7月に入ってからの新規陽性者数の増大の中で、4月頃には見られなかった幾つかの注目点が明らかになってきた。一つは、新規陽性者数の増大と死者(重症者)数との関係が、明らかに4月と7月で異なっていることである。
これについてはウイルスの弱毒化や、抗体保持者の増加などの大胆な仮説が見られる。いずれもまだ仮説の域を出ておらず、私にはよくわからない。確かなのは、大幅な検査数の増大に伴って、新規陽性者数の増加が見られていることだ。
さらに重要なのは、高齢者と慢性疾患保持者の死亡率が非常に高いことが広く知られているため、これらの脆弱者層が保護される政策的配慮と努力がなされており、新規陽性者数における高齢者の割合は、非常に低くなっていることだ。
私はこうした政策的努力の価値を強調したい立場だ。死者(重症者)数は、緩慢には増大はしてきている。少なくともウイルスが弱毒化して重症化しなくなったとまでは言えない。むしろ政策的・個人的努力の結果として、重症化しやすい層の人々の感染を抑制していることによって、死者(重症者)数が抑制されていると考えていいのではないか。
私は「日本モデル」に関心を持ち、旧「専門家会議」・現「分科会」の政策姿勢を高く評価してきている。上記の新型コロナの特性をよく見据えたうえで、社会経済活動を不必要に停止させることなく、医療崩壊を防ぐということを指針にして、合理的な政策助言をしていると考えている。その「日本モデル」の視点に立つと、4月の時点の陽性者数より多いかどうかは、問題ではない。医療崩壊を起こす前に重症者の増加が止まるかが、ポイントである。
こうした観点から、私は、7月に入って、「『日本モデル』vs.『西浦モデル2.0』の正念場」という題名の文章を書いてきている。最近の新規陽性者増加の中で、私が書いていることの意味が、よりはっきり見えてきたのではないかと思う。
つまり、「日本モデル」と「西浦モデル」は、大きく異なっていることがはっきりしてきたはずだ。誤解していた人があまりに多かった。「西浦モデル」批判者の方々の中にも、「西浦モデル」擁護者の中にも、「西浦モデル」=旧「専門家会議」と取り違えている方がいた。おかげで数多くの不要な錯綜した議論が噴出した。
4月から5月にかけて、本来は専門家会議のメンバーではない西浦教授が、専門家会議の記者会見で断定的な発言を乱発した。マスコミもそれを見て西浦教授をあたかも専門家会議を影で代表している人物であるかのように扱い、もてはやした。だが実際には、西浦教授は、専門家会議のメンバーですらなかったし、日本政府の政策を代弁してもいなかった。
本当の「日本モデル」のキーパーソンである押谷仁・東北大学教授が、西浦教授の「42万人死ぬ」に批判的であったことも、すでに証言が出ている。「42万人死ぬ」は、西浦教授の「日本モデル」に対する「クーデター」だった。https://news.yahoo.co.jp/articles/dd45db0673692764bfbd4c20d01944f5b13d14d3
現在はどうなっているか。尾身茂会長や押谷教授ら旧「専門家会議」メンバーが構成する「分科会」は、医療崩壊を起こすかどうか、が政策的分水嶺だという立場を崩さず、新規陽性者数の増大に際しても、冷静さを保っている。
これに対して、「西浦モデル」は、本シリーズで取り上げているように、新規陽性者の増大は指数関数的拡大につながり、6割未満の「人と人の接触の削減」では状況は大幅には変わらないと予言している。https://youtu.be/aI8zvZAdSTM
両者は、鋭く対立しているのである。
なぜそうなのか。新規陽性者を見て政策を作るのか、死者(重症者)を見て政策を作るのか、の鋭い対立を見てみよう。
「西浦モデル」の原型である「SIRモデル」は、「感受性保持者(Susceptible)」、「感染者(Infected)」、「免疫保持者(Recovered))の三つの概念を中心に構成される。「SIRモデル」が前提としている世界観は、致死率は常に一定であるということ、そして「人と人との接触」を大幅に減らすか、「集団免疫」が成立するかのいずれかがないと、感染拡大は止まらない、ということだ。
この「SIRモデル」を全面的に受け入れると「人と人との接触の8割削減」がなされないと「42万人死ぬ」ことになる。この考え方の背景にあるのは、「感染者数中心主義」とでも呼ぶべき視点である。徹底して、感染者数に着目する。死者数は、感染者数から、一定の割合で算出されるものでしかない。新型コロナに関して感染者総数に着目する視点が強調されてきているのは、「SIRモデル」に親しんだ科学者を多数擁する欧米諸国の主要メディアが、この「感染者数中心主義」の視点で報道を続けて、日本のメディアもその影響を受けているからだろう。
これに対して、感染者数ではなく、死者(重症者)数に着目する政策視点は、年齢層別の致死率の違いに注目する視点だとも言える。つまりそれは、高齢者層と基礎疾患保持者を新型コロナに脆弱な層として区分けしていく政策視点である。年齢層別に区分けされた政策は、一律的な「人と人との8割削減」とは異なるが、成功すれば、新規陽性者が増えても、死者(重症者)はそれほど増えない、という現象が起こってくることを期待する。
死者(重症者)数の推移を最も重要な指標とし、「医療崩壊を防ぐ」ことを指針にしながら、社会経済活動は自発的努力の範囲で律するアプローチが、日本政府が採用してきているものだ。それを旧「専門家会議」や現「分科会」が支えている。
何に着目するか、という世界観においても、「日本モデル」と「西浦モデル」は、鋭く対立しているのである。
したがって、ここまで書いてきたことからの必然的な帰結だが、追求する政策の内容が、「日本モデル」と「西浦モデル」では、大きく異なる。「西浦モデル」では、集団免疫が成立するまでは、ただひたすら「人と人との接触削減」を行い続けるしか、とりうる政策がない。
実は、西浦教授は、4月半ばにメディアを呼んで「42万人死亡」を発表した際、一応は年齢別の重症化率や致死率の違いを加味したというが、実際には2月の武漢の断片的なデータを採用していたと告白している。4月半ばでまだ、日本だけでなく世界各地の実態と大きく異なる概算方法を使用していたのである。https://news.yahoo.co.jp/articles/6101bc9482875a0c30106a914320ed003875b73f?page=1 また、西浦教授は、4月半ばでまだ、基礎疾患保持者の重症化率の高さの要素などは、全く考慮していなかったようである。
これに対して「日本モデル」であると、最も脆弱な層の隔離を行った後は、社会経済活動を続行する層の自己努力を通じた最大限の感染抑制が求められる。医療崩壊を防ぎながら死者数を抑制することだけが目的であれば、それで十分に合理的だからだ。そのうえで、社会経済を続行する層にも、「三密の回避」などの可能な限りの配慮を求めることによって、大規模感染拡大は抑制しようとする。
実際に追求される政策において、「日本モデル」と「西浦モデル」は、やはり鋭く対立するのである。
5月半ば以降に修正された「西浦モデル2.0」では、7月に、4月の感染拡大ペースが再現され、緊急事態宣言がないと、感染者数は指数関数的に拡大していくしかない。
毎日、毎日、「〇日連続で東京の感染者が〇〇〇人以上!」といった煽り報道を見ていると、7月の感染拡大は4月を上回る「指数関数的拡大」ペースで進んでいるように感じている人も多いかもしれない。
だが報道されている東京都の新規陽性者数を見るだけでも、増加率の鈍化を確認することができる。7日移動平均で週単位の大きなトレンドを見てみよう。
|
新規陽性者数(7日移動平均) |
増加率(7日前との比較) |
6月27日 |
44.0人 |
1.22倍 |
7月4日 |
85.8人 |
1.93倍 |
7月11日 |
152.4人 |
1.77倍 |
7月18日 |
214.5人 |
1.40倍 |
7月25日 |
250.2人 |
1.16倍 |
このように増加率を見れば、やはり7月上旬をピークにして、鈍化が続いているように見える。
また、国立感染症研究所が示している「発症日別」の届け出数の推移をみると、7月の発症者拡大は、4月のレベルに到達していない。しかも7月上旬をピークにして減少傾向に入った可能性すらある。https://www.niid.go.jp/niid/ja/diseases/ka/corona-virus/2019-ncov.html 4月の時点では、発症者を中心にPCR検査を施していたことを想起すると、この「発症日別」のデータは、重要である。
また、ボランティアの方々が行っていただいている実効再生産数の推定値の推移を見ても、東京では7月上旬をピークにして低下の傾向が見られる。そもそも7月の実効再生産数は、3月下旬の水準に達していない。https://rt-live-japan.com/
「SIRモデル」を原型とした「西浦モデル2.0」の予言では、7月下旬には本格的に指数関数的拡大が起こっていることが顕著になっていなければならない。ところが、上述に示したデータは、全てそれとは違う状況を示している。
私は、4月にも「西浦モデル」を批判する文章を書いたことがあるが、それは4月10日の段階で私が「増加率は鈍化している」と書いていたのに、専門家の西浦教授がマスコミを集めて4月15日に「42万人死ぬ」をやったからだ。http://agora-web.jp/archives/2045379.html
私は、西浦教授を「間違えた」と批判したことはない。ただ、大衆操作を図るために、意図的に嘘をマスコミに流した、と書いたことがあるだけだ。
ただし4月の時点では、「西浦モデル」が現実でどのような検証を受けたのかは、結局は曖昧にされた。そこであらためて「日本モデル」と「西浦モデル2.0」が対決をしているのが、7月の状況だろう。
「日本モデル」の試金石は、厳しいロックダウンを避けながら、「三密の回避」などの社会経済政策を続けながら導入できる政策によって、陽性者数を一定の範囲内に押さえ込んでおけるか、である。永遠に陽性者数が増え続ければ、もちろん、やがて持ちこたえられなくなる。重要なのは、果たして新規陽性者数の増大は医療崩壊を起こす前で止まるか、である。
逆に言えば、際限のない拡大を抑制できれば、「ハンマーとダンス」の「ダンス」を演出する、かつて西村大臣が説明したことのある日本の政策そのものとなる。
東京では7月になって100人以上の感染者が出て、感染予防努力の徹底が一層浸透した可能性が高い。その効果が出るとしたら、7月中旬以降である。陽性者数で見えてくるのは7月末以降だろう。いずれにせよ、指数関数的拡大を防ぎ、「ダンスの踊り方」の範囲にもってこれれば、「日本モデル」の構図である。
ただし私は予言屋ではない。国際政治学者の私が予言などするはずもない。しかし現状は見る。現状を見てわかることと、どなたかの予言が異なっていれば、やむをえずそれは指摘せざるを得ない。それだけだ。
少なくとも、現状では、指数関数的拡大が起こっているとは言えない。それがとりあえずの観察である。
*
これまで何度か、3月~4月の欧州と米州の致死率が異常であって世界平均を示していなかったこと、世界全体で感染者に対する死者数の割合を示す致死率が下がる傾向にあることを示すために、データを見せてきた。付録として、あらためて下記に示す。
時間的流れで見ていただきたいのは、致死率が世界全体で低下していることだ。これについては弱毒化したのではないかといった仮説があるようだが、冒頭で触れたように、その妥当性は私にはわからない。ただ、私は、世界各国で致死率を下げる努力が払われていることが大きく影響していると思っている。つまり「感染者数中心主義」から、よりいっそう日本モデル的な「死者(重症者)数中心主義」へと政策的視点がシフトしているのが世界的な潮流となっていることが重要になっているのではないかと思っている。
https://www.worldometers.info/coronavirus/worldwide-graphs/
世界全体の一日あたり陽性者数の推移
世界全体の一日あたり死者数の推移
(7月25日)
地域 |
準地域 |
感染者数(/mil) |
死者数(/mil) |
致死率(%) |
アフリカ |
|
610.91 |
12.87 |
2.11 |
|
北アフリカ |
614.90 |
27.55 |
4.48 |
|
東アフリカ |
153.45 |
2.48 |
1.62 |
|
中部アフリカ |
255.84 |
5.15 |
2.01 |
|
南部アフリカ |
6,326.84 |
94.67 |
1.50 |
|
西アフリカ |
309.77 |
4.99 |
1.61 |
米州 |
|
8,447.47 |
330.76 |
3.92 |
|
北米 |
11,836.23 |
426.92 |
3.61 |
|
カリビアン |
1,763.35 |
33.86 |
1.92 |
|
中米 |
3,055.04 |
262.96 |
8.61 |
|
南米 |
8,423.43 |
304.63 |
3.62 |
アジア |
|
819.97 |
19.04 |
2.32 |
|
中央アジア |
2,039.98 |
29.32 |
1.44 |
|
東アジア |
78.07 |
3.60 |
4.61 |
|
東南アジア |
357.53 |
10.22 |
2.86 |
|
南アジア |
1,135.25 |
29.45 |
2.59 |
|
西アジア |
3,678.39 |
54.87 |
1.49 |
ヨーロッパ |
|
3,517.17 |
256.10 |
7.28 |
|
東欧 |
3,679.29 |
72.33 |
1.97 |
|
北欧 |
3,057.60 |
378.64 |
12.38 |
|
南欧 |
4,458.55 |
441.67 |
9.91 |
|
西欧 |
2,882.08 |
296.54 |
10.29 |
オセアニア |
|
382.74 |
4.09 |
1.07 |
(7月13日)
地域 |
準地域 |
感染者数(/mil) |
死者数(/mil) |
致死率(%) |
アフリカ |
|
449.29 |
9.98 |
2.22 |
|
北アフリカ |
528.92 |
23.84 |
4.51 |
|
東アフリカ |
105.79 |
1.66 |
1.57 |
|
中部アフリカ |
227.06 |
4.80 |
2.12 |
|
南部アフリカ |
4,137.98 |
60.83 |
1.47 |
|
西アフリカ |
258.19 |
4.39 |
1.70 |
米州 |
|
6,764.70 |
285.78 |
4.22 |
|
北米 |
9,550.96 |
397.51 |
4.16 |
|
カリビアン |
1,380.66 |
30.01 |
2.17 |
|
中米 |
2,357.63 |
213.31 |
9.05 |
|
南米 |
6,723.29 |
244.40 |
3.64 |
アジア |
|
647.46 |
15.31 |
2.36 |
|
中央アジア |
1,332.47 |
9.36 |
0.70 |
|
東アジア |
73.13 |
3.41 |
4.66 |
|
東南アジア |
289.22 |
8.19 |
2.83 |
|
南アジア |
847.86 |
23.26 |
2.74 |
|
西アジア |
3,209.06 |
47.29 |
1.47 |
ヨーロッパ |
|
3,284.84 |
250.44 |
7.62 |
|
東欧 |
3,310.19 |
63.70 |
1.92 |
|
北欧 |
2,964.91 |
371.34 |
12.52 |
|
南欧 |
4,212.91 |
438.02 |
10.40 |
|
西欧 |
2,761.78 |
294.99 |
10.68 |
オセアニア |
|
284.83 |
3.18 |
1.12 |
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コメント一覧 (210)
エジプト語など現在は存在しない。従って、99⇒【エジプト語とアラビア語の問題ではなくて…】と言っても、立論そのものが論理的に成り立たない。
エジプト語(Egyptian, Ägyptisch)というのは、現在エジプトで使用されるアラビア語をそれと誤解しているのでなければ、人類の言語史上最も長い歴史をもち16世紀までに事実上滅びたエジプトで使用されていた古代エジプト語(Altägyptisch)を指す。
前期古代エジプト語(Älteres Ägyptisch)、後期古代エジプト語(Neueres Ägyptisch)とに大別され、前者は紀元前3180年以降、後者は紀元前1300年以降の古代エジプト第18王朝から、はるかに下って3世紀後半から640年、アラブ人によるエジプト征服まで続き、16世紀に入って絶滅したコプト語(Koptish)に至る。
