ソレイマニ司令官殺害事件についていくつか文章を書いているうちに、憲政史家・倉山満氏のことが気になってきた。人気著述家である倉山氏のことは、私も気にしている。倉山氏の最新刊『ウェストファリア条約』は公刊後すぐ、昨年のうちに読んでいた。
倉山氏は、憲法と国際法に関して、私とは真逆の立場をとる方である。倉山氏は、アメリカが起草した現行憲法を無効と考える一方、明治憲法を高く評価する。興味深いのは、倉山氏が、国際法についても似た立場をとることだ。現代国際法を評価せず、古典的な国際法を評価する。
倉山氏の『ウェストファリア体制』は、グロティウスを天才と呼び、1648年ウェウストファリア条約以降の国際法体制の素晴らしさを訴える本だ。なぜかと言えば、ウェストファリアによって、「殺し合い」が横行していた30年戦争が終わり、暴力を独占する主権国家による「戦争」だけに暴力が整理されたからだ。
学術的に細かい議論は、捨象しよう。倉山氏の歴史観は、基本的には、全く正統である。絶対王政下時代の主権国家の原則によって、「戦争」という制度が確立された。
宗教戦争の虐殺が繰り返される状態から脱しようとしたヨーロッパの知識人たちは、主権国家という制度を強調した。主権国家による国内の治安装置と、「宣戦布告」を経た主権国家による対外「戦争」だけに、「正統な暴力」を限定した。それは、宗教戦争を防ぐという課題に対応する方法であった。
ヨーロッパ公法における主権の絶対性は、宗教戦争の途方もない「殺し合い」を終わりにするための装置であった。実際、この社会法制度の革命によって、ヨーロッパは暗黒時代を脱し、主権国家の絶対性を通じた発展の時代を迎えたのである。
ただし19世紀までの古典的なヨーロッパ公法の時代は、ヨーロッパで成立した、ヨーロッパ中心主義的なものであった。そこで倉山氏は、「日本語としてのウェストファリア体制」は1907年に確立された、と語る。その理由は、1907年に、日仏協商・日露協商が結ばれ、各国が東京に大使館を置くようになり、大日本帝国が名実ともにヨーロッパ列強と肩を並べる非ヨーロッパ大国になったからである。つまりヨーロッパ公法が、大日本帝国の参入を得て、遂にヨーロッパを超えた国際法になった瞬間が1907年だった、というわけである。
残念ながら、この国際法は、ほんの7年の短命なものだった。なぜなら第一次世界大戦をへて、国際法は大きく刷新され、ヨーロッパ公法の時代は終焉していくからである。
倉山氏は、アメリカの影響で刷新された20世紀以降の国際法を、糾弾する。グロティウスが作った古典的な国際法を壊してしまった、ウッドロー・ウィルソンのアメリカを拒絶する。
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欧州公法は、日本人の手によって国際法となったのです。それを、一人の狂人がぶち壊しました。その狂人とは、ウッドロー・ウィルソン。世界の誰にとっても不幸な、第一次世界大戦の時のアメリカ大統領です。(『ウェストファリア体制』222-223頁)
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倉山氏は、民族自決原則を取り入れて世界を大混乱に陥らせたことなどで、ウィルソンを糾弾する。特に深刻なのは、ウィルソンが「戦争の違法化」を推進したことである。「戦争」が廃止されてしまえば、「ウェストファリア体制」は崩壊する。なぜなら宣戦布告して主権国家が開始する「戦争」だけが正当な暴力でなければ、「殺し合い」の世界が復活してしまうからだ。
現実には、ウィルソンの考えにしたがって、国際連盟規約が作られ、1928年不戦条約へとつながり、1945年国連憲章が生まれた。国連憲章では、「戦争の違法化」は、「武力行使の一般的違法化」として定式化されるまでに至った。
主権国家が正式に宣戦布告する「戦争」であれば全て合法だが、そうでない暴力は全て違法、というヨーロッパ公法の考え方が廃止され、現代国際法が生まれた。20世紀以降の現代国際法では、主権国家が宣戦布告しても、侵略行為の武力行使は、違法である。代わりに、宣戦布告などをしなくても、侵略行為に対抗するための「自衛権の行使」や「集団安全保障」は、合法である。
現代国際法は、合法性の判断基準を、「主権国家の宣戦布告」から切り離した。そして国際法秩序に反する武力行使なのか、国際法秩序を維持するための法秩序なのかに、判断基準を変更した。
このウィルソン以来の「国際法の構造転換」が、すでに発生してしまった事実であることを、倉山氏は知っている。知ったうえで、それはダメなことだった、と倉山氏は断じている。
この主張は、学者にはできない。現代国際法は狂人が作り出したおかしなものだ、とは、とても学者では言えない。
もっとも例外は、日本の憲法学者だ。日本の憲法学者だけは、いまだに世界は19世紀ヨーロッパ公法に支配されているかのように語る。ただし憲法学者がそのような国際法蔑視の態度をとるのは、19世紀ヨーロッパ国際法とともに、現代国際法を拒絶し、「憲法優位説」を打ち立てるためであろう。
これに対して倉山氏は、むしろ大日本帝国憲法と19世紀ヨーロッパ公法こそが、取り戻すべき素晴らしい世界だ、と主張するのである。
ヨーロッパ公法の「ウェストファリア体制」が続いていれば、ソレイマニ司令官殺害が合法的であったかどうかを議論する必要もなかった。主権国家の宣戦布告があったかどうか、だけが判断基準だったら、何も議論しなくていい。トランプ大統領の頭には、宣戦布告などなく、そもそもイランという国家を攻撃したという考え方すらない。「テロリスト」を排除した、という発想方法しかなかった。
早川忠考氏は、自衛権を認めると、「弱肉強食の野蛮な世界」が生まれ、http://agora-web.jp/archives/2043710.html 「悲惨な事故」が招かれる、http://agora-web.jp/archives/2043710.htmlと主張している。日本の法律家としても、今日では希少となった自衛権否定論である。
もし絶対平和主義を採用しないのに、自衛権を否定するのであれば、あとは「ウェストファリア体制」の復活しかないだろう。合法性の判断基準を、「主権国家が宣戦布告をしたかどうか」だけに還元するという方法である。主権国家の「戦争」は合法だが、それ以外の武力行使は単なる「殺し合い」で違法だ、という世界観を復活させるしかない。
議論としては、一つの立場である。倉山氏の議論は、思考のトレーニングとして、一つの洞察を含んでいる。
だが、現実には、21世紀の世界は、19世紀のヨーロッパとは、全然違う。現代世界で、19世紀ヨーロッパ公法を復活させるなどという試みは、あまりにも壮大すぎる。
第一次世界大戦から第二次世界大戦に至る現代国際法が生まれた時代は、ヨーロッパ「帝国」の崩壊の時代だ。ヨーロッパの帝国が潰し合いを始めたのが、第一次世界大戦だ。ウィルソンは、その説明をマルクス=レーニンだけに委ねて、共産主義が世界を支配してしまうのを防ぐために、自由主義にもとづく国際秩序を構想した。
その後の脱植民地化の歴史を通じて、ヨーロッパの帝国は完全に消滅した。そして、無数の脆弱な新興独立諸国が生まれた。国家の数が200近くにも増加した20世紀後半以降の新しい国際社会において、19世紀ヨーロッパ公法の主権の絶対性に依拠するだけの秩序を導入することは、不可能ではないか。
1648年ウェストファリア条約から1914年第一次世界大戦に至るまでの間に、国家の数は激減した。絶対主権の審査が厳しすぎたのだ。「宣戦布告があれば戦争は全て合法」の秩序は、ヨーロッパの帝国すら、崩壊させた。
現代国際法は、初期の目的を達成している。今日の世界では、国家間戦争は、ほとんど起こっていない。現代世界の武力紛争のほぼ全ては、内戦か、あるいは内戦が近隣諸国を巻き込んで国際化したものである。テロリスト集団のような非国家主体が闊歩する「非対称戦争」がほとんどだ。
新しい対応策が必要になっている。だが、それでも自衛権を否定したり、ヨーロッパ公法の復活を唱えたりすることが、現実に可能だとは思えない。現代世界の国際法秩序を強化しながら、新しい対応策を考えるしかない、と私は考える。
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その後、第一次世界大戦で総力戦をし、その被害がヨーロッパ大陸で民間人も巻き込んで、甚大だったから、「国権の発動たる戦争」は「国際法上違法」となり、現在のシステムになっている。現在の「平和構築」のシステムは、「武力をもつ国際連合」を中心とするもので、各国に武力を使った個別的、集団的自衛権を与え、国際連合が、国際社会の安全保障をする「集団安全保障体制」である。ところが、利害が相反する、覇権を争う、安全保障理事会の常任理事国の米・ロ・中国が、拒否権を使うので、機能不全に陥っている。
