緊急事態宣言はそもそも必要だったのか、という議論がなされている。これについて一言述べてみたい。
私自身は、「緊急事態宣言の検証」という題名の文章を13回書き、その他の文章も書く中で、4月7日に宣言が発出された直後から「増加率の鈍化」が起こっていたことを指摘していた。その後、4月中旬からは、新規感染者数は減少に転じたことも指摘し続けた。単純に数字を見ればわかることだった。しかし、それを無視した言説ばかりがあふれていることに苛立ったこともあった。https://twitter.com/ShinodaHideaki/status/1267465784235708416
5月の「延長」決定後に、ようやく専門家層の発言も変わり始めた。そして緊急事態宣言終了後の5月29日「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」において、「新規感染の『感染時期』のピークについては、4 月 1 日頃であったと考えられており、4 月 1 日頃までには実効再生産数が
1 を下回ったことが確認されている」(15頁)と記されたことにより、「ピーク」が緊急事態宣言発出前に過ぎていたことが公式見解として確立された。file:///C:/Users/H.Shinoda/Documents/%E7%AF%A0%E7%94%B0Works/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0/%E7%8A%B6%E6%B3%81%E5%88%86%E6%9E%90%E6%8F%90%E8%A8%80.pdf
そこで「もしピークが4月7日より前だったとしたら、本当に緊急事態宣言を発する必要があったのか?」という問いが出てきた、というわけである。
だがこれについては、5月29日の専門家会議記者会見で尾身茂・副座長が繰り返し説明していたことに尽きると思う。https://www.youtube.com/watch?v=dTyYkV_lYco&fbclid=IwAR1dqLHpLNShWyJAAxzsWG0h0R_rEgQ4FAsCwEFuuOht0dnixz6_0GdvxvI
結局、緊急事態宣言は、「医療崩壊を防ぐ」ために行われたのである。実は4月7日の緊急事態宣言発出にあたって安倍首相は、そのことを自らの会見の冒頭で強調した。なぜ誰もそのことを思い出さないのか、安倍首相の説明の仕方が悪かったのか、メディアが常に話題作りのことだけを考えて他人の話に耳を傾けないのが悪いのか、私にはわからない。しかし安倍首相は4月7日の記者会見で、緊急事態宣言の目的が「医療崩壊を防ぐ」である点を、はっきり述べていた。
「医療崩壊を防ぐ」を政策目標とする考え方とは、つまり感染者(重症者)と医療提供体制との相関関係を重要な政策判断ポイントとする考え方である。「医療崩壊を防ぐ」という目標に照らして政策を評価するということは、常に医療提供体制と照らし合わせて、感染のピーク時期や増加スピードを評価するということである。
そこで他国との比較における日本の感染状況の評価などは、「医療崩壊を防ぐ」という目標にてらせば、無関係である。重要なのは、日本(の各地域)の感染状況と日本(の各地域)の医療提供体制との関係だけである。
4月7日の時点で「医療提供体制も逼迫してきていた」(『状況分析・提言』2頁)ことが事実であれば、緊急事態宣言は首尾一貫したものとして正当化できる。なぜならいずれにせよ「医療崩壊」を防ぐためには追加的な感染者数の減少化措置が望ましかったと言えるからである。
この評価は5月になって行われた「延長」に対しては、より微妙なものになる。なぜなら感染者数の減少がすでに顕著に進展し、医療提供体制も持ち直し始めていたからである。
その状況を見た吉村府知事が、「医療崩壊を防ぐ」ことが確認できれば自粛を解除すると定めた「大阪モデル」が注目され、歓迎されることになった。結果として、「大阪モデル」がけん引する形で、「日本モデル」の「医療崩壊を防ぐ」ための緊急事態宣言は早期に終了していった。
現在は、緊急事態宣言の再発出の恐れがないか、といったことが、感染者数の日々の増減に応じてささやかれてもいる。しかし再発出は、「医療崩壊を防ぐ」という目的にそって行われるのでなければ、論理一貫性がない。たとえば大阪ではICU病床数の拡充といった医療提供体制の充実を図っているということなので、こうした地域では将来の「医療崩壊を防ぐ」の敷居は上がることになる。http://agora-web.jp/archives/2045885.html 日々の新規感染者が前日より多いとか少ないとかだけで、緊急事態宣言を決定すべきではないのである。
「第一波」「第二波」といった言葉が独り歩きしている場合もあるが、現実の社会状況を見て「第二波」を言うのでなければ、机上の空論である。
なお5月29日の専門家会議記者会見では、相変わらず本旨に沿ったやり取りが少なく、質疑応答の大半が「議事録を公開しないのか」といった質問をめぐるやり取りにあてられていた。おなじみのような光景とはいえ、残念であった。座長・副座長が、「とにかく『状況分析・提言』を読んでほしい」とどんなに訴えても、なお「専門家会議として議事録を出すように政府に訴えないのか」といったことだけを言い続ける記者たちがいた。
こんな記者たちに議事録を見せると、記者たちが『状況分析・提言』をますます読まなくなることは間違いないだろう。そして「何か政府批判になる種はないかな?」といった関心だけに引き寄せて議事録を渉猟し、混乱した話を盛り上げようとするに違いない。議事録は、残すべきだが、公開しなくていい。
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日本の知識人は、すぐにドイツ、と主張するが、検査方法としてPCR検査を使っているのであって、ドイツの報道に、抗体検査、抗原検査、唾液検査を推し進めたいという記事はないし、このPCR検査の問題点もコメント欄で紹介したように、指摘している、要するに、そのような報道が日本のマスコミにはまるでないから、日本人は判断する正しい基準を失い、洗脳されて、おかしな世論を作ってしまうのである。
国 登録された感染者 死者数
累計 新規感染者 感染 傾向
1週間前との比較 累計 前日比
米国 1.870.156 +22.000 コンスタント +3 % 108.051 +970
ブラジル 584.016 +25.000 増加 +43 % 32.548 +990
ロシア 440.538 +8700 コンスタント -2 % 5376 +180
英国 283.079 +1800 減少-33 % 39.987 +320
スペイン 240.660 +460 減少 -22 % 27.133 k.A.
イタリア 234.013 +390 減少-29% 33.689 +76
インド 226.713 +8400 増加 +28 % 6363 +220
フランス 189.569 +300 k.A. 29.068 +61
ドイツ 184.472 +370 減少 -15 % 8635 +25
(資料 ジョーンホプキンス大学)
ものごとは、何ごとによらず、そう「思われる」(δοκεῖν)、一見して正しい「かのように」(ὡσπερεί)ただそう見える(φαίνεται)だけの仮象(φαίνεσθαι)、「そうみえるけど、実はそうではない」(εἶναι δὲ μή)ものを少しも信じない。思い込み(οἴησις)が激しい際立った狂信家(ὁ μαινόμενος)で、例によって早朝から意味不明なことを喚き散らしている憐むべき「コロナ狂」である「感情の起伏の激しい人」(μελαγχολικός)である老媼との違いかもしれない。
33~38のクズについては、相手にするのも憚られるが、①PCR検査、抗原検査、抗体検査を一緒くた、というか混同した見当違いな議論であり、②専門家会議クラスター班の押谷仁氏の指摘(「検査や診察への抑制的なアクセスはこのウイルスには必要な対策」)はクラスター対策を効果的に進めるうえで、という文脈で理解されるべきで、当の専門家会議の「状況分析・提言」は複数の手法による検査体制の拡充を明言している、③個々の検査法の違いと特性を認識すれば、杜撰な理解しかもたない老媼の指摘のように、34⇒【いろんな種類を使えば、統計処理上の問題も起こる】ことはなく、④日本医師会が、35⇒【一つの政治勢力】として、医療関係者の当時の切迫した状況認識を否定するのは不当で、野党並みの党派意識の表れ――と言うに尽きる。
メディア批判は見当違いな私情に(ἑπιθυμῶι)基づく一種の妄想(φαντασία)、妄執(ἀματηλός πλεονέκτημα)だから相手にするまでもない。
少しは手間暇をかけて、効果的に編集し直したらようさそうなものを、横着者で美的センスの欠片もない御仁だから、結局は醜悪なものに化ける。
項目は、⇒【国、登録された感染者、死者数[の各累計] 、新規感染者、 感染傾向、1週間前との比較、[累計=?]、前日比】なのだという。しかも、どの時点での数値か、一切言及がない。「ジョーンホプキンス大学」(ジョンズホプキンス大システム科学工学センター=筆者)とあるが、わざわざDer Spiegelに依拠して「翻訳」したほどの資料とも思えない。
米国をみると、1.870.156, +22.000, コンスタント, +3 %, 108.051, +970⇒①累計感染者②新規感染者数③感染(増減)傾向④増加率⑤累計死者数⑥新規死者数――と、中身は6項目しかない。項目に「新規死者数(増加死者数)」が欠落し、3 %の算出法が明示されておらず、「前日比」のような無駄な項目がある。「1週間前との比較」がどの部分なのかも不明確だ。
さすがに、Der Spiegelがこれほど杜撰で内容の乏しい陳腐なガラクタ集計表を掲載しているとも思えないから、老媼の編集が拙劣なのだろう。暇をもて余して日夜投稿に余念がない割には、いかにも投げやりな老媼の人間性と趣味の悪さをよく示している。
致死率とか、10万人当たりの死者数とか、もう少し親切にしないと、批判するメディアの足下にも及ばない。
なお、老媼の統計には反映されていないが、フランスが累計感染者を大幅に下方修正した(厚労省統計にも反映されている=感染者151,677→死者29,021)。
私が参照した集計(5日午前7:15現在)だと、感染者152,444→死者29,065で、致死率19.07%はべルギー(16.25%)を上回り、世界最悪だ。
ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者伝』に次のようにある。
「そしてこの経験から彼は、アブデらのアスカニオスが述べているように、ものごとの真理は把握できないということ(ἀκαταληψία)と、判断の留保(ἐποχή)という形の議論を哲学の中に導入して、まことに気位の高いやり方で哲学活動を行ったように思われる。というのも彼は、何ひとつ美しくもなければ醜くもない(οὔτε καλὸν οὔτ’ αἰσχρὸν)し、また正しくもなければ不正でもない(οὔτε δίκαιον οὔτ’ ἄδικον)と主張していたからである。また同様に、あらゆる事柄について、真実にそうであるものは一つもないのであって、人びとはただ、法と習慣に従って(νόμῳ δὲ καὶ ἔθει)あらゆることを行っているにすぎないと彼は主張していたが、その理由は、それぞれの事柄は、『あれである』よりもむしろ『これである』ということはないからだ、ということにあった。」(第9巻11章61=加来彰敏訳、岩波文庫、『ギリシア哲学者列伝』下巻、151~52頁=一部表記を変えた)
‘ὅθεν γενναιότατα δοκεῖ φιλοσοφῆσαι, τὸ τῆς ἀκαταληψίας καὶ ἐποχῆς εἶδος εἰσαγαγών, ὡς Ἀσκάνιος ὁ Ἀβδηρίτης φησίν• οὐδὲν γὰρ ἔφασκεν οὔτε καλὸν οὔτ’ αἰσχρὸν οὔτε δίκαιον οὔτ’ ἄδικον• καὶ ὁμοίως ἐπὶ πάντων μηδὲν εἶναι τῇ ἀληθείᾳ, νόμῳ δὲ καὶ ἔθει πάντα τοὺς ἀνθρώπους πράττειν• οὐ γὰρ μᾶλλον τόδε ἢ τόδε εἶναι ἕκαστον.’=Diogenis Laertii; Vitae philosophorum, IX, 11, 61, with an English translation by R. D. Hicks, vol. II; p. 474)
ピュロンとは異なる初期ストア派の哲学者クリュシッポス(Χρύσιππος, BC c. 280~c. 207)はアリストテレスと並ぶ古代の論理学の大家で、今日でいう命題論理学の基礎を固めたが、それは、人生の「目的は自然と一致して生きること」(‘τέλος εἶπε τὸ ὁμολογουμένως τῇ φύσει ζῆν’)を説いた彼らが、同時に、首尾一貫して(ὁμολογουμένως)極めて厳格な論理意識のもち主だったことを窺わせる。
今日の記号論理学で言えば述語論理学に相当するアリストテレスの論理学(名辞論理学)は、「項」(ὅρος)の結合(σύνθεσις)と全称(καθόλου)、特称(κατὰ μέρος)の量化上の区別による論理的思考法の集成であり、ストア派は、命題(ἀξίωμα)間の結合分離による命題論理で、自然に従って(κατὰ φύσιν)ロゴスとともに生きることを求め、必要(χρεία)に基づく仮言的な「~べき」(χρῆ)が要請する適切な行為、即ち相対的な規範である義務(κατῆκον)にとどまらず、さらに定言な「~べき」(δεῖ)によって魂の高貴さ(καλόν)につながる超越的な規範(κατόρθωμα)を説く。
ストア派の論理学(λογικά)は、この世、即ち世界の論理的構造を解明しようとする試みで、すべての存在(ἐόν)を、存立する(ὑφεστάναι)ものと存在する(εἶναι, ὑπάρχειν)ものとに分け、非物体的なもの(ἁσώματον)、つまり時間(χρόνος)、空間(χώρα)、空虚(κενόν)、そして語られる言語的なもの(λεκτόν)は「存在する」のではなく「存立する」もの(ὑφεστόν)、存在するもの(ὄν)は物体的なもの(σῶμα)として、四つのカテゴリー、基体(ὑποκείμενον)、性質(ποιόν)、様態(πῶς ἔξον)、関係的様態(πρός τι πῶς ἔξον)に基づいて世界を記述した。
とんだ哲学談議に脱線(πλανᾶν)したが、ものごとを根本的に考えるということは、余裕を失わない目で観察し、中途段階での成功や失敗に囚われないことだ。
この点で、ソフィストの長老プロタゴラスに学ぶべき点が多く、アテーナイから追放される原因になった次のような言葉を遺している。
「神々について、それが存在するとも、存在しないとも、また、その姿形がどのようなものかも、私は知ることができない。なぜなら、それを妨げるものが数多くあるからだ。事柄が不明確であるのに加えて、人生は短いのだから。」(断片4=‘περὶ μὲν θεῶν οὐκ ἔχω εἰδέναι οὔθ’ ὡς εἰσίν, οὔθ’ ὡς οὐκ εἰσίν οὔθ’ ὁποιοί τινες ἰδέαν• πολλὰ γὰρ τὰ κωλύοντα εἰδέναι, ἥ τ’ ἀδηλότης καὶ βραχὺς ὢν ὁ βίος τοῦ ἀνθρώπου.’; H. Diels, “Die Fragmente der Vorsokratiker”, hrsg. von W. Kranz; Bd. II, Frag. 4, S. 265)
新型ウイルス解明の厄介さも、似た側面がある?[完]
国名 累計 新規感染者 感染 傾向1週間前との比較 死者累計 前日比
米国 1.870.156 +22.000 コンスタント +3 % 108.051 +970
ブラジル 584.016 +25.000 増加 +43 % 32.548 +990
ロシア 440.538 +8700 コンスタント -2 % 5376 +180
英国 283.079+1800 減少 -33 % 39.987 +320
スペイン 240.660 +460 減少 -22 % 27.133 k.A.
