6月11日の大阪府の専門家会議に招かれたオブザーバーたちの発言が話題を呼んでいる。「コロナ収束に自粛は関係なかった」といった見出しで取り上げられているからだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1a9df6b807e91ef984441413aca7dee82f620766
私はこれまで吉村府知事の「大阪モデル」の方向性を絶賛し続けてきている。そのため「自粛が必要だったか否か」を検討しているかのように扱って様子を矮小化する無責任で悪意あるマスコミによって、吉村府知事の行動の意味が誤解されてしまうことを懸念する。そのことについて少し書いてみたい。
自粛の意味は、政策論で判断すべきであり、その効果の度合いだけで評価するものではない。緊急事態宣言は、「医療崩壊を防ぐ」ために実施された。マスコミが真面目に報道していないだけで、4月7日宣言発出記者会見の冒頭から安倍首相もそのことを明言していた。したがって緊急事態宣言の意味は、4月上旬時点における「医療崩壊を防ぐ」目的設定の妥当性と、その目的のためにとられた手段との相関関係において評価されなければならない。http://agora-web.jp/archives/2046391.html
4月10日に国際政治学者の私が「増加率の鈍化が見られる」と書いていたのに、4月15日に「42万人死ぬ!」を三大主要紙を通じて広報するといった「西浦モデル」は、明らかに過剰であったが、目的の切迫性を鑑みて、我が身を捨てて運動家として行動した、という意図があったということなのだろう。
6月11日の大阪府専門家会議における発言が大きく取り上げられた大阪大学核物理研究センター長の中野貴志教授が唱える「K値」の考え方の基本は、7日移動平均でトレンドを見よう、ということだと思うが、それは私が緊急事態宣言中の「検証」シリーズでやっていたことだ。普通に数字を見ていた人は皆、4月上旬から私と同じように考えていた、ということである。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda
大阪府は、医療施設における重篤患者の収容能力を高めて、「医療崩壊」点を上方移動させようとしている。正しい行動である。「医療崩壊を防ぐ」は政策論の話なので、医療能力の量的向上によって、決壊地点が変わるのである。 もちろん重篤患者の発生を抑制することも、「医療崩壊」を防ぐための大きな手立てである。しかし初期段階にとった緊急全面自粛措置を繰り返しとらなければならないとしたら、それはあまりにも芸がない。「医療崩壊を防ぐ」ために要領を踏まえた対策が講じられるべきだ。それが吉村大阪府知事がやろうとしていることだろう。
吉村府知事は、特に奇異なことをしようとしているわけではない。この「大阪モデル」路線は、むしろ2月からの「日本モデル」路線の基本に回帰する方向性である。
「西浦モデル」が「日本モデル」に対する「クーデター」だった。しかしそれは過去の事件である。私が以前に書いたように、5月になってからの「大阪モデル」の提唱が、「日本モデル」の崩壊を防いだのである。
なぜ「西浦モデル」は「クーデター」なのか?それは「感染者数をゼロにする」という達成不可能な目標のために、国民を脅かすだけ脅かし、自粛するだけ自粛させて、終わりなき自滅行動に駆り立てるものだからである。
それとは逆に、「日本モデル」の参謀役である押谷仁・東北大学教授は、厚労省がクラスター対策班を招集するよりも早い2月上旬の段階ですでに、「我々は現時点でこのウイルスを封じ込める手段を持っていないということが最大の問題である」と述べ、その理由も明快に論理的に説明していた。そして、「封じ込めが現実的な目的として考えられない以上、対策の目的はいかにして被害を抑えるかということにシフトさせざるを得ない」と洞察していた。https://www.med.tohoku.ac.jp/feature/pages/topics_214.html
このいわば「押谷モデル」の延長線上に、2月25日に発出された「新型コロナウイルス感染症対策本部」の最初の「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」において、次のような目的が設定されたのである。
――――――――――――――
・感染拡大防止策で、まずは流行の早期終息を目指しつつ、患者の増加のスピードを可能な限り抑制し、流行の規模を抑える。
・重症者の発生を最小限に食い止めるべく万全を尽くす。
・社会・経済へのインパクトを最小限にとどめる。https://www.kantei.go.jp/jp/singi/novel_coronavirus/th_siryou/kihonhousin.pdf ――――――――――――――
「封じ込め」は不可能だが、「医療崩壊を防ぐ」措置をとりながらも、「社会・経済へのインパクトを最小限にとどめる」措置をとっていくのが、「日本モデル」の基本的流れだ。「三密の回避」などのクラスター発生予防のための行動変容呼びかけなどに大きな特徴を持つ「日本モデル」は、2月初旬からの「押谷モデル」の洞察に基盤を持っている。