現在「リビアの和平問題」を解決するための会議がドイツのメルケル首相主導でベルリンで国際連合関係者も含み、支援国を含めて、紛争関係国が全員集まって協議されている。私は、メルケル首相の「ドイツ統一29周年の演説」の彼女の考え方を支持するので、秘密裡の個別協議ではなく、関係国どうしがオープンに多国間で協議し、妥協し、国際協調をして、この問題を手始めに、中東、アフリカ、北朝鮮問題が解決し、国際社会に「平和構築」ができることを期待している。
「...日本のマスコミが、国際情勢をきちんと伝えないから、中国政府が悪者になったり、日本の安倍首相の「桜を見る会」を含めたスキャンダルが大問題になるのであって...」中国政府への批判と安部政権への批判は全く同じ性質のものではないと考え、同じ土俵で議論するのは的外れだと思いますが、ご説明お願いします。
「...リビアは地上の地獄、と評されているのである。中国の天安門事件やウィグル自治区どころの騒ぎではない...」こちらも同じ性質のものではなく、比較対象にならないと思います。
「...ベルリン会議が成功したのは、ドイツ政府が、一方に肩入れしない、双方にとって公正な判断をする政府だと思われているからで、仏、伊は一方に肩入れする、ということで、関係者の信頼が得られなかったそうだ...」私が把握していないだけだと思いますが、右に関して、情報源を教えてください。
「...日本政府もドイツ政府と同じその長所を生かして、自衛隊を派遣して、関係国がリビア国内で武器供与をしていないかどうかのチェックに協力すればどうか...という日本国憲法に明記されている日本人の希望が叶えられ...」自衛隊の派遣が「日本国憲法に明記されている日本人の希望が叶えられ」にどのように直結しうるのかご教示ください。
といっても、1973年生まれの私より下の世代で、日本近代史を専攻し国士舘大学の研究機関で非常勤研究員を務めた経歴や、カラオケスタジオ最大手、シダックス会長の志田勤氏が設立した財団法人「希望日本投票所」の研究機関らしい「希望日本研究所」の所長の肩書で旺盛な執筆活動を展開し、安倍晋三首相のシンパであるという程度の外形的事実は知っている。しかし著書は読んだことがなく、買う気もない。多く鬼面人を驚かすタイトルからして、興味も関心もないからだ。
一字違いの「頭山満」については大いに興味があり、随分前に全巻46冊(第一部)を購入したままで腰を据えて読む機会のない『現代史資料』(みすず書房)で、パラパラめくった程度の「国家主義運動」1~3を少し身を入れて読み、戦前の国家主義の実態を調べてみようかと思うのとは随分違う。
篠田さんとは年齢が近く、ネット上でも活発に発信する倉山氏に、憲法に関する硬軟取り混ぜ4冊の著書がある篠田さんが関心を示し、最新刊の『ウェストファリア条約』(PHP新書)も早速読んだということに正直驚いた。
専門的研究書でもない門外漢の議論を莫迦にしているわけではないが、関心はあっても専門外の領域に無闇に手を出すことは、思考経済上も精神衛生上も無駄な行為と自制している。
「希望」(ἐλπίς)の冠だけで倉山氏はどうか内実は知らないが、大体において私は軽はずみに「希望」を語る人間を信用も重視もしない。
小池百合子東京都知事が「希望の党」を立ち上げた際も、その[aufheben]発言以上に軽蔑した。小池氏に国家を背負う資質はないと確信した。私の理解では、希望とは「パンドラの匣」から、ありとあらゆる災厄が飛び出した後に残った唯一のものが希望だったように、厳然たる現実に対比される「無」の別名、精々気休め(παραμῦθέομαι)だからだ。
トゥーキュディデースが記録した、ペロポネソス戦争中の大国アテーナイ使節団の弱小国メーロス島代表団への
「希望とな。なるほどそれは危険に臨んで元気をつけてくれるものだが、余力があって希望をもつのなら、万が一害を受けても身を滅ぼすことはあるまいが、すべてのものをそれに賭けてしまったのでは(希望とはその性質上、高くつくものであるゆえ)それが無に帰してから、その正体を思い知ったところで、もはやそれに対して身を守る術は残されてはいまい」(Ἐλπίς δὲ κινδύνῳ παραμύθιον οὖσα τοὺς μὲν ἀπὸ περιουσίας χρωμένους αὐτῇ, κἂν βλάψῃ, οὐ καθεῖλεν· τοῖς δ᾽ ἐς ἅπαν τὸ ὑπάρχον ἀναρριπτοῦσι (δάπανος γὰρ φύσει) ἅμα τε γιγνώσκεται σφαλέντων καὶ ἐν ὅτῳ ἔτι φυλάξεταί τις αὐτὴν γνωρισθεῖσαν οὐκ ἐλλείπει.)というニベもない言に、子供なりに衝撃を受けたからだ。15歳だった。
「諸君の都市は弱力で、しかもその運命はまさに諸君の一存にかかっているのだから、災いを避ける方途をよく考える必要がある。尽くせる人事も尽くさず、事態の圧力の前に、もはや手段はないと諦めてしまって、望みを占いや預言にだけ見出して身の破滅を招いた多くの莫迦者たちと同じ轍を諸君は踏んではなるまい」(ὃ ὑμεῖς ἀσθενεῖς τε καὶ ἐπὶ ῥοπῆς μιᾶς ὄντες μὴ βούλεσθε παθεῖν μηδὲ ὁμοιωθῆναι τοῖς πολλοῖς, οἷς παρὸν ἀνθρωπείως ἔτι σῴζεσθαι, ἐπειδὰν πιεζομένους αὐτοὺς ἐπιλίπωσιν αἱ φανεραὶ ἐλπίδες, ἐπὶ τὰς ἀφανεῖς καθίστανται μαντικήν τε καὶ χρησμοὺς καὶ ὅσα τοιαῦτα μετ᾽ ἐλπίδων λυμαίνεται.=『歴史』5巻103章)、ということだ。
「力に余裕(περιουσίας=surplus or abundance)のあるものが希望をもつのならば、害を受けこそすれ、滅びることはあるまい」というのは、誠に厳しい言葉だが、単なる希望や「そうあるよう望む」(προαιρεῖσθαι)願望(βούλησις)、軽率で無意味な信念(πίστις)や祈り(εὐχή)、決意(ὅρκια)は救い(σωτηρία)とはならず、道徳や政治の前提にはなっても、それだけでは悲惨で耐えがたい現実(τὸ γιγνόμενον)を動かす力にはならない、というだけのことだ。
現状に不平と不満(λοιδόρημα καὶ ἀκούσιον)を募らせ、不条理(ἀλογία)や到底受け入れられない不正義(ἀδικία)をみて奴隷の平和(τὸ δουλεύω)、つまり強者(κρείττων)への隷従(δουλεία)を拒むのもまた、本来の人間的な自由(τἀνθρώπινον ἐλευθερία)の根源にある、人間としての尊厳だからだ。
現在の確立された国際法規範では、戦争一般は否定(ἀπόφασις)されているが、国家間の戦争ではないあらゆる内乱や紛争、テロ行為、抑圧が世界中に満ちている。国連常任理事国である中国のように、共産党一党独裁という体制維のため、自国民を抑圧し、戦後の国際秩序に挑戦する国家もある。香港や新疆ウイグル自治区での弾圧や南シナ海島嶼部の軍事拠点化が動かぬ証拠だ。
それをリビアの悲惨な状況と比べ、欧州への影響がないというだけで、5⇒【リビアは地上の地獄…天安門事件やウィグル自治区どころの騒ぎではない】と強弁する、とんだ中国贔屓の二重基準の「民主主義狂」の矯激な老婆がいる。
「ヴァイツゼッカー狂」らしく昨日も、22⇒【過去に目をつぶる者は、現在に盲目になる…】と宣っていたが、とんだ「道化者」でしかない理由は旧臘、国際法など皆目理解できない「阿呆」として怠慢にも私の直前のコメント16(12月22日)の文章をそのまま334字分(カ氏の23の投稿全文の60.18%)をコピペして、12月22日・23⇒【…とあるが、ヨーロッパの近世は、政教分離、ゴロテイウスの亡くなった後に結ばれたウェストフェリアー条約から始まるのではないのだろか】という、愚にもつかない素人論議で、戯けた法螺話に興じて、その底知れない莫迦さ加減を晒していたことだ。
