前回に記事を書いたときに、7月末の新規陽性者数に注目したいということを書いた。正直、東京で新規感染者の増加が止まるかどうかの期待があった。しかし、残念ながら、7月最終週に逆の傾向が見られて、7月は終わった。この様子を、実効再生産数の動きで見てみよう。
https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/
7月上旬に高い数値を示しながら、その後は緩やかに鈍化する傾向を見せていたにもかかわらず、実効再生産数1を下回るかもしれない直前の7月下旬で、反転した様子を示している。
4連休のところで反転した形になっているが、「4連休中に会食やアウトドアなどで外出した若い人の感染が多くみられる」(都の担当者)と伝える記事も見られた。https://news.yahoo.co.jp/articles/b078f1691cb57239f9facb6794a45219f3257bdb この観察が正しいとすると、魔の4連休だったと言えないこともない。が、その程度のことはいつでも起こるということだ。実効再生産数を1以下にするのは、簡単ではない、ということなのだろう。
結果的には、7月の東京の動きは「西浦モデル2.0」にそったものとなった。4月と同じ陽性者の拡大が7月に発生するという点に特化した意味での「西浦モデル2.0」は現実のものとなった。
ただしもちろん、重症者数や死者数は、依然として抑え込めており、「日本モデル」の努力は、まだ続く。「日本モデル」は、最初から重症者・死者数の抑制を優先的に目指しており、そこが破綻しているわけではない。
だが7月のレベルの行動変容では陽性者数の拡大を止めることができなかったという経験は、受け止めなければいけないだろう。
検査数の大幅増加などがあり、4月の陽性者数と7月の陽性者数を絶対数で比較することは難しいし、あまり意味がないと私も思う。ただし、7月に感染拡大の傾向があったこと自体を否定するのも難しい。検査数を増大させて無症状者を数多く拾うようになったといっても、発症者が検査を受けなくなったわけではない。7月の陽性者数にも、ある程度のトレンドが反映されていると考える方が自然だろう。
今後も「西浦モデル2.0」の通りに進むと、「人と人との接触の削減」措置を導入せざるを得なくなる。そのため多くの方々にとって4月の「緊急事態宣言」が成功体験として思い出されるようだ。
だが、今も小池知事の午後10時以降の自粛の要請に従わないと表明している飲食店があると報じられている。新型コロナによる死亡リスクが、高齢の基礎疾患の保持者と、健康な若者では全く異なることも、すでに広く隅々にまで知られている。あらたに行う緊急事態宣言が、4月と全く同じように進むかどうかは、不明だ。強制力のない自粛に頼る緊急事態宣言は、国民の間に団結心のある危機意識がある場合には効果が高いだろう。だが、そうでなければ、いたずらに自粛警察の活動だけに勢いを与えるだけで、ただ産業間対立や世代間対立を助長するだけで終わってしまう可能性も相当にあると思う。
私としては、これまでの「日本モデル」の発展延長線上でも、まだまだやれることが沢山あるとは思っている。たとえば「三密の回避」は、広く知られるようになったが、「密閉」の回避が十分に継続的な「換気」を必要とすると解釈できている人が実はまだ少ないことが、7月のクラスター例などから明らかになった。「三密の回避」提唱の国として、残念だ。実際に起こった感染例を豊富に紹介しながら、「三密の回避」をどのように日常生活に応用していくべきか解説するような試みが、もっと情報をもっている当局から出されていいのではないか。
今の重症者の増加が低い間に、新型コロナ特別措置法を改正し、緊急事態を裏付ける憲法改正もして、本当の危機に対する備えを取っておくべきであることも当然だ。
野党は、内閣支持率の低下だけを見て気勢を上げる政党から脱皮するためには、建設的な議論を行って、法改正と憲法改正に協力すべきだ。一部報道では、自民党も新型コロナ問題を国会で扱うことに及び腰だとされる。論外だ。今のうちに、次の一手の準備を、挙党一致で行っておくべきだろう。
こう言うと、野党系マスコミ勢力は、改憲は必要ない、必要なのは全国民毎週PCR検査だ、といった夢想的なことを主張する。マスクの配布が遅い、定額給付金の振り込みが遅い、と批判し続けている方々が、なぜ全国民毎週PCR検査を、天文学的な財政負担や反対者に対する取り締まりもなく、とにかく何の混乱もなく、実施することができるなどと主張することができるのか?
憲法9条論争と同じだ。悪いのは憲法9条(を絶対平和主義の条項と解釈する憲法学通説)ではない、悪いのは現実だ、現実が憲法学通説に従えばいい、という論法と同じではないか。悪いのは全国民毎週PCR検査の提案ではない、悪いのはそれに円滑に実施しない現実だ、現実が自分たちの案に従えばいい、という論法なのである。
「中国にできた、日本にできないなら、日本は途上国だ」、といった昭和世代の叫びも、聞き飽きた。中国は、全国民を完全管理している21世紀の権威主義超大国なのだ。日本とは違う。現実を受け止めるべきだ。
ベストセラーになっている門田隆将『疫病2020』でも引用されている「日本モデル」の参謀役といっていい押谷仁教授の言葉を思い出してみよう。
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「日本に住む全員を一斉にPCRにかけないといけないことになる。それは到底できないので、戦略としては、クラスターを見つけて、そのクラスターの周りに存在する孤発例を見つけていく。そしてその孤発例の多さから流行規模を推計して、それによって対策の強弱を判断していく、という戦略になります。・・・
多くの感染者が軽症例、もしくは症状のない人だということを考えると、すべての感染者を見つけなくてもいいということになります。インフルエンザとかSARSといったウイルスとまったく違うのは、この多くの感染連鎖が“自然に消滅していく”というウイルスだということです。・・・
感染者が急増している状況の中で、PCR検査が増えていかないという状況にあるのは明らかに大きな問題です。このことは専門家会議でもくり返し提言をしてきて、基本的対処方針にも記載されていることです。いくつかの地域では自治体、医師会、病院などが連携して検査や患者の受け入れ体制が急速に整備されているという状況です。そのような地域では事態は好転していくと私は信じています。」(163、167~168頁)
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「日本モデル」が重症者の抑制を優先目的にして進んで生きているのは、最初期の段階で押谷教授がそれが理論的に最高だと判断したからではない。
2月下旬に押谷教授らが「専門家会議」で招集されたときには、もう感染拡大の封じ込めそれ自体は不可能だった。だから、今のやり方を、現実の範囲内で最善の方法を目標として設定したのだ。
門田氏が言うように、2月下旬の段階ですでに、「日本は、ウイルスを可能な限り追い、それを潰していくという台湾のような戦略は到底採れない状況になっていた」(166頁)からなのである。
