を捻出して余裕のないコメントをしても酷い水準のコメントになるだけです。自意識過剰による勘違いの使命感に駆られてコメントをしても、コメントをすればするほど「瑕疵」が明らかになり醜態を晒すだけです。
緒方さんとはほんの小さな関わりしかありませんでしたが、本エントリを読んで数年前に私の中で強く意識したことを思い出しました。
某防衛大臣が外務大臣の頃に杉原千畝の名誉を回復され、一方でロヒンギャが問題になった頃のことです。
杉原千畝を称賛しつつロヒンギャを無視し続けるという態度はとても両立しないと思いました。
杉原千畝は立派な人物かもしれませんが、ロヒンギャや入管の難民対応について無関心・無関与なままで単純に杉原千畝を称賛する列に加わりたくかったのです。
日本政府のロヒンギャ対応や国内滞在難民に対する態度にそれなりに合理性があると考える立場でありながら、杉原千畝を称賛することは破廉恥極まりないのであり、もし現行の政府施策を肯定するならば杉原千畝には精々『好意的無関心』な態度しか取りえないのではないでしょうか?
緒方氏の態度に共感しつつ、安易に同氏を称賛する列に加わりきれない貴エントリに共感した次第であります。
まさに明々白々たる事実だから、罵倒(σκῶμμα)するまでもないお手軽さである。いずれにしても、カ氏は軽率((ῥᾳθυμία)で驚くほど(θαυμαστός)軽い(καῦφς)。
学問的な(φιλοσοφώτερον)訓練(ἄσκησις)が全くできていない出来損ない(ὀ ἥμιγενής)だから、学問的議論(ἀκριβολογεῖσθαι)はもとより、国家公共の事柄(τὰ τῆς πόλεως πράγματα)について、真っ当な立論を可能にする知識(ἐπιστήμη)も 思慮(φρόνησις)も知恵(σοφία)もないことは明らかだろう。
85⇒【ドイツ人元教授の説明…「カント」…米国大統領ウィルソンが提案した国際連盟…ドイツ語では、Voelkerbund(Völkerbund=ドイツ語を長年学んだのだから、ちゃんと「ウムラウト」ぐらい表記できないものか)…カントの思想、人道主義的考え方から生まれたもの…民族間の絆が生まれ、戦争はせず、永久の平和が確保されると考えていた。そうウィルソンも考え、この国際連盟をつくったそうであるが、現実はそうならなかった】
「そうであるが」も何もない。高校生でも知っている初歩的知識=「常識」(τὰ ἔνδοξα)を、ギリシア語も読めないドイツ人の元教授の説明だからといって、別に喋喋するほどのことでもなかろう。
「無学」(ἀπαιδευσία)はこれだから困る。
そのそも、それが如何に実現困難かは、カ氏程度の「阿呆」に指摘されなくとも、カントは百も承知だ。しかも、カントにとって、この「永遠平和論」の基本的思想はフランス革命に続く欧州の動乱が直接の契機ではない。「世界市民的体制」を実現することによって導き出される可能性がある、「普遍的な平和の状態」への展望を述べた別の論考が先立って存在する。
とにかく、利いたふうなことを言いたかったら、カントの『永遠の平和のために』(“Zum ewigen Frieden, Ein philosophischer Entwurf”, 1795)を読んでからにしたらいい。岩波文庫に邦訳もある。ケルゼンの詰らないパンフレットよりも薄い。
そこで構想されたのは、「国家公民的」(Staatsbrgelich)体制を越えた、「世界公民的」(wertbür gerlich)体制を実現できなければ、永遠の世界平和は覚束ないという思想だ。
それが国際連盟で実現できなかったのはカントの責任でも見通しの甘さでも何でもない。
86⇒【その解説をきいて、一層、日本国憲法9条のカントの「定言命法的解釈」は問題がある、と確信した】のは議論のすり替えで、論点窃取(τὸ ἐξ ἀρχῆς αἰτεῖν=petitio principii)の誤謬、つまり詐術的議論の典型だ。
カ氏が筋道の通った(κατὰ μέθοδος)論理的思考が全くできない証拠(τεκμήριον)だ。
しかも篠田さんだけでは足りず、86末尾で緒方貞子氏まで騙る臆面のなさだ。
亭主の稼ぎがいいとか、海外留学経験があるとか、大したことはないが英独語に通じていることとは次元が違う豊かさの実感だ。カ氏にはそれがない。亭主に甘ったれながら好き勝手に生き、不平不満を世の中にぶつけているだけだろう。
そういうのを「贅沢な不幸」という。投稿によって束の間に感じているのは、己の真相(ἀληθῆ)を知らぬ「惨めな幸福」ということだ。無知の知(μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι)の自覚が必要なのは、まさにカ氏だろう。
カ氏には恐らく、子供がいないかもしれない。親の心を知らぬ「餓鬼」=我執(πικρία)の塊の典型だ。子供を「洗脳」(81)する親など、カ氏の父親に限らず滅多にいまい。