自称「国際通」、「学者の端くれ」(μέρη δὲ θεωρικός)と同様、笑止で莫迦げた露悪趣味の自傷行為なのだろう。
私はその際に、グロティウスの自然法論に基づく国際法理論はその後の欧州の歴史を貫いており、ウェストファリア条約もその系譜上にあることを理解できない頓馬の「独り相撲」をたしなめ、その無知蒙昧は底が知れないと指摘した。
ついでに、「コピペ狂い」らしい浅ましい所業も含め、⇒【ご大層なことを言いたかったら、コピペが自分の投稿文の6割を超すような無作法を猛省し、せめて他人の議論は自分の言葉で要約したらよい…コピペでないと、Grotius=「ゴロテイウス」に様変わりする…阿呆らしくて、つける薬はない】と書いた。
それでも、6日・6⇒【コピペもできる…スマホの時よりはましな文章が書ける】という破廉恥婆さんだ。どこが「まし」なのか。酷くなる一方だ。
今回の1~7同様、とにかく、投稿することが自己目的化しており、特に醜悪極まる昨年暮れの23に典型的な、「似而非反論」=クズについて、今回も「恥を知ればよい」と繰り返すしかない。
最後に。今回の篠原さんの議論は、前回に続き、最近では出色だ。[完]
倉山氏の議論(とその立場)は、思考のトレーニングとして、一つの洞察を含んでいる< はいえますね!! 倉山氏と日本の憲法学者の立場は、どちらも「19世紀ヨーロッパ国際法」を肯定する立場ですが、その立場は、微妙に異なります。
国内の憲法学者は、19世紀ヨーロッパ国際法から現代国際法(第1次大戦→国際連盟規約→不戦条約→第2次大戦後の国際連合憲章)へと「国際法の構造転換」があったこと自体を認めません(倉山氏はそのこと自体は認めている)。これは、憲法学者が→「憲法優位説」を打ち立てるため< との篠田教授のご指摘、(当たっているだけに)おもしろいご指摘でしたww
‘a cunning person’=「抜け目のない人物」という意味での狐(ἀλώπηξ)ということなら、ギリシア語にも[τὸ ἀλωπέκιον=狡猾な奴]という表現がある。一方で、カ氏は身の程知らずに逆上せ上がっている(ὕβρίζω)割には、西洋では古代から愚鈍の代名詞である驢馬(ὄνος)並みの脳みそしかもたない頓馬(ἀφροσύνη)だから、狡猾な(πανηρός)ということはないが、それにしても13~14の愚劣な回答には唖然とさせられる。
相手を誑かそうと、またはごまかそうと「狡いことをする」という英語の‘play the fox’は、ギリシア語なら[ἀλωπεκίζειν]だ。カ氏が「空飛ぶ狐」氏を見くびって意図的に欺くつもりか否かは分からないが、13~14をみる限り、その水準にも達していない。
つまり、カ氏は問い自体を全く理解できない(οὐδαμῶς ἐννοέω)程度に愚鈍だし、自力で答えることが手に負えない(ἀνέλεγκτος)ほど無知であり、何より最初から真面目に答える気などないから、如何にも投げやりだ。
問いは四つあったが、まともには答えていない。カ氏がよくやる「論点移行」による虚偽的な議論だ。
「情報源は、der Spiegelか…ZDF」というのは、半ば思いつきの出まかせだろう。週刊誌Der Spiegelの電子版もテレビ局ZDF も、「空飛ぶ狐」氏が実際に見て確認しないと高を括っている。
より問題は、13⇒【例えば、シリア情勢…今日のder Spiegelの電子版】の条だ。「空飛ぶ狐」氏は「シリア」についてなど質問していない。⇒【このようなことが日本のマスコミで伝えられていますか?】と居直っているが、何の回答にもなっていないし、その程度のニュースなら伝えられている可能性が大きい。
14②⇒【日本は、英語使いが多いせいか…ナチスを扱う映画の影響で、英米が正義の味方で、ドイツは胡散臭そうに思う人が多い…西独人は、ナチス問題に正面から向き合わざるを得なかった】というのも、四問への回答では全くない。
戦後のドイツ人、西独の場合、「非ナチ化」(Entnazifizierung)という占領政策を受け継いだ国民的合意はあったが、自主的に【ナチス問題に正面から向き合】ってはいない。戦後復興に必死で、ナチスへの憎悪と被害者意識は国中に充満していたが、ある限度を超えて、真の意味で正面から向き合えない事情があった。
何せ、戦後西独を率いたアデナウアー首相の右腕で内務次官にまで昇進したグロプケ(H. Globke=ニュルンベルク法解釈の権威)は正真正銘のナチス官僚だった。
ユダヤ人の組織的大量殺戮=ホロコーストの追及も、本格化するのは1970年代になってからで、フランスの方がずっと早いし、継続的だ。ナチスの確信犯的同調者、哲学者ハイデガーの関与の実態を突き詰めたのもフランスだ。フランスにはユダヤ人居住者がドイツより遥かに多く、関心も高い。
呆れたことに、5⇒【…リビアは地上の地獄、と評され…中国の天安門事件やウィグル自治区どころの騒ぎではない】という暴言の説明は、全くない。
それどころか、英国のEU離脱という国民的選択を「極右勢力の台頭」とする独善的主張を隠さない。さらに14③⇒【イタリア、オーストリア、ハンガリー、ポーランドで極右が支持を集め】と論点をずらし、問いから逃げ回っている。
暇つぶしの「クズ」投稿には熱心でも、誠実さ(ἀλήθεια)の欠片もない。
日本国憲法の三大原則は「国民主権」、「平和主義」、「基本的人権の尊重」と習ったし,このブログを知るまでそう思いこんでいた。また、野党の主張する「平和主義」、学生の頃はその通りだと思い、西独から戻ってからは、こんなことで日本の安全が守れるのか、と疑問を抱いていたとはいえ、9条の「定言命法」的解釈が、日本国憲法9条の解釈だと思っていた。けれどもそれは、私たちが教育を通じて憲法学者に洗脳された嘘だと気づいた。日本国憲法の精神は、平和を愛する精神をもって世界の諸国と交わりをあつくすること、要するに、「唯我独尊」で戦うのではなくて、妥協して、国際協調の精神で、平和裏にものごとを解決していこうとすることなのだ、と気づいたのである。
それで、この主張をこのところずっと続けている。
この答えで、空飛ぶ狐さんの問いに答えられているかどうかわかりませんが、この世にはこのような考え方もある、ということを知っていただき、ご自身が日本の政治をいろいろ考え、結論を出す際の一助になれば、嬉しいです。
(参考 政治的なものの概念、C.シュミット、未来社、
民主主義の本質と価値、H.ケルゼン、岩波文庫)
右翼と左翼の差は、フランス革命、絶対王政を終わらせた後、どちらが主導権を取るか、で決められたそうであるが、右翼が軍国主義、ではない。旧ソ連も現北朝鮮も軍国主義の国である。
いろいろ難しい言葉を使うから、わかりにくくなるのであって、わかりやすく説明すれば、右翼と左翼の差は、右翼は、自国中心主義、国際協調をしない外国人を入れない、自国民族の優秀性を誇示するであり、左翼は、階級闘争、労働者階級を支配者にして、資本家階級をなくし、労働者階級が国際的に連帯をはかり、労働者が支配する国際社会にする、その差なのではないのだろうか。そのどちらも、うまくいかなかった、というのが現実の姿であるが、トランプ氏はトランプタワーをもつ億万長者だし、公正に見て、現在の英米の指導者は、右翼なのではないのだろうか。
「空飛ぶ狐」氏に代わって答えた私の15~16への♡マーク4~5はそういう含みだろう。
それに対して、パラノイア的な偏執狂で誇大妄想症と被害妄想症を募らせている「コピペ狂い」の婆さんは、早朝から何やらトンチンカンな珍回答を18~22と5件も連ねて不得要領な議論を撒き散らし、恥と莫迦さ加減を天下に晒している。
「莫迦は死なねば治らない」というが、「特定の妄想を持ち続け、常人とは異なる精神世界に住む」(『新明解国語辞典』第6版=「パラノイア」の項)カ氏のような特異な人格は、そうしたことなどとんとお構いなしのようだ。「ドイツ狂」らしく、何ら具体的な根拠なしに常に自分が正しいと言い張る癖(rechtshaberei)、ドイツ人によくある独善性(ἡ αύθάδης)の塊である独善家(Haberecht)=「☆狂人」たる所以だ。
まともに相手にするレベルではないが、酔狂までに少々検討する。それによって、カ氏のこれまでの凄まじい妄言も含め、その虚偽体質(ψεύστης ψυσικός)の実態も、一層明らかになろう。「空飛ぶ狐」氏への歓迎のメッセージにも相応しかろう。
‘Les fous et les sottes gens ne voient que par leur humeur.’(「狂人と愚か者は、気分でしかものを見ない」=La Rochefoucauld; Maximes 414.)