前期古代エジプト語はさらに古期エジプト語(Altägyptisc)と中期エジプト語(Mittelägyptisch)に分かれ、後期古代エジプト語は新エジプト語(Neuägyptisch)、デモティック(Demotisch)、コプト語に分かれる。
コプト語はコプト教徒と称されたエジプトのキリスト教であるコプト教会の典礼でしか用いられていない、今日では特異な言語だが、Oxford大学出版会から行き届いた辞書(Crum W. E.; “Coptic Dictionary”, 1939)が出ていて、キリスト教の異端、グノーシス(Gnosis)派文書の研究などに欠かせない。コプトとは、ギリシア語の[Αἰγύπτικος=エジプトの]がアラビア語に入って[qubṭ/qibṭ]となったのに由来し、コプト教徒は自分たちの言葉を「エジプト人の言葉」と呼んだ。
以上を「エジプト語」という。
99②⇒【反氏は、またおかしなところでつっかかってくる】と怨みごとを並べる前に、言葉は注意深く使用することだ。
何ごとにつけ、ダンテの『神曲』をラテン語の作品とするくらい、無学(ἀμαθής)なのだから。
108⇒【今スポーツセンターから帰ってきた】で書き起こすところに、お頭が「蜘蛛の巣だらけの」(araneosus)婆さんの立論の取り留めのなさ、他愛なさがある。暇をもて余して気晴らしに、憂さ晴らしにメディア批評に興じているだけのことで、愚劣さ加減は選ぶところはない。
もっとも、メディアは如何に上から目線(ὐπερφρονεῖν)だろうと、世間の批判や風圧にさらされているが、愚劣な素人論議でしかない婆さんのおしゃべり(ὁ γραός ὕθλος)にはそれがない。
パスカルは、「若すぎると正しい判断ができない。年をとりすぎても同様である。考えが足りない場合にも頑固になり、夢中になる。」(前田陽一訳、214頁=‘Si on est trop jeune, on ne juge pas bien; trop vieil, de même. Si on n’y songe pas assez, si on y songe trop, on s’entête, et on s’en coiffe.’; Frag. 381., Œuvres de B. Pascal par L. Brunschvicg, Tom. 13, p. 290)と説いている通りだ。
その愚鈍さが何に由来するのか、老婆の場合に際立つのは過剰な自己愛だ。
「自己愛。……人々の愛と尊敬の対象でありたいが、自分の欠陥は、人々の嫌悪と侮蔑にしか値しないのを見る。彼が当面するこの困惑は、想像しうる限り最も不正で最も罪深い情念を、彼のうちに生じさせる。なぜなら、彼は、自分を責め、自分の欠陥を確認させるこの真理なるものに対して、極度の憎しみをいだくからである。彼はこの真理を絶滅できたらと思う。しかし、真理をそれ自体においては絶滅できないので、それを自分の意識と他人の意識とのなかで、できるだけ破壊する。」(引用続く)
むろん、広い世間には賢い老人もいるに違いないが、分を弁えないで(πλέον ἔχειν)しゃしゃり出て、能書きの体をなしていない下劣な無駄話をするしか能がない老残の身をもて余している老婆が少なくない。
なるほど、凡庸なりにちっぽけな自尊心(ἡ αἰδώς)があるのだろうが、それが仇になる。
「われわれはほかの人たちがわれわれをだますことは望まない。われわれは、彼らがそれに値する以上にわれわれから尊敬されたいと願うのは、正しくないと思う。それならば、われわれが彼らをだまし、われわれがそれに値する以上に彼らから尊敬されたいと願うのも正しくないわけである。」(110頁=‘Nous ne voulons pas que les autres nous trompent ; nous ne trouvons pas juste qu’ils veuillent être estimés de nous plus qu’ils ne méritent : il n’est donc pas juste aussi que nous les trompions et que nous voulions qu’ils nous estiment plus que nous ne méritons.’; Frag. 100, ibid., p. 27)
だから、偽善と欺瞞の塊でしかないが、かといって偽悪や非情に徹することもできない中途半端な存在である人間について、パスカルも、
「われわれが徳のなかに身を保っているのは、われわれ自身の力によるのではなく、相反する二つの悪徳の釣り合いによるのである。ちょうど、反対方向の二つの風のあいだでわれわれが立っているように。それらの悪徳の一つを取り除くがいい。われわれは他の方に落ち込むだろう。」(207頁=‘Nous ne nous soutenons pas dans la vertu par notre propre force, mais par le contrepoids de deux vices opposés, comme nous demeurons debout entre deux vents contraires: ôtez un de ces vices, nous tombons dans l’autre.’; Frag. 359., ibid., p. 272)
その程度の認識もない老いたる「精神の幼児」(ὁ νήπιος τῆς ψυχῆς)でしかない老婆が、何を逆上せ上がっているのか、自分と向き合うことがないのだろう。
「私をいちばん驚かすことは、世間の人たちがみな自分の弱さに驚いていないということである。人は大まじめに行動し、それぞれ自分の職務に服している。しかも、そういうしきたりなのだから、自分の職務に服するのが実際によいのだという理由からではなく、それぞれ道理と正義とがどこにあるかを確実に知っているかのように、である。人は、たえず期待を裏切られている。……懐疑論者でない人たちが存在するということほど、懐疑論を強化するものはない。もし皆が懐疑論者だったら、懐疑論者たちが間違っていることになろう。」
人間の認識に真理などない。例えばきょう31日、全国の新規感染者が1,500人を超えたという新型コロナにしたところで、水面下の感染実態を知るための基本的な作業さえ行われておらず、楽観するも悲観するも、仮象の表層に漂っているだけではないか。議論の当否はそれからの話だ。長期戦を云々しながら、そのための備えも覚悟も、何より見通しもない。
優れた論法(κρείττων λόγος)であれ劣った論法(ἥττων λόγος)であれ、われわれは確かな決め手を欠いている。「知恵の足りない連中に教える」(διδάσκεις τοὺς ἀνοήτους)のも、場合によってはねじ伏せる(κινήσειν)のも簡単で、気に入らなければ「烏にでも喰われろ」(ἐς κόρακας ἐκ τῆς οἰκίας)とするのも簡単だ。
痛い目に遭って小児のように学ぶ(‘ὥσπερ νήπιον παθόντα γνῶναι’)しかない、莫迦は死なねば治らないからだ。
「反対があるということは、真理を見分けるよいしるしではない。多くの確かなことが反対されている。多くの嘘が、反対なしにまかり通っている。反対のあることが嘘のしるしでもなければ、反対のないことが真理のしるしでもない。」(215頁=‘Contradiction est une mauvaise marque de vérité. Plusieurs choses certaines sont contredites; plusieurs fausses passent sans contradiction. Ni la contradiction n’est marque de fausseté, ni l’incontradiction n’est marque de vérité.’; Frag. 384., ibid., p. 293)
「人間の偉大さは、自分の惨めなことを知っている点で偉大である。樹木は自分の惨めなことを知らない。」(219頁=‘La grandeur de l’homme est grande en ce qu’il se connaît misérable. Un arbre ne se connaît pas misé- rable.’; Frag. 397., ibid., p. 303)
パスカルの最も人口に膾炙した言葉、「考える葦」(un Roseau pensant)は、そうした認識を徹底した果てにある。そしてわれわれは、「ひぐらしの儚い命」(ὦφήμερε)なのである。
「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。」(204頁=‘L’homme n’est qu’en Roseau, le plus faible de la nature; mais c’est un Roseau pensant. Il ne faut pas que I’univers entire s’arme pour l’éclaser: une vapeur, une goutte d’eau. suffit pour le tuer. Mais quando l’unovers l’écraserait l’homme serait encore plus noble que ce qui le tue, parce qu’il sait qu’il meurt, et l’avantage que l’univers a sur lui; l’univers n’en sait rien. Toute notre dignité consiste donc en la pensée.’; Frag. 347, ibid., p. 261~262)
如何に天才とはいえ、齢39で夭折した人間に分かることが、年を経るほど分からなくなるらしい。[完]
「人間は、天使でも、獣でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようとおもうと、獣になってしまう。」(207頁=‘L’homme n’est ni ange ni bête, et le malheur veut que qui veut faire l’ange fait la bête.’; Frag. 358, Tom. 13, p. 271)
【東京都】 6.5%(7月30日)6.6%(29日)←6.5%(28日)←6.5%(27日)←6.5%(26日)←6.3%(24日)←6.7%(21日)←6.5%(20日)←6.0%(19日) ←←6.1%(12日)
【都内重症患者数】 16名(7月31日)←22名(30日)←22名(29日)
【大阪府】 9.9%(30日)←10.5%(29日)←10.1%(29日)←9.8%(28日)←9.4%(27日)←6.6%(22日)
昨日、夕方の都知事小池さんは、感染者463人、PCR検査数5542件を報告していましたので、その時点での感染率は8.35%になります。東京、大阪ともに感染爆発がみられる兆候はありません。皆さん、ご安心を❢❢❢
元気に社会文化経済活動に励みましょう❢❢❢
日本人は李登輝を親日家として敬愛する。それは尊いことだが、福建客家を数世代前の父祖にもつ氏は何よりもまず台湾人愛国者だった。堺の台湾華僑の知人によれば氏の対日観や人脈は実は複雑で、日本人には想像できない部分があるという。また、あまりにも日本人に対して気さくで、総統の権威に欠ける印象を受けたという。さらに言えば、死去当夜、台湾のネット放送のチャットには「売国奴」「日本人・岩里政男」の書き込みが無数にあった。朴正煕を「高木正雄」と貶めるのと同じく、国民党系・中共系のネト民界隈からの低俗な罵倒だろうが、これも一つのプロパガンダであり、対日離反勢力の戦術の一端であることを覚えておこう。そこから初めて日台の正しい理解に近づける。
巨星墜つ。
蔡英文再選は香港騒動で追い風が吹いたせいもあるし、コロナ対策の成功は中共が嫌がらせに観光客を止めたおかげもある。1950年代からつづく台湾海峡の膠着状態が動きはじめた。後継者の働きに期待しよう。
go to キャンペーンをすると、感染者を増やすだけだ、という主張をきいて、小池百合子東京都知事の「アクセルとブレーキを一緒にふむようなものだ。」と同じ発想をするひとだな、と思った。要するに、プロパガンダは上手であるが、現実感覚、センスがない。議論ばかりしても、いい結論が出なければ、意味がない。学生時代、クラブ活動をすると、成績が下がる、と主張している保護者のようなものである。私は、失敗したが、京大をはじめとする国立に現役で合格する仲間もいて、それは、準備の問題である。東京にとどまっても、感染者がこれだけ多いのだから、家にいても、家族が感染すれば、自分も感染する。また、感染者の少ない地域に住んでいる人でも、その県内の観光地で、感染している感染力のある人と遭遇することもあり、密状態であれば、感染する。ダイアモンドプリンセス号で、一人から700人感染したのである。要するに、菅官房長官の主張されるように、三密を避け、手洗いマスク、など公衆衛生に気を付ければ、どこにても条件は同じ、ダイアモンドプリンセス号のような、バイキング、カラオケ、ショッピング、密室空間に対策を施している企業と、施していない企業を選別し、していない企業から罰金を取ればいいのである。そして、Cocoaを活用することで、大規模クラスターを作らないようにすればいいのである。そうすれば、感染爆発は防げる。感染爆発さえしなければ、対処できる。つまり、車にABS装置やエアーバッグ装置を搭載することで、アクセルから急ブレーキをかけなければならなくなった時も、車をスムーズにとめることができるのである。
❝政府は「新型コロナの恐怖」政策を見直すべきだ❞と提言しています。
わたしは、枩村さんの提言は、現時点での❝最良策❞であり❝最良解❞であると考えています。ぜひ、皆さんご一読を❢❢❢
(訂正)コロナメーターの大阪の日付をまちがえていました。
• ●現在、騒がれている増加は❝PCR検査爆発❞であって❝陽性感染者爆発❞ではない。あと1週間で検証されるであろう。付随的には発病者、死亡者数の目立った増加は見られていない。
●数万人の死亡をもたらした英国、独、仏、伊でも、となりの南朝鮮でも第2波の兆候は見られない。スペインがちょっと気になるところもあるが、大丈夫であろう。
●国内では、クルーズ船被災を参考にすれば4月の第1波だけで国内200-300万人の感染を引き起こしていると予測される。すでに2-3か月たってしまっているから、おそらく感染者は数倍に広がっているだろう。2-3倍くらいとすれば、すでに1000万人近くになる。例年の季節性インフルエンザの感染者数は1000万人から2000万人くらいと想定されているから結構、十分に国内感染拡大していることが考えられる。したがって、年末、季節性インフルエンザの発生となっても際立った波を想定しなくてもよい。
以上の、3つの理由から、第2波は季節性インフルエンザの時期までは来ない。来た時の波は第1波ほどではなく従来のインフルエンザの波と混在した波となるであろう。
4月ころの感染爆発・重症者・死亡者多数には、見えません。いわゆる有事には至っていません。ただし、オーバーシュートの前兆となるような兆候が見えないか!?には、注視です。国・自治体は、有事に備えるための準備だけは、整えておくべきことはいうまでもありません。いまは、司司(つかさつかさ)の対応で充分です。
「すでに蔓延説」もありますが、真理(最適解)は中間にあって、更に市中感染は拡大しているのでしょう。感染拡大を人為で止めることはできない< と考えています(いわゆるウイズコロナ)。ただし、接触制限など自粛が、ある程度感染拡大を抑制できることは判明しています。
降りかかる火の粉は払わなければなりません。守るべき究極的目的は、「病院と高齢者施設」です。これら両施設に火の粉が降りかからないようにするために。 無目的の検査ではなく、この両施設を守るべく対策を、集中的に行うようにすべきです(宮坂阪大名誉教授)。すでに、その方向でやっていると思いますが、その方が効率がいいからです。
直前125で日下部さま→枩村秀樹「政府は「新型コロナの恐怖」政策を見直すべきだ」の記事を、掲げていらっしゃいます。読んでみようかな!?と思いましたが、長文のようですので、帰宅後ゆっくり拝読いたします。新提言・新見解があるかも知れません。期待しています。
東京都人口1400万人、陽性率7%として感染者数は推定98万人である。
したがって、住民票の最初から最後の1400万人まで1日、1万人のPCR検査を行ったとして、1400日(約4年)かかることになる。10倍効率を上げれば5~6か月で済む。1日10万件のPCR検査である。どのくらい正確化わからないが❝検体を10本まとめる❞方法を使えば、少しは効率はあがる。
毎日1万人の検査では陽性者が700人出る。効率を上げれば上げるほど、隔離収容者数は多くなる。1000人が5か月続くとして、収容施設はどれくらい必要なのか?