「欧米が世界の中心であり、欧米を模倣しないのは、日本特殊論だ」といった根拠のない偏見に毒された人たちにとっては、「三密の回避」などは、中途半端で曖昧なユルユル政策のことでしかなく、日本人がダメであることの証左でしかなかった。 しかし「日本はすでに感染爆発を起こしている」といった主張を繰り返していた産婦人科医の渋谷健司氏のような人物が、その主張の根拠を示す義務から未だに逃げ続けているというのが、この3カ月で実際に起こった現実である。
6月11日の専門家会議で、宮沢孝幸・京都大学ウイルス・再生医科学研究所准教授は、「夜の町や飲み会、カラオケで騒ぐと唾液が飛んで感染するため、その行為をやめさせるのが一番有効」、「満員電車でも、1人ひとりが黙っていたり、マスクをしていればまったく問題ない。接触機会よりも感染機会を減らすべき」と述べた。これは新奇な発言というよりも、むしろ「常識」論であると言うべきだろう。われわれが「欧米を模倣しなければ日本特殊論だ」とか、「インペリアル・カレッジに行ったことがある者だけが世界の真理を知っている」といった恫喝に屈することなく、自分自身で普通に推論を働かせれば、わかることだ。
これからも「日本モデル」では、基本方針にしたがい、理性的な推論を働かせて、必要な政策をとっていくことが望ましい。万が一にも、怪しい肩書を振りかざす人物たちに惑わされてはいけない。
日本の幸運は、尾身茂・専門家会議副座長や、クラスター対策班の押谷教授ら、WHOやJICAでの公衆衛生の政策実施の実務経験を持つ人物が、政策決定の要所を固めていたことだった。そして吉村大阪府知事が5月になってから全国をけん引するリーダーシップを発揮したことだった。
この「日本モデル」=「大阪モデル」路線の重要性を、いい加減にマスコミの人たちにも気づいてもらいたい。
そして、無責任な発言に終始した人々に対しては、「俺は偉大な専門家だ、どんなに間違ったことを言っても許されるし、いつでも発言内容を変えても咎められない」といった居直りをさせず、厳しく自分自身を見つめ直すように、問い詰めてほしい。
私はこれまで吉村府知事の「大阪モデル」の方向性を絶賛し続けてきている。そのため「自粛が必要だったか否か」を検討しているかのように扱って様子を矮小化する無責任で悪意あるマスコミによって、吉村府知事の行動の意味が誤解されてしまうことを懸念する。そのことについて少し書いてみたい。
自粛の意味は、政策論で判断すべきであり、その効果の度合いだけで評価するものではない。緊急事態宣言は、「医療崩壊を防ぐ」ために実施された。マスコミが真面目に報道していないだけで、4月7日宣言発出記者会見の冒頭から安倍首相もそのことを明言していた。したがって緊急事態宣言の意味は、4月上旬時点における「医療崩壊を防ぐ」目的設定の妥当性と、その目的のためにとられた手段との相関関係において評価されなければならない。http://agora-web.jp/archives/2046391.html
4月10日に国際政治学者の私が「増加率の鈍化が見られる」と書いていたのに、4月15日に「42万人死ぬ!」を三大主要紙を通じて広報するといった「西浦モデル」は、明らかに過剰であったが、目的の切迫性を鑑みて、我が身を捨てて運動家として行動した、という意図があったということなのだろう。
6月11日の大阪府専門家会議における発言が大きく取り上げられた大阪大学核物理研究センター長の中野貴志教授が唱える「K値」の考え方の基本は、7日移動平均でトレンドを見よう、ということだと思うが、それは私が緊急事態宣言中の「検証」シリーズでやっていたことだ。普通に数字を見ていた人は皆、4月上旬から私と同じように考えていた、ということである。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda
大阪府は、医療施設における重篤患者の収容能力を高めて、「医療崩壊」点を上方移動させようとしている。正しい行動である。「医療崩壊を防ぐ」は政策論の話なので、医療能力の量的向上によって、決壊地点が変わるのである。 もちろん重篤患者の発生を抑制することも、「医療崩壊」を防ぐための大きな手立てである。しかし初期段階にとった緊急全面自粛措置を繰り返しとらなければならないとしたら、それはあまりにも芸がない。「医療崩壊を防ぐ」ために要領を踏まえた対策が講じられるべきだ。それが吉村大阪府知事がやろうとしていることだろう。
吉村府知事は、特に奇異なことをしようとしているわけではない。この「大阪モデル」路線は、むしろ2月からの「日本モデル」路線の基本に回帰する方向性である。
「西浦モデル」が「日本モデル」に対する「クーデター」だった。しかしそれは過去の事件である。私が以前に書いたように、5月になってからの「大阪モデル」の提唱が、「日本モデル」の崩壊を防いだのである。
なぜ「西浦モデル」は「クーデター」なのか?それは「感染者数をゼロにする」という達成不可能な目標のために、国民を脅かすだけ脅かし、自粛するだけ自粛させて、終わりなき自滅行動に駆り立てるものだからである。
それとは逆に、「日本モデル」の参謀役である押谷仁・東北大学教授は、厚労省がクラスター対策班を招集するよりも早い2月上旬の段階ですでに、「我々は現時点でこのウイルスを封じ込める手段を持っていないということが最大の問題である」と述べ、その理由も明快に論理的に説明していた。そして、「封じ込めが現実的な目的として考えられない以上、対策の目的はいかにして被害を抑えるかということにシフトさせざるを得ない」と洞察していた。https://www.med.tohoku.ac.jp/feature/pages/topics_214.html
