11月12日、警視庁が、旧通産省工業技術院の元院長・飯塚幸三容疑者(88)を、自動車運転処罰法違反(過失運転致死傷)の疑いで書類送検した。これにあわせて遺族の松永さんが会見を開いた。「本日、スタートラインに立った。2人や今後の社会のためにも、事故が軽い罪で終わらないよう自分にできることをやります」と語ったという。本当に痛ましい事件だった。それなのに前を向いて行動する松永さんの呼びかけで、39万人の署名が集まった。人並みに子どもを持つ私自身も、署名した。
当日の記者会見では、元通産省官僚である飯塚容疑者が、「メーカーには安全な車を開発して高齢者が安心して運転できるようにしてほしい」、と発言したらしいことが、話題になった。
「見た時は体が震え出して、怒りというよりはむなしくなってしまった」、という松永さんの言葉を借りるまでもない。88歳の老人の認識力に、問題があるとしか言いようがない。
前日、東京八王子でも60代ドライバーが園児の列に突入する事故が起きていた。http://agora-web.jp/archives/2042615.html 12日には、大津園児死傷事故の裁判が始まった報道も見られただけではない。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191112-00000069-ytv-l25 さらには80歳老人の駐車場内での暴走事件も報道されている。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191112-00025290-tokaiv-soci
これがハイパー高齢化社会を迎えた現代日本の日常風景だろう。
人間の命に差はないという。だが本当に3歳の未来ある子どもと、88歳の老人の間にも、何も差がないのか。超高齢化社会の日本では、手続き的な平等と、実質的な平等との間に、巨大なギャップが存在している。
気になるのは、問題を矮小化しようとする識者が多いことだ。39万人の署名が集まっても。「司法判断に影響はない」とか、「逮捕されないのは逃亡の恐れがないからだ」とか、「手続き」面の話に終始している場合が多すぎる。
飯塚容疑者の厳罰が必要だと考える人が多いのは、感情的に任せて私刑を求めているからではない。「手続き」の話ばかりをしていて、実質的な平等や正義を忘れてしまってはいけない、と考えるから、署名が集まるのだ。
「高齢者で足が悪かったが、高齢者でそのことを深刻に考える余裕がなかった、ということは故意に暴走したわけではないので、危険運転とは見なせない。」
「高齢者で収監に耐えられないので、逮捕はできない、裁判中に寿命が来て裁判が途中で終わってしまっても、それは警察・検察・裁判所の誰の責任でもない。」
これらの話は全て「手続き」的には正しい。だが果たしてこのようなロジックだけを語って何かを説明したかのような気分になっていて、それで本当にこの社会を今後何十年も維持していけると言うのだろうか。
政治家は高齢者の票のことを考えるのは仕方がないのかもしれないが、放置していれば、少数者に不利な政治が延々と続いていくことは間違いない。http://agora-web.jp/archives/2039894.html
抑止力が必要なのである。
わかっているはずなのに、気づかないふりをするのは、他の様々な問題と同じように、私には日本社会の隅々にまで浸透した停滞に対する諦念のようなものであると感じる。
これまでの憲法学通説では日本は行きづまるしかないのに、「憲法学通説だから仕方がない」と受けいれてしまうのと同じような社会構造の問題を、暴走老人の問題にも感じる。
対策が必要だ。
