東京の新規陽性者拡大の傾向は、先行きが見えない状態が続いている。一日当たりの新規陽性者数は、4月上旬の水準に近いが、無症状者の積極検査によって判明している陽性者も相当数含まれていることから、評価が難しい。実際、顕著な新規陽性者が増加が始まってから一カ月以上たっているが、死者・重症患者は増加する傾向が見られない。この傾向は全国を見ても同じで、7月になってからの死者数は8名程度で、ここ数日も死者数0が続いている。この現象をどう理解するかは、非常に大きな課題であろう。
実は致死率の低下は、全世界的な傾向である。Worldometersで毎日の陽性者数と死者数の推移をグラフで比べるだけで、一目瞭然だ。前者は右肩上がりで伸び続けているが、後者は伸び止まっている。つまり一日当たりの新規陽性者が増え続けているのに、一日あたりの死者数は、増えていないのだ。これはなぜだろうか。
https://www.worldometers.info/coronavirus/worldwide-graphs/
各国で高齢者や慢性疾患者の死亡率が高いことがよく知られているため、政策的または自然な弱者の防衛策がとられるようになったのではないか、と推察することもできるはずだ。
アメリカは、6月中旬から新規陽性者数が再増加し続けているのに、新規死亡者が同じようには増加していない典型的な国である(微増は見られるが)。Black Lives Matter運動の盛り上がりで多くの人々が密接な対人接触を持ってしまったときでも、死亡率が高いと思われる階層の人々は、さすがに自重していたのではないか。
なお、今やヨーロッパ(の主要国)は、新規陽性者数も増やすことがなく、ロックダウン解除を果たしている優等生だ。ロックダウン解除してもナイトクラブだけは閉鎖し続けたり、公共機関や屋内会合ではマスク着用を義務付けたりするなどの積極的な社会政策がとられている。日本がヨーロッパを見習うなら、今だ。数カ月前、「ヨーロッパの厳格なロックダウンを日本も模倣せよ」と叫んでいた人たちが、今になって地道にヨーロッパ各国の取り組みを学ぼうとする関心を失っているのは、私には理解できない。
以前に世界各地域の致死率などを見た文章を書いたことがある。その6月15日時点の数字と、4週間後の7月11日の数字を比べてみよう。
(6月15日)
地域 |
準地域 |
感染者数(/mil) |
死者数(/mil) |
致死率(%) |
アフリカ |
|
184.89 |
4.93 |
2.66 |
|
北アフリカ |
297.43 |
12.5 |
4.2 |
|
東アフリカ |
57.36 |
0.95 |
1.65 |
|
中部アフリカ |
134.31 |
3.04 |
2.26 |
|
南部アフリカ |
1,047.09 |
22.02 |
2.1 |
|
西アフリカ |
134.31 |
2.64 |
1.96 |
米州 |
|
3,837.07 |
201.55 |
5.25 |
|
北米 |
6,150.57 |
341.97 |
5.56 |
|
カリビアン |
783.18 |
21.09 |
2.69 |
|
中米 |
1,076.38 |
102.58 |
9.53 |
|
南米 |
3,294.55 |
139.56 |
4.24 |
アジア |
|
355.73 |
8.82 |
2.48 |
|
中央アジア |
401.99 |
2.59 |
0.65 |
|
東アジア |
69.32 |
3.54 |
5.11 |
|
東南アジア |
178.19 |
5.25 |
2.95 |
|
南アジア |
410.99 |
11.86 |
2.89 |
|
西アジア |
1,993.77 |
28.03 |
1.41 |
ヨーロッパ |
|
2,824.89 |
233.14 |
8.25 |
|
東欧 |
2,410.86 |
42.63 |
1.77 |
|
北欧 |
2,845.24 |
345.06 |
12.13 |
|
南欧 |
3,913.74 |
421.49 |
10.77 |
|
西欧 |
2,583.41 |
289.33 |
11.2 |
オセアニア |
|
218.83 |
3.03 |
1.39 |
(7月11日)
地域 |
準地域 |
感染者数(/mil) |
死者数(/mil) |
致死率(%) |
アフリカ |
|
449.29 |
9.98 |
2.22 |
|
北アフリカ |
528.92 |
23.84 |
4.51 |
|
東アフリカ |
105.79 |
1.66 |
1.57 |
|
中部アフリカ |
227.06 |
4.80 |
2.12 |
|
南部アフリカ |
4,137.98 |
60.83 |
1.47 |
|
西アフリカ |
258.19 |
4.39 |
1.70 |
米州 |
|
6,764.70 |
285.78 |
4.22 |
|
北米 |
9,550.96 |
397.51 |
4.16 |
|
カリビアン |
1,380.66 |
30.01 |
2.17 |
|
中米 |
2,357.63 |
213.31 |
9.05 |
|
南米 |
6,723.29 |
244.40 |
3.64 |
アジア |
|
647.46 |
15.31 |
2.36 |
|
中央アジア |
1,332.47 |
9.36 |
0.70 |
|
東アジア |
73.13 |
3.41 |
4.66 |
|
東南アジア |
289.22 |
8.19 |
2.83 |
|
南アジア |
847.86 |
23.26 |
2.74 |
|
西アジア |
3,209.06 |
47.29 |
1.47 |
ヨーロッパ |
|
3,284.84 |
250.44 |
7.62 |
|
東欧 |
3,310.19 |
63.70 |
1.92 |
|
北欧 |
2,964.91 |
371.34 |
12.52 |
|
南欧 |
4,212.91 |
438.02 |
10.40 |
|
西欧 |
2,761.78 |
294.99 |
10.68 |
オセアニア |
|
284.83 |
3.18 |
1.12 |
この4週間で、ヨーロッパの陽性者は1.16倍、死者数は1.07倍になったが、世界全体では陽性者は1・62倍、死者数は1.31倍だ。これに対して致死率(死者数÷陽性者数)は、世界平均では0・8倍にまで下がったが、ヨーロッパでは0.92倍にとどまった。つまりヨーロッパは依然として致死率が非常に高く、世界平均よりも低下率も鈍いが、新規感染者数を世界平均よりも大きく抑制することによって、死者数の抑制にも成功しているのである。政策的努力が大きいと言えるだろう。見習うべき点が多々あるはずだ。
なお従来から日本では、死者数の抑え込みを重視してきている。そのために医療崩壊を起こさないことを至上命題にもしてきた。たとえば6月15日から7月11日の間に、日本の陽性者総数は1.21倍になったが、死者数は1.05倍でしか増加しなかった。1カ月の死者数は54人だった。致死率は、5.35%から4.65%に下がった。
日本も死者数の抑制は維持している。最近の新規陽性者数の増加が、積極検査の結果としての無発症若者層がかなりの比率を占めていたことが関係していると考えるのは、的外れではないのである。
さて、私は、7月上旬に「日本モデルvs西浦モデル2.0」という文章を書いた。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73825
http://agora-web.jp/archives/2046970.html 従来の「西浦モデル」では基本再生産数が世界共通値と想定する2.5で、死者数も一定の割合で増えることになっていたため「42万人死亡」という数字も出てきた。「西浦モデル2.0」と私が呼んでいる5月に東京都広報ビデオで示されたモデルでは、3月下旬から見られた程度の新規感染者数の増加が7月にも繰り返されることになっていた。いずれにせよ、「西浦モデル」の要点は、緊急事態宣言=ロックダウンがないので、増加は止まることがなく伸び続けることだ。
しかし従来の「日本モデル」は、ロックダウンなどをせず、日常生活における「三密の回避」などの予防行動で、新規陽性者の抑制を図るものだ。撲滅は目指さないが、クラスターの発生は防いでいこうとする穏健なアプローチである。陽性者の数のみならず、死者数も世界共通のスピードで増え続けていくことはない、という考え方が、「日本モデル」の背景にある。感染症数理モデルだけに還元されない考え方だ。
これについて非常に重要なニュースがあった。7月7日にWHOが新型コロナの「エアロゾル感染」の可能性について、公に認めたのである。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61272980Y0A700C2I00000/ エアロゾル感染とは、通常よりも小さい飛沫が、エアロゾルと呼ばれる微粒子になって、長い間空気中を浮遊し、遠くまで移動する間に、感染を引き起こす現象のことである。WHOの感染予防の技術責任者は、エアロゾルを介した感染の可能性を示唆したうえで、「換気の悪い場所などでの感染の可能性は否定できない」と話したという。WHOは以前には新型コロナの主な感染経路は飛沫と接触だとして、対人距離の確保などの徹底を求めてきた。エアロゾルからの感染を認めることは、WHOが推奨する対策の変更も意味する。
だが実は日本の「三密の回避」は、エアロゾル感染こそがクラスターを作り出す元凶だという洞察から生み出された予防策であった。エアロゾル感染は、換気の悪い室内環境で発生する。そこで欧米流の「ソーシャルディスタンス」一辺倒ではなく、「密閉」という換気の悪い閉鎖空間を避ける行動を、「密集」「密接」とともに避けるように呼び掛けるために、「三密の回避」が強調されてきた。日本の「三密の回避」の呼びかけは、世界に誇るべき「日本モデル」の象徴である。
クラスター予防を重視して「三密の回避」を強調する「日本モデル」は、全ての感染者が一律に不変的なスピードで感染を拡大させていくことを想定せず、2割とされる小さい割合の感染者が、しかし大規模な感染拡大を引き起こすクラスターを作ってしまうことを想定する。そして後者の防止を重視する。
ところが日本でも欧米偏重主義の方々が、「三密の回避など甘い」といった言説を流布し、「人と人との接触の8割削減」や、「2メートルのソーシャルディスタンス」などを中心にした対策をとることを唱えてきている。困った風潮である。
先日、私自身が出席したある会合では、各人の距離を2メートルとった、ということに満足してしまって、密閉された空間である会議室であるにもかかわらず、発言者がマスクをとって熱心に語り続けるようなものであった。失礼ながら、私はそういう時には、途中で容赦なく中座することにしている。そういう低意識の人たちの会合には最後までお付き合いできない。しかしこの程度の意識しかない人々が開催している会合は、今の日本で無数に行われてしまっているのだろう。
「三密の回避」は、「8割削減」や「ソーシャルディスタンス」によって、意味を誤解され始めてしまっている。とにかく2メートル離れることと、「三密の回避」は、同じではない。なぜ日本の満員電車でクラスターの報告がないかといえば、「密集」について改善できないとしても、マスク・無言・咳エチケットで「密接」を回避しつつ、窓を常に開けて換気を確保して「密閉」を避けているからだ。
その全く逆なのが、おそらく「三密の回避」を意識しない人たちが行っている無数の換気の悪い部屋での会合である。話題になっている「劇場クラスター」もエアロゾル感染の要素が相当にあったのではないか。だから聴衆全員が濃厚接触者の扱いになったのだろう。