このいわば「押谷モデル」の延長線上に、2月25日に発出された「新型コロナウイルス感染症対策本部」の最初の「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」において、次のような目的が設定されたのである。
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・感染拡大防止策で、まずは流行の早期終息を目指しつつ、患者の増加のスピードを可能な限り抑制し、流行の規模を抑える。
・重症者の発生を最小限に食い止めるべく万全を尽くす。
・社会・経済へのインパクトを最小限にとどめる。https://www.kantei.go.jp/jp/singi/novel_coronavirus/th_siryou/kihonhousin.pdf ――――――――――――――
「封じ込め」は不可能だが、「医療崩壊を防ぐ」措置をとりながらも、「社会・経済へのインパクトを最小限にとどめる」措置をとっていくのが、「日本モデル」の基本的流れだ。「三密の回避」などのクラスター発生予防のための行動変容呼びかけなどに大きな特徴を持つ「日本モデル」は、2月初旬からの「押谷モデル」の洞察に基盤を持っている。
「欧米が世界の中心であり、欧米を模倣しないのは、日本特殊論だ」といった根拠のない偏見に毒された人たちにとっては、「三密の回避」などは、中途半端で曖昧なユルユル政策のことでしかなく、日本人がダメであることの証左でしかなかった。 しかし「日本はすでに感染爆発を起こしている」といった主張を繰り返していた産婦人科医の渋谷健司氏のような人物が、その主張の根拠を示す義務から未だに逃げ続けているというのが、この3カ月で実際に起こった現実である。
6月11日の専門家会議で、宮沢孝幸・京都大学ウイルス・再生医科学研究所准教授は、「夜の町や飲み会、カラオケで騒ぐと唾液が飛んで感染するため、その行為をやめさせるのが一番有効」、「満員電車でも、1人ひとりが黙っていたり、マスクをしていればまったく問題ない。接触機会よりも感染機会を減らすべき」と述べた。これは新奇な発言というよりも、むしろ「常識」論であると言うべきだろう。われわれが「欧米を模倣しなければ日本特殊論だ」とか、「インペリアル・カレッジに行ったことがある者だけが世界の真理を知っている」といった恫喝に屈することなく、自分自身で普通に推論を働かせれば、わかることだ。
これからも「日本モデル」では、基本方針にしたがい、理性的な推論を働かせて、必要な政策をとっていくことが望ましい。万が一にも、怪しい肩書を振りかざす人物たちに惑わされてはいけない。
日本の幸運は、尾身茂・専門家会議副座長や、クラスター対策班の押谷教授ら、WHOやJICAでの公衆衛生の政策実施の実務経験を持つ人物が、政策決定の要所を固めていたことだった。そして吉村大阪府知事が5月になってから全国をけん引するリーダーシップを発揮したことだった。
この「日本モデル」=「大阪モデル」路線の重要性を、いい加減にマスコミの人たちにも気づいてもらいたい。
そして、無責任な発言に終始した人々に対しては、「俺は偉大な専門家だ、どんなに間違ったことを言っても許されるし、いつでも発言内容を変えても咎められない」といった居直りをさせず、厳しく自分自身を見つめ直すように、問い詰めてほしい。
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コメント一覧 (19)
三密回避とは、ウイルス自体ではなく、ウイルスが効果的に増殖=伝播して局所的な新型感染症の集団(クラスター)を形成する場(χώρα)、即ち環境(τὰ περιόντα)という因子(τὸ αἴτιον οὐ κοινός)に即して感染の連鎖を封じこめるもので、実際はクラスター対策という戦略(στρατηγία)の部分(μέρος)、つまり戦術(τέχναι)であり手段(πόρος)だろうが、その意味について、
⇒【この戦略の前提は、完全封じ込めではなく、クラスター防止だけを目指す、という考え方…クラスターさえ防止すれば、医療崩壊を回避する範囲内で拡散を抑え込んでコントロールできる、という考え方】としていた。
目下のところの日本の相対的な好成績にもかかわらず、私の一貫した日本モデルの位置づけに対する疑念は、篠田さんが別の箇所で日本モデルの中核として、クラスター対策、医療体制、国民の行動変容の三領域を位置づけているように(「『三密の回避』は『日本モデル』の象徴」)、日本モデルは医療崩壊の未然の回避という側面に注目するなら、それは必ずしもクラスター対策の部分的有効性から論理的に導き出されるものではない、ということだ。
医療崩壊の回避は、想定される以上に複合的な要因で起こる感染者の急拡大に伴って医療資源を上回ることなどから発生するもので、クラスター対策の採否、巧拙によるものではない。