この意味不明な主張は今回、英国のEU離脱決定という国民投票や先の下院総選挙を受けた国民的判断であり、カ氏が主張するような「極右勢力の台頭」とは全く別の現象、選択だという私の17での主張に向けられたものだろうが、それが何ゆえに、⇒【反氏の右翼、左翼の主張】云々になるのか、それを理解できる「真っ当な分別」をもった人間は滅多に存在しないだろう。
端的に意味不明だからだ。カ氏は頭も悪いが、17程度の平易な日本語の文章もまともに読解できない。ドイツ語の水準も酷いことは、先にヘーゲルの[aufheben]解釈で論証した通りだ。
カ氏は、22②⇒【いろいろ難しい言葉を使うから、わかりにく…わかりやすく説明すれば、右翼と左翼の差は…】と無駄口を叩くが、何の反論にもなっていない。お頭の血の巡りが悪い以上に、偏執狂なのだろう。
カ氏のドイツ語の実力、知的水準も相当低劣で、早い話、ドイツの中下層の民衆がヘーゲルなど読みもしないし全く理解できないのと同じだ。カ氏のドイツ語とは、そうした無知蒙昧な民衆並みのレベルということだ。
カ氏が前々回の17日・41~42で展開した、間違いだらけで分かり易くもない「盲訳」、唐人の戯言並みの愚劣極まるヘーゲル解釈の間違いについては、既に同日・54~56で逐条的に論証した通りだが、図らずも露呈した憐れむべきドイツ語の実力をごまかそうと笑止な抗弁を繰り返す際に言い放ったのが、前回の19日・8⇒【私は、ドイツ語は実力がある、という資格をもっている…ヘーゲル…をドイツ語から日本語に、わかりやすく訳すことはできる】という法螺だ。
しかも言うに事欠いて、自分をルターになぞらえ、同②⇒【新約聖書をギリシャ語…訳したように】なのだという。相当いかれていたが、より重症化したようだ。οἴμοι.
ジョンソン首相率いる英国保守党は右翼ではないし、国論を二分する混乱の末に離脱で決着した英国のEU離脱は、欧州大陸とは一線を画する形で、かつての大英帝国最盛期には「栄光ある孤立」を選択した英国の伝統に復する側面もあるわけで、独仏主流の運営に異を唱える、「全体ではないが相当多数の」国民感情が、官僚組織が牛耳るEU政府への反撥も手伝って反旗を翻したという選択だったのだろう。
有権者は人・カネ・モノの自由な移動という、経済的なメリットや利便性だけで動くものではないし、域内の移民や難民受け入れ問題の影響もあろう。それは、右翼の擡頭でも何でもない。
しかも、どうなるか知ったことではないが、暗雲が立ち込めているEUの政治統合はさらに今後の課題だ。独仏の指導力は高が知れていることは、歴史を振り返れば明らかだ。中国という厄介な要因を含め、今後に向けて舵を切ったのだろう。
「パラノイア=‘paranoia’右翼」の婆さんによる「右翼左翼論」が何に由来するか見当がつかないが、過去に遡ると面白い発見がある。
カ氏が「右翼左翼論」言い出したのは、今回が最初ではない。最初は昨年12月22日 13:13・24⇒【反氏が大変重要視される左翼と右翼を分けること】だ。私はその際に、カ氏の「虚言癖」と応じた。
さらに続けて、12月22日 13:13・25⇒【英国のEU離脱決定は、国民投票と今回の総選挙で明確に示された国民の意思であって、民主制とは常にそうしたものだ。しかも英国の民主制はドイツより成熟している。愚鈍なドイツの民衆とは違う】と書いた。
今回は、その蒸し返しにすぎない。しかも、何の新たな反論材料の提示もない。カ氏の投稿が常に、而似非反論たる所以だ。
以下はその詳細で(《右翼》と表示)、それを通じてカ氏の比類ない偏狭性(σμικρολογία)と狂信性(μανικός)が浮き彫りになる。私は恥の「かき捨て」よろしく、コメントを「書き捨て」て狂態の限りを尽くしているK印の「阿呆」とは異なるので、自分の書いた文章にはすべて責任をもっている。
以下、通し番号は丸囲み数字、日付と投稿時刻、番号、括弧内は通算の投稿番号を添えた。興味ある向きは参照されたい。
①⇒2018年5月23日 21:41・15(0007)⇒【仮令それが、狂信的な日本主義や神がかり的な《右翼》が猖獗を極めるなかで、それに対抗する正当な理論化の可能性を追求するほとんど唯一の試みだったとしても。それは現実への洞察不足という意味での「理想主義者の敗北」と映る】
西田幾多郎の弟子たちが中心になった京都学派による戦争への思想的協力、つまり欧米中心の世界秩序に対抗する日本の世界史的位置づけと道義性について、一種の歴史哲学を構築しようとした一連の試み(世界史の多元化)に対する、従来の進歩派的見方、批判とは異なる、私の「反時流的」見解。
②⇒2018年6月24日 09:04・2(0108)⇒【(「トロツキーのイギリス論」)ケインズはさらに、「私による抜粋文章を《右翼》のゴロツキのものだということにするために、ほとんど字句の変更を必要としない」と斬り捨てる】
③⇒2018年7月3日 00:37・115(0170)⇒【田中(美知太郎)こそ、戦前戦後を通じ、しかも左翼《右翼》双方に対して徹底して批判的だった、まさに日本のソクラテスだったからだ】
④⇒2018年7月16日 11:31・93(0235)⇒【われながら、よく辛抱強く付き合ったものだが、それはブログ読者各位に、近年の研究成果や世界標準の知見を反映していない「世間の教科書的常識」(篠田さんが批判する憲法学通説はその最《右翼》)が如何に杜撰で、迷妄に満ちたものであるか…】
⑤⇒2018年8月27日 16:47・135(0438)⇒【(カ氏が)『得意技』のコピペを駆使して、お茶を濁している。知的怠慢というべきか不誠実というべきか、呆れ果ててものが言えない。…(ハイデガーの)「『ドイツ大学の自己主張』演説に…『…ではないということを目指したものだった』と述べた」も全く同じ。コメント129はそれがすべてで、劣等学生のリポート並み…この点で、「《右翼》のヨタ者」、いわゆる「ネトウヨ」の吹き溜まりではない篠田さんのこのブログコメント欄の知的品位を著しく傷つけている、と思えなくもない】
コピペ狂いのカ氏を「右翼のヨタ者」、所謂「ネトウヨ」と同程度に下劣だと評したもの。
‘Les vieillards aiment à donner de bons préceptes, pour se consoler de n’être plus en état de donner de mauvais exemples.’(「年寄りは悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。」)
⑦⇒2018年11月17日 18:26・7(0937)⇒【全盛期の非上場の名門出版社も、1961年の《右翼》テロ「風流夢譚」事件とその翌年の『思想の科学』廃棄事件(1962年1月号=「天皇制特集」を校了後に経営側の一存で断裁処分)】
⑧⇒2019年1月10日 18:28・63(1279)⇒【わざわざ西独留学して、東独の実態を見聞しなくとも、普通の、それこそ並みの知性を具えた常識のある人物なら了解できる程度の陳腐な話ではないか。原理的護憲平和主義者から、にわかに回心した(μεταλαμβάνειν)カ氏のような単純な単細胞思考だからこそ可能な「不当理由の虚偽」(παραλογισμός)の遠吠えそのものである。
莫迦莫迦しくて相手にするのも憚られる。56前段の【日本にずっと暮らしていると《右翼》とは、軍国主義者、天皇万歳…左翼は、革命後のソ連が取った政治手法。】なる、293字を費やした愚にもつかない、見せかけの(προσποίησις)、単なる意趣返しの偽装された「反論」を早朝から性懲りもなく獅子吼して(ほざいて)いる】
さらに、カ氏の狂態について、⇒【狂気の沙汰といえば、以前にも吉田茂に「曲学阿世」と揶揄されただけで、日米開戦阻止に奔走したキリスト教徒の政治学者南原繁が「共産主義者」と言い張っていたが、まさか☆人(μανικός)でもあるまいに、実に偏狭(ακληρότης)極まる狂気じみたカ氏の実態は、「神がかり状態」と選ぶところはない】
‘Les défaults de l’esprit augmentent en vieillissant, comme ceux du visage.’(「精神の疵(欠陥)は、顔の疵と同じように、老いるにつれて、ひどくなる。」)
カ氏の「コピペ狂い」は、今も変わらない。剽窃=盗みは「TANTAN」狸だけではない。ということだ。
如上の批判対象となった投稿は、アドルノを批判するため、最初は「フランクフルト学派」と言い張った読みもしないルカーチについて言及するため、嘘に嘘を重ねる小細工のなかで露呈した。