日本の「三密の回避」の素晴らしさが、欧米偏重主義者のソーシャルディスタンス一辺倒で減退させられてしまっている。そんなことでは「三密の回避」を象徴とする行動変容で、社会生活を維持しながら感染拡大予防する「日本モデル」の戦略が危うくなる。
「日本モデル」が機能しなくなれば、緊急事態宣言=「8割削減」に帰結するしかない。「西浦モデル2.0」の勝利ということだ。
しかし今からでも遅くない。日本人こそ「三密の回避」が訴えていることを今一度あらためて深く捉え直していく態度を持っていくべきではないか。
コメント
コメント一覧 (242)
やはり、ヒトラーがその音楽を悪用して権力を握ったワーグナーが「指輪」で本当に訴えたかったこと、「権力は愛と共に」なければならないのではないのだろうか。アルブレッヒ・ハーゲンの生き方は、端的に、間違いなのである。
「ゲッベルス」の日本語表記についての詳しい説明をいただき、ありがとうございました。
ニュース・ソクラ(22日配信)で藤和彦さんが平野俊夫先生たちの研究を紹介しています。一度、ミヤネ屋にも出演されていましたが、すでに2009年、岸本忠三先生と一緒にクラフォード賞(もう一つのノーベル賞)を受賞されておられる免疫学の大家です。同じくミヤネ屋に出演されていた宮坂先生がすでに、サイトカインストームと治療薬アクテムラの可能性について語られておられましたので、かなり早い時期に治療薬認証されるのではないかと期待されます。
神は、またしても日本を、そして世界をお救いになった❣❣❣
スイスロッシュによる臨床試験で有効であることが示され治験が終了する見通し。中外製薬による臨床試験も近々、終わりそうだとか。
すると、日本人のコロナ死亡率は例年のインフルエンザ並みに低いこと、そして、個別症例としてのサイレント肺炎重症化に対しては「アクテムラ」が薬として治療可能であるということで、コロナを感染症指定からはずすことができるでしょう。
一刻も、これを早く行って、社会文化経済活動の復活を活性化させてほしい。
普通のコロナ風邪だと言っても、なかなか溶けないくらいコロナ恐怖で氷ついている。しかし、8月中くらいには完全自由化できないと、本当に日本経済文化社会は沈没ではないでしょうか❓おそらく8月中には、わたしが指摘しているように感染爆発どころか無害、感染まん延が実証されるでしょう。しかし、それで民の心が溶けるかというと?何か、安心できる薬が開発提供されると良いのですが。ワクチンでは間に合わないし、ワクチンはダメかもしれないから。
しかし、「当該疾病のまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれ」があるか否かは季節性インフルエンザ並みかどうかが重要な考慮要素と解されていることから事実上の関連があります。
季節性インフルエンザとの比較について、政府の基本的対処方針(中国における報告が引用されており日本のデータで示して欲しいところではありますが)では下記のように死亡率ではなく致死率や肺炎の割合等の指標で判断しています。
(https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000633501.pdfから引用)
「重症度としては、季節性インフルエンザと比べて死亡リスクが高いことが報告されている。中国における報告(令和2年2月28 日公表)では、確定患者での致死率は 2.3%、中等度以上の肺炎の割合は18.5%であることが報告され ている。季節性インフルエンザに関しては、致死率は 0.00016%-0.001%程度、 肺炎の割合は 1.1%-4.0%、累積推計患者数に対する超過死亡者数の比は約0.1%であることが報告されている。このように新型コロナウイルス感染症における致死率及び肺炎の割合は、季節性インフルエンザに比べて、相当程度高いと考えられる。」
そのため、新型コロナウイルス感染症を指定感染症から外すべきという日下部眞一氏の主張が実現されるには、死亡率ではなく致死率や肺炎の割合等の指標で季節性インフルエンザ並みであることが証明される必要があるように思われます。
また、指定感染症とすることは入院措置等の強制力を伴う法的権限を都道府県知事に付与するものに過ぎず(法的には権限行使をしない裁量もあり、現実にも入院以外にも自宅療養や宿泊療養もされています)、指定を外せば問題が解決するかのような主張は主客転倒した議論のように思います。
だから、バカなんよ❣❣❣
致死率というのは、感染者数が確定しないと定まらないじゃない。あくまでも、いい加減な推定値でしかないじゃない。それが医学上(法規上❓)の問題なのよ。わからんのかね。バカもん❣❣❣
データも、ただの感染と、発病感染とが入り混じってるしね。
致死率で判断するのはダメだと考えるね。
しかし、政府の基本的対処方針は感染症学を含む医学の専門家が多数を占める基本的対処方針等諮問委員会の諮問を経て、政府対策本部で決定されたものです。
また、感染症学を含む医学の専門家の多くも死亡率よりも致死率で比較する場合が多いと承知しております。
医学の専門家が死亡率ではなく致死率で議論しているのは医学上の何らかの合理的理由があると考えるのが常識的で自然であり、統計学的な判断基準から単純に統計上の指標の優劣を判断して良いものなのか疑義があるように思います。
なぜ、こういうことを言うのか、少しわかってきたけど、専門家会議の疫学文書に嘘があるらしい。
そして、そのことを、【政府解釈】はしってるらしい。
ものすごい、国家転覆の詐欺集団だ❣❣❣
【政府解釈】が引用した、政府の3月下旬の政府会議の中のインフルエンザの致死率は%、100分の一に書き換えられている。率そのままが%に。だから、インフルエンザの0.001の致死率であれば0.001%に、つまり100倍弱く書き換えられている。したがって、コロナが100倍強化されるように書き換えられている。篠田さん、検討してください。わたしのパソコンは壊されている。
【また、感染症学を含む医学の専門家の多くも死亡率よりも致死率で比較する場合が多いと承知しております。
医学の専門家が死亡率ではなく致死率で議論しているのは医学上の何らかの合理的理由があると考えるのが常識的で自然であり、統計学的な判断基準から単純に統計上の指標の優劣を判断して良いものなのか疑義があるように思います。 】
これが、間違いなんですよ。
この間違いのために、日本国民が右往左往しているのです。
政府文書とはいっても、専門家会議から登って来てますから。
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000633501.pdf
のインフルエンザとコロナの致死率の比較を検討してごらん。
実際の、100分の一、インフルエンザが過小評価されていますから。
ということは、コロナが実際以上に過大評価されてることになるわけです。
これは、本当なら社会全体に影響を及ぼす甚大なることです。
ぜひ、慎重に検討お願いします。日本国民の命がかかっています。
いつ、パソコンを壊されるかわからない。
https://www.niid.go.jp/niid/ja/index/2069-surveillance/others/2650-00abst.html
下記のとおり訂正いたします。
「パソコンが壊れる」(誤)
→「パソコンが(を)壊される」(正)
騾馬(ἡμιόνος)は驢馬(ὄνος)同様、西洋では古くから頓馬=莫迦というニュアンスがあり、「驢馬から落ちる」(‘ἀπ’ ὄνου πεσεῖν.’)という諺言(παροιμία)がある。フランス語(âne)にも「莫迦を相手にしても仕方がない」(‘À laver la tête d’un âne, on perd sa lessive.’=直訳すれば「驢馬の顔を洗っても洗剤が無駄なだけ」)という成句があるくらいだ。
162⇒【専門外なので若干不正確かも】と断言するのを留保する(ἀποκεῖσθαι)くらいだから、政府解釈氏に特段異論はないと思われるが、私と同様、感染症学や免疫学、ウイルス学については門外漢の素人(ἰδιώτης)にすぎない。
それを侮ってか、159⇒【【政府解釈】は嘘…少しわかってきた…専門家会議の疫学文書に嘘…そのことを、【政府解釈】はしってるらしい】のような戯言を、多少の分別はありそうな齢70の爺さんが、憚ることなく(ἀναισχύντως)宣っている。一種の奇観である。
159②⇒【ものすごい、国家転覆の詐欺集団だ】も戯言で、詐欺(ἀπάτη)とか、香港に国家安全維持法を導入した中国でもあるまいし、「国家転覆(集団)」(οἱ προδότης)なるお粗末な措辞(πονηρός λέξις)といい、つける薬がない。
「狂気を装っている」(προσποῖσθαι μανιῶδες)わけでもなさそうで、意味不明(ἁμφιβολία)というか、「表現されたもの」(ἐκφορικόν)から判断する限り(160⇒【わたしのパソコンが壊されそうに】)、常軌を逸して(οὐκ ἀκόσμως)いる。
検査件数の増加もあって、大阪でも昨日22日に121人が出たように、このところ全国の都市圏で相次ぐ新規感染者の「発掘」で興奮したのだろう。
幼稚な話で、「老人は二度子供になる」(ὁ γέρων δὶς παῖς γίγνεται)。
マックス・ヴェーバーで一時中断したが、トクヴィルの『アメリカの民主政治』を読んでいて、次の一節に出くわした。とにかく、何にでもイライラする(δύσάρεστος)心性を、民主制は助長するようだ。
分別がありそうで欠落した年寄りを望見するにつけ、痛感する。少々長いが引用する。
「民主的諸制度が人心に著しく高度に羨望の感情を発展させるものであることは否定できない。それはこれらの民主的諸制度が、誰も互いに民主的になれる手段を提供しているためであるよりも、むしろ、その手段がこれを使用する人々を絶えず失望させるためである。民主的諸制度は平等の情熱を掻き立て、これに諂うが、けっしてこの情熱を完全に満足させることはできないのである。この完全な平等は、人民がこれをつかんだと思った瞬間に常に自らの手からこぼれ去ってしまう。この完全な平等は、パスカルが言っているように、永遠の逃亡を続ける。人民はあまりに身近にありすぎて知ることができず、そしてまた、あまりに遠ざかっているために味わえないので、ますます貴重なものとなっているこの善物(完全な平等)を求めて頭がかっとなって興奮している。これを勝ち取る成功の機会は人民を感動させるが、成功するかどうか分からない不安は人民を苛立たせる。人民は揺れ動き、退屈し、いらいらする。その時、どこかで人民を凌駕するあらゆるものが人民の願望を阻止する障害として姿を現しはするが、眼が疲れるほどに見あきるだけの正当な優越者というものはどこにもいない。」(上巻第2部第5章「アメリカの民主政治」=‘Il ne faut pas se dissimuler que les institutions démocratiques développent à un très haut degré le sentiment de l’envie dans le cœur humain. Ce n’est point tant parce qu’elles offrent à chacun des moyens de s’égaler aux autres, mais parce que ces moyens défaillent sans cesse à ceux qui les emploient.)