イタリア 234.013 +390 減少 - 29% 33.689 +76
インド 226.713 +8400 増加 +28 % 6363 +220
フランス 189.569 +300 k.A. 29.068 +61
ドイツ 184.472 +370 減少 -15 % 8635 +25
トランプ大統領ご推奨の「ヒドロキシクロロキン」も効果がないとして、英国は大規模な治験の終了を決定したhttps://www.msn.com/ja-jp/news/coronavirus/英、抗マラリア薬の新型コロナ治験終了-「効果ない」/ar-BB155UqK?ocid=spartandhp。米トランプ大統領にたいして、全米で大規模なデモが起こっている理由を、PCR検査を増やすべきだ、の報道ばかりに時間を使っている日本のテレビはきちんと分析し、報道すべきなのである。ドイツのメデイアに比べてCovid問題にもからむ米国の人種差別撤廃を求めるデモに対する報道が圧倒的に少ない。
日本の場合は、感染者数の昨日。今日までの累積が、米国の一日の感染者数よりも少ない17,018人、17,064人、新規感染者数が30人、48人、累積の死亡者数が、米国の一日の死亡者数より少ない903人、907人である。人口は、米国が329,064,900人、インドが1,366,417,800人、日本が126,860,300人、ドイツが83,517,000人(2019年、国際連合統計局の資料をもとに作成されたもの)https://ja.wikipedia.org/wiki/国の人口順リスト)という面から考えた時、日本を欧米諸国や現在感染者数が増えていると比べて、人口当たりにしろ、総数にしろ、いかに日本のCovid19の犠牲者が少ないかがわかるのではないのだろうか。同時にインドはワースト10に入っているのだから、アジア人はかかりにくい、わけでもない。つまり、その国のCovid19の対策が優れていれば、結果がいいのであって、日本は、中国、韓国、台湾などと共に、Covid19対策の「日本モデル」に自信をもつべきなのである。いつまでも、英米とあるいは、ドイツと、あるいはスウェーデンやニュージーランドと、つまり白人の手法と比べて劣っている、と批判する日本のマスコミの取材の在り方が歪である、ということに早く気づくべきだと思う。
shinodahideaki.blog.jp/archives/35161366.html#comments。結果は、新型のウィルスを移す、あるいは、自分が感染する危険は状況によって、危険度が違う。決定的なのは、一人の人間が接触するウィルスの量である。研究者たちは、やっとどのような前提、条件で特に注意が必要かの詳細を理解し始めた。その詳細を、欧米の研究者にわかりはじめたのは、5月の中頃すぎである。けれども、日本は違う。5月29日の専門家会議記者会見で尾身茂・副座長が丁寧に説明。https://www.youtube.com/watch?v=dTyYkV_lYco&fbclid=IwAR1dqLHpLNShWyJAAxzsWG0h0R_rEgQ4FAsCwEFuuOht0dnixz6_0GdvxvI されたように、2月の北海道クラスターの時から、専門家会議では、移す人と移さない人がいる、ことが指摘されていた。つまり、日本の方が、欧米よりも初動が早いのである。そして、篠田教授の主張されるように「、精密なクラスター調査」と分析によって「三密回避」にたどりついたわけである。これと、6月15日に実行されようとしているスマホのアプリの導入が、岡田晴恵博士が教祖である「費用が莫大にかかるPCR検査をできるだけ多く、定期的に実行する」よりもずっと優れた対策で、世界に誇るべき「日本モデル」だと考えている。ワースト10に入っているドイツのブンデスリーガがしているから、日本のプロ野球全選手に定期的にPCR検査をすべきだ、などというわけのわからない主張は、ナンセンスだと思う。
国民全数検査を主張している勢力もあります(これはさすがに少数だと思います)。ゼロリスク信仰の方に多いです。ゼロリスクを追求することは、それ自体はいいことです。しかし、良好な結果を出せるか!?を考えるべきです。このこと(全数検査)については、篠田教授も本記事及び過去の一連の記事で反対しています。主な通説的な理由としては「医療崩壊」を招く要因となる< ですが、他にも多数指摘されています。篠田教授は、危機管理の専門家としてその基礎知識から、将来の危機を察知して反対しているのでしょう。
PCR検査対応のまずさは、今回3月~4月にかけての感染者急増時の検査対応に現れました。実際、検査インフラが不足していましたので、政府は決して言いませんが、入り口で検査受診条件を絞るという対応をしました。しかし、いまは、その有事は過ぎました。医療従事者司司つかさつかさの対応で十分です。論点になりません。教訓としては、次に来る波に備えて、有事の際に検査体制を充実できるように、平時から有事の際に即応できるように”準備だけ”はしておくべきです。
数学では、必ずといっていいほど、(10問中)5・6問目あたりに難問があります(配点も高い・20点ぐらい)。このような難問は、解答すべき数式量も多いです。受験は問題との戦いである同時に、試験時間との戦いでもあります。その難問を解いていては、たとえ解けても残りの問題を解く時間がなくなって、受験は終わります。ゆえに、このような難問を捨てる(もしくは最後に解く)決断も必要なときがあります。最初から100点満点でなく、80点を目指す作戦もあるのです。
無症状患者、という定義であるが、最後まで無症状である人をさすのか、それとも発症前の人をさすのか、あいまいである。Covid19の場合、ウィルスが肺に達する前、咽喉にいるときが、一番感染力が高い。外界に近いし、感染者そのものが元気だから、Covid19ウィルス菌をたくさん排出することができるからである。肺炎になれば、患者は高熱になるが、咽喉部にいる時は、その前段階だから、発熱が50%以下なのである。だから、発熱していないことと、感染力が少ないことは同じではない。放出されたウィルス菌をたくさん吸い込むと人は感染し、高齢の、持病持ちの、肥満体の男性が重症化しやすいのである。
それを前提にすると、クラスター調査、感染者の濃厚接触者のデータは重要だし、その人々をCovid19予備軍として対応する、つまり、PCR検査やCT検査をし、岩田教授の主張されるように、偽陰性や擬陽性が出る、つまりゼロリスクではない、のだから、正しい診断ではなく、正しい判断をめざすべきだと思う。そして、うつす人は感染者の20%なのだから、PCR検査は重症化する20%が多くいる高齢者施設、病院に対象をうつすべきなのではないのだろうか。
今まで日本のCovid19対策の評点は国際社会で比較したとき、5がつくぐらい、いい成績なのだから、スマホのアプリさえ多くの日本人が導入してくれれば、54兆円もの大金をコロナ対策用のPCR検査のためだけに使う必要は全くない、と考える。それだけのお金があるのなら、もっと有意義なことに使った方が、ずっと日本人のためになるのではないのだろうか。
他者に感染させる2割と感染させない8割との違いに関する知見で、今回の「状況分析・提言」には盛り込まれていない。
押谷氏によれば、明確な原因の特定はできておらず、二つの傾向がみられる。一つは年齢因子で、重症化した、主に高齢者などの肺または咽頭部から多量のウイルスが放出され感染力が強かったと推定される事例、他は逆に無症状または軽症で陽性確認以前は特に隔離、待機対象とはならず、活動を広げるなかでクラスター形成など感染拡大に担い手となったタイプだ。
このところの感染伝播に関する知見の集積で、最も感染力があるのは発症2日前から発症後平均0.7日で、次第に感染力が低下し、1週間でほとんど感染力を失うことが分かっている。
従って、発症前で、しかも他人に感染させる能力をもつ2割を突き止めること、それを効果的に掘り起こす対策、手法が喫緊の課題になる。
つまり、専門家会議もPCR検査を含む検査体制の充実、特に30分と短時間で結果が出るがウイルス量が少ない場合は感度が低く、偽陰性も少なくない抗原検査は、一方でその分だけ陽性と判定されればその確率は極めて高く、結果に信憑性があるから、感染が疑われる対象のスクリーニングに役立つし、PCR検査と併用すれば「使える」ということだ。
抗原検査が陰性であることは簡易検査キットの問題もあって感染の有無の判定での確定的材料にはならないが、陰性でも接触歴や渡航歴、臨床症状などから感染が疑われるなら、その時こそPCR検査で決着つければよい。陽性なら高い角度で感染と判断できることの利点を生かせばよいわけだ。
そして、偽陽性が出やすい難点はあっても、感染症流行の全体像を把握する手段である抗体検査は、悠長な学術研究のためにあるのではなく、既往の感染状況を確認することで、公衆衛生的な対策に不可欠のデータを提供する。
以上の観点からみると、老媼の47のような主張は、極めて一面的な議論であることが分かる。
近年では原発事故の後で、記憶に新しいところなら豊洲市場をめぐる論議で、リスク(ὁ κίνδυνος)の問題が安全(ἡ σωτηρία)と安心(ἡσυχία)との領域にわたって散々議論され混乱したが、原理的に考えれば、リスクは事前に何らかの方法で計算できるものであり、一部または全部の危険(τὸ δεινόν)や損害(ζημία)の想定も、回避(ἀπόκνησις)や分散(συγκινδυνεύειν)もある程度可能なのに対して、安心の問題は、安全性の有無にかかわらず、何ぴとにも避けられない将来の不確実性(τὸ ἀφανές)に対してまで、トラブルなしに(ἀπραγμόνως)済ませたいと思う「思考がつくり出す想念」(φάντασμα διανοίας)のようなもので、不安(φροντίς)解消には限度があることを無視ないし軽視する態度だ。
それは計算可能なリスクと、計算の前提となる確かな根拠をもたない不確実性とを混同することから生じるのであって、安全の基準が客観的で、安心が主観性に左右される心の問題というより、問題の性質、対象の混同に伴う混乱というべきだ。
その点で、48⇒【ゼロリスクを追求することは、それ自体はいいこと】では全くなく、かえって有害(βλαβερός)だ。それは、気休め(παραμῦθέομαι)でしかない。
「Gクン」氏の議論は、入学試験を材料に、試験に臨むうえで致命的な失敗を回避するための一種の戦術(τέχναι)、大げさに言えば戦略(στρατηγία)を論じたもので、譬えとしては聊か的を外している。
いずれにしても、今後の感染の再燃を睨んで社会経済活動との両立や出口戦略を展望したコロナ対策は、犠牲(θυσία)なしに、つまりリスクなしに達成することは不可能で、それを織り込んだ民主制的な合意形成が焦点になってくる所以だ。[完]
前項で、「ゼロリスク」に関する「Gクン」氏の主張を論じ、それを追求すること自体がいいことでは全くなく、逆に有害だ、と書いた。
「その点で」という接続詞(συνδέσμος)を受けた文章だから、舌足らずというか、論理的に飛躍があった。
【「ゼロリスクを追求することは、それ自体はいいこと」というが、そのことが、さまざまな手法を駆使してリスクを軽減することを越えて、安全以上に安心を求めるように、「ゼロリスク」を志向するなら、いいことどころか、かえって有害】と修正しなくてはなるまい。
ところで、 「真理の規準(κριτήριον)とは、(その対象を)把握しうる表象(καταληπτικὴν φαντασία)、即ち、現実に存在しているものから生ずる表象であると」(‘Κριτήριον δὲ τῆς ἀληθείας …τυγχάνειν τὴν καταληπτικὴν φαντασίαν, τουτέστι τὴν ἀπὸ ὑπάρχοντος’=Diogenis Laertii; Vitae philosophorum, VII, 1, 54, with an English translation by R. D. Hicks,ibid., p. 162)とされる。さらに、正しい推論(τὸ ὀρθὸν λόγος)が伴うものであることは言うまでもない。
同じディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者伝』にある初期ストア派の哲学者、キティオンの『ゼノン伝』の中に、さらに次のような記述がある。正しい立論について述べたものだ。
「文章ないし話をすぐれたものにしているのは、次の五つのことである。即ち、純粋なギリシア語が用いられていること(Ἑλληνισμός)、明晰であること(σαφήνεια)、簡潔であること(συντομία)、適切であること(πρέπον)、そして洗練されていること(κατασκευή)である。純粋なギリシア語が用いられているというのは、技術(文法)的誤りがなく、また便宜的な習用に頼ることもない語り方のことである。また明晰であるとは、思想内容をよく理解できるように表現している語り方のことである。」(引用続く)
‘Ἀρεταὶ δὲ λόγου εἰσὶ πέντε, Ἑλληνισμός, σαφήνεια, συντομία, πρέπον, κατασκευή. Ἑλληνισμὸς μὲν οὖν ἐστι φράσις ἀδιάπτωτος ἐν τῇ τεχνικῇ καὶ μὴ εἰκαίᾳ συνηθείᾳ• σαφήνεια δέ ἐστι λέξις γνωρίμως παριστᾶσα τὸ νοούμενον• συντομία δέ ἐστι λέξις αὐτὰ τὰ ἀναγκαῖα περιέχουσα πρὸς δήλωσιν τοῦ πράγματος• πρέπον δέ ἐστι λέξις οἰκεία τῷ πράγματι• κατασκευὴ δὲ λέξις ἐκπεφευγυῖα τὸν ἰδιωτισμόν.’(ibid., VII, 1, 59, p. 166~68)
「純粋なギリシア語」云々は、日本語に置き換えればよく、明晰、簡潔、適切、洗練については異論がないだろう。厳格な論理的規範を維持しながら、そうした条件をクリアすることは容易ではなく、古代ギリシア人にも劣る議論が氾濫している。
さらに、
「(主題の)区分(μερισμὸς)とは、クリニスによれば、一つの類(をなしている主題)をもろもろの(下位の)項目(τόπος)に分類整理(κατάταξις)することである。例えば、善については、魂に関するものと、身体に関するものとがあるように。」(加来訳、253頁=‘μερισμὸς δέ ἐστι γένους εἰς τόπους κατάταξις, …• οἷον Τῶν ἀγαθῶν τὰ μέν ἐστι περὶ ψυχήν, τὰ δὲ περὶ σῶμα.’; ibid., 62, p. 170)とある。