⑩⇒2019年2月9日 18:55・254(1494)⇒【ヴァイツゼッカー演説への変わらぬ信仰告白と、《「狐と狸の化かし合い」の政治からは、戦争は生まれても、平和はうまれない》(9月4日・65)とする幼稚園児並みの浅薄な信念は、未だに原理主義的護憲派だった過去の尻尾を引きずっているような左翼《右翼》を問わず、結局は同型の精神性を脱しきれない、甘ったれた日本人特有の綺麗ごとの御託を並べることしかできない軽薄さ(κοῦφος)が如実に表れている】
さらに、⇒2019年2月24日 00:08・416(1578)⇒【▼自由主義者の南原繁(東大総長)=戦時中、高木八束らと日米の開戦阻止に動いたキリスト教徒=をそれだけで「共産主義者」呼ばわりする極端なレッテル貼りの左翼並みのデマゴーグ体質⇒【吉田茂の敵は、共産主義者、具体的には、「曲学阿世の徒」と名指しされた東京帝国大学の総長を務めた南原繁】(11月6日・26)。
⇒416(1578)の続き⇒▼丸山眞男への原理的な批判を縷説する私が、トーマス・マンを重視したことで「丸山シンパ」に認定され、ナチスを支持したハイデガーを厳しく批判したアドルノが、ナチスのユダヤ人大量虐殺の根底に潜む「文明の野蛮」を説いた「フランクフルト学派」というだけで、ユダヤ人擁護の「反ドイツ」思想の唱導者とみなされ、糾弾される。
さらに、ヒトラーとアドルノを並べて両者が「民主主義の敵」であるとの、支離滅裂(ἀσύμφωνος)の排撃的思考、プロパガンダに転じる驚天動地の粗野極まる妄説を撒き散らす⇒11月30日・205参照。
▼【反氏の主張に「平和を壊す」多大な問題点…アドルノの主張への共鳴、この主張は、ヒトラーのアーリア人の代わりに、ユダヤ人が置き換わった主張…「優秀な民族による劣等な民族の指導」の政治原則、ヒトラーの場合は、優秀なドイツ人による…ユダヤ人の排除、が彼の政治原則…アドルノの主張は、優秀なユダヤ人による指導におきかわる…地方指数(?)が高い優秀な人間が、劣等な人間を指導すべきである、などとという反氏の主張も、ナチスドイツの思想そのもの】(10月3日・228)。
その23日後の10月26日、自分の前言を充分確認もせず、誤魔化し…⇒【私は…私のことを、ナチス…と同じ精神構造をもつ「デマゴーグ」であると断定されるように、反氏をナチス並みの危険人物、などと形容したことは、一度もない】と大ウソ。
C. シュミットの「友と敵の区別」(die Unterscheidung von Freund und Feind)について糾弾する割には、カ氏こそまさに、極端な党派心(φιλονεικία)に基づくその実践者なのだ。
自らと見解が相容れない相手は敵(ἐχθρός)という態度で、カ氏の凶暴さと知的偏狭性と狂信性がよく分かる。
カ氏は今なお、低俗な「六流以下」の矯激なデマゴーグ。
⑫⇒2019年5月30日 09:51・15(2021)⇒【然らば、悠久なる(μόνιμος)國體の大義(μείζον δίκη)を唱える民族派、所謂《右翼》や、もう少し穏やかな保守陣営はどうかと言えば、左翼・進歩派陣営と大差はない。同じ日本人であるから異とするに足りないが、日本人の思想的脆弱性(μαλακία)、精神の懦弱(ἀσθένεια)の点では同じで、選ぶところはない】
⑬⇒2019年6月6日 09:08・39(2051)⇒【自民党の支持勢力である「生長の家」を宗教《右翼》と揶揄する進歩派もいるが、言論は自由だから、意に介しない。何と言っても100万人を超す信者を擁する団体だから、読者の数は桁が違いそうだ】
それにしても思わぬところに読者はいるものだ。昨年5月、連日、私の本欄への投稿が「反時流的古典学徒を読む」と項目立てて、「生長の家」の政治団体のホームページ「生長の家政治連合掲示板」に転載され、破格の扱いで扱われた。
滑稽なことに、コピペだから最初のうちは金魚の糞みたいにカ氏の「クズ投稿」も一部交じっていた。
⑭⇒2019年7月11日 20:10・30(2267)⇒【首相就任前の総裁選で、竹下(登)氏が《右翼》団体の嫌がらせを宥めるため、暴力団に協力を依頼したという前代未聞の不祥事も発覚した】
①で言及した、戦前の京都学派による戦争への思想的協力の歴史哲学的論議の弱点を論じたもの。
⑯⇒2019年08月16日 07:05・19(2392)⇒【2.26事件があった翌36年2月1日に、美濃部は自宅で《右翼》の青年の襲撃に遭い負傷する】
⑰⇒2019年08月16日 21:49・26(2394)⇒【国家主義的、神権主義的な憲法理論で知られる上杉愼吉が死去したのは1929年4月で、天皇機関説を説く美濃部達吉との学界内部での論争に敗れてからは、独自の人脈(薩摩派)を生かして政界の裏面で活躍したほか、《右翼》的・民族主義的団体の理論的指導や結成にも尽力した】
⑱⇒2019年09月01日 16:27・49(2501)⇒【田中美知太郎…職業軍人の父を早く失い、苦学した反骨の人で、インテリの他愛のなさを熟知していた。恐ろしく早熟で戦前の無産主義者やアナキスト団体、《右翼》団体にも10代半ばで出入りした。どこまでも、自由な人だった】
⑲⇒2019年12月22日 13:13・25(2940)⇒【24⇒【反氏が大変重要視される左翼と《右翼》を分けること】は、カ氏の虚言癖。
⑳⇒2019年12月22日 14:07・28(2943)⇒【24⇒【反氏が…こと】なる捏造コメントの根拠になった文章を私は書いた記憶がない。25・3行目でカ氏の虚言癖とした所以】
以上が、私の「右翼」に関する言及のすべてである。
それにしても、カ氏の22は愚劣極まる。まるで左翼の論理だ。
カ氏の狂信性の一端を如実に示すことになった。οἴμοι.[完]
要するに、憲法学者たちに揶揄されている砂川判決をされた田中耕太郎さんの判決があったから、日本に米軍基地があるから、基地が抑止力となって、日本が平和で、高度経済成長に邁進できたということが、「憲法学の病」にむしばまれた憲法学者たちにはわからないのである。学問の自由、言論の自由は必要である。けれども、それは、自由な開かれた議論であるべきなのであって、権威でおしつけると、独裁となり、自由で民主的な世界が失われる、その危惧を、ケルゼンも、メルケル首相も、主張されているのである。
ゲーテはロマン派は病気だ、と主張したが、私のつきあったドイツ人は、もっと、健康的、健全で、山歩き、日常生活、スポーツを楽しむ。哲学などを勉強しているのは少数派である。日本もドイツも戦前の15年、進路を間違えたが、それを除けば、国際協調をしながら、いい国づくりをしてきたのではないのだろうか。、
これが、「闘う民主主義」なのである。民主主義を否定する自由・権利までは認めない民主主義と考えられている。 反氏の場合、民主政治を衆愚政治と考えておられ、専門家、知能指数の高い者が決めればいい、と考えておられる。同じことを考えたのが、Cシュミットであり、それがナチスの理論に受け継がれ、独裁になったのである。共産主義も同じような考え方である。All men are
created equal. それぞれの経験に耳を傾けるボトムアップが、本来必要で、それが民主政治なのである。その為には、相手の人格を尊重し、妥協が必要なのである。私が、反氏の主張に猛然と反論したくなるのは、民主政治を壊す主張だからで、歴史の推移を考えると、当然なのではないのだろうか。
自縄自縛、自己矛盾(αὐτό ἀντίφασις)、自己破壊(αὐτό ἀπόλλυμι)、自己崩壊(αὑτὸ ὄλεθρος)、自滅(αὑτὸ φθορά)、自壊(αὑτὸ ὄλεθρος)――いろいろな言い方(λέξις)があり、いずれでも構わないが、とにかく「やけくそ」=自暴自棄(βιάζεσθαι ἑαυτόν)になって、つまり自らの莫迦さ加減が極まって、遅かれ早かれ自壊するだろう。
33~38をみる限り、既に「壊れている」(ἐπικλασθῆναι=be brocken in spirit)とも言えるし、「無学」なりに敢闘精神(ἡ προκαλεῖσθαι ψυχή)は相変わらず旺盛だが、「空飛ぶ狐」氏がカ氏の回答など見向きもしないかのように無視しているのも、唐人の戯言ならぬ、本物の「狂人」(ἄνθρωπος μαίνομαι)並みの「気違い沙汰」(ἡ μανικός)に恐れをなしたか、「それみたことか、ありゃぁ、本物の☆印だゎ」と嘲笑しているのだろう。