‘…Les institutions démocratiques réveillent et flattent la passion de l’égalité sans pouvoir jamais la satisfaire entièrement. Cette égalité complète s’échappe tous les jours des mains du peuple au moment où il croit la saisir, et fuit, comme dit Pascal, d’une fuite éternelle ; le peuple s’échauffe à la recherche de ce bien d’autant plus précieux qu’il est assez près pour être connu, assez loin pour n’être point goûté. La chance de réussir l’émeut, l’incertitude du succès l’irrite ; il s’agite, il se lasse, il s’aigrit. Tout ce qui le dépasse par quelque endroit lui paraît alors un obstacle à ses désirs, et il n’y a pas de supériorité si légitime dont la vue ne fatigue ses yeux.’; “De la Démocratie en Amérique”, Œuvres, Tom. II, p. 47~48)
言及されたパスカルとは、『パンセ』の次の断章72である。
「これがわれわれの真の状態である。そのために、われわれは確実に知ることも、全然無知であることもできないのである。われわれは、広漠たる中間に漕ぎいでているのであって、常に定めなく漂い、一方の端から他方の端へと押しやられる。われわれが、どの極限に自分をつないで安定させようとしても、それは揺らめいて、われわれを離れてしまう。そしてもし、われわれがそれを追って行けば、われわれの把握から逃れ、われわれから滑り出し、永遠の遁走をもって逃げ去ってしまう。何ものもわれわれのためにとどまってはくれない。」(前田陽一訳=‘Voilà notre état véritable; c’est ce qui nous rend incapables de savoir certainement et d’ignorer absolument. Nous voguons sur un milieu vaste, toujours incertains et flottants, poussés d’un bout vers l’autre. Quelque terme où nous pensions nous attacher et nous affermir, il branle et nous quitte; et si nous le suivons, il échappe à nos prises, nous glisse et fuit d’une fuite éternelle. Rien ne s’arrète pour nous.’; Pensées Frag. 72: Œuvres de B. Pascal par L. Brunschvicg, Tom. 12, p. 85~86)
人生も似ている。年を重ねても一向に賢くならないことも、多くの人々を苛む凡庸さという病である。[完]
感染者が増えているのは、PCR検査の数を増やしたせいで、母数を公表せず、感染者の数だけを公表し、緊急事態宣言の時より多い、などという主張は、現状を歪めて報道しているし、感染者数は気温と関係がない、ということは、岡田晴恵博士がそう主張しておられる時も、私は、米国のフロリダ州やテキサス州の事例で説明した。東京都起源の日本の感染者数が増えているのは、端的に、東京都小池知事が対処法として、三密回避、クラスター調査、感染者の隔離をしなかったせいなのである。「日本モデル」の対策を取らず、「トランプモデル」の対策をすれば、感染が拡大するのは自明である。
私が今心配していることは、若者に外出を制限し、恐怖をあおる番組ばかり報道していると、一人暮らしの若者は、不安になって親元、高齢者の親の元に戻り、移し、病状、医療状況が深刻になるのではないか、ということである。阪神大震災の時も、叔母は不安になって、親元に戻ったのだから。とにかく、間違った認識の元、恐怖だけを煽る情報番組は、公共の福祉の観点からも、やめるべきだ、と強く思う。
(参考文献: 新型コロナウィルスの真実、岩田健太郎、ベスト新書)
都内、陽性者率 6.7%
発熱等相談件数は5月下旬から、安定して50-70件ですね。
わたしの予測とはずれてはいません。
今日の朝昼のニュースでは
今日から始まった「連休のゆるみ」が8月のお盆前に現れるであろうというコメンテーターの意見でした。
大阪の吉村府知事が大阪の陽性率を8%と言ってましたので、これも私の予測とはずれてはいません。
西浦・山中10万人死亡説か❓
児玉龍彦のエピセンター説か❓
わたしのまん延説か❓ 楽しみですね❣❣❣
先ほど、都知事の小池百合子さんがかぶりつき会見を行っていて、顔色なかった。
初めから、最後まで366人で感染者率の不変性については触れることはなかった。
20日間も安定していることは、意外に、上がることはないにしても、あまり下がらないかもしれない。関東圏5000万人の住人の7%、ということは350万人がすでに感染している。人口比例倍すると、おそらく国内で1000万人ほどになる。
わたしは、4-5月のピークだけで1000人死亡、250万人感染と推定していたので、5月6月7月と数倍に増えたと考えればつじつまはつく。
2009年の豚由来の新型インフルエンザでは国内で2000万人が感染したとされているから、やはり、おおきな第2波はできない。
小池さんは、警察と連携して、明日の夜から❝新宿夜の街❞のパトロールにあたるそうだ。
それよりも、日々増える隔離収容者数の増加をどうするのか❓
貯金を食いつぶしたそうだけど、隠れ貯金でもあるのだろうか❓
例えば、アメリカが良い例で、移入の中心地、ニュウ-ヨークで大発生した波が全米に伝播していく過程を思い浮かべるといいのです。大陸が広いので、ずっと遅れて波を受けているのが、フロリダでありテキサスなわけです。波のずれがあって、全体を見ると、あたかも第2波を形成しつつあるかのように見えるわけです。
アメリカの場合は50州広いので、worldometer corona で州ごとの動態を検討して確認することができるのですが、オーストラリアではこれがないので検討できませんが、おそらく地域の発生のずれで第2波が起こっているように見えるのだと考えられます。
これは、日本のように小さな国でも地形が複雑な場合は、分散分布に時間的偏りが見られます。鹿児島県などは良い例で4月には波という波はなかったのですが7月に入って大きな波ができています。
空間的分散動態と時間的分散動態を立体的に考察するのが大切です。
現在ルクセンブルグでは、新規感染者数が急速に増えていて、1週間の累計が10万人当たり50人を超えているそうである。
そのルクセンブルグでは、多くPCR検査をしたそうであるが、
感染に歯止めがかからなかった。それは、無症状の人々が、人々に多く感染させる影響力を低く見積もったからだそうである。
検査して陽性であっても、健康そうなのであまり注意を払わなかったが、その人々が、多くの人と接触して感染させた・本当は、クラスター調査をし、その感染の鎖を断ち切らなければならなかったのである。。
この最後のステップが決定的なもので、それなしには、検査は意味がない。もしそれができれば、感染は早期に歯止めがかかる。クラスターが発生したら、すぐコントロール下におかなければ、米国のようになるのだ。そうなったら収集がつかなくなる。https://www.spiegel.de/wissenschaft/medizin/corona-in-luxemburg-im-land-der-massentests-a-92770504-06b8-4071-a538-07d7cbcec295
この発言を、東京のことを含めて、日本も他山の石にしなければならないのではないのだろうか。
177の日下部眞一さま(生物学)投稿↓
西浦・山中10万人死亡説か❓
児玉龍彦のエピセンター説か❓
わたしのまん延説か❓ (引用終り)
とあります。変な例えですが、Gは以下のように考えています↓
見えている新型コロナは氷山の一角
水面上の部分は、3~4月はその検査受診基準により発症者だけ
水面下の巨大な部分が無症状感染者
4月~5月にかけて氷山の頂上を削り、重症者には治療を施す(うち、死に到る者も退院者も両方存在)
6月~検査基準拡大・経済も再開
水面下にあって見えなかった氷山中下部が、再浮上
いくら水面上の氷山を削っても水面下にあった氷山が再浮上するだけで、検査すれば感染陽性者が増えこそすれ、減ることはない< です。
日下部まん延説< 基本的には2週間程度しないと断定できませんが、案外(失礼!w) 当たっているかも知れません。待ちましょう!! どの説が当たろうとも、感染拡大防止対策を採りつつ、重症者を治療できる体制を準備しておくことは、いうまでもありません(4月ころの感染”有事”の際の経験則から)。この結論に異論はないですよね!! 問題は、この未知のコロナウイルスの動向に異論が多数だということです。
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/corona3.pdf
だって。
一番信頼されていないのが、【新型コロナウイルス感染症対策分科会】なんよ。
今回のコロナ問題で一番問われているのが、専門家会議の信頼性なのよ。
全く、わかっとらん。
いつまで、日本を沈没に持っていくの❣❣❣
❝どの説があたろうとも❞と、簡単に言ってもらいたくはありません。
わたしの、300万人まん延説は、三つの科学的事実に立って仮説展開をしており、定量的に検証しうる方法を示しています。
それが、わたしの恩師、内田俊郎、木村資生、向井輝美に学んだことです。