15000室をフル回転させれば済むか?
今から、検査体制を整えて始めたとしても次の季節性インフルエンザが始まるまでに終了する可能性は極めて低い。
❝GO TO トラベル❞ の逆の ❝GO TO 東京❞も起こるわけで、100万人くらい隔離収容できた時には、また数万人の感染者が生まれているはずである。
尾崎治夫さんは東京エピセンター説を信じ込んでるようだが、おそらく東京関東圏、名古屋愛知圏、大阪関西圏、は陽性率10%前後の感染者で満たされてるようだからこの計算は愛知、大阪にも適用される。
これだけの国費と国力を使う覚悟があるのだろうか?
❝ウイルスとの戦いは正に消耗戦なのである。❞
東京だけで今更頑張っても無理でしょう。
東京都人口1400万人、陽性率7%として感染者数は推定98万人である。
したがって、住民票の最初から最後の1400万人まで1日、1万人のPCR検査を行ったとして、1400日(約4年)かかることになる。10倍効率を上げれば5~6か月で済む。1日10万件のPCR検査である。どのくらい正確化わからないが❝検体を10本まとめる❞方法を使えば、少しは効率はあがる。
毎日1万人の検査では陽性者が700人出る。効率を上げれば上げるほど、隔離収容者数は多くなる。1000人が5か月続くとして、収容施設はどれくらい必要なのか?
15000室をフル回転させれば済むか?
今から、検査体制を整えて始めたとしても次の季節性インフルエンザが始まるまでに終了する可能性は極めて低い。
❝GO TO トラベル❞ の逆の ❝GO TO 東京❞も起こるわけで、100万人くらい隔離収容できた時には、また数万人の感染者が生まれているはずである。
尾崎治夫さんは東京エピセンター説を信じ込んでるようだが、おそらく東京関東圏、名古屋愛知圏、大阪関西圏、は陽性率10%前後の感染者で満たされてるようだからこの計算は愛知、大阪にも適用される。
これだけの国費と国力を使う覚悟があるのだろうか?
❝ウイルスとの戦いは正に消耗戦なのである。❞
東京だけで今更頑張っても無理でしょう。
つまり、PCR検査と、自覚症状なしの人についてである。
1 岡田博士をはじめとするマスコミのコメンテーターが、PCR検査の精度が100%近い、陰性と判定されたら、人に移さないような先入観を視聴者に植え付けたからおかしな方向に進んでいるのであって、真実はどうか。
2 無症状患者が移す、という先入観があるが、その無症状者は、終始無症状のままなのか、それとも、発症前の人なのか。
3・ 市中感染が広がっている、ということであるが、それは、透明人間が移すからそうなのか、それとも、詮索されたくないから隠すためなのか、単に忘れているだけで、クラスター調査をして、過去を追えばわかるものなのか。
この3点をはっきりさせれば、恐怖心ばかり与える世論はもう少し、まともなものになるのではないか、と思う。
医学や生物学に無縁な人にとってはなかなか理解しがたいでしょうけど、今度のコロナの問題は、感染するとはどういうことか、発病するとはどういうことかが重要な意味を持ってるわけ。
今までの
通常観念であれば、発病即感染であり、感染即発病ととらえられていたわけ。だから医者が重要視している致死率(感染者に対する死亡者数)も単純に感染者=発病者ですんでたわけ。しかし、コロナの場合は感染があっても必ずしも発病ではない場合が多くあるわけ。だから、致死率はかなり不確定なわけ。だからこそ、専門家会議もコロナ恐怖に駆られてコロナの致死率を推定することができないでいるわけ。これが、根源的間違い。
わたしの専門である集団生物学的視点からいうと、これだけコロナがまん延しているということは、それだけ人に対する有害性(病原性)が弱いということを意味しているわけです。だから、無意識感染者は、ふらふら歩いて他人への感染がおこる素地を十分持っているともいえるわけです。
これだけ、❝コロナ恐怖❞を煽ってきたのに❝ただのコロナ風邪❞ですとは、なかなか言えませんよね。今、まさにそんな状況なのです。前にも後にも行けない、糞詰まりの状態というところですね。
その、多くはTVメディアの責任でしょう。
125の日下部さまご提示→1枩村秀樹「政府は「新型コロナの恐怖」政策を見直すべきだ」https://toyokeizai.net/articles/-/366212 ですね。拝読いたしました。枩村さんというかたは、東大経済学部卒の経済の専門家の立場からですね。一方、医師の立場から、似たような提言がありました↓
2 慈恵医大医師(外科医)の立場から(世界的名医のかたのようです)「首相官邸資料4」http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai42/siryou4.pdf
1と2どちらも、Gが126で直感的に書いた→「病院と高齢者施設」の関連者を特に検査して護るべき< との言説が共通しています(1記事の2ページ目・2提言記事の第(10)項目)。あと、この両論者に共通しているのは、第2類指定感染症から外すか、等級をダウングレードすべき< としています(この是非は、Gは知識不足で判断できません)。
新型ウイルスの遺伝子の一部を構成するポリメラーゼを検出して感染の有無を確認するPCR(polymerase chain reaction=ポリメラーゼ連鎖反応)検査の精度、つまり感染している人を調べた場合に陽性と出る確率は70%程度であることは周知の事実だ。元国立感染症研究所の研究員で公衆衛生学や感染症学の専門家である岡田氏、メディアに連日登場する「コロナの女王」(ἡ στέφανος βασίλισσα)がそれを知らぬはずもなく、故意に視聴者を欺く意図があるとも思えない。日本が、諸外国と比べ検査数があまりに少ないことを問題視しているだけの話だろう。
コロナ狂いの割には、しばらく前までPCR検査と抗体検査、抗体検査と抗源検査の違いについても混同して見当違いの主張をしていたくらいだから、PCR検査の精度、感度(sensitivity)と言い換えてもいいが、それと、感染していない人を調べた場合に陰性と出る確率(99%以上とされる)、つまり「偽陰性」ではなく逆の「偽陽性」を回避する確率=特異度(specificity)とを取り違えているわけでもなさそうだから、なおさら莫迦げている。
お頭に「蜘蛛の巣」が張った「半可通」だから、以前から「PCR検査では2週間前の状況…リアルタイムの状況はわからないし…予測もできない」といった偽陰性で感染者を見逃す危険性を繰り返し主張しても、確率は低いが大量に検査した場合に発生が避けられず隔離対象とせざるを得ない、人権上も問題が多い偽陽性など老婆の口から出たためしはないから、事実を歪曲しているのだろう。
だから、「あまり法螺を吹くな」(μὴ μήγα λέγε)、たぶん頭がおかしいのだろうから、身のためだから「もうやめにしたら、これ以上続けずに」(μὴ ταῦτα ποίει)という外はなく、亭主もいながら、「そんなことはするな」(μὴ ταῦτα ποιήσῃς)とはならないのは、人間性のゆえだ。
非難されるべき(ἐπονείδιστος)は、まさに「虚偽体質」(ψεύστης φυσικός)の婆さんなのである。
いよいよ、「日本モデル」のクラスター対策もメッキが剥げてきて、このところの感染の急拡大に打つ手はなさそうだ。月が変わったきょう1日も全国で感染拡大が相次ぎ、東京で暫定で472人、大阪は195人、沖縄も58人で、全国で夕方までに合わせて1,536人に上ったという。
市中感染の意味も了解できないらしいし、未だに存在を認めたがらない老婆も、連日報告される大量の新規感染者増が収まる気配がないのに業を煮やして興奮しているのだろう。御贔屓の尾身茂、押谷仁両先生も形無しである。
結局、こうした客観的認識にかかわる部分でも、党派的な先入見や思い込みが優先して、莫迦げた法螺話以上のものが出てこないようだ。
「人それぞれに好みがある」(οὗτοι ἡμᾶς στέργουσι καὶ ἡμεῖς αὐτοὺς στέργομεν)とは言え、身贔屓がすぎるというものだ。
このところの一連の経過について、まだ確定的なことを言うだけの材料をもたないが、当初大方が懸念したこの秋冬の感染再燃、第二波に先立って、「こんなことが起ころうと誰が予想したであろうか」(τίς ἄν ὠήθη ταῦτα γενέσθαι)ということだろう。
もとより、PCR検査増が最大の要因なら、一種の同語反復による循環論法とはいえ、事々しく感染拡大を否定して強弁したり狼狽することはないが、「偽装感染増」と否定する材料は、推定に基づく単なる仮説でしかないから、多くの国民を承服させることにはならない。
大事がなくてやり過ごしたと思ったのも束の間、われわれの先行きに限って「そんなことが起こらなければよいが」(μὴ γενοιτο τοῦτο)、どうか大過なく、「どうか幸せでありますように」(εὐτυχοίης)、間違っても自粛続きで疲弊した社会や経済、その損害や心理的萎縮も癒えないまま、活動再開の出鼻を挫くような厄介事など当面は勘弁してほしいし、備えや覚悟と言われ、危機管理の必要性を納得させられても、とにかく「そんなことが起こらなければよいが」(μὴ γενοιτο τοῦτο)と祈るような気持ちだった多くの国民の期待を裏切る結果になりそうな雲行きだ。
事は長期戦なのである。効果のほどは定かならぬワクチンが先か、それとも新薬を含め治療法が確立されるのか、はたまた何らかの形で集団免疫のような状態が達成されて一段落するまで、最後に嗤う者はないだろうが、初期段階は惨憺たる状況だった各国を尻目に、日本が最終段階で、まずまずの結果に収まるか否か、実は何ぴとも知り得ないのである。[完]
「間違う脳みそ」というのが、この世にはあるようだ。そして、そうした人間に限って過去の記憶も勝手に書き換える。むろん、「コロナ狂い」(ὁ στέφανος μαίνομαι)の偏執狂の老婆のことだ。
「というのも、人間というものは自分の経験に合わせて、過去の記憶をつくり変える。」(οἱ γὰρ ἄνθρωποι πρὸς ἃ ἔπασχον τὴν μνήμην ἐποιοῦν; Thucydides, Historiae, Β. 54. 3)とは、ペロポネソス戦争中にアテーナイを襲った疫病について、人々の記憶や認識を観察したトゥーキュディデースの言で、変わらぬ人間自然の性情(ἡ φύσις ἀνθρώπων)、人間の自然的条件(τῆς ἀνθρωπείας φύσεως)なのだろう。
老婆が迂闊にも前回の終わりの方で、次のように書いている。
7月24日・205⇒【私は1月から、このコロナ問題について、私は大量のコメントを書いているが、明確に間違った主張をした、と思うのは、クルーズ船の陽性感染者を瀬戸内海の医療設備の整っている市民が住まない隔離施設に移送すればいいと主張したことと、集団免疫策をとればいい、と主張したこと…】。
しかし、それは真っ赤な大嘘である。興味ある向きは試しに、当時の、1月中の老婆のコメントを逐一点検してみるといい。当時は中国で患者が急増していたが老婆の関心は薄く、私が動きがあったその都度、備忘録的に状況を伝え、人民の健康や生命より共産党支配の維持、存続を優先させる中国の強権的抑圧体制について批判的に書くと、中国贔屓の老婆が二重基準の支離滅裂な反論で応酬するという程度だった。
現在のコロナ狂ぶりからは、想像もつかない。
「年寄りは悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。」(‘Les vieillards aiment à donner de bons préceptes, pour se consoler de n’être plus en état de donner de mauvais exemples.’; La Rochefoucauld, Maximes 93; Œuvres complètes, Bibliothèque de la Pléiade, p. 415)
ダイヤモンド・プリンセス号の感染者の隔離、収容先の確保が喫緊の課題だった当時、国立のハンセン氏病療養施設「長島愛生園」を無人島にあると誤認し、高齢者が多い同所に「長島愛生園隔離」という、老婆の驚天動地の暴論が飛び出したのはようやく2月12日・93で、
⇒【今はらい病にはうつる危険がないのだから、瀬戸内海にある国立療養所 長島愛生園にこのクルーズの乗船者に、この病原菌の潜伏期間が終わるまで滞在していただき、この感染病の専門医を常駐させるわけにはいかないのだろうか。フランス政府は、無人島に感染者を隔離…】ときた。無知ゆえに(δι’ ἄγνοιαν)というにはあまりに無神経かつ軽率で、つける薬がない。だから、何の反省もない。今どき「らい病」でもあるまいが、老婆はその程度の人間だ。
それには伏線があって、2月8日・51⇒【日本は…医療水準の高い国で、現在まで死者が出ていない。だから、諸外国のように医療設備の整った無人島に、国籍を問わず、クルーズ船乗船者を含めた感染を疑われる人を受け入れてはどうだろう】で、老婆はフランスが無人島隔離をしているという、これまた他ではあり得ない珍妙な主張をしていた。
