「感染者 1日10人の入国で3か月後に大規模流行” 専門家」という記事が、少し前にあった。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200602/k10012455371000.html 特に大きな波風も立てずにやり過ごされてしまったのだが、この記事で相変わらず「日本のミスター専門家」という位置づけになっていたのが、西浦博・北海道大学教授であった。
最も国民を脅かした者が、最もコロナ対策に貢献した者だ、という信念を持つ人々の間では、西浦教授はカリスマ教祖のように扱われている。しかし、「42万人死ぬ!」の効果は、続けては使えない。オオカミ少年のように扱われてしまうからだ。
無論、国境を越えた人の移動の回復にリスクが伴うことは当然であり、相当な準備を施しておくことが必要である。私自身も繰り返してそのことを書いてきている。http://agora-web.jp/archives/2046078.html
しかしそれにしても西浦教授の「入国」問題に関する「予言」は、意味がよくわからないものだった。その理由を三つ挙げてみよう。
第一に、「大規模流行が起こる」というのが殺し文句になっているのだが、何をもって「大規模流行」とするのかが、まったく説明されていない。「42万人死ぬ!」のときに数字を使って脅かして、後で議論になったという経験を踏まえて、「大規模流行が起こる!」という抽象的な言い方だけにとどめる作戦のようだ。だがそれは、科学者らしからぬ態度ではないだろうか。
西浦教授は、5月15日、小池都知事とともに東京都の動画に出演し、緊急事態宣言が解除されて元の生活に戻ったら、その2週間後から感染者数が激増し始め、一日200人の新規感染者数を超え、さらに指数関数的に激増し続けると、断言口調で、予言した。http://agora-web.jp/archives/2046174.html この「西浦モデル2.0」の「予言」は、6月も中旬になってきた今、現実によって検証されなければならない。西浦教授の「予言」によれば、人と人との接触の2~3割減くらいでは、結果はほとんど変わらない。この人と人との接触の削減は、かつての西浦教授の専門家会議記者会見での熱弁によれば、渋谷駅と難波駅の人の移動のデータによって測定される。6月になってからの駅での人の移動はせいぜい平時の2~3割減程度のレベルにまで戻ってきているので、全東京都都民に「さらにいっそう人と人との接触を減らしてください!」のアピールの根拠となった「西浦モデル2.0」の「予言」は、6月も中旬になってきた今、現実によって検証されなければならない。
もっとも実は西浦教授は非常に意地悪な方で、あるいは舌足らずな方であるかもしれない。「西浦モデル2.0」の中に、誰も言っていなかった「海外からの入国の全面的な回復」といった意味を勝手に含みこませていたのだという可能性もあるのかもしれない。そうすると、「西浦モデル2.0」の解釈の幅は大きく変わってくる。5月15日の動画の目的は、今一度東京都民を震え上がらせて家から出れないようにすることだったので、わざとそのことにはふれなかった、という事情があったのかもしれない。
しかしもしそうだとすれば、一日10人の感染者の入国措置による「大規模流行」とは、せいぜい3月末に見た新規感染者数の増加が再び見られるようになる、というだけの話で、つまり感染者の入国者を止める前の状態に戻すと、感染者の入国者を止める前の状態に戻る、という恐ろしく平凡な話であっただけに終わってしまう。
いずれにせよ科学者であれば、「大規模流行が起こる」、といった抽象的で中身が全く不明瞭な言葉を使って、マスコミの露出度を高めることだけを狙った行動をとるのは、控えるべきだ。
第二に、西浦教授は、相変わらず自分の計算式の条件を全く語らない。たとえば入国想定する10人の感染者が、入国後にどのような行動をとるか、どれくらいの期間日本に滞在するか、どれくらいの感染率がある地域から入ってくるか、等によって、試算結果が変わるはずであるのは、言うまでもない。何をもって平均値の根拠とするかによって、試算結果は全く異なるものになる。その根拠の妥当性を議論するのが、科学というものだろう。ところが西浦教授は、常に一貫して、計算根拠を明らかにしない。
かつて西浦教授は、記者会見の場で、データ開示を求めるメディアに対して、忙しいのでできない、と答えたこともあった。SNSを通じた自らの主張の発信に熱を入れながら、そう答えていたことがあった。
通常は、将来の予測モデルは、妥当と言える変数の範囲を定めて、現実的に予測される範囲で最悪の場合に・・・、といった言い方で、結果を示すものだ。しかし、西浦教授は、あたかも世界の真理を知っているかのように、常に断言調で、ただ一つの結果の可能性だけを告げる。
西浦教授が付け加えるのは、「1億2千5百万人の国民の生活の全てにおける人と人の接触の8割の削減」といった絶対に測定不可能な抽象理念だけであり、その抽象理念に付属する数字だけである。「入国感染者10人の場合」というのも実は同じで、決まりきった行動しかしない「ミスター感染者」といったロボットが次々と入国してくるわけではない現実からすれば、極度に抽象化された話である。
「42万人死ぬ!」の時には、4月15日の感染者増加率が明らかに鈍化していた時期になってもなお基本再生産数2.5という現実から乖離した条件に固執していたため、議論を呼んだ。そこで最近では基本再生産数を下方修正して計算しているようだが、「ミスター専門家」西浦教授がその時々の気分や決断で判断した計算式が、絶対に正しいなどという保証は、もちろんどこにもない。科学者として真摯に行動するのであれば、自らの計算の根拠やデータを、すべて公に明らかにして、公平な精査を仰ぐべきではないか。