残念ながら、西浦、山中、児玉の説には、そのような説明がありません。
単なる、ホラ話と同一にされては困ります。
人間は生まれつき平等ではないうえに、肝腎の「自分で自分を知らない」(αὐτὸ αὑτὸ ἀγνοεῖν)、謂わば究極の「自己欺瞞」(αὐτὸς ἀπάτη)を抜け出せない、そのことすら充分に自覚していない(ἑαυτῷ ἀγνοέω)、身の程知らずの阿呆が愚劣な経験などもち出しても、それは「小児のように酷い目に遭って学ぶ」(‘ὥσπερ νήπιον παθόντα γνῶναι’)ことしかできなかった、自らの凡庸さを示すものでしかない。
ラ・ロシュフコーなら、それを「運命は理性の力では直せない数々の欠点を改めさせる。」(‘La fortune nous corrige de plusieurs défauts que la raison ne saurait corriger.’: Maximes 154)とでも言うのだろう。中身が「からっぽ」(χώρα)な人間が、経験や年齢を喋喋して何になろう。マッカーサー将軍ではないが、消え去る(fade away)ことだ。少なくとも、それによって余計な恥はかかずに済み、名誉は守れる。
何ごとにも基本である自己認識、つまり「自分自身を知ること、健全に思慮を働かせることは、人間だれにでも付与されている。」(ヘラクレイトス断片116=‘ἀνθρώποισι πᾶσι μέτεστι γινώσκειν ἑωυτοὺς καὶ σωφρονεῖν.’; Diels-Kranz, Bd. I, S. 176)からだ。
ところが、偏執狂(παράνοια)で「コロナ狂い」(ὁ στέφανος μαίνομαι)の老婆(γραῦς)は、莫迦丸出しで、早朝から大騒ぎし、性懲りもなく「クズ」投稿を午前中に10件、それでも足りずにさらに3件も撒き散らし、醜悪な独り相撲に興じている。
愚鈍な老婆というのは、救いようがない。特にドイツ狂い(Γερμνανία μανία)の無学は、「他愛もない老婆のおしゃべり」(ὁ γραῶν ὕθλος)が尽きない。
イタリア語の起源については15世紀に有名な論争があり、①ラテン語とイタリアに侵入したゲルマン系の言語との融合②ラテン語の文章語の転訛③ラテン語とイタリア語を結ぶ(中間の)ロマンス語(linga Romanza)、所謂「新ラテン語」(neolatino)から派生した――という説で、19世紀以来学界の大勢は③のロマンス語派生説だ。
ロマンス語はラテン語が変化を続けるなかで、正統的な古典ラテン文章語ではなく、口語であるラテン俗語(Latino Volgare)が、特に教育水準の低い民衆が使用した平民語(Sermo Plebeius)、下賎語(Sermo Vulgaris)と混淆しながら同化を深め、やがてローマ帝国の支配地だった各国の地域的な特性、声音や形態の違いが加わって今日のイタリア語とルーマニア語を含む祖の東方ロマンス語と、フランス語、プロヴァンス語、スペイン語、ポルトガル語になる西方ロマンス語になる。
カトリック教会ではラテン語使用が続く一方、ラテン俗語がますます変化してロマンス語文語に近づき、それに伴ってイタリア各地にそれに応じた方言が成立した。
この統一を失って種々雑多な形態に分かれた諸方言を統一する機運が13世紀半ばにシチリアで起こって文学語としての共通シチリア語が成立し、それが最もラテン語の伝統を保っていたトスカーナ方言を触発し、シチリア語内部のラテン語的要素、つまりトスカーナ方言=トスカーナ語に最も近い要素が拡大強化される形で、それ以降はトスカーナ語が、中核都市フィレンツェの繁栄に伴ってイタリアの文学語の中核的存在になるという流れだ。
その程度のこと、つまり『神曲』すら読んだことがないから他愛もない無駄話、それも間違いだらけの妄言を並べても、ラテン語で書かれたと誤認する、途方もない間違いが生ずる。欧州に留学経験のある人間で、『神曲』がラテン語の作品だと老婆の年に至るまで思い込んでいる人間は、皆無に近いだろう。ましてや、イタリア在住の親族がいるらしい。それほど、無知なのだ。
阿呆につける薬はないが、竹友藻風について思い出があり、その柔らかな調子の韻文訳3巻4冊を大学時代に入手して読んだことがある。元々は師である上田敏訳が未完に終わったのを受けて戦前から始まった和訳は、第一巻『地獄界』(『地獄篇』=Inferno)が昭和23年2月に出て、最終巻の『天堂界』(『天国篇』=Paradiso)第二部が出るのは翌24年12月だ。
ダンテの11音節の詩を、上田敏にならって最初は七五調で訳すがうまくゆかず、自由な詩形、「それは五七五、五七七、五五七と自由に屈折させ、時に七五七というやうな破格をも許し得る」(第1巻「序」、3頁)で新鮮な印象を残す。田中美知太郎が面白がって評価していた。
有名な地獄篇の冒頭は、「われ正路を失ひ/人生の覊旅半にあたりて/とある暗き林の中にありき」(山川丙三郎訳)、「人生の道半ばで/正道を踏みはずした私が/目をさました時は暗い森の中にいた。」(平川祐広訳)が、竹友訳だと「われ人の生(いのち)の路のなかごろに、/ますぐなる道あと絶えてなかりける、/くらやみの森をよぎりて、われありき。」となる。
教鞭を執った関西学院大の劣等学生が、ラテン語の作品と齢70近くまで思い込んでいたと知ったら、泉下の詩人学者が卒倒したか、慨歎して天を仰いだことだろう。
「出来損ないよ」とでも。
170⇒【高校の時は…吉川幸次郎…東西文化の…両方を尊重するような教育…歳を経て現実に教わったとおりだ、と認識】――阿呆が何を認識したと勘違いしているか見当もつかないが、吉川は、167⇒【孔子やゲーテが主張しているように、人は、人生を経験して色々と学ぶ】のようなことは、孔子に関しては一言も言ってはいない。むしろ、全く逆のことを指摘している。
以前に、孔子を経験論者だとする老媼の妄言を逐一、吉川の『中国の古典』(『吉川幸次郎全集』第1巻所収)を手掛かりに論じた(2018年12月8日・86~88)。無学な婆さんから、『論語』や吉川の著書などを論拠にした具体的な反論は今もってない。ほとぼりが冷めたころに、懲りずに狂信を発揮して妄言を鸚鵡返しにするしか能がない。
吉川の主張は、孔子は経験重視派ではなく、孔子は五経を軸とする古典の読書を極めて重要視した、「吾れ嘗つて終日食らわず、終始寝ねず、以て思う。益なし。学ぶに如かざる也」(『論語』衛霊公第十五)。終日終夜の思索も、その効果は、学、即ち読書に及ばない、との趣旨だ。「君子は博く文に学べ」(雍也第六)は、安易な体験主義を戒める教えとして、儒学の歴史を貫いている。
吉川が作詞した老媼の母校、神戸高学の校歌は第2番に、「わこうどは/むねのとひをじかりにひらけ/きみみずや学問のきびしきめざし/わがものときわむる自然人文の/真理のつばさはばたけば/わかきひとみのかがやくを」とある。
老媼の所業は、それをすべて裏切る出来損ないの愚行だ。
孔子の自伝的記述とされる「子曰、吾十有五而志于學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩」(為政第二)は、経験重視とは何の関係もない。
「七十にして心の欲する所に從って、矩を踰(こ)えず」に常に背いているのは、笑止にも老媼であろう。
老媼に可能なのは、飛翔して太陽に近づけば溶け落ちて墜落するしかないイカロス(Ἴκαρος)の翼の方だろう。石井妙子『女帝 小池百合子』にも同名の第7章があり、「小池に蠟の翼を与えたのは誰だろう。父親か、自分自身か、マスコミか」とある(402頁)。はったりで手にした政界雄飛の翼は、小池氏を知る人物が、「褒め上げる気はないが、貶める気にもなれない。あれは虚言癖というより、自己防衛だよ。…太陽に向かえば翼は溶けて墜落する。その日まで、あいつは飛び続ける気なんだ」(同)とある。
小池氏も悲壮だが、老媼の場合は悲壮ではなく、単に皮相で軽薄な「虚偽体質」(ψεύστης φυσικός)のなれの果ての自己欺瞞なのだろう。
トクヴィルは次のように、権力者ではなく人民の側の宿痾を説く。
「人間を堕落させるもの(qui déprave les hommes)は、権力の行使または服従の習性ではない。それを起こすものは、不正だと考えられている権力の行使と奪取されたもの、圧政的なものとしてみなされる権力への服従(l’obéissance à un pouvoir)とである。」(‘Ce n’est point l’usage du pouvoir ou l’habitude de l’obéissance qui déprave les hommes, c’est l’usage d’une puissance qu’ils considèrent comme illégitime, et l’obéissance à un pouvoir qu’ils regardent comme usurpé et comme oppresseur.’; Œuvres complètes, Michel Lévy Feréres, 1864, Tom. I, p. 11)
首都の感染増に興奮して、小池氏批判などしている場合はなかろう。[完]
本欄の齢70の堪え性のないない「パソコンが壊される」妄想爺さんである日下部眞一氏が、何やら偉い恩師の名(内田俊郎、木村資生、向井輝美)を並べて意気がっている。誠に滑稽だ。
300万人でも1,000万人でも、いずれでも構わないが市中感染が存在するとの断定に基づいて、このところの首都東京以外の各地でも新規感染者が相次いで、「第二波」かとの警戒感が強まっている感染者の急増が、「PCR感染“偽装波”」なら、日下部氏の推定や予測と称するものは、論理的には同語反復(Tautologie)の循環論法(κύκλῳ γίνεσθαι τὴν ἀπόδειξιν)でしかない。
186⇒【三つの科学的事実に立って仮説展開をしており、定量的に検証しうる方法を示しています】と大見栄を切るが、それほどのものが示されているとも到底思えず、お粗末な推定が列挙されているのをもって、「科学的事実」としているだけの話だろう。
そもそも、死者数や人口当たりの死亡率の少なさはともかく、日本の累計感染者数が少ないのは、検査を抑制的に行うという厚生労働省の政策的意図から導出された見掛け上の結果、謂わば仮象(φαίνεσθαι)、「そうみえるけど、実はそうではない」(εἶναι δὲ μή)ものであることは賛同する。