主題=議論の対象を明確にして問題の構造を明らかにすることが、議論の前提となる。
「ところで、問答法(διαλεκτική)とは、ポセイドニオスの言うところでは、真(ἀληθής)と偽(ψεῦδος)と真偽いずれでもないもの(οὐθετέρων)とを扱う学問であるが、他方、クリュシッポスが述べているところによれば、それは、指し示すもの(σημαῖνον⇒「表示するもの」、即ち言語、文字、音声、記号など=筆者註)と指し示されているもの(σημαινόμενον⇒表示されるもの、即ち「意味」=筆者註)に関する学問である。」(加来訳、253頁=‘Διαλεκτικὴ δέ ἐστιν, ὥς φησι Ποσειδώνιος, ἐπιστήμη ἀληθῶν καὶ ψευδῶν καὶ οὐθετέρων• τυγχάνει δ' αὕτη, ὡς ὁ Χρύσιππός φησι, περὶ σημαίνοντα καὶ σημαινόμενα.’; ibid., 62, p. 170~72)ともある。
立論の論理形式である命題(αἰτιῶδες)を構成する言明(λόγος προφορικός)は、表示されるもの(σημαινόμενον)であって、表示するもの(σημαῖνον)と明確に区別され、ソシュール以降の近代言語学における「シニフィエ」(signifié)、「シニフィアン」(signifiant)に対応する。
新型感染症のファクターXに限らず、ものごとには、論理的に簡単に真偽が決められない課題が多い。老媼は、論理(学)の初歩から学び直したらよい。[完]
反氏はずっと、哲学こそ真理への道、と主張されるが、私の見解はそうではない。数学や物理である。いろんな思想のある哲学と違って、数学は答えは一つで、根気よく筋道通り正しく考えると、必ず正解にいきつくからである。試験の場合は、Gくんの主張通り、時間の制約があるが、時間配分も能力をはかる一つの要素だと私は思う。
もとより、それは正しくもあり間違ってもいる。太陽(ἥλιος=へーリオス)が足の幅(εὖρος ποδὸς)ほどのものではないことを、われわれは近代科学の知見で知っているし、足の幅に「見える」(φαίνεται)だけということも承知している。
むしろ、そう見えなかったら、言い換えれば、地球からあるがまま大きさで見えたら視覚(ὄψις)の異常だろう。その名の通り、ヘリウムの核融合で膨大なエネルギーを放出している太陽が足の幅に見えるほど離れていることが、われわれの生存の条件だ。
足の幅は、われわれの感覚(αἴσθησις)、つまり感覚器官(αἰσθητήριον)によって感覚されるもの(αἴσθητόν)としての知覚(αἴσθάνεσθαι)であり、実感(ἡ ἐπαφή, πάθημα)としての印象(τύπωσις)、感官(ὄργανον)がそういう働きを受ける(πάσχειν)、畢竟「ただそうみえる」(φαίνεται)だけの見かけ(φάντασμα)、見せかけ(παρουσία)としての現象(πρόσχημα)にすぎない。
それが、表象(φαντασία=「現われ」ということ)としては「正しく」(ὀρθός)受け取られている点で間違っていない(ἀψευδής)が、それがものごとの真の姿(ἀληθῆ)であるかは、何の保証もない。
常識(τὰ ἔνδοξα)との一致、不一致はこの場合、何の意味もない。例えば、新幹線に乗車していて、実際は時速300㌔近い速度で移動していても、乗客である私は座席に座っており、少しも運動していない、と言い張るようなものだ。
しかし、私を乗せた新幹線は運動しており、私は真相を錯覚している(παραισθάνομαι)、つまり真実を見損なっている(παρορῶσί)にすぎないように。
マスコミの冠付きとはいえ、「知識人」(ἐπιστήμων)に分類され畏れ入るばかりだが、「森を見ない」というのは、押谷仁氏が欧米的な感染症へのアプローチ法を指したもので、私とは何の関係もない。
むしろ、似た趣旨の「如人以手指月、認月爲指」(「人、手を以て月を指さし、月を認めて指と爲す如くに」=『大佛頂經』)を挙げ、このところ篠田さんや老媼を一貫して批判してきたのは私の方だ。
57⇒【反氏の主張は、毎日テレビで「専門家」の肩書を持つ人や、コメンテーターが主張…と同一】というのも、粗雑な理解しかできない老媼の錯覚(παραισθησις)であり、つまらぬ国際比較表をわざわざDer Spiegelから取り出して、陳腐な議論をするしか能がない「ドイツ狂い」(Γερμνανία μανία)の歪んだ目からみて、自らと相容れない(ἐναντιότης)主張や知見は、すべてメディアに登場する専門家や知識人の誤謬(ἀπατη)となるようだ。
「老婆の他愛ないおしゃべり」(‘ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος’)そのままの憐むべき素人論議で、誤謬に陥っている(διαψεύδειν)のはどちらか自覚していない分、なんともご気楽な単細胞だ。ドイツ仕込みの「狂信家」(ὁ μαίνομαι)というのは、そうしたものなのだろう。
ドイツと言えば、7日午前11時現在、感染者数(☆185,696)、死者数(★8,769)、致死率(※4.72%)、10万人当たりの感染者数(◆222.35)、同死者数(*10.50)のいずれも、隣国のポーランドに劣る(☆25,986→★1,153→※4.44%→◆68.59→*3.04)。
ドイツなど、お呼びではないのだ。
ドイツは日本と比較して大量の検査をしている。その国で、日本の専門家会議も提言する一層の検査拡充ということが喫緊の課題でも話題でもないことと単純比較して、「主張はない」と空語して(κενολογεῖν)も、何の意味はない。
PCR検査は新型コロナウイルスの遺伝子を検知する検査で、確定診断の根拠だ。ウイルス量が少ない場合に実際に感染している検査対象の30%を見逃す確率があるということは、検査を増やさなくていい理由にはならない。
57②⇒【霊験あらたかな検査】云々などという無駄口を叩く(ἀδολεσχεῖν)前に、各検査の特性と位置づけを正確に理解したらよい。何が真理への道かは知ったことではないが、57③⇒【私の見解は…数学や物理…数学は答えは一つ】というのは、数学も物理学も少しも理解できていない人間の無知ゆえの(δι’ ἄγνοιαν)錯覚、精々初等中等教育過程の話だろう。
数学は公理体系を変えれば答えは一つではない。物理学も先端研究分野は複数の見解がしのぎを削っている。数理モデル解析の初歩の理解も覚束ないで、ただ篠田さんの尻馬に乗って見当違いのお追従に躍起になっている人間が、数学云々が聞いて呆れる。
それ以外はすべて、「自称」(ὄνομα καθ’ αὑτόν)問題に象徴されるように、いい歳をして、日本語の真っ当な理解も用法も覚束ない「虚偽体質」の老媼による、党派心(φιλονεικία)剥き出しの、謂わばイデオロギー体質の議論ばかりだ。イデオロギー(Ideologie)とは、ドイツ語でいうなら、虚偽意識性(das falsche Bewußtsein)のことだ。
党派性と敵愾心(ἔχθρα)旺盛な老媼の本質そのものではないか。
寺田寅彦は、「人間真善美など(と)云ふ観念は四十歳頃になれば消ゆるなりと或人語りぬ」(『全集』第17巻、12頁、「覚えがき帳」)と韜晦する。
いずれも、人間がほんの「極くわずかな」(μικρόν)知恵しかもたない卑小な存在だと認識している。
アリストテレスは中間の立場であろうか、「従って、このように真理が、あたかも俚言に『誰がいったい戸口を間違えたりしようか』とあるようなものなら、この意味では真理の研究は容易であろう、しかし、全体としては何らかの真をもち得てもその各部分についてはこれをもち得ないという事実は、まさにその困難であることを明示している。」(‘ὥστ’ εἴπερ ἔοικεν ἔχειν καθάπερ τυγχάνομεν παροιμιαζόμενοι, τίς ἂν θύρας ἁμάρτοι; ταύτῃ μὲν ἂν εἴη ῥᾳδία, τὸ δ’ ὅλον τι ἔχειν καὶ μέρος μὴ δύνασθαι δηλοῖ τὸ χαλεπὸν αὐτῆς.’=Metaphysica, 993b4~7)とする。
私は懐疑主義者ではないが、ただそう思われる(δοκεῖν)だけで、自分が「知らないことを知っているとは思わない」(οὐκ οἰόμενος εἰδέναι ἃ μὴ οἶσθα)対象について、強弁したり心を煩わせる酔狂をもち合わせていない。
それが偏執狂(παράνοια)の老女との違いだろう。[完]
「人生は小児の遊戯だ、将棋遊びだ。主権は小児の手中にある。」(断片52、田中美知太郎、413頁=‘αἰὼν παῖς ἐστι παίζων, πεσσεύων• παιδὸς ἡ βασιληίη.’; ibid., Frag. 52, S. 162)
本来「民主主義」に必要な、透明でオープンで対等な論議なら、反氏自身が、なぜ自分の主張は【実態を全く抑えていない。「木を見て、森を見ない」】、と言われるのか、考えるだろう。ところが、その反省はまるでなくて、粗雑な理解しかできない老媼の錯覚、と主張する。私自身は反氏の私のレッテル付けをの意味を考え、そうではない、と気づいたから、全く気にしなくなり、「その私へのレッテル付けの読者への影響力」を心配するようになったが、反氏の主張というのは、京大哲学卒の知性と多言語、特に古代ギリシャ語を習得していること、元ジャーナリストであったことによって、優れた論理的思考法をする自分は正しく、相手は間違っている、という主張なのである。
Für eine lebendige Demokratie sei es notwendig, über die großen Herausforderungen "offen, lebendig und kontrovers" zu diskutieren - nach den Spielregeln des Grundgesetzes. Dies bedeute: "Ja zu freier Diskussion, ja zu harten Forderungen" - aber gleichzeitig "Nein zu Intoleranz, Nein zu Ausgrenzung, Nein zu Hass und Antisemitismus", betonte die Kanzlerin.
Für eine gute Zukunft sei es entscheidend, sich im gegenseitigen Respekt über Ängste und Sorgen auszutauschen, sich aber auch stets auf Kompromisse einzulassen. "Ohne Kompromiss gibt es keine Gemeinsamkeit. Und genau darum geht es heute: Um Gemeinsamkeit, um Einigkeit und Recht und Freiheit in unserem Land."
生きた民主主義は、「開かれ、自由で、意見が対立する」大きな課題を論議する場合、「基本法」(ドイツ憲法)の規則に則って行わなければなりません。その意味するところは、「Yes, 自由な議論、 Yes,厳しい要求」けれども同時に、「No,不寛容、No,排除、No,憎しみと反ユダヤ主義」と首相は強調した。
我々のよい未来のためには、お互いに尊敬の念をもって、不安や心配に対して論じ合い、常に妥協を模索することが、必要です。「妥協なしには、団結はありません。そして、今日は我が国の「団結、統一、公正さ、と自由の記念日なのです。」。
私はPCR検査を否定しているわけではない。PCR検査を使ったクラスター調査、感染者の濃厚接触者の検査データは重要だ、と考えている。ただ、PCR検査は、岩田教授の主張されるように、偽陰性や擬陽性が出る、つまりゼロリスクではなく、PCR検査だけでは正しい診断はできないのだから、隔離すべきかしないべき、などの正しい判断をする手段の一つにすべきだ、と主張しているのである。マスコミの専門家は、手段と目的を取り違えている。PCR検査をしさえすれば、すべての問題が解決するようなイメージをふりまいているが、現実はそうではない。
要するに、日本のマスコミは、ほんとうの意味の「民主主義」政治がわかっていないのであって、「反黒人、反ラテン人」の米国のトランプ大統領もわかっておられないから、全米で人種差別に端を発する「民主主義」を求める政治運動が盛り上がっているのだと、私は考えている。「民主主義」政治が脅かされているのは、香港だけではない。
(*)だいぶ前のエントリになるが(4月5日「科学者のご神託とビッグデータ」へのコメント#7~9、#18~21)、氏は西浦理論について「文系」にも分かるよう、みごとな説明をしてくれた(謝)。
専門家会議は作業の一環として、「ウィルス自体ではなく」「感染伝播のメカニズム」に着目し、伝播における「感染状況(=場)の果たした役割を突き止め」て、その特異性を明らかにし、初期対策を講じてきた。これは直近の『状況分析・提言』には明記されなかったが、押谷先生が会見で二つの傾向(「年齢因子」と「感染拡大の担い手」となる二割の「無症状または軽症者」)について触れている。
そこで課題となるのが、この見えない二割をどう突き止めるかだ。現時点で満点回答はないが、既存の三種の検査――PCR、抗原、抗体――を使い分けると効率が良くなる。抗原検査は偽陰性が出やすいが、その分、陽性確定の精度に信頼が置けるから、検査対象の選別(スクリーニング)に役立つ。→ 抗原検査陽性はそのまま陽性/陰性は「接触歴や渡航歴、臨床症状などから感染が疑われる」場合、PCR遺伝子検査で確定する(まさにPCRの出番)。抗体検査は「既往の感染状況を確認」するツールとして、「公衆衛生的な対策に不可欠のデータ提供」に役立つ(安心のための検査ではない)。
(**)高校一年の数学の最初の授業で記号論理を習ったことがある。その夏休みの課題はプラトンの『ソクラテスの弁明』と『国家』、ファラデーの『ろうそくの科学』、ルソーの『エミール』の読書感想文だった。ルソーという選択は謎だが、いやはや、未熟な高校生には荷が重く、まともな理解には至らなかったが、今は昔(謝)。