‘ὀ Ἡ.(Ἡράκλειτος)φησι τοῖς ἐγρηγορόσιν ἕνα καὶ κοινὸν κόσμον εἶναι, τῶν δὲ κοιμωμένων ἕκαστοv εἰς ἴδιοv ἀποστρέφεσθαι.’(Frag. 89, H. Diels; “Die Fragmente der Vorsokratiker”, herausgegeben von W. Kranz;6 Aufl., 1992, Bd. I, S. 171)
目覚めているようで、自己に盲目なカ氏のような人間のための言葉だ。「ガラクタ知恵袋」のWikipediaで読み解ければ、カ氏も一人前だろうが…。[完]
‘τοῦ δὲ λόγον τοῦδ’ ἐόντος ἀεὶ ἀξύνετοι γίνονται ἄνθρωποι καὶ πρόσθεν ἢ ἀκοῦσαι καὶ ἀκοῦσαντες τὸ πρῶτον•’(ibid., Frag. 1, S. 150)
親心を知らない、その自覚せざる左翼的心性はともかく、91⇒【哲学好き、学問好きの父は、私と違ってカントを読んでいる…『永遠の平和のために』…も…ヘーゲルもマルクスも】のような立論は、それこそカ氏がカントの『永遠の平和のために』(“Zum ewigen Frieden, Ein philosophischer Entwurf”, 1795)を一行も読むことなく、戯けた法螺話を撒き散らしていることの何の説明にもなっていない。
父親ではなく、読まずに語る(騙る)カ氏こそ問題なのだ。
それを自覚せずに、何ごとかコメントした気になっているから俗物根性(‘Philistertum’)の「阿呆」(ἠλίηθιος)と表現するしかなく、それは印象(ἡ εἰκών)ではなく事実(ὅτι)だから「操作」(ἔργον)の必要もなく、「誹謗中傷」以前の問題たる所以だ。
哲学書はミーハーの読書と違い、カ氏の父親の場合も、単に「好き」だから読むものでもなかろう。
議論の趣旨は、何時もの「ドイツ人の元教授に…」云々の調子でカントを論じた気になっているカ氏の「無学ゆえの」(δι’ ἀπαιδευσίαν)虚栄に満ちた人間性を物語っており、醜悪な「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)を窺わせる。子の有無についても口を拭っている。
幼稚な議論をこれ以上相手にすると「莫迦」が移るから、89に添えたヘラクレイトス(Ἡράκλειτος)の断片と伝えられる文章について、解説を添える。一般的には、「万物流転」(‘πάντα ῥεῖ’)の思想で人口に膾炙したソクラテス登場以前のギリシアの哲学者だ。
‘ὀ Ἡ.(Ἡράκλειτος)φησι τοῖς ἐγρηγορόσιν ἕνα καὶ κοινὸν κόσμον εἶναι, τῶν δὲ κοιμωμένων ἕκαστοv εἰς ἴδιοv ἀποστρέφεσθαι.’(Frag. 89=「(ヘラクレイトスは言う)目覚めている者には、全体の秩序(世界)が、すべてに共通するものとして、ただ一つあるけれども、(寝ている時は、銘々がそのようなものに背を向けて)自分だけのもの(に戻る)。」: H. Diels; “Die Fragmente der Vorsokratiker”, hrsg. von W. Kranz;6 Aufl., 1992, Bd. I, S. 171。訳は田中美知太郎訳を参考に、筆者の都合で一部表記などを変えた)
カ氏は「無知な」、あたかも理性が眠れる人々に等しく、そのコメントは「寝言」の類なのだ。
‘τοῦ δὲ λόγον τοῦδ’ ἐόντος ἀεὶ ἀξύνετοι γίνονται ἄνθρωποι καὶ πρόσθεν ἢ ἀκοῦσαι καὶ ἀκοῦσαντες τὸ πρῶτον•’(ibid., Frag. 1=「ロゴス(理)は、この通りのものとして、常にあるのだけれど、人間どもはこれをけっして理解するようにならない。これを聞かなかった以前も、一度これを聞いてからも。」: S. 150)
カ氏には論理(ロゴス、と同時に理=「ことわり」)は無きに等しい。従って、
‘διὸ δεῖ ἕπεσθαι τῶι <ξυνῶι, τουτέσθαι τῶι> κοινῶι. ξυνὸσ γὰρ ὁ κοινός. τοῦ λόγου δ’ ἐόντος ξυνοῦ ζώυσιν οἱ πολλοὶ ὡς ἰδίαv ἔχοντες φρόνησιν’(ibid., Frag. 2=「それゆえ、すべてに通ずる公的なものには従わねばならない。しかるにここに言われているロゴスは、すべてに通じる公的なものとしてあるにもかかわらず、多くの人間の生き方は、自分一人だけの私的な思慮しかないようである。」: S. 151)
カ氏は自らの恣意的な思慮にまどろみ、共通認識を可能にする普遍的な道理を拒絶する。
カ氏はロゴスに盲目な「唯我独尊」の世界に生きている。つける薬はない。οἴμοι.
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