ちなみに基本再生産数2.5は欧州において記録されたことがあるというが、欧州の被害が世界的に見て高すぎるのである。数多くの日本の科学者は、「欧米が世界の中心です」、という価値観に染まっており、せいぜい「アジアに日本以外にも国があることは知っています」程度の世界観で生きている。しかし、西浦教授が研究滞在したイギリスのインペリアル・カレッジの有名教授でも、見込み違いの見解で批判されいるのが現実だ。「世界の中心は欧米だ、俺は世界の中心を知っている」という態度ではなく、目の前の現実を真摯に見据えて、自分の見解の根拠を常に公にさらしていく態度が、研究者としてのあるべき姿ではないだろうか。http://agora-web.jp/archives/2046302.html
第三に、西浦教授は、いつも根拠不明な踏み込んだ主張をしすぎる。入国感染者による「大規模感染」の件でも、「多数の感染者が入国すると検疫で食い止めるのは限界があるので、入国者そのものを制限する必要がある」と主張している。だが、検疫体制がどうなるかは、まだ将来にわたって整備される話であり、そもそも感染症数理モデルによって証明できる話ではない。それにもかかわらず、西浦教授は、単なる個人的な憶測だけを振り回して、断定的な結論を正当化するだけでなく、他人の糾弾までするのである。
西浦教授は、「制限の緩和については政府が判断をしているが、感染リスクをどこまで踏まえているのか、透明性をもって明確に語られていない状態だ」と語り、「検疫や入国制限は省庁の管轄がそれぞれ異なり、縦割りの状態にある。政府が一体となって、感染者が入国するリスクを分析し、制限を掛けたり緩和したりする仕組みを急いで作らなければならない」とも述べる。https://blog.goo.ne.jp/jp280/e/a9edc9edd8117c8cfce624942338ce16
しかし不透明なのは、西浦教授のこうした断定的な発言の根拠のほうだ。政府はまだ入国について何も目立った判断をしていない。ただ西浦教授が「大規模感染起こる!」と脅かしているだけの状態である。それなのになぜ西浦教授ではなく、政府のほうが、「制限の緩和については政府が判断をしているが、透明性をもって明確に語られていない状態だ」などと言われなければならないのか。西浦教授は、政府批判に熱を入れる前に、まず科学者として真摯な態度で、自らの「制限の緩和モデル」の判断の根拠を、公の議論にさらしていくべきだ。
SNSでは、西浦教授が、クラスター対策班に入ってからの報酬の辞退を希望したということが、英雄的な美談として扱われている。https://twitter.com/ShinodaHideaki/status/1271295772412112896 西浦教授としては、妻の柏木知子氏が小樽検疫所勤務の厚労省医系技官であり、その上司の石川直子厚労省医系技官が専門家会議副座長を務める尾身茂氏が理事長を務める地域医療機能推進機構の理事であり、その人的関係が「厚労科研」の流れに関する議論の対象になったりすることもあるため、自重したという背景もあるのかもしれない。https://www.fsight.jp/articles/-/46916
だが西浦教授が、毎日厚労省に通勤してデータを独占していたにもかかわらず、しかし「独立性」を主張して、正規のメンバーではない専門家会議の記者会見に現れて座長の発言と一致しない内容を断定的に述べたり、「クーデター」を起こして「42万人死ぬ!」を一斉にマスコミに流したり、政府の方針に真っ向から挑戦して「感染者ゼロ」を目指す国民運動を厚労省の中から主導していた事態は、果たして「報酬をもらわなかった」ということによって、全て綺麗さっぱりと清算される事柄なのか。
独立した研究がしたいなら、大学で研究に専念し、一人の在野の研究者として発言をすればいい。
報酬さえもらわなければ、厚労省内部にべったりくっつきながら、その一方で一切責任をとることもなく国民を脅かす発言をし続けてもいいのか。それが真摯な研究者のあるべき理想の姿なのか。あらためて疑問が残る。
コメント
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主張自体に特段の新味はない。西浦モデル2.0の検証を再び始める意図とも思えないが、所詮はモデル自体を論じる科学的な議論とは異なる、数理モデル解析を実質的に主導している人間の性向をめぐる外野からの観測だから、限界を承知で贅言を並べているのだろう。
批判対象である西浦博氏が今回の試算結果を裏付けるデータ評価やパラメータ推定の根拠を示していないから、この分野の専門家でも何でもない篠田さんはお手上げである。それが、西浦氏の意地の悪さやコミュニケーション能力の不足に由来するのか否かは、目下のところ判断しようがないから、篠田さんの反撥も分からないわけではないが、「オオカミ少年」云々という判で押したような陳腐な批判は、感心しない。
入国制限解除について、政府は感染が収束または低水準で落ち着いている四カ国を対象に一部実施に踏み切るための検討に着手したとは伝えられており、専門家会議・クラスター班の一員として何らかの情報に接しているかもしれない西浦氏が、菅義偉官房長官が「政府とは無関係」と論じたように、個人の裁量で発信したのかもしれない。世論の動向を探る観測気球でもなさそうだ。
それはともかく、⇒【正規のメンバーではない専門家会議の記者会見に現れて座長の発言と一致しない内容を断定的に述べ】というが、会見への出席要請はたぶん専門家会議自体の意向だろうし、⇒【単なる個人的な憶測だけを振り回して】と言っても、専門家会議は見解統一を最優先する機関でもなかろう。
西浦氏が報酬の辞退を仄めかしている点について、⇒【妻…が…厚労省医系技官であり、その上司の…人的関係が「厚労科研」の流れに関する議論の対象に】というのも、渋谷健司氏に関するゴシップ論議と同じく議論の趣旨とは関係ない事柄にも妙に熱心で、「だから何なの」と思う。