2月下旬の所与の現実の中で、適切に最善の「日本モデル」を設定し、努力を積み重ねてきた押谷教授らに対して、「どうやったら感染者をゼロにできるのか道筋を示せ、俺の全国民毎週PCR案は、非現実的で夢想的だが、机上の空論としては感染者をゼロにできる案だ」、などと威張ってみせることには、何の意味もない。
最近、「旧専門家会議」「分科会」メンバーに対する風当たりも強まってきたようだ。しかし、私自身は、7月の現実を受け止めたうえで、引き続き頑張っていく押谷教授ら「旧専門家会議」「分科会」メンバーを、引き続き支持していきたい。
コメント
コメント一覧 (172)
私には、何らかの「権限」があるわけではありませんが、名誉棄損・侮辱、脅迫等の犯罪的言動等に該当しない限りは公権力から規制を受けない自由に表現をする「権利」はあるように思います。もちろん、当該表現に対して他者からの批判を受けない「権利」があるわけではなく、当該表現に対して批判をする言論もまた自由です。寧ろ、各人の自由な言論によって真理に到達するという「思想(言論)の自由市場」論からすれば、批判をする「権利」も、名誉棄損・侮辱、脅迫等の犯罪的言動等に該当しない限りは保護されるべきだと考えます。
また、西浦博教授や山中伸弥教授の死亡推計は「何も対策をしなければ」という前提条件が付された推計値であり、将来予測をしているわけではありません。もちろん、現実離れした前提条件という批判はあり得るとは思いますが、科学者に対して釈迦に説法かもしれませんが、「モデル」というのは多かれ少なかれ本来的にそのような性質を有するものであり、割り引いて考えるべきものなのです。
最後に、日下部眞一氏にはあるのかもしれませんが、少なくとも、専門外の私には、感染症数理モデルの日本における第一人者やノーベル賞受賞者に対して「アホ科学者」と称するだけの専門的知見は全くありません。ただ、専門外とはいっても、感染症対策は単なる自然科学の分野に留まらない領域に亘る問題であり、危機管理の一般論や政府の責務等について言及するのは問題ないと考えております。また、政府や分科会を批判をするにしても、原資料を確認して政府や分科会の現状認識を確認することは重要なことであり、資料を紹介した次第であり、私も政府や分科会の提言内容に全面的に賛同するという趣旨ではありません。
検査対象者の大半が症状のある者や陽性者の濃厚接触者(現在では無症状の場合を含む)に限定されていることからすると、市中感染率は陽性率よりは相当に低い可能性が高く、厚労省等による抗体保有調査の結果をみる限り多くても1%程度ではないかと思われます。これでは集団免疫に至るには程遠いように思います。なお、ダイヤモンド・プリンセス号における結果はクルーズ船内という密閉空間における感染のし易い特殊な環境下のもので、これをもとに市中感染率を推計することは素人ながら適切ではないように思います。
Eine Münchner Ärztin und ihre Corona-WarnungenHätte die Welt nur auf diese Frau gehört
一人のミュンヘンの女医と彼女の警告、もし、世界が彼女の言うことをきいていたら。https://www.spiegel.de/wissenschaft/medizin/coronavirus-die-rolle-der-scheinbar-gesunden-infizierten-a-42db60ea-030d-4263-9a9d-270cf15a7269
Ein Interview von Julia Merlot
01.07.2020, 00.32 Uhr
私は、このニュースが電子版に報道されたとき、すぐにコメント欄に翻訳して載せたので、発症する前、熱が出る前の無症状者がCovid19は移すんだな、と最初から思いつつ、コメントを書いてきた。この記事にはこうある。
女医のCamilla Rothe さんは、症状のない人がコロンウィルスを感染させるという最初のヒントを発見した。しかし、当局は彼女の観察結果を無視した。そして・・・
https://www.law.nihon-u.ac.jp/publication/doc/law78_1.pdf
なお、カロリーネ氏については全ての間違いを逐一指摘していたら膨大な量になりそうですが、コメント75・76の「自宅介護」は「自宅療養」ではないでしょうか。
❝balance of nature❞ というのは生態学の著作によく出てくる言葉だ。G.E.HutchinsonのAn Introduction to Population Ecology を開いてみると、「動物たち、とくに昆虫たちはさまざまな自然の災難がたえず働いて、その数を適切なレベルまで減少させ、したがって自然の調和(producing a balance of nature)をうみだす」とあった。これは1700年ころの文書の一節である。
「検査と隔離」。そして「排除と融和、共存」。これに国民がどう理解を示すかが、これからの❝コロナの行へ❞なのだろう。
医学的には「検査と隔離」が、原理であり、感染症分科会もこの原理で動いているのである。最近、メディアデヴィユーしている小林慶一郎もしきりに❝「検査と隔離」を徹底的にやらないと経済活動が安心して進んでいかない❞と主張しているから、間違いないだろう。
しかし、何度でも言ってるように、日本社会からコロナを排除することはほぼ不可能である。それは❝効果の弱い変異体ほど広く、長く集団に保存される❞という集団遺伝の原理(Haldane-Mullerの原理)なのである。
ならば、コロナとうまい付き合い方を探ったほうが、よりよい方策であろう。
「排除」ではなく「融和、共存」。かつて、環境問題はなやかかりしころはあたりまえの考え方だったように思うが、一世代もたつと様変わりだ。本当に❝あべこべの世界❞に入った不思議の国のアリスなのである。
この一か月の都市部の陽性率を観察すると、おそらく高く見ても10%+-5、くらいの頻度であろう。ならば、発病に対する医療補助に特化して、自由放任する方策をとるのが得策ではなかろうか。国費、国力の無駄を最小限に抑えるために。
私の間違いを批判ばかりしている人は、木ばかり見て、森の見れない人、なにが本当に大事なのか、がわからない人なのだと思う。この場合の自宅療養と自宅介護は、立場の違いによる表現の差だから許されるが、病院のあきがないから自宅療養でなどという、スーパースプレッダーを生み出してしまいかねないような小池知事のCovid19ウィルスの認識の間違いを許容していいのかどうか、少し考えていただきたい。東京知事の間違った認識によってどれだけ東京都周辺、日本中で重症患者、犠牲者が出るか、感染爆発を起こしかねないか、少しは考えていただきたい。
ある種の確立した「専用用語」について、勝手に自己流のイメージで別の言葉を代用するのは議論の混乱を招きます。
(参照・厚労省の事務連絡等)
https://www.mhlw.go.jp/content/000618529.pdf