医療崩壊回避には、各国の共通性、謂わば普遍性(τὸ καθόλου)がある。一方で、日本モデルにはそれがない。その有効性は、科学的な証明(τεκμήρια)は、他の要因(τὸ αἰτία)とも絡むので事実上困難だとして、必ずしも納得のいくように説明、つまり論証されてはいない。
「日本特殊論」の是非云々ではなく、「モデル」というほどのことでもない。それが「普遍的なモデル」(καθόλου παράδειγμα)として有効だということは立証されてはいない。日本という特殊な事例(ἴδιος παράδειγμα)であるだけかもしれず、特殊(μέρος=particular)ということはもとより普遍(καθόλου=universal)とは異なる。
日本モデルが達成した「のかもしれない」(ἴσως)個々の事例(ἴδιος παράδειγμα)は、それが「いかなる条件で」(ἐπὶ τῴ)実現したのか、あらゆる所で(πανταχοῦ)、あらゆる点で(πανταχῆ)有効なのか、誰も分からない。
この世の出来事はすべて「自然と必然と偶然」(φύσις καὶ ἀνάγκη καὶ τύχη)のいずれかで生じるとして、大抵はそうであること(τὸ ὡς ἐπὶ τὸ πολύ)ではなく、たまたま偶然によってそうであること(τὸ ἀπὸ τύχης)でも、または、何らかの未知の要因によってたまたま付随的にそうであること(τὸ συμβεβηκός)でもなく、まさに必然的なもの(ἀναγκαῖον)、常に必然的にそうであること(τὸ ἀεὶ καὶ ἐξ ἀνάγκης)として、そうなるべくしてなったと解明されない限り、形容詞的に日本的な手法(the Japanese way)であるにすぎない。
緊急事態宣言の発令が、感染推定時期のピーク以降であったことから要請ベースでの国民による大規模な自粛の効果や必要性を疑問視する議論が起こるのは、メディアの影響というより、不確実な将来に向けて対策を講じる危機対応の性格上ある意味で避けられず、⇒【自粛の意味は、政策論で判断すべきで…効果の度合いだけで評価するものではない】という指摘には異論はないが、⇒【緊急事態宣言は、「医療崩壊を防ぐ」ために実施…マスコミが真面目に報道していないだけ】というのは、如何にも弱論強弁だ。「西浦モデル」の「クーデター」云々の議論も、メディアの影響論のつまみ食いで、こじつけだ。
医療崩壊の要因は単純ではなく、危機対応の前提となる最悪の事態(κάκιστος κατάστσις)を想定するなら、最大要因の感染の急拡大を抑止するあらゆる手だてを、たとえ効果が限定的かつ未確定で、しかも社会経済的に大きな犠牲が伴うものであっても、為すべきことを果断に選択するのが政治というだけの話だ。
緊急事態宣言がピークアウト後の実効再生産数を継続的に抑えたという推定的評価(再反転せず低位で推移)も示された。緊急事態宣言を医療崩壊の回避という最終目的にだけ直結させ、三密回避だけでなく、行動変容の実際の柱であった8割接触削減を含めて、駆使された多様な手段それぞれの作用を考慮しない議論は、一面的すぎる。
日本モデルはむしろ、欧米の先進民主制国家を襲った感染爆発で揺さぶられた民主制的アプローチの意味を考える素材として、日本的やり方もあるという程度にとどめておくべきだろう。
渋谷健司氏の産婦人科云々を繰り返す前に、細谷雄一氏の54兆円プロジェクトに賛同に言及しないのも、ご都合主義にすぎる。[完]
このことはSpiegel誌の、コロナウィルス、無症状である、ということは健康ではない、どうして、或る人は重症化し、或る人は、無症状で推移するのか、で取り上げられ、その理由が書かれている。https://www.spiegel.de/wissenschaft/medizin/coronavirus-ohne-symptome-heisst-nicht-gesund-warum-einige-schwer-erkranken-und-andere-nicht-a-b19e6849-6f07-4711-b9a8-f712dc3214e8 その中に、体が深刻な状況が乗り越えられたことを体が認識しない、という理由があげられている。
Der Körper erkennt nicht, dass das Schlimmste überstanden ist
レーゲンスブルグの大学病院の感染学者Bernd Salzberger氏によると、 Covid19の重症化の過程では、すでに、感染はすでに食い止められ、抗体がウィルスを排除しているのに、免疫システムが明らかに病原体を厄介払いするために、常に新しい食細胞を動員するために、炎症を誘発している。この場合、体は、感染の最悪時がすでに過ぎているのに、あらゆる手段を使って、ウィルスと対抗するから、人命にかかわる容態になるのだ、ということである。
「日本モデル」を作り上げた、押谷教授、尾身茂さん、「大阪府」の吉村知事、そして、日本政府の安倍首相、西村大臣には、Covid19の病態、特徴がわかっておられる。最初にCovid19の特徴をみつけ、その特徴を「三密対策」に生かされたのが、Sarsの研究にもかかわり、WHOにもかかわっておられた感染症の「ほんとうの専門家」、押谷教授、尾身茂さんなのではないのだろうか。本来は、マスコミ、テレビの情報番組が「ほんとうの」専門家を見極め、「公共の福祉」のためにまともな世論を作るように努力することが求められているが、日本のマスコミの大多数はそれをしてくれないので、篠田英朗教授の現在しておられる仕事の意義は大きい、と考えている。この問題には、「日本人」の、「国際社会の人々」の多くの命がかかっているからである。