また、西浦博教授の数理モデルは、問題が多すぎるのである。安倍政権を打倒したいマスコミや、野党や、小池知事の意向に沿ったものかもしれないが、ドイツの基本再生産数は2.5であるが、それは、なにもしなかったときの数字で、日本の場合は、たしかにPCR検査の実数は少なかったが、クラスター対策、CTなどを併用した多角的、総合的な判断で感染の疑いのある人を隔離する、という特措法を使った感染者対策、をしていて、そのやり方が、ドイツのドロステン医師に評価されている、つまり、西浦教授の42万人という数字は、どこから導きだされ、どうして、現実には922人しか亡くなっていないのか、の説明がいるのではないのだろうか。また、外国からの感染している可能性のある人々の来日に対しても、その人の行動、三密の場所に行く、マスクをする、などによって、状況が変わるし、感染者の感染力が一番強いのは、発症前、48-24時間なのだから、来日する人に2週間、隔離施設にいていただけば、感染のリスクはずいぶん下がるのではないのだろうか。反氏にも言えることであるが、難しい言葉や数式を使って、人を煙に巻くのをいい加減にしてほしい。
2②⇒【日本のマスコミは…お涙頂戴の記事ばかり】――自らを省みて他を語るのが歳相応の分別というものだろうが、それも弁えず、「世には莫迦たるべく定められた人がいて、彼ら自身が進んで莫迦なことをするだけでなく、運命そのものが否応なしに彼らに莫迦なことをさせるのである。」(‘Il y a des gens destinés à être sots, qui ne font pas seulement des sottises par leur choix, mais que la fortune même contraint d’en faire.’=ibid., 309)
2③⇒【反氏にも言えることであるが、難しい言葉や数式を使って、人を煙に巻くのをいい加減にしてほしい】にしても、相変わらず論旨と無関係な減らず口が止まないようだ。
しばしが無意味に繰り返される恨みごとを耳にすると、「いったいどうしてわれわれは、自分に起こったことを細大漏らさず覚えているだけの記憶力を持ちながら、同じ人にその話を何遍したかを思い出すだけの記憶力がないのだろう?」(‘Pourquoi faut-il que nous ayons assez de mémoire pour retenir jusqu’aux moindres particularités de ce qui nous est arrivé, et que nous n’en ayons pas assez pour nous souvenir combien de fois nous les avons contées à une même personne.’=ibid., 313)と痛感させられる。都合の悪いことは頬被りして、饒舌に語るご都合主義は、何んとも並み外れだ。
それにしても、「喧嘩は、片方にしか非がなければ、長くは続かないだろう。」(‘Les querelles ne dureraient pas longtemps si le tort n’était que d’un côté.’=ibid., 496)というが、例外もあるようだ。οἴμοι.
「伝染病のようにうつる狂気がある。」(‘Il y a des folies qui se prennent comme les maladies contagieuses.’=ibid., 300)
彼女の主張は、6月8日、コメント66に書いたようにshinodahideaki.blog.jp/archives/35271686.html 生きた民主主義、「開かれ、自由で、意見が対立する」大きな課題を論議する場合、「基本法」(ドイツ憲法)の規則に則って行わなければなりません。その意味するところは、「Yes, 自由な議論、 Yes,厳しい要求」けれども同時に、「No,不寛容、No,排除、No,憎しみと反ユダヤ主義」と強調している。そして、我々のよい未来のためには、お互いに尊敬の念をもって、不安や心配に対して論じ合い、常に妥協を模索することが、必要です。「妥協なしには、団結はありません。」https://www.bundesregierung.de/breg-de/aktuelles/festakt-zur-deutschen-einheit-1678306と述べ、国民に受け入れられている。
岡田晴恵博士の場合も、同じである。マスコミの「羽鳥慎一モーニングショー」をはじめとするワイドショーが岡田博士を先生役にするから、専門家の自由な議論は排除され、PCR検査、アビガン、市中感染など、もろもろの彼女の「サイエンスの専門家」としてのまちがった情報が、あたかも「正論」のように世間にはびこるのである。そして、彼女も国民を脅かす発言をし続けているが、その責任を岡田晴恵博士も一切責任を取らない。それで許されるのだろうか。
現在アメリカで起こっていることは、トランプ大統領の「白人優越主義、黒人や原住民蔑視」政策の誤り、への反動なのであって、対抗策として「反中国」をあおって、米国民やG7諸国を団結させようとし、それに異を唱えるドイツ政府に、35000人駐留しているアメリカ軍のうち、15000人を撤退させる、と脅しているが、このような「国際情勢」になると、「日本の安全保障」についても考えなければならない。人権問題をかかえる国「反中国」ではすまないのである。本来の国際社会は、さまざまな問題を解決するためには、メルケル首相の主張どうり、「妥協を模索した国際協調」が必要なのである。
国際情勢が厳しいこの時期に、おかしなヒーロー、ヒロインを作り、「反安倍でさえあればいい。」という日本の世論がこのありさまは、端的に言って、新聞記者や、番組作りのプロデユーサーの勉強不足、怠慢、そのものであると私には思える。「平和ボケ」もいいところである。夫は、仕事から帰ってきて、テレビをつけるたびに、「こんな番組しかないのか。」とため息をついている。
誰も反時流的古典学徒氏の書込みを読んで、貴方のイメージを洗脳されたりしちゃいませんよ。双方の書込みを読んでの上できちんと判断しているはず。読み手の能力をバカにしちゃいけません。
カロリーネ氏がワイドショー依存なのは、おそらくそれを観ることで如何にコメンティターが馬鹿で自分は賢いこだという妄想に浸ることに快感を覚えて、そこから抜け出すことができないのてましょう。本来、詰まらないのなら多くの人がするように観なければ済むこと。