https://www.mhlw.go.jp/content/000618525.pdf
https://www.mhlw.go.jp/content/000639692.pdf
下記のとおり誤記を訂正します。
(訂正前)専用用語→(訂正後)専門用語
今、報道1930に児玉龍彦、東大名誉教授が出演されて、説明されている。東大名誉教授であろうがなかろうが、児玉龍彦のエピセンター仮説は、Covid19ウィルスのメカニズムを正しくとらえていない。なにがメカニズムから考えてなのだろう。東大名誉教授の方式は、ウィルスを一つ一つ徹底的にたたく、という欧米方式の消耗戦である。感染者の80%が感染させず、スーパースプレッダーが多数に移す、というCovid19ウィルスのメカニズムを考えれば、一人の感染者の大量感染を防げば、隔離すれば、エピセンターは0にはできなくても、収束し、地方に拡散しない。小池知事が、隔離なしの欧米方式のPCR検査方式を取られるから、感染が拡大しているのである。その根本が、同じく欧米かぶれの児玉龍彦東大名誉教授にはわかっていない。感染力に差があるのに、感染者すべてを等価で扱い、人、物両方の資源の無駄遣いをしている。押谷教授は現場を知っておられるから、Covid19のメカニズムを熟知されておられるから、「日本モデル」を選択されたのであって、ことCovid19感染症に関しては、尾身・押谷ペアーのモデルの方がずっと素晴らしいのに、その素晴らしさを日本のマスコミはわかろうとしない。一体どうなっているのだろう。合理的に物事を考えず、肩書で判断するからそうなるのだと私は思う。
❝まさかと思うようなこと❞
❝信じられない❞というようなことが自然界の真理を語っている。
平凡からは非凡は生まれない。
それだけ多くの非凡なる自然現象、自然真理を見逃しているということか。
❝なお、ダイヤモンド・プリンセス号における結果はクルーズ船内という密閉空間における感染のし易い特殊な環境下のもので❞
と、思い込むことによって自然の真理を見逃していく。
真理を見る眼をもたないものの眼には、自然の真理は姿を現さない。
79⇒【一人で700人も移したスーパースプレッダーがいて】とは、ダイヤモンドプリンセス号の集団感染を指すのだろうが、「コロナ狂い」の老婆の憐むべき論理的思考力の水準を物語っている。
最初の感染源が香港で1月下旬に下船した後に発症した中国人男性であるということとと、その男性から700人に感染したということとは、論理的に別だ。
つまり、クルーズ船の感染者の初期段階の接触状況を網羅的に調べ、その濃厚接触者を辿ったとしても、多くの感染者は各段階の別の感染源による伝播だろう。言い換えれば、香港の男性からの感染者(一次感染者)と、この一次感染者からの感染者(二次感染者)、さらにその二次感染者からさらに伝播して(三次感染者)、最終的に700人を超す集団感染が短期間に、クルーズ船内という特異な環境も手伝って起こったということだろう。
感染したウイルスの遺伝子の塩基配列を解析して、所謂「武漢株」と、のちに国立感染症研究所が突き止めているが、最初の中国人男性からの直接の感染者が700人に上るという見解は示されていないはずだ。
その場合、「中国人男性から感染した」というのは、単なる類比的な表現で、厳密には複数次に及ぶ感染の各段階で経路、分岐を辿っていけば、中国人男性に行き着くというだけのことで、中国人男性が1人で700人に感染させた、「ハイパーsuperspreader」ということにはならない。
それが論理的に考えることだろう。superspreader探しに魔女狩り(ἡ κυνηγία φαρμακίδα)の感覚で躍起になっている婆さんのお頭の憐むべき惨状を端的に示している。
東京都も検査結果に基づいて適宜、入院、療養施設での隔離や自宅待機による経過観察を行っており別に放置しているわけでもないし、国や分科会の方針と異なっているわけではない。
昨日も8件、「クズ」なりに少しはものを考えて投稿することだ。
そもそも老婆は、ドイツの近代化に絡む必然的な要素としての、顕著な知識階級の非政治性、民主的合意形成の伝統が希薄なゆえの政治への退嬰的姿勢について、ほとんど何も知らない。
非政治性(ohne politishes Engagement)に加え、「ドイツ教養市民層」(der deutsche Bildungsbürger)という、学問的テーマを支える言葉さえ知らなかったくらいで、現在のドイツの政治的地位の向上をもって反論が可能なような錯覚している。そして、政治的未熟さゆえに、国家が未曽有の危機に見舞われた時に暴走することは、ナチズムによる国家権力の簒奪を許したばかりでなく、国家、国民ぐるみのユダヤ人大量殺戮のような政治や社会の狂気を許す要因にもなっていることを、何ら認識していない。
逆説的に言えば、ドイツは世界有数の知識層を有したものの、彼らの政治的未熟さがナチスの暴走を結果的に許した、ということだ。おぞましい歴史の惨劇は、豊かな文化、学術上の成果を生み出した「にもかかわらず」ではなく、文化的活力を有したものの、それを民主制的に統御する政治的知恵、成熟を「欠いていたがゆえに」起きた、特異な国民性がもたらした半ば必然的な失敗、悲劇ということだ。
1914年、第一次世界大戦が勃発すると、多くのドイツの知識人は戦争を熱狂的に歓迎した。彼らは大戦を西欧的啓蒙主義に対するドイツ精神の戦いと捉え、「1789年の理念」に対抗する「1914年の理念」と称して「93人の知識人宣言」を行い、熱烈に戦争を支持した。マンも基本的に同じ立場から、『魔の山』を中断して政治的マニフェスト『非政治的人間の考察』(„Betrachtungen eines Unpolitischen“, 1918)を執筆した。
この外面的な「文明」に対して内面的な「文化」を対置させる二項対立的なドイツ的思考の枠組みは18世紀以来、主に市民層によって自らのアイデンティティーを支える概念としてさまざまな文脈で用いられ、それが遅れた国家統一や近代化をドイツ的に正当化するイデオロギーとしてナショナリズムを触発する役割を果たした。
ドイツは、普遍主義、合理主義、進歩主義、皮相と形容される物質主義を西欧型文明、「協商側」の思想的性格を象徴する概念として、それに対抗する民族的イデオロギー、ドイツ性のスローガンに押し立て、第一次大戦の勃発に伴って、ドイツの知識人はそろってこの二項対立の基に、戦意高揚に動いた。
そこにいう「教養ある市民」という概念には前史がある。つまり、ドイツが急速に推し進めた跛行的な近代化の過程で、君主制的、官僚主義的国家に熱心に順応したのと引き換えに、自らが政治担い手であることを断念するに至ったドイツの市民(Bürger)の概念は、ヘーゲルやマルクスがフランス語のブルジョワ(bourgeois)に相当する言葉として置き換え、俗物(Spießbürger)と揶揄した有産階級を指す。
こうした豊かで教育水準も高い都市市民階級は、政治的実権を失って非政治化する一方で、普遍的な国家臣民(Staatsbürger)として次第に平等を主張する労働者層によっても社会的地位が脅かされ埋没することに危機感を抱き、単なる市民とは区別される存在として「教養」(Bildung)を自らの存立と社会的優位性の基盤と考えるようになったドイツ特有の事情を反映している。