第一に、免許制度の充実が必要である。確かに、メーカーが自動運転車を開発したら、高齢者には自動運転車限定免許を前提にした審査を課すべきだろう。しかしその前に、まず認知症の進展を警戒した免許証の毎年更新制度や追加更新料を導入するべきだ。それによって、本当に免許の更新が必要か、を考え直させる機会を与えることが必要だ。免許にかかるコストが安いままでは、どんなに高齢者向けのバスなどを提供しても、全く利用されないままで終わってしまう。経済力のない老人に配慮することは大切だが、だからといって安易に運転を許すわけにはいかない。むしろそれをふまえて公共サービスの利用へと誘導していく措置が必要だ。
第二に、「任意保険」にあたる保険を、高齢者については強制加入させる制度が必要ではないか。理由は、認知能力の是非ではない。寿命の問題だ。保険加入していなければ、確実に、民事訴訟における損害賠償負担に対応できない。対応する前に、寿命が来る。その際、理論的には相続人が責任を負うが、相続放棄されたら終わりだ。今回の飯塚容疑者の事件でも、任意保険加入があったのか、それで全面的にまかなえるのか、全く報道されていないが、非常に気になる。
第三に、相続人に対する抑止力を視野に入れるべきだ。老人の運転を止めるのは周囲にいる家族だが、結局は他人ごとであると、真剣に運転を止めてくれない。上記二つの措置は、比較的経済力のない高齢者には効果を持つだろうが、経済的に余裕のある老人には、効果を持たないかもしれない。痛くもなんともない額面を払ってしまえば暴走できる、あとは暴走した上で寿命を全うするだけだ、というのが最も「合理的」な選択であれば、そのような「合理的」な選択に多くの裕福な老人が流れていくことになってしまう。経済的に余裕のある老人の暴走を防ぐには、相続にメスを入れるしかない。つまり自分が寿命を全うした後も生き続けるだろう家族に損害が出る仕組みをつくらなければ、抑止力は発揮されない。
「手続き」に時間をかけていれば、加害者は、必ず資産移動を画策する。生前贈与などをしたうえで寿命を全うし、資産を極小化させた後で、相続人が相続放棄をするという段取りを進める。加害者にとって可愛いのは、被害者ではなく、自分の子どもであり、自分の孫だ。放っておけば、必ず自分の相続人を守るための資産移動を図る。もし、そのような資産移動は容易に行える、という社会通念を高齢者層に与えてしまうと、暴走への強力なインセンティブ(誘引材料)になる。
それを防ぐには、被害者が、事故後の資産移動に関する情報を簡単に入手し、不当な生前贈与があったことを訴えることができるようにすることを、制度的に助けなければならない。任意保険に入っていない場合はもちろん、任意保険があってもカバーできない慰謝料に対しては、事故被害者・遺族のイニシアチブによる資産凍結が発動される事例を、実際に作っていく必要があると思われる。そうでなければ抑止力が期待できない。
日本は、人類の歴史でも未曽有の高齢化社会に突入している。一部の人たちは、高齢化社会に対応する先例を作ることによって、日本は他国に模範を示すことができる、などと主張している。しかし、もしこうした人たちの主張が正しいとすれば、一つ踏み込んだ高齢者暴走交通事故対策が必要だ。そうでなければ、日本はただの平凡な停滞した社会として、衰退していくしかない。
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その後、妻は大型連休後半の5月4日に再び吐血して緊急入院、翌5日の「こどもの日」に医師の前で大吐血して3日半にわたって意識が途絶え、生死の境を彷徨った。
私はその間、篠田さんの「高齢者暴走は政治家の問題なのではないか」(4月20日)に始まった本件に関する一連の主張、「立憲民主党の高齢者運転対策の動きを応援する」(4月26日)と、それに続く三部作「暴走老人に対する抑止力の確保は、日本の国益」(4月30日)に展開された、篠田さんらしい不条理に対する怒りや犠牲者の遺族に寄り添うその感情には理解を示しつつ、議論の趣旨には一貫して反対してきた。特に「暴走老人に対する抑止力の確保は、日本の国益」にはたった一人で投稿を重ねながら(1=4月30日~33=5月9日)、付き合った。