同じことの繰り返しでコメント数を無闇に増やさず、要領良く纏めた見解を書いてください。
篠田氏のブログのテーマに沿ってお願いします。そうすれば他の方々ももっとコメントをし易くなるはずです。
誰も反時流的古典学徒氏の書込みを読んで、貴方のイメージを洗脳されたりしちゃいませんよ。双方の書込みを読んでの上できちんと判断しているはず。読み手の能力をバカにしちゃいけません。
カロリーネ氏がワイドショー依存なのは、おそらくそれを観ることで如何にコメンティターが馬鹿で自分は賢いこだという妄想に浸ることに快感を覚えて、そこから抜け出すことができないのてましょう。本来、詰まらないのなら多くの人がするように観なければ済むこと。
同じことの繰り返しでコメント数を無闇に増やさず、要領良く纏めた見解を書いてください。
篠田氏のブログのテーマに沿ってお願いします。そうすれば他の方々ももっとコメントをし易くなるはずです。
篠田教授の批判される14時間前のフェイスブックに、なんか篠田はコロナで他人の批判ばかりしていると勘違いしている人がいらっしゃるようだが、篠田による押谷仁教授、尾身茂氏、そして吉村大阪府知事に対する激賞は半端ではないんだけど、という文章があるが、私も全く同じ意見なのである。どうして、まともな専門家をマスコミは評価しないのだろう。篠田教授が批判されているのは、渋谷健司氏、小林慶一郎氏、西浦博氏で、三人ともテレビのワイドショーに専門家として登場し、公共の電波を使って日本社会に大きな影響力を与えているが、彼らの主張は正しいのだろうか。
それは、老媼の議論の正しさ(ὀρθόν, ἀληθής)や価値(ἀξία)、質(ποιόν)を何ら裏付けるものではないが、匿名(ἡ ἀνωνῦμία)とはいえ公的な言語空間で、その余りの支離滅裂さと偏狭さで恥をかくのをためらわなければ言論の自由(ἐλευθερία λόγου=παρρησια)は保障されているということだ。
嘲笑する(ἐγγελάω)私を、レッテル貼りだとか印象操作だとか怨みごと(ἐπονείδιστον)を並べて、4⇒【私への人格否定以外の、なんと表現するのだろう。これこそ、メルケル首相が糾弾される「民主主義」の否定】のように大騒ぎしているが、民主制が依拠する公共的自由(ἐλευθερία κοινὸν)は、「機会」(καιρός)の平等を保障するものではあっても、内容は無関係だろう。
そうした、本来関係ないことにまで「民主主義」を拡張して(αὐξάνεσθαι)戯言を並べるから愚鈍の上塗りになる。
フランスの辛辣なモラリストなら、それは、「われわれは、自分と同じ意見の人以外は、ほとんど誰のことも良識のある人とは思わない。」(‘Nous ne trouvons guère de gens de bon sens que ceux qui sont de notre avis.’=La Rochefoucauld; Maximes 347)という自戒につながるが、老媼に限っては、「軽蔑すべき人間に限って軽蔑されることを恐れる。」(‘Il n’y a que ceux qui sont méprisables qui craigent d’être méprisés.’=1bid., 322)ということになる。
元々わがままな(τρυφερός)性格で、同じことを、自らの投稿をコピペして再利用してまで、しつこく(ἐμπέδως)、ひきりなしに(πολλάκις)に、執拗に繰り返すこと(καρτερία)も際立った特質だ。
尊大(τὸ σεμνόν)と自己満足(αὐτάρκεια)の塊で、したい放題にする(τρυφᾶν)ことで、クズ投稿を量産している。他人のブログをコピペして剽窃したことを批判されると、「何が悪い」声高に強弁して、これみよがしに相手に向かって投げつけたりもする。
しかし、粗製乱造の議論の内容は凡庸の極致というか、退屈極まりない。陳腐で愚劣なお子様論議の政治論も輪をかけて酷い。メディア批判は趣味だろうが、判で押したような紋切り型の何の芸もない相手への剥き出しの貶損の辞は、左翼的な臭いさえする。
「コロナの女王」らしい岡田晴恵氏なる渦中の人物への毀誉褒貶は世のならいだが、意のままに(ἐπ’ αὐτῷ)ならないと、始終イライラして(δύσκολος)、ヒステリー(νοσοτροώφία)を起こすのが、激しやすい(ὀξεῖς)老媼の性格だ。
「そろそろ下り坂という年齢で、その肉体と精神の衰えがどこから始まるかを、傍に悟らせない人はめったにいない。」(‘Il n’y a guère de personnes qui, dans le premier penchant de l’âge, ne fassent connaître par où leur corps et leur esprit doivent défaillir.’=ibid., 222)
老媼は単細胞だから、先の大戦を引き起こした大日本帝国の軍隊を使嗾したのはメディアで、国粋的・神権主義的な憲法論を講じた上杉愼吉が異議を唱え、それに乗じた憎むべき反動勢力が美濃部達吉を葬り去ったという単線思考で天皇機関説事件が起きたと信じ込み、その元凶がメディアだとする「物語思考」に淫する。その結果、国家の権力構造もそれを担う階層も、何より国制が全く異なる当時の日本を、現在の北朝鮮と重ねる。
世の中、いくら大衆社会だとはいえ、メディアがすべてに甚大な影響を及ぼし、思うままに世を動かせるほど単純でもないことは、年齢を重ね経験を積む過程で多少は弁えるものだが、老媼のような例外も現われる。
何度繰り返されたか分からない満洲事変とリットン報告書、国際連盟脱退の経緯の劇画的解釈も、列強が権益をめぐって角逐を繰り広げた当時の国際政治の構造を何ら理解しないことから生まれた勧善懲悪式の単線思考で、現代版「春秋の筆法」、謂わば天災、事変、征伐、会盟や支配層の死生、種々の事蹟について「善悪を弁じ、名分を正し、大義を掲げ、天下後世をして尊王の道を知らしめる」の弁別の論理「春秋褒貶の説」の通俗版の最も出来の悪い部類に入るのだろう。