第一次大戦の祖国の敗北を経て、政治的には民主制の擁護者に転じる以前の教養市民層(der Bildungsbürger)であったマンにとっても同様で、「共和国」とか「デモクラシー」という啓蒙主義的西欧流民主制思想は、政治的無関心を許さず、「危険で有害なものに心をひらいていること」(dem Gefährlich-Schädlichen offen→「それとも人間は自由で、しなやかで、柔軟で、親しみやすく、謙譲で、そして害を及ぼすような危険なものに対して心をひらいておくべきなのだろうか?」=„oder soll er frei, weich, bildsam, zugänglich, demütig und dem dem Gefährlich-Schädlichen offen sein ? “; „Betrachtungen eines Unpolitischen“, T. Mann n Gesammelte Werke in dreizehn Bänden, Bd. 12, S. 390)を許容しない態度、あらゆる精神的価値を政治的価値から判断する「精神と政治の一致」を意味していた。
別に表現すれば、平板な西欧啓蒙主義的な「理性の尊厳に基づく人間愛」(Humanität er Vernunftwürde)を拒否して、豊かなドイツの文化、精神に息づくものを志向する立場、「芸術が政治化され、精神が政治化され、倫理が政治化され、概念が、あらゆる思考、感情、意志が政治化される――こんな世界に生きたいと思うものが者がいるだろうか? 自由が――普通平等選挙権を、ただそれだけを意味するような世界に住みたいとなどと思う者がいるだろうか?」
マンが自身も親しみ絶対的な価値観を置いていたのはそうした政治に対する違和感であり、根源的な不信だ。だから、理性主義的で啓蒙的な文明と政治(デモクラシー)に対抗して、有機的で保守的な文化と非政治性、畢竟精神の領域を擁護しようとしたのが民主制の擁護者に転じる以前のマンのみならず、ドイツの圧倒的多数派の有識者層の共通した認識だった、ということになる。
だから、それに批判的な英米派的志向が強かったマックス・ヴェーバーが孤独な闘いを強いられたし、西欧派のマンの兄の作家ハインリヒは、「文明の文士」(Zivilisationsliterat)と揶揄された。
マンは「政治化した精神」(der Geist politisiert)はフランスや英国が体現する「ローマ的西欧」(Der römishen Westen)のものであり、その特徴はその独善性(Rechthaberei)にあるとする。
ローマ的西欧が、高潔な身振り(die genoröse Geste gehört)と美しい言葉(das generöse Wort)で人間性を語りデモクラシーと革命を賛美する「文学的」(literarisch)な存在であるのに対して、ドイツは対抗する理念を言葉で表すことができない「非文学的」(unliterarisch)な存在であるとマンは述べる。
マンが自身も親しみ絶対的な価値観を置いていたのはそうした政治に対する違和感であり、根源的な不信だ。だから、理性主義的で啓蒙的な文明と政治(デモクラシー)に対抗して、有機的で保守的な文化と非政治性、畢竟精神の領域を擁護しようとしたのが民主制の擁護者に転じる以前のマンのみならず、ドイツの圧倒的多数派の有識者層の共通した認識だった、ということになる。
だから、それに批判的な英米派的志向が強かったマックス・ヴェーバーが孤独な闘いを強いられたし、西欧派のマンの兄の作家ハインリヒは、「文明の文士」(Zivilisationsliterat)と揶揄された。
マンは「政治化した精神」(der Geist politisiert)はフランスや英国が体現する「ローマ的西欧」(Der römishen Westen)のものであり、その特徴はその独善性(Rechthaberei)にあるとする。
ローマ的西欧が、高潔な身振り(die genoröse Geste gehört)と美しい言葉(das generöse Wort)で人間性を語りデモクラシーと革命を賛美する「文学的」(literarisch)な存在であるのに対して、ドイツは対抗する理念を言葉で表すことができない「非文学的」(unliterarisch)な存在であるとマンは述べる。
「ローマ的西欧は文学的なのだ。このことによって、ローマ的西欧はゲルマン的――と言うか、もっと正確には――ドイツ的世界から区別される。ドイツ的世界はたとえどのような性格があるにせよ、絶対に文学的ではないからである。文学的な人間愛、ローマの遺産、古典的精神、古典的理性、高潔な身ぶりを伴う高潔な言葉、人間の美と尊厳をたたえる、美しい、心を高揚させる、人間にふさわしい成句、」(引用続く)
そこにはドイツの近代の特異な困難さが横たわっている。政治はどんな美辞麗句で飾り立てても、常に闘争の過程にある。マンにあったのは、一方で文明に対する文化の優位性を誇示しながら、否定できない祖国の「非政治性」という現実だった。
そして、ドイツにあるのは頑なな確信だけであり、「言葉をもたなければ、人類を導くことはできないし、巨人のような勇気は、それが目指す理想が明確に表現されていなければ、野蛮である。生を人間に相応しいものにするのは言葉だけである。言葉を持たないというのは、人間に相応しくなく、非人間的である。」(„Man kann ohne Wort die Menschheit nicht führen. Riesenhafte Tapferkeit ist barbarisch ohne ein wohlartikuliertes Ideal, dem sie gilt. Nur das Wort macht das Leben menschenwürdig. Wortlogigkeit ist menschenunwürdig, ist inhuman.“; ibid., S. 50)という認識だった。
ドイツは哀れな国である。[完]
アメリカはニューヨーク市を除いてできていないから、ワーストなのである。
また、日本のマスコミは、日本の感染者が増えた、と大騒ぎしているが、ヨーロッパの文明国とされている国、ルクセンブルグ、ベルギーの国々の方がよほど急速に増えていて、その理由は「無症状者を見落としたため。」であることをコメント欄で紹介したが、日本は、クルーズ船の経験で、無症状者も感染している場合がある、と認識していたから、諸外国と比べて感染者を抑え込むことに成功し、これだけの犠牲者ですんでいる。
とにかく、ワイドショーについても言えるが、報道番組に出ているジャーナリストは、Covid19について、基礎知識や勉強が、あまりにも不足しているのに、みんなで渡ればこわくない、式の確信に満ちたアウトプットが多すぎる。そして、他人を大衆と、上から目線でバカにする。反氏はその一つの典型である。本の知識は異常にあって、批判はとても上手だが、「どうすればいいか。」の解決策の智慧がない。
