今回の新型コロナをめぐる議論を見ていて痛感したことの一つが、日本にはびこる欧米偏重主義だ。科学者の間で「世界の中心は欧米」の考え方がはびこっているだけではない。一般人の間でも「新興国で感染拡大」のように、経済規模の進展度に応じて感染が順々に広がるのが世の中の必然であるかのような思い込みが根強い。
「今の東京は2週間前のニューヨーク」論は記憶に新しいが、「アフリカはやがて感染拡大する、3カ月してヨーロッパのようになっていないとしてもそれはアフリカが後進的だからで、いつか必ずアフリカはヨーロッパのように感染拡大する」という根拠のない思い込みに辟易とする場合が多い。ひどい場合には「アフリカのデータは信用できないだろう」という偏見で一刀両断である。
確かにアフリカに限らず、紛争中の国などでデータの収集に限界があるのは確かだろう。しかしそういう国にこそWHO等の国際機関が入って、少なくとも国家行政への指導を入れている。大陸全域のデータは、アフリカ連合(AU)のアフリカ疾病予防管理センター(Africa CDC)が監督している。「世界にアフリカは存在していないに等しい」という偏見を振りかざして、「日本の死者数が欧米より少ない理由は・・・」などの医学理論などを正当化しようとする姿勢は、医学界では当然なのかもしれないが、国際政治学者の私は大きな疑問を感じざるを得ない。
5月27日の記事で世界各地域の比較を示してみたが、http://agora-web.jp/archives/2046302.html 3週間たったところで、あらためて示してみたい。各地域の人口比率を把握されていない方も多いと思うので、比較を目的にして、100万人当たりの感染者数、100万人あたりの死者数、そして死者数の感染者に対する割合=致死率を示してみた。感染者の数については検査能力によって左右されるのは事実だろう。その意味では、判明した陽性者の中から死者がどれくらい出たかを示す致死率は、最も重要なデータになると思う。(出典:worldometer https://www.worldometers.info/coronavirus/#countries )(各国の地域分類は国連公式地域分類に依拠)
(6月15日)
地域 |
準地域 |
感染者数(/mil) |
死者数(/mil) |
致死率(%) |
アフリカ |
|
184.89 |
4.93 |
2.66 |
|
北アフリカ |
297.43 |
12.50 |
4.20 |
|
東アフリカ |
57.36 |
0.95 |
1.65 |
|
中部アフリカ |
134.31 |
3.04 |
2.26 |
|
南部アフリカ |
1,047.09 |
22.02 |
2.10 |
|
西アフリカ |
134.31 |
2.64 |
1.96 |
米州 |
|
3,837.07 |
201.55 |
5.25 |
|
北米 |
6,150.57 |
341.97 |
5.56 |
|
カリビアン |
783.18 |
21.09 |
2.69 |
|
中米 |
1,076.38 |
102.58 |
9.53 |
|
南米 |
3,294.55 |
139.56 |
4.24 |
アジア |
|
355.73 |
8.82 |
2.48 |
|
中央アジア |
401.99 |
2.59 |
0.65 |
|
東アジア |
69.32 |
3.54 |
5.11 |
|
東南アジア |
178.19 |
5.25 |
2.95 |
|
南アジア |
410.99 |
11.86 |
2.89 |
|
西アジア |
1,993.77 |
28.03 |
1.41 |
ヨーロッパ |
|
2,824.89 |
233.14 |
8.25 |
|
東欧 |
2,410.86 |
42.63 |
1.77 |
|
北欧 |
2,845.24 |
345.06 |
12.13 |
|
南欧 |
3,913.74 |
421.49 |
10.77 |
|
西欧 |
2,583.41 |
289.33 |
11.20 |
オセアニア |
|
218.83 |
3.03 |
1.39 |
なお世界平均の致死率は5.43%である。前回も指摘したが、日本に蔓延している偏見に反し、「欧米よりも・・・」論に意味がないのは、世界の中で突出して欧米の致死率が高いからである。あらためて強調するが、むしろ問うべきなのは、「なぜ欧米でここまで被害が広がったのか」である。
参考までに3週間前の数字も示しておこう。「アフリカはまだ感染拡大していないが、いつか必ずきっと被害を広げる、だってアフリカなんだから」論を裏付ける動きが見られないことは付記しておきたい。
(5月26日)
地域 |
準地域 |
感染者数(/mil) |
死者数(/mil) |
致死率(%) |
アフリカ |
|
88.10 |
2.61 |
2.97 |
|
北アフリカ |
158.51 |
7.36 |
4.64 |
|
東アフリカ |
27.50 |
0.48 |
1.76 |
|
中部アフリカ |
70.16 |
1.96 |
2.79 |
|
南部アフリカ |
354.95 |
7.18 |
2.02 |
|
西アフリカ |
75.62 |
1.60 |
2.12 |
米州 |
|
2,510.62 |
144.90 |
5.77 |
|
北米 |
4,861.26 |
288.51 |
5.93 |
|
カリビアン |
486.61 |
16.30 |
3.35 |
|
中米 |
503.78 |
44.61 |
8.86 |
|
南米 |
1,524.66 |
75.83 |
4.97 |
アジア |
|
213.27 |
6.04 |
2.83 |
|
中央アジア |
238.31 |
1.61 |
0.68 |
|
東アジア |
68.06 |
3.48 |
5.11 |
|
東南アジア |
120.26 |
3.69 |
3.07 |
|
南アジア |
200.74 |
6.98 |
3.48 |
|
西アジア |
1,373.76 |
21.29 |
1.55 |
ヨーロッパ |
|
2,563.15 |
225.41 |
8.79 |
|
東欧 |
1,622.84 |
26.95 |
1.66 |
|
北欧 |
3,327.95 |
413.17 |
12.42 |
|
南欧 |
3,738.60 |
407.66 |
10.90 |
|
西欧 |
2,641.58 |
278.81 |
10.55 |
オセアニア |
|
214.51 |
3.02 |
1.41 |
コメント
コメント一覧 (277)
カロリーネ氏の行為はコメントを書くマナーとして褒められたものでなく、記事を書く資質が欠落している人が何の反省もなく綺麗事を並べたところで、その行為は厚顔無恥。つまりは、黎明の月に向かって吠える虎の威を借る狐。
気がついていないのは本人のみだろう。
「何を言うかより何をするか、が大事」とは以前に本人が述べていた。
なお、下記の文書は、諮問先である政府対策本部に提出されたものではなく、6月24日に日本記者クラブで行われた脇田座長、尾身副座長、岡部構成員による記者会見資料として用いられた専門家会議構成員一同名義のものです。
カロリーネ氏はコメント154で、「素直に客観的に見れば、「専門家会議」の押谷教授も、尾身茂さんも、やさしく、「専門家会議」の権威をかさにきる西浦博教授の勝手なふるまいを許したから、「リスクコミュニュケーション」が乱れ、おかしな世論が出来上がってしまったのであって、「80%の接触削減」がどうしても日本には必要である、という運動をしたのは、「専門家会議」の正式メンバーではない「専門家会議」の権威をかさにきた西浦博教授なのであって、彼の提唱する「日本の経済や社会」に大きな影響を与えるあの活動が、あの時期に、日本に本当に必要であったか、という検証は必要なのである。」と主張しています。
しかし、そのような単純化した図式で捉えて西浦教授個人の責任に矮小化すべき問題ではないことは下記の資料からも明らかであり、西浦教授並びに専門家会議の尾身副座長及び押谷構成員を含む全構成員に対し失礼です。
(日本記者クラブ会見資料)
https://www.jnpc.or.jp/archive/conferences/35670/report
私は、尾身先生・押谷先生らは、専門家会議の活動を通じて、実際に膨大な数の人間の命を救った、と思っている。政治家は、そういう国民の英雄に対して、まずは敬意の念を表現することが大切。それが政治家の第一の務めだろう。私は西浦モデルに対する誤解の弊害を指摘していたが、「日本モデル」司令塔下で一つの役割を持ってはいたのだろう。・・ただブログを見ると批判は続いているし・渋谷健司氏をおかしなところに注入して何もかも台無しにしてはいけない、とうことだ、とまで主張されている。このプロジェクトは、机上の空論ではなくて、現実の日本人の生活、生命がかかっている。検証するのは、当然ではないのだろうか。
「自称」(ἑαυτόν)とか、以前の「健常者」(ὁ ὑγιειονος αἰεί)のように、偏った独自の用語法を含め、とてもまともに相手にできる御仁ではないし、何より度を過ごしたコピペ狂い(κλοπή μανικός)にしてドイツ狂い(Γερμνανία μανία)、ある意味で「原理主義的」な「民主主義教」の心酔者(ὁ πρόθυμος θεραπευτής)だから、狂信的で独善的(μανικός καὶ αύθάδης)なのは、驚くに当たらない。
ギリシア語で、小児のような手に負えない精神の放縦さを称して、「野蛮な」(βάρβαρος)というのが「話が通じない人」にもつながるわけで、粗野な「精神の田舎者」(ἄγροικος τῆς ψυχῆς)の典型である老媼のように、年を重ねても一向に成熟しない「お子様」(τὸ παιδάριον)というか「ねんね」(τὸ βρέφος)というのか、「精神の幼児」(ὁ νήπιος τῆς ψυχῆς)は存在するようで、他人など批判している場合ではなく、少しは自分に気を配り、その浅ましい実態を見つめ直して頭を冷やせばと考え、ラ・ロシュフコーの『箴言』を添えた所以だ。
どうにも呑み込みが悪いようだから追加するなら、「老いた狂人は、若い狂人よりさらに狂っている。」(‘Les vieux fous sont plus fous que les jeunes.’; La Rochefoucauld; Maximes 444)とか、「老人たる術を心得ている者は稀である。」(‘Peu de gens savent être vieux.’; ibid., Maximes 423)ということなのだろう。
身のほどを弁えて慎めばよさそうに思うが、「老いたる小児」(γεραιός παιδάριον)にすぎない老媼のような戯け者(ἠλίηθιος)はその程度の分別もなく、「人間は年を重ねるにつれ、一層物狂おしくなり、また一層賢明になる。」(‘En vieillissant, on devient plus fou et plus sage.’; ibid., Maximes 210)という肝腎の境目で、愚鈍さゆえに自制心も働かず、醜態をさらすことになる。