当時、オーストラリアが水際対策で武漢からの帰国者をパースの北西2,360キロ沖合のインド洋のクリスマス島の専用施設に2週間隔離する話を取り違えたのだろう。
もっともクリスマス島は無人島ではなく、リゾート地であることさえ知らなかった。
さすがに、座視できなかったのだろう、2月12日・97で「穴ぐらのアナグラム」氏が、⇒【政府からも国民からも見捨てられ、傷つけられた人々を守るために、戦前からキリスト教会の助けで必死に今日まで作りあげてきた共同体…神谷美恵子さんが長年神戸から通い、生涯を捧げた施設…個室・個バス・美食・贅沢に慣れた船客がこのような施設に満足するでしょうか…非現実的どころか、その発想の情けなさ・恐ろしさに久々で憤りに震え】とたしなめたが、無駄だった。
私が生涯をハンセン氏病患者の魂の「救済」に捧げた精神医学者で、マルクス・アウレリウス『省察録』の訳者でもあった関係で、神谷の訳文に添えてこのストア派の哲学者皇帝を紹介した始まりだ。
「せいぜい自分に恥をかかせたらいいだろう。恥をかかせたらいいだろう、私の魂よ。自分を大事にする時などもうないのだ。めいめいの一生は短い。君の人生はもうほとんど終りに近づいているのに、君は自己にたいして尊敬を払わず、君の幸福を他人の魂の中におくようなことをしているのだ。」(第2章6、岩波文庫、22頁=‘Ὑβρίζεις, ὑβρίζεις ἑαυτήν, ὦ ψυχή˙ τοῦ δὲ τιμῆσαι σεαυτὴν οὐκέτι καιρὸν ἕξεις˙ ἀκαριαῖος ὁ βίος ἑκάστῳ, οὗτος δέ σοι σχεδὸν διήνυσται, μὴ αἰδουμένῃ σεαυτήν, ἀλλ ἐν ταῖς ἄλλων ψυχαῖς τιθεμένῃ τὴν σὴν εὐμοιρίαν.’; Aurelius, M., “τὰ εἰς ἑαυτόν”, II, 6)
カトリック信者の神谷がそこにどんな使命感を見出し、救いを求めたか謎を残すが、神谷の実兄の前田陽一は世界的パスカル研究者になり、「神なき人間の惨めさ」(‘misère de l’homme sans Dieu’)を生涯問い続けた。
救いようがないほど度し難い人物というものは、確かに存在するようだ。[完]
Newsweek誌はTime誌と並ぶドイツのSpiegel誌のような米国の有力な週刊誌である。
反氏にとっては低級すぎるのかもしれないが、その内容も読まず、私への中傷を繰り返している姿勢は、なんと怠惰で、知的に不誠実だ私には映る。ヘーゲルの哲学のような難しい文章を読むことを要求しているわけではない。その気があれば、簡単に理解できる内容である。
押谷仁教授は、旧「専門家会議」、現「分科会」の中核メンバーなので、彼の考えを知ることは、「分科会」、「日本政府」の方針を理解することのつながる。そのために、読者の皆様には是非読んでいただきたいと思う。
このウイルスの伝播パターンを理解していない人が全員をPCRせよ、と言っているのだろう。これは西浦さんの最初のデータで示されたことだが、110人のうち80人くらい、80%近くの人は誰にも感染させていないことが分かっている。十数%は1人にしか感染させていない。ごく一部の数%の人だけ、例外的に非常に多くの人に感染させる。だからこのウイルスは広がっている。つまり、大多数の誰にも感染させない人をいくら見つけても感染制御にはあまり意味がない。
その数パーセントの人がだれなのか、現時点では正確には分かっていない。日本のクラスターの61例を調べた結果、発症する前に感染させる人がいた。感染させるのは発症する1日前が最も多く、2日前もあった。最近、米サイエンス誌掲載の論文に、全体の45%程度が発症前に感染させていたというデータが出ていた。
症状がある人だけを検査していてもその前に感染させてしまう人がいるので、結局は無症状者を含め「国民全員PCR」のようなことをやらなければならなくなるが、たとえそれをやったとしても、正しく陽性と判断される確率は70%だ。しかもこの感度70%というのは発症直後の話で、PCR陽性率が最も高くなるときの割合だ。感染から3日以内の潜伏期間だと、感染していてもPCRが陽性になる確率はほぼゼロだとのデータもある。全体の陽性率を見ると、おそらく感度はもっと下がる。
今その辺で歩いている人たちを、ちょっとPCRしませんかと、献血に協力してくださいというような形でやったとしても、これは感染している確率の非常に低い人たちに検査をするということになる。
「法的強制力のある休業要請ができるよう特措法の改正を求め、歌舞伎町、ホストクラブ一体で一斉にPCR検査を実施すべき。」などと悲痛に訴える東京医師会の会長尾崎治夫さんの主張、も同じである。この東京都医師会会長は、マスコミのコメンテーターに洗脳された結果、Covid19の伝播パターンを理解しないまま、自説を強力に主張されている。マスコミがその主張を大きく取り上げるから、社会が混乱するのである。どうして、東京都医師会会長という立場なのに、きちんとCovid19の伝播のパターンを理解してから発言しようとされないのだろう。押谷教授は、「国民全員PCR」をやったとしても、正しく陽性と判断される確率は70%。しかもこの感度70%というのは発症直後の話で、PCR陽性率が最も高くなるときの割合だ。感染から3日以内の潜伏期間だと、感染していてもPCRが陽性になる確率はほぼゼロだとのデータもある。全体の陽性率を見ると、おそらく感度はもっと下がる、今われわれに対して「歌舞伎町などのお店は閉めるべきだ」と言ってくる人がいるが、そこを閉めるとほかの繁華街にウイルスを拡散させてしまう可能性がある。感染リスクが高い人たちが別の地域に移動し、感染エリアが広がっていくから、そうしない。とはっきり主張されている。
コロナ専門病院の必要性は私も感じる。そして、それは他府県の知事たち、神奈川の黒岩知事、大阪の吉村知事、兵庫の井戸知事はすでに実行に移されいる。されていないのは、歌舞伎町の「PCRの積極的な検査」だけして隔離せず、院内感染に陥っている一般病院の実情に鑑み、Covid患者と一般患者をわけるためにはどうすればいいか、という具体的な施策を実行に移すこともせず、この非常時に、専門家と議論して優れた東京都版CDCを作る、東京独自の緊急事態宣言の発令を検討する、などの具体的になにをするかまるでわからない壮大な計画を、マスコミを通じて発表し続けられる東京都の小池知事なのである。行政府の長としてほんとうにしなければならない仕事をしていないのは、日本政府の安倍ー菅ラインではなくて、東京都の小池知事なのである。きっと、Covid19の伝播パターンを理解されていないからそうなのだろうが、カイロ大学入学後の試験対策と同じで、Covid19のウィルスの特性を理解する努力をせず、一流と言われる専門家に全面的に頼られるから、そうなるのではないのだろうか。
大阪は、夜の街PCR検査効果が終わったのかもしれません。
【東京都】 6.5%(7月31日)←6.5%(30日)←6.6%(29日)←6.5%(28日)←6.5%(27日)←6.5%(26日)←6.3%(24日)←6.7%(21日)←6.5%(20日)←6.0%(19日) ←←6.1%(12日)
【都内重症患者数】 15名(8月1日)←16名(7月31日)←22名(30日)←22名(29日)
【大阪府】 9.3%(8月1日)←9.9%(7月31日)←10.5%(30日)←10.1%(29日)←9.8%(28日)←9.4%(27日)←6.6%(22日)
皆さん、ご安心を❢❢❢ 感染爆発の兆候は、いささかとも見られません。
元気に社会文化経済活動に励みましょう❢❢❢
コロナ感染が福岡、関西、中京、関東、札幌の各地域から拡散して都道府県の首長さんが対応に過度に苦慮されておられることを心配いたします。
第1波の時は感染者数がほぼ発病者数だったのですが、6月をはさんで感染者数がPCR検査陽性者数に変わっていることも混乱の大きな要因です。
各県内の、発病者数は 人口(万人)✕ 1.6
死亡者数は 人口(万人)✕ 0.08 になると推定できます。
例えば、鹿児島県の場合は、4~5月の感染が弱かったために7月の感染が強く出ていると考えるとよいのです。
鹿児島県の人口は160万人ですから、 160万人✕1.6=256人のコロナ発病の可能性があることを示しています。これは、日経新聞が6月30日に予報した「第2波」での入院患者数の推計表の標準的な想定人数341人の75%に対応しています。
死亡者数は、人口に0.08かけると12.8人、現在の鹿児島県のコロナ死亡者数は1人ですから、少ない好ましい状況だといえます。医療対応などが第1波の時より格段に良くなっているようですから、鹿児島県のコロナ死亡者ははるかに少なくすむ可能性が高いでしょう。
過度の心配に陥ってパニックにならずに、冷静に対応してください。
ウイルスはロックダウンしようがしまいが、鎖国しようがしまいが、一旦、侵入してしまえば落ち着くところまで入ってしまうのです。
現在、関東、関西圏ではコロナ陽性者率が5~10%くらいの様子ですが、人口200万人以下の地方都市ではこれより一桁くらい下がる可能性が高いでしょう。
140~144には、私が134で論じた、岡田晴恵氏をはじめ老婆が批判するメディアに登場するコメンテーターたちが、「PCR検査の精度が100%に近い」などという主張を全くしておらず、137で指摘した、老婆がコロナ問題について、⇒【私は1月から…大量のコメントを書いている】も全く事実に反するということへの、具体的論拠を示した反論は一切ない。
押谷仁氏のPCR検査についての現在の見解などもち出されても、それは岡田氏らが「PCR検査精度は100%に近い」とする老婆の、デマとも呼べない途方もない法螺話の傍証にはならない。岩田健太郎氏についても同様だ。
本欄読者にはお馴染で、「またか」ということでしかないが、老婆の所業は常套手段である、苦し紛れの論点のすり替えにすぎない。だから、愚弄し(χλευάζειν)嘲笑する(καταγελάω)しかない。
暇をもて余して老婆特有の愚劣なおしゃべり(ὁ γραός ὕθλος)しかできないようだ。老婆はギリシア語で[γραῦς]=グラウス(愚弄す)というくらいだから、話の通じない(ἄγνωστος γλῶσσαν)相手を、笑いの種(γέλως)にするには打ってつけだろう。
ついでに、141~142でまたしても繰り返された、老婆の浅ましい実態を紹介する。
内容それ自体は、篠田さんがtwitter上で言及している電子版News Weekの8月4日号、「ルポ新宿歌舞伎町『夜の街』のリアル」という特集記事に収録された押谷氏のインタビュー「独占 押谷仁教授が語る、PCR検査の有用性とリスクとの向き合い方」を、そのまま「100%近く」コピペして貼り付けたものだ。
それで、押谷氏のPCR検査観を論じているわけでは全くない私の議論への反論が成立すると思い込んでいるところに、老婆の狂信性がある。
141は全体で593字あるうち、冒頭の「押谷教授のPCR検査へのスタンスはこうである。」という21字と、第3段落初めの、「その数パーセントの人がだれなのか、」(聞き手の「──この数%が誰なのかは分からないということか。」を書き換え)なる17文字を除けば、文字通り一字一句違わぬコピペだ。コピペ率は93.60%。
一方、142の312字のうち、冒頭の「つまり、」の4文字分以外の308字分はすべてコピペで、コピペ率は98.72%になる。なるほど、「100%近く」というのは、横着者の老婆のためにあるような言葉であることが、その浅ましい行為からも歴然としている。
笑止にも、老婆は140⇒【一つのことを針小棒大に書く反氏の(?)らしいコメント】というのも、「一つのこと」という認識事態が事実誤認であり、「針小棒大」も読者の受け止め方に委ねるとして、「1月中からコロナ問題について大量のコメント」という趣旨の大嘘、「長島愛生園全員隔離」提言のような途方もない発想は、老婆の途方もない無知と驕慢さの発露であり、「事実」は細部まで明らかにされなければならない。問題は、老婆に何の後悔はもとより、何の反省もない点である。
それが、持ち前の軽薄さと「虚偽体質」と相まって、老婆の愚行を増幅させる(αὔζω)。
「盗むな」(μὴ κλέψῃς)というのは最低限のルールだが、コピペ狂い(κλοπή μανικός)の老婆には通じない。
自分の頭で考えるとか称して日頃は愚劣な議論と「クズ」投稿の量産に精を出しているが、「盗みをしてはいけない」(μὴ κλέπτε)。親からも言い聞かされたはずで、それこそ「そんなことはするな」(μὴ ταῦτα ποιήσῃς)という「父の言葉には従わなければならない」(πειστέον πατρὸς λόγις)。以上は、論証不要(ἀναπόδεικτος)だろう。
しかし、せっかちな質で、「クズ」だから、とにかく「できるだけ早く」(ὅτι τάχιστα)投稿したいのだろう。それにしても、午前4時台に、まともな神経の、しかも本来は分別がありそうな齢70近い年寄りがすることではない。
言い訳じみたことをとやかく言う(ἀμφισβητέω)ものの、「お前はいくらでも工夫がつくだろう」(πολλὰς ἄν εὕροις μηχανάς)というのが、世の良識である。