そうこうするうちに、妻は不思議な生命力で蘇り、5月9日の午後に覚醒したことをよく覚えている。妻の深刻な闘病中に私が本欄への投稿を中断しなかった所以だ。
従って、「交通事故被害者の尊厳をどう尊重するか」(5月9日)、「池袋老人暴走事件の遺族の方の会見とマスコミの伝える義務」(5月18日)と続いて今回に至る議論には基本的に賛成できない。
しかし、母子2人を事実上轢き殺し、大勢の通行人を負傷させた元通産相工業技術院長の88歳の男が、最高刑が7年以下の懲役、禁錮または100万円以下の罰金という「過失運転致死傷罪」の容疑で、逃亡や証拠隠滅の虞もないとして身柄を拘束されることもなく、書類送検にとどまっていることへの違和感もよく分かる。
それはともかく、1⇒【篠田先生の主張されるように、高齢者を悪者にしても、問題の解決は難しいのではないか】のような論理的に不分明な拙い文章は、何んとかならないものか。
文脈から推定して文意は了解可能だが、文そのものからは、①「篠田さんが高齢者を悪者にして」いるのか、②篠田さんが「高齢者を悪者にする」議論に疑問を呈しているのか、二様にとれる。如何にも神経が行き届いていないカ氏らしい文で、その思考の杜撰さを歴然と示す。それ以外は、トピックスを逸脱した老いの繰り言(μεμψιμοι)でしかない。下らない。
ともかく、篠田さんがいみじくも指摘するように、⇒【わかっているはずなのに、気づかないふりをするのは、他の様々な問題と同じように、私には日本社会の隅々にまで浸透した停滞に対する諦念】はその通りだろう。法の手続きにもたれかかって、88歳の男は大して反省していない。厳罰は必要だが、想定される4年程度の実刑の一審判決を不服として、たぶん控訴するだろう。本人も遺族も十字架を背負う後半生だろうが。
私が唯一興味をもったのは、⇒【人間の命に差はないという。だが本当に3歳の未来ある子どもと、88歳の老人の間にも、何も差がないのか…手続き的な平等と、実質的な平等との間に、巨大なギャップが存在している】との指摘だ。
まさに「綺麗ごと」(κάλλος)を突き抜けた、ギリシア悲劇でもおなじみの古代ギリシア的設問で、徹底した議論の余地はこの部分にあるとみている。
それは兎も角、篠田教授のブログ記事の「任意保険があってもカバーできない慰謝料」とある点について若干の補足説明をします。任意保険に加入している場合は通常は「対人・対物 無制限」なので、慰謝料が法的に填補不足に陥ることはありません。慰謝料については裁判実務上は定型的に算定されますが、保険会社も裁判所の確定判決には従うので、「任意保険があってもカバーされない慰謝料」は生じません。問題になるのは、裁判外の示談交渉の場合です。加害者の示談代行を行っている保険会社や(通常は保険会社と顧問や提携をしている)加害者代理人弁護士は、裁判基準よりも遥かに低い任意保険基準に基づいて提示をしていますが(被害者側で弁護士を代理人にした場合でも裁判基準の8~9割程度の提示)、それに不服がある場合は示談をせずに民事訴訟をすれば裁判基準が適用される形になります。
これに対し、任意保険に加入していない場合は、財産をもっていないほど任意保険への加入率が低下する傾向があることから加害者の資力が乏しい場合が多く裁判基準の賠償額を回収ができない場合が多い実情です。このため、強制保険である自賠責保険の機能強化をするのが良いのではないかと思います。例えば、認知機能の低下がみられる高齢者については自賠責の保険料を増額した上で裁判基準よりも低い自賠責基準を適正な水準に引き上げる、あるいは、更に進めて、高齢者に限らず、自賠責保険の保険料を増額した上で適正な賠償水準にするという方策もあり得ます。
なお、現行の刑事手続の運用や実態は、元検事の前田恒彦氏の下記の解説が比較的参考になります。
https://news.yahoo.co.jp/byline/maedatsunehiko/20191112-00150526/