一知半解の素人知識を振り回すただ阿呆を相手にしないだけなのか、さすがに日下部氏には分別が具わっており歯牙にもかけない様子だが、各国の感染状況や人口当たりの死者数(死亡率)、実際の感染者に対する死亡率(致死率)をもたらしている真の要因がクラスター対策の採否や適否、その他の介入措置や、生活習慣や社会的慣習の違い以外に、もっと支配的な別の因子(τὸ αἴτιον)があるのではと示唆して、数理モデル解析による流行規模予測のパラメータである獲得免疫以外に、生体に元々具わった免疫システムのうち自然免疫の役割に注目しているわけで、宮坂昌之氏(大阪大免疫学フロンティア研究センター招聘教授)の研究もあり、けっして「どうでもいい予想」ではないし、何も知らない素人が、⇒【「専門家」の主張を妄信】云々と、十把一からげ(πάγκοινος)に切って捨てる性質の問題でもない。
定量抗体検査に基づきさまざまなデータや知見を公表している東京大先端科学研究センターの名誉教授、児玉龍彦氏(分子生物学、内科医、血管システム分野)のように、精密抗体検査による血液中のIgG抗体やIgM抗体の解析を通じて、感染後に遅れて形成されるIgG抗体が、一部の被検者では必ずしも新型ウイルスによるものではなく、他のコロナウイルスに過去に感染した影響とする交差免疫の可能性を指摘する例もある。
それもこれも、親の教導(τροφή)が悪いのだろうし、実験校らしい国立大付属校時代に受けた教育(παίδευσις)、「親の言うことを聞かなくていいから自分の頭で考える」とかいう、革命教育や宗教家の折伏でもあるまいし、歪んだ教育(νόθη παιδεία)を真に受けた哀れな犠牲者なのだろう。
単細胞の虚け者、狂信家は世に少なくない。「精神の狭量は頑迷をもたらす。われわれは自分の理解を超えるものをなかなか信じようとしない。」(‘La petitesse de l’esprit fait l’opiniâtreté, et nous ne crpyons pas aisément ce qui est au-delà de ce que nous voyons.’; ibid., Maximes 265)というだけのことなのだろう。
他人の言説の盗み癖、剽窃をものともしない婆さんの「盗人猛々しい言い分」(ὁ τοῦ κλέπτου λόγος=盗賊の論理)は相手にするも愚かで、恥(αἰσχύνη)を恥ともしないその臆面のなさ(τὸ θαράσος)、厚顔無恥ἀναισχυντία)は本欄読者の周知の事実で、老婆心氏が指摘するまでもない。
それを考え合わせると、179⇒【大事なことは本の知識ではなくて、幼稚園の時習った「よく見、よく聞き、よく考えよう」である】のような他愛もないお子様道徳を喋喋する婆さんの虚勢(πρόσχημα)と度を越した自己愛(φιλαυτος)が、一種の不治の病い(ἀνίατος νόσημα)であることが分かる。
人生の黄昏時に狂信に取り憑かれた(ἐνθυσιασμός)姿は、老媼の自画像なのだ。
そのなかで全人代常務委員会が可決し、返還23周年のあす1日にも香港に施行されるとの観測が出ている国家安全維持法を、国際条約を反古にして強行しようとしている共産党独裁という現代の寡頭制が目指す国益なるものが、中国人民の共通の利益などではなく、中国共産党というという集団の少数者(οἱ ὁλίγοι)の支配、つまり支配者の利益(τὸ ἄρχῇ συμφέρον)にすぎないことを浮き彫りにしている。
「もろもろの国制はいかなる原因によって変化するのか、その原因はどれくらいの数があり、どのようなものか、また、それぞれの国制を崩壊させるものは何か、そして、多くの場合、それらはどのような国制からどのような国制へと変動するのか、さらには、国制を守る方策は一般に何であり、個別には何であるのか。最後に、それぞれの国制を最もよく守る手段は何かである。」(瀬口昌久訳『政治学』第5巻1章、『アリストテレス全集』第17巻、248頁=‘ἐκ τίνων δὲ μεταβάλλουσιν αἱ πολιτεῖαι καὶ πόσων καὶ ποίων, καὶ τίνες ἑκάστης πολιτείας φθοραί, καὶ ἐκ ποίων εἰς ποίας μάλιστα μεθίστανται, ἔτι δὲ σωτηρίαι τίνες καὶ κοινῇ καὶ χωρὶς ἑκάστης εἰσίν, ἔτι δὲ διὰ τίνων ἂν μάλιστα σῴζοιτο τῶν πολιτειῶν ἑκάστη,’; Politica, 1301a20~24)
「第一に認めるべき出発点は、先にも述べられたように、多くの国制が生じたのは、万人が正義、すなわち比例関係に応じた平等に賛成するが、それについて誤るからということ。なぜなら民主制は、何らかの点にかぎって等しい者たちが、無条件に自分たちが等しいと考えることから生じたからである。つまり、すべての者が同じように自由であるから、無条件に平等であるとみなしている。これに対して、寡頭制は、ある一点でのみ等しくない者たちが、全面的に自分たちが等しくないと想定することから生じた。つまり、財産の点で等しくないことから、無条件に自分たちが等しくないと想定する。したがって、前者は等しいという理由から、自分たちがあらゆるものを等しく分けもつのに値すると考えるのに対し、後者は等しくないという理由から、より多くの利益を得ようと求める。なぜなら、より多く得ることが、等しくないことにほかならないから。事実たしかに、これらのいずれの国制も何がしかの正義をもつが、しかし、無条件には誤っている。
…しかし、平等には二種類ある。すなわち、数による平等と価値に応じた平等である。数による平等とは、量の大きさにおいて同一で等しいことで、価値に応じた平等とは、比例に即した平等である。…それゆえ、とりわけこのこれら二つの国制、すなわち民主制と寡頭制が生じる。なぜなら、生まれのよさと徳は少数の者にしか見出されないが、富と貧困は多数の者に見出されるからである。というのも、生まれのよい善き人々はどこであれ百人もいないが、富裕者たちは多くのところに数多くいるからである。しかし、あらゆる点で一方の平等に従って国制を秩序づけるのは低劣である。…したがって、ある事柄には数的平等を、別の事柄には価値的平等を用いなければならない。」(248~52頁)
‘δεῖ δὲ πρῶτον ὑπολαβεῖν τὴν ἀρχήν, ὅτι πολλαὶ γεγένηνται πολιτεῖαι πάντων μὲν ὁμολογούντων τὸ δίκαιον καὶ τὸ κατ᾽ ἀναλογίαν ἴσον, τούτου δ᾽ ἁμαρτανόντων, ὥσπερ εἴρηται καὶ πρότερον. δῆμος μὲν γὰρ ἐγένετο ἐκ τοῦ ἴσους ὁτιοῦν ὄντας οἴεσθαι ἁπλῶς ἴσους εἶναι (ὅτι γὰρ ἐλεύθεροι πάντες ὁμοίως, ἁπλῶς ἴσοι εἶναι νομίζουσιν), ὀλιγαρχία δὲ ἐκ τοῦ ἀνίσους ἕν τι ὄντας ὅλως εἶναι ἀνίσους ὑπολαμβάνειν (κατ᾽ οὐσίαν γὰρ ἄνισοι ὄντες ἁπλῶς ἄνισοι ὑπολαμβάνουσιν εἶναι). εἶτα οἱ μὲν ὡς ἴσοι ὄντες πάντων τῶν ἴσων ἀξιοῦσι μετέχειν• οἱ δ᾽ ὡς ἄνισοι ὄντες πλεονεκτεῖν ζητοῦσιν, τὸ γὰρ πλεῖον ἄνισον. ἔχουσι μὲν οὖν τι πᾶσαι δίκαιον, ἡμαρτημέναι δ᾽ ἁπλῶς εἰσιν. …ἔστι δὲ διττὸν τὸ ἴσον• τὸ μὲν γὰρ ἀριθμῷ τὸ δὲ κατ᾽ ἀξίαν ἐστίν. …δὲ ἀριθμῷ μὲν τὸ πλήθει ἢ μεγέθει ταὐτὸ καὶ ἴσον, κατ᾽ ἀξίαν δὲ τὸ τῷ λόγῳ, …διὸ καὶ μάλιστα δύο γίνονται πολιτεῖαι, δῆμος καὶ ὀλιγαρχία• εὐγένεια γὰρ καὶ ἀρετὴ ἐν ὀλίγοις, ταῦτα δ᾽ ἐν πλείοσιν• εὐγενεῖς γὰρ καὶ ἀγαθοὶ οὐδαμοῦ ἑκατόν, εὔποροι δὲ <καὶ ἄποροι> πολλοὶ πολλαχοῦ. τὸ δὲ ἁπλῶς πάντῃ καθ᾽ ἑκατέραν τετάχθαι τὴν ἰσότητα φαῦλον. …διὸ δεῖ τὰ μὲν ἀριθμητικῇ ἰσότητι χρῆσθαι, τὰ δὲ τῇ κατ᾽ ἀξίαν.; ibid., 1301a25~36, b29~32, 39~02a4, a7~8)
中国版寡頭制の害悪は根源的なもので、香港やコロナ禍が示す通りだ。[完]
逆に、現在の感染状況から見て、3月の2波の発生源が欧州からのウィルスの菌であったことを考えると、(このことがあるから、はっきりさせてほしいのであるが)、欧州からの渡航の自由化を相互互換的に、絶対に拡大してほしくないが、日本の「専門家会議」のCovid19の「感染を抑える政策、方針」は正しかった、と評価すべきなのではないのだろうか。
PCR検査の問題点として、Covid19は潜伏期間が長く、発症前が一番感染力が強く、感染初期は検査の精度が低いから、総合的な判断の指標になりにくい、という問題点がある。また、基本再生産数は2.5で指数倍で感染するので、一度大規模なクラスターが発生すると、爆発的な感染力をもつ。その為に、日本と違って政治指導者がCovid19対策に不熱心だった英米、ブラジルは、世界ワーストになっているのである。選挙も近い。小池知事には、どのように総合的に判断して、東京都の医療崩壊を起さず、都民の健康を守るのか、ということを具体的に都民にわかりやすく説明される義務があるのではないのだろうか。
(参考: 民主主義の擁護、ハンス・ケルゼン著、岩波文庫)
>基本再生産数は2.5で指数倍で感染するので、一度大規模なクラスターが発生すると、爆発的な感染力をもつ。
あれれ~?(江戸川コナン風)
カロリーネさんは西浦教授が「基本再生産数を2.5」したことに批判的じゃなかったけ?
なぜ、
183. 日下部眞一さんへ
なぜ「10万か、100万か誰もわかりません」と答えたら「専門バカ」で、「クルーズ船の経験に基づけば、おそらく国内で200万人くらいの人が既に感染していると予測できます」と答える方が優れているのですか?
いたずらに(=十分な根拠なく)社会不安を惹き起こす方が「専門バカ」ではないのですか?
ましてご自身の主張を「抗体検査で陽性が出ないのはおそらく日本人(非米欧人?)の免疫反応が獲得免疫ではなく自然免疫か非常に免疫反応初期の段階で防御反応を起こしているからにちがいないだろう。」と正当化されるのであれば、そのことについての何らかのエビデンスをお持ちなのですか?