PCR検査の不足はパンデミックへの準備不足にほかならず、政府の責任も所在が明らかになった。これは保健所とともにきちんと系統的に整えておかねばならぬ医療体制の一環であり、PCR推進派がいかにでたらめであろうと、その存在意義は否定すべきではない。クラスタ重視は検査インフラの不備から生れた窮余の策だったとはいえ、封鎖された武漢からの駐在員退避、ダイヤモンド・プリンセス号事件と、手探りの中でたてつづけの対応に追われる日々を経て、ようやく体制も整いつつある。今後は検査技術や機器の向上、開発も望めるだろう。
現実には、身の回りでいろんなことが起こる。なにかが起こったら、最善を尽くす。「人事を尽くして天命を尽くす。」しかない。その真理は大人になって、社会に出ればわかることである。小池都知事は、あの豊洲移転の時も、都民の不安を煽りたてた。そして、マスコミを使って都民に石原知事、浜渦副知事、猪瀬知事、舛添知事への不信感を植えつけた。けれども、結局豊洲に移転した。結局あの騒動は、ただ、自分の野心と存在、あたかも「自分が正義の味方である」かのように、アピールしたかっただけだと思う。今回も同じである。
岡田晴恵さんのされていることもこれと全く同じである。安倍首相を中心にみんなで協力して解決してゆきましょう、でいいのである。日本は米国と違って、このCovid19対策の優等生なのだから。
一方で、お勉強熱心のようだが、所詮はにわか「コロナ通」にすぎず、つまり「知らないものを知っているとは思わない」(‘οὐκ οἰόμενος εἰδέναι ἃ μὴ οἶσθα’)よう自覚すべきと戒めたソクラテスの「無知の知」(「知らないことを、知らないと思う」=‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι’)や「不知の自覚」(「私は知らないから、その通りに、また知らないと思っている」=‘ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι’)を肝腎なところで少しも弁えない半可通(ἡμιπόνηρος)の素人論議に熱狂し、愚劣なおしゃべり(λήρησις)に余念がないのが老媼で、私の指摘は老媼の議論が含む誤謬、極論をたしなめるもので、上から目線の論評というより、議論自体が含む虚偽が自ずから導く結論を、論理的に明らかにしたものにすぎない。
それを、論理学的には帰謬法(ἡ εἰς τὸ ἀδύνατον ἀπόδειξις)といい、古代ギリシアの昔からある論法で、その名の通り、相手の議論=推論が用いる前提からは、相手が主張するような結論が論理的な手続きでは導き出されないということ、つまり老媼の言い分自体が含む矛盾=論理的破綻によって不可能だという帰結(ἀδύνατον ἑπόμενον)に導く(ἄγειν)所以を論証(ἀποδεικύναι)すればよいわけだ。
余計な批判はしなくても、難点を示せば論破できる。破綻は議論自身が内包しており、老媼の主張にはその手の論理(学)の初歩も弁えない杜撰かつ稚拙なものが多く、今回の場合も抗原検査と抗体検査を混同するような致命的なものが少なくない。
結局、誤謬の出所は老媼の議論自体の中にあるから、老媼が有効に反論できる余地はない。
齢70近くにして何の修養もできていないことは、投稿への姿勢、品性の欠片もない間違いだらけの幼稚な文章をみれば自ずと明らかで、暇をもて余している割には、よく考えて論理を研ぎ澄まし、文章を練る心掛けも余裕もないから、子供騙しの意趣返しで鬱憤を晴らす程度のことしかできない。
気に入らないことは、すべて相手の印象操作(κακῶς εἰκάζειν περί)であり、それを肯定するか批判しない、つまり老媼と見解を異にする相手は老媼を誤解または悪意を抱くか、こともあろうに洗脳されていることになるらしい。
老媼は自分を棚に上げて被害妄想が著しい。たとえ正論(δίκαιος λόγος)だったとしても投稿の数だけ批判の矢面や揶揄、中傷に晒される割合も高くなるわけで、それを甘受したり、折り目正しく応対する分別や自制心、歳相応の世間知(φρόνησις)さえ欠く場面にしばしば出会う。覚悟(πίστις)も矜持(μεγαλοψυχία)もなく、甘えばかりだ。
67⇒【反氏は、「人間の知性に差がある」という理由で「民主主義否定」論者】のような、極端な思い込み(οἴησις)に基づく愚劣な主張もある。私は古代ギリシアの直接民主制であれ近代の代議制民主政治であれ、民主制は根本的矛盾を抱えた制度であり、信仰の対象にしていないだけの話だ。
PCR検査は遺伝子検査で、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の確定診断の基準。6時間もかかるが感度はよく、実際の感染者を調べた陽性率は70%とされる一方、非感染者の陰性率は99%で、陽性なのに見過ごされてしまう偽陰性が少なくない。現在の感染の判断基準としては遺伝子検査だから最も正統的だが、万能ではない。
それを一部補うのが抗原検査。ウイルスの蛋白質である抗原を検出するもので30分で結果が出るが、感度が低く偽陰性が出やすい。しかし、感度の低さが逆に陽性と出た場合の信頼性につながり、PCRの前に行うスクリーニング検査の位置付け。横浜市立大が開発した検査キットは、新型コロナ以外からは陽性反応が出ないよう改良されている。
PCR検査は時間短縮(島津製作所が新試薬で貢献)、抗原検査は精度改善が課題。
抗体検査は、ウイルス排除に体内で作られる蛋白質の一種である抗体、主にIgG、IgMを調べ、現在または過去に感染したかが分かる。定性検査(簡易検査キット)と定量検査(精密検査)がある。
血液検査で、数滴を検査キットに垂らし、数分で結果が出る。感度は高い。本来の目的は感染の広がりを調べ公衆衛生政策に役立てる疫学調査。感度の高さが抗原検査と逆に作用し、偽陽性が出やすい。特に定性検査では抗体価が低くても陽性と判定される場合がある。
コロナウイルスには風邪の原因となるヒトコロナウイルスも4種類あり、それと交差反応が起き、風邪の患者でも検査キットで新型コロナの抗体が陽性になるため。
一方、IgG抗体価が高い陽性者の感染状態を推定する補助的手段として、感染後、早期にできるIgMが活用可能。新型コロナでは発症から概ね2週間程度で8割、概ね3週間でほぼ全員がIgMまたはIgGが陽性になるが、発症して間もなくは抗体を測定しても検出されない場合が多い。[完]
この新型コロナウイルス、収束はあっても”終息”はありません。それゆえアフターコロナではなくウイズコロナなんて、言われています。Gが強調したいところは、投稿48の結論部分(三段目)で示した→感染者急増の時期(3月~4月)であった”有事”は過ぎました。収束傾向のいまは、医療従事者などの司司つかさつかさの対応で十分だ< と考えています。我われ外野から助言や提言をする時期は、過ぎました。感染症とそれに関連する分野の各専門家が最良の方法を、研究して考えてくれます。
篠田教授のコロナ関連の記事も、教授は危機管理の専門家ゆえ国の危機管理のために書いていたのでしょう。爾後の記事は、そのマトメと総括で閉めるべきだと思います(2~3回程度で)。ただ、大阪府の吉村知事がおっしゃっていますように、今度の新型コロナでの国及び各自治体での各種対応を総括すべきです。成功事例特に失敗事例を検証して、次に襲来する波の有事の際に、同じ轍を踏まないためにです。
プラトンは『国家』の中で、次のようにソクラテスに語らせる。
「真実のそれとはすなわち、真に実在する速さと遅さが、真実の数とすべての真実の形のうちに相互の関係において運行し、またその運行のうちに内在するものを運ぶところの、その運動のことであって、これらこそ、ただ理性(ロゴス)と思考によってとらえられるだけであり、視覚によってはとらえられないものなのだ。」(藤澤令夫訳、岩波書店版『プラトン全集』第11巻、530頁=‘ἃς τὸ ὂν τάχος καὶ ἡ οὖσα βραδυτὴς ἐν τῷ ἀληθινῷ ἀριθμῷ καὶ πᾶσι τοῖς ἀληθέσι σχήμασι φοράς τε πρὸς ἄλληλα φέρεται καὶ τὰ ἐνόντα φέρει, ἃ δὴ λόγῳ μὲν καὶ διανοίᾳ ληπτά, ὄψει δ᾽ οὔ’; Res publica, 529D)
複雑な動きをする惑星など天体の運行は、視覚(ὄψις)ではなく、ただ理性と思考によって(λόγῳ καὶ διανοίᾳ)とらえられる、とするのが天文学を数学的諸科学のうちに位置づけた古代のギリシア人であり、単に観測データの積み重ねだけでは、その法則性を解き明かすことができないのは、科学発展の歴史を見れば明らかだろう。
老媼が指摘するドイツの感染症対策の司令塔的存在の医師の見解らしい、71⇒【クラスターの発生を早期に認識し、時間をかけて検査結果を待つのではなくて、「すべての濃厚接触者を隔離して」拡散をとめること、が大事】という指摘は、それが含意する二つの事柄、①クラスターの早期発見と濃厚接触者などの追跡調査によって感染伝播を突き止め、感染拡大の根を絶つことと、②検査の特性を認識したうえで有効で効果的な対策を講じる――を混同した議論で、大方、当該医師の過誤というより、老媼による問題の理解力の問題だろう。
一方で、押谷氏は先月29日の記者会見で、感染動態の解明から三密対策に行き着いたものの、「三密」ではなくとも接待を主とする飲食店など接客業で、少数の感染者が長時間接触することで多数の人間に感染させる別のメカニズムは、「三密」は思いついても想定していなかったと明言している。
それは、「場」とも異なる感染特性の異質性(heterogeneity)について示唆するもので、他人に二次感染させる2割と、感染させない残り8割との違いの解明は未だに道半ばなことを物語っている。
検査は診断の道具で感染拡大阻止が主目的ではない。早期発見、早期治療は大原則で、それで助かる生命も少なくないことを思えば、特効薬やワクチンが不在だからといって、重症化を未然に防ぐために、必要な検査が遅滞なく実施される必要がある。
さらに、検査が行き届かないと、未確認の感染者によって気づかぬうちに医療機関に感染がもち込まれて院内感染のリスクが増し、救急患者のたらい回しなど救急医療の逼迫、患者側でも必要な受診の手控え、ひいては医療機関の減収などの負の連鎖も招きやすい。医療崩壊は、新型コロナという単独要因で起きるわけでは必ずしもない構図が、今回の経験で見えてきたはずだ。
検査を増やせば、そのことで、直接感染拡大抑止に効果が上がるという主張は、一部の極端な論者によるもので、「PCR信者」など実際には存在しないし、指摘されるほどのメディアの影響力もない。当然、速やかに拡充されるべき検査が未だに不充分なことが指摘されているにすぎない。
ドイツは隣国のポーランドにいずれの点でも及ばないことは指摘済みだが、感染者数=☆、死者数=★、致死率=※、10万人当たりの感染者数=◆、同死者数=*の日独比較は次の通りだ(8日午後8時現在)。
▽日 本⇒☆17,174→★916→※5.33%→◆13.54→*0.72
▼ドイツ⇒☆185,869→★8,776→※4.72%→◆222.55→*10.51
つまり、日本メディアが特段、ドイツの「好成績」なるものをありがたがってPCR検査の拡充を主張しているわけではないし、専門家会議や政府の方針と対立しているわけでもない。老媼の議論は仮象(φαίνεσθαι)で、現実を少しも反映していない。
71③⇒【PCR検査では2週間前の状況…リアルタイムの状況はわからないし、これからの予測もできない】も全くPCR検査の役割を認識していない議論で、PCR検査に過大に期待したうえで、不当に過小評価しているのではないか。
PCRとはポリメラーゼ連鎖反応(polymerase chain reaction)の頭文字をとったもので、ポリメラーゼ、即ちDNAやRNAなどウイルスの遺伝子を構成する一部を検出して確定診断するものだ。子宮頸癌の原因ウイルスや、クラミジア、淋菌の検査でも採用されている。遺伝子の特徴的な一部分を切り取って連鎖反応で増幅させる手法だから、時間も費用もかかる。しかも、ウイルス量が少ない感染初期は偽陰性も出やすい。
予測の道具ではない。しかし、発症してからしばらくは陽性になりやすく、現在の感染の有無を調べるには、万能ではないが、最も正統的な手段だ。それ以上でも、以下でもない。
65⇒【反氏…京大哲学卒…多言語、特に古代ギリシャ語を習得…元ジャーナリスト…論理的思考】――どうでもいいが、老媼には自覚されざる学歴、肩書信仰があるのだろう。[完]
昨日の午後のTBSのワイドショーで、岡田晴恵氏は、無症状の人々と、そうでない人々のもっているウィルスの量が同じ、と知ってびっくりした、と主張しておられたが、そのびっくり、に「サイエンスという言葉を使ってCovid19の専門家面をするのをもういい加減にしてほしい」と思った。岡田博士が専門家、私が素人という反氏のレッテル付けは、「サイエンスに失礼」である。
今、日本でも「コロナ鬱」があるそうであるが、国際社会においてこれほど成績のいい日本の対策のどこが「遅すぎる、なってない。」のかと思う。安倍政権の支持率が低い理由も、マスコミ報道のせい、としか考えられない。これも日本のマスコミの「安倍おろし」の「イメージ操作」をみるにつけ、日本にはあまりにも、ジャーナリスト、報道人、と自称する「うそ、プロパガンダを伝える」脚本家が多すぎる。戦前も、このマスコミの人々に踊らされて、「独伊と三国同盟を結び、米英と戦争をすることが正しいことだ。」と国民は信じ込んでしまったのだ、とつくづく思う。
80⇒【岡田博士が専門家、私が素人という反氏のレッテル付けは、「サイエンスに失礼」である】とある。何が失礼か一向に要領を得ないが、「専門家」、「素人」の定義(ὁρισμός)は老媼以外は明確だから、異論の余地はない。
私は先に古代ストア派の議論を手掛かりに、よい立論、文章の条件について次のように紹介した。即ち、
「文章ないし話をすぐれたものにしているのは、次の五つのことである。即ち、純粋なギリシア語が用いられていること、明晰であること、簡潔であること、適切であること、そして洗練されていることである。」(‘Ἀρεταὶ δὲ λόγου εἰσὶ πέντε, Ἑλληνισμός, σαφήνεια, συντομία, πρέπον, κατασκευή.’)