あいにく、いくら敵意を剥き出しにして意欲(βούλησις)をみせても、その立論は一向に要領を得ない、壊れかけた蓄音機が奏でる陳腐かつ愚にもつかないメロディーだから、☆印ならぬ♡マークも一向に点灯する気配さえない。
相変わらず間違いだらけの議論=「クズ」投稿の連発で、デマゴーグとしては失格で、私が「六流以下」と称した所以だ。「饒舌に語る」(πολύλογέω)割には、都合の悪いことには、例えば繰り返し行った他人の言説の無断盗用=剽窃(τὸ μιμεῖσθια=plagiarism)には綺麗に口を拭っていることなど醜悪そのもので、恥知らずなことこの上ない。
‘νηπίοισιν οὐ λογός, ἀλλὰ ξniμφορὴ γίνεται διδάσκαλος.’(「愚か者どもには、言葉ではなく不運が教師になる」)というほかはないが、早速冒頭33から、頼まれもしないのに致命的な(θανάσμος)誤謬を犯している。
カ氏のコメント自体が「投稿すること自体が目的」だから、訂正もしない。いつになったらそれが止み、まともな文章が書けるのやら、真っ当な立論が実現するのかと気を揉むのがカ氏ではないことは、言うまでもない。
カ氏は極めて傲慢な人物で、反省も後悔も一切せず、何度間違えても気に病む(δυσφορεῖν)ような「やわな」人物でないことも、その偏執狂的信条と相まって読者には周知の事実だろう。
カ氏は仮令間違いに気づいても、如何に深刻なものではあっても「不都合な真実」は一切口を拭って、けっして進んで口外せず、常に頬被りする。生まれつきの「虚偽体質」(ψεύστης ψυσικός)=「生来の嘘つき」(ὁ ψυσικός ψεύστης)たる所以だ。
有体に言えば、目的のためには、嘘をつく(ψεύδεσθαι)ことを何ら意に介しない人間、息をつくように嘘を並べる(ἔψευσμαι)ということだ。
ということで、論評にも値しないお喋り婆さんの戯けた与太話(πονηρολογία)、驢馬並みの脳みそのしかない「道化者」のはったり(ἀλαζονεία)や虚勢(ἀλαζονεία)を相手にしても仕方ないが、深刻な誤謬だけ指摘して責めを塞ぎたい。
少しは落ち着いて投稿すれば癖げるミスだが、何を早朝から気を急いでいるのだろう。以前に「政府解釈」氏に指摘された「村木厚子元厚生労働事務次官」との取り違えではないが、「蓮見」某と書いて平気いられるクジラの髭並みの強靭な神経は、相変わらず健在のようだ。
しかし、それもよい。滑稽で救いようのない間違いだが、致命的と騒ぎ立てる程のこともない。問題は件の「右翼左翼」問題の方だ。カ氏の右翼左翼観には特に取り立ていうほどの卓見などなく、陳腐で退屈な素人論議でしかない庶民的観点が横溢していて、憐れむしかない。
しかし、33②⇒【英国の労働党が左翼で、保守党が右翼…というのは、常識】なる常識(τὰ ἔνδοξα)は存在しない。これも寡聞にして聞かないカ氏にだけ通じる常識、つまり「世間の非常識」なのだろう。
自称「国際通」らしいカ氏にだけ欠落(στέρησις)ている国際的な共通認識(κοιναὶ δόξαι)では、最近ではそうでもないが、労働党は長らく社会民主主義的な改良政策を掲げてきた進歩派、所謂「リベラル」であるから「左翼」は誇張に過ぎるし、保守党は、その名の通り保守的自由主義を掲げ、端的にはエドマンド・バーク以来の英国伝統の正統的な保守の系譜を受け継いでいる。いくらなんでも「右翼」ということはあるまい。
名誉革命以来の伝統と経験を重視する英国の議会制民主主義は、バークも一部に理解を示しつつ忌避したフランス革命以来の不安定さがつきものの過激に走るフランス型民主制とも、元々、民主的政治合意形成の「後進国」で中途半端な革命を繰り返しては欧州の厄介者であり続け、その挙句自滅した政治的に未熟なドイツとは異なろう。
「概念的思考」が全く不得手なカ氏にかかると、とんでもない大風呂敷の妄説(ἀλλοδοξία)、所謂‘Karoline Doctrine’が大手を振って罷り通るわけで、悪い冗談でしかない。
保守とリベラルの区別も、そうした政治的な伝統がある英米と日本とでは受け取り方が異なり、枝野幸男立憲民主代表のように、自分こそ本当の「保守」だと主張する議論も出てくるわけで混乱の極みだが、「左翼」とされるとしたら心外だろう。
もっとも、「政治音痴」のカ氏には全く分かるまいが、枝野氏に政治的影響力を及ぼす背景組織として「過激派組織」が存在するとの、信憑性のほどは確認できない穿った見方も長らく存在するから枝野氏自身を「左翼」というのは自由だが、立憲民主は「左翼」とも言い切れまい。
自民党は保守でも中道でも社会民主義的改良政策でも何でも呑み込む権力志向の融通無碍の寄り合い所帯だから、真正の保守とは言い難い側面もあるが、安倍晋三首相の政治的志向は明らに保守主義的ではあっても「右翼」ではあるまい。祖父の岸信介元首相がマキャベリト的「両岸」とか「右翼の後ろ盾」と揶揄、警戒されたことをもって孫の安倍首相をヒトラー並みの独裁者とか政治的右翼と揶揄する反対勢力の攻撃を日頃は糾弾しているカ氏が言うことでもあるまい。
伝統的保守の共和党がカ氏が主張するような「右翼」なら、リバタリアニズムかコミュニタリアニズムかわからなくなるし、共同体の伝統的価値観に存在論的優位性をみるサンデルのコミュニタリアニズムだって、所謂「右翼」のような硬直性を免れているどころか、その正反対だ。
カ氏の杜撰かつ粗雑なお頭が紡ぎ出した愚劣な「右翼左翼論」が常識に反する以上に、現実の多様な政治思想の分析に何の役にも立たない、無学で「阿呆」な素人の法螺話でしかない所以だ。
英国の事例に戻るなら、英国気質はEUの政治統合にも象徴される独仏に顕著な軽薄な理想主義志向の根底にあるような政治的熱狂を嫌う。そうした思考は過激主義(radicalism)に特有のものであって、凡庸な知見を現実に押しつけて改革することに熱狂する。
革命の形態も帰趨もそれぞれ異なるが、フランス革命でも、やがてナチズムを胚胎させるヴァイマール革命でも、英国の伝統的な漸進主義的思考=保守とは異なる。
そしてそれが米国に覇権を譲るまで長きにわたって繁栄を謳歌した英国の政治的伝統であって、19世紀後半になって漸く国家統一を果たした田舎国家ドイツような政治的後進国との政治文化の違いだ。
33⇒【EUの力が強くなると、ブリュッセルで決まる…独仏の政治力が強い】とはいっても、現在のEUにおける独仏、特にドイツの政治的経済的優位性は、別にドイツ自身の卓越性によってもたらされたものではない。単一市場化伴う恩恵を最も享受しているのが両国と、旧ベネルクス諸国を含めた大陸西中央部という話で、他の加盟国が相対的に割を食う構図が今日、EUによって国内の空洞化を招いた東欧など後発加盟国の反撥を招き、至る所に顕在化しているが実態だ。
それを適切に調整できないブリュッセルの肥大化した官僚組織、EUの優等生を気取る田舎者のドイツ、フランスの相も変わらぬ体たらく、頼みはチャイナ・マネー――それぞれの思惑と利害が対立して足並みが揃わず相互不信が燻ぶるというのがEUの現状で、安全保障は相変わらず米国頼み、将来のエネルギー確保でロシアに色目を使う、まるで「ラッパロの裏切り」の再現を期するドイツの救いようのなさを含め、英国民が見切りをつけ、愛想を尽かして一足先に「さようなら」というのが離脱決定なのだろう。
独仏にできることなど、過去の歴史を振り返れば分かりったことで高が知れており、窮すればそのうち仲間割れもあり得よう。
自らをルターになぞらえるパラノイアの誇大妄想狂=カ氏が、いかれたお頭でヘーゲルやソクラテス解釈に興じる狂態はそれ自体が、愚鈍の自己証明ということだ。愚劣さの論証は既に済んでおり、新たな反論の根拠は示されていない以上、付き合う理由はない。
‘Changez de refrain !’という退屈な繰り返しに終始する「クズ」投稿の相手はこの程度で御免蒙りたい。οἴμοι.
‘La vivacité qui augmente en vieillissant ne va pas loin de la folie.
ロシアとも、トルコとも、等距離で外交しているからこそ、リビアの和平会議をベルリンで行い、成功させることができたのである。英仏が、第一次世界大戦後、オーストリアとの合併を許さなかったのは、国土を取り上げたのは、ドイツの国力を恐れたためである。その為、統一を英仏が認めてくれたことにヴァイツゼッカー氏がお礼を言われたのである。また、ナショナリズムの強いヨーロッパの和平は米がいないと成り立たないように、東アジアもそうなのではないのだろうか?