何んとも粗雑でお目出度い思考法で、「物事をよく知るためには細部を知らねばならない。そして細部はほとんど無限だから、われわれの知識は常に皮相で不完全なのである。」(‘Pour bien savoir les choses, il en faut savoir le détail, et comme il est presque infini, nos connaissances sont toujours superficilles et imparfaites.’= ibid., 106)
細かい間違いが多すぎるのは生来の質でもはや手遅れだろうが、その程度のことは弁えたらよい。[完]
私自身は、西独の留学したせいか、欧米の学問の盲従者にはならなかった。教授の説明に、ドイツでは、キリスト教文明では、という但し書きがいつもついていたし、楽器博物館にゆくと、日本の楽器として、木魚やどらがおいてあったからである。また、1980年代にドイツの自動車関連メーカーに勤め、あのころも現在のファーウェイに対する米国の「反中運動」のように、貿易摩擦の俎上に「日本の自動車産業」がのせられ、米国から「日本はフェアーではない。」と散々批判を受けていたが、実際に仕事をして、日独の差を知ると、例えば「トヨタの看板システム」、のような「日本モデル」が日本の自動車産業の成功の鍵であることがわかり、「日本はフェアーではない。」というアメリカの主張はあたらない、ということがよくわかった。それ以来、欧米の理論を盲従することはない。
Covid19の病態が時間の経過と共にわかってくるにつれて、各国それぞれの対策の成果、「論文に書かれた理論」の真偽が明白になりつつあるこの段階で、私の主張が、無知と軽率、それを自覚しない愚鈍と驕慢に基づく老媼の錯乱した議論であり、私の思考が常軌を逸した、正常な思考を逸脱した状態で、滑稽というか、悲劇以前の茶番劇でしかない、という反氏の批判は、反氏の愚鈍と驕慢に基づいた老翁の錯乱した主張であり、私への誹謗中傷、以外のなにものでもない。
日本国民のマスコミ信頼率は高いが、そうであるからこそ、マスコミの思い通りの世論、「小池都知事は信頼できるが、安倍首相は信頼できない。」というあべこべ理論が、メデイアの印象操作でまかり通るのではないのだろうか。アメリカのトランプ大統領の政治手法にも、小池知事と同じようなものを感じる
しかし、感染症などの専門家が、今度のウイルスの行動パターンを振り返って検証し、さらに研究する必要があります。そして西浦教授など数理疫学の専門家は、再度の波の襲来に備えて、今度こそ予想を外さないように確固とした数式理論を準備しておくべきです(具体的には最後の段落に書きました)。
西浦教授は、4月7日の緊急事態宣言発令時に、8割削減要請を個人的に発表しました(感染確定日ベースでは4月15日ころがピークだったのでこの時期での要請はあり得る)。しかし、これは5月中旬以降に事後的にわかったことですが、感染発症推定日ベースでは、3月28日ころが感染者数ピークでした。すでに感染者数の低減傾向は始まっていました。先行する国民の接触・移動の自粛によりすでに効果を出ていて、この「8割削減」による感染者数低減への効果は認められません。
8割削減は、「過剰自粛」の可能性があります。これからの西浦教授などの数理疫学の分野は、経済・社会的活動への悪影響をも考慮して、過剰自粛によって経済を止めないために、”適正自粛と過剰自粛の境界線を探るための数式”の開発に努めて欲しいです(無理か!?)。国境を開くと、秋冬にはいわゆる第二波がやってきます。そのときに今度の轍を踏まないようにするためです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/602a038dc47f6aa1a3952ba5f318888f50cc0713?page=1
(「8割おじさん」のクラスター対策班戦記【後編】~次の大規模流行に備え、どうしても伝えたいこと)
論理学とは、推論の論理的必然性、正確に言えば論理的必然性をもつ推論のパターン構造を明らかにする思考様式だ。
例えば、代表的な定言三段論法の事例でで説明するなら、すべてのMはPであり、すべてのSはMであるなら、すべてのSはPであるという推論の妥当性は、三つの文が「すべての~は…である」という形式をしている時に、個々の語(名辞)M、P、Sの占める相対的な位置関係で自動的に決定することを推論の論理的必然性と言う。
推論の論理的必然性とは「正しい推論」の別名で、二つの前提が真なら、結論も真とされる形式を扱う。二つの前提のうちの一つが実際は真ではなくても推論自体は関係ない。この場合、一つが真ではないは、推論上の問題ではなく、経験その他で決定される論理以外の事柄だからだ。
それがアリストテレスによって記号化されたのは、パターン構造を明らかにするためには日常の言葉がもたらす印象を断ち切って、つまり余計な想念なしに推論を進めるうえで有効であり、計算するうえでも便利だからだ。推論形式の記号化はアリストテレスの偉大な創案で、現在のより進んで精密化した論理学の先駆となっている。こうした現代につながる思考の合理的形式化はギリシア以外にはない。
その後、アリストテレスが充分展開しなかった文=命題間の含意関係についてストア派によってもたらされた命題論理学、現代論理学の用語で言えば真理関数的な論理研究によってさらに内容を豊かにし、それを中世後期にスコラ哲学によってなされた名辞概念についての意味論的な研究を加えて、19世紀半ばになって近代数学の発展に伴って新たな研究が始まるまでほとんど修正の必要のなかった、人間の合理的推論の方式を解明した。
例えば、「pならばq」は p→qと表記し、pの位置にくる文を前件(antecedent)、qの位置にくるのを後件(concequent)と称する。条件法が真なら前件は後件の十分条件、後件は前件の必要条件という。双条件法が真の時は要素文はいずれも真か偽かであるから、相互に必要十分条件になる。