問題はその規模、水準だ。日下部氏の推定はいずれも複数の推定を重ねた計算上の想定であって、仮説を構築する前提となる三つの科学的事実は、今回の推定に当たって果たして検証が不要な「科学的事実」に当たるかどうか、極めて疑問だ。
「定量的」を云々し、しばしば統計リテラシーを喋喋するが、日下部氏自身が定量的分析や調査に基づいて、感染実態の全体像なるものを、未だに説得的に提示していない。
一種の法螺話とあまり違わない。
現在の感染者が「氷山の一角」という程度の蓋然性に基づく推定や感染波の見極め程度の議論なら、ずぶの素人である「Gクン」氏と択ぶところはない。朝から晩まで、何やらハートマークがついた妙な絵文字を使って空騒ぎをしたり、一々メディア報道を追い掛けても仕方がない。
「K値」と言えば、自身のブログで、「K値」解析(予測)を提唱している中野氏の最新情報と称するものをretweetしている獣医学者の宮沢孝幸(京都大再生医科学研究所准教授)という愛嬌のある研究者がいる。
それによると、およそ半月前の7月9日、「阪大の中野先生から情報です。K値モデルは7月5日に作成…その後の4点は予測値通りの推移…8府県(神奈川、千葉、埼玉、愛知、大阪、兵庫、京都、福岡=筆者註)の累計感染者は2,000人程度に収まる模様」としていたが、見事に外れた。
経過を追うと、7月10日⇒「昨日の集計間違いがありましたが、ドンピシャ予測値…東京都の積極調査の影響がわずかにでていると思われます。近隣県の感染者としてカウントされるので。8府県で昨日辺りが新規感染者のピークとの予想。あと1週間でわかると思います」、10日⇒「ここから大きくずれていくことは、まずないと思うのですが、どうでしょうか?」、11日⇒「中野先生のK値予測最新版、昨日の数に修正…首都圏はどんちゃん騒ぎはやめるようにお願いいたします。もう少し様子を見て下さい」としたあたりまではよかったが、その後に異変が起こる。
加えて、18日②⇒「これらは、すべて…中野教授の解析…あくまで予測で変動はありえます。1/100作戦と半自粛の徹底を…頑張れば山は低くなり収束も早まります」として、大阪府単独の累計感染者数の推移を5,000人近傍まで引き上げた。K値算定の前提条件が崩れたわけだ。
そして新たな解釈、18日③⇒「この波の予測が正しいとしたら、今は、第3波と第4波が来ています。第3波は収束期。第4波は拡大期」、18日④⇒「東京を除く8府県の予測…7月6日のK値予測から途中から突然ずれてきたのですが、これは波が重なっていたという解釈」となる。
もっともこの二人、宮沢氏と彼が頼みとするK値予測の宗家である中野氏には、宮沢氏の言でなら「感染増大要因、収束要因について意見が異なる面があり、K値が今なお確立した指標ではないことを認めつつ、今回の新型感染症予測に関しては『使える』」(18日)という直観を前提とした議論だ。
いろいろ癖のある人物だが、根は正直で、「正直に生きて失敗することもある、不誠実に生きて成功することもある。でも、それは表向きの人生。…内面の人生こそが大切よ。」(18日)と恬淡な(ἐλευθέριος)ところがあり、いち早く頭を切り替える美質、潔さ(ἡ ἀνδρεία)があるから、私としては嫌いではない。
感染症やウイルスに精通した獣医学者としては、「人は昔からwithコロナなんだけどな。新型コロナと同じ受容体を使う旧型コロナも昔から一緒で、肺炎を起こしている」と、達観したところもあり、日下部氏より大人だ。
その基本的スタンスは、日下部氏のように破れかぶれではなく極めて明解かつ実践的で、16日⇒「感染しないようにして、ウイルスの被害を最小限にしつつ、経済を回すのが我々の主張で、私は単なる緩和論者でも、自粛論者でもありません」としたうえで、16日②⇒「普通の街での感染拡大防止は個人レベルで頑張るか、普通の街の営業自粛かで対応するしかない。私は1/100作戦で個人レベルでの感染予防が、経済への影響をミニマムにできると考えている」というものだ。
大阪府の会議で有識者として発言した際に、緊急事態宣言中の接触削減の効果を尋ねた吉村洋文知事に対して、「全く効果がなかった」旨の発言して物議を醸し衝撃的に受け止められたが、内容を精査すれば、宮沢氏の真意は「充分な合理性をもって結論づけることはできないから」効果の有無を断定できない、という趣旨で。至って合理的かつ禁欲的だ。
なお、宮沢氏の説く、「1/100作戦と半自粛の徹底」とは、「大声出さない、声を出すならマスク、目鼻触るな、換気せよ。飲み会・カラオケは極力自粛、やるなら充分注意を。エタノールは常時携帯。マスクは、咳・くしゃみが出なければ。しゃべる時のみでよい」という格率(Maxime)、主観的に妥当する行為の実践的原理だ。
「このウイルスは人々の心を映す鏡のようなもの」(7月12日)という書き込みがある。世の中にはウイルスより重症の人間が少なくないということだろう。
本欄にも確かに存在する。そういう人物に限って矯激的で、「コロナファッショ」とか簡単に口走る。
そこで言われいることは論証されるべき事実認識ではなく、前提から帰結する事実認識の形式論的反復、つまり同語反復でしかない。検査が増えれば感染者も増えるでは、カントが科学の基本とした客観的総合判断(ein objectives synthetisches Urteile)である事実認識を構成しない。
政府対策会議の尾身茂分科会長の発言は、専門家としてより多分に政治的な性質のもので、感染防止と社会経済活動の両立が「大前提」として、感染症の専門家としての認識は半ば封印しているようだ。この政治色は専門家としての使命を半ば放棄するもので、一種の自殺行為に等しい。
立場は分かるが、世論や政府に遠慮しているようでは、専門家の沽券にかかわる。政治責任を説きながら、専門家を楯や隠れ蓑にする政治への不信もしくは配慮があるのかもしれない。
「雨ニモ笑イ、風邪デモ笑イ、…ドン底デモ、死ニソウニナッテモ、心配イラヌ、コレモ運命ト笑イ飛バシ、最期ハ、アノ世ガ楽シミジャト旅立ツ、ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」(10日)と宮沢氏はつぶやく。
「人間など滅びても、地球は少しも困らない」とまではいかないからまだ若いし、愚鈍な年寄りより頼もしく見える。[完]
「幸福な人の節制は、幸運がもたらした静かに落ち着いた気分から生まれる。」(‘La modération des personnes heureuses vient du calme que la bonne fortune donne à leur humeur.’; La Rochefoucauld, Maximes 17)
"Wir haben unterschätzt, wie Infizierte ohne Beschwerden das Virus weitergeben"
Spiegel誌は、「我々は、自覚症状のない感染者がウィルスをどのように感染させるか」を過小評価した、と人口当たり現在ヨーロッパ最大の感染者を出しているルクセンブルグのパンデミー専門家、Rudi Balling氏のインタビューを報道し、彼の指摘はドイツにも参考になる、と述べている。
Rudi Balling氏は、2009年までブラウンシュヴァイクのウィルス研究の為のHelmholzセンターのセンター長を務め、引き続いてルクセンブルグ大学の生物医学システムのセンター長になり、ルクセンブルグ政府にパンデミー問題の諮問もされている。
【中野貴志さんのK値モデルについて】
このモデルは生物集団増殖についての生態学モデルです。一般的に使われる、そしてわたしが直感的推定の基礎にしている生態学モデルは「ロジスティック方程式モデル」と呼ばれる上限(環境抵抗K)がすでに設定されています。しかし、中野さんのK値モデルは単純な指数関数的増殖ですので無限大増殖を抑えるためにKを設定しています。
したがって本質的には「ロジスティック方程式モデル」とかわりありません。一つ問題なのは、総感染者数N(d)で、実際は、発病者と周辺の未発病感染者を含む数です。だから実際の感染者数は10倍、100倍も大きいことが含意されずに看過される危険性が怖いですね、生物学者としては。
これは、中野さん自身が指摘していることで、感染者の意味が7月に入ってから変わりだしているので、単純に使えなくなってきていると。
いろんな推定が、いろんなモデルの下でできると思うのですが、どのモデルでも、あてにならないような実測値や推定値に頼らざるをえません。だから、今回のコロナ予測では、壮大なる自然実験であったクルーズ船被災からどれだけ重要なことを学べるか?そして、世界各国のコロナ被災動態を読み解くかにかかっているのだろうと考えています。
クルーズ船被災を考えると、10万人死亡や、40万人死亡はあまりにもバカげた推定値なのです。
そうでないと、読者に対して説得力がありません。専門家でも現時点ではわからない未知のウイルスです(発展途上です)。他者を、揚げ足取り的に批判するのもけっこうですが、自分の現時点での主張も、勇気を持って主張したらいかがでしょうか?ね!(リスクを取って)。自己の議論が外れた!!っていいじゃないですか!? ここは、 篠田教授のブログのコメント欄にしかすぎません。社会的実害もない!と思います。
PCR検査を増やせば増やすほど感染者数は増加していって、市民の間に新たな恐怖を与え続けるのでしょう。
しかし、陽性率は、いつまでたっても6%代なのでしょう。
7月19日に書いたのが、もう過去になってしまったようですので採録します。わたしの、まん延説についてです。
• ●現在、騒がれている増加は❝PCR検査爆発❞であって❝陽性感染者爆発❞ではない。あと1週間で検証されるであろう。付随的には発病者、死亡者数の目立った増加は見られていない。
●数万人の死亡をもたらした英国、独、仏、伊でも、となりの南朝鮮でも第2波の兆候は見られない。スペインがちょっと気になるところもあるが、大丈夫であろう。
●国内では、クルーズ船被災を参考にすれば4月の第1波だけで国内200-300万人の感染を引き起こしていると予測される。すでに2-3か月たってしまっているから、おそらく感染者は数倍に広がっているだろう。2-3倍くらいとすれば、すでに1000万人近くになる。例年の季節性インフルエンザの感染者数は1000万人から2000万人くらいと想定されているから結構、十分に国内感染拡大していることが考えられる。したがって、年末、季節性インフルエンザの発生となっても際立った波を想定しなくてもよい。