以前、私の批判を老婆の発言の権利を封じ、「抹殺する行為」だとする趣旨の被害妄想的発言を繰り返していたが、私の批判が、「彼は私が書けないように邪魔をする」(εἴργε ιμε μὴ γράφειν)ではなく、滑稽にも「愛と正義感」を喋喋する老婆に少しでも良心(συνείδησις)や自尊心(ἡ αἰδώς)の欠片があるなら、得と逆上せ上がったお頭を冷やし、出直すことだ。
愚行は、否定し去る(ἔξαρνος εἶνθαι)ことはできないのである。
「外から起ってくる事柄が君の気を散らすというのか。それなら自分に暇を作って、もっと何か善いことをおぼえ、あれこれととりとめもなくなるのをやめなさい。またもう一つの間違いもせぬよう気をつけなくてはならない。すなわち活動しすぎて人生につかれてしまい、あらゆる衝動と思念とを向けるべき目的を持っていない人たちもまた愚かなものなのである。」(神谷美恵子訳、岩波文庫、22~23頁)
今年1月末、その後に発生する大型クルーズ船内の集団感染問題以前で、コロナ禍が日本ではまだ対岸の火事的な認識が支配的だったころ、懲りない虚偽体質の老婆が妄言を連発していた。当時も「病膏肓」というのか、イライラして(δύσάρεστος)自分を自分でけしかけるように興奮する(ταράσσεσθαι)ヒステリー状態(δυσχερής ἕξις)、さながら断末魔(πανύστατος)の様相を呈していたが、冷静に対象から距離をとる(διάστῆναι)ことができないのが、何にでも首を突っ込みたがる(πολυπραγμοσύνη)おしゃべり婆さんの哀れな人間性だ。
酔狂(ἀτοπία)ついでに、コロナ問題など無関心だった当時の老婆の莫迦話。
1月30日・140⇒【ソクラテスが問答を始めたのは、40歳をすぎてから、ペロポネソス戦争に兵士として従軍し、スパルタに負ける、という体験を経て後である】(「石破茂氏の『自衛権』の理解への問題」)
当時も早速途方もない間違いを指摘しておいたが(1月31日・153)、ペロポネソス戦争がアテーナイの敗北で終わるのは紀元前404年で、ソクラテスは64~65歳の時だ。ソクラテスがその独自の問答=対話(διάλογος)を開始した時期が「40歳をすぎてから」なら、敗戦後「兵士として従軍し、スパルタに負ける、という体験を経て後」ではあり得ない。
間違いを繰り返すのも狂気の沙汰なら、露見しないと高を括るのも病気だ。
この問題はさらに遡ること2年前の無知蒙昧ゆえの、間違いだらけの主張=妄説(‘Karoline Doctrine’) の「再燃」だ。
2018年6月28日・57⇒【ソクラテスは、ペロポネソス戦争にアテネが敗れ、国力が衰退し始めた時に出てきた哲学者で…ソフィストを揶揄したために、多くの敵を作り、若者を堕落させた罪で公開裁判にかけられ、死刑を求刑され…】(「白井聡『国体論』の反米主義としてのレーニン主義」)
その際にも(2018年6月28日・59)、「貴所の史実認識には致命的な間違いが多すぎます。…『ソクラテスは、ペロポネソス戦争にアテネが敗れ、国力が衰退し始めた時に出てきた哲学者』ではありません…アテーナイ…が敗戦を迎えた紀元前404年の時点で…既に65歳歳で、戦後にわかに登場したわけではありません」と指摘済みだが、事実関係などどうでもいい老婆にとって、都合の悪いことはたとえ史実だろうとお構いなしなのも現在と同じだ。
しかも、ソクラテスはソフィストを批判したために敵をつくって告発され、裁判で有罪になって刑死したわけではない。「告発され、裁判で有罪になって刑死した」のは事実だが、その原因は、「ソフィストを批判したため敵をつくった」ことが原因ではない。
ソクラテス自身がソフィストの一員と見られていたくらいだし、当時知者と目されていた有力政治家や作家、職人(名工)を訪ねて無知を暴いたことが原因の一つで、相手はソフィストではない。
老婆にとっては、そうしたことはどうでもいい。初等中等教育で「習った」「覚えた」ことを繰り返すしか能がない。それが単なる俗説であり訛伝あることを考えてみたこともない。
もっとも、現在の公教育でもソフィストに関する俗説は既に克服されており、知らぬは老婆ばかりなりというのが実情だ。
同年6月29日・70⇒【私が問題にしたいことを、時代的にそれはおかしい…と主張されるが、それは反時流的古典学徒さん(マスコミの人に代表される)、のはぐらかしのテクニックそのもの】程度の論点ずらし、要するに現在につながる「論点移動」(μετάβασις εἰς ἄλλο γέννο)の詐術的議論(παραλογίζεσθαι)、謂わばまやかし(γοητεία τις)であって、「真実」云々を大言壮語(μεγαληγορία)する日頃の態度とは対照的だ。「虚偽体質」たる所以だ。
おまけに、高校時代の倫理社会の担当教員が「東大法学部政治学科卒」とかいう、肩書重視の事大主義も日頃の専門家批判の口ぶりとは正反対で滑稽だ。
常にその場しのぎの議論で言い逃れ、後はほとぼりが冷めた頃に性懲りもなく間違いだらけの持説に固執して再開するという病癖が老婆の習性(ἦθος)であり、「常に間違える」(αἰεί ἀμαρτάνειν)というのも個性(ἰδιώτης)なのだという。阿呆につける薬はない。
1月30日・140にはおまけがついて、⇒【ヘーゲルは1770年に生まれ、1931年に亡くなっている】で、ヘーゲル(1770.8.27~1831.11.14)がコレラで死ぬのは、20世紀のナチス登場の少し前で161歳になるらしい。
ことほど左様に偏執狂の老婆の議論は間違いだらけのうえに、正気を失って(ἀπὸ νοῦ)愚鈍な自らを自制する(ἡσυχάζειν)ことができない老婆特有の無駄話だから、何を論じても空しく響くだけだ。[完]
「人間には誰しも自分自身を忘れず、正気を保つことが許されている。」(‘ἀνθρώποισι πᾶσι μέτεστι γινώσκειν ἑωυτοὺς καὶ σωφρονεῖν.’; Heraclitus, Frag. 116)
要するに、この番組に関係しているプロデユーサー、出演者全員、「日本モデル」に対する理解がほとんどない。勉強不足で、押谷仁教授の書かれたもの、インタビュー記事を全く読んでいない。その結果、「日本モデル」の意味も重要性がわからないので、意味もわからず、日本政府、分科会を批判している。後藤名誉教授も同大学の教授、岡田晴恵博士の解説をうのみにされるから、おかしな解説になり、おかしな世論になるのである。本当に、マスメデイアの人々にはよく勉強していただきたいし、公共の電波を使って人々を迷わすのをいい加減にしてほしい。
これが新型インフルエンザウィルスのように、潜伏期間がなく、感染後に平均的に移すウィルスなら、岡田晴恵氏の主張は正しいのである。PCR検査結果も正しい。ところが、なんども説明するように、Covid19は、潜伏期中に移し、感染した人のうち、80%は移さず、残りの人が多数に感染させるウィルスだから、現在の接触ではなくて、過去の接触を追う方が、ずっと合理的なのである。同じ人が、大勢に移すのだから、移す場所の特定ができれば、芋づる式に感染力した人、感染力のある人を類推できる。早く特定できれば、隔離することで、一番感染力のある発症前1-2日、のウィルス感染を遮断できる。そのための、Cocoaなのである。このウィルスの特性を、マスコミに出演される肩書のある専門家の誰かがきちんと説明してほしい。そうすれば、国際社会のおける「日本モデル」の優位性が日本の視聴者にきちんと理解されるのではないのだろうか。
ソクラテスの晩年、弁論術というものがはやって、アテネの青年が高額を払って、外国の教師に、弁論術、赤いものを白、とても、黒とでも言いくるめる技術を教えてもらうことをソクラテスは批判し、若者は真実を探求する努力をすべきだ、リンゴの本質は何語を使っても変わらない、と主張したことである。私がそれを引き合いに出したのは、現在の日本は、米国のporlitical correctnessを含めて、あまりにも、言葉のイメージによるごまかしが横行し、弁論術の技術のある人の主張や肩書や演技が、真実とはまるで関係なく、説得力をもつからである。Covid対策の「日本モデル」が軽んじられるのも、それが理由なのではないのだろうか。
それにしても、不思議なお頭をした人間がこの世には存在するものだと、2年前も強く印象づけられた文章がある。
それは、何ごとも自分の気に入らない、意に沿わないことがあると、政治家だったらポピュリズム、ポピュリストであり、あたかも皆ヒトラーと同じであるかのように扱い、メディアや識者であれば、やれ洗脳だとかプロパガンダ一点張りの判で押したような単線思考、そうした人間だから中身も碌に理解できないSIRモデルですらイデオロギーであり、マルクス主義と同列であるという、粗笨な理解に基づいて、すべからく一緒くたで大風呂敷の粗雑な議論しかできず、それをもって「自分の頭で考える」(Selbstdenken)とか称して逆上せ上がっている。
そうした人間に限って、自由に「独力で考える」(νομίζειν καθ’ αὑτό)ことからかえって逆向するもので、常に何らかを崇拝し(προσκυνέω)、自らにとって神聖な(θεῖος)、帰依感情(πιστεύω πάθη)、つまり信仰(πίστις)の対象となるような人物や思想への度を越した専心(σπουδή)、つまり依嘱感情(Abhängigkeitsgefühl)によって何らかの聖域(τὸ ἱερός=sanctuary)をつくり上げ、それに基づいて、自らと相容れない見解や立場については極めて排他的な(ἁπλῶς)、独善的な(αύθάδης)党派的思考に終始する。
159⇒【反氏とは、いくらやり取りしても、一致点が見いだせないが、私が、ソクラテスの偉大さ、として習ったことは…】のような悪あがきは、一人前の人間が言うことだ。前提となるソクラテスや同時代のアテーナイについて、肝腎なことを何も知らない「白痴」(ἠλίηθιος)に等しい人間が言い逃れのために御託を並べても仕方がない。見解の一致など、一人前の人間の台詞だ。ソクラテスの「晩年」と弁論術の流行は無関係だ。思いつきで何でも口走る「阿呆」ということだ。
冒頭で言及した奇妙な文章とは次のようなものだ。
事実誤認を最初に明確に認めて論点を整理しないから、全く支離滅裂な、反論とも呼べない抵抗を装うしかない。目的は最初から真面目な議論ではないことが分かる。「虚偽体質」たる所以だ。
所謂「衆愚制」(ὄχλοκρατία)はソフィストによってもたらされたものではない。特にペロポネソス戦争中の政治的混乱によって政治や政治指導者が劣悪化した傾向はあり、民主制的な価値観によって大半が外国人教師、知識人であるソフィストの活躍の場を広げたが、それは民主制の本性に根差しており、ソフィストが原因ではない。
それ以上に事実認識が根本的に誤っている点は、高額な授業料をとって富裕層に弁論術などを教授したとはいえ、外国人居留民(μήτοικος)でしかなく、アテーナイの市民権(πολιτεία)をもたず、何ら政治的、公職に基づく影響力などないソフィストに、プラトンの対話篇で紹介されるようにソクラテスが批判的だったとしても、「ソフィストに敵をたくさん作り、処刑を余儀なくされた」ことは全くない。
無学な婆さんが無知ゆえに、ソフィスト=詭弁家(σοφιστής)という、ソクラテスやプラトン以来、後世に喧伝されたソフィストの悪名(διαβολή)に惑わされて妄想を膨らませているにすぎない。それを増幅させるのが、日本版Wikipediaの間違いだらけの記述だ。
ソクラテスが『ソクラテスの弁明』に描き出された法廷弁論の中で指摘するように、メレトスはソクラテスが吟味と称して「善なるもの」(τἀγαθός)に関する無知を暴いた作家を代表し、アニュトスは手工業者と政治家を代表する立場でソクラテスを憎んでおり(‘Μέλητος μὲν ὑπὲρ τῶν ποιητῶν ἀχθόμενος, Ἄνυτος δὲ ὑπὲρ τῶν δημιουργῶν καὶ τῶν πολιτικῶν’; Apologia Socratis, 23E~24A)、ソフィストの利益代表ではない。
何より、ソクラテスに向けられた訴状は、「ソクラテスは犯罪人である。青年を腐敗させ(ἀδικεῖν τούς τε νέους διαφθείροντα)、国家の認める神々を認めず(θεοὺς οὓς ἡ πόλις νομίζει οὐ)、別の新しい鬼神の類を祀る(νομίζοντα, ἕτερα δὲ δαιμόνια καινά)がゆえに」(‘Σωκράτη φησὶν ἀδικεῖν τούς τε νέους διαφθείροντα καὶ θεοὺς οὓς ἡ πόλις νομίζει οὐ νομίζοντα, ἕτερα δὲ δαιμόνια καινά.’; ibid., 24B~C)というもので、当時のアテーナイの伝統的価値観を重んじる保守派なら、青年を腐敗させているのは老婆が告発の要因とするソクラテスの敵、ソフィストでなければならないが、事実は全く逆だ。