そうしたなか、ウイルスの発生源で、世界中の厄病神(ὁ λυμεών)の中国の動きは油断ならない。体制維持のため、ある意味で追い詰められており、なりふり構わぬ暴慢ぶりが際立つ。その典型が香港問題だ。
自由(ἐλευθερία)といい平等(ἰσότης)といっても、現実の政治で強者(οἱ κρατοῦντες)による剥き出しの権力を見せつけられると、本日1日から香港に導入され、逮捕者を出した国家安全維持法を挙げるまでもなく、民主化運動を主導する学生ら弱者(οἱ ἥττους)は抵抗の手段選択も困難になり、政治の酷薄さをまざまざと見せつける
「というのも、平等と正義を求めるのはいつも弱者の側であり、強者の側はそうしたものをまったく気にかけないからである。」(‘ἀεὶ γὰρ ζητοῦσι τὸ ἴσον καὶ τὸ δίκαιον οἱ ἥττους, οἱ δὲ κρατοῦντες οὐδὲν φροντίζουσιν.’; Politica, 1318b1~5)とはアリストテレスの認識だが、「法の支配」(νόμου ἀρχή)も中国にかかると、爾後に恣意的に別の法を制定して(νομοθετέω)支配するわけだから、支配者(ὁ ἄρχων)である当局=共産党と人民の関係は、主人(δεσομότης)と奴隷(δοῦλος)の関係である前時代的な専制支配(δεσομοτεία)と選ぶところはない。
そこに、民衆=市民(πολίτης)が主体となる市民的支配(πολιτική ἀρχή)の理想などどこにもなく、先端テクノロジーが現実化させた監視体制も加わり、文字通り、支配者が否応なく被支配者(ὁ ἀρχόμενος)、「民衆を隷属化させる」(καταδουλοῦται δῆμον)という、近未来のディストピアを先取りしている。
周庭氏は昨日30日午後、「私、周庭は、本日をもって、政治団体デモシストから脱退致します。これは重く、しかし、もう避けることができない決定です。絶望の中にあっても、いつもお互いのことを想い、私たちはもっと強く生きなければなりません。生きてさえいれば、希望があります」とSNS上で声明を出した。
3日前の28日には、「香港で自由や民主主義のために戦う人たちは、自由や命を失うことも考えないといけないということが、本当に悲しい。私も、たくさんの夢を持っているのに、こんな不自由で不公平な社会で生き、夢を語る資格すらないのか。これからの私は、どうなるのか…いつかまた日本に行きたいなぁ。」――末尾の一節が切ない。
昨秋に逮捕されたのに伴う裁判が現在も続いており、保釈中で出境(香港は国家ではなく「出国」ではない)は許されず、事態の急展開に、新疆ウイグル地区での弾圧や人権派の相次ぐ拘束、以前の巨大宗教運動、法輪功への弾圧の恐怖が重なるのだろう。
「日本の皆さん、自由を持っている皆さんがどれくらい幸せなのかをわかってほしい。本当にわかってほしい…」(28日)と呼び掛けられた日本でも報道されたものの、当局を含め受け止めは及び腰で、コロナ論議を含め、如何に日本が内向き志向で、現代民主制の根幹をなす、自由や法の支配、人権について鈍感(ἀναισθησία)であるかを示している。
「欧米偏重」批判も何もあったものではない。日本も「田舎者」だ。
アリストテレスの議論で強調されるのは、民主制に比べて寡頭制が内乱を引き起こしやすく、利点より弊害の多い国制だという認識だ。つまり、民主制で内乱の原因になるのは寡頭派に対する反撥としてのそれで、民衆同士での内乱が体制自体を揺るがすことはなく比較的安定しているのに対して、寡頭制の場合、二種類の内乱が生じるからだとされる(Politica, 1302a8~15)。
その一つは支配層内部の内紛で、権力闘争も含まれる。他方は民衆に対する内乱、つまり、民衆が支配者によって不正を受けた、不利益を被ったとして内乱を起こす場合だ。
今回のような香港に対する中国の抑圧もそうした不正だ。なぜ民衆の反撥が避けられないかと言えば、自分たちが本来は政治的に等しい者でありながら、法や慣習が保証するはずの等しいものに与っていない、扱いを受けていないという理由だ。
いずれの国制でも、「いずれの側も、国家統治に参画して、自分たちが抱いている想定に反する場合、内乱を引き起こす」(‘ὅταν μὴ κατὰ τὴν ὑπόληψιν ἣν ἑκάτεροι τυγχάνουσιν ἔχοντες μετέχωσι τῆς πολιτείας, στασιάζουσιν.’; ibid., 1301a37~39)わけだが、民主制での民衆同士の間の対立は内乱に発展する余地は少なく、寡頭派、例えば貴族層が自分たちは等しい者ではないのに、等しい待遇や権利にとどまっているという理由で反撥し、それが民衆の反感を誘って内乱につながるとしても、民主制が寡頭制より政治的にははるかに安定している、とする。
一方、アリストテレスの説く、民主制の根幹である自由とは、次のようなものだ。
「民主的な国制の基本原理は自由である(というのも、この国制においてのみ人は自由にあずかると一般に言われているからである。実際、人々はこれこそあらゆる民主制が目指すものであると言っている)。ところで、自由の一つの要素は、支配に服することと支配することを交替で務めることである。というのも、民主制的な正義とは、価値に応じた平等ではなく、数に応じた平等を(市民が)享受することだからである。そして、もしこれが正義であるとすれば、最高の権限を握るのは大衆でなければならず、何であれ多数者の決めることが終極目的とされ、正義にかなったこととされるのでなければならない。というのも、人々の主張によれば、市民のそれぞれが等しいものにあずからなければならないからである。その結果、民主制においては富裕者よりも貧困者の方がいっそう大きな権限を握ることになる。なぜなら、彼らは多数者であり、民主制においては多数者の意見に最高の権限があるのだから。かくして、以上のことが自由の一つの指標であり、民主派の人々はみなそれをこの国制の特徴とみなしているのである。」(相澤康隆訳『政治学』第6巻2章、『アリストテレス全集』第17巻、328~29頁)
‘ὑπόθεσις μὲν οὖν τῆς δημοκρατικῆς πολιτείας ἐλευθερία (τοῦτο γὰρ λέγειν εἰώθασιν, ὡς ἐν μόνῃ τῇ πολιτείᾳ ταύτῃ μετέχοντας ἐλευθερίας• τούτου γὰρ στοχάζεσθαί φασι πᾶσαν δημοκρατίαν)• ἐλευθερίας δὲ ἓν μὲν τὸ ἐν μέρει ἄρχεσθαι καὶ ἄρχειν. καὶ γὰρ τὸ δίκαιον τὸ δημοτικὸν τὸ ἴσον ἔχειν ἐστὶ κατὰ ἀριθμὸν ἀλλὰ μὴ κατ᾽ ἀξίαν, τούτου δ᾽ ὄντος τοῦ δικαίου τὸ πλῆθος ἀναγκαῖον εἶναι κύριον, καὶ ὅ τι ἂν δόξῃ τοῖς πλείοσι, τοῦτ᾽ εἶναι τέλος καὶ τοῦτ᾽ εἶναι τὸ δίκαιον• φασὶ γὰρ δεῖν ἴσον ἔχειν ἕκαστον τῶν πολιτῶν• ὥστε ἐν ταῖς δημοκρατίαις συμβαίνει κυριωτέρους εἶναι τοὺς ἀπόρους τῶν εὐπόρων• πλείους γάρ εἰσι, κύριον δὲ τὸ τοῖς πλείοσι δόξαν.’(ibid., 1317a40~b10)
さらに、もう一つの自由、貧富や能力、出自やその他の格差を認めつつ、それぞれにとっての最善の生(ἀρίστη ζωη)と思うものを、強制されることなく自由に選び取ることが善く生きる(εὐ ζῆν)ことだとする価値観に説き及ぶ。
「自由のもう一つの要素は、人が自分の望むままに生きることである。なぜなら、彼らの主張によれば、望まない仕方で生きることが奴隷の生き方である以上、望むままに生きることは自由の所産にほかならないからである。したがって、これが民主制の第二の特徴にということになる。そしてここから、できれば誰からも支配されないことが、あるいはそれが叶わないならば、(支配と被支配を)交替で務めることが要求されるようになったのである。またこのような仕方で、民主制の第二の特徴は平等にもとづく自由に貢献しているのである。」(329頁)
‘ἓν μὲν οὖν τῆς ἐλευθερίας σημεῖον τοῦτο, ὃν τίθενται πάντες οἱ δημοτικοὶ τῆς πολιτείας ὅρον• ἓν δὲ τὸ ζῆν ὡς βούλεταί τις. τοῦτο γὰρ τῆς ἐλευθερίας ἔργον εἶναί φασιν, εἴπερ τοῦ δουλεύοντος τὸ ζῆν μὴ ὡς βούλεται. τῆς μὲν οὖν δημοκρατίας ὅρος οὗτος δεύτερος• ἐντεῦθεν δ᾽ ἐλήλυθε τὸ μὴ ἄρχεσθαι, μάλιστα μὲν ὑπὸ μηθενός, εἰ δὲ μή, κατὰ μέρος, καὶ συμβάλλεται ταύτῃ πρὸς τὴν ἐλευθερίαν τὴν κατὰ τὸ ἴσον.’(ibid., 1317b10~b17)
最後に、
「以上が民主制に共通する特徴である。しかし、民主制や民衆支配の典型と考えられているものは、民主制的であると同意されている正義…の帰結として生まれる。つまり、貧困者が富裕者以上に支配にあずかることもなく、貧困者だけが最高の権限を握ることもなく、すべての人が数に応じて等しく支配にあずかることが平等にほかならない(と考えられている)のである。実際、そうであればこそ、その国制には自由と平等があると人々は考えるであろう。」(330~31頁)
‘τὰ μὲν οὖν κοινὰ ταῖς δημοκρατίαις ταῦτ᾽ ἐστί• συμβαίνει δ᾽ ἐκ τοῦ δικαίου τοῦ ὁμολογουμένου εἶναι δημοκρατικοῦ ……ἡ μάλιστ᾽ εἶναι δοκοῦσα δημοκρατία καὶ δῆμος. ἴσον γὰρ τὸ μηθὲν μᾶλλον ἄρχειν τοὺς ἀπόρους ἢ τοὺς εὐπόρους, μηδὲ κυρίους εἶναι μόνους ἀλλὰ πάντας ἐξ ἴσου κατ᾽ ἀριθμόν• οὕτω γὰρ ἂν ὑπάρχειν νομίζοιεν τήν τ᾽ ἰσότητα τῇ πολιτείᾳ καὶ τὴν ἐλευθερίαν.’(ibid., 1318a3~10)
現在の中国にそのいずれも欠落しているのは、明らかだ。ディストピアたる所以だ。[完]
という批判について、私は、クラスター探査というのが、Covid19を収束するための重要なツールと考えていて、岡田晴恵博士をはじめとするマスコミの専門家たちの、これだけ市中感染が広がったら、クラスター探査の努力は無駄だ、とにかくPCR検査を増やせ、その延長線上に接触を80%削減すればいいという提言があると考えている。要するに、西原博教授が基本再生産数2.5を使われた、ということは、日本政府も専門家委員会も、なんら有効な対策をうてていなかった、ことを意味している、と受け取ったから、批判したのである。クラスター対策も三密と並んですばらしい対策、PCR検査を国民すべてにするよりよほど、効果的な対策だと考えているからである。
日下部眞一氏が214で韜晦するのとは別な意味で、本日も早朝からクズ投稿を11件も撒き散らす本欄の「コロナ狂」(ὁ στέφανος μαίνομαι)のように、専門家に敵愾心を露わにする独自の狂信的な民主主義の心酔者(ὁ σπουδαῖος)、一種のムスリム的絶対帰衣者(muslim)がいて、昨今は解散した政府専門家会議副座長の尾身茂氏に肩入れして、氏を何やら神聖視して聖域(τὸ ἱερός)とする依嘱感情が際立っている。
「民主主義狂」だから、政治参加の原理にすぎない「すべての人が数に応じた平等を享受すること」(‘δ᾽ ἐστὶ τὸ ἴσον ἔχειν ἅπαντας κατ᾽ ἀριθμόν’)を拡張して、自らと相容れない、または理解できな見解の持ち主に極めて不寛容(ἀγνωμοσύνη)だ。
新型コロナ同様、「伝染病のようにうつる狂気がある。」(‘Il y a des folies qui se prennent comme les maladies contagieuses.; Rochefoucauld, Maximes 300)のは確かなようで、最も感染力があるのは発症2日前から発症後平均0.7日とされる知見の含意を理解せず、それを指定感染症の法的規定と直結させ、対策の有効性と同一視して、213⇒【日本の場合…Covid-19が政令で…指定医療機関に入院を強制…感染力の強い時期に厳密な隔離状態におかれたと同じ】のような奇妙な勘違いに行き着く。
法令上の建前が直ちに有効となるはずもなく、感染規模が未解明な状態で、前提となる検査との関連を閑却した狂信家の素人論議はどこまでも愚劣かつ野放図で、狂態を生む思い込み=聖なる病(ἱερὰ νοσός)に畏れ入る。
「莫迦は死なねば治らないのであり、救いの道はないのである。」(‘El tonto es vitalicio y sin poros.’; José Ortega Y Gasset, ‘‘La leberión de las masas’’)
まずは返しコメントありがとうございます。
しかし、そもそも私が201で申し上げたのは、「誰も分かりません」と応えた方が「専門バカ」であるということの論拠を問うものであって、その点につきお返事をいただけなかったことは誠に残念です。
なお、私が尾身教徒でも西浦信徒でもないことを申し添えた上で、以下に貴コメントに関して感じたことを書かせていただきます。
>感染者数の推定法は自分で考えてみてください。
→私は全くの素人ですが、学問的妥当性を欠いてもいいのなら、推定方法くらいは考えられます。問題はその方法の妥当性ではないのですか?
>クルーズ船の調査結果は、横浜、長崎の二つの感染例でほとんど一致しています。
→「何が」一致しているのですか?
>直感的には、日本人の死亡率は欧米の50-100分の1だから、少なくとも発表日本人感染発病者数2万人の50-100倍くらい、つまり感染者は全国で100-200万人くらいにはなります。
→「直感的には」という論拠で他人を「専門バカ」呼ばわりされるのですか?
「死亡率」とは「人口当たり死者数」を意味されているようですが、用語は丁寧にご説明いただいた方が助かります。
人口当たり死者数から感染発病者数を(他人を「専門バカ」呼ばわりできる程度の正確さを確保しつつ)推計できるのでしょうか?死者数は医療提供体制に依存する面も大きいのではないでしょうか?
当初は推計の根拠をダイヤモンドプリンセスでのデータとされていたはずなのに、欧米の事例など違うものを持ち出されても困ります。
〔続きます〕
>私自身、福岡市の地下街で3月13日頃コロナに市中感染したと自覚していますので、結構市中まん延していたのだろうかという感触は持っています。
→「自覚」とか「感触」でご説明いただいても、赤の他人(=私のこと)にはちんぷんかんぷんです。
>コロナ咳がぬけるのに2週間ほどかかりました。
→その咳を「コロナ咳」と判断されたのも「自覚」と「感触」によるものですか?
>全く発熱しなかったのは、4年前に受けていた「23価肺炎球菌ワクチン」のおかげかなと思っています。
→この部分は、抗体検査の結果を自然免疫によるものとされたことにつき質問させていただいたことへのご回答であると認識しております。
私は素人ですが、ワクチンに自然免疫を高める作用も存在するらしいということは承知しておりますが、一般にワクチン接種の結果として得られるのは獲得免疫ではないのですか?