それは、さまざまな兆候がありのまま(ἀληθῆ)に示す客観的事実(οἷα ἦν ἢ ἔστιν)であり、医師の診断を仰ぐ必要のある精神の具体的な疾患というより、カ氏に顕著な特定の精神の性向、型を示している。
そして、それを結果として追認するかのようにカ氏は連日、愚行に愚行を重ねる「狂気の沙汰」を演じている。何かそうせざるを得ない事情というか、当人の自覚の有無はともかく、焦慮(μανία)や苛立ち(ὀργή)を重ねやり場のない気持ちをぶつけたり投影するほかない、他者には窺いしれない理由があるのだろう。
政治意識、政治的心性の社会心理学的な分析なら、慷慨型(indignants=近代の内面志向型が大衆世界に適応しえず、フラストレーションに陥り、それを異常な道徳的公憤というスタイルで、その攻撃性と憎悪の情動を政治に投射するタイプ)であることは明白で、本欄のコメントにも顕著な驕慢な苛立ち、常軌を逸した悲憤慷慨(ὀργή κὰι θυμός)がそれを端的に示している。
何時ぞや、「Gクン」氏が危ぶんでいた、「いつ寝ている」のかもしれないような心の落ち着きのなさだ。
ほとんど読みもしないヘーゲルなどもち出して愚劣な解釈を披歴する自殺行為に等しい驕慢さは、カ氏の虚飾に満ちた人格に由来しているのだろう。その人生はある意味、挫折と失意、不運と不幸の連続だったのかもしれない。それもまた身から出たさび(τὸ ἀντιπεπονθός)で聊か憐れを催すが、それもまた人生の避けられない現実だから甘受するしかない。
‘La modération des personnes heureuses vient du calme que la bonne fortune donne à leur humeur.’(La Rochefoucauld; Maximes 17)
それはあくまで、「そうあれかしと望む」(προαιρεῖσθαι)内容をまとめた規範命題(ἐπιτάττουσαι ὑπόληψις=normative proposition)、実現が望ましい目標(προθέσις)であって、事実(ὅτι)でも現実(τὸ γιγνόμενον)でもない。「事実判断」(Tatsacheurteil)は、価値判断(Werturteil)の領域に属する規範命題とは当然異なるからだ。
規範的命題を事実命題と取り違えることは自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)の最たるものだが、要するに経験という事実からは、ただちに有意味な規範的判断は生まれないということだ。
気の利いた子供にでも分かりそうな理屈で、フランス人権宣言の元になった近代啓蒙主義の祖で『人間不平等起源論』(1755年)を書いたルソーでも、カ氏のような幻想(φάντασμα)は抱いていない。
ヴェルサイユ条約に体現されたドイツに対する過酷なカルタゴ式講和は、負けた方がごちゃごちゃ言っても詮ないことで、第一次大戦後の戦後処理は、さまざまな美名(κάλλος)にもかかわらず、基本的には国家利益対立の決済という性格を本質とする当時の国際社会の正義(δικαιοσύνη=Justice)を体現したものであったからだ。
救いが欲しいなら、気休め(παραμύθιον)に「アーメン」(ἀμήν=「そうあれかし」)とでも祈ればいい。
何も変わらないことを知るのも、「仕方ない、それもまた人生」(‘Que voulez-vous, c’est la vie.’)。
私はジャーナリストに見切りをつけた哲学の研究者であって、The New York Timesや楠山義太郎程度に学ぶことなど、何もない。
また、彼らの「核兵器0社会」の原動力となっているのが、同じく元軍縮交渉主席担当官、マックス・キャンペルマン氏の発言で、「All men are created equalという言葉が米国の独立宣言には書かれているが、米国が独立したときは、南部に黒人奴隷がいた。それでも、この言葉があったから、人種格差は狭まり、奴隷はいなくなった。つまり、こうあらなければならない、という目標が必要なのだ。」、という言葉にペリーは刺激されて、「核兵器0社会」という標語を作られ、次世代の為に、ペリー氏を含めアメリカの4賢人は、この政治活動に邁進されているのである。その活動に、黒人のオバマ大統領が共感され、「イランと核合意」をされ、「ノーベル平和賞」の受賞を導いたプラハ演説をされたのではないのだろうか。
田中美知太郎さんが、その著書、岩波新書の「ソクラテス」のデルポイ信託の謎Ⅲ(p129)に書かれているように、われわれの社会が、無知無反省の指導者によって、いろいろな危険の間を、引き回されているということが、この例を見ても、よくわかるのではないのだろうか。
Immer wieder hat Hitler ausgesprochen: wenn das deutsche Volk schon nicht fähig sei, in diesem Krieg zu siegen, dann möge es eben untergehen
なんども、ヒトラーはこう演説した、もしドイツ民族がこの戦争に勝てなければ、ドイツ民族は滅亡する。
このフレーズがドイツ人に説得力をもったのは、第一次世界大戦でドイツが敗北の選択をしたために、その後のヴェルサイユ条約によって、英仏政府、特に仏のクレマンソー首相にいじめぬかれたからである。
Schon 1946 rief der amerikanische Außenminister Byrnes in seiner denkwürdigen Stuttgarter Rede zur Verständigung in Europa und dazu auf, dem deutschen Volk auf seinem Weg in eine freie und friedliebende Zukunft zu helfen.
Unzählige amerikanische Bürger haben damals mit ihren privaten Mitteln uns Deutsche, die Besiegten, unterstützt, um die Wunden des Krieges zu heilen.
Dank der Weitsicht von Franzosen wie Jean Monnet und Robert Schuman und von Deutschen wie Konrad Adenauer endete eine alte Feindschaft zwischen Franzosen und Deutschen für immer.
すでに1946年アメリカのバーンズ国務長官は重要なStuttgart演説でヨーロッパの協調を求め、ドイツ民族が自由で平和を愛する未来へ歩を進めるように助けることを求めた。数えきれないほどの多くのアメリカ市民はお金を寄付し、ドイツ人の戦争の傷をいやす協力をした。未来をみすえるフランス人のJ.モネやR.シューマン、ドイツ人のK.アデナウアーがフランスとドイツの古い敵対関係を永久に終わらせた。
また、日本国憲法9条の1項、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する、と言う場合の正義と秩序、とはなにをさすのか、も考えなければならないと思う。芦田均さんは、人類の和協、論語の「四海兄弟」の思想による平和、であると解説されているが、軍事力、経済力の弱肉強食は、正義と秩序ではない。どこの国とも対等関係に立ち、自国のことのみに専心して他国を無視するようなことをせず、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の裡に生存する手助けをすることを国家の名誉をかけて誓う、と日本国憲法にはきちんと定められている。
(参考: Gedenkveranstaltung im Plenarsaal des Deutschen Bundestages zum 40. Jahrestag des Endes des Zweiten Weltkrieges in Europa
ヨーロッパの第二次世界大戦終戦40周年を記念するドイツ国会の本会議場での記念行事、ヴァイツゼッカー演説
新憲法解釈、芦田均)
そろそろ、次回のトピックス(「石破茂氏の『自衛権』の理解への問題」)に身を入れて取り組んだらよさそうなものなのに、既に壊れている(ἐπικλασθῆναι)というしかない「いかれたお頭」(μανήομαι ἐγκέφαλος)、蜘蛛の巣(τὰ ἀράχνια)だらけの脳みそでは如何ともしがたいようで、何やら本トピックスとの間を彷徨って(πλάνη)いる。
莫迦に救い(σωτηρία)はない道理で、わけの分からない、それも既に何度も聞かされた、莫迦の一つ覚えの同工異曲の下らない「老婆の他愛もないおしゃべり」(‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)でしかない無駄話(ἀδολεσχία)を、意地になって延々と続けている。
無視されて業を煮やしているのだろう。♡マークは無情だ。だから、仮令言論の話とはいえ、盗み=剽窃も嘘も居直りの強弁も何でもありの本欄の「ならず者」(ὁ μοχθηρός)よろしく乱暴狼藉の限りを尽くす一方で、何やら舌足らずな益体もない御託を並べている。
多くはい如何にも「頭の悪い」☆人(ὁ μαίνομαι)らしく愚にもつかない言い訳と繰り言、身の上話にすぎない。老化(γῆρας)の兆候は明らかで、既に‘be brocken in spirit’だから、自滅自壊(αὑτὸ φθορά καὶαὑ ὄλεθρος)は近そうだ。
小林秀雄がかつて西田幾多郎の文章に言及した『學者と官僚』という文章の中で、本欄のaudience=読者を一切無視したような今回のカ氏の狂態ではないが、「見物と讀者との缺如」がもたらす病弊を鋭く衝いている。