日本語訳だとギリシア語ほど簡潔ではないことが、文字面を眺めただけでも分かる。ちなみに、原文に対訳の形で添えられたR. D. Hicksの英訳では、‘There are five excellences of speech―pure Greek, lucidity, conciseness, appropriateness, distinction.’となり、平易で簡潔だ。
日本語で「文章ないし話」、英語で「speech」とあるのはロゴス(λόγος=λόγουはその属格で「ロゴスの」の謂い)で、言葉、話、言論、議論、言説、理由(根拠)、説明、理屈、理(ことわり)、理論、論理、理性、比例――など多様な意味、ニュアンスがあり、日本語ではぴったりした言葉がないため簡潔さを逸している。
[Ἀρεταὶ] =[ἀρεταὶ]は、優れていることを意味するアレテー[ἀρετή]の複数形、「~である」に相当する[εἰσὶ]は、「ある」を意味する動詞[εἰμί]の直接法三人称複数現在、[πέντε] は「五」。
格変化が膨大で言語構造が現代語と異なるが、それ自体如何に無駄のない文章か分かる。
見当違いの矯激なメディア批判がもう一つの目的とは言え、どういうつもりか、岡田晴恵氏に対抗して自らが素人(ἰδιωτικός=イディオーティコス)=非専門家(ἀνεπιστήμων)ではないと言い張る趣旨にも聞こえ、まさに常軌を逸して(οὐκ ἀκόσμως)いる。偏執狂(παράνοια)と指摘せざるを得ない所以だ。
素人と言えば。確かに間違う(ἁμαρτανειν)のは老媼が以前、平然と嘯いていたように老媼の「個性」(ἰδιώτης=イディオーテース)なのだろうし、虚偽を犯しても(ψεύδεσθαι)、それを一向に認識しない(ἀγνοεῖν)点に、老媼が愚鈍極まる素人たる所以があるのだろう。それは、老媼の私事(ἴδιος=イディオス)への妄執であって、そういう性向をギリシア語由来の英語ではイディオット(idiot)、多分、阿呆とかいうのだろう。
80②⇒【反氏は、私の主張が素人論議だ、と言われるが、どうして、反氏の主張は、素人論議ではないのだろう? 反氏も私も医学部卒の経歴でない】というが、私は自分が「知らないことを知っているとは思わない」(οὐκ οἰόμενος εἰδέναι ἃ μὴ οἶσθα)対象、領域については、30でも指摘した通り(⇒「コロナ禍で一億総コロナ評論家状態の中での無邪気な素人論議を批判している身で素人論議をしても仕方がない」)、素人であることを自覚しており(ἑαυτῷ συνειδέναι)、老媼との際立った違いだろう。
老媼は我執に囚われるあまり、日本語の普通の文章さえ見落としているようだ。
「他方、劣悪なものにしていることのうち、『バルバリスモス』(βαρβαρισμὸς)とは、育ちのよいギリシア人の慣用語法から外れた語り方のことであり、また『ソロイキスモス』(σολοικισμὸς)とは、文の組み立て方が文法に外れているもののことである。」
(‘ὁ δὲ βαρβαρισμὸς ἐκ τῶν κακιῶν λέξις ἐστὶ παρὰ τὸ ἔθος τῶν εὐδοκιμούντων Ἑλλήνων, σολοικισμὸς δέ ἐστι λόγος ἀκαταλλήλως συντεταγμένος.’; Diogenis Laertii Vitae philosophorum, VII, 1, 59, p. 168)
[βαρβαρισμὸς]とは、異国の人間、ギリシア人からみて、話の通じない異国の人間(βάρβαρος)、夷狄(非文明人=βαρβαρικός)の「不当な用語法」という意味であり、[σολοικισμὸς]は「外国訛りのある人」の意味で(ソロイス[Σολεῖς]に由来)、所謂「破格構文の意味」。
文章も論理も杜撰で、老媼が話の通じない(ἄγνωστος γλῶσσαν)、未開人並みの人物であるとして以前、ホメ―ロスにならって形飾詞(ἐπίθετον)「話の通じない人」(βάρβαροι)を進呈した所以だ。
本日9日の国会質疑でも、加藤勝信厚労相が、日本のPCR検査について、クラスター対策ですら一貫して濃厚接触者のうち無症状者、たとえ非顕性感染の可能性が懸念されても検査対象外だったことを認めている。最近になって方針転換したが、ドイツも認めたクラスター対策とはそういうものだ。
81⇒【発熱外来は感染を広げる危険性はあっても、収束させるためにはあまり機能しない】も、「発熱外来」とは感染危惧者と一般患者の導線を分ける趣旨だということを一向に理解できない。
一知半解の素人論議は、哀れなものだ。
それは、「他でもあり得るもの」(τὸ ἐνδεχόμενον ἄλλως ἔχειν)ではなくして、まさにそうであって「他ではあり得ないもの」(τὸ οὐκ ἐνδεχόμενον ἄλλως ἔχειν)としての必然的な知識のことを指す。
「ある事柄Xについて、ソフィスト流の付帯的な仕方でなく、端的に知識を持っているとわれわれが考えるのは、その事柄Xがそれを通じてそうある原因Yを、その事柄Xの原因であり、その事柄Xは他のようではありえないと認識していると考えるときである。それゆえ、知識を持っていない人と知識を持っている人は、前者は、自分たちはそのような状態にあると思っているが、知識を持っている人は実際にもそういう状態にある。したがって、それについて端的に知識がある事柄は、それが他のようであることは不可能である。
ある事柄について知識を持っているということの別のあり方があるかどうかは後に論ずるとして、とにかくわれわれは何らかの事柄を論証によって知るということがあると主張する。『論証』とは(論証的な)知識をもたらす推論のことである。『知識をもたらす推論』とは、その推論を持つことによって、われわれが知識を持つことになる推論のことである。
そこで、知識を持つことが今しがたわれわれが措定したようなことであるなら、論証的な知識とは、1. 真の、2. 第一の、3. 無中項の、4. 結論よりいっそうよく認識され、5. 結論より先であり、6. 結論の原因である事柄から出発することがまた必然的である。というのも、このようであれば、論証の原理は証示される事柄に固有のものとなるだろうからである。」(引用続く)
☆註 無中項とは、「AはBである」という命題の主語項Aと述語項Bを結ぶ成立原因の中項がないこと。
‘Ἐπίστασθαι δὲ οἰόμεθ’ ἕκαστον ἁπλῶς, ἀλλὰ μὴ τὸν σοφιστικὸν τρόπον τὸν κατὰ συμβεβηκός, ὅταν τήν τ’ αἰτίαν οἰώμεθα γινώσκειν δι’ ἣν τὸ πρᾶγμά ἐστιν, ὅτι ἐκείνου αἰτία ἐστί, καὶ μὴ ἐνδέχεσθαι τοῦτ’ ἄλλως ἔχειν. δῆλον τοίνυν ὅτι τοιοῦτόν τι τὸ ἐπίστασθαί ἐστι• καὶ γὰρ οἱ μὴ ἐπιστάμενοι καὶ οἱ ἐπιστάμενοι οἱ μὲν οἴονται αὐτοὶ οὕτως ἔχειν, οἱ δ’ ἐπιστάμενοι καὶ ἔχουσιν, ὥστε οὗ ἁπλῶς ἔστιν ἐπιστήμη, τοῦτ’ ἀδύνατον ἄλλως ἔχειν.
Εἰ μὲν οὖν καὶ ἕτερος ἔστι τοῦ ἐπίστασθαι τρόπος, ὕστερον ἐροῦμεν, φαμὲν δὲ καὶ δι’ ἀποδείξεως εἰδέναι. ἀπόδειξιν δὲ λέγω συλλογισμὸν ἐπιστημονικόν• ἐπιστημονικὸν δὲ λέγω καθ’ ὃν τῷ ἔχειν αὐτὸν ἐπιστάμεθα. εἰ τοίνυν ἐστὶ τὸ ἐπίστασθαι οἷον ἔθεμεν, ἀνάγκη καὶ τὴν ἀποδεικτικὴν ἐπιστήμην ἐξ ἀληθῶν τ’ εἶναι καὶ πρώτων καὶ ἀμέσων καὶ γνωριμωτέρων καὶ προτέρων καὶ αἰτίων τοῦ συμπεράσματος• οὕτω γὰρ ἔσονται καὶ αἱ ἀρχαὶ οἰκεῖαι τοῦ δεικνυμένου. συλλογισμὸς μὲν γὰρ ἔσται καὶ ἄνευ τούτων, ἀπόδειξις δ’ οὐκ ἔσται•’(Analytica posteriora, 71b9~23)
元劣等生(ὁ ἡσσων μαθητής)の老女が、素人芸で専門家相手に敵意剥き出しで狂態を演じるのが、‘with corona’時代の風景なのだろう。[完]
そのことがわかっていない日本のマスコミ人は多すぎるのである。決定機関での「利害対立や権力問題」は、民主的妥協か、専制的な命令かによってのみ解決され、民主的妥協が民主政治、専制的な命令が、独裁政治なのである。米国トランプ大統領、ロシアのプーチン大統領、北朝鮮の金正恩氏は、妥協がない独裁に近い。逆に、ドイツのメルケル首相や日本の安倍首相は、民主的妥協をめざした政治をされる。独裁政治を、強いリーダーシップなどと形容することがどうかしているのである。(参考、民主主義の擁護、H.ケルゼン、岩波文庫 P168)。
文章も論理も杜撰で、老媼が話の通じない、未開人並みの人物であるとして以前、ホメ―ロスにならって形飾詞「話の通じない人」を進呈した所以だ。という私についての評であるが、こういう白人の考え方が、今、アメリカ社会を始めとして、国際社会で糾弾されているのである。黒人やヒスパニック、インデイアンは未開人並みの人間で、暴力に訴えないとわからない、という奴隷制時代由来の白人の黒人に対する、開拓時代の原住民への扱いが、問題となっているのである。みんな違ってそれでいい、が「国際協調」なのであって、ギリシア文化以外は文明でない、とギリシア人たちが考えたから、現在ギリシアはヨーロッパの後進国、お荷物になってしまったのではないのだろうか。
古代ギリシャ、ローマで行われていた政治と法は、ルネサンスを経て近現代のヨーロッパの基礎となっていることは常識に属することだと思います。つまり、近現代の政治や法の体系の源流は古代ギリシャ、ローマなのです。現在の主権国家としてのギリシャの国際的な地位をもってギリシャ由来の文化的価値を低く評価するカロリーネ氏の主張には賛同出来ません。
なお、カロリーネ氏のコメント88の「独裁」の定義が不明ですが、法の支配に基づく民主主義国家であるアメリカの国家元首であるトランプ大統領を独裁的な政治指導者とするなら、カロリーネ氏が擁護してきた事実上の一党独裁体制である中国の国家元首である習近平国家主席も独裁的な政治指導者に分類すべきではないかと思います。
日本の場合、特に私の学生の頃は、マスコミ界では「左翼の人、つまり、マルクス主義の人でなければ、知識人ではない。」と考えられていたから、フロムの考えは日本では広く浸透しなかったのだろう。父もそう考えていなかったし、京大の哲学科を卒業された反氏も、世界のベストセラー「愛するということ」を書いたフロムをまるで認めず、アドルノを認めておられる。私も正直、大学時代は、フロムの主張の意味がよくわからなかった、ただ、西独に留学し、ドイツ社会の現実を知り、ドイツの企業に勤めてドイツ人の秘書をし、30を半ばになってから、フロムの説が真実だ、と納得したのである。
私の留学時代、西独は社会民主主義政権だったが、西側陣営、に位置していた。民主主義は、国民の選択によって決まるのであって、政府を批判し、反体制、「反安倍」運動をすることが「民主主義」ではない。
つまり、「敵を作り、愛国心を煽るトランプ大統領」のパターンはフロムの主張する「自由からの逃走」を作り上げたナチスヒトラー、「現人神」崇拝の日本の軍国主義者と同じなのである。無力な国民は、強力にみえる指導者についていきさえすれば、なんとかなる、とすがるからである。米国の親友によれば、「福音派」の人々が、そういう人たちだそうである。
それをきちんと理解してはじめて、国際協調を基調とした平和で繁栄した、おかしなイデオロギーに惑わされない、国際社会を形作ることができるのだから。
https://www.hatorishoten-articles.com/hasebeyasuo/15
そもそも、中国が本当に「共産主義国家」といえるかについては議論があるところであり、多くのマスコミは中国が「共産主義国家」だから批判しているわけではなく、中国による人権弾圧、反民主主義的な政治体制、一国二制度を弱体化させる動き、国際法の軽視等といった強権的で権威主義的な政治手法に対して批判をしているのです。
民主主義は民主的に決定された内容の正しさ自体を保障するものではなく、自由主義とも一定の緊張関係にある制度であり、私も長谷部教授と同様に民主主義が完璧なものと考えているわけではありません。民主主義に基づく決定によっても侵害できない権利を最高法規である憲法によって制度的に保障したのが近代立憲主義の思想ですが、これとて一定の限界があります。例えば、憲法改正手続きによって、憲法で保障された権利を大幅に制約することも可能ですし(「憲法改正の限界」といった憲法理論上の議論はあり得ますが、現実的に意味があるとは思えません。)、憲法上の保障は定められていてもそれが名目上のもので現実の運用の上で憲法上の保障が現実に機能していなければ絵に描いた餅となってしまいます。
そのような限界を内包するものであっても、「法の支配」を尊重する民主主義体制は、カロリーネ氏が擁護している中国の国家体制よりは格段に優れているように思います。また、カロリーネ氏が留学していた当時の東欧の共産主義諸国よりも現在の中国の方が良いというカロリーネ氏の議論の前提が仮に正しいとしても、それは現在の中国の習近平体制自体を正当化するものではありません。
カロリーネ氏の判断基準は支離滅裂です。
民主主義は民主主義、「法の支配」を尊重する「法治国家」は「法治国家」この二つは、同一のものではないし、ナチス時代、「ニュールンベルグ法」という人種差別法をドイツ政府が成立させたから、「法の支配」の元、ナチスは堂々とユダヤ人を迫害できたのである。要するに、独裁政治でも、「法の支配」で政治は行われるのである。民主主義とは、外交官時代に「ボスポラス海峡」について論文を書き、国際法の博士号を東京帝国大学から授与された芦田均さんが、その著書「新憲法解釈」で書かれているように、リンカーンがゲティスバーグ演説で述べた、「国民の国民による国民の為の政治」なのであって、日本国憲法も、日本国民がその方がいいと思ったら、日本国民の為に、日本国民によって改正ができるのである。それが本来の民主主義で、権力は国民によってえらばれた国会議員にある、ということが日本国憲法に定められている。アメリカ人の場合、黒人もアメリカ国民に入るのである。トランプ大統領は、貧しい白人のことだけではなくて、貧しい黒人のことも考えて政治をしなければならないのである。そのことはヒトラーにもあてはまる。貧しいドイツ人のことを考えて、金持ちのユダヤ人を迫害したから「アウシュビッツ」にゆきついてしまったのであるが、このような政治指導者を「民主政治の指導者」とは呼ばないのである。