>免疫トレーニングも大切かもしれませんね。コロナ感染が社会不安になるように仕向けて行ったのは・・・
→この部分以降は(211の貴コメントを含め)尾身氏を「専門バカ」と呼ばれた理由についてのご説明ではありませんし、山中氏や小林氏のことを持ち出されても、困惑するばかりです。
以上は貴コメントを拝読して私が感じたところ・疑問を持ったところを率直に述べたものです。
既に貴殿が当方の質問に真面目に回答するお気持ちはないということは明白だとお見受けしましたので、返しコメントは「気が向いたら」ということで結構でございます。
どうも、お騒がせいたしました。お詫びします。
世界の人々は、もうとっくに、トランプ大統領の嘘を見抜き、政治家としての資質を見抜いているのに、日本の政治部記者は、どうして嘘を見抜き、その人に民衆の生活の多大な影響を与える政治家としての資質があるかどうかを見抜けず、彼らの放つ「印象操作」を拡散するのだろう。「専門家」の肩書や主張に騙され、「本質」がみえていない、としか思えないが、そのような人々に「世論形成」させて、本当に大丈夫なのか、と思う。
私のコメントに対しては、貴コメントは、途中に「・・・と考えている。要するに・・・」という文言を挟んでいますが、要するに「・・・と受け取ったから、批判したのである。」ということですね。
それで、現時点でその「受け取り」に変化はあるのですか、ないのですか?
別に、「かつては「2.5」という数値を批判したが、斯々の理由で(全面的に肯定することはできないにせよ)やみくもに否定するという考えも放棄した」ということでも差し支えございません。
貴女の主観的な「受け取り」ではなく、もう少し客観的な論理性をもってご説明いただけないでしょうか?
以上が総論です。
連投になりますが、貴女の「受け取り」の内容その他について、次にコメントさせていただきます。
>私は、クラスター探査というのが、Covid19を収束するための重要なツールと考えていて
→無学なもので「クラスター探査」という言葉はあまり聞き慣れないのですが、クラスター調査・対策がCovid19の収束に無意味であると考えている人は圧倒的少数派であって、わざわざ「私は・・・と考えていて」なんて大見得を切るほどのものではないと思います。
〔続きます〕
>岡田晴恵博士をはじめとするマスコミの専門家たちの、これだけ市中感染が広がったら、クラスター探査の努力は無駄だ、とにかくPCR検査を増やせ、その延長線上に接触を80%削減すればいいという提言があると考えている。
→クラスター対策班の西浦教授がクラスター対策を無駄だと考えたのですか?
私の知る限りでは、西浦教授が「とにかくPCRを増やせ」と仰ったことはないと思いますし、岡田教授との緊密な接点もないと思います。なぜ「延長線上」になるのですか?
>西原博教授が基本再生産数2.5を使われた、ということは、日本政府も専門家委員会も、なんら有効な対策をうてていなかった、ことを意味している
→なぜ、そのように受け取ることができるのですか?有効な対策を打てたか否かという問題と基本再生産数とは本質的には無関係のはずです。
比較的早い段階でアゴラ一派の中に基本再生産数と実効再生産数の区別がついていない方がいらっしゃったと記憶していますが、貴女もかつては同様の認識だったということですか?
>クラスター対策も三密と並んですばらしい対策、PCR検査を国民すべてにするよりよほど、効果的な対策だと考えているからである。
→ですからクラスター対策や三密回避の呼び掛けを行ったのは、専門家会議や西浦教授を含むクラスター対策班であるのであって、同時に彼らから「PCR検査を国民すべてにする」べきだという提言はなかったと思うのですが、私の記憶が抜け落ちているのでしょうか?
>指名返信してない限り、自分へのコメントと思い込むのは解釈間違いでしょう。多くの人が見ているのですから。
これは大変失礼いたしました。
しかし貴殿のご批判が正当なものだとすれば、210で「感染者数の推定法は自分で考えてみてください」とおっしゃっているのは、誰に対する呼び掛けなのですか?
なに、「221も指名返信していなから「通りすがりの老人」が絡んでくるのはおかしい」とおっしゃる、これは重ね重ね失礼しました。
>いちいち人に聞かずに自分で調べ、自分で考えるくらいの努力はしなさい
ですから216で「学問的妥当性を欠いてもいいのなら、推定方法くらいは考えられます」と申しているではないですか。
私は、他人を「専門バカ」呼ばわりすることが可能なレベルの妥当性を持った推定方法について教えを乞うたのです。
頓珍漢な上から目線がマジでうけます(笑)
名前
カロリーネ
本文
基本再生産数、というのは、何も手を打たない場合、一人が何人に感染させる、というもので、ドイツの実効再生産数の目標は、1以下であった。そうすれば、爆発的な感染爆発をしないからである。西浦教授が2.5という数字を使い、このままいけば、42万人死者が出る、と言われたということは、有効な対策はそれまでなにもしていなかった、ということと同意義になります。ただ新型インフルエンザの場合は、発病をしてからしか感染させないので、クラスター調査は必要ないのですが、Covid19の場合は、感染後発病前に一人で10人以上移すスーパースプレッダーがいるから、三密回避、隔離で捕まえる必要があるのです。私が主張しているのは、だれが主に、80%接触削減を主導したか、ということです。
>西浦教授が2.5という数字を使い、このままいけば、42万人死者が出る、と言われたということは、有効な対策はそれまでなにもしていなかった、と同意義になります。
西浦教授が「基本再生産数2.5」を用いたのは「死者42万人」よりも前です。
また同教授は「何も対策をしていない場合、42万人死者が出る」という趣旨のことはおっしゃっていたと記憶していますが、「このままいけば」とはおっしゃっていないはずです。
そもそも日本では、2月下旬から一斉休校などの措置を講じており、実効再生産数が2.0を超えたことはありませんでした。
したがって「有効な対策はそれまでなにもしていなかった、と同意義に」はなりません。
確認しましたが、2月初旬と3月中旬に実効再生産数が2.0を超えたことがあったようです。
お詫びして訂正します。
東、東南アジアや東欧、オセアニアのように地域差、地域的傾向も目立つ一方、隣接国でも明らかな違いがみられる。このところ死者数が全く動かない中国のように、統計の基準に信憑性を疑わせる事例もある。
感染者数と感染率とは一部連動しているが、検査数が少なければ、しかも検査対象がどの範囲に及ぶかによって、明らかな差異が生じる(例えば、感染者数世界4位だが感染率は低いインドと、感染率が突出しているが感染者数は少ないバーレーンは、人口当たりの検査数と、何より人口規模に左右される。そして、人口が多い国はそれだけ、今後の感染者予備軍を抱えている。
一方、致死率と死亡率も必ずしも重ならない。両者がいずれも際立って高いのは欧州だが、前者は医療体制の違いに大きく依存する。イタリア、スペインとドイツの違いだ。しかし、英仏やベルギー、オランダなど、致死率が軒並み10%を超す各国の医療事情が必ずしも、医療崩壊状態を来しているわけではない。
同じことは死亡率についても指摘できる。致死率との違いは必ずしも医療事情と連動しないことで、欧州内の比較でもそうだが、欧州と他の地域を分ける際立った要素になっている。
しばしば指摘される社会的、生活インフラ的要因、即ち衛生環境の違いや、マスクや手洗いなど公衆衛生意識、生活習慣の差に加え、高齢化率や肥満など生活習慣病にかかわる要素だけでは充分に説明できない事例が多い。
さらに、急拡大している南アフリカ以外は、全体的に感染者は増加しているものの感染爆発を逃れているようにみえるアフリカは、前回と比べて際立った変化はみられないが、南アフリカだけが特異な状況にあるとも思えない。さらに、カメルーンやスーダンのように、統計が6~4日も動かない国もある。検査体制その他、事情があるのだろう。アフリカでの感染症の脅威は新型コロナだけではないからだ。
米国はここに来て経済活動を再開させた中南部諸州やカリフォルニアなどで感染者の増加が際立って270万人を超えたが、逆に致死率は4.77%にまで低下し、重症者の死亡を回避する医学的コントロールは破綻しているとは言えない。
感染率と死亡率はそれぞれドイツの3.53倍と3.65倍で際立って高いが、致死率は4.62%のドイツの水準まで下がってきた。
ちなみに、ドイツと人口を含め、感染規模、致死率、感染率、死亡率が類似的なのはイランだ。両国は医療事情を含めて類似の要素は少ないから奇妙な一致がみられる。ドイツは人口が同規模のトルコより感染率を除き成績は悪く、致死率は2ポイント以上高い。
同じことはブラジルの陰に隠れて目立たないが、増加の勢いが止まらないチリやペルーについても言える。類似点と同じ数だけ違いがある。
ことほど左様に、ファクターXの解明は始まったばかりだ。
「行為の前に先慮することは、後になって気づく(後悔する)ことよりもよりよい。」(Democritus,Frag. 66: προβουλεύεσθαι κρεῖσσον πρὸ τῶν πράξεων ἢ μετανοεῖν.; Diels-Kranz, Bd. II, S. 158)
感染者数が多い主要国や特徴的な各国の1日午後9時現在の数値は別表の通りで、文字通り多角的に(ἐπὶ πολύ)とらえ、包括的な(ραντελής)視点から総観的にとらえる(σύνοψιζω)必要がある(括弧内は、順に☆感染者数★死者数、10万人当たりの*感染者数、/以下は同死者数。末尾は人口=2019年推計値=単位千人)。
★南アジア・中東
①イラン4.76%(☆230,211←★10,958=*277.65/❶13.22)82,913.9
②イラク3.96%(☆49,109←★1,943=*124.93/❹4.94)39,309.8
③インド2.97%(☆587,092←★17,417=*42.97/❾1.27)1,366,417.8
④トルコ2.57%(☆199,906←★5,131=*239.61/❷6.15)83,429.6
⑤アフガニスタン2.43%(☆31,836←★774=*83.69/❼2.035)38,041.8
⑥パキスタン2.06%(☆213,470←★4,395=*98.57/❽2.029)216,565.3
⑦バングラデシュ1.26%(☆149,258←★1,888=*91.54/❿1.16)163,046.2
⑧サウジアラビア0.86%(☆190,823←★1,649=*556.85/❺4.81)34,268.5
⑨バーレーン0.34%(☆26,758 ←★90=*1,630.39/❸5.48)1,641.2
⑩カタール0.12%(☆96,088←★113=*3,392.82/❻3.99)2,832.1
▼日 本5.20%(☆18,723←★974=*14.76/0.77)126,860.3
▼シンガポール0.059%(☆44,122←★26=*760.16/0.45)5,804.3
▼中 国⇒5.55%(☆83,534←★4,634=*5.83/0.32)1,433,783.7
☆余白に 228→アイルランドではなく北アイルランド。バスクを含めて中国のような現代版強制収容所はない。現在は21世紀。香港、ウイグル族を含め中国の抑圧は冷戦期とは別問題。カシミールは中印の国境紛争地で、独立とは関係。そもそも当局の隷属者は国外脱出の必要はない。
★アフリカ
①アルジェリア6.56%(☆13,907←★912=*32.30/❹2.12)43,053.1
②スーダン6.17%(☆9,257←★572=*21.62/❻1.37)42,813.2
③エジプト432%(☆68,311←★2,953=*68.05/❸2.94)100,388.1
④カメルーン2.49%(☆12,592←★313=*48.66/❼1.21)25,876.4
⑤コンゴ民主共和国2.46%(☆7,122←★175=*8.21/⑭0.20)86,790.6
⑥ケニア2.32%(☆6,366←★148=*12.11/⑪0.28)52,574.0
⑦ナイジェリア2.30%(☆25,694←★590=*12.79/❿0.29)200,963.6
⑧モロッコ1.81%(☆12,596←★228=*34.54/❽0.63)36,471.8
⑨エチオピア1.762%(☆5,846←★103=*5.22/⑮0.09)112,078.7
⑩南アフリカ1.757%(☆151,209←★2,657=*258.22/❷4.54)58,558.3
⑪ジブチ1.15%(☆4,682←★54=*480.90/❶5.55)973.6
⑫ガボン0.78%(☆5,394←★42=*248.27/❺1.93)2,172.6
⑬コートジボワール0.72%(☆9,499←★68=*36.94/⑫0.264)25,716.5
⑭ガーナ0.63%(☆17,741←★112=*58.32/❾0.37)30,417.9
⑮ギニア0.61%(☆5,391←★33=*42.21/⑬0.258)12,771.2
★南米