さらに当時のアテーナイでは、ソクラテスはソフィストの同時に一派とみられる側面があり、そうした誤解や中傷は広く知られていた。
その背景を簡単に説明すると、ペロポネソス戦争における主戦論者は、アテーナイはクレオン、スパルタはブラーシダースだったが、クレオンは紀元前422年夏のアンピポリスの戦いで、ブラーシダースとともに戦死したことで和平の機運が一気に盛り上がって、翌421年にクレオンの政敵だったニキアスが尽力して民会を説得してスパルタの和平提案を受け入れさせることで休戦にこぎつけた。
協約は充分履行されたとは言えないが、公式的には前414年まで続く所謂「ニーキアースの和平」が成立し、10年に及んだペロポネソス戦争前半の「アルキダーモス戦争」(Ἀρχίδαμου πόλεμος=十年戦争[τὰ δέκα ἔτη πόλεμος])はようやく終息した。
そうした旧来の価値観が揺らぎ始めた時代、『雲』が描き出すのは、名門出身の母親の影響で馬に凝るなど浪費癖があって経済観念が欠けているため借金を重ねる息子のせいで、破産寸前の状況に追い込まれているアテーナイの農民で元は素封家のストレプシアデースが、借金返済、利子の支払いを何とか逃れようと一計を案じてたものの、逆に裏目に出る喜劇だ。
ストレプシアデースは、当時流行の、貸主たちを言葉巧みに言いくるめるソフィスト流弁論術を何とかして身に着けようとソクラテスの学校、瞑想塾(φροντιστήριον)に赴き、借金踏み倒しの論法を何とかして会得しようとしたが果たさず、嫌がる息子ペイディッピデースを促して打開しようとするももの、それがかえって災いして、弱論強弁の弁論術を身につけた息子が父親に反抗するようになり、親を殴っても言葉巧みに正当化するなど酷い目に遭わされたことで新しい教育に反感を抱くようになった父親が、怨みを募らせ、絶望のあまり、ソクラテスの私塾に火を放つに至る、というものだ。
アリストパネスが描くソクラテスはさながらソフィストそのもので、弁論術に批判的で、青年たちから金銭を受け取って教えることはなかったとされるソクラテス像と大きく食い違うが、詩人は敢えてソフィストに対する当時の民衆のイメージを集約して、それを代表する人物をソクラテスに込めたとされる。ソクラテスについても、そうした風評が、実際にアテーナイ市民の間にあったからだ。
一方で、著名なソフィストと目される人物は、プロタゴラス、ゴルギアス、プロディコス、アナクサゴラスなど、いずれもアテーナイとは別のポリスの出身であって、アテーナイ生まれでソフィストと同じような活動をしており、思索に没頭した時に没我状態や、裸足(ἀνυπόδητος)で歩き、身なりを気遣うこともなかった風体を含めて尋常でない印象から、ソクラテスが喜劇的なからかい、攻撃の題材になりやすい背景があった。
そこには、「空中を歩き、太陽の思いをめぐらしているところ」(225; ‘ἀεροβατῶ καὶ περιφρονῶ τὸν ἥλιον.’)といった形でソクラテスが登場する。
ストレプシアデースは内心、「あのいかさま師たち、顔色の悪い青びょうたん、靴もはかないで歩く連中、あの呪われたソクラテスやカイレポンのグループ」(102~104; ‘τοὺς ἀλαζόνας, τοὺς ὠχριῶντας, τοὺς ἀνυποδήτους λέγεις, ὧν ὁ κακοδαίμων Σωκράτης καὶ Χαιρεφῶν.’)のような反感を抱いている。
後世のソクラテス像、つまり我々の共通認識は、プラトンの不滅の対話篇の印象によるものだ。
159②⇒【リンゴの本質は何語を使っても変わらない、と主張した】というような議論は、ソクラテスの言行録の中には存在しない。リンゴ(μῆλον=メーロンと発音する[tree of fruit])という言葉がギリシア語にも存在するが、プラトンの対話篇には全篇仲で3箇所しか登場せず、定義云々の議論は存在しない(F. Astius; Lexicon Platonicum sive vocum platonicarum index, Vol. II, p. 340)。
無学な老婆に「本質」を語る資格があると考えていること自体、笑止だ。お子様論議はどこまでも向こう見ずで、ご気楽でいい。
ところで、ポピュリズム(populisme)と言っても、それは詰まるところ人民政治(populisme)のことであり、所詮は民主制(δημοκρατία)の原点である多数者の専制(tyrannnie de la majorité)に基づく「民衆の支配」(δημο[ς]-κρατία)、人民主権(la souveraineté du peuple)別名でしかないから、「人民の人民による人民のための政治」(goverment of the people, by the people, for the people)を信奉する(πιστύω)する婆さんこそ、人民政治=ポピュリズム、原理主義的な民主制の信奉者(οἱ συνόντες)、「民主主義教」の心酔者(ὁ πρόθυμος θεραπευτής)に外ならないことになる。
米国には「人民の名による多数者の支配」(la majorité qui governe au nom du peuple→「人民が支配するすべての国においてと同じく、〔アメリカ連邦でも〕多数者が人民の名において統治する。」=‘comme dans tous les pays où le peuple règne, c’est la majorité qui governe au nom du peuple.’; “De la Démocratie en Amérique”, Œuvres complètes, Michel Lévy Feréres, 1864, Tom. II, p. 3)伝統がある。
アリストテレスも指摘するように、「民主制に共通する性格」(τὰ κοινὰ ταῖς δημοκρατίαις)は、「民主制的であると同意されている正義の帰結として生まれる」(‘συμβαίνει δ᾽ ἐκ τοῦ δικαίου τοῦ ὁμολογουμένου εἶναι δημοκρατικοῦ… ἡ μάλιστ᾽ εἶναι δοκοῦσα δημοκρατία καὶ δῆμος.’; Politica, 1318a3~6)、それは「即ち、すべての人が数に応じた平等を享受すること」(τοῦτο δ᾽ ἐστὶ τὸ ἴσον ἔχειν ἅπαντας κατ᾽ ἀριθμόν)であって、ポピュリズムこそ法律(νόμος)ではなく大衆(ὄχλοι)が権限を握る体制、一種の理想である究極の民主制(ἡ τελευταία δημοκρατία)に外ならない。
つまり、「多数者の支配が絶対的であるということが、民衆的政治の本質」(‘Il est de l’essence même des gouvernements démocratiques que l’empire de la majorité y soit absolu.’; ibid., Tom. II, p. 134)ということであれば、それは合法的専制(le despotisme légal)であって、不当な簒奪(usurpation)には当たらない。多数の全能(l’omnipotence de la majorité)、つまり多数者の専制支配こそ民主制の本性に根差しているのである。
むろん、だからこそ私は民主制を信奉していないが、民主制とはアリストテレスやトクヴィルが説くまでもなく、本質的にそうしたものだとういうことだ。
阿呆の代名詞である「驢馬」(ὄνος)ならぬ、老婆のような無学な阿呆には、無駄な講釈だったかもしれない。οἴμοι.[完]
「あまり法螺を吹くな」(μὴ μήγα λέγε)
ヴァイツゼッカー演説の中のヒトラーの形容はこうである。ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。若い人にお願いしたい。
他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
ロシア人やアメリカ人、ユダヤ人やトルコ人、オータナテイブを唱える人々や保守主義者、黒人や白人、
これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。
トランプ大統領も、習近平国家への敵意をあらわにし、黒人やラテン系の人々を差別している。そして、民主的に選ばれたトランプ大統領に、白人以外の人々に対する敵意や憎悪を駆り立てるような行為を慎むべきだ、ということを体現している白人の若者、Black Lives Matterの参加者を連邦政府の権限で逮捕している。(7月15日、米西海岸オレゴン州ポートランドで、所属の明示がない迷彩服姿の男たちがデモ参加者たちを説明のないままいきなり拘束し、所属不明の車両に乗せて現場を走り去ったという。同州知事は「露骨な権力の乱用」と強く非難しているhttps://www.bbc.com/japanese/53453760)。Covid19の犠牲者も最初の頃と違い、ドイツやアメリカでは、三密の環境、労働条件や住環境が劣悪な食肉工場で大量の感染者が出ているように、国際社会では、現在三密回避のできない、Covid19感染者と距離の取れない「社会的弱者」がCovid19の犠牲になっているのである。それもあって、「Black Lives Matter]が大問題になっているのであるが、どうして日本のマスコミは、この「権力をもつ」政治家として、不適格な人格の持ち主を、持ち上げるのか、媚を売るのか計り知れない。日本のマスコミ知識人には、あまりにも、国際社会の動向に関心がなさすぎるためなのではないのだろうか。
西独は、私の滞在中は、民主的で現実的な左翼政権であったせいか、貧富の差はアメリカほどない。また、ドイツ統一も、東独国民が自分たちの政治体制を変えたい、という動きがまずあって、それから、西独の政治家が動き、米ソ英仏の合意を取り付けたのであって、西独の政治家主導で動いたものではないのである。その点が、朝鮮半島のムンジェイン大統領だけが、南北統一をしたい、と考えておられる状況とまるで違う。中国にしろ、朝鮮にしろ、政治の主体である国民が、政治体制を変えたくない、と考えている以上、米国が他の国の政治体制を変えることはできない。それが、民主主義政治の基本である。
が、反氏を含めて日本のマスコミは、もう少し、現代の国際社会に関心をもち、日本の針路を真剣に考えるべきだ、とつくづく思う。いつまでも、古代ギリシャ文明、アメリカンドリーム、ではないのではないのだろうか。
民主主義についても、国際法学者の芦田均さんは、外交官として生き、敗戦を経験された上で、日本国憲法を修正する基本として、民主主義とは「人民の、人民の為の、人民による」政治である、と解説されている。つまり、ポピュリスト政治家、ヒトラー、トランプ大統領、小池百合子さんを権力者にすると、彼らは民主的な手続きで選ばれているので、人民の、人民による、にはなるのであるが、彼らが虚栄心ゆえに危険な演技に走り、結果的に国民を不幸につきおとすので、人民の為、要するに我々の為にならない政治をするのである。
【東京都】 6.5%(7月31日)←6.5%(30日)←6.6%(29日)←6.5%(28日)←6.5%(27日)←6.5%(26日)←6.3%(24日)←6.7%(21日)←6.5%(20日)←6.0%(19日) ←←6.1%(12日)
【都内重症患者数】 15名(2日)←15名(1日)←16名(31日)←22名(30日)←22名(29日)
【大阪府】 9.2%(2日)←9.3%(1日)←9.9%(31日)←10.5%(30日)←10.1%(29日)←9.8%(28日)←9.4%(27日)←6.6%(22日)
朝日新聞の8月2日朝刊で❝新型コロナ❞をまとめています。
意味不明の図を、どう読んだらいいのかわからい記事なのですが、見出しにあるように、❝陽性率も上昇 感染拡大の様相❞の意図でまとめられているようです。
❝わたしが、コロナメーター❞で、陽性率に変化ありませんと毎日毎日繰り返しているのに。
この記事に面白いデータがありました。愛知と福岡の陽性率が15.4%と6.6%(7月24日~30日)だそうです。愛知が高いのは、夜の街検査効果のためかもしれません。
わたしが指摘したように第1波の侵入を許した、成田、羽田、札幌、中部、関西、福岡の諸国際空港付近の大都市のコロナ感染率、陽性率はすでに5%~10%であるということですね。
いずれにしても、感染爆発の兆候は、まったく見られません。児玉龍彦さんの国会発言からほぼ3週間たつというのに❢❢❢
釜萢さん、かわいそうだったですね。逆に、玉川徹のバカがPCR, PCRですごかったね。
テレビ朝日系はこんな奴を、よくコメンテーターにだすもんだと感心させられた。
❝コロナ感染爆発❞で煽られなくなったから、また❝PCR検査❞を煽りだしたのだろう。かわいそうな❝朝日新聞❢❢❢❞
3月から4月上旬の陽性者数総計は400人位。ほとんどが発病者でしょうから、この20倍の無症状感染者がいたことになります。8000人位です。
これらの人たちから倍々ゲームで現在に至っているとすれば?