コメント99については、文脈上明らかだと思いますが、私が「法の支配」を尊重する民主主義体制と表現したのは「法の支配」と民主主義が同義という趣旨ではなく、民主主義体制の中で「法の支配」を尊重するものに限定する趣旨(法の支配+民主主義体制)で使ったものです。これをカロリーネ氏のように誤読してしまうのは、私がカロリーネ氏に、ドイツ語の勉強をするよりも日本語の勉強をした方が良いと再三に亘り勧めた所以です。なお、英米法に由来する「法の支配」と大陸法に由来する「法治主義」(形式的法治主義と実質的法治主義に分類されることもあります。)は厳密には別概念です。
その観点から、88⇒【PCR検査の価値に端的にみられるように、専門家通し意見が正反対…この対立に決着をつける者は国民から権力者として選ばれた非専門家、すなわち政治家…目的自体の決定、目標の設定、特に究極的な社会目標の定立は政治家…が、民主政治の原則】は支離滅裂な議論で、それを自覚していない程度に、老媼が極めて愚鈍な人物であることを自ら証明している。
論理的に分析すればそれは一目瞭然で、PCR検査の価値(ἀξία)について、専門家の間で、老媼が「聖なる病い」(ἱερὰ νοσός)である極端な思い込み(οἴησις)で指摘するほど、学界を二分するような見解の対立が存在しているわけではない。
その証拠に、実際に感染していても感染初期に30%の偽陰性となる確率があることは、PCR検査の価値を貶めるものではなく、ウイルスの遺伝子(の一部)を増幅させて検知するPCR検査自体の特性に基づくもので、結果判明まで6時間の所要時間を新試薬の開発や装置の自動化による作業の効率化で改善の余地はあっても、遺伝子検査の意義を否定する見解は見当たらず、別途の検査手法も特段検討されていないことでも明らかだ。
PCR検査については、それをどう利用するかという、社会政策的議論があるだけで、それは新型コロナウイルス感染症の確定診断にPCR検査以外の基準が存在しないことでも明らかだ。新型コロナウイルスの遺伝子を(抗原や抗体というウイルス由来の蛋白質ではなく)検知するのがPCR検査の意味、役割だからだ。
その使用法はともかく、専門家間に実際は特段の対立が存在しないから、専門的知見(ἐπιστήμη=scientia)を有するわけではない政治家の出番などないし、期待されてもおらず、判定役たる資格も正当性もない。
政治家が民主的な合意形成過程を通じてPCR検査に関与できるのは、それを有効かつ効率的な感染症対策にどう役立て、そのための体制整備や協力につなげるために国民の理解を促すことであって、それを政治という。門外漢の政治家が素人論議を弄ぶことを、科学をめぐる「政治現象」とは言っても、言葉本来の意味で政治とは呼ばない。
民主制国家では、「究極的な社会目標の定立」はともかく、目的の決定や目標設定は政治(家)の役割であることは言うまでもないが、それは何ぴとも最終的には見通せないし、事前に知る(προγινώσκειν)ことができない不確実な将来(ἀμφίβολος μέλλον)の問題については、リスクをある程度軽減可能だとしても、それ以上でも以下でもなく、依然として不確実性(τὸ ἀφανές)が残るからだ。
誰も先のことは分からず最終的には確実な根拠をもって責任を負えないし、だれがどんなという責任を問う(αἰτιάομαι τινά τινος)ことが、事の性質上不可能だからだ。
一定の根拠、理論に基づいて専門家は説明も説得もできるが、将来を確実に予測することはできない。予知とか予言は学問や科学ではないからだ。もっとも、事後的になら、そのメカニズムを詳細に説明できるだろうが、不確実性を前にして大方の意向を察知して為すべきことを見抜く(γνῶναί τά δέοντα)のが政治家の役割だ。
だれも見通せない対象について、昔なら占い(μαντεία)で決めたろうが、現在は「政治参加の平等」(ἰσονομία)の原則に基づいて皆で、つまり多数者(οἱ πολλοί)が決める。少なくとも表向きそうした形をとって納得してもらう。
従って、老媼の88の議論は、如何にも粗雑なお頭の老女らしく、科学や専門家の意味と役割、限界と、政治や政治家のそれとを同一次元で論じる莫迦らしさと、道理に反すること(ἀλογίας)を個人的な理論づけ(ἰδιολογίας)で強弁する似而非議論に外ならない。
ヘレニズム期の哲学者エピクロスは、今日の自然科学に相当する自然研究(φυσιολογία)について、「根拠のない想定や(任意の)立法に従って行うべきではなく、(感覚に)現われている事実が要求するような仕方で行うべきだから」(‘οὐ γὰρ κατὰ ἀξιώματα κενὰ καὶ νομοθεσίας φυσιολογητέον, ἀλλ’ ὡς τὰ φαινόμενα ἐκκαλεῖται•’; Diogenis Laertii; Vitae philosophorum, X, 86, with an English translation by R. D. Hicks, ibid., p. 614)と説いている。
一面徹底した合理主義者であるエピクロスは、「運(偶然)が賢者に干渉するのは些細な事柄についてである。最大にして最重要な事柄は、理性がこれまでも管理してきたし、生涯の全期間にわたって、今も管理しているし、今後も管理するだろう。」(加来彰俊訳、岩波文庫『ギリシア哲学者列伝』下巻、第10巻144章、315頁[一部表記を変えた] )とする。
そのうえで、それを人はどう受け止めるべきかに説き及ぶ。
「というのも、われわれの生活が必要としているのは、もはや理に反することでもなく、根拠のない空しい思惑でもなくて、われわれが(魂を)乱されることなしに生きることだからである。そこで、(感覚に)現われている事実に合致しながら、幾通りもの仕方で説明がなされうるすべての事柄に関しては、当然そうすべきであるように、もし、人がなるほどと納得できるような理論を受け入れるならば、万事が何の混乱もなくうまく行くのであるが、これに反して、もし人が、(幾通りもの説明のうち)あるものは受け入れておきながら、他のものは、同じように(感覚に)現われている事実に合致しているにもかかわらず、これを拒否するとすれば、明らかにまたその人は、自然研究の仕事から全く外れて、神話へと落ち込むことになるのである。」(加来訳、271頁)
‘οὐ γὰρ ἤδη ἀλογίας καὶ κενῆς δόξης ὁ βίος ἡμῶν ἔχει χρείαν, ἀλλὰ τοῦ ἀθορύβως ἡμᾶς ζῆν. πάντα μὲν οὖν γίνεται ἀσείστως κατὰ πάντων [τῶν] κατὰ πλεοναχὸν τρόπον ἐκκαθαιρομένων, συμφώνως τοῖς φαινομένοις, ὅταν τις τὸ πιθανολογούμενον ὑπὲρ αὐτῶν δεόντως καταλίπῃ• ὅταν δέ τις τὸ μὲν ἀπολίπῃ τὸ δὲ ἐκβάλῃ ὁμοίως σύμφωνον ὂν τῷ φαινομένῳ, δῆλον ὅτι καὶ ἐκ παντὸς ἐκπίπτει φυσιολογήματος ἐπὶ δὲ τὸν μῦθον καταρρεῖ. .’; ibid., X, 87, p. 614~16)
老媼の半可通の「物語思考」(εἰκὼς λόγοι)はものの数ではない。
学生のデモさえ禁じて、自国の軍隊の顔をした「人民解放軍」という、国家ではなく党に忠誠を誓う軍隊が人民を平気で殺戮し、外国の批判にはその正当性を強弁する一方で、人民にはその事実さえ隠蔽し、触れることさえ禁じるような国家は、現在版共産党独裁という名の、一部の特権層のための専制国家であって、人民の監視システムがより巧妙になり、面従腹背の人民を隷属させているだけで、グローバル化した現在文明の水準からみれば、かつてのソ連、東欧型の共産主義体制より質が悪い、現在版ディストピア、アジア的野蛮の21世紀版だろう。
見え透いた習近平擁護も笑止なら、文化大革命で政治的混乱を画策して人民に犠牲を強いた毛沢東は未だに不動の建国の父ではないか。殺した人間の数で論じること自体、当を失している。北朝鮮は論外だが、隣国でコロナ対策では驚異的な数値を残している同じ共産党独裁のベトナムに比べても異質だ。
米国、特にトランプ政権について批判が多いが、人種差別意識の残る警官がいかに暴力的だろうと、それが制限なく報道され国民の目には隠されておらず、批判も自由だ。そうした自由が保障されている国家と、共産党支配の絶対性を脅かす政治的敵対勢力、組織は、たとえ宗教勢力であろうと有無を言わさず弾圧して、教育・矯正施設という名の現代強制収容所で転向、棄教を強要するのが中国だろう。
しかも、香港への国家安全法の適用など、英国と締結した国際条約に抵触する。老媼の見え透いた二重基準による中国へのおべっかは、冷戦期の西独の凝り固まった反共イデオロギーと、自由の価値への軽視、裏返しの屈折した反米思想の混合物なのだろう。
それを自覚できないほどにおめでたい。[完]
>>「敵を作り、愛国心を煽るトランプ大統領」のパターンはフロムの主張する「自由からの逃走」を作り上げたナチスヒトラー
これは相当に一面的な捉え方でしょう。クリントン、オバマ氏と続いたグローバリズムの行き過ぎから、国内産業の衰退で中間層を中心に不満が募り、反民主党派、ティパーティ活動の支援などを得て誕生したのがトランプ大統領でしょう。
実際に中国実業家から多額の支援金をクリントン財団が得ていたようなことからも反ヒラリー勢力もあったと思われます。
何を以てヒトラーに擬えているのか意味不明です。トランプ政権は独裁ではありません。
また、欧州でもメルケル首相になってから過度な中国依存の経済政策が今や裏目に出て景気低迷を生んでいること。エネルギー政策や急激な難民政策も美談ではあっても製造業の現場で混乱を生み出していることなど、メルケル氏の評判も落ち、引退を表明するまでになっていました。
突然のコロナ禍で蘇ったのは与党CDUに彼女に代わる人材のいないせいもあるのではないでしょうか。
中国は経済的な野望「一帯一路」以外でも、中国共産党の全体主義的統治はウィグル人迫害や香港への「国家安全法」の適応など人権侵害は明らかではありませんか。
政府解釈氏は、その質実な人柄を反映して、論旨、文章とも極めて折り目正しい(ἀστεῖος)。逆に「コロナ狂」の老媼はいい歳をして節度など全くないならず者(ὁ μοχθηρός)の作法で、文章も稚拙極まる。
何にでも首を突っ込みたがる(πολυπραγμοσύνη)おしゃべり婆さんだから、論題の認識事態がピントがずれている。言うに事欠いて、91⇒【政府解釈氏は、ドイツのナチス、日本の軍国主義がどこから生まれているのか、ご存じない】と、何も考えずに書き連ねる。皆、自分と同程度だと見くびっているようで、初等教育(γραμματιστική)レベルの幼稚な主張(99⇒【民主主義とは…リンカーンが…述べた、「国民の国民による国民の為の政治」】)と、どこまでも私的な(ἰδιωτεύειν)経験を不用意に一般化して、愚にもつかない戯言を並べている。
その実態は、99②⇒【外交官時代に「ボスポラス海峡」について論文を書き、国際法の博士号を東京帝国大学から授与された芦田均さん】のような、いかにも世間知らずのミーへー思考と、隠れた劣等意識(ἡ ἡσσων ψυχή)なのだろう。
老媼が、私が法螺話と称する陳腐で凡庸、愚鈍で退屈極まる冗語を連ねる、要するに空語に等しい(κενολογος)無駄話に淫するのも、贅沢な不幸に飽き足らず暇をもて余した老婆特有の性向に加え、もち前の軽率さが手伝っているのだろう。
そして、老婆の他愛ないおしゃべり(ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος)よろしく、議論は堂々めぐりし、一向に要領を得ない。
「正しい人は動揺することの最も少ない人であるが、不正な人は極度の動揺に充たされている。」(加来訳、315頁=‘Ὁ δίκαιος ἀταρακτότατος, ὁ δ' ἄδικος πλείστης ταραχῆς γέμων.’; ibid., X, 144, p. 668)というのはエピクロスの言だが、「議論の正しさ」(τὸ ὀρθὸν λόγος)についても当てはまるかもしれない。
エピクロスの真骨頂は、
「また、死はわれわれにとって何ものでもないと考えるようにしたまえ。というのは、善いことや悪いことはすべて感覚に属することであるが、死とはまさにその感覚が失われることだからである。それゆえ、死はわれわれにとって何ものでもないと正しく認識するなら、その認識は、死すべきものであるこの生を楽しいものにしてくれる…」(加来訳、300頁=‘“Συνέθιζε δὲ ἐν τῷ νομίζειν μηθὲν πρὸς ἡμᾶς εἶναι τὸν θάνατον• ἐπεὶ πᾶν ἀγαθὸν καὶ κακὸν ἐν αἰσθήσει• στέρησις δέ ἐστιν αἰσθήσεως ὁ θάνατος. ὅθεν γνῶσις ὀρθὴ τοῦ μηθὲν εἶναι πρὸς ἡμᾶς τὸν θάνατον ἀπολαυστὸν ποιεῖ τὸ τῆς ζωῆς θνητόν,’; ibid., X, 124, p. 650)
同時に、
「平静な心境(ἀταραξία)とは、これらすべての動揺からすっかり解放されていることであり、そして、ものごとの全体にわたる最も重要な原則をたえず心に留めていることなのである。」(加来訳、366~67頁=‘ἡ δὲ ἀταραξία τὸ τούτων πάντων ἀπολελύσθαι καὶ συνεχῆ μνήμην ἔχειν τῶν ὅλων καὶ κυριωτάτων.’; ibid., X, 82, p. 610)
齢を重ねても、人は一向に賢くはならない見本のような老媼をみるにつけ、憐れを催す所以だ。
つまり本来、この見解は自分個人の見解であって、神戸大学とは関係ない主張されてからSNSで自分の見解を広められた岩田健太郎教授のように、西浦博教授も、自分独自の専門家としての主張をSNSやマスコミを通じて拡散するなら、この見解は、自分個人の見解であって、北海道大学、専門家会議とは関係ない、と主張すべきなのである。また、このブログの所有者、篠田英朗教授もPCR検査万能論者でないからこそ、西浦教授、渋谷健司医師、小林慶一郎氏を強烈に批判されている。その現実がわからず、私を批判するのは、筋違いである。篠田英朗教授も、感染症の専門家ではないし、反氏も同じである。要するに、反氏のされていることは、私への人格攻撃なのであって、ものごとの本質の論議ではない。齢を重ねても、人は一向に賢くはならない見本のような老媼をみるにつけ、憐れを催す所以だ、という言葉が、その事実を端的に表している。