以上の、3つの理由から、第2波は季節性インフルエンザの時期までは来ない。来た時の波は第1波ほどではなく従来のインフルエンザの波と混在した波となるであろう。
アメリカ、オーストラリアの第2波の解釈については、2~3前に書きましたので改めて触れません。
自己の見解を明示するということは、後日検証されて批判の対象にもなります。つまり、発表当時リスクを負って発言しているわけです。Gの204投稿は、そのリスクから逃げているように見える論者に対するものです。批判専門でなく、ちゃんとしたその人なりのストーリーを示さないと、議論そのものがおもしろくもありません。
207の 日下部眞一さん→まん延説の再説、ありがとうございます。「まん延説」の概略、承知いたしました。いまの検査陽性者数の急増は、3月末~4月の欧米由来を第一波とすれば、第二波ではないと思います。その延長波かな!?と。現在、巷間唱えられている各説(デマの類いを含めて)、「重症者指標」の急増に留意していれば、2~3週間後には検証されるでしょう。Gの個人的見解は、まん延説に近接します。183投稿の中段で示した「氷山の一角」説ですww
高い学歴をもつ専門家二人とも、完全に、新型インフルエンザと混同されている。知能指数が異常に高いという触れ込みで出演している脳学者中野信子教授は、なぜそれに気づかれないのか、計り知れないが、Covid19のウィルスの本質をよく認識して、尾身茂。押谷仁教授のたてられた、本当に有効なCovid19との共存生活の道しるべの邪魔をすることだけは、マスコミの方々に謹んでいただきたい、と思う。
[γαστρίμαργος]とは、オックスフォードのLiddell & Scott『希英大辞典』によれば本来は[gluttonous]、「貪欲な、飽くことを知らない、大食の」という意味で、[γαστριμαργία]は貪欲、大食漢、昔の言葉で言うなら「気違い腹」、転じて飽くことを知らない人物、という意味になる。動詞は[ γαστρίμαργέω=to be gluttonous]。「狂態」とは、そうした物心両面にわたる偏執狂的性格を指している(A Greek-English Lexicon, by H. G. Liddell & R. Scott, rev. by Sir H. S. Jones with the assistance of R. Mckenzie, 1968, p. 339)
199⇒【古代ギリシャ哲学を大学で…英文学者なのに、ラテン語も学ばれた】という、219文字に及ぶ支離滅裂で(ἀσύμφωνος)首尾一貫しない(ἀκατάσταος)狂信家の文章がある。
いくつかに分解すれば、辻褄の合わない(ἐναντίος)、論旨がころころ変わる(ἀσύμφωνος)、まさに「狂人」(ἡ μαινόμενος)ではと思わせかねない内容だ。
それは①《古代ギリシャ哲学を大学で専攻し、古代ギリシャ語ができることのどこが偉いのだろう》②《ラテン語は、イタリア半島中部のラティウム地方(ローマを中心とした地域、現イタリア・ラツィオ州)においてラテン人が用いた言語》③《元は知的な言葉でも何でもない。民衆の言葉、ドイツ語と変わらない》④《ローマが、神聖ローマ帝国がヨーロッパを支配したから、知的な言葉になった》⑤《竹友藻風さんは、言語のニュアンスを知るために、英文学者なのに、ラテン語も学ばれた》――に分かれる。
暇をもて余して(σχολάζω)病んでいる(ταράσσειν)哀れな魂の綴った文章とも呼べない駄文を解剖する。
そうすることによって、生まれつきの(φύσει)嘘つき(ψεύστης)、つまり「虚偽体質」(ψεύστης φυσικός)である「ドイツ狂い」の婆さんは、ダンテの『神曲』がイタリア語、厳密にはトスカーナ方言で書かれているのにラテン語で書かれたと昨日24日まで誤認していた致命的な(θανάσμος)無知=「事実」から論点をずらす。
日頃、独善的な「真理愛」(φιλαληθής)などを喋喋して、他を激しく糾弾しておいてこの体たらくである。
無学(ἀμαθής)は哀れだ。
②は私のダンテが『神曲』を書いた時代に至るまでのイタリア語の言語学上の史的分析に対抗したわけでもなさそうだが、大方(ὡς τὸ εἰκός)どこかから引き写した、剽窃した文章だろう。①と②で見え透いた論点の移動を行ったうえで、③④の冗語につなげる。
老媼はイタリア語はもとよりラテン語など全く解しないから、キケロやカエサルが使用した文章語としての古典ラテン語と、それと並行して存在した、一括して「ラテン俗語」(Latino Volgare)と称される口語、教育水準の低い民衆が使用した平民語(Sermo Plebeius)、下賎語(Sermo Vulgaris)、労働者語(Sermo Proletarius)、百姓語(Sermo Rusticus)、兵隊語(Sermo Militaris)とを一緒くたにしている。混同した、というより違いさえ想像したこともないのだろう。
ローマを中心とする地域ラティウム(Latium)でローマの口語が書物で書き表された当時、それとは多少違う文語が誕生する。
もっとも、支配階級である上層社会の社交上の共通語はギリシア語で、後年のドイツやロシアなど「後進国」の宮廷や上流・知識階級がフランス語を使用したのと同じだ。
ラテン語を学習すると早い段階で教えられる言葉に、「征服されしギリシアが野蛮な勝者(ローマ)を魅了し、そして学芸を粗野なラティウムにもたらした。」(‘Graecia capta ferum victorem cepti et artes intulit agretsi Latio.’; Horatuis, Epistlae II, i, 156~7)というのが、そうした事情を端的に物語る。
たとえ軍事的には征服された民族、国家でも、その文化的な力で逆に征服者を捕え(魅了し)、文化的には勝者と敗者の立場が逆転する現象は、歴史上、元や清など中国の夷狄による征服王朝でも起こっている。
それでも、古典ラテン語は「元は知的な言葉でも何でもない。民衆の言葉、ドイツ語と変わらない」というのは、端的に誤りである。
ドイツ語(deutsch)という言葉は、786年に[theodiscus]という形で登場したのが今日確認される最初の用例とされるが、当時の古高ドイツ語(Althochdeutsch)で民衆を意味した[diet, diot=Volk]から派生した形容詞[diutisc=volksmäßig]のラテン語形であって、「民衆の言語」を意味する(“Das große Wörterbuch der deutschen Sprache in 8 Bänden”, 2., Aufl. hrsg., & bearbeitet vom Wissenschaftlichen Rat & den Mitarbeitern der Dudenredaktion unter der Leitung G. Drosdowski. 1993, Bd. 2, S. 708)。
共通の文章語が不在で上流・知識階級の謂わば公用語がラテン語であった文明の周縁、ドイツの特殊事情を反映している。
『論語』の「子曰、吾十有五而志于學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩」(為政第二)にしても、 「吾れ十有五にして學を志す」が、170⇒【「15にして学を志す…」】では、先祖が泣く。
「十有五」というのは「有」は「又」という意味であって「十と五」、日本の古語的表現では「十あまり五つ」ということで、15歳の時に高度の学問に取り組む意志を固めたという意味だ。
しかも、15歳になって初めて学問に参入したという趣旨ではない。吉川幸次郎が口述した『論語』には、幼年期の教育について『礼記』(「内則」)が引かれ、「六年にして之れに数と方の名を教え、九年にして之れに日を数うることを教え、十年にして書計を学び、十有三年にして楽を学び」とあるように、「學を志す」といっても学問のスタートが15歳ではないからだ。
孔子でも『神曲』でも、女だてらに大食漢よろしく何でも喰い散らして、間違いを指摘されても後は野となれ山となれが無学な婆さんの本性で、救いようがない。
吉川が作詞した母校の校歌の一節「真理のつばさはばたけば」など、真っ当な分別(ὁ ὀρθὸς λόγος)と羞恥心(αἰσχύνη)があれば、言及するのに逡巡(μέλλησις)や躊躇(μέλλησις)が生じるはずだが、婆さんにはそれがない。
それで他を語るのだから驚くべき神経で、狂信家の心性をよく示している。
愚劣な無駄話はできても、青年期ではなく後年になって専門外の古典語に取り組んだ先達の苦労など、婆さんには皆目分かっていないことが歴然としている。校歌の「きみみずや学問のきびしきめざし」の精神にこれほど縁遠い人物も珍しい。普通の弁えある人間なら余計なことは言わないものだ。愚鈍な人間ほど余計なことを口走る。
《古代ギリシャ語ができることのどこが偉いのだろう》――については、私の判断する問題ではないが、西洋古代哲学、つまりギリシア哲学を、単にお勉強するのではなく研究するためには、ギリシア語やラテン語など古典語の知識が欠かせない、ということだ。欧米諸国語で書かれた文献をいくら積み上げても、それではプラトンやアリストテレスを読んだことはもとより、研究したことには少しもならない。原文はギリシア語、註釈書の多くもラテン語で書かれているからだ。
翻訳で安直に済ますのをお勉強という。それで満足している人間には研究の扉は永遠に閉ざされたままだ。もっとも、わざわざギリシア語でプラトンやアリストテレスを読むということは、彼らがそれに応じる価値を宿しているからで、ゲーテなど問題にもならない。
師の藤澤令夫はそうした苦行を、粘土細工ではなく「大理石に鑿で刻む」行為になぞらえた。「分かる人間には分かる」学問の厳しさで、独りよがりの真理を「騙る」(παρακρούεσθαι)婆さんには無縁ということだ。[完]
「すべてを中傷し歪めて疑いと憎しみを引き起こす。」(‘calumniando ominia detorquendoque suspecta et invisa efficere.’)