驕慢と愚劣さのゆえに自暴自棄になって暴走(ἡ ἔκπληξις)を続けるカ氏も、無視されていきり立っていることからも明瞭なように、孤独なのだろう。どこにも救いなどないが。
やや長いが引用する。小林はこう書く。
「見物と讀者との缺如の爲に、どういふ處に追ひ詰められたか。例へば西田幾多郎なんぞがその典型である。氏はわが國一流哲學者だと言はれてゐる。さうに違ひあるまい。だが、この一流振りは、恐らく世界の哲學史に類例のないものだ。氏の孤獨は極めて病的な孤獨である。…氏は恐らく日本の或は東洋の傳統的思想を、どう西洋風のシステムに編み上げるかべきかについて本當に骨身を削つた。…さういふ仕事で氏はデッド・ロックをいくつも乘り越えて來たに間違ひあるまいと思ふ。だが、この哲學者は、デッド・ロックの發明も征服も、全く自分一人の手でやらねばならなかつたのである。かういふ孤獨は、健全ではない。…デカルトの孤獨が健全だつたのは、彼には學者の樣には考へない良識を備へたフランス人といふ友があつた爲であり、ニイチェの孤獨が健全だつたのは、ドイツ國民と俗人といふ敵があつたからだ。
西田氏は、だゞ自分の誠實といふものだけに頼つて自問自答せざるを得なかつた。自問自答ばかりしてゐる誠實といふものが、どの位惑はしに充ちたものかは、神樣だけが知つてゐる。この他人といふものの抵抗を全く感じ得ない西田氏の孤獨が、氏の奇怪なシステム、日本語では書かれて居らず、勿論外國語でも書かれてはゐないといふ奇怪なシステムを創り上げて了つた。氏に才能が缺けてゐた爲でもなければ、創意が不足してゐた爲でもない。」(『新訂小林秀雄全集』第7巻、84頁)
小林は比類のない文章家だ。西田の極度に内省的な思考には、西田固有の資質に加え、日本における西洋哲学移入の特異な歴史が絡んでいるが、本来の意味での対話を拒むかのようなものが西田の特異な文体が示しているのを小林は見逃さなかった。それは、単なる難解さへの批判ではないからだ。その一点に関する限り、小林の西田に対する指摘は正鵠を射ている。
それは、知的レベルが低劣で比較することが莫迦らしいカ氏にも通底する「病」だ。
そして、ドイツを「第二の祖国」と称しているカ氏は、ドイツ人並みの自分が正しいと言い張る悪癖(rechtshaberei)が、死ぬまで治りそうがない別種の病=狂気を抱えた独善家(Haberecht)だ。
「慷慨型」(indignants)と政治学者が呼んだものに相当する心性については、22日・47で言及した通りだが、カ氏のような「異常な道徳的公憤というスタイルで、その攻撃性と憎悪の情動を政治に投射するタイプ」が放出する政治的エネルギーは極めて高いことは、ドイツ史が如実に示している。
つまり、異常な公憤、病的な不安懊悩、そねみ、憎悪が亢進すると、「血も凍るような悲憤型」(curdled indignation)が生まれる。戦前のドイツの下層中産階級によく見られたように、彼らの政治に対する憎悪は底なしであり、ナチズムの破壊的エネルギーの主要な根源となった。
そして、国家挙げてのユダヤ人の絶滅政策=ホロコーストに象徴される、人類史上未曽有の残虐行為は、ナチスの特異なイデオロギーやプロパガンダ、欧州ではドイツに限らない反ユダヤ主義(Antisemitismus)だけでは説明しきれないものがある、ということだ。
つまりそんなことを抜け抜けと言っているということは、いますぐに、どう見ても、私がたいした弁論家であるとは見えないという事実によって、彼らは私のために、完全に反駁されるに決まっているのですから、これこそ彼らの、最も恥知らずな点だと、私に思われたのです。もっとも、あるいはこの人たちが、真実を語る者を、弁論の雄であると呼ぶのなら、話は別です。
もし彼らのいう意味が、そういうのなら、私も彼らと同列ではないにしても、一個の弁論家であることを承認するでしょう。いずれにしても、この人たちは、私に言わせれば、ほとんど何も真実のことは言わなかったのです。しかし諸君は、私から真実のすべてを聞かれるでしょう。
もっとも、ゼウスの神かけて、アテーナイ人諸君よ、諸君の聞かれるのは、この人たちの弁論のような、美辞麗句でもって飾り立てられたものではないでしょう。それは、ありあわせの言葉でもって、無造作に語られることになるでしょう。それはつまり、私の言おうとしていることが、正当であると信ずるからなのです。そして諸君の何びとも、それ以外の弁論を期待してはいけない。」(田中美知太郎訳『ソクラテスの弁明』、50~51頁)
Ὅτι μὲν ὑμεῖς, ὦ ἄνδρες Ἀθηναῖοι, πεπόνθατε ὑπὸ τῶν ἐμῶν κατηγόρων, οὐκ οἶδα• ἐγὼ δ᾽ οὖν καὶ αὐτὸς ὑπ᾽ αὐτῶν ὀλίγου ἐμαυτοῦ ἐπελαθόμην, οὕτω πιθανῶς ἔλεγον. καίτοι ἀληθές γε ὡς ἔπος εἰπεῖν οὐδὲν εἰρήκασιν. μάλιστα δὲ αὐτῶν ἓν ἐθαύμασα τῶν πολλῶν ὧν ἐψεύσαντο, τοῦτο ἐν ᾧ ἔλεγον ὡς χρῆν ὑμᾶς εὐλαβεῖσθαι μὴ ὑπ᾽ ἐμοῦ ἐξαπατηθῆτε ὡς δεινοῦ ὄντος λέγειν. τὸ γὰρ μὴ αἰσχυνθῆναι ὅτι αὐτίκα ὑπ᾽ ἐμοῦ ἐξελεγχθήσονται ἔργῳ, ἐπειδὰν μηδ᾽ ὁπωστιοῦν φαίνωμαι δεινὸς λέγειν, τοῦτό μοι ἔδοξεν αὐτῶν ἀναισχυντότατον εἶναι, εἰ μὴ ἄρα δεινὸν καλοῦσιν οὗτοι λέγειν τὸν τἀληθῆ λέγοντα• εἰ μὲν γὰρ τοῦτο λέγουσιν, ὁμολογοίην ἂν ἔγωγε οὐ κατὰ τούτους εἶναι ῥήτωρ. οὗτοι μὲν οὖν, ὥσπερ ἐγὼ λέγω, ἤ τι ἢ οὐδὲν ἀληθὲς εἰρήκασιν, ὑμεῖς δέ μου ἀκούσεσθε πᾶσαν τὴν ἀλήθειαν—οὐ μέντοι μὰ Δία, ὦ ἄνδρες Ἀθηναῖοι, κεκαλλιεπημένους γε λόγους, ὥσπερ οἱ τούτων, ῥήμασί τε καὶ ὀνόμασιν οὐδὲ κεκοσμημένους, ἀλλ᾽ ἀκούσεσθε εἰκῇ λεγόμενα τοῖς ἐπιτυχοῦσιν ὀνόμασιν—πιστεύω γὰρ δίκαια εἶναι ἃ λέγω—καὶ μηδεὶς ὑμῶν προσδοκησάτω ἄλλως•(Apologia, 17A~C)
カ氏の議論には常にこの種の見え透いた詐術が潜む。「阿呆」だから、すぐ見破られる。
なお、引用符がない、引用相当箇所は次の通りで、相変わらず不正確。まず、【デルポイ信託の謎III】ではなく、【五 デルポイ神託の謎】。「信託」では話にならない。⇒「われわれの社会が、無智無反省の指導者たちによって、いろいろな危険の間を、引き廻されている」(129頁7~8行目)。この杜撰さが、カ氏の極端なコピペ依存⇒「コピペ狂い」を生むのだろう。
49⇒【総合的に見た時、それぞれの人には個性】――人間が平等なのは、死ぬ(θνῄσκω)ことと、政治参加の平等(ἰσονομία)ぐらいだろう。前者は必然(ἀνάγκη)で後者は要請(αἰτεησις)。個性とは一種の幻想(φάντασμα)で優劣(εὐσχημοσύνη κὰι ἀσχημοσύνη)を言い換えただけのことにすぎない。
カ氏が「頭が悪く」「嘘つき」で要領が悪い「間抜け」なのも個性だろう。莫迦を押す通すのも個性で、全く自由だ。その報いを噛みしめるのも個性の発現だが、何の価値もない。救いはどこにもない。死ねば解決する。というか、問題自体が消滅(φθείρεσθαι)する。
不確実性への挑戦者としての洞察力が、政治家の優劣の本質。もっとも、間接民主制では、実質的にエリート支配の側面が大きく、民衆は世論操作の対象で、政治的主体性があると思い込むのは、幻想。
51⇒【私の頭がいいか、悪いかは別にして】――大莫迦に決まっているではないか。何をこの期に及んで戯けたことを。
51②⇒【米国の4賢人、元国務長官、H. キッシンジャー氏、J. シュルツ氏、元軍事委員長、S. ナン氏】――ペリー(Perry, W. J., 1927~)、キッシンジャー(Kissinger, H. A., 1923~)、シュルツ(Shultz, G. P., 1920~)、ナン(Nunn. S. A. Jr., 1938~)は、四賢人でも何でもなく、ただの「過去の人」。ゴルバチョフ元ソ連共産党書記長と似ている。政治的影響力がなくなってから、好き勝手に御託を並べていりうだけ。彼らは、現役時代は米国の核戦力を担った人物であり、何の影響力もなくなったからこそ、自由に発言しているだけ。ペリーは数がl九者だから、頭はいいんだろうけど。政治的には凡庸。
J. シュルツではなく、G.(eorge) シュルツの誤り。何んとかなんないの、お婆ちゃんではなく、齢70近いおバカちゃん!
小泉純一郎元首相が原発廃止に熱心なのと似ている、何の指導力もない。
第三次世界大戦というのは多く唐人の寝言であって、偶然に偶然が重なって核戦争が起こり、人類が滅亡するというシナリオは、核戦略の実態を知らぬ妄想の産物だ。大国間の戦争が過去のものとなったのは、核抑止の有効性に外ならない。
核を廃絶しても、それに代わる兵器が誕生するだけだ。[完]
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