とその論拠をあげているし、以前のコメントで、米ハーバード大学のレビツキー-、ジブラット教授のかかれた新潮社から出版された「民主主義の死に方」の本も紹介した。ハーバード大学で名誉博士号を授与されたメルケル首相のハーバード大学卒業生へのスピーチ、間接的に「反トランプ」を訴えたと日本でも紹介されたが、その中身は、自分の体験を踏まえ、民主政治を擁護するすばらしいものである。https://pomta.info/merkel-harvard-speech/ 要するに、ワイマール共和国あるいは昭和初期からの第二次世界大戦までの歴史を踏まえれば、保護主義やナショナリズムは国家社会主義、戦争に導き、平和で安定した国際社会を作り上げようと思えば、グローバリズム、国際協調しかないのである。その大切さが、日本国憲法に全文にも歌われているのに、東大系憲法学者がわざと無視している。ドイツ統一29周年のメルケル首相の記念式典でのスピーチでも趣旨は共通である。つまり、「プラトンの国家論」にルーツをもつカールシュミットの理論は、戦争を引き起こし、平和を維持できないのである。その為に、政治学者シュミットは、投獄された。日本では戦後その責任を取らされた学者が存在しないので、政治家が不道徳で、学者は公正中立である、というイメージが日本では広がったのではないのだろうか。トランプ大統領の理論は、カール・シュミットの理論に近いのである。丸山真男さんも同じであるが。
無学な老媼をそうした賢哲と比べるのも愚かだが、あえて比較すると、110⇒【反氏…私への人格攻撃…ものごとの本質の論議ではない。齢を重ねても、人は一向に賢くはならない見本のような老媼…という言葉が…事実を端的に表している】は、ただの泣き言、繰り言にしか聞こえない。
ところで、私は「政府解釈」氏ほど折り目正しく(ἀστείως)もないし、クォ・ヴァディス氏ほど奥床しく(ἥσυχως)もない。議論の内容に関しては情け容赦なく(ὠμῶς)、遠慮深く(αἰδοῖως)もない。思い遣り(συγγνώμη)もなく、謂わば殺伐非情(ἀπαραίτητος καὶ ἀγνώμων)だ。議論をするなら、その程度の覚悟(πίστις)と矜持(μεγαλοψυχία)をもつといい。
109⇒【101を読んで…反氏にはどう説明すれば自分とは別の見解がある、ということが理解してもらえるのか、わからない】のような無駄口を叩く(ἀδολεσχεῖν)前に、PCR検査について、それ自体の特性(遺伝子検査としての性格、精度の問題、それが含意する免疫学的意味、それを限定的〔抑制的〕または幅広く行った場合の利点と弊害など)について、すっきりと(καθαρῶς)整理された議論をすれば済む話だ。
感染初期に、実際に感染している被検者の30%が陰性と判定され、感染が見逃される「偽陰性」の問題はコロナ禍以前の共通の知見だ。それは多く当該被検者の初回の検査である事例だ。
しかし、陰性であっても、確定感染者との接触歴や渡航歴、臨床症状などから感染の疑いが否定できない場合、時機をみて再検査するか、費用も時間かかるPCR検査では効率が悪いから、スクリーニング検査として短縮化、効率化に役立つ抗原検査と組み合わせればよい。
抗原検査はPCR検査と違って感度は低いが、その分陽性と出れば信頼性が高いという特性を生かせばよい。
老媼が見過ごしているもう一つの問題は、PCR検査の偽陰性ではなく、実際に感染していない被検者は99%の確率で陰性となるが、1%は陽性と誤判定される可能性が残り、大量にPCR検査を実施した場合、例えば100万人対象だと1万人の「偽陽性者」が大量に出て隔離が必要になれば、その分だけ医療資源を圧迫する、という計算上の懸念だ。
検査対象を制限した厚労省の真の危惧はそこにある。偽陰性なら隔離対象にはならなくても感染拡大の懸念材料となるというのとは別の問題で、隔離する必要のない「仮象」の陽性者が混乱を増幅させる、というものだ。
しかし、それはSARSやMERS、新型インフルエンザなど登場で対策が急務となっていた新型感染症対策の拡充を結果的に軽視してきた日本政府が、「できない」(ἀδύνατος)理由を糊塗するために、「しない」(ἀπραξία)理由として、実態以上に口実(πρόφασις)として誇張してきた、PCR検査自体ではなく、政策的問題だ。
プロ野球開幕に際して各球団が取り組んでいるのは、巨人軍の例もあるようにPCR検査ではなくて、抗体検査だろう。まず、その点に錯覚がある。抗体検査は主に現在の感染というより、過去の感染の有無を調べる血液検査で、簡易キットによる定性検査なら数分で結果が出るし、他検査のように検体となる鼻咽頭拭い液または喀痰を採取する際に検査者が飛沫を浴びて感染する恐れもない。
感度は高いものの精度に問題があり、偽陽性が出る。その場合、陽性者を改めて精密検査(定量検査)するか、PCR検査すればよい。また、IgG抗体が陽性でも、感染初期に作られるIgM抗体価が一定水準(10AU/ml)未満なら、2週間以内の症状がなければ、既感染と推定できるとされ、他に感染させる恐れがないと判定できるわけで、抗体検査は「安全証明」に活用できる。
一方、遺伝子検査であるPCR検査は感染の元であるウイルスを直接調べるという意味で、感染の有無を判定するには向いているが、それをもって直ちに陰性と証明する手段ではない点に限っては老媼の指摘は間違いではないが(治癒判定にも限界があることが指摘されている)、主眼はむしろ陽性者の速やかな治療や隔離に役立てることにある。
ことほど左様に、老媼の議論はPCR検査、抗原検査、抗体検査をそれぞれ混同したうえに、PCR検査の特性と制約を正確に認識しえず、過大に(μᾶλλον)期待し、過小に(ἧσσον)評価することに外ならず、内容的にも論理的にも、箸にも棒にもかからない暴論で、「洗脳」云々以前の議論だ。
老媼の民主制観も同様で、無知と政治的幼稚さ、偏向が際立っており、検討に値しない。
そこで、老媼の初等教育レベルの陳腐な民主制観ではなく、もっと古典的な代表的見解を求めれば、ペリクレスがぺロポネソス戦争の開戦第一年の冬(BC431~30)、最初の国葬の際に行った葬送演説がある。
「即ち、われわれの採用している国制(πολιτεία=政体)は、近隣諸国の法制を有難がって、それの真似をしたものではない。他の真似をするよりも、自らを他の規範たらしめている。国政は少数者の意向によるものではなくて、かえって多数者のそれ従って行われるがゆえに、民衆政(民主制)と呼ばれている。しかし、個人的利害の衝突に関しては、何人も法の前に平等であり、各人が何らかの栄誉を得る場合の評価に関しては、家柄その他が個人の実力よりも公に優先させられるようなことはない(「つまり各人の得る声望に基づき、それに従って階級によらず、能力本位に公職者を選出する」=筆者補注)。そして国家に何らかの寄与をなしうる者あらば、その貧しきがゆえに名もなく朽ちることはない。
この公共生活における自由は、日常生活における個人相互の関係の気遣いにも及ぼされ、隣人がなにか放逸に流れても、これに怒って、実際に危害を加えないまでも見ていて不快を催すような嫌がらせをすることもない。しかし個人的つき合いで、相互に不愉快にさせないようにしているからといって、そのために公の法律を破るようなことはしない。
第一に畏れ慎む心があるからだ。われわれはいつもその役目にある人の指図に耳を傾け、法と習慣に従うのである。なかんずく特に虐げられし者を守る法律と、それを破る者には一般に恥を教える不文律とを特に重んじるのである。」(『歴史』、第2巻、37章)
‘Χρώμεθα γὰρ πολιτείᾳ οὐ ζηλούσῃ τοὺς τῶν πέλας νόμους, παράδειγμα δὲ μᾶλλον αὐτοὶ ὄντες τισὶν ἢ μιμούμενοι ἑτέρους. καὶ ὄνομα μὲν διὰ τὸ μὴ ἐς ὀλίγους ἀλλ᾽ ἐς πλείονας οἰκεῖν δημοκρατία κέκληται· μέτεστι δὲ κατὰ μὲν τοὺς νόμους πρὸς τὰ ἴδια διάφορα πᾶσι τὸ ἴσον, κατὰ δὲ τὴν ἀξίωσιν, ὡς ἕκαστος ἔν τῳ εὐδοκιμεῖ, οὐκ ἀπὸ μέρους τὸ πλέον ἐς τὰ κοινὰ ἢ ἀπ᾽ ἀρετῆς προτιμᾶται, οὐδ᾽ αὖ κατὰ πενίαν, ἔχων γέ τι ἀγαθὸν δρᾶσαι τὴν πόλιν, ἀξιώματος ἀφανείᾳ κεκώλυται.
ἐλευθέρως δὲ τά τε πρὸς τὸ κοινὸν πολιτεύομεν καὶ ἐς τὴν πρὸς ἀλλήλους τῶν καθ᾽ ἡμέραν ἐπιτηδευμάτων ὑποψίαν, οὐ δι᾽ ὀργῆς τὸν πέλας, εἰ καθ᾽ ἡδονήν τι δρᾷ, ἔχοντες, οὐδὲ ἀζημίους μέν, λυπηρὰς δὲ τῇ ὄψει ἀχθηδόνας προστιθέμενοι.
ἀνεπαχθῶς δὲ τὰ ἴδια προσομιλοῦντες τὰ δημόσια διὰ δέος μάλιστα οὐ παρανομοῦμεν, τῶν τε αἰεὶ ἐν ἀρχῇ ὄντων ἀκροάσει καὶ τῶν νόμων, καὶ μάλιστα αὐτῶν ὅσοι τε ἐπ᾽ ὠφελίᾳ τῶν ἀδικουμένων κεῖνται καὶ ὅσοι ἄγραφοι ὄντες αἰσχύνην ὁμολογουμένην φέρουσιν.’(“Ἱστορίαι”, Β. 37)
そこに言う公共的な自由(ἐλευθερία πρὸς τὸ κοινὸν)とは、多数決原理に基づく民主制と、所謂「法の下における平等」(ὁ νόμους πρὸς τὸ ἴσον)、市民である者はその才能に応じて役職に就くという三つの側面を指す。言い換えれば、民主制は公共的自由の一部というのが、民主制の祖国である古代アテーナイの民主制観ということだ。
それは、直ちに各自が好き勝手にするという放恣さを意味しないけれども、民主制がそうした個人的な自由を間接的に許容する制度だと言える。
独裁制は民主制の病的形態で、プラトンの議論は民主制は独裁者を生み育て、独裁者を権力の座に就かせるのに最も抵抗の少ない政治制度だというものだ。『国家』で展開されたこの議論が、ファシズムの登場と符合したことでactualityをもって受け止められ、プラトンが民主制に厳しい見方をしたことで一部で全体主義者と批判され論争となったが、トランプ米国大統領とヒトラーを同一次元で比較する議論を裏付けるものではない。
極端な自由、つまり 「というのも、過度の自由(ἡ ἄγαν ἐλευθερία)の変化してしてゆく先には、個人においても国家においても過度の隷属(ἄγαν δουλεία)以外に途はないように、私には思われる」(‘ἡ γὰρ ἄγαν ἐλευθερία ἔοικεν οὐκ εἰς ἄλλο τι ἢ εἰς ἄγαν δουλείαν μεταβάλλειν καὶ ἰδιώτῃ καὶ πόλει.’; Res publica, 564A)という認識を詳細に展開したものだ。C. シュミットもH. ケルゼンもその一面しかみていない。
民主制は矛盾を含んだ制度だ。現代民主制のチャンピオンである米国は民族の坩堝の人工国家だから混乱もみられるが、元々感傷的(μαλακός)でない古代ギリシア人や経験主義的な知恵に富む英国人が制度的に発達させたように、ドイツ(人)の失敗と悲劇は、その政治的未熟さを裏付けている。[完]
116の第一段落について、論旨自体に変更はないが、続く段落で当方の不注意から、⇒「開幕に際して各球団が取り組んでいるのは…PCR検査ではなくて、抗体検査だろう」とした点について一部事実誤認があり、老媼が109で、日本野球機構が8日のオンラインでの代表者会議で、全球団の選手、スタッフらのPCR検査を開幕前に1回、以後も定期的に実施していくことに決めた、とした指摘自体を否定するものではないことを付言し、お詫びする。
なお、今回のPCR検査は、今月2日に保険適用になった唾液によるもので、適用に際して対象としたのが発症後9日以内という制限があるから議論の余地があるかもしれない。
☆余白に プラトンの民主制から独裁制(τυραννίς=正確には「僭主制」)への移行について、『国家』に次のような記述がある。
「まことに何らかの過度というものはその反動としてそれの正反対への変化を生みがちであるが、これは季節においても植物においても身体においても、広くみられることであって、国家体制においてもいささかの例外もない。」(‘καὶ τῷ ὄντι τὸ ἄγαν τι ποιεῖν μεγάλην φιλεῖ εἰς τοὐναντίον μεταβολὴν ἀνταποδιδόναι, ἐν ὥραις τε καὶ ἐν φυτοῖς καὶ ἐν σώμασιν, καὶ δὴ καὶ ἐν πολιτείαις οὐχ ἥκιστα.’; Res publica, 563E~564A)
「寡頭制のなかに生じて、これを滅ぼしたのと同じ病いが、ちょうどまたこの民主制のうちに生じて、何でもしたいことができるという自由(自由放任=ἐξουσία)のお蔭で、より多くより強力になり、民主制を倒して奴隷とすることになる。」(ταὐτόν, …ὅπερ ἐν τῇ ὀλιγαρχίᾳ νόσημα ἐγγενόμενον ἀπώλεσεν αὐτήν, τοῦτο καὶ ἐν ταύτῃ πλέον τε καὶ ἰσχυρότερον ἐκ τῆς ἐξουσίας ἐγγενόμενον καταδουλοῦται δημοκρατίαν.’; ibid., 563E)
そして、同じくコメント3で紹介したように、ドイツ政府の司令塔、ドロステン医師が、日本の専門家会議の対策を評価されている、ということを日経新聞の石川特派員がベルリンから報告している。、もともとドイツは、多くの検査で新型コロナを封じ込めた韓国を対策の参考にしてきて、日本の対策は分かりにくいとの声が強かったが、英語での情報発信が最近増え始めたこともあり、注目が高まりつつある、と報道されているのである。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59793200Q0A530C2EAF000/
そして、篠田英朗教授がこのブログ、5月29日「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」において、shinodahideaki.blog.jp/archives/35271686.html 述べられているように、「新規感染の『感染時期』のピークについては、4 月 1 日頃であったと考えられており、4 月 1 日頃までには実効再生産数が 1 を下回ったことが確認されている」(15頁)、つまり、「ピーク」が緊急事態宣言発出前に過ぎていたことが公式見解として確立され、「緊急事態宣言」は医療崩壊を防ぐためであった、ということが明らかになっている。
座長・副座長が、「とにかく『状況分析・提言』を読んでほしい」とどんなに訴えても、なお「専門家会議として議事録を出すように政府に訴えないのか」といったことだけを言い続ける記者たちがいたそうであるが、要するに反氏タイプ、政府の「説明責任」という言葉を使うが、政府の説明を理解する気はまるでなくて、反論の種を探す。そして、岡田博士のような、小池知事のような人をアイドルにしたてあげる人が多いから、歪な「世論」ができるのである。これでは、まともな「世論」も育たないし、建設的なジャーナリズムの役割が果たせない、のではないのだろうか。