つまり、分科会の尾身座長の政治家をたてる態度は正しく、西浦博教授をはじめとする、「専門家」であることを錦の御旗に自分たちの理論を押しつけようとしている人々は、出すぎなのである。そして、マスコミが、「この似非専門家たち」をいたずらにもてはやし、日本社会を混乱させている。専門家の間で対立があるから、「日本モデル」に対する「西浦1.0」や、「児玉龍彦理論」が現われるのである。民主主義体制の元、行政権のある内閣、安倍首相や西村大臣、つまり政府が「諮問機関」として助言をもとめているのは、「尾身茂」座長の「分科会」の諮問であり、政治的に効力をもつのは、その諮問を受けた日本政府あるいは、特措法がらみの、地方自治体の長の決定である。
(参考:民主主義の擁護、ハンスケルゼン、岩波文庫)
とにかく、マスコミに出演しておられる感染症の専門家が世論をミスリードするから、東京をはじめとする日本の感染が拡大している、ということをよーく認識すべきだと思う。
感染者数の上位国は①米国②ブラジル③インドがそれぞれ400万人~100万人の大台を超えて勢いが止まらないが、人口が多いから納得がゆく。逆に感染者数は統計基準が異なるから相手にしないとして、死者数が4,634人のまま全人代以前から微動だにしない中国の数値が異様ということだろう。
以下④ロシア⑤南アフリカ⑥メキシコ⑦ペルー⑧チリと続き、⑨番目にようやくスペインが登場、⑩英国となる。⑪位以下もイラン⑫パキスタン⑬サウジアラビア⑭イタリア⑮コロンビア⑯トルコ⑰バングラデシュ⑱ドイツ⑲フランス⑳アルゼンチン――で、1カ月前と比較しても随分様相が変わった。コロンビア、バングラデシュの伸びは収まる気配はなく、アルゼンチンも遠からず独仏を抜き去るだろう。
ちょうど2カ月前、⇒《ここにきて人口が424万人程度のパナマ…も…急拡大…遙かに人口が多く…経済もデフォルト状態のアルゼンチン》(5月23日・50)と指摘したばかりで、現在の感染者数153,520人は2カ月間で15倍になった。23万人台(233,541人)に達したコロンビアの急拡大も脅威で、同じことは世界5位の感染者を擁するまでになった南アフリカのような例が、静かな感染爆発の懸念がなくもないアフリカで進行している蓋然性は少なくない。
イラク、インドネシア、エジプト、カザフスタン、フィリピン、随分落ち着いてきたとはいえ致死率が高いエクアドルも目が離せない。新型コロナのUEFA的風景は遥か後景に退いたということだ。
われわれも認識の地平線(ὁρίζων=ホリゾーン)を転換する必要がある。
ペルーは隣国のチリ、コロンビアと並んで感染者こそ多いが致死率、死亡率は欧米より低い水準の3%台、10万人当たりの死亡者数は30人台でなんとか持ち堪えていたが、以前から医療崩壊の懸念が伝えられ、それに近い状態が続いていたから、死亡判定の見直しがあったとしても(私の推定)、1日で13,000人台から17, 000人への4,000人に迫る急激な増加は異常だ。
10万人当たりの死亡者数も最新で(25日午前)で54.88人にまで上昇した。致死率は4.75%まで上昇したことは、医療的コントロールが崩れていることを物語る。それでもドイツ(4.47%)と同水準だから考えさせられる。
こうした状況は別に篠田さんが称揚する「日本モデル」の中核的対応の一つであり、「コロナ狂い」(ὁ στέφανος μαίνομαιの面目躍如で意地になって(ἀπαυθαδίζομαι)「クズ」投稿を早朝から8件も連発している偏執狂(παράνοια)の老婆が日本の「秘儀」(τελετή=initiation in mysteries)として信奉している(πιστύω)クラスター対策とは次元が異なる事態が起きていることを物語っている。
このところの日本の急激な感染再燃とみられる状況も、検査拡大との相関性や重症者、死亡者の少なさとの観点で認識はそれぞれ異なろうが、クラスター対策が有効な水準でないことは明白だ。
それにしても、日記や備忘録ではないのだから、221~225といい、もう少しまとめて論述できないものか。狂信家(ὁ μαινόμενος)の作法をまざまざと見せつけられる思いだ。
どんな御託を並べても、『神曲』がラテン語で書かれたとする途方もない無知は消えない。それをごまかすのに躍起になるのを「虚偽体質」(ψεύστης φυσικός)という。
愚行を重ねるほど傷を深くする。
自らの正気を支配して(ἄρχειν)、日々怠りなく検分する(κατέχειν)ことが自己を制御下(ὑποχείριος)に置く、即ち自己抑制する(ἡσύχως ἔχειν)、マネージメント(ἡ ταμιεία)するということだが、堪え性のない「精神の幼児」(ὁ νήπιος τῆς ψυχῆς)である婆さんにはそれができない。
イソップ(Αἴσωπος)の寓話に『海豚と鯨と鯊』(Δελφῖνες καὶ φάλαιναι καὶ κωβιός)というのがある。勘違いして逆上せ上がっている(μέγα φρονεῖν)人間への戒めだ。
「イルカたちはクジラたちと互いに戦をしていました。その仲違いは長引いて烈しくなりましたので、一尾のハゼが浮かび上がってきて(これは小さい魚です)彼らを仲直りさせようとしました。と、イルカのうちのある一匹が口を切って彼に「いや、君を仲裁人に立てるよりも戦って互いに殺され合った方がわれわれにはまだ我慢できるよ」と言いました。
こういうふうに、人間の間にも、一文の値打もないのに世の乱に際会すると、自分をいっぱしのものだと思う人々があるものです。」
(‘Δελφῖνες καὶ φάλαιναι πρὸς ἀλλήλους ἐμάχοντο. Ἐπὶ πολὺ δὲ τῆς διαφορᾶς σφοδρυνομένης, κωβιὸς ἀνέδυ (ἐστὶ δὲ οὗτος μικρὸς ἰχθύς) καὶ ἐπειρᾶτο αὐτοὺς διαλύειν. Εἷς δέ τις τῶν δελφίνων ὑποτυχὼν ἔφη πρὸς αὐτόν• «Ἀλλ’ ἡμῖν ἀνεκτότερόν ἐστι μαχομένους ὑπ’ ἀλλήλων διαφθαρῆναι ἢ σοῦ διαλλακτοῦ τυχεῖν.»
Οὕτως ἔνιοι τῶν ἀνθρώπων οὐδενὸς ἄξιοι ὄντες, ὅταν ταραχῆς λάβωνται, δοκοῦσί τινες εἶναι.’; Ésope Fables. 95, par É. Chambry, p. 44)
「一匹の牝猫が美しい一人の若者に惚れて、アフロディーテにどうか自分を女の姿に変えて下さいと祈りました。すると女神はその心根を不憫に思し召しになって、猫を綺麗な処女の姿に変えてあげました。こうしてその若者は彼女を見ると参ってしまって、自分の家へ連れて帰りました。彼らが婚礼の部屋で休んでいた時に、アフロディーテは牝猫がその身体を変えるとともに、その気だてをも入れ替えたかどうかを確かめようとお思いになって、一匹の鼠を真中にお放ちになりました。すると、彼女は場所柄も忘れて、床から跳ね起きて鼠を食べようとその後を追い掛け始めました。すると女神は彼女にご立腹になり再び元の姿に戻してしまいました。
このように、人間においても生まれつきの悪い人々は、たとえその姿を変えても、けっしてその気だてまで変えるものではありません。」
(‘Γαλῆ ἐρασθεῖσα νεανίσκου εὐπρέπους ηὔξατο τῇ Ἀφροδίτῃ ὅπως αὐτὴν μεταμορφώσῃ εἰς γυναῖκα. Καὶ ἡ θεὸς ἐλεήσασα αὐτῆς τὸ πάθος μετετύπωσεν αὐτὴν εἰς κόρην εὐειδῆ, καὶ οὕτως ὁ νεανίσκος θεασάμενος αὐτὴν καὶ ἐρασθεὶς οἴκαδε ὡς ἑαυτὸν ἀπήγαγε. Καθημένων δὲ αὐτῶν ἐν τῷ θαλάμῳ, ἡ Ἀφροδίτη γνῶναι βουλομένη εἰ μεταβαλοῦσα τὸ σῶμα ἡ γαλῆ καὶ τὸν τρόπον ἤλλαξε, μῦν εἰς τὸ μέσον καθῆκεν. Ἡ δὲ ἐπιλαθομένη τῶν παρόντων ἐξαναστᾶσα ἀπὸ τῆς κοίτης τὸν μῦν ἐδίωκε καταφαγεῖν θέλουσα. Καὶ ἡ θεὸς ἀγανακτήσασα κατ’ αὐτῆς πάλιν αὐτὴν εἰς τὴν ἀρχαίαν φύσιν ἀποκατέστησεν. …(引用続く)
小池百合子氏と無学な老婆は、不思議と似ている。石井妙子『女帝 小池百合子』を卒読して共通する「虚偽体質」を垣間見る思いがした。「同類は同類を呼ぶ」(ὅμοιον ὁμοίῳ ἀεὶ πελάζει)というが、「盲目にも明らか」(φαίνεται καὶ τυφλῷ)な「虚偽体質」の血が騒ぐのだろう。相手の措辞をそのまま借用して意趣返しする作法も、小池氏と婆さんはよく似ている。それを自覚せずに、盛んに小池氏を糾弾するのも天に唾する愚行で、滑稽この上ない。
希望の党ブームを一気に追し流した前回衆院選での小池氏の「排除」発言に触れ、石井氏は、「小池には相手が使った言葉の一部を盗る、口調を真似て相手をからかうという癖がある。この時も横田が『排除』という言葉を使ったため、それを使って切り返し、自分の優位性をみせつけようとしたのだろう。…それが裏目に出た瞬間だった。」(371頁)
217を見ればよい。⇒【「十有五」というのは…15歳ではないからだ】という私のコメント215の一部をこれ見よがしに大量にコピペし、⇒【反氏の意味で、私は書いている】と鸚鵡返しにするだけで、後が続かず、下らない身の上話に淫する。
盗み癖は「コピペの女王」ならではの不治の病癖(τὸ κακόηθεςなのだろう。呵呵。
☆訂正 215のホラティウスからの引用⇒‘Graecia capta ferum victorem cepti et artes intulit agresti Latio.’; Horatius, Epistlae II, i, 156~7(「征服されしギリシアが野蛮な勝者(ローマ)を虜にし、学芸を粗野なラティウムにもたらした。」に誤り。正しくは、再掲の通り、agretsi→agresti、Horatuis→Horatius。キーボードの[i]と[u]が隣接するので時折ミスを犯す。[i][o]も隣り同士なので時に「の」と「に」が入れ違う。
また、諮問機関における専門家の役割は「政治家をたてる」ことではなく、たとえ諮問先が望む内容に反するものであったとしても政策決定権限がある諮問先が政策判断をするに際して判断材料となる専門的知見を提供することなのです。
諮問機関の提言内容には法令で特段の定めがない限りは法的拘束力はないと解されていることから、諮問先は諮問機関の提言内容に拘束されることなく、様々な事情を総合考慮した上で政策決定をし、その決定に対して原則的には政治責任のみを負うのです。
ポピュリズム(populism, populisme)と簡単に言うが、古代ギリシアの民主制以来、形こそ違え、「多数者の支配」(δημοκρατία)、つまり何の取り柄もない人々が、ただ政治参加の平等(ἰσονομία)という原則に基づいて、多数者(οἱ πολλοί)である民衆(δῆμος=デーモス)が支配する(κρατεῖν)という基本的形態は変わらない。
つまり、それはどう繕っても、トクヴィルの用語なら「多数者の専制」(tyrannie de la majorité)、「多数者の暴政」(despotisme de la majorité)、つまり「多数の全能」(l’omnipotenca de la majorité)に基づく民主的専制(le despotisme démocratique)=人民主権(la souveraineté du peuple)の別名でしかない。
民主制の本質を最も体現するのは、トクヴィルの指摘する通り米国の人民政治(populisme)なのであり、無知な老婆は、その近代的形態である官僚制的エリート支配、現代の社会的エリートによるmeritcracyに対抗するものであることを閑却している。