愛知県人口が755万人ですから、感染率7%として、53万人が感染していることになります。TVコメンテーターが2週間2週間と盛んに言ってたので、2週間を一区切りとすると、5~7月3か月には、tの6乗からtがほぼ3になります。つまり、4月上旬に8000人位の無症状感染者がいたとすれば2週間ごとの3倍ゲームで現在の7%陽性率を示すまん延状況になるわけです。
3倍ゲームは、ウイルス学的に十分納得できる話でしょうか?
インフルエンザであると、一人が2.5人平均で発症後に移すから予測がつく。けれども、Covid19は、移さない人もいるが、一人で一気に10人以上移す人もいて、その上に自覚症状のない潜伏期間中のことが多いから、どこでクラスターが発生するか予想がつかない。表面的にみれば一挙に重症の患者が大量に出るから、パンデミーなのである。対処の難しい大規模なクラスターを作らないためには、見かけからではわからないので、クラスター調査をしたり、接触アプリで探るしかないのである。そういうCovid19の基本的な基礎知識を、反氏を含めて、コメントする、あるいは、報道する立場にある人は、主張を述べる前に、身につける必要があるのではないのだろうか。
謙虚さの足りない者は、国であれ個人であれ世間から疎まれる。
よく考えてからものを言ったり、行動するタイプではなく、おまけにお調子者で怠惰という特有の軽躁な人間性に任せて、思いつきの法螺話(ἀλαζονεία)と、壊れかかった蓄音機よろしく、独りよがりの、間違いだらけのお子様論議に余念がない。
さらに、お気に入りの狂信的な信仰の対象、Weizsäcker演説、芦田均、それしか読んだことのないケルゼンの『民主主義の本質と価値』(“Vom Wessen und Wert der Demokratie; Staatsform und Weltanschauung”)か片々たる小冊子『民主主義の擁護』(“Verteidigung der Demokratie”)、昨今は「日本モデル」の「クラスター対策」なる、検証されざる秘儀(τελετήs)を繰り返すしか能がない。
無学は如何ともしがたく、レパートリーは少ないから、やれ、171⇒【ゲーテの言葉、「きみの書くものいいにに、自身の経験が生きているか」】と、莫迦の一つ覚えのように繰り返すことしかできない。
171②⇒【ソクラテスは、「机上の空論の哲学」を若者たちに説いたのではなくて、自分で社会生活をし、家庭生活もし、兵隊になって敗戦も経験した後…自己の経験をふまえた哲学によって、若者を教育】のような、何の根拠もない、つまりソクラテスに関する伝承のどこにも存在しない(西洋古代哲学、西洋古典学には2千年を優に超す研究の蓄積があるが、かかる話は聞いたことがない)法螺話=妄説(‘Karoline Doctrine’)をでっち上げて、反論を装うしかできない。
名著『古代都市』(“La cité antique”, 1875)の著者であるフランスの古代史家クーランジュ(Fustel de Coulange)が口癖のように繰り返したという、‘Avez-vous un texte?’(「あなた、テキストは?」)、ということであり、それこそ俗受け(δημηγορία)する「空理空論」(ἀδολεσχία)でしかない。
159でも「リンゴの本質」云々と戯けた主張をしていたが、リンゴ(τὸ μῆλον)について、私なら早速アスト(Friedrich Ast)の『プラトン字彙』(Lexicon Platonicum sive vocum platonicarum index, 1835~38)3巻本を引っ張り出して、中巻340頁の[μῆλον]の項目を引き、プラトンの対話篇には、『国家』に1カ所(363C)、『法律』に2カ所(819B, 845B)あることを突き止め、それぞれの本文に当たって老婆の主張に何の根拠もないことを確認する。
むろん、婆さんの主張の趣旨は、ソクラテスの哲学的な主張の本質的な議論を意図して、何の脈絡もないとはいえ「リンゴ」を挙げたのだろうが、そうした議論はきちんと根拠を提示しないと相手にしようがない。自分の専門分野に関する本格的な議論については、プラトンのテキストをギリシア語で読めない相手に付き合うほど、私は酔狂ではない。
ドイツの後進性という指摘に関する反駁でも、無学だから何の中身もない。窮すると、Wikipediaの記述などもち出すことしかできない。何せ、141~142で狂態を晒したような度を越した「コピペ狂い」だから、その記述をちゃっかり切り張りして済ます芸当も意に介さない。
どこかいかれているのだろう。
ドイツの近代に民主制の伝統などない。まともなルネサンスもなかった周縁の非文明国の歴史が長いし、神聖ローマ帝国(das Heilige Römische Reich=962~1806)と称したところで、田舎の領邦国家の寄せ集めにすぎない。
それを称してヴォルテールは、「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と揶揄したほどだ。何でも30年戦争のせいにするが、それ以前にルターのような厄介者が現われて、宗教改革と称して国家を混乱に陥れた前史がある。
ドイツ語の標準的文章語にルターの聖書のドイツ語訳が果たした功績は小さくないが、それが決定的な役割を果たしたわけでもない。ルターが最初に新約聖書のドイツ語訳を完成するのが1522年、旧約聖書を含む全体を完成させたのが1534年だが、文章語としてのドイツ語が確立するのは、はるかに後世の18世紀末から19世紀初頭というのが言語学研究の共通認識だ。
だから、ドイツはロシア並みに上層・知識階級はフランス語を使用した。ドイツの学者でも、例えばベルリンにアカデミーを創設した哲学者、数学者で諸学に精通したライプニッツは、著述の多くをフランス語で行った。
三十年戦争後のドイツにおいては、神聖ローマ帝国はまさに有名無実の存在で、三十年戦争中に選帝侯となったプロシアのF. ヴィルヘルムの跡を継いだフリードリヒ二世は、君主は「人民の第一の下僕」(le premier domestique)という言葉(『反マキャベリ論』、1740)でも知られるように、ヴォルテールを宮中に迎えてフランスの啓蒙思想に親しみ、徹底した宗教的寛容政策をとったことにもみられるように開明的な専制啓蒙君主だが、フランス語で著述するなどフランス語を能くする一方、ドイツ語を軽蔑し、当時勃興し始めたドイツの国民文学には目もくれなかった。
ベルリン近郊のポツダムにロココ様式の宮殿、サン・スーシを造営して華やかな宮廷生活を送る一方、著作のタイトルに反して実際は上からの権力によって、時に権謀術数を厭わぬ武力行使で国家興隆に邁進した。その権威主義や軍備拡張、ミリタリズムはプロシアの象徴とされる。
オーストリアの宮廷を中心とするハプスブルク家の文化的反映もドイツ民族の政治的後進性を覆さない。上層・知識層の文化的洗練は、逆に政治的成熟の妨げになる。
フランス革命がもたらした衝撃を、ドイツはあくまでも因習を打破し、国内の近代化を進めるという政治的推進力として生かす道を自ら封じ、オーストリア同様、退嬰的な姿勢に終始した。圧倒的多数の小国も、惰性的に存在するにすぎなかった。革命への期待が次第に失望に変わるかな、フランス革命後の混乱を受けて登場したナポレオンによって国土は蹂躙され、名目だけとは言え神聖ローマ帝国も潰え、プロシア以下、30余りの国家連合によるドイツ連邦が成立するが、西欧、特に英仏を模範とする自由な国家体制への要求は、支配層の利益との相反と政治的成熟が伴わず、1848年のドイツ革命に象徴されるように、掛け声倒れに終わった。
「教養市民層」と呼ばれる世界有数の知識層を擁しながら彼らは政治を軽視し、嫌悪する傾向があったため、国民全体の政治的議論に何ら指導的影響力を及ぼさず無力で、国民意識との乖離も際立っていた。目標を失って過激化する社会思想を瀰漫させ、文化的な資質を生かし、政治的な合意形成の深化に包摂する土壌が欠けていた。
敗戦によって旧来の価値観が転換し、ヴァイマール憲法の下、民衆的な議会制度を実現したが、政治も国民も戦後の混乱の中でそれを的確に運営する術を知らなかった。政治的成熟は一朝一夕に実現するものではなく、政党は相互に対立する部分的な政治目標を掲げて自己主張に急な利益政党を脱しきれず、国民は政治的な不満を募らせて浮遊し、煽情的な空気に衝き動かされた末に、結局急激な現状否定による危機打開を訴えるナチズムに絡め取られていく。それを、政治的未成熟という。
最期に、トーマス・マンの観察を添える。
マン自身は当初、ドイツの文化や芸術がもつ精神的優位性を政治の上に置く立場で、「私は私の思考に刻印された特質のしからしめるままに、自由という言葉を倫理的な(sittlich)自有の意に解していたのである――そして道徳的な自由の市民的な(bürgerlich)自由に対する関係については、ほとんど何も知らなかったし、知ろうともしなかったのである。」(„denn unter dieser verstand ich dem Gepräge meines Denkens memäß sittliche Freiheit von deren Beziehungen zur bürgerlich Freiheit ich wenig wußte und wenig wissen wollte.“; „Kurtur und Politik“, T. Mann Gesammelte Werke in dreizehn Bänden, Bd. 12, Reden und Aufsätze 4, S. 853)のような見解の持ち主だったが、次第に民族の非政治性ゆえの弱点を洞察するようになる。
「ドイツ精神の、政治を人間的課題のひとつとして承認しない態度が辿りついたところは、政治的恐怖そのもの、権力への完全な隷属状態、全体国家であった。」(„Seine Weigerung, die Politik des ein Zubehor der humanen Aufgabe anzuerkennen, ist ausgegangen in den politischen Schrecken selbst, die restlose Macht-Sklaverei, den totalen Staat;“)
さらに、なぜ有能な知識層を多数輩出し、文化的繁栄を謳歌したドイツがなぜナチズム支配へと転落することへの対抗重量や防波堤にならなかったかについて、マンはドイツの教養人における政治不在=政治的無関心を挙げる。そしてその典型例をマンが長年親しんだ哲学者のショーペンハウアーに求める。それは同時に同じ教養市民層であるマン自身の自戒の念が込められている。
「ドイツ史の悲惨な運命とドイツ史が辿ったナチズムという文化の一大破局とが、ドイツ的市民精神における政治不在といかに結びついているか、精神的なものと『教養』との高みから政治的および社会的な分野を見くだしてきたドイツ的市民精神における政治不在といかに緊密に結びついるか――私はつい最近、偉大な思想家であるアルトゥール・ショーペンハウアーを再び読み返してみて、この事実を改めてはっきりと、意識させられたのであった。」(„Wie die Unglückseligkeit der deutschen Geschicte und ihr Weg in die Kulturkatastrophe des Nationarsozialismus mit der Politiklosigkeit des bürgerlichen Geist in Deutschland zusammenhängt, seinem gegen-demokratischen Herabblicken auf der politische und soziale Sphäre von der Höhe des Spirituellen und der Bildung ― das wurde mir wieder recht bewußt, als ich külzlich den Umgang mit einem großen deutschen Denker und Schriftsteller ersten Ranges erneuerte, der auf ,einer Jugend einem gewaltigen Einfluß ausgeübt: mit Arthur Schaupenhauer.“; „Kurtur und Politik“, T. Mann Gesammelte Werke in dreizehn Bänden, Bd. 12, Reden und Aufsätze 4, S. 854)
「ショーペンハウアーが公言して憚らなかった座右銘は、『私は、自分が神聖ローマ帝国のことについて、あれこれと心を遣わないでよいことを、毎日神に感謝する』であった――まさに、これは国家にとって実に好都合だといっても構わないような座右銘であり、正真正銘の俗物的、逃避的思考の現われであって、ショーペンハウアーのような精神的戦士がなぜこのような言葉を自分の座右銘とすることができたのか、ほとんど理解できないような代物である。」(„Schaupenhauers erklärter Wahlspruch war »ich danke Gott an jedem Morgen, daß ich nicht brauch’ fürs Heil’ge Röm’sche Reich zu sorgen«, ― ein Wahlspruch, wie er dem Staate so passen könnte, eine wahreb Philisterei und Drückebergerei und eine Devise, von der man kaum versteht, wie ein geistiger Kämpfer gleich Schaupenhauer sie sich zu eigem machen konnte.“; ibid., S. 855)