ヤフーで見つけましたので、ヤフー転載の方を掲げておきます→「憲法9条を理解したければ国際法を知る必要がある理由」https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191114-00220473-diamond-bus_all&p=3
管見ですが、今の第9条の憲法学「通説」といわれるものは、時系列からしますと、始めに憲法学者らによってその見解があったわけではなく、制憲議会冒頭(衆院に憲法改正案が上程された直後の昭和21年6月26日本会議答弁)での吉田茂首相の有権解釈を、その後の憲法学者が学説として体系化させたものと理解しています。もちろん、この吉田首相の政府最初の第9条に関する有権解釈は、起草者GHQ民政局、それを日本語正文にした内閣法制局の合作であることは、明らかです。
吉田茂さんは、米国以上の軍事力をもてないなら、再軍備に意味がない、敗戦後の日本の現状から考えて、「経済政策」がなにより優先する、という考えから、再軍備に反対だったし、米国のダレス国務長官に再軍備を促されたときも、応じず、米国のご機嫌を取るために警察予備隊を創設された方なのだから、吉田茂さんの「政治的意図は明確」であるが、彼は行政府の人である。それに対して、立法府、法律を作る、日本語正文修正した芦田均さんは、再軍備容認派である。本来、立法府が創った憲法や法律を解釈するのは、行政府に属する「内閣法制局」や法学者ではなくて、最高裁判所なのではないのだろうか、というのが私の主張である。
芦田小委員長による追加修正案の時点で、将来の自衛権行使のための含意があることは、時の内閣法制局とGHQ民政局(ケージス次長)も承知していました。占領下ですから当然部分的修正にしろ、GHQ民政局の了承を得て修正しています(西修『日本国憲法の誕生』103頁)。
この昭和21年6月26日衆院本会議における吉田茂首相の答弁は、GHQ民政局によって起草され、それを内閣法制局が日本語正文に翻訳して憲法改正案として、事実上の制憲議会たる昭和21年6月25日衆議院に上程された直後の答弁です。この答弁は、第9条に関する最初の政府見解です。この答弁で、吉田首相は自衛権の行使を否定しています、その根拠を第2項に求めています。
カロリーネさんご指摘のとおり、一般論としては憲法など法律の最終解釈権は、具体的裁判を通して最高裁にあります。しかし、実際に憲法・法律を運用する行政府(内閣法制局)も、その運用に関しての解釈権を有します。その有権解釈に基づいて、行政権が執行されています。
もっとも、この答弁は、「(自衛)戦争」には至らない自衛行動権としての実力行使まで否定したものではないとの解釈が可能です。占領後の独立を想定し、そのような余地を残した答弁だと思われます。その後の政府解釈も、その延長線のものとして整合的に理解可能です。
そのような場合は、当然のことながら、所管省庁等の行政解釈が運用上は重視され、司法判断が確立するまでは通用する実情なのです。裁判所の司法判断も、確立した行政解釈が既に存在する場合に、それと異なる解釈をとることは稀なのです。
しかも、「Gクン」氏はカ氏の「でたらめ」(τερθρύεῖσθαι)だらけの憲法学の素人(ιδώτης)による拡大解釈(ἐξηγέομαι=zur viel verstehen)に、「政府解釈」氏のように言うべきことを言わないため、見当違いな議論に終始している。
帝国憲法改正審議での吉田茂の答弁は有権解釈だろうが、その場しのぎのまやかし(γοητδεύειν)でしかない。占領下での政治的な選択と言えばそれまでだが、虚偽は虚偽だ。国際情勢が冷戦が激化する方向に動いたことで、その後の対応は事実上、無節操に現状追随に流れた。
「変節」の際に、篠田さんのように首尾一貫した憲法解釈を示して議論に供してはいない。当時の憲法担当国務大臣の金森德次郎も同様だ。芦田均もGHQのご機嫌伺いに終始した。