ドイツのように、英仏米と比べ、国民の民主的合意形成が軽んじられてきた国家、政治的に未熟な国民が敗戦に伴う、謂わば擬似革命でヴァーマール憲法を手にしてもすぐさま民主制を首尾よく運用できるはずもない。ケルゼンがカール・シュミットほどアクチュアリティー(ἡ ἀλήθεια)をもって迫ってこないのはそのためだ。
婆さんの議論は唾棄すべき悪しき政治主義でしかなく、その意図とは全く逆のシュミットの「友と敵の区別」(die Unterscheidung von Freund und Feind)に走る極端な党派心(φιλονεικία)の論理でしかない。
民主制は本性上、多数者にとっての利害得失(συμφέρον, χρήσμον, ἀγαθόν)を共通の利益(τὸ κοινῇ συμφέρον)とする政治制度だ。われわれの利益(τὸ ἡμῶν συμφέρον)は、常に民衆という支配者の利益(τὸ ἄρχῇ συμφέρον)に転化するのが避けられない。公共の福祉(εὐτυχία κοινὸν)というのは老媼の勘違いするような魔法の杖ではなく、公共性と個人の私的利益(τὸ ἐμοῦ συμφέρον)との調整原理でしかない。
一方、専門家や彼らが研究する学問は、必ずしも共通の利益や関心に基づかない。場合によっては公共の価値観、常識と鋭く対立する。ガリレオ・ガリレイの名を挙げるまでなく、誰が何と言っても「それでも(地球は)動く」(‘E pur (la Terra) si muove’= または‘Eppur (la Terra) si muove’)でなくてはならない。
政府解釈氏も指摘するように、専門家は社会や政治家に媚びて持説を枉げるようでは、専門家、研究者の名に値しない。西浦博氏や児玉龍彦氏こそ、その意味では「似而非専門家」ではなくまさに専門家で、社会経済活動と感染防止策の両立を「大前提」に苦悩する尾身茂会長(分科会では会長、旧専門家会議では副座長。いずれとも座長という肩書ではない)は、専門家の矩(ὅ ρος)を逸脱しているとみえなくもない。
218⇒【専門家、学者という肩書がついていたら、先生になり、主婦であるとマスコミの記者、芸能人よりも下の地位、大衆の地位…反氏のものの見方】というより、専門家であれ主婦であれ、老媼のような半可通の議論で昼となく夜となく(νύχιος ἢ καθ’ ἡμέραν)下らない間違いだらけの御託を撒き散らして意気がっているのを、単に「阿呆」というだけの話だろう。
無学でも老媼より賢い大衆は少なくない。しかも、老媼は‘intellectual yet idiot’というほどの知性もない。ただの、「中途半端に愚劣な人物」(ἡμιπόνηρος)、謂わば「出来損ない」でしかない。
25日も300人に迫る新規感染者を出した東京都の感染症対策が、小池氏の失政であるか否かは判断が分かれよう。その影響か否か全国で感染が再燃しているように見えるのも同じだ。共通するのは、感染経路不明の感染者が大きな割合を占めていることが端的に示しすように、クラスター対策が有効な歯止めになっていないことだけが浮き彫りになった、ということだ。
日下部眞一氏の指摘する規模ほどではなくとも、既に相当規模の市中感染者が存在するなら、クラスター対策による対策は効果を期待できないだけでなく、病院や高齢者施設での防御策など限定的な意味しかもたないし、労力の無駄だろう。
台湾が現時点までクラスター対策なしで封じ込めに成功しているのは、感染経路不明の感染者を一桁まで抑え込んだからだ。
『アメリカの民主政治』)の冒頭の「序論」(Introduction)で次のように説く。
「それゆえに、地位の平等化の少しずつの発展は、神の摂理による事実である。そしてそれは、神の摂理がもっている主たる諸特性を表わしている。すなわち、平等への発展は普遍的であり、永続的であり、日々に人力を超えて進んでいる。すべての出来事は、すべての人間と同様に平等への発展に貢献している。」(‘Le développement graduel de l’égalité des conditions est donc un fait providentiel, il en a les principaux caractères : il est universel, il est durable, il échappe chaque jour à la puissance humaine ; tous les événements, comme tous les hommes, servent à son développement.’; “De la Démocratie en Amérique”, Œuvres complètes, Michel Lévy Feréres, 1864, Tom. I, p. 7)
だから、次のように指摘することを忘れない。
「民主制を教え、できればその信念を蘇らせ、その風習(mœurs)を純化し、その運動を規制し、その未熟なるものを政治学に、その盲目的本能をその真の利益の認識に少しずつ取って代わらせ、その政治を時と所に順応させ、これを状況と人々に応じて変化させること、これらのことこそが、今や社会を導く人々に課せられている第一の義務である。全く新しい世界には、新しい政治学が必要である。」(‘Instruire la démocratie, ranimer s’il se peut ses croyances, purifier ses mœurs, régler ses mouvements, substituer peu à peu la science des affaires à son inexpérience, la connaissance de ses vrais intérêts à ses aveugles instincts ; adapter son gouvernement aux temps et aux lieux ; le modifier suivant les circonstances et les hommes : tel est le premier des devoirs imposé de nos jours à ceux qui dirigent la société. Il faut une science politique nouvelle à un monde tout nouveau.’; ibid., p. 9)
「遅かれ早かれ、われわれ(フランス人)もアメリカ人と同様、地位のほぼ完全な平等を達成することは疑うまでもないことのように思われる。そうは言っても、このような平等な社会状態から、アメリカ人が引き出している政治的諸結果を、われわれもいつか必ず引き出すことを求められていると、私は結論づけない。私は民主制が与えられうる唯一の政治形態をアメリカ人が発見しているとは信じていない。けれども、われわれが知りたがっているのは、フランスでもアメリカでも法律と道徳とを生む原因が同一であるために、この原因によってつくり出されている法律と道徳とはどのようなものであるかということである。」(‘Il me paraît hors de doute que tôt ou tard nous arriverons, comme les Américains, à l’égalité presque complète des conditions. Je ne conclus point de là que nous soyons appelés un jour à tirer nécessairement, d’un pareil état social, les conséquences politiques que les Américains en ont tirées. Je suis très loin de croire qu’ils aient trouvé la seule forme de gouvernement que puisse se donner la démocratie ; mais il suffit que dans les deux pays la cause génératrice des lois et des mœurs soit la même, pour que nous ayons un intérêt immense à savoir ce qu’elle a produit dans chacun d’eux.’; ibid., p. 19~20)
その認識は苦いものだが、厭世的でもない。
「…私の目的は、このような政治形態を一般に誉め讃えることでもない。なぜなら、法律で絶対善というようなものがほとんど全く存在していないと信じている人々の一人であるからである。私にとってその前進が不可抗的なもののように思われる社会革命が、人類にとって有益であるか有害であるかどうかを、私は判断しようとさえ思っていない。私は、この革命を完成された、またはほぼ完成されそうになっている事実として認めているのである。」(引用続く)
周知のように、フランス人の政治意識は当時でもドイツ人より遥かに成熟しているが、フランス革命やその後二度にわたる革命とその反動のなかで政治的混乱を招いていた。
「序論」は次のように結ばれる。
「私は諸党派と異なってではないとしても、諸党派よりもはるかに遠いところを見ようと企てた。そして諸党派が明日のことに専心しているのに反して、私は未来のことを考えたいと思った。」(j’ai entrepris de voir, non pas autrement, mais plus loin que les partis; et tandis qu’ils s’occupent du lendemain, j’ai voulu songer à l’avenir.’; ibid., p. 24)
政治に限らず、熱狂から離れてものごとの底の底まで洞察する力は、「自然的欲望の満足に安心して、トラブルの原因を外部の蔽うもののうちにのみ求め、自己の構成に堪え得ない多数者」(清水幾太郎『倫理学ノート』、327頁)であることの自覚を欠く大衆の本質とは無縁だ。
未来を洞察するのは、民主制への信仰や形式主義のお子様政治論ではない。[完]
「重症者」指標は、特に重要です。検証のために、さらに2週間程度注視しましょう。Gが、183で提示した各説及び高橋泰説などが(すぐに出てきませんが他にもあるでしょう)あります。まもなく、その各説の検証ができます。それによって、有効な対策も異なってきます。
各説の検証は、2~3週間程度待てばできます。平時!?の今でもできる有効な対策は、重症者の治療が究極的目的です。ゆえに、1その治療のための施設「病院内感染対策」、2感染弱者の「高齢者施設内感染対策」、3集団感染を発生させている「クラスター対策」です。医師の村中璃子氏は、検査数をやみくもに拡大させるのではなく、効率的にやるべきだ!のことです。https://twitter.com/rikomrnk/status/1286905542993215494 上記3施設に関わる人に、集中的に検査を行うべきです。
個人的見解(183投稿)は、「検査陽性者・氷山の一角説」です。無症状者を入れれば、すでに市中感染は一定程度(これが正確にわからないのがそもそも問題)進行していて、その無症状感染者を発掘して、その者を隔離して修養(収容)することが、ナンセンスになりつつあります(まだ検証されていません・2週間待ちます)。それよりは、上記3点に対して重点的に検査をして、その3施設を防護する方向へ対策を特化すべきです。以上あくまで、たたき台です。
(参考 民主主義の本質と価値他一篇の訳者解説、長尾龍一・植田俊太郎、岩波文庫)
Gの見解に近かった(183・237投稿→重症者治療及び病院・高齢者施設優先のクラスター対策)のは、菅原えりささんでした(心強かったですw)。東京都の尾﨑医師会長も、コロナ専門病院を提言していて、加藤大臣も賛同しています(ただ、施設だけでなく人員の配置にも時間がかかるので中長期で対処すべきと回答)。
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