現実生活で大事なのは、その解決策である。日本のマスコミは、批判だけしていればすんできた存在で、戦争責任を含めて結果責任をとらなくてすんできたから、こうなのだと思うが、軽薄そのもので、人間としてどうかと思う。「公共の福祉」に対する責任感がなさすぎる。
ドイツの場合、19世紀は、日本でいう戦国時代で、統一のために、覇権争いの為に、ドイツ人はいろんな戦争を体験してきているから、そのうちの一つという認識で、クリスマス前には終わるだろう、と政治家たちの間では考えられ、始まったものである。悲惨な結果に終わるとは、予想もしていなかったのである。そのことは、以前のコメントでも紹介した。セルビアがロシアと、ロシアが英仏と、逆に、オーストリアがドイツと軍事同盟を結んでいて、最後通告の期限までにセルビアがオーストリア皇太子の暗殺者をオーストリア政府に引き渡さなかったという理由で、始まってしまったのであって、トーマス・マンが主張するような文明の戦い、などを意図して、ドイツ人は戦争をしたわけでは全くないのである。
とにかく、トーマスマンの主観的なイデオロギーにからめとられてドイツ歴史を解釈するのではなくて、反氏には客観的な歴史の真実に目を向けてほしい。
愛知県の値は、7日移動平均に計算して記録しています。
すでに警告していたように、無発症者への対応で消耗し、発病者・重傷者への対応がおろそかになるような事態が報告されるようになってきました。
集団感染にご注意ください。
【東京都】 7.2%(6日)7.0%(5日)6.9%(4日)7.1%(3日)6.8%(2日)6.5%(1日);6.5%(31日)6.5%(30日)6.6%(29日)6.5%(28日)6.5%(27日)6.5%(26日)6.3%(24日)6.7%(21日)6.5%(20日)6.0%(19日)6.1%(12日)
【都内重症患者数】 23名(7日)21名(6日)21名(5日)22名(4日)15名(3日)15名(2日)15名(8月1日)16名(31日)22名(30日)22名(29日)
【大阪府】 9.2%(7日)9.1%(6日)9.1%(5日)9.3%(4日)9.2%(3日)9.3%(2日)9.3%(8月1日)9.9%(31日)10.5%(30日)10.1%(29日)9.8%(28日)9.4%(27日)6.6%(22日)
【愛知県】 16.4%(5日)16.1%(4日)16.6%(3日)15.5%(2日)14.1%(8月1日)13.7%(31日)13.4%(30日)12.7%(29日)12.7%(28日)11.8%(27日)11.2%(26日)10.5%(25日)9.6%(24日)7.9%(23日)6.9%(22日)6.0%(21日)5.5%(20日)
7.0%(5日)6.9%(4日)7.1%(3日)6.8%(2日)6.5%(1日);6.5%(31日)6.5%(30日)6.6%(29日)6.5%(28日)6.5%(27日)6.5%(26日)6.3%(24日)6.7%(21日)6.5%(20日)6.0%(19日)6.1%(12日)
連休効果が出ているのかもしれません。
東京都の重症者数には変化はみられないほどゼロですが、全国では7月に入ってから現在の15名まで増加を見せましたので、コロナの明らかな地方拡散なのでしょう。
マスク着用派かそうでないかで、トランプ支持、不支持を示すように、
PCR検査数を爆発的にふやすか、増やす必要がないの主張で、安倍支持、
安倍不支持が決まるのではないのだろうか。
「反安倍」勢力の野党系マスコミは、すべて、経済を回すためには、
人の命を守るためには、PCR検査数を爆発的に増やさなければならない、
増やさない日本政府は無能だ、と一斉に主張しているのだから。
それを、後藤慶一郎さんが説明されないから、誤解と混乱が日本社会で起こっているのではないのだろうか。
84の貴女のコメントを拝見して「きちんとした議論をするために用語(テクニカルターム、特に重要語)を押さえる必要があることも知らないこんな恥知らずのバ○に何を言っても無駄だ!」と思ったのですが、休日の朝からまたもや恥を晒しておられるようなので一言申します、「後藤慶一郎って誰ですか?」。
あと、ついでだから申しますが、80の「スーパースプレッダーを生み出してしまいかねないような小池知事のCovid19ウィルスの認識の間違いを許容していいのか」というのはなんですか?
貴女(というかクラスター対策班)の主張されるところによれば、SARS-Cov-2が消滅しない限り、小池知事の施策に関わらず、スーパースプレッダーは発生してしまうものではないのですか?
せめて「スーパースプレッダーを放置してしまうような施策を展開している小池知事のCovid19ウィルスの認識の間違い」と言えないものでしょうか?
貴女は大した表現の相違ではないと思われるのでしょうが、体系的な理解に関わる問題だと思います。
なお、いつも指摘を受けておられますが、句読点の打ち方や引用部分を明確にすることは、体系的な理解や叙述にとっても大切なことですよ。
誇りに思われている母校を貶めて申し訳ありませんが、関西学院大学ってア○のスクツ(←なぜか変換できない)かと、同校出身の妹を持つ身としては本当に悲しくなります。
「専門外ではありますが、日下部眞一氏の感染蔓延説は確かに一理あるとは思います。」
科学の仮説が世に受け入れられる道は、
①まず最初にまさか❢そんなバカな❢
②次に、❝確かに一理あるとは思います❞
③最後に、そんなことは、10年前から言われていた。
というような、3段階の過程をとると、世俗の科学史ではよく言われます。
わたしの、1000万人蔓延説は、やっと、2段階までたどり着いた様子です。
「検査対象者の大半が症状のある者や陽性者の濃厚接触者(現在では無症状の場合を含む)に限定されていることからすると、市中感染率は陽性率よりは相当に低い可能性が高く、厚労省等による抗体保有調査の結果をみる限り多くても1%程度ではないかと思われます。これでは集団免疫に至るには程遠いように思います。」
今度のコロナで重要なことは、従来の免疫概念が通用しにくいところにあります。それに気づかずになされる発言は、ほとんど意味がありません。自然免疫に対する集団免疫閾値をどのように設定できるのですか?
「なお、ダイヤモンド・プリンセス号における結果はクルーズ船内という密閉空間における感染のし易い特殊な環境下のもので、これをもとに市中感染率を推計することは素人ながら適切ではないように思います。」
これは、あなたが素人だから自然の真理が見えていないだけで、特殊な環境下であることは素人の科学者でもわかるはず。それで、なおかつ壮大なる自然実験の中から、どんな真理を見つけ出すことができるかが❝非凡であること❞の条件である。
しかし、❝非凡❞は、往々にして❝西浦や山中のホラ話❞も生み出す。
102では「『小池知事』がスーパースプレッダーを『生み出す』のか」とお尋ねしているのです。
検査と隔離の関係云々なら、先に「せめて~と言えないものか」と申しているではないですか。
それから重ねて質問いたしますが「後藤慶一郎」って誰ですか?