①エクアドル8.02%(☆56,432←★4,527=*324.81/❹26.06)17,373.7
②ブラジル4.24%(☆1,408,485←★59,656=*667.37/❸28.27)211,049.5
③コロンビア3.41%(☆97,846←★3,334=*194.37/❻6.62)50,339.4
④ペルー3.39%(☆285,213←★9,677=*877.30/❷29.77)32,510.5
⑤ボリビア3.38%(☆33,219←★1,123=*288.53/❺9.75)11,513.1
⑥チ リ2.04%(☆279,393←★5,688=*1474.21/❶30.01)18,952.0
⑦アルゼンチン2.03%(☆64,530←★1,307=*144.10/❼2.92)44,780.7
★北・中米
①メキシコ12.28%(☆226,089←★27,769=*177.22/❸21.77)127,575.5
②カナダ8.24%(☆104,204←★8,591=*278.54/❷22.96)37,411.0
③米 国4.77%(☆2,727,996←★130,123=*829.01/❶39.54)329,064.9
★欧州
①フランス18.11%(☆164,801←★29,843=*253.04/❻45.82)65,129.7
②ベルギー15.86%(☆61,509←★9,754=*533.04/❶84.53)11,539.3
③イタリア14.45%(☆240,578←★34,767=*397.32/❹57.42)60,550.1
④英 国13.99%(☆312,654←★43,730=*462.98/❷64.76)67,530.2
⑤スペイン9.57%(☆296,351←★28,355=*634.08/❸60.67)46,736.8
⑥スウェーデン7.79%(☆68,451←★5,333=*682.03/❺53.14)10,036.4
⑧ドイツ4.62%(☆195,832←★9,052=*234.48/❼10.84)83,517.0
⑨ロシア1.46%(☆654,405←★9,536=*448.61/❽6.54)145,872.3
⑩ベラルーシ0.64%(☆62,424←★398=*660.40/❾4.21)9,452.4
⑦ギリシア⇒5.63%(☆3,390←★191==*32.37/❿1.82)10,473.5
★10万人当たり感染者数上位と致死率、死者数の関係
❶カタール*3,392.82⇒0.12%(☆96,088←★113=⑮3.99)
❷バーレーン*1,630.39⇒0.34%(☆26,758 ←★90=⑫5.48)
❸チ リ*1474.21⇒2.04%(☆279,393←★5,688=⑦30.01)
❹ペルー*877.30⇒3.39%(☆285,213←★9,677=⑧29.77)
❺米 国*829.01⇒4.77%(☆2,727,996←★130,123=⑥39.54)
❻スウェーデン*682.03⇒7.79%(☆68,451←★5,333=⑤53.14)
❼ブラジル*667.37⇒4.24%(☆1,408,485←★59,656=⑨28.27)
❽ベラルーシ*660.40⇒0.64%(☆62,424←★398=⑭4.21)
❾スペイン*634.0⇒9.57%(☆296,351←★28,355=③60.67)
❿サウジアラビア*556.85⇒0.86%(☆190,823←★1,649=⑬4.81)
⑪ベルギー*533.04⇒15.86%(☆61,509←★9,754=①84.53)
⑫ジブチ*480.90⇒1.15%(☆4,682←★54=⑪5.55)
⑬英 国*462.98⇒13.99%(☆312,654←★43,730=②64.76)
⑭ロシア*448.61⇒1.46%(☆654,405←★9,536=⑩6.54)
⑮イタリア*397.32⇒14.45%(☆240,578←★34,767=④57.42)
カタールは表中、最も感染率が高く、死亡率が低い。[完]
ところで、現在に登場した、「季節外れの寡頭制」(ἄκαιρος ὀλιγαρχία)である中国は「人民共和国」を名乗る、というか僭称している(μεταποιεῖσθαι)が、その「核心的利益」と称する中国共産党の実質的な一党独裁を正当化するために、建国直後のチベットへの侵攻をはじめ、31年前の天安門事件、かつて信者が1億人を超え共産党支配の脅威になるとして行った法輪功への徹底的な弾圧と矯正施設での転向の強要、近年なら新疆ウイグル自治区のイスラム教徒への弾圧と矯正施設という名の強制収容所における棄教の強要、そして今回、返還時に合意された「一国二制度」に基づいて保障された正当な自治権、自由と人権の危機に抵抗した香港の民主運動家への過酷な弾圧と国際条約を無視した国際秩序(ἡ κόσμου κόςμος)への挑戦――は、中国という国家、その上に立つ中国共産党という党派(συνωμοσία)が、中国人民の共通の利益(τὸ κοινῇ συμφέρον)を追求する集団ではなく、共産党という特定組織=支配者の利益(τὸ ἄρχῇ συμφέρον)を追求する集団にすぎないことを示す。
それはある意味で、法の支配(νόμου ἀρχή)とは鋭く対立する、アジア的野蛮の現代版である、一種の「家父長的支配」(ἡ οἰκονμικὴ ἀρχή)に外ならない。それは人民に隷属(δούλωσις)を強要する(βιάζομαι)、謂わば主人(δεσομότης)の奴隷(δοῦλος)に対する支配、謂わば「主人的支配」(ἡ δεσποτικὴ ἀρχή)である。
「国制とは国家のさまざまな公職の組織立てであり、そのなかでもとくに、あらゆることに対して最高の権限をもつ公職の組織立てである。というのも、すべての国家において統治者集団こそが国家における最高の権限をもち、そして国制は統治者集団にほかならないのだから。私が言っているのは、たとえば民主制のもとでは民衆に最高の権限があり、寡頭制のもとでは反対に少数者に最高の権限があるということである。」(相澤康隆訳『政治学』、『アリストテレス全集』第17巻、145~46頁=‘ἔστι δὲ πολιτεία πόλεως τάξις τῶν τε ἄλλων ἀρχῶν καὶ μάλιστα τῆς κυρίας πάντων. κύριον μὲν γὰρ πανταχοῦ τὸ πολίτευμα τῆς πόλεως, πολίτευμα δ’ ἐστὶν ἡ πολιτεία. λέγω δ’ οἷον ἐν μὲν ταῖς δημοκρατίαις κύριος ὁ δῆμος, οἱ δ’ ὀλίγοι τοὐναντίον ἐν ταῖς ὀλιγαρχίαις,’; Politica, 1278b8~13)
「統治者集団」(τὸ πολίτευμα)とは、政治的な公職(πολιτικαὶ ἀρχαί)に就く資格のある人々の集団、つまり市民集団またはそのあり方を指す。
政治的動物(ζῷον πόλτκόν)であるよう宿命づけられた人間が、「共に生活する国家は何のために存在するのか」(τίνος χάριν συνέστηκε πόλις)、「人間とその共同生活にかかわる支配」(ἀρχή τῆς περὶ ἄνθρωπον καὶ τὴν κοινωνίαν τῆς ζωῆς)を考えるのが政治だが、中国にはそれがない。現代のディストピアたる所以だ。
227⇒【「反中」や「反独」を煽る反氏】とは、如何にも奴隷根性で中国やドイツにおべっかを使う(κολακεύω)の佞人(κόλαξ)らしい言いぐさだ。
民主制において民衆が手にする権限は、数に応じた平等(τὸ ἴσον κατ’ ἀριθμόν)であって、民衆自体の「価値に応じた平等」(τὸ ἴσον κατ’ ἀξίαν)ではない。そして、アリストテレスが民主制の逸脱形態と説き、「現在最も民主制の名に値する考えられている民主制(‘συμφέρει δὲ δημοκρατίᾳ τῇ μάλιστ᾽ εἶναι δοκούσῃ δημοκρατίᾳ νῦν’)と分類して、僭主制に等しいと否定的に評価するもの(‘ἡ τελευταία δημοκρατία νῦν διοικεῖται τρόπον, ἣν ἀνάλογόν φαμεν…μοναρχίᾳ τυραννικῇ.’; 1298a31~33=「僭主制に近い単独者支配制に対応すると言っているもの」)とは、「民衆が法律さえも左右する権限をもっているような民主制」(‘τοιαύτην ἐν ᾗ κύριος ὁ δῆμος καὶ τῶν νόμων ἐστίν’; 1298b15)のことだ。
しかし、中国にはその民主制はおろか、法治も存在しない。
老媼と違い、彼の国の民もそれを知らぬわけではない。[完]
☆余白に 236⇒【反氏のコメントを読んで、この統計に意味が…?】――統計の読み方も知らぬ盲目を、老媼の杜撰な議論がよく示す。
そこには時代とともに変わったりしない普遍的な人間性(ὁ καθόλου ἄνθρωπος)、謂わば「人間自然の性情」(ἡ φύσις ἀνθρώπων)、「人間の自然的条件」(τῆς ἀνθρωπείας φύσεως)と同時に、時代と状況によって異なる、それを増幅させる要因がある。現在の中国を、かつてのソ連共産党の強権支配、スターリン的独裁と類比的に語る(λέγω κατ’ ἀναλογίαν)ことに意味がないのは、単細胞の中国のへのおべっか使い(κόλαξ)である老媼のように、後者の要因を見落とす愚を犯しているからだ。
それに伴って、無断で国境を突破して銃殺されることと、保釈中で裁判が進行中であり、自由な出境(出国)を許されない元デモシストの民主活動家、習庭氏の問題を一緒くたにして論じたりする。しかも、中国人民が香港経由で亡命しないことを現在の体制に肯定的である理由として強弁したり、冷戦期に西側への不法出国で犠牲が相次いだ東欧圏の問題に短絡させ、香港問題の本質をはぐらかす論点ずらしをものともしない。当局に明確に抵抗または敵対しなければ、中国も強制的に出国を阻止したりしないし、人民の多数派は現体制に隷属して生きる、現代の奴隷の境涯に甘んじている。
しかし、この世は奴隷であることを是とも賢いともしない尊厳ある(σεμνός)人びとがいて、彼らがやがて世界を変えていく。目先の経済的利得や平穏な生活に安住して、だれでも奴隷の境涯に安んじていられると思う老媼のような奴隷根性、精神の懦弱は、人間性のなかに潜む真の意味での高貴さ、尊厳を見落とす精神の盲目でしかない。
中国のような唾棄すべき「現在の寡頭制を解体し、民衆の奴隷化を終息させる」(παρεστώς ὀλιγαρχίαν τε καταλῦσαι, καὶ δουλεύοντα τὸν δῆμον παῦσαι)ことは、誰かが取り組まなくてはならない問題だ。その主役は当然、第一に中国の民衆であって、どれほど困難な課題であっても、歴史を変えるということは、そういうことだ。
国家の支配層を含め、「その必要が生じた時には、矯正措置によって国制を正そうと努めることが次善の策」(δεύτερος δὲ πλοῦς, ἂν συμβῇ, πειρᾶσθαι διορθώματι διορθοῦν τὴν πολιτείαν)であるが、現在の中国にそれを期待することは困難だし、民衆が一気に目的を達成することも難しいのは当然だが、挫折や失敗、犠牲や無理解は避けられなくとも、何もしないという選択肢を正当化することはできない。
そこに政治的正義(τὸ δίκαιον πολιτική)に加え、市民としての卓越性=徳(πολιτικὴ ἀρετή)がかかっている。そうした善き行動(εὐπραγία)の基準となるのは、目的が公共の利益(τὸ κοινῇ συμφέρον)であるか支配者の利益(τὸ ἄρχῇ συμφέρον)であるかによる。
アリストテレスによれば、僭主制、寡頭制、民主制はいずれも支配者の利益を体現する政治制度=国制だが、同じ支配者の利益でも、共産党という比較的な少数者(οἱ ὁλίγοι)の側に立つ寡頭制と、多数者(οἱ πολλοί)の側に立つ民主制とでは、現代の視点からいずれを選択すべきは自ずと明らかだ。
中国の権益代表(παρώξυνος)のような老媼の物言いは、滑稽で醜悪だ。
ところで、プラトンは、強者や勝者は自分の利益に合わせて法律を制定する、つまり「正義とは強者の利益である」(‘τὸ τοῦ κρείττονος συμφέρον ἐστίν.’=Leges, 714C)とか、「国家においては必ず勝者が法律を制定する」(‘ὧδε. τίθεταιτοὺς νόμους ἐν τῇ πόλει ἑκάστοτε τὸ κρατοῦν.’=ibid., 714C)というような、ソフィスト由来の自然主義的な法律観を、それが「自然に適った」(κατὰ φύσιν)こととは認めずに退ける一方で、国制を安定させるため、法律が主人で支配者は下僕であるべきこと(「法律が支配者の主人となり、支配者が法律の下僕となっているような国家において、国家の安全をはじめ、神々から国家に恵まれる善きことの一切が実現されるのを、私ははっきりと見るからだ。」⇒‘ἐν ᾗ δὲ ἂν δεσπότης τῶν ἀρχόντων, οἱ δὲ ἄρχοντες δοῦλοι τοῦ νόμου, σωτηρίαν καὶ πάντα ὅσα θεοὶ πόλεσιν ἔδοσαν ἀγαθὰ γιγνόμενα καθορῶ.’=ibid., 715D)とする。