ところで、先見の明(ἡ πρόνοια)などない人間は、将来において何が起こるかを確実には知らないままに意思決定をせざるを得ない。そうした普遍的な事実に結びつくのが、確率という概念だ。人間性の限界と不可分に結びついた将来に関する根本的な無知に伴って、正しい行為の判断と、正しい行為を為すことの判断が妨げられる現実を、認識する必要がある。
論理主義的確率論の代表者であるケインズの議論は、われわれは合理的な根拠、例えば自分の行為の帰結について数学的期待値を遠い将来にわたって計算することは不可能だから、将来について限定された範囲内で計算を行いながら常識の規則を参照すべき、とする規則功利主義(rule utilitarianism)を退け、将来の帰結を計算できないのであれば、「無差別の原理」(principles of indifference)を導入すべきで、常識に従って善を生み出す確率が高いという議論は、確率に関する誤った考えを含むものと批判する。
なぜなら、われわれの通常の行為についての規範には、ある行為の帰結の蓋然性が過去の経験の知識によって知り得るという前提が含意されており、それは確率に関する頻度説(frequency theory)に外ならず、これまで経験したことがない事例について適用するのは不適切で何の助けにもならないどころか、過去の経験に照らしてある行為に帰結の蓋然性を判断する場合も、最も重要なのは過去の事実をどのように解釈するかという判断の問題に行き着くからだ。
つまり、確率を生み出すのは経験自体ではなく、経験と新たな行為との間の関係性の問題だ。ケインズの考えは、経験論の一種である頻度説に基づく確率の解釈の否定である。
従って、確率が示すのは真理の度合(degree of truth)ではなく確実性の度合(degree of certainty)で、それは合理性の度合(degree of rationality)と言い換えることができ、合理性と真理とは独立した概念だから、明確に区別する必要がある。
つまり、ある行為には合理性があっても、それが必ずしも真理であることを意味しないように、真理であっても合理性を伴わないこともあり得る。人間はたとえ誤った帰結をもつ推論であっても、それを蓋然的と判断すること自体において、必ずしも非合理的であるとは限らない。
命題同士の蓋然性についての関係=確率関係は、それを推進する者に自明のものとして直観され直接的に知覚されるもので、確率が付与される推論の前提となるのは知識やデータで、その帰結が信念になるが、それ自体は間接的知識の一種にすぎない。
間接的知識としての確率が関係するのは知識としての前提命題と、それに基づく推論によって得られる帰結命題で、それは直観や直覚の対象だから単純な概念に分解することはできず、基本的には定義不可能なものだとしても、同時に客観的概念でもあって、確率関係の形式化である。
確率的判断、つまり蓋然的認識が直観的に自明であり客観的でもあるのは、個々の推論が直知(aquaintance)に基づく前提命題に基づき、既存の知識によって構成される一群の命題に依拠することを含意するためだが、既存の知識自体はけっして直観的には自明とは言えず、実際は多くの場合に蓋然的であり、知識を共有する者にとっても相対的でしかないもので、確率判断が客観的だという主張は循環論に陥る弱点を宿している。
ケインズが21歳の時に書いた論文、「行動に関する倫理」(‘Ethics in relations to conduct’)は、われわれが不確実な将来に向けて正しい行為を選択する根拠となる数学的期待値という意味での善なる帰結の最大化という議論と、経験が教える頻度という意味での確実性という考えを、いずれも否定する。
「確率は無知を意味している。なぜなら、その用語がいかなる意味で使われているのかを、われわれは少しも確実には知らないからである。そして、直近の将来においては善の差引残高を生み出すようなあらゆる行為も、全体としては莫大な悪の差引残高を生み出すことが(自己矛盾ではないという意味において)ありうるという事実は、さらなる証拠を得るまでは、そのような行為が蓋然的に正しいと主張することの障碍とはならないのである。」(ケインズ文書「行動に関する倫理」)
‘Probablity implies ignorance; it is because we do not know for certain that we use the word at all; and the fact that it is possible(in the sense that is not self contradictory)that ever action providing a balance of good in the immediate future may produce a vast balance of evil on the whole is no bar to our assertion, until we have further evidence that such an action is probably right.’(John Maynard Keynes, ‘Ethics in relations to conduct’, read to the Apostles Society, 23 Jan. 1904. quoted from D. E. Moggridge; “John Maynard Keynes, An Economist’s Biography”, 1992, p. 132)