なお、論理的結合子とは、記号は表記法によって異なるが、代表的なものは①否定(¬)②連言(∧)③選言(∨)④条件法(→)⑤双条件法(⇔)――である。そして、要素文に論理的結合子によって構成される複合文(compound sentence=複合命題)を要素文の真理関数(truth function)といい、その真偽(論理学的には真理値[truth value]という)は、その位置関係によって自動的に決定する。真理関数言語によって表現された(記号化=形式化された)ものを真理関数的論理式(truth-functional logical formula)、単に論理式(logical formula)と呼ぶ。
いずれにしても、論理学とは、どのような文(命題)も真か偽かのいずれかであるとして扱い、前提の真偽とはどのようにして決定されるべきか、という問題は論理学の役割ではないとする思考法、つまり、問題解決や解釈は経験やその他の手段が決める事柄(数理モデル解析なら、ウイルスの特性とか、感染伝播の異質性)とする態度である。
さらに以上の二点を踏まえたうえで、否定及び接続語句(「~なら」、「~して」、「~たり」、「~か」、「~だけ」など)のかかり方も含めて明瞭化する、つまり論理的に曖昧でないようにする工夫が必要になる。それは、論理式の文、記号の箇所に実際の日常の特定の文を代入して論理式とした場合の解釈の問題として残る。
最後に、論理とは推論の形式であって、内容ではない。論理式には三つのタイプ、即ち①論理式に含まれる文、記号のとる真理値のすべての組み合わせが真②含まれる文、記号のとる真理値の少なくとも一つに対しては真だが、すべてに対して真ではない③含まれる文、記号のとる真理値のすべての組み合わせが偽――に分けられる。
①を真理関数的に妥当な(truth-functionally valid)論理式または恒真式(tautologous)、②を真理関数的に整合な(truth-functionally consistent)論理式、③を真理関数的に矛盾する(truth-functionally contradictory)論理式と呼ぶ。また、①と②を真理関数的に無矛盾(truth-functionally non contradictory)、②と③を真理関数的に非妥当(truth-functionally invalid)と呼ぶ。
現実の問題を記号化して、その推論結果を考える際に必要なのは、整合な論理式として表現された文で、中には整合な論理式であっても内容が空虚な情報が皆無の論理式、言い換えれば式が適合する対象となる外延がゼロであるものもある。推理が論理的に正しくても、情報ゼロという場合があるのが、「論理的」、延いては「合理的」ということに、論理的の含意がある。
現実の流行予測がうまくいかなかった問題と、その科学的な合理性は別問題たる所以だ。[完]
前項の末尾で、⇒「現実の流行予測がうまくいかなかった問題と、その科学的な合理性は別問題」と書いたが、数理モデル解析について無知な「素人の観点からは」と限定すべきだろう。
「Gクン」氏の指摘のように、結果は19⇒【大きく外し…誤り】というのは、常識(τὰ ἔνδοξα=「皆にそう思われる」の謂い)というか、素朴な原因と結果の議論(αἰτιῶδες)で、何の介入措置も講じなかった場合という前提を含め、試算の諸条件を捨象するなら、それはそれで誠に指摘通りだが、科学的、論理的な分析ではない。科学は常識とは正反対のことが珍しくない。
所詮は人間世界の評価の問題で、単に論より証拠の常識の優位を主張するなら、地球ではなく、太陽が地球の周りを廻っているという地動説の方が、常識には適っている。充分な因果関係が解明されていない事象について、特段の根拠もなく、「ただそう見える」(φαίνεται)だけの仮象(φαίνεσθαι)の解釈をもって確かな根拠(διὰ τι)、現象の真の要因(τὸ ἀληθές αἰτία)とすることはできない。
一見して正しく認識している(ὀρθῶς γιγνώσκειν)「かのように」(ὡσπερεί)みえるのが世に言う常識の効用で、それは人間社会の知恵として有用であることまで否定しないが、相手が人間ではないウイルスについて、いくら常識を振り回しても、真相は何も見えてこないし、科学的な態度でもない。
政策としての感染抑止の手段(πόρος)、目的(τέλος)を達成するための選択(προαίρεσις)、つまり「目的へと至る事柄」(τὰ πρὸς τὸ τέλος)についての、「他のようにそうでもありうるもの」(ἑνδεχόμενον)にかかわる)人間の行為(πρᾶξις)をアリストテレスは思案(βούλευσις)と呼び、必然的なもの(ἀναγκαῖον)にかかわるのが理論的考察(θεωρία)と分けている。
われわれより、合理的な態度だ。
>地球ではなく、太陽が地球の周りを廻っているという地動説の方が、常識には適っている。
「天動説」の間違いですね。
がいるのである。このことについては、前のブログの6月4日コメント24、6月7日コメント59に二度書いたshinodahideaki.blog.jp/archives/35271686.html。
理由は、よくできた研究は、常に限界をわきまえ、透明性のあるコミュニュケーション、どこに穴があるか、結果はあらゆることにあてはまらない理由と、まだ調査するべきことがある、ということを示したものでなければならないからである。ドイツの政府の司令塔、ドロステン医師にしろ、統計結果が間違っている、とBild誌で激しく批判され、ドイツでのまちがった「休校政策」につながった、と批判された結果、彼らは手直しをし、より精密なものに仕上げるために、再度論文の訂正を試みている。成功する場合もあれば、失敗する場合もある。それが、自然科学の研究者の世界なのである。西浦教授の使命感は貴いし、厚労省の反対があり、やむにやまれず、官邸で事前の同意を得たのだろう。けれども、その研究は匿名で客観的に行われた検査結果を伴っていないし、実際の日本では42万人の死者は出ず、今日現在までに、925人の死者しか出ていない。ということは、どこかに穴があり、調査すべきことがある、ということなのである。それを西浦教授は自然科学者として明らかにしなければ、「オオカミ少年」となり、日本国民から優れた自然科学者としての信頼は得られない。篠田英朗教授の主張されたいことは、そういうことで、論理の整合性ではない。