彼らには、GHQとの連絡役として吉田に仕えた白洲次郎が、1946年3月6日、勅語及び「帝国憲法改正草案要綱」が発表された当時の「手記」に、「斯クシテコノ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル『今に見ていろ』ト云フ氣持抑へ切レスヒソカニ涙ス」とした無念さも、内閣法制局第一部長の佐藤達夫が同じく手記に、「無準備ノ儘、微力事ニ当リ、然モ極端ナル時間ノ制約アリテ詳細ニ先方ノ意向ヲ訊シ議論ヲ盡スノ餘裕ナカリシコト、寔ニ遺憾ニ堪エズ、已ムヲ得ザル事情ニ因ルモノトハ云ヘ、此ノ重大責務ヲ滿足ニ果シ得ザリシ罪顧ミテ悚然タルモノアリ、深ク頂ヲ垂レテ官邸ニ入ル」と痛恨の情を綴った、敗戦国の惨めさへの自覚が足りない。
政治は結果責任だから大目に(大局的に)みる必要があるとしても、日本の戦後の憲法論議をめぐる袋小路は、憲法学者だけに責任があるわけではない。
要するに、吉田茂さんがひかれたレールの上を自民党の政治家が走ったことは成功だった。吉田政治がその場しのぎのまやかしの政治ではなかったからこそ、その路線が継承されたのである。ただ、現在、吉田さんの時代と、国際情勢が大きく変わっている。昭和維新、政権交代のある政治、はうまくいかなかったのだから、我々主権者国民は、無責任なマスコミ知識人、学者、野党の政治家の主張を盲目的に信じるのではなくて、よく話をきいたうえで、考えて、民主的にものごとを進めるべきだ、というのが私の主張である。
日本は戦争で大勢の犠牲者を出したけれど、「敗戦」してよかった、「日本国憲法をもててよかった。」、という認識の元に、9条解釈を芦田解釈にし、「文民によってコントロールされた軍隊」をもって集団的、個別的自衛権の両方を使って、自国と国際社会の平和を構築すべきなのではないか、というのが私の主張である。
(参考: あたらしい憲法のはなし 他2篇、高見勝利、岩波書店)
別の表現(ῥῆμα)をするなら、単純でナイーヴ(ἁπλοῦς)、つまり言葉の本来の意味で幼稚(νήπιος)で軽率(ῥᾳδιος)、つまり心(ψυχή)も知性(νοῦς=学識の多寡[ποσόν]を含め)も軽薄(κοῦφος)だというのが私の率直な感想だ。
日頃からしばしば「現実的にものを考える」(διανοεῖσθαι κατὰ ἐνέργειαν)と称して国際通を自称する割には、「老婆の他愛ないおしゃべり」(‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)とするしかない所以だ。
小中学生なら、それもいい。しかし、齢70近く人生経験が豊富で、しかも米国や西独留学経験もあり、一応米独語も読めるらしいのに、過去の誤謬だらけのコメントが示す体たらくだ。
誹謗中傷(λοιδορία καὶ συκοφαντία)も何も、そうした客観的事実(οἷα ἦν ἢ ἔστιν)をありのまま(ἀληθῆ)に示す(δεῖξις)と、否が応でも私のカ氏に対するような表現(ῥῆμα)を選択せざるを得ない、ということだ。
パソコンとは便利なもので、長らく続けてきた私の投稿(前回までで2770件に上る)がその歴然たる証拠(τεκμήριον=『カ氏誤録』)であり、証明(συμβιβάζειν)で、ここにきて心優しく誠実で(ἀληθής)謙虚な(κόσμιότης)、しかも自制心(σωφροσύνη)を失わない「政府解釈」氏も、でたらめさ(τερθρύεῖσθαι)が過ぎるカ氏に業を煮やして、控え目に言及するようになった公然たる秘密ではなく、事実だろう。
カ氏にしては一見しおらしい16~18は愚にもつかない老媼の繰り言(μεμψιμοι)であり、正確に日本文も読めないプライドだけは一人前の怠惰な(ῥᾳθυμητέον)元留学生のなれの果てだ。
「身から出たサビ」(τὸ ἀντιπεπονθός)だからどうにもなるまいが。