ケインズが21歳の時に書いた論文、「行動に関する倫理」(‘Ethics in relations to conduct’)は、われわれが不確実な将来に向けて正しい行為を選択する根拠となる数学的期待値という意味での善なる帰結の最大化という議論と、経験が教える頻度という意味での確実性という考えを、いずれも否定する。
「確率は無知を意味している。なぜなら、その用語がいかなる意味で使われているのかを、われわれは少しも確実には知らないからである。そして、直近の将来においては善の差引残高を生み出すようなあらゆる行為も、全体としては莫大な悪の差引残高を生み出すことが(自己矛盾ではないという意味において)ありうるという事実は、さらなる証拠を得るまでは、そのような行為が蓋然的に正しいと主張することの障碍とはならないのである。」(ケインズ文書「行動に関する倫理」)
‘Probablity implies ignorance; it is because we do not know for certain that we use the word at all; and the fact that it is possible(in the sense that is not self contradictory)that ever action providing a balance of good in the immediate future may produce a vast balance of evil on the whole is no bar to our assertion, until we have further evidence that such an action is probably right.’(John Maynard Keynes, ‘Ethics in relations to conduct’, read to the Apostles Society, 23 Jan. 1904. quoted from D. E. Moggridge; “John Maynard Keynes, An Economist’s Biography”, 1992, p. 132)
政策としての感染抑止策の選択(προαίρεσις)も同じだ。それは願望(βούελσις)がかかわる実現不能なものではなく、実現可能な「他のようにそうでもありうるもの」(ἑνδεχόμενον)にかかわる行為(πρᾶξις)としてアリストテレスが思案(βούλευσις)と呼び、しかも対象を実現されるべき目的(τέλος)ではなく、それに到達するための手段(πόρος)に関するものだとした。
『ニコマコス倫理学』(第3巻第2章7~10節)で次のように説く。
「ただし、少なくとも願望もまた選択ではない――たとえ、近いものに見えても。なぜなら、不可能なものは選択の対象ではなく、仮に誰かがそれを選択すると公言するなら、その人は愚か者と思われるだろう。だが、願望は不死など不可能なことを対象とする。また、願望はけっして自分自身では成し遂げられないような事柄にも関わる。たとえば、ある俳優なり体操選手なりが競技の勝利者となることを願う場合のように。だが、こうしたことを誰も選択することはなく、選択するのは自分自身によって実現すると思われる事柄に限られる。
これに加えて、願望がむしろ目的に関わるのに対して、選択は目的へと至る事柄(τὰ πρὸς τὸ τέλος)に関わるのであり、たとえばわれわれは健康を願うが、それによって健康になるさまざまな事柄を選択するのである。」(引用続く)
それゆえ、選択は想定でもないであろう。なぜなら、想定はあらゆる事柄に関わるが、『われわれ次第のもの』に劣らず、永遠的なものや不可能なものに関わるからである。また想定(δόξα)は真偽によって弁別され、善悪によっては弁別されないが、選択はむしろこの善悪によって選択される。」(神崎繁訳、『アリストテレス全集』第15巻、104頁)