現在の中国には、恣意的な立法や人民の支配、監視は存在しても、そうした法的支配が当然留意すべき公共性が欠落している。法の支配は、体制の差異を越えた現代の共通的価値観だが、中国共産党には自分たちの支配の正統性(ἡ ὀρθότης=legitimacy)、畢竟、自分たちの党派の利害(συμφέρον, χρήσμον, ἀγθόν)への執着しかない。
そうした普遍性の欠落こそ、現代の中国の暴走と独善を生んでいる。
民主制は問題が多い制度だが、寡頭制より改良の余地がある。支配者の交代、公共性の追求も可能だが、中国にはそれすらない。
「しかし、『正しい』は『偏りなく正しい』という意味で理解しなければならない。そして、偏りなく正しいとは国家全体の利益と市民に共通の利益に関して正しいことなのである。もっとも、一般に市民とは支配と被支配の両方にあずかる者のことであるが、それぞれの国制に応じて市民にも違いがある。だが、最善の国制との関連で言えば、市民とは支配することも支配に服することもできる者のことであり、徳に即した生き方を目指して、その両方をみずから選び取る者のことである。」(相澤康隆訳『政治学』、170頁=‘τὸ δ’ ὀρθὸν ληπτέον ἴσως• τὸ δ’ ἴσως ὀρθὸν πρὸς τὸ τῆς πόλεως ὅλης συμφέρον καὶ πρὸς τὸ κοινὸν τὸ τῶν πολιτῶν• πολίτης δὲ κοινῇ μὲν ὁ μετέχων τοῦ ἄρχειν καὶ ἄρχεσθαί ἐστι, καθ’ ἑκάστην δὲ πολιτείαν ἕτερος, πρὸς δὲ τὴν ἀρίστην ὁ δυνάμενος καὶ προαιρούμενος ἄρχεσθαι καὶ ἄρχειν πρὸς τὸν βίον τὸν κατ’ ἀρετήν.’; Politica, 1283b40~84a3)
現在の共産党支配には、礼を重んじるシナ古来の儒教精神に基づく徳治の伝統さえ希薄だ。共産党はシナ文明の正統な継承者の資格を欠いており、そこにあるのは現代のテクノロジーと結んだ専制支配(δεσομοταεί)であり、シナの文明的伝統とも、自由と進歩を掲げる古代ギリシア以来の伝統のいずれとも対極にある。
しかし、世界の動きは激しい。1日で前日比219,286人増えた(2日午後9時現在)。そのうち、多い順に、米国52,156人▽ブラジル44,884人▽インド19,815人▽南アフリカ8,124人▽ロシア6,760人▽メキシコ5,681人▽パキスタン4,339人▽コロンビア4,163人▽バングラデシュ4,019人▽サウジアラビア3,402人▽ペルー3,264人▽アルゼンチン2,667人▽イラン2,652人▽チリ2,650人▽イラク2,415人――の合わせて166,991人、全体の76.15%と、全体の四分の三を占める。164339
それに比べ、中国に次いだ感染爆発の中心地である欧州は落ち着いている。ロシアを除けば最多のスウェーデンが1,241人と1千人台だが、他は3桁止まりだ。焦点はもはや欧州ではない。世界的大流行の舞台は転換しており、南アフリカをみれば、アフリカも例外ではない。
いずれも、「日本モデル」のクラスター対策など有効な水準ではない。日本モデルが世界水準の標準的な戦略として有効な前提条件などありはしない、ということだ。
日中韓の対策責任者による遠隔会議、国連ESAP会議の表題が‘Managing COVID-19 Pandemic-Experience & Best Practices of China, Japan and Republic of Korea’とあって、危機意識の希薄さというか、いよいよ世界規模で本格化した感染爆発の序章での「成功」体験に安易に流される様子に、違和感を否定できない。
押谷仁氏の報告は先ごろの専門家会議の「状況分析・提言」の域を出ておらず、244⇒【素人の虚偽体質の老婆とレッテル付けされているカロリーネの主張に近い】も滑稽だ。勘違いして一人で浮かれている。
篠田さんのtwitter記事、⇒【押谷教授は日本の宝。まず大臣になってもらってから、将来のWTO事務局長候補に】云々も軽躁すぎる。
双方とも、少し頭を冷やした方がいい。[完]
「女には沈黙こそ飾りなれ」(‘γυναικὶ κόσμον ἡ σιγὴ φέρει’; Sophocles, Αίας 293)
この日本のマスコミ報道にドイツのSpiegel誌で情報を取っている私はいらだつのである。ドイツは、欧米の中では一番成績がいいし、やり方も当初から、英米よりもむしろ、中国、韓国を参考にしていたし、最近はドイツ政府の司令塔、ドロステン教授が日本のやり方を称賛している。また、タレントがコメンテーターではなくて、感染症やCovid19の専門のスタッフが取材をして、理解した上で報道しているので、デマや風聞が少ないし、間違った理論が淘汰されていくのである。
また、山中伸弥教授の頭の中にも、「CDCをもつ米国のCovid19の感染症対策が、もたない日本の感染症対策より劣っているわけはない。日本の、日中韓のCovid19による死者数が少ないのは、人種による遺伝子の特徴の違いによるに違いない。」という偏見、思い込みがおありになるのではないのだろうか。
東京都の失態は「プライバシーへの配慮」などと言って、「クラスター調査」をしっかり行わないで「経路のわからない感染者が多くなっている」、「市中感染が広がっている」という表現で逃げたり、「アラート」などといってレインボーブリッジを赤くしたりして、「クラスター」が起こった中国や韓国やドイツのように、コンタクトトレーシングの結果をきちんと国民に報告してこなかったことなのであって、本来は、クラスターがどこに存在しているかを日本国民にはっきりとわかるように、具体的にそれがどの店なのかの情報公開をしたり、感染させるリスクの高い感染者の濃厚接触者の症状がなくても、自宅待機にせず、隔離すべきなのである。それが本来、接触削減や移動制限をする前にくるべき対策なのである。とにかく、小池百合子知事の口車に乗せられてばかりいて、真実を究明しようとしない姿勢を続けている大手マスコミ、本当にいい加減にしてほしい。日本国民、東京近郊に住んでいる人々の命がかかっているのである。
小池東京都知事が、感染症にしろ、経済にしろ、歪な見解人々「世界の中心は欧米」かぶれの専門家ばかり、PCR検査、ロックダウン万能の、叩き潰すタイプの専門家ばかりを重用するから、英米と同じ東京のCovid19の感染拡大を収束させられないのであって、経済もとめず、コロナと共存する方式、retrospective Contacttracing,「さかのぼった接触追跡捜査」、「3密回避」、に重点をおく戦略に切り替えるべきだ、と心から思う。
‘with corona’時代の鬱屈した(μελαγχλάω)空気が生み出した、憐れむべきもう一つの不治の病い(ἀνίατος νόσημα)なのだろう。
「常に間違う」(ἁμαρτανειν αἰεί)という生まれつきの(φύσεως)もう一つの病い、というか悪癖(τὸ κακόηθες)=習性(ἦθος)も健在で、いつの間にやら、専門家会議の押谷仁氏は、251⇒【専門家会議の座長であった】ことになるらしい。副座長の尾身茂氏を飛び越えて、大変な出世である。座長は老媼以外は誰もが承知の脇田隆字国立感染症研究所長だ。
老婆の他愛もない無駄話(ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος)に興じるおしゃべり屋(ἀδολέσχης)にはどうでもいい話なのだろう。未だに訂正しない。
癇癪もち(ἀκρόχολος)の感情の起伏の激しい人物(μελαγχολικός)は、議論も措辞も概して粗雑(τραχύς)かつ杜撰(χαλαρός)、粗笨(ῥᾴθυμος)にして粗大(βάναυσος)で、手の施しようがない。子供のわがまま(παιδικαὶ ἁμαρτίαι)そのまま、性急さ(προπέτεια)と狂信性が際立ち、間違いを自ら回避する(φεύγειν)ことなどかなわない。
本当にどうかと思う。
「身体の病気と同様、心の病気にもぶり返しがある。われわれが治ったと思い込むものは、まず大抵は小康状態か病状の変化に過ぎない。」(‘Il y a des rechutes dans les maladies de l’âme, comme dans celles du corpus; ce que nous prenons pour notre guérison n’est, le plus souvent, qu’un ralâche, ou un changement de mal.’; La Rochefoucauld, Maximes 193)
252⇒【日本のマスコミ報道にドイツのSpiegel誌で情報を取っている私はいらだつ…ドイツは、欧米の中では一番成績がいい】というのも、自らの莫迦さ加減を棚に上げて無闇に苛立つ(παροξυνειν)のは癇癪もち(ἀκρόχολος)で偏執狂(παράνοια)だからだろうし、ドイツの過大評価はデータとは異なる勘違いの最たるもので、隣国のポーランドに劣り、ドイツを凌ぐ好成績の欧州諸国は少なくない。
251②⇒【日本の特色…Covid19の病原体の特色を考えた上で…「森を見る」対策」…クラスター調査に重心】というのも、半可通(ἡμιπόνηρος)のとんだ勘違いで、「日本モデル」と称されるクラスター対策は、別に病原体=ウイルス自体の特性などではなく、インフルエンザより感染力の弱い新型ウイルス(SARS-CoV-2=国際ウイルス分類委員会により病原体のウイルス名として2月11日に命名)がもつ特有な伝播メカニズム、環境因子を突き止め、対策に生かしたものだ。それを「病原体の特色」と取り違えるのを、哀れな素人論議という。専門家と異なり、基本的に無知だから、修正が利かない。
「心の健康も、当てにならないことにかけては、身体の健康と変わらない。だから人は、たとえ情熱からおよそ縁遠いように見えても、元気な時に病気になるのと同様、いつ激情に駆られるか分からないのである。」(‘La santé de l’âme n’est pas plus assurée que celle du corps; et quoique l’on paraisse, éloigné des passions, on n’est pas moins en danger de s’y laisser emporter que de tomber malade quand on se porte bien.’; ibid., Maximes 188)
新型ウイルスの感染力は、武漢株、欧州株、米国株の違いを超え、いずれもインフルエンザより弱い。
女の涙は信じる方が「阿呆」と言えば、昨年夏に死んだ妻も怒り出すだろうが、女のような男も珍しくはない昨今、「自己欺瞞」を考えるうえで、不動の教訓(ἡ διδασκαλία ἀκίνητον)だろう。
「われわれの涙は、他人を欺いたあとでしばしばわれわれ自身まで欺くのがある。」(‘Il y a de certaines larmes qui nous trompent souvent nous-mêmes, après avoir trompé les autres.; La Rochefoucauld , Maximes 373)とは、そうした趣旨だ。
「気違いと莫迦は気分でしかものを見ない。」(‘Les fous et les sottes gens ne voient que par leur humeur.’; ibid., Maximes 414)については、オルテガ・イ=ガセの「莫迦は死なねば治らないのであり、救いの道はない。」(‘El tonto es vitalicio y sin poros.’; José Ortega Y Gasset, ‘‘La leberión de las masas’’)に尽きる。
「屈辱と嫉妬の苦痛はなぜこれほど激しいかと言えば、この場合は虚栄心が苦痛に耐えるための援けになり得ないからだ。」(‘Ce qui rend les douleurs de la honte et de la jalousie si aigues, c’est que la venité ne peut servir à les supporter.; La Rochefoucauld , Maximes 446)も、矯激なメディア、専門家批判を繰り返す老婆に相応しかろう。自己認識が足りないようだ。
‘with corona’時代の得難い教訓はデモクリトスで、