間違えても訂正しない、非合理的な文章を書きなぐっておいて、指摘や批判を受ければ「誹謗中傷」ですか、これまでずいぶんと「幸福な」人生を歩んで来られたようで、羨ましいかぎりです。
は、ただの10枚のスライド要旨で、感染症分科会の混迷を現しているだけだと思います。
私が問題と思うのは、新型コロナの危険性をどう評価するかということです。
それなくして、将来の政策は決めがたいと思っています。
いずれにしても、❝無為無策の策❞が進んでいますので、それなりに次善の策と悟って、仕事に専念しましょう。
そろそろ、TVメディアも❝感染爆発❞も起こりそうもないので、❝コロナ狂❞の話題に飽きてきたような気配を感じています。
❝感染爆発❞も起こりそうもないので、ともかくは良かったのでしょう。
米国では、人口10万人あたりのころな死者数が、
黒人・アフリカ系 74人;
ネイティブアメリカン・アラスカ先住民 40人;
ヒスパニック・ラテン系 40人;
アジア系 31人;
白人 30人。
だそうである。
これを世界各国の死亡者率と、どう矛盾なく解釈できるか?
しかし、国立感染症研究所の下記記事掲載の研究結果が本当だとすると、東大先端科学技術研究センターの児玉龍彦名誉教授の東京(新宿)エピセンター説が一部裏付けられたように思います。
問題は、今後の増加速度であり、また、どの程度の割合で重症化して医療提供体制に悪影響を及ぼすことになるかということのように思います。
https://www.yomiuri.co.jp/medical/20200808-OYT1T50126/
なお、従来の免疫概念が通用し難いという見解もあることは承知しておりますが、現時点で未解明の部分が多く仮説に留まる段階であり、それを理由に警戒を怠り公衆衛生上の対策を講じなくても良い理由にはなりません。
https://www.ric.u-tokyo.ac.jp/topics/2020/ig-20200716_1.pdf
「日本人研究者の黒田誠は、ダイヤモンドプリンセス号内での隔離期間の開始に先立って起きたある唯一の出来事に由来するのが、病原体の拡大(伝播)だと推定しているということ」(„dass die Ausbreitung des Erregers an Bord der “Diamond Princess” von einem einzigen Ereignis vor Beginn der Quarantäneperiode ausging folgerten die japanischen Wissenschaftler um Makoto Kuroda.“)を、婆さんが拡大解釈している。
[Erreger[s]] を、「ある一人だけ(の人間)」(einem einzigen)の「erregen([感染伝播を]呼び起こす)人」と恣意的に読み込んでいるようだが、要するにダイヤモンドプリンセス号での集団感染は、政府の対応にいろいろ批判のあった横浜港への接岸に「先立って、既に始まっていた」ことを、感染者の一部から採取した遺伝子情報、ゲノムの、塩基配列の解析によって突き止め(陽性者70人のウイルスのゲノム解析=‘In total, 70 whole-genome sequences have been determined’⇒ハプロタイプ・ネットワーク[haplotype network]の解明)、それが香港で1月25日に下船した中国人男性から検出された遺伝子の型と一致したという、国立感染症研究所の調査結果(National Institute of Infectious Diseases Field Briefing report)を基に、解析チームの責任者である黒田氏が、一定の首尾一貫した(folgerichtig)推定をした、ということだろう。
この中国人男性からの感染者が感染の連鎖を引き起こしたというだけのことで、[superspreader]云々は、所詮は形容詞=修辞的な意味で、元をたどれば一人の中国人男性が感染源であり、それ以外の塩基配列のウイルス株は発見されていない、という解析結果を提示しているにすぎない。
婆さんによる恣意的な読み込み、「ある唯一の出来事」(einem einzigen Ereignis)を、「ある一人だけ(の人間)による出来事」を裏付けるものは、専門誌PNASに掲載された論文の概要にもなく、[superspreader]云々の文言は、ざっとみたところ見当たらない(‘Here, we have generated a haplotype network of the SARS-CoV-2 outbreak using genome-wide single nucleotide variations (SNVs), identifying the genotypes of isolates that disseminated in the DP[Diamond Princess] cruise ship after quarantine on February 5, 2020.’)。
98⇒【89 …第一次世界大戦が勃発すると、多くのドイツの知識人は戦争を熱狂的に歓迎したという記述は、トーマス・マン個人から見た見方】というのも、事実を全く知らないか、無視する妄言の典型で、名立たる知識人、科学者が名を連ねた「93人の知識人宣言」がその歴然たる証拠だ。
フランス革命の「1789年の理念」に対抗するように「1914年の理念」を掲げ、その中には歴史家のマイネッケ(Friedrich Meineckek, 1862~1954)、経済学者のシュモラー(Gustav von Schmoller, 1838~1917)、同じく経済学者、社会学者のゾンバルト(Werner Sombart, 18631941)、科学者ではノーベル賞受賞者のレントゲン(Wilhelm Conrad Röntgen, 1845~1923)ら、マン(1875~1955)より年配の錚々たる顔ぶれが、ドイツ軍によるベルギーの中立侵犯を擁護する「宣言」を行った。
さらに、開戦を歓迎する「ドイツ大学教授のアピール」に3,000人を超す署名が集まった。詩人たちは戦争を讃えるように応じた、戦争(Krieg)と勝利(Sieg)、苦しみ(Not)と死(Tod)の韻を踏んだ詩が街にあふれたとされる。
無知な婆さんは、何も知らない。
そもそもマンも用いた、「文明」(Zivilisation)と「文化」(Kultur)の対立の構図は、20世紀初頭以来、ドイツで一世を風靡するように共有された図式だ。遅れて国家統一を果たし、国力を急速に増強させていったドイツにとって、それが「ローマ的西欧」(Der römishen Westen)の典型である英仏に対する対抗イデオロギーだったからだ。
それを西欧派(Westler)の「文明の文士」(Zivilisationsliterat)である兄ハインリヒや、スイスで平和活動を展開していたロマン・ロランが批判したとしても、マンには何の痛痒もなかった。むしろマンは、「政治化した精神」(der Geist politisiert)である西欧的政治観の独善性を鋭く批判し、年来温めていたテーマをこの機会に徹底して追求しようと『非政治的人間の考察』を書き始める。文壇や知識人の間で、マンが孤立していたわけでは、全くない。
それはむしろ、自らの思想的基礎を形成する役割を果たし人格として傾倒していたショーペンハウアーやニーチェの問題意識を再構築する形で、啓蒙主義的で偽善的な文明と「政治」=デモクラシーに対して、有機的で保守的、高貴な文化、非政治性の価値を擁護することで、詩人の立場からドイツ性を総体的に考えたということだ。