「精神のこのような断念は、すなわち一個の錯覚なのである、一個の欺瞞なのである、われわれはこれによって政治の領域から逃げ出ることはできない、それどころかただ誤れる側に加担することになるだけである―しかも激情に駆られて。A-Politik〔非政治的態度ないし政治的無関心〕、それはAnti-Demokratie〔反デモクラシー〕の謂いに他ならない。そしてこのことの真に意味するところ、つまり精神はかかる無関心によって一切の精神的なものといかに自殺的な仕方で矛盾対立することになるかということ、それはある特定の状況が到来してはじめて明るみに出るのである。」(„Jener Verzicht des Geistes ist nämlich ein Irrtum, eine Selbsttäuschung; man entgeht damit nicht der Politk, man gerät nur auf die false Seite ― und zwar mit Leidensschaft. A-Politik, das bedeutet einfach Anti-Demokratie, und was das heisen will, auf welche selbstmörderische Weise sich der Geist dadruch zu allem Geistigen on Widerspruch setzt, das kommt erst in bestimmten akuten Situation höchst leidenschaftlisch an den Tag.“; ibid., S. 855)
「要するに、彼の四囲には、われわれの余りにもよく熟知している、われわれに故郷そのものといっていいような余りにも親しい感じを催させるドイツ的な市民精神の空気が典型的な形で漂っているのだ――が何ゆえにドイツ的な市民精神なのか、それはまさに、この市民精神が精神的であるからであり、その内面性、その徹底主義、あらゆるデモクラティックな合理主義との絶対的な無縁性、その『純粋な天才性』、その身のほど知らぬ頑迷固陋、これらすべてがドイツにおいてのみ存在しうる特殊ドイツ的可能性であり、法則性である――そしてまた危険性である――からなのだ。」(„und alles in allem, es ist um ihm, auf eine exemplarische Weise, die Luft einer nur zu vertrauten, nur zu heimatlich anmutenden deutschen Geistesbürgerlichkeit, ― deutschen eben, weil sie geistige ist und weil ihre Innerlihkeit, ihr konservativer Radikalismus, ihre absolute Fremdheit gegen jeden demokratischen Pragmatismusm, ihre »reine Genialität«, ihre verwegene Unfreiheit, ihre tiefe Politiklogiskeit eine spezifisch deutschen Möglichkeit, Gesetzmäßigkeit ― und Gefahr ist.“; ibid., S. 856)
それは同時に、政治に対する文化、精神の優位性を説く知識層が民衆の支持を受けるどころか敵視され、後年のファシズムに対抗する力になりえなかった事情を明らかにする。
「ドイツの文化概念における政治的意志の欠如、デモクラシーの不在は、恐ろしい報いを受けることになった。つまり文化のこのような理解が、ドイツ精神を全体主義国家の生贄にしてしまった。」(„Die politischen Willenlosigkeit des deutschen Kulturbegrifs, sein Mangel an Demokratie hat sish fürchterlich gerächt: er hat den deutschen Geist zum Opfer einer Staatstotalität gemacht, die ihn der sittlichen Freiheit zugleich mit der bürgerlichen beraubt.“; ibid., S. 856)
「ドイツにおける精神の政治的真空状態、文化市民を自負するドイツ市民のデモクラシーに対する不遜な姿勢、自由を過小に評価して、自由という言葉を西洋文明の生み出した修辞の一常套句としてしか見ようとしないその態度、これらが他ならぬこの文化市民を国家と権力との奴隷に、全体政治の単なる手足にしてしまった。」(„Das politisch Vakum des Geistes in Deutschland, die hoffärtige Stellung des Kultur-Bürgers zur Demokratie, seine Geringschätzung der Freiheit, in der er nchts als eine Phrase westlicher Zivilisationsrhetrik sah, hat ihn sum Staats- und Machtskleven, zur bloßen Funktion der totalen Politik gemacht und ihm in solche Erniedrigung gestürzt,“; ibid., S. 857)
それは、「ヒューマニティーの政治的側面に関するドイツ市民の盲目が招き寄せた、現在のこの最悪の結果」(„diese äußerste Folge seine Blindheit für die politische Seite der Humanitat eine harte“; ibid., S. 857)であり、同時に、
「政治から自由でありたいと欲したドイツ的精神が結局は政治の脅威の中で破滅していくというパラドックスは、いつもただ宗教と精神の分野においてのみ革命を認め、政治的な領域においてはそれを憎悪し、軽蔑してきた反革命家たるドイツ精神」(„das Paradox des Unterganges, des deutschen Geistes, der politikfrei sein wollte, im Terror der Politik vollendet sich in dem schauerlichen Phänomen, daß er, der Anti-Revolutionär, der Revolutionen immer nur Religiosen und Geistigen kannte,“; ibid., S. 858)の宿痾だった。
ファシズムの一種としてのナチズムが、国家による戦争目的そっちのけのユダヤ人大量虐殺に至る経過には、政治的合意形成をめぐる、ドイツ特有の政治風土、国民性に根ざした根深い問題が宿っている。[完]
☆『文化と政治』は池田紘一訳(新潮社版全集、第11巻)に拠った。
と主張はしているものの、ではその隔離や監視をするために人権を制限する法改正に彼らが賛成するのだろうか。この点が一番大事なことで、Covid19を抑え込んでいる中国、韓国、ニューヨークは、隔離の徹底が行われているのであって、「日本モデル」に欠けているのは、人権専門家の意見に配慮する結果、感染したと疑われる人の隔離の徹底が行われていないことである。陽性患者の自宅療養を許しているというのも、感染者の人権を重んじる結果である。このCovid19は発症前の感染者の感染力が一番強く、その人々の人権を重んじるから家庭内感染が増えているのであって、市中を自由に行動させていると、市中内感染が増え、感染が拡大する一方である。
そのことを、マスコミに登場される専門家は抑えた上で、法律の改正を視野に入れた上で、「PCR検査万能主義」を主張しておられるのだろうか。
トーマス・マンが亡くなってから、どれだけの年月が経っているのだろう。
その間に、学問も進歩する。
メルケル首相の2019年の統一のスピーチで彼女が「トーマス・マンの名前」をあげて主張されているように、
ドイツ人は政治的に成熟している国民だからこそ、旧東独の民主化運動の
末に、平和裏に東西ドイツは統一することができたのである。
学問は進歩する。そうでなければ、学者の存在意義はない。
時代を超えて通用する真理、それを表現できる人が、偉人、天才なのであるが、それは哲学者とは限らない。
その具体的な偉人、天才の名前が、反氏と私ではまるで違うのである。
また、感染させる期間というのは、通常の市中感染の場合、1週間ぐらいなのだから、その短期間感染の疑われる人を一般市民と隔離していれば、「緊急事態宣言」、「休業要請」などの大騒動をしなくても、感染拡大は防げるのである。どうして、感染したと疑われる人、の1週間の隔離、ということが、実行できないのだろう。発症後も、ほとんどの人は、軽症なのだから、特段の入院加療の必要もない。ホテルのような場所で、体温を測り、酸素濃度をはかって、急変したら、病院のナースコールのようなシステムで連絡する、そのシステムを構築すればいいだけである。
とにかく専門家と称するマスコミ報道の影響で、日本はとんでもない社会になりそうだ。
無発症者への対応で消耗し、発病者・重傷者への対応がおろそかになることが、懸念されます。 愛知県の陽性者率も加えました。
【東京都】 6.5%(2日)←6.5%(1日)←6.5%(31日)←6.5%(30日)←6.6%(29日)←6.5%(28日)←6.5%(27日)←6.5%(26日)←6.3%(24日)←6.7%(21日)←6.5%(20日)←6.0%(19日) ←←6.1%(12日)
【都内重症患者数】 15名(3日)←15名(2日)←15名(8月1日)←16名(7月31日)←22名(30日)←22名(29日)
【大阪府】 9.2%(3日)←9.3%(2日)←9.3%(8月1日)←9.9%(7月31日)←10.5%(30日)←10.1%(29日)←9.8%(28日)←9.4%(27日)←6.6%(22日)
【愛知県】 10.1%(2日)←14.8%(1日)←19.4%(31日)←17.9%(30日)←12.2%(29日)←15.9%(28日)←12.0%(27日)←9.8%(26日)←17.0%(24日)
皆さん、ご安心を❢❢❢ 感染爆発の兆候は、いささかとも見られません。
元気に社会文化経済活動に励みましょう❢❢❢
スェーデンのコロナ対策は、個人的にはすばらしいなと感じていたのですが、大失敗だとはやしたてる欧米メディアの声頻りでした。大成功といえるかわかりませんが、成功であったと思っています。
感染者数の比較はほとんど意味がありませんが、死亡者数の比較は結構重要です。何もコロナ対策をしなかったスェーデンの死亡者数は、日本の約70倍で、ロックダウンやジタバタした英国は、85倍でほとんどかわりません。
何度でも繰り返しますが、侵入した生物は、どんな物理的抵抗にあっても行きつくところまでいって、沈静化するのです。宿命です。それが❝生物の生態原理❞なのです。EltonやHutchinson, MacArthurらの仕事をあまりにも早く忘れてしまっている。
今、日本国内の地方都市知事間で各種緊急宣言がだされたりしていますが、スェーデンのそれこそ❝民度の高い❞ ❝無為無策の方策❞を参考にされるのが一番よろしいかと考えます。ウイルスは、侵入するときには侵入するものです。しかたなく発病した人には厚い医療補助が受けられるような体制を整えておくことが最良の政策でしょう。
文春On Line でスェーデンの集団免疫論の話題が論じられていましたので、文春記事とは違った視点から、わたしの考えることを書きました。
【米カリフォルニア州、新型コロナ新規感染者や入院が減少=知事(ロイター3日)】
実は、2日の記事についてアメリカのコロナ状況にコメントしようと思ってたのですが、今日のyahooに3日付のロイターで州知事の発言がのってました。
米疾病対策センター(CDC)も「米国のコロナ支社増加ペースが加速」と伝え、ホワイトハウス、コロナ対策顧問を務めるデボラ・バークスも「米国の地方都市にもコロナ感染が❝以上に拡大❞しており、現在の状況とは3~4月とは異なり、感染が以上に拡大している」と指摘し、「非常に重大な局面にある」と語っているのですが、現場の本当はいかがなものでしょうか❔
カリフォルニア州知事のニューサム知事は3日の定例会見で州内の感染状況について「新規感染者や入院、ICUを利用する割合がすべて低下傾向にある」と説明したそうだ。
おそらく、カリフォルニア州のコロナ感染も峠を越えたのでしょう。
誰かがウイルス弱毒化の可能性を指摘していましたが、わたしは、むしろ医療経験と医療対応技術の向上が大きく貢献しているのではないかと思っています。
したがって、CDCは「地方都市に感染が拡大していますが、死亡率は圧倒的に低くなってきていますので発病に気を付けて、安心ください」と伝えるのが本当でしょう。
❝これまでの季節性インフルエンザと比べ、新型コロナの深刻さについて、専門家の間でも見解は分かれているようだ。、、、参考のために公表数字を見ておこう。❞として、【主要国の新型コロナウイルスと2017年の季節性インフルエンザの死者数】を表にまとめている。
日本の 新型コロナによる死者数は 1006人
季節性インフルエンザによる死者数は 38951人
少なくとも、日本人にとっては2017年のインフルエンザよりも30倍軽症のコロナのために400件以上の倒産を引き起こし、日本経済社会文化を沈没させ、慌てふためく必要がどこにあろうか。
政府内閣は、できるだけ早く「国家安全宣言」をだして、コロナ恐怖から衆民を解き放ち、注意深くもとの安らかな日本国にもどろう❢❢❢
感染爆発を煽る提言は霧消と消えた。
国内すでに1000万人が感染していて、なおかつ発病者はきわめて少ないし、死者も少ないのである。
私たち現代の日本人も、それを教訓にし、「コロナ危機」などと騒いで、日本経済を破綻させないことが重要である。また、救済者のふりをして嘘八百を並べるペテン師、声の大きいデマゴーグ政治家、ポピュリスト政治家に権力を与えないように気を付けなければならない、と思う。
戦前の日本人は、それに失敗したのである。そして、現在の日本にも、そのタイプの政治家が、マスコミを巧みに操って、人気者となっているのではないのだろうか。我々に必要なのは、冷静で、客観的な、「ほんとうの政治家」を評価する目である。
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