私は文系出身の人間ですが、自然科学の分野でも、出版社が独立した専門家に「データの鑑定」を依頼し、その「鑑定」を通過した上で初めて論文が掲載されるなんてことは、少なくとも一般にはありませんよ。
そこまでやっていない現在の"Peer Review"でさえ、査読者の負担が重すぎると問題になっていることは、少し検索すればわかるはず。
カロリーネさんのおっしゃるとおりだとすれば、某女史のSTAP細胞論文の不正を見逃して掲載を許してしまった査読者たちは打ち首・獄門ですね。
なお、ドロステン医師をめぐる貴女の議論は、論文発表後又はきちんとしたジャーナルに掲載されたわけではない同医師の言説に関するものでしょ?議論がズレてますよ。
16⇒【「古代ギリシャ」一辺倒…欧米の学問の盲従の表れ】――西洋文明の遺産としての古代ギリシアの文明と遺物、古典的著作群は、大航海時代を経て近代以降を支配した「欧米の学問」ではなくて、その規範である。近代以降、西洋が次第に古代文明の水準に近づき、または到達、一部は追い越したが、19世紀前半までその水準にも届かない分野もあった。欧米崇拝と、人類の規範としての古典古代文明の重視は同一ではない。
「一般的に受け入れられている文明史」とは老媼の単なる思い込みで、「欧米」ではなく西欧中世の信仰と学問がカトリック教会の強い影響下にあったのは事実だが、それが転換するのは、16②⇒【十字軍の遠征の結果、実際に西欧人がギリシャ…にふれ…法王庁の権威に盲従しない学問が生まれ…ルネッサンス】が起こったからではない。十字軍遠征とルネサンスに直接の関係はない。
1096年に始まる十字軍遠征は、キリスト教徒の聖地巡礼熱、イスラム勢力の伸長に伴うビザンツ帝国の危機、それを1054年以降分離した東方教会を再統合する機会と見たカトリック教会の意図を受け、東方の領土取得や富の獲得を狙った諸侯や諸国王による「聖地回復」運動であって、イスラム圏との交易はそれ以前からあり、ビザンツ帝国を通じて、古代文明の流入もあった。ルネサンスの原動力はビザンツ系学者の流入だ。
超感覚主義的でキリスト教と親和性のあったプラトンと異なり、論理学関連の一部を除くアリストテレスの主要著作が再発見され、キリスト教神学の基礎づけに採用されるのは12世紀中葉からで、ルネサンスの遥か前だ。
18⇒【普通の日本人は、英米に留学し…】は、要するに自らの西独留学と新潟滞在歴を特筆大書して、直接脈絡のないメディア批判に転用するもので、ただのこじつけ。
(【特別寄稿】「8割おじさん」の数理モデルとその根拠)https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/06/8-39_1.php
考えられるのは、次の3点である。まず、基礎的な知識(τὰ στοιχεῖα)の欠如だ。無知(ἀμαθία, ἄγνοια)とか無学(ἀμαθής)という。無知のうち、アグノイア[ἄγνοια]は、不知=知らないという意味であり、アマティアー[ἀμαθία]は愚鈍(ἀφροσύνη)、痴呆(ἠλίθιος)という趣旨だ。無学は「教養がない」(ἀπαιδευσία)ということだ。
例えば、老媼はソクラテスについて、肝腎なことを何も知らないに等しい。その口から出るのは、「無知の知」(「知らないことを、知らないと思う」=‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι’)と問答法の別名「産婆術」(μαιευτική)、後は裁判で刑死を宣告されても脱獄せず、国法(οἱ νόμοι)に従って死んだから民主制の支持者だとする、事実誤認の信仰告白だけだ。
ソクラテス自身の指摘では「無知の知」は別名「人間並みの知」(ἡ ἀνθρωπίνη σοφία=ibid. 23A)で、何か特別な「知」(ἐπιστήμη, φρόνησις, σοφία)ではなく、無知を自覚することだけを慫慂しているわけではない。 ソクラテス自身は、逆に他に対して究極の知である「善美なるもの」(τὸ ἀγαθός)に対する厳密な知を求め、それが「善く生きる」(εὖ ζῆν)ことに直結するとする。謂わば、知恵と知識の一体化を説いている。
しかし、逆に凡庸で愚鈍な老媼は、「無知」をもって自らの憐むべき実態(τὸ ἀληθές)を正当化するための贖宥(免罪符)、口実にして悪用する。その際に、半可通で仏教でいう智慧は知恵とは異なると唱えて、ごまかす。智慧(prajñā=サンスクリットの原意は漢訳の智慧に必ずしも対応しない)といい、智(jñāna)と慧(prajñā)と言っても、それは知恵(wisdom)と知識(knowledge)の分別を正当化するものではない。
そして、ソクラテス=民主主義者の信奉者という、実態を何ら反映しない先入観は、老媼がつくり出した俗信でしかない。それは不当な告発と判決に対抗する観点から勧められた権利(δίκαιον)を説く相手に、「それらの仕返しをすることが君にとっては正しい[「当然の権利がある」の謂い]のか」(καὶ σοὶ ταῦτα ἀντιποιεῖν δίκαιον εἶναι)として脱獄を退けた古風な国家意識を、民主制への忠誠へと取り違えているにすぎない。
それ以上の論証は老媼からは何も出てこない。後は愚劣な信念の表明だけである。まるで『孟子』並みに、「自ら反みて縮くんば千万人と言えども吾往かん」(「自反而縮、雖千万人吾往矣」=第三、公孫丑章句上)の心意気しかない。
そう言えば、仏教の「無学」(aśaikṣa)とは、無知=無明(avijjā)ではなく全く逆の意味で、「学ぶものが何もなくなった」悟達の段階で修道(bhāvanā-mārga)の最終段階、煩悩(kleśa)が止む境地だから、聞く耳をもたない老媼の狂信性は符合するのかもしれない。
ソクラテスに関する三つの知見、俗説というか、かつての教科書的な常説を墨守する陋劣な(αὐθάδης καὶ πονηρός)独善的姿勢が老害というものなのだろう。同じことは、ソフィストに関する固定観念にも共通する。