前回の15⇒【反氏を代表とするマスコミ出身者、学者、知識人と私の違いは、戦後80年の日本の政治が、成功だったか、失敗だったか、の判断…反氏たちは、失敗だと考え】は、そうした議論が私の14を読んで如何にして可能になるか、というカ氏の驚くべき「誤読能力」の症例だ。
故意(ἑκουσίως)なら相当悪質だし、無意識に(λανθάνειν)なら愚鈍ということだ。実態は「両方」なのだろう。
事実誤認も相変らずで、18⇒【数日前、Spiegel誌に…北朝鮮の民衆の悲惨な生活、が報道…日本は…このようなニュースは報道されず】はその典型だろう。カ氏がよく見るテレビの情報番組にはその手の情報があふれている。
在日朝鮮人も多い日本で、ドイツの高が週刊誌から教えてもらうことなど、何もない。戦後40年演説同様、盲目的な(τυφλός)ドイツ偏愛もここまでくると「病気」(νόσος)で、さすがは「ヴァイツゼッカー宗」の巫女(προφῆτις)だ。
芦田均が3点を挙げ戦後日本の指針としたとかいう、16⇒【国民がお互いに人格を尊重…民主主義を正しく実行…平和を愛する精神】というのは規範(νόμος)であり要請(αἰτεησις)であって世の現実(ἔργον γιγνόμενον)とは異なる、というのが良識(εὐγνωμοσύνη)ある大人の真っ当な分別(ὁ ὀρθὸς λόγος)だろう。カ氏にはそれが根本的に欠落している。お目出度い(εὐήθεια)わけだ。
私の17⇒【戦後の日本人は命の重みを重く主張しすぎる、という表現】というが不正確極まりない。私の一貫した主張は、「日本人の生命のみを特別視する」戦後的風潮であって、生命軽視ではない。
何んとかにつける薬はない。οἴμοι.
狂信的な「おままごと」投稿を、止み難い「日課」とする驕慢な老婆の狂態は醜悪そのものだが、カ氏には「メンツ」にこだわる割には、真の意味での名誉(τιμή)を自ら(αὐτός)毀損する(κολοβῦν)愚行を重ねており、名誉への執着(πικρία)は希薄なようだ。
だから恥(αἰσχύνη)を恥ともしない臆面のない態度でも存外平気なのだろう。「弱論強弁」にもまして、「みっともない」(αἰσχρός)話だ。
16⇒【私は…国から発行した「新しい憲法、明るい生活」の発刊のことば…芦田均さんが…3つのこと…が、新日本の生きる道…と書いておられるから、これを三大原則にすべきだ、と主張している者】とするくらいだから、「一大原則」しかないとする篠田さんの憲法解釈とは随分異なる。憲法学通説のガラパゴス的解釈云々以前の問題だ。
カ氏が称揚するナイーヴな三つの精神はどうでもよく、17⇒【私の人格への尊重がまるでない】と論難するが、尊重(ἐντιμότερος)や敬意(θεραπία)に値する(πιστός)人格や品性(共にἦθος)など、そもそもカ氏が主張すること自体が噴飯ものだ。
カ氏にも人間としての尊厳(σεμνόν)はあるのだろう。カ氏なりの人生の意味(ἔμφασις)もあるのだろう。しかし、そこに価値(ἀξία)はない。
価値というからには当然「優劣」(εὐσχημοσύνη κὰι ἀσχημοσύνη)、即ち格差(διαίρεσις)=序列を前提としており、カ氏の幼稚な議論は価値と意味との混同(ἁμαρτάνω)でしかない。
分かる人間には、アリストテレス以来、分かる話だ。
カ氏は例外なのだろう。「無学」(ἀμαθής)だからだ。
‘ῶι μάλιστα διηνεκὠς ὁμιλοῦσι λόγωι τῶι τὰ ὅλα διοικοῦντι, τούτωι διαφέρονθαι, καὶ οἶς καθ’ ἡμέραν ἐγκυροῦσςι, τῦτα ἀὐτῖς ξένα φαίνεται.’(Ἡράκλειτος , Frag. 72)
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