‘προαίρεσις μὲν γὰρ οὐκ ἔστι τῶν ἀδυνάτων, καὶ εἴ τις φαίη προαιρεῖσθαι, δοκοίη ἂν ἠλίθιος εἶναι· βούλησις δ᾽ ἐστὶ ‹καὶ› τῶν ἀδυνάτων, οἷον ἀθανασίας. καὶ ἡ μὲν βούλησίς ἐστι καὶ περὶ τὰ μηδαμῶς δι᾽ αὑτοῦ πραχθέντα ἄν, οἷον ὑποκριτήν τινα νικᾶν ἢ ἀθλητήν· προαιρεῖται δὲ τὰ τοιαῦτα οὐδείς, ἀλλ᾽ ὅσα οἴεται γενέσθαι ἂν δι᾽ αὑτοῦ. ἔτι δ᾽ ἡ μὲν βούλησις τοῦ τέλους ἐστὶ μᾶλλον, ἡ δὲ προαίρεσις τῶν πρὸς τὸ τέλος, οἷον ὑγιαίνειν βουλόμεθα, προαιρούμεθα δὲ δι᾽ ὧν ὑγιανοῦμεν, καὶ εὐδαιμονεῖν βουλόμεθα μὲν καὶ φαμέν, προαιρούμεθα δὲ λέγειν οὐχ ἁρμόζει· ὅλως γὰρ ἔοικεν ἡ προαίρεσις περὶ τὰ ἐφ᾽ ἡμῖν εἶναι. οὐδὲ δὴ δόξα ἂν εἴη· ἡ μὲν γὰρ δόξα δοκεῖ περὶ πάντα εἶναι, καὶ οὐδὲν ἧττον περὶ τὰ ἀίδια καὶ τὰ ἀδύνατα ἢ τὰ ἐφ᾽ ἡμῖν· καὶ τῷ ψευδεῖ καὶ ἀληθεῖ διαιρεῖται, οὐ τῷ κακῷ καὶ ἀγαθῷ, ἡ προαίρεσις δὲ τούτοις μᾶλλον.’(Ethica Nncomachea, 1111b20~34)
そこには必然的なもの(ἀναγκαῖον)にかかわる理論的考察(θεωρία)が求める厳格な(ἀκριβής)知識とは異なる難しさがある。
「そもそも人はあらゆる事柄について思案するのだろうか、またあらゆることが思案されるうるのだろうか。それともある事柄に関しては思案はないのだろうか。おそらくだれか愚か者や気が変になった者がそれについて思案するような事柄を思案されうるものと呼ぶべきではなく、知性をもった者(ὁ νοῦν ἔχων)がそれについて思案するような事柄をこそ、そう呼ぶべきであろう。」(第3章1~2節、106頁=‘Βουλεύονται δὲ πότερον περὶ πάντων, καὶ πᾶν βουλευτόν ἐστιν, ἢ περὶ ἐνίων οὐκ ἔστι βουλή; λεκτέον δ᾽ ἴσως βουλευτὸν οὐχ ὑπὲρ οὗ βουλεύσαιτ᾽ ἄν τις ἠλίθιος ἢ μαινόμενος, ἀλλ᾽ ὑπὲρ ὧν ὁ νοῦν ἔχων.’; ibid., 1112a18~21)
「…つまり、われわれが思案するものは『われわれ次第のもの』(ἐφ᾽ ἡμῖν)、われわれによって行為されうるもの(πρακτῶν)をめぐってである。これこそ、以上のものを消し去って残ったものである。なぜなら、原因には、自然と必然と偶然(φύσις καὶ ἀνάγκη καὶ τύχη)、そしてさらに知性と人間によるすべてのものが含まれると考えられるからである。しかしながら、人間に関わりのあること(τὸ δι᾽ ἀνθρώπου)なら、そのすべてをわれわれが思案するわけでもない。人間の内のそれぞれの集団は、(それぞれの立場において)自分自身が行いうるものについて思案するのである。」(引用続く)
だが、そうした場合も、われわれが思案するのは目的に関してではなく、目的へと至る事柄に関してである。なぜなら、医者は治療すべきか否か思案することはないし、弁論家も説得すべきか否か思案することはないし、また政治家も善い治世を敷くか否かを思案することはなく、他の知識の専門家の誰もその目的に関して思案することはないからである。つまり、彼らは目的を設定したうえで、どのように、また何を通してそれを実現するかを考察するのである。そして、複数の手段を通じてそれが実現される見込みがあるときは、どれを通してならもっとも容易にもっと上手に実現できるかを考察するものであり、またただ一つのものを通して目的に到達するなら、それを通してどのようにそれが達成され、さらにそのものには何を通して到達するのか、そしてそのように第一の原因にまで辿っていくのであるが、この第一の原因こそであり、発見の順序においては最後のものなのである。」(同7~11節、107~08頁)
‘βουλευόμεθα δὲ περὶ τῶν ἐφ᾽ ἡμῖν καὶ πρακτῶν· ταῦτα δὲ καὶ ἔστι λοιπά. αἰτίαι γὰρ δοκοῦσιν εἶναι φύσις καὶ ἀνάγκη καὶ τύχη, ἔτι δὲ νοῦς καὶ πᾶν τὸ δι᾽ ἀνθρώπου. τῶν δ᾽ ἀνθρώπων ἕκαστοι βουλεύονται περὶ τῶν δι᾽ αὑτῶν πρακτῶν. καὶ περὶ μὲν τὰς ἀκριβεῖς καὶ αὐτάρκεις τῶν ἐπιστημῶν οὐκ ἔστι βουλή, οἷον περὶ γραμμάτων (οὐ γὰρ διστάζομεν πῶς γραπτέον)· ἀλλ᾽ ὅσα γίνεται δι᾽ ἡμῶν, μὴ ὡσαύτως δ᾽ ἀεί, περὶ τούτων βουλευόμεθα, …μᾶλλον δὲ καὶ περὶ τὰς τέχνας ἢ τὰς ἐπιστήμας· μᾶλλον γὰρ περὶ ταύτας διστάζομεν.