そしてそれが、マンならではの形をとるのは、市民的「諦念」(Entsagung)(「『市民』という概念そのものをその純粋な姿において再生させ、その品位を回復させる」(„Es ist mir zu tun um die Wiederherstellung des Begriff Bürger selbst in seiner Reinheit und Würde“; „Betrachtungen eines Unpolitischen“, T. Mann Gesammelte Werke in dreizehn Bänden, Bd. 12, S. 135)という視点と、芸術家の「イロニー」(Ironie)という発想だ。
「正義が、真理が、あるいは自由が行われよ、精神が行われよ――たとえ世界と生が滅ぶとも! 『そもそも真理は論拠たりうるのか?――問題は生であるのに』――この問いがイロニーの公式である。ここにはエロスが働いている。」(„Fiat justitia oder veritas oder libertas, fiat spiritus ― pereat mundus et vita ! So spricht aller Radikalismus. »Ist den die Wahrheit ein Argument, ― wenn es das Leben gilt ?« Diese Frage ist die Formel der Ironie.“; ibid., S. 568)
さらに、「急進主義者はニヒリズムである。反語家(der Ironike)は保守的である。ただし、保守主義がイローニッシュになるのは、それが自己自身を欲する生の声を意味するのではなく、自分自身を欲せず、生を欲する精神の声を意味する場合だけである。」(„Radikalismus ist Nihilismus. Der Ironiker ist konservatov. Ein Konservativisumus ist jedoch nur dann ironisch, wenn er nicht die Stimme des Lebens bedeutet, welches sich selber willl, sondern die Stimmedes Geistes, welcher nicht sich will, sondern das Leben.“; ibid. , S. 568)とも。
マンは『非政治的人間の考察』の序文の中で、その執筆過程を、「ある苦痛の本質、原因をたずねての探求、格闘、模索、霧のなかに踏み込んでの、そういう原因を向こうに回しての弁証法的な格闘」(„Dies Suchen, Ringen und Tasten nach dem wesen, den Ursachen einer Pein, dies dialektische Fechten in den Nebel hinein gegen solche Ursachen“; ibid. , S. 10)としている。
マンはその後にデモクラシーを擁護する立場に転じ、ファシズム批判の急先鋒となるが、凡百の作家の政治論を超えるのは、自ら設定した概念対立の構図やドイツ性の追求を、その芸術家としての弛まぬ営為によって超越し続けた果敢な作家魂だ。
老婆のような、お子様向きではない。[完]
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/corona5.pdf
また、下記は、令和2年8月7日付の「今後想定される感染状況と対策について」(新型コロナウイルス感染症対策分科会提言)です。
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/kongo_soutei_taisaku.pdf
以前のコメントでご紹介したものの最新版となりますので、分科会の直近の認識を確認したい方は、こちらの方をご参照下さい。
109. 政府解釈 2020年08月08日 17:20
しかし、国立感染症研究所の下記記事掲載の研究結果が本当だとすると、東大先端科学技術研究センターの児玉龍彦名誉教授の東京(新宿)エピセンター説が一部裏付けられたように思います。
本当かね、そうすると8月下旬は日本は、❝目を覆いたくなるような事態❞になってるわけね。事態を静観しようとするか。
なぜ、西浦博や山中伸弥が40万人感染爆発や10万人感染爆発を煽って、知らん顔してるの❓❓❓
科学者として、倫理に反してると思わない❢❢❢
何を言ってもいい世界だけど、信じられない世界になってきたよ❢❢❢
科学者というのは、それなりの節操があったと思うけど、しかたがないか、日本滅亡の時か❢❢❢
分科会提言では、最重要施設を「病院・高齢者施設」だとしています。これら施設を中核にして護るべき、対策を提言しています。特に重症者を治療する病院の院内感染は、絶対に避けなけらばならないことは言うまでもありません。このことが、再三文中に出て来ています
現状は、最近1週間で”重症者が徐々に増加傾向”です。これは、危険の予兆と判断できそうです(もうしばらく重症者数を観察する必要アリ)。本日発表の感染陽性者数も拡大傾向です。Gの個人的見解は、”人為で”感染拡大を抑制(接触制限などの自粛で)はできても、感染の拡大を止めることはできない< と見ます。
このまま感染拡大が続けば、あれもこれもはできません。優先順位を付けて対策を打つべきです(Gが考えるぐらいですから既にやっているでしょうが)。重症者治療のための医療体制を護ること最優先として、対策を打つことに特化することも考えなければいけません(ステージⅢ・Ⅳ対策用として)。
現状でも、降りかかる火の粉は払わなければなりません。感染源とされるクラスター・エピセンターを潰す対策をすることは、もちろん言うまでもありません。
れいせいに、見守ってたほうがいいよ。
マンは「反語的ドイツ人」(der ironische Deutsche)の本領を発揮して、人間性やデモクラシー、寛容さ(Toleranz)などといった高尚だけれども偽善的な理念が、実際には適合しない現実に対して排他的であることを抉剔して批判する。
第一次大戦中にフランスの『フィガロ』から転載されドイツの新聞に載った挿話(Anekdote)を紹介しながら、皮肉なコメントを付け加える。
「あるフランスの農夫が、彼の畑で働いているドイツ人の捕虜たちについて次のように言った。『この虫けらども! 殴り殺してやりたいところだが、止めとくとしよう。連中だって結局は人間なんだから』と言ったという。……これは、人間性が実際には自明ではない世界であり、人間性を知的な功績、倫理的な功績と考え、ほろりとさせるような自己満足の機縁と考える法螺吹き民主主義者の世界である。……実際にこの挿話から受ける印象では、フランスでは悪質な野蛮さ、愚かしい粗暴さを辛うじて抑制しているのが、極めて高尚、高貴で、哲学的自由主義と感じられている人間性の理念であるらしい。」(„und nach ihre hatte ein Frazösischer Bauer über die auf seinem Felde arbeitenden deutschen Gefanggenen geäußert: »Das Ungeziefer ! Man möche sie erschlagen, und doch kann man nicht. da sie schließlich doch auch Menschen sind« …… Wir befinden uns da in einer Sphäre, in der Menschlishkeit in der Tat nicht selbstverständlich ist, der Sphäre des Ronommierdemmokraten, dem sie als intellektuelles und moralisches Verdienst, als ein Anlaß zu larmoyanter Selbstgefälligkeit erscheint. ……so hat man wirklich den Eindruck, daß bösartige Wildheit und törichte Roheit hier durch dei als über aus hoch, edel und philosophisch-freigeistig empfundene Idee der Menschlichkeit grade eben im Zaum gehalten werden.“; „Betrachtungen eines Unpolitischen“, T. Mann Gesammelte Werke in dreizehn Bänden, Bd. 12, S. 448~49)