「人間たちは祈りによって健康を神々から求めるが、健康の力を自分のうちにもっていることを知らない。そして無抑制によって反対のことを行いつつ、自分自らがこれらの諸欲求のため健康の裏切り者となる。」(Frag. 234: ‘ὑγιείην εὐχῆισι παρὰ θεῶν αἰτέονται ἄνθρωποι, τῆν δὲ ταύτης δύναμιν ἐν ἑαυτοῖς ἔχοντες οὐκ ἴσασιν• ἀκρασίηι δὲ τἀναντία πρήσσοντες αὐτοὶ πρδόται τῆς ὑγείης τῆισιν ἐπιθυμίηισιν γίνονται.’; Diels-Kranz, Bd. II, S. 192)
簡単な話で、インフルエンザは日本で毎年、約1,000万人が罹患する。現在の日本で確認された新型ウイルスの確定感染者は20,000人に満たない。世界全体の感染者は本日4日正午現在の統計で前日より174,462人増えて11,191,681人になったが、日本での1シーズンの感染者数と違わない。
PCR検査による水面下を含めた感染者の総体が判明しておらず、それより相当多くの膨大な数の未確認の市中感染者が存在するとしても、インフルエンザに比べ遥かに少ないのは明白だ。
感染力の定義は、数理モデル解析の基本的方程式、SIRモデルによれば、「単位時間、単位人口当たりの感受性人口感染率」ということになり、基本再生産数(すべての者が感受性を有する集団において1人の感染者が生み出す二次感染者数の平均値)と分けて考える必要がある。
全体の8割が他に感染させないとか、伝播が起きやすい状況に規模拡大が左右されるのも、インフルエンザに感染力が劣る理由だ。新型コロナウイルス感染症(COVID-19=疾患名)の病態も別問題だ。
スーパースプレッダーに拘泥するのも愚かで、それは感染力とは別の因子、伝播の異質性(heterogeneity)の一要素にすぎない。発症前に他に感染させることもその一つで、防止策の障碍になっているが、感染力自体とは別の問題だ。
天然痘のようにそれ自体の感染力も基本再生産数も高いウイルスもあるが、新型ウイルスはそれにも該当しない。当局者がこの秋冬のインフルエンザとの同時感染拡大を恐れるのは、それだけインフルエンザの感染力が強く、混乱は必至だからだ。
笑止な真理愛を騙り、見当違いな要因で合理性皆無の混乱した議論を重ねる前に、この際、最初から感染症のお勉強でもしたらよい。
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/pdf/meibo-corona.pdf
人選をみると、感染症の専門家を含む専門家会議の元構成員、臨床経験の豊富な医師で専門家会議に説明員として参加していた今村氏、専門家会議の構成員ではないものの基本的対処方針等諮問委員会に途中で加入した経済学者、労働組合、マスコミ関係者、自治体関係者等も入りました。分科会会長は専門家会議副座長だった尾身氏で分科会会長代理が専門家会議座長だった脇田氏となり、役割が入れ替わった事情が若干気になるところです。
長いこと生きていると(といっても64歳だが)、まぁ、そうしたものだと思う。
今回の新型感染症対策をみて、日米でそれぞれ支持率を下げている安倍晋三首相もトランプ大統領も大変なようだが、醜悪な現代版寡頭制である中国の抑圧に苦しむ香港市民ほどではないと痛感する。
真の意味で「善き立法者や真の政治家」(τὸ ἀγαθὸν νομοθέτην καὶ τὸ ἀληθῶς πολιτικόν)は少ないし稀有な存在だから不満や不平は尽きることはないが、「置かれた状況から見て最善」(ἡ ὑποκειμένων ἀρίστην)、つまり実現可能な(πρακτός)次善の策(ὁ δεύτερος πλοῦς)を求めて、あれこれ選択肢を思案しているうちは、まだましな方だ。
先月30日にSNS上で所属していた民主政治団体「香港眾志」(デモシスト=Demosisto)から脱退した周庭氏の声明を読むと、一国二制度が事実上否定された彼の地の容易ならざる状況に接し、日本ののどかさとの対比を思い知らされる。
日本語で発信を続けていた23歳の女子学生は日本の三つの大学からもオファーを受けていたようだが、保釈中で出境(出国)の許可も出ず、より苦しい立場に追い込まれ、今後はtwitterの更新も、「外国勢力との結託」云々の嫌疑をかけられかねないから、ストップしたままだ。
日本語の脱退声明とは別に、中国語で「作為創立團體的其中一員、這是個沉重且迫不得已的決定。未來的國際連結工作、我亦將無法再参與」とあるように、差し迫った危機感が窺える。
日本語で「生きてさえいれば、希望があります」とはしたものの、目前に控えるのはまさに「嚴冬在前、今天就此與夥戦友別過、各自在不同崗位上努力」とあって、誠に切ない(夥は原文では中国簡体字=人扁に火)。
そして、「即使活在絶望當中」ながら、なお「我們都要繼續堅強的生活着、時刻記着彼此的存在。只要活着就會看見希望。周庭 二零二零年六月三十日」とする健気な意志に将来を託し、アリストテレスの二段構え、三段構えの国制論議を供したい。
「第一は、最善の国制とは何であるのか、そしてまた、外的な障害が何もない場合に、どのようなものであれば最も望みどおりの国制となるのかを研究することである。第二は、どのような国制がどのような人々に適しているのかを研究することである(というのも、最善の国制を手にすることは多くの人々にとっておそらく不可能であろうから。したがって、善き立法者や真の政治家は、無条件に最善である国制だけでなく、置かれた状況から見て最善である国制にも目を向けなければならない)。第三は、ある種の想定にもとづいた国制を研究することである(すなわち、現に与えられている国制についても、当初それはどのようにして成立したのかということや、成立したその国制をできるかぎり長く維持するにはどのようにすればよいのかということを、〔善き立法者や真の政治家は〕研究することができなければならないのである。『ある種の想定』と私が言うのは、たとえば、ある国家が最善の国制もそれを支えるために必要なものを欠いているばかりか、状況的に実現できるはずの〔最善の〕国制さえもっておらず、そのような国制よりも劣悪な国制によって統治される場合のことである)。そして、以上のすべてに加えて、あらゆる国家に最も適した国制を見つけ出さなければならない。」(相澤康隆訳『政治学』、192~93頁)
‘τὴν ἀρίστην θεωρῆσαι τίς ἐστι καὶ ποία τις ἂν οὖσα μάλιστ᾽ εἴη κατ᾽ εὐχὴν μηδενὸς ἐμποδίζοντος τῶν ἐκτός, καὶ τίς τίσιν ἁρμόττουσα (πολλοῖς γὰρ τῆς ἀρίστης τυχεῖν ἴσως ἀδύνατον, ὥστε τὴν κρατίστην τε ἁπλῶς καὶ τὴν ἐκ τῶν ὑποκειμένων ἀρίστην οὐ δεῖ λεληθέναι τὸν ἀγαθὸν νομοθέτην καὶ τὸν ὡς ἀληθῶς πολιτικόν), ἔτι δὲ τρίτην τὴν ἐξ ὑποθέσεως (δεῖ γὰρ καὶ τὴν δοθεῖσαν δύνασθαι θεωρεῖν, ἐξ ἀρχῆς τε πῶς ἂν γένοιτο, καὶ γενομένη τίνα τρόπον ἂν σῴζοιτο πλεῖστον χρόνον• λέγω δὲ οἷον εἴ τινι πόλει συμβέβηκε μήτε τὴν ἀρίστην πολιτεύεσθαι πολιτείαν, ἀχορήγητον δὲ εἶναι καὶ τῶν ἀναγκαίων, μήτε τὴν ἐνδεχομένην ἐκ τῶν ὑπαρχόντων, ἀλλά τινα φαυλοτέραν), παρὰ πάντα δὲ ταῦτα τὴν μάλιστα πάσαις ταῖς πόλεσιν ἁρμόττουσαν δεῖ γνωρίζειν,’(Politica, 1288 b22~35)
そのうえで、「実現可能な善」(πρακτὸν ἀγατόν)、受容可能な選択肢としての国制について、次のように説く。
「なぜなら、国制について見解を表明している人々の大多数は、たとえその他の点では正しく語っているとしても、有用なことを語るという点では完全に的を外しているからである。というのも、われわれは単に最善の国制だけでなく、〔現状からみて〕実現可能な国制をも研究しなければならず、また同様に、あらゆる国家にとっていっそう容易に、また一層広く共有され得る国制をも研究しなければならないのだから。」(引用続く)
‘ὥσθ᾽ οἱ πλεῖστοι τῶν ἀποφαινομένων περὶ πολιτείας, καὶ εἰ τἆλλα λέγουσι καλῶς, τῶν γε χρησίμων διαμαρτάνουσιν. οὐ γὰρ μόνον τὴν ἀρίστην δεῖ θεωρεῖν, ἀλλὰ καὶ τὴν δυνατήν, ὁμοίως δὲ καὶ τὴν ῥᾴω καὶ κοινοτέραν ἁπάσαις• νῦν δ᾽ οἱ μὲν τὴν ἀκροτάτην καὶ δεομένην πολλῆς χορηγίας ζητοῦσι μόνον, οἱ δὲ μᾶλλον κοινήν τινα λέγοντες, τὰς ὑπαρχούσας ἀναιροῦντες πολιτείας, τὴν Λακωνικὴν ἤ τινα ἄλλην ἐπαινοῦσι• χρὴ δὲ τοιαύτην εἰσηγεῖσθαι τάξιν ἧς ῥᾳδίως ἐκ τῶν ὑπαρχόντων καὶ πεισθήσονται καὶ δυνήσονται κοινωνεῖν, ὡς ἔστιν οὐκ ἔλαττον ἔργον τὸ ἐπανορθῶσαι πολιτείαν ἢ κατασκευάζειν ἐξ ἀρχῆς, ὥσπερ καὶ τὸ μεταμανθάνειν ἢ μανθάνειν ἐξ ἀρχῆς•’(ibid., 1288 b35~89a5)
そのうえで、「国制に合わせて(πρὸς τὰς πολιτείας)法律を定めるべきであって、法律に合わせて(πρὸς τοὺς νόμους)国制を定めるべきではない」と説く。
さらにまた、これと同じ知恵を用いて、最善の法律とそれぞれの国制に適した法律を見出さなければならない。というのも、すべての人が事実そうしているように、国制に合わせて法律を定めるべきであって、法律に合わせて国制を定めるべきではないのである。なぜなら、国制とは国家のさまざまな公職の組織立てであり、どのような仕方で公職は人々に配分されるのか、国家統治の最高権限を握っているものは何か、それぞれの共同体は何を目的としているのか、ということを規定するものなのだから。それに対して、法律は国制の何であるかを明らかにするものとは区別される。むしろそれは、支配者たちがそれに従って支配し、それに従って無法者を監視するところのものである。したがって、それぞれの国制に見られるさまざまな種類とはどのようなものであり、またその数はどれくらいあるのかを把握することは、法律を制定するためにも必要となることは明らかである。というのも、民主制にせよ寡頭制にせよ、どちらもただ一つの種類しかないわけではなく、それぞれにいくつかの種類があるのだとすれば、同一の法律があらゆる種類の寡頭制と民主制の役に立つということはありえないのだから。」(194頁)
しかし、現在の香港にその希望(ἐλπίς)、夢(ὄνειρος)を語る自由さえない。
‘διὸ πρὸς τοῖς εἰρημένοις καὶ ταῖς ὑπαρχούσαις πολιτείαις δεῖ δύνασθαι βοηθεῖν τὸν πολιτικόν, καθάπερ ἐλέχθη καὶ πρότερον. τοῦτο δὲ ἀδύνατον ἀγνοοῦντα πόσα πολιτείας ἔστιν εἴδη. νῦν δὲ μίαν δημοκρατίαν οἴονταί τινες εἶναι καὶ μίαν ὀλιγαρχίαν• οὐκ ἔστι δὲ τοῦτ᾽ ἀληθές. ὥστε δεῖ τὰς διαφορὰς μὴ λανθάνειν τὰς τῶν πολιτειῶν, πόσαι, καὶ συντίθενται ποσαχῶς. μετὰ δὲ ταῦτα τῆς αὐτῆς φρονήσεως ταύτης καὶ νόμους τοὺς ἀρίστους ἰδεῖν καὶ τοὺς ἑκάστῃ τῶν πολιτειῶν ἁρμόττοντας. πρὸς γὰρ τὰς πολιτείας τοὺς νόμους δεῖ τίθεσθαι καὶ τίθενται πάντες, ἀλλ᾽ οὐ τὰς πολιτείας πρὸς τοὺς νόμους. πολιτεία μὲν γάρ ἐστι τάξις ταῖς πόλεσιν ἡ περὶ τὰς ἀρχάς, τίνα τρόπον νενέμηνται, καὶ τί τὸ κύριον τῆς πολιτείας καὶ τί τὸ τέλος ἑκάστης τῆς κοινωνίας ἐστίν• νόμοι δ᾽ οἱ κεχωρισμένοι τῶν δηλούντων τὴν πολιτείαν, καθ᾽ οὓς δεῖ τοὺς ἄρχοντας ἄρχειν καὶ φυλάττειν τοὺς παραβαίνοντας αὐτούς. ὥστε δῆλον ὅτι τὰς διαφορὰς ἀναγκαῖον καὶ τὸν ὁρισμὸν ἔχειν τῆς πολιτείας ἑκάστης καὶ πρὸς τὰς τῶν νόμων θέσεις• οὐ γὰρ οἷόν τε τοὺς αὐτοὺς νόμους συμφέρειν ταῖς ὀλιγαρχίαις οὐδὲ ταῖς δημοκρατίαις πάσαις, εἴπερ δὴ πλείους καὶ μὴ μία δημοκρατία μηδὲ ὀλιγαρχία μόνον ἔστιν.’(ibid., 1289a5~25)