τὸ βουλεύεσθαι δὲ ἐν τοῖς ὡς ἐπὶ τὸ πολύ, ἀδήλοις δὲ πῶς ἀποβήσεται, καὶ ἐν οἷς ἀδιόριστον. συμβούλους δὲ παραλαμβάνομεν εἰς τὰ μεγάλα, ἀπιστοῦντες ἡμῖν αὐτοῖς ὡς οὐχ ἱκανοῖς διαγνῶναι. βουλευόμεθα δ᾽ οὐ περὶ τῶν τελῶν ἀλλὰ περὶ τῶν πρὸς τὰ τέλη. οὔτε γὰρ ἰατρὸς βουλεύεται εἰ ὑγιάσει, οὔτε ῥήτωρ εἰ πείσει, οὔτε πολιτικὸς εἰ εὐνομίαν ποιήσει, οὐδὲ τῶν λοιπῶν οὐδεὶς περὶ τοῦ τέλους· ἀλλὰ θέμενοι τὸ τέλος τὸ πῶς καὶ διὰ τίνων ἔσται σκοποῦσι· καὶ διὰ πλειόνων μὲν φαινομένου γίνεσθαι διὰ τίνος ῥᾷστα καὶ κάλλιστα ἐπισκοποῦσι, δι᾽ ἑνὸς δ᾽ ἐπιτελουμένου πῶς διὰ τούτου ἔσται κἀκεῖνο διὰ τίνος, ἕως ἂν ἔλθωσιν ἐπὶ τὸ πρῶτον αἴτιον, ὃ ἐν τῇ εὑρέσει ἔσχατόν ἐστιν.’(1112a30~b20)[完]
人無遠慮必有近憂(『論語』)
(承前3)われわれは常に、無知=不確実性の海に漂っている。「リスクなしに」(ἀκίδυνος)行為を選択できることはある範囲では可能だが、不確実性なしに(σαφῶς)というわけにはいかない。
ケインズによれば、われわれは、今から一箇月後にわれわれの全体的な帰結がどうなっているかを知る方法が存在しない場合でも、「ある行為はxは蓋然的に正しい」と言いたい、という抜き難い傾向があり、実際のところそれに基づいて生きている。
そして確率とは「合理的ではあるが結論を確証できない議論を扱う論理学の一部分」(‘probability as comprising that part of logic which deals with arguments which are rational but conclusive.’=“A Treatise on Probability”, 1921: The collected writings of John Maynard Keynes, 1973, Vol. VIII. p. 241.)であり、帰納法と類比から生じる。
つまり、確率は、ある行為の帰結の蓋然性が過去の経験の知識によって知り得るという頻度説の解釈が意味しているのとは異なり、客観的な自然的事実などではなく、一組の命題に照らして、一組の命題‘a’に対して有するのに理に適った信念の度合を表すものにすぎない(‘then, if a knowledge of ‘h’ justifies ‘a’ rational belief in ‘a’ of degree ‘α’, we say that there is a probability-relation of degree ‘α’ between a and ‘h’.’=ibid., p. 4.)。
「蓋然的である」ということは、われわれの知識に照らして信じることが理に適っていることを意味する。
「それゆえ、この点において、確率は主観的と呼ばれるかもしれない。しかし、論理学に大いに関係しているという意味において、確率は主観的ではない。即ち、それは人間の気まぐれに従うものではない。」(‘Therefore, probability, may be called subjective. But in the sense important to logic, probability is not subjective. It is not, that is to say, subject to human caprice.’=ibid., p. 4.)。
それは個人の心の中に明示された、二つ及至は二組の命題間の論理的な関係になる。
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