それによって、相対主義者、つまり知識や真理の絶対的基準を認めず、法やしきたりから自由な合理的発想を歴史上最初に明確に主張したソフィストの合理的な思考の近代性、謂わば先見性(ἡ πρόνοια)を評価したH. ケルゼン(H. Kelsen, “Society and Nature”, 1946, p. 246)の見解を無視して、見当違いな民主制擁護の根拠とする倒錯に至る。
無知と狂信ゆえの、病い(τὸ νόσημα)は深い。[完]
テレビも同じ状況である。例えば、岡田博士。報酬をいくらテレビ局からもらっておられるのかは、定かでないが、一日中テレビに登場し、自分の発言に一切責任をとることもなく、国民を脅かす発言ばかりをほぼ5か月続けておられる。巷には、コロナ鬱の老人が増えている。それにもかかわらず、真実を知らせ、国民に考えさせ、安心させる研究者やコメンテーターではなくて、政府を批判し、不安を煽る主張をする研究者やコメンテータが、専門家としての肩書をつけて、視聴率狙いのテレビに登場し、明らかに最新の国際社会の知見とは違う主張を繰り返す。それは学問の自由でも、表現の自由でもない、というのが私の主張である。どうして、日本のマスコミは、報道陣としての自分たちの使命として、日々変わる国際社会の良識的な知見を紹介し、まちがった主張を謝罪の上、訂正しないのだろう。
38⇒【36,37を読んで、反氏の主張に、いかに良識がないか、の証明】とある。「良識」(εὐγνωμοσύνη)がこの場合、何を意味するかは少しも明らかではないが、恐らく「無知の知」に関する人口に膾炙した一般的な見解、常識(τὰ ἔνδοξα)という名の不正確な知見のことだろう。素人論議というものは、常にそうした側面がある。
しかし、それは措いて、39⇒【反氏の主張は…少なくとも、恩師田中美知太郎氏の主張を覆し】として、愚劣な議論を展開し、田中の『ソクラテス』から引用している。議論の典拠のつもりらしい。自己愛(φιλαυτος)に取り憑かれた(ἐνθυσιασμός)無学な人間の無謀な行為として、嗤う外はない。
39で示されたその引用は、極めて杜撰なものだ。正確には以下の通り。
「ダイモンの合図も、知識欲も、青年に対する愛情も、驚くべき忍耐も、徹底的な論理追求も、デルポイ神託以前に、既に存在したものであり、(それ以後においても、変ることのできなかったものなのである。そしてこれら=「…」⇒割合相当箇所)のすべてが、ソクラテスの死の原因であると言えば、言えるようなものなのである。」
わずか106文字にすぎない文章を引用するなかで、間違いを犯す(διαμαρτάνειν)という習性(ἦθος)、謂わば病癖(τὸ κακόηθες)のある老媼は、以下のような誤記を性懲りもなしに繰り返す。
▼論理追求→論理「追及」(追及とは容疑者を追及というような場合に使う。探究の意味の追求、追究とは別)▼デルポイの神託→デルポイの「信託」▼既に→「すでに」▼そしてこれら→「その」▼ソクラテスの→「彼の」▼言えば→「いえば」
さらに指摘すれば、当該引用箇所は老媼が使用した岩波新書版『ソクラテス』の144頁13~16行であり、老媼が示す136~140頁は、かすりもしない。
「あぁ~あ」(οἴμοι.)
その杜撰な議論同様、トチ狂った(μαινόμενος)内なる人間性(ὁ ἐντὸς ἄνθρωπος)を如実に示している。
他も信仰告白だけ。新型コロナではないが、「伝染病のようにうつる狂気がある。」(‘Il y a des folies qui se prennent comme les maladies contagieuses.; Maximes 300)らしく、莫迦がうつるから、門前払いにするしかない。
☆余白に 田中美知太郎は『ソクラテス』で「無知の知」とはせず、「無知の自覚」、「不知の知」と表記する。『ソクラテスの弁明』の該当箇所(21D)は次のようなものである。
‘ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι•’(「[事実確かに(οὖν)]わたしは、知らない(οὐκ οἶδα)から、そのとおりに(ὥσπερ)、また知らないと思っている(οὐδὲ οἴομαι)」)、‘ἔοικα γοῦν τούτου γε σμικρῷ τινι αὐτῷ τούτῳ σοφώτερος εἶναι, ὅτι ἃ μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι.’(「だから、つまりこのちょっとしたことで(σμικρῷ τινι αὐτῷ τούτῳ …ὅτι)、わたしのほうが知恵がある(σοφώτερος)ことになるらしい。つまりわたしは、知らないこと(μὴ οἶδα)は、知らないと思う(οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι)、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。」(田中訳、岩波書店版『プラトン全集』第1巻、62頁、『ソクラテス』126~27頁にも旧訳がある)
★29で「通りすがりの老人」氏が指摘する通り、地動説と天動説を取り違えて議論してしまった。趣旨は明確で、すぐに間違いに気づくから読者をミスリードする恐れはないものの、注意しなくてはならない。
ニコニコ生放送
2020/05/12(火) 20:00開始(2時間21分)
https://live2.nicovideo.jp/watch/lv325833316
【8割おじさん西浦教授に聞く】新型コロナの実効再生産数のすべて オンライン講演会生中継/主催:日本科学技術ジャーナリスト会議
番組内で使用されているスライド等の共有データ
https://github.com/contactmodel/COVID19-Japan-Reff
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