「我、周庭、宣布從今天起退出香港眾志」。不屈の志はやがて、中国を変える。[完]
香港の民主団体が、香港政府やそれを裏で操る中国当局に異議申し立てを行った抵抗運動を、日本の「全共闘」と比較すること自体が的外れだ。老媼の幼稚な政治認識と、中国一辺倒の二重基準(διπλοῦς κριτήριον)が透けて見える。
ましてや、行き詰って内部対立による内ゲバや凄惨なリンチを引き起こした連合赤軍のような極左組織と、何の共通性もないのは明らかだ。元気のいい若者が、当局の制止を無視してデモや集会を敢行したところで、国家に対する反逆とか転覆の陰謀、テロ行為と同一視するような認識は、中国以外にはない。
何と言っても運動の中核を担った学生による民主組織「香港眾志」(デモシスト=Demosisto)は共産主義など報じてはおらず、特定の政治的イデオロギーで暴力革命を目指しているわけではない。
旧東独の民主化運動との比較も笑止だ。香港の学生たちは平和的な手段、デモ、集会で主張を展開しており、一般市民の支持が多いことは、昨年秋の地方議会選挙の圧倒的な支持が物語っている。
「国際監視の目」云々と、寝言というか如何にも甘いが、それを無視するのが中国だ。しかも、国家安全維持法は突然逮捕され、中国本土に連行されれば裁判は非公開だ。この分野で、中国の法治など存在しない。
チベット、新疆ウイグル、みな同じだ。東独のStasi(国家公安局=秘密警察)の監視や密告システム以上の、現代テクノロジーを駆使して監視を行っているのが中国で、感覚がずれている。
中国の口真似のトランプ米国大統領批判も滑稽だ。
周庭氏の声明全文は次の通り。
「我、周庭、宣布從今天起退出香港眾志。作為創立團體的其中一員、這是個沉重且迫不得已的決定。未來的國際連結工作、我亦將無法再参與。嚴冬在前、今天就此與夥戦友別過、各自在不同崗位上努力。即使活在絶望當中、我們都要繼續堅強的生活着、時刻記着彼此的存在。只要活着就會看見希望。周庭 二零二零年六月三十日」
「光は暗黒に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。」(‘καὶ τὸ φῶς ἐν τῇ σκοτιᾳ φαίνει, καὶ ἡ σκοτια αὐτὸ οὐ κατέλαβεν.’)と、新約聖書『ヨハネによる福音書』冒頭(第1章5節)にある。
旧約聖書の一節を添える。過酷な運命の中にも、希望や人間らしい絆が存在する、ということだ。
「茲に我身を轉らして日の下に行はるる諸の虐遇を視たり。嗚呼、虐げらる者の涙流る。之を慰むる者あらざるなり。また虐ぐる者の手には權力あり。彼等はこれを慰むる者あらざるなり。我は猶生る生者よりも既に死たる死者をもて幸なりとす。またこの二者よりも幸なるは、未だ世にあらずして日の下に行わるる惡事を見ざる者なり。
我また諸の勞苦と諸の工事(わざ)の精巧とを觀るに 是は人のたがひに嫉みあひて成せる者たるなり 是も空にして風を捕ふるが如し。愚なる者は手を束ねてその身の肉を食ふ。片手に物を盈(み)てて平穩にあるは 兩手に物を盈てて勞苦て風を捕ふるに愈(まさ)れり。
…二人は一人に愈る。そはその勞苦のために善報を得ればなり。卽ちその跌倒(たお)るる時には一箇の人その伴侶を扶け起こすべし。されど孤身にして跌倒るる者は憐なるかな、之を扶け起こす者なきなり。又二人ともに寝れば温暖なり。人もしその一人を攻め撃たば、二人してこれに當るべし。三根の繩は容易く斷れざるなり。」(『伝道之書』第4巻1~12章、7、8章略)
‘Καὶ ἐπέστρδεψα ἐγὼ καὶ εἶδον/ σὺν πάσας τὰς συκοφαντίας/ τὰς γινομένας ὑπὸ τὸν ἥλιον•/ καὶ ἰδοὺ δάκρυον τῶν συκοφαντουμένων,/ καὶ οὐκ ἔστιν αὐτοῖς παρακαλῶν,/ καὶ ἀπὸ χειρὸς συκοφαντούντων αὐτοὺς ἰσχύς,/ καὶ οὐκ ἔστιν αὐτοῖς παρακαλῶν./ καὶ ἐπῄνεσα ἐγὼ σὺν τοὺς τεθνηκότας/ τοὺς ἤδη ἀποθανόντας ὑπὲρ τοὺς ζῶντας,/ ὅσοι αὐτοὶ ζῶσιν ἕως τοῦ νῦν•/ καὶ ἀγαθὸς ὑπὲρ τοὺς δύο τούτους/ ὅστις οὔπω ἐγένετο,/ ὅς οὐκ εἶδεν σὺν τὸ ποίημα τὸ πονηρὸν,/ τὸ πεποιημένον ὑπὸ τὸν ἥλιον.
Καὶ εἶδον ἐγὼ σὺν πάντα τὸν μόχθον/ καὶ σὺν πᾶσαν ἀνδρείαν τοῦ ποιήματος,/ ὅτι αὐτὸ ζῆλος ἀνδρὸς ἀπὸ τοῦ ἑταίρου αὐτοῦ•/ καὶ γε τοῦτο ματαιότης καὶ προαίρεσις πνεύματος./ ὁ ἄφρων περιέλαβεν τὰς χεῖρας αὐτοῦ/ καὶ ἔφαγεν τὰς σάρκας αὐτοῦ./ ἀγαθὸν πλήρωμα δρακὸς ἀναπαύσεως/ ὑπὲρ πλήρωμα δύο δρακῶν μόχθου/ καὶ προαιρέσεως πνεύματος.
……ἀγαθοὶ οἱ δύο ὑπὲρ τὸν ἕνα,/ οἷς ἔστιν αὐτοῖς μισθὸς ἀγαθὸς ἐν μόχθῳ αὐτῶν•/ ὅτι ἐὰν πέσωσιν, ὁ εἷς ἐγερεῖ τὸν μέτοχον αὐτοῦ,/ καὶ οὐαὶ αὐτῷ τῷ ἑνί, ὅταν πέσῃ/ καὶ μὴ ἦ δεύτερος τοῦ ἐγεῖραι αὐτόν./ καὶ γε ἐὰν κοιμηθῶσιν δὺο, καὶ θέρμη αὐτοῖς•/ καὶ ὁ εἷς πῶς θερμανθῇ;/ καὶ ἐὰν ἐπικραταιωθῇ ὁ εἷς,/ οἱ δὺο στήσονται κατέναντι αὐτοῦ,/καὶ τὸ σπαρτίον τὸ ἔντριτον οὐ ταχέως ἀπορραγήσεθαι.’[完]
カロ氏はすぐに本論と関係のない話題になるし、反氏は(普通の人には)訳のわからないギリシア語を羅列するし...そもそも二千年以上前の言説を聖書のようにありがたがって、何の意味があるのか。
別に気に入らなければ見なければいいだけなのはよくわかっているけれど、ついつい怖いもの見たさでコメント欄を覗いてしまう自分が怖い。
「私はあなたから思慮のある言葉を聞いて喜んでおります」(‘ἥδομαι ἀκύων σου φρονίμους λόγους.)と申し上げたいが、それが憚られるのは、「通りすがり」に変わった貴兄のような、ほとんど無内容な見解に返す言葉をもたないからだ。
「カロリーネ」を称する矯激なメディア批判に入れ込む無謀なご婦人がいて、何の脈絡もない愚劣な法螺話をして暇つぶしに興じていることは貴兄も先刻ご承知の通りだが、それをきちんとたしなめる人間すら、かつては存在しなかった。
試しに、私がでたらめさ加減をまとめて指摘したら体面(τιμή)を潰されたと思って逆上して、いよいよ本性を露わして図々しく(ἀναισχύντως)なった。しかも人間は年をとると、しかもご婦人は特に不逞ぶてしく(ἄναιδῶς)なるもので、加えてネットの言語空間は、匿名ゆえにそれに拍車を駆ける。そのなれの果てが現在の老媼だ。資格制限がない分、一種の無政府状態(ἀναρχία)で逆上せ上がっている。
言いたいこと、言うべきことを明確に筋道立てて展開できないのは、例外もあるが概して(ὡς ἐπὶ τὸ πολύ)多くの日本人の情けないところだ。だから、甚だ不躾ながら、「私はかねがね各位を気の毒に思っていた」(οὔποτε ἐπαυόμην ὑμᾶς οἰκτίζων.)。中には例外もいて、最近は遠慮半分なりにきちんと指摘する投稿も増えた。
ギリシア語はすべて訳語を添えているから、不都合はないはず。自分用の辞書作りのため活用している。
最後に、別に聖典視するわけではないが、2千数百年前の人間の言葉と侮るのは軽率の極みだ。人間はほとんど進歩せず、現在の問題を考える際、過去の第一級の思索家と比べ二流、三流にすぎない現代の人間が最も役立つわけではない。
アリストテレスなど、現在の殆どの人間より賢く、論理的に太刀打ちできる人間は皆無に近い。
「ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分が極めて分別に富む人間だと考えている。愚鈍な人間が自分自身の愚かさのなかに腰をおろして安住する時の、あの羨むべき平静さはそこから生まれている。」(‘El tonto, en cambio, no se sospecha a sí mismo: se parece discretísimo, y de ahí la envidiable tranquilidad con que el necio se asienta e instala en su propia torpeza.’; ‘‘La leberión de las masas’’, Obras Completas, Vol. 4, p. 187=『オルテガ著作集』第2巻、桑名一博訳118~119頁)
「他方、今日の世界で力をもっている平均人が、過去に比べていかに生の水準を高めているにしろ、彼らだけで文明の推移を指導できるようになるだろうと考えるのは幻想である。私は推移と言っており、進歩とは言っていない。単に今日の文明を維持するだけの処置でも極端に複雑であり、非凡な鋭敏さを必要としている。文明の多くの利器を使うことを習い覚えたとはいえ、文明の原理自体を全く知らないのを特徴としている平均人が、それをうまく指導できるとも思われない」(‘Por otra parte, es ilusorio pensar que el hombre-medio vigente, por mucho que haya ascendido su nivel vital en comparación con el de otros timpos, va a poder regir, por sí mismo, el proceso de la civilizatión. Digo proceso, no ya progreso. El simple proceso de mantener la civilizatión actual es superlativamente complejo y requiere sutilezas incalculables. Mal puede gobernarlo este hombre-medio que ha aprendido a usar muchos aparatos de civilizatión, pere que se caracteriza por ignorar de raíz los principios mismos de la civilizatión.’; ibid., p. 184、同116頁)
「他人を騙して気づかれないのは実に難しいが、自分を騙して気づかいないのは簡単だ。」(‘Il est aussi fecile de se tromper soi-même sans s’en apercevoir, qu’il est difficile de tromper les autres sans qu’ils s’en aperçoivent.’; La Rochefoucauld, Maximes 115)
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