121⇒【反氏の主張を読んで、どうして、この簡単な論理的説明を、あえて難しく、わかりにくくして反論されるのか、と思う。反氏のような論理構成をしたら、絶対に数学の問題は解けない…】云々以下の珍妙な言明(λόγος προφορικός)がある。
言明の論理的な内容、つまり命題(ἀπόφανσις)として分析すると、①老媼=カロリーネはPCR検査について簡単な論理的説明をしているのに理解されない②それと異なる論理構成は(単なる論述だろうが=筆者註)、数学の問題の解法を阻害する。数学の解法のかぎは公式の適用③数学の解答法と政治、行政の課題解決の手法は似ている(類比的)④国家公務員試験の科目にも数学と一般常識問題がある――だろう。
一見して明らかなように、最初の前提命題(πρότασις)、つまり前件(ἡνούμενον)①から、結論(συμπέρασμα)とする帰結ἑπόμενον②は、論理的な推論(συλλογισμός)の結果としては出てこない。つまり、論理的には偽(ψεῦδος)ということになる。
②を論理的な推論の結果、導き出すためには、①が数学の解法またはそれと同等の事柄を論じていることが前提になるが、PCR検査ついて、「簡単」ではなく単に一面的に、「論理的説明」ではなく、精度に関する特性の一部を恣意的に論じているにすぎないから(説明ではなく評価)、論証の体をなしていない。しかも、PCR検査の活用法の適否については、その是非を論じる数学の公式に相当するものが、存在しない。
③は論証されない事柄を論じ、④は③の補足説明にすぎないから、何ら命題の説明材料になっていない。
従って、121の議論は破綻している。
数学の基礎を論理学の法則から再構成する試みが数学基礎論だ。その見解には数学(算術)を論理学の一部と見る論理主義(logicism)、数学的な真理や対象が、数学を考える精神と別個に独立して存在するわけではなく、精神活動によって直接とらえられるとする直観主義(intuitionalism)、数学を公理系によって規定される演繹的な体系、つまり公理系の無矛盾性にかかわるとみる形式主義(formalism)があり、数学的な概念構成、論法については未解決の問題が数多く存在する。
一般には形式主義に基づく公理主義的アプローチが主流で、公理論的集合論が論理学と重なる面は多い。例えば、アリストテレス由来の名辞論理学(述語論理学)もストア派や中世スコラ哲学由来の命題論理学も、数学でいう半順序集合の一種である束の一種ブール束であるように。
この点で、論理主義の想定にもかかわらず、論理学が集合論の特殊領域で、その意味で算術が集合論に還元可能で、算術は集合論によって基礎づけられることになる。
しかし、それはいくつかの集合を、そして(and)、または(or)などの論理学用語で組み立てる理論で、しかも数学とは異なり、人間がふだん使う自然言語=日常言語を扱うのが、数学でいう「構造」(stracture=順序集合、群、環、線形空間、位相空間、多様体など数学的な対象に対して集合と関係の用語を用いて統一的な定式化を与える)に基づいて言語法則の構造を扱う論理学に外ならない。
課題は、論理的内容を正しく形式化することで、そこに日常言語を対象にせざるを得ない論理学の、数学とは異なる難しさがある。
直接関係はないが、数理モデル解析にしろ、その課題は、感染症の流行という事象を如何に実態に即して形式化するということで、数理解析自体に欠陥があるわけではない。
PCR検査の場合、検査自体の特性と役割、限界という遺伝子検査に伴う固有の問題と、感染症指定病床数の不足や人員不足など、日本のような新型感染症への備えが脆弱な国家で大量の検査を実施した場合の混乱や弊害、有効な抑止対策を一緒くたにしてきちんと分けて論じないから、簡単ではなく一面的で、論理的な説明にもならない。
押谷仁氏の指摘は、クラスター対策との関連で、限定的に妥当性を有するにすぎない。でなければ、専門家会議の「状況分析・提言」と矛盾する。
それ以外の分野でも、老媼の論理的混乱は枚挙に暇がない。例えば、篠田さんの憲法解釈の中核的概念である、日本国憲法のドイツ国法学(die deutsche Staatsrechtslehre)に基づく解釈でも、老媼はそれをドイツ国法(die deutsche Staatsrecht)と混同し、西独が戦後NATOの集団安全保障に参画したから、ドイツ国法学的解釈の不当性は当たらないという、全く異次元の誤読に陥る。
それは、制定過程からして英米法と国際法の文脈で理解、解釈されるべき憲法を、組織行政法的な帝国憲法と同様のドイツ国法学的概念で解釈する主流派憲法学者を批判しているわけで、戦後のドイツの憲法解や国防政策釈とは何の関係もない。
篠田さんは、「統治権」(Herrschaftsrechte)のような、現憲法には出てこない概念で憲法解釈をする憲法学者の手法を一貫して批判しているわけで、そうした趣旨を一向に理解できず、あろうことか統帥権(Kommandogewalt)と混同して愚劣な議論をすることしかできないのが老媼に外ならない。
老媼をして愚劣な議論に向かわせる動機は、ドイツについて、何か否定的なことを指摘されると何も考えず闇雲に反撥する我執、つまり病いだろう。[完]
参考までに、論理(学)音痴の老媼のために、ストア派の命題論理学の妥当な推論の五つの形式(θέματα)を紹介する。命題間の含意関係を明確に意識していた点で、現代論理学の観点からも高く評価される業績で、クリュシッポスの創案とされる。
それは、①条件命題とその前件から、後件を導き出す推論(p⊃q/p//q)②条件命題とその後件の矛盾命題から、前件の矛盾命題を導き出す推論(p⊃q/~q//~p)③連言命題の否定と一方の連言肢から、他方の連言肢の矛盾命題を導き出す推論(~ (p∧q) /p //~q)④選言命題とその一方の連言肢から、他方の連言肢の矛盾命題を導き出す推論(p∨q/p//~q)⑤選言命題とその一方の連言肢の矛盾命題から、他方の連言肢を導き出す推論(p∨q/~q // p)――である。
「なおまた、論証を必要としないがゆえに、論証的でない推論もいくつかある。それらの推論は人によって異なるものが挙げられているが、クリュシッポスによれば五種類あり、これらによってすべてのすべての推論が組み立てられるとしている。つまり、これらの五種類の推論が、(真なる)結論に達する(有効な)推論(περαντικός λόγος)の場合も、三段論法による推論(συλλογισμός)の場合にも、さらにはいくつかの推論型(τρόπικῶν)の場合にも用いられるとしている。」
‘εἰσὶ δὲ καὶ ἀναπόδεικτοί τινες, τῷ μὴ χρῄζειν ἀποδείξεως, ἄλλοι μὲν παρ’ ἄλλοις, παρὰ δὲ τῷ Χρυσίππῳ πέντε, δι’ ὧν πᾶς λόγος πλέκεται• οἵτινες λαμβάνονται ἐπὶ τῶν περαντικῶν καὶ ἐπὶ τῶν συλλογισμῶν καὶ ἐπὶ τῶν τρό[πων συλλογισμτ]ικῶν.’(Diogenis Laertii; Vitae philosophorum, VII, 1, 79, with an E. tra. by R. D. Hicks, p. 186~88)
「論証的でない第一の推論は、(仮定・結論の関係による)一個の条件命題(大前提)と、その条件命題のはじめの部分である前件(小前提)とからなり、その(条件命題の)後件が導き出される、という仕方で推論全体が構成されているものである。例えば、『もし第一であるなら第二である。しかるに第一である。ゆえに第二である』がこれに相当する。
論証的でない第二推論は、一個の条件命題(大前提)と、後件の矛盾対立する命題(小前提)とから、前件に矛盾対立する命題を結論(συμπέρασμα)とする推論であり、例えば、『もし昼であれば光がある。しかるに光がない。ゆえに昼ではない』がこれに相当する。すなわち、この場合は、付加条件(小前提)が、後件に矛盾する命題からなり、結論(ἐπιφορὰ)は前件に矛盾対立する言明から成り立っているのである。」
‘πρῶτος δέ ἐστιν ἀναπόδεικτος ἐν ᾧ πᾶς λόγος συντάσσεται ἐκ συνημμένου καὶ τοῦ ἡγουμένου, ἀφ’ οὗ ἄρχεται τὸ συνημμένον καὶ τὸ λῆγον ἐπιφέρει, οἷον “εἰ τὸ πρῶτον, τὸ δεύτερον• ἀλλὰ μὴν τὸ πρῶτον• τὸ ἄρα δεύτερον.” δεύτερος δ’ ἐστὶν ἀναπόδεικτος ὁ διὰ συνημμένου καὶ τοῦ ἀντικειμένου τοῦ λήγοντος τὸ ἀντικείμενον τοῦ ἡγουμένου ἔχων συμπέρασμα, οἷον “εἰ ἡμέρα ἐστί, φῶς ἐστιν• ἀλλὰ μὴν φῶς οὐκ ἔστιν• οὐκ ἄρα ἡμέρα ἐστίν.” ἡ γὰρ πρόσληψις γίνεται ἐκ τοῦ ἀντικειμένου τῷ λήγοντι καὶ ἡ ἐπιφορὰ ἐκ τοῦ ἀντικειμένου τῷ ἡγουμένῳ.(ibid., VII, 1, 80, p. 188)
論証的でない第四の推論は、一つの選言命題(大前提)と、その選言命題のなかの一方の連言肢(小前提)とからなり、残りのもう一方の連言肢に矛盾対立する命題を結論(συμπέρασμα)とする推論であり、例えば、『第一であるか、あるいは第二であるかのいずれかである。しかるに第一である。ゆえに第二ではない』がこれに該当する。」
‘τρίτος δέ ἐστιν ἀναπόδεικτος ὁ δι’ ἀποφατικῆς συμπλοκῆς καὶ ἑνὸς τῶν ἐν τῇ συμπλοκῇ ἐπιφέρων τὸ ἀντικείμενον τοῦ λοιποῦ, οἷον “οὐχὶ τέθνηκε Πλάτων καὶ ζῇ Πλάτων• ἀλλὰ μὴν τέθνηκε Πλάτων• οὐκ ἄρα ζῇ Πλάτων.”
τέταρτος δέ ἐστιν ἀναπόδεικτος ὁ διὰ διεζευγμένου καὶ ἑνὸς τῶν ἐν τῷ διεζευγμένῳ τὸ ἀντικείμενον τοῦ λοιποῦ ἔχων συμπέρασμα, οἷον “ἤτοι τὸ πρῶτον ἢ τὸ δεύτερον• ἀλλὰ μὴν τὸ πρῶτον• οὐκ ἄρα τὸ δεύτερον.”’(op. cit., p. 188)
第四の推論は、所謂「排他的選言」で、現代の命題論理学では連言肢が両立可能(pあるいはq、あるいは両方)だが、ストア派は両立不能(pあるいはqのいずれか)である。
ストア派の考えでは、世界はすべて、連言命題(συμπεπλεγμένον)、選言命題(διεζευγμένον)、条件命題(συνημμένον)の組み合わせできている。
‘πέμπτος δέ ἐστιν ἀναπόδεικτος ἐν ᾧ πᾶς λόγος συντάσσεται ἐκ διεζευγμένου καὶ ἑνὸς τῶν ἐν τῷ διεζευγμένῳ ἀντικειμένων καὶ ἐπιφέρει τὸ λοιπόν, οἷον “ἤτοι ἡμέρα ἐστὶν ἢ νύξ ἐστιν• οὐχὶ δὲ νύξ ἐστιν• ἡμέρα ἄρα ἐστίν.”’(op. cit., p. 188)
なお、連言命題は、いくつかの連続的な接続詞(συνδέσμος)、「~も~また~も」(καὶ…καὶ…)によってつなぎ合わされるもので、『昼でもあるし、また光もある』(καὶ ἡμέρα ἐστὶ καὶ φῶς ἐστιν)、選言命題は、「あるいは」(ἤτοι …ἢ…)という離接的な接続詞によって(両命題が)引き離されているもので、『昼であるか、あるいは夜であるかである』(ἤτοι ἡμέρα ἐστὶν ἢ νύξ ἐστιν)、条件命題は、「もしも~なら」(εἰ)という結合(仮定)を示す接続詞によって両命題が結びつけられているもので、『もし昼であるなら、光がある』(εἰ ἡμέρα ἐστί, φῶς ἐστι)のこと。
以上がクリュシッポスに帰せられるが、その後ストア派は、理由・帰結命題(παρασυνημμένον)=「~(である)から、~(な)ので」(ἐπεί)、原因・結果命題(αἰτιῶδες)=「~(である)がゆえに」(διότι)、「より多く」(μᾶλλον)を示す命題(διασαφοῦν τὸ μᾶλλον)と「より少なく」(ἧττον)を示す命題(διασαφοῦν τὸ ἧττον)の二つの比較命題を付け加えた。[完]
https://mathsoc.jp/publication/tushin/1001/miwa.pdf)。
昭和40年夏 東京都文京区、高校時代
横地清先生という有名な数学の先生がいました。「横地清名言集」よりいくつか紹介します。
ゼロで割ることは恐ろしいことである。あたかも、無人踏み切りを渡るようなものだ。
阿呆杖はつくな、剣山を置いとけ。
これを、ねこの定理という。
ねこの定理とは「3角形の2辺の和は他の1辺より長い」のこと。ニワトリは金網に突っ掛かってエサにありつけないが、ねこはまわりこんで食べるという横地先生の鋭い観察に基づく。転じて、まともに計算せず、うまくやることをいう。
横地先生の授業では問題演習が最も重要でした。問題演習に用意するもの:模造紙、マジックインク、セロテープ(画鋲はだめ)。休み時間のうちに教室中に解答の書かれた模造紙が貼りめぐらされます。授業が始まると、先生は模造紙の前にどっかと座ってよしとかペケとか物凄いスピードでさばいていきました。夏休みの宿題はプラトンの「国家」を読んで感想文をかくこと。400字づめ原稿用紙20枚ピシャリというものでした。
プラトン「国家」より(「数学読本」からの引用)
数学を学ぶことによって、各人の魂の器官のひとつが浄化され、生命の火を点じられることになるという、この点なのです。その器官は、人が他のことに気をとられているうちに破壊され、盲目にされてしまいます。そして、これを健全にすることは、何よりも大切なのです。なぜなら、魂のこの器官によってのみ、真実が見られるからです。
ああ、こんな恐ろしいことが書いてあったんだ, と横地先生の偉さを再認識しました。高校生当時から、本は読まずに感想文を書く能力は持っていたようです。
[引用終わり]
私事ではありますし、篠田さんの本エントリとは何の関係もなく、読者各位には申し訳ありませんが、すでに遥か彼方まで枝葉生い茂ったコメ欄の実態に甘えて、一部を紹介させていただきました。お許しください、みなさん。
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