さらに、「永久に政治的批判的見解(politisch-kritischen Anschauung)に身を委ねているような芸術家精神(Künstlertum)、世界のあらゆる現象に対する素朴で、囚われるところのない敬虔的な見方を永久に失ってしまった芸術家精神」を批判しする。
マンによれば、「イロニー」とは、「一つひとつの事物を、それぞれの神意にかなった状態のなかで自足しているものとして、晴れやかに他を、同じように眺め他からも眺め返されることを要求しうるものとして見ること」(ein Ding als etwas zu sehen, was in seinem gottgewollen Stande sich wohl fühlt, heiter aus sich herausschaut und ebenso wiederangeschaut zu warden beanspruchen darf:“; ibid. , S. 572)ができる芸術家精神のエートスだからだ。
いずれにしても、前回指摘したような、ドイツの精神史上の基本的事実も知らず、気の利いた中高校生にも劣る老いた小児(γεραιός παῖς)でしかない婆さんが、マンと宮沢俊義とを比べること自体が愚劣だ。
余談になるが、そうした反語家(der Ironike)のヒトラー観は次のようなものだ。1939年の『ヒトラー君』(„Bruder Hitler“)から引く。
「かつて『天才』という概念を取り巻いていたいろいろの迷信的な観念が今なお非常に強く残っていて、それがわれらが友人ヒトラーを天才と呼ぶことの妨げになっているかどうか、私は考慮しているところである。もしそのことが彼を喜ばせるとしても、一体どうしてそれがいけないのか。精神的人間というものは、愚者が自分に都合のよい真理を渇望すると殆ど同じくらいに、自分に苦痛を与える真理を求めるものである。」(引用続く)
しかし、傾向として悪い方向に向かっていることは言えそうです。分科会の分析結果でも現状は漸増状態であり医療提供体制にも悪影響を及ぼしつつあるようであり、対策を講じなければ「目を覆いたくなるような事態」になる可能性は現時点でも解消されていないようです。児玉氏の予測ほど感染拡大のスピードが速くなく緩やかだとしても徐々に医療崩壊に到ってしまう可能性は充分にあり油断は全く出来ない状況のように思います。静観をして悪い結果が出てから対策を取るようでは取り返しがつかないのです。杞憂に終われば良いとは思いますが楽観は出来ない状況が続いており新型コロナウイルス感染症を指定感染症から除外することも当分の間は難しいように思います。
いずれにせよ、ヒトラーのような存在のために天才全般が、偉大な人物という現象が嫌悪されるようになることには私は反対である。確かに天才とか偉大な人物というものはもっぱら常に美的現象であって、ただ極めて稀に道徳的現象でもあった。それは、人間性が天才のために耐えねばならなかった一切のことにも拘わらず、幸福の戦慄であった。物事にはいろいろ相違があって、われわれはそれを弁えるべきである。―そうした相違は無限である。」(高田淑訳、全集第11巻、596~97頁=„Ich frage mich, ob die abergläubischen Vorstellungen, die sonst den Begriff des Genie umgaben, noch stark gegung sind, daß sie uns hindern sollten, unsern Freund ein Genie zu nennen. Warum denn nicht, wenn’s uhm Freude macht ? Der geistige Mensch ist beinahe ebensosehr auf Wahrheiten aus, die ihm wehe tun, wie die Esel nach Wahrheiten lechzen, die ihnen schmeicheln. Wenn Verrücktheit zusammen mit Besonnenheit Genie ist (und das ist eine Difinition!), so ist der Mann eis Genie: Um so freimütiger versteht man sich zu dem Anerkenntnis, weil Genie eine Kategorie, aber keine Klesse, keinen Rang bezeichnet, weil es sich auf den allerverschiedensten geistigen und menschliche Rangstufen manifestiert,(引用続く)
さらに、皮肉は続く。
「……彼らの名前を同時に呼ぶこと、すなわち、偉大な戦士ナポレオンと偉大な臆病者で恐喝平和主義者で、実戦ともなればその初日に役目が終わってしまうような人間ヒトラーとを同列に扱うことは、馬鹿げたことであって、同意することはできない。ナポレオンこそは、ヘーゲルが『馬上の世界精神』と呼んだところの存在であり、一切を支配する巨大な頭脳、途方もなく大きな活動能力、革命の権化、圧倒的な解放者であって、その姿は地中海地方古典主義の青銅像として人類の記憶に永遠に灼きつけられている。このナポレオンと陰気な怠け者で全くの役立たず、五流の『夢想家』、社会主義革命の愚鈍なる憎悪者、偽善的サディストで『感受性』に富んだ、破廉恥にも復讐欲に燃える男、等々のヒトラーと同列の扱うことには同意できない。」(引用続く)
作家、芸術家は、政治家や科学者とは異なる視点で世界を見ている。彼らが描き出す途方もない物語が、政治的動物(ζῷον πόλτκόν)である人間の本質が最も典型的に現われる政治、時代や状況が異なろうと、本質的に変わらない人間の自然的条件(τῆς ἀνθρωπείας φύσεως)をいかに穿っているか、分かる人間には分かるものだ。
逆に、いたずらに(μάτην)年齢を重ねても分からない人間には、永久に(αἰέν)分からないということもまた、この世の現実だ。
それを、老婆のように「凡庸」(μεσότης)という。[完]
「このCovid19の危険性」の評価、このCovid19への向き合い方、対処法には、大きく分けて3つあると思う。
まず、Covid19を「ただの風邪に毛がはえたようなもの」である、という評価。初期の英米、現在のブラジル、「自然免疫」を目指すスウェーデンのように、とりたててなにもしない、というもの、けれども、このやり方では、爆発的な感染拡大が起こり、英米は方針を変えたし、「自然免疫」をめざすスウェーデンの死者数も他の北欧諸国と比べて、多い。それは、この感染症は、感染力が強く、感染者の約10%、特に基礎疾患をもった人、高齢者は、重症化する傾向があるからである。
最後が、日本の専門家会議の推奨されてき「過去にさかのぼったのクラスター探査」に重点をおいた「日本モデル」、これは、このCovid19の危険性を考慮しながら、このウィルスの伝播特性、発病特性を生かして、感染拡大を抑え込もうとする方法、合言葉は、「Covid19の大きな感染源を見逃さない。」・・つまり、小さな感染はある程度見逃しがあることを許容することで、消耗戦を避けながら、大きな感染拡大の芽を摘むことに力を注いできたのである。その対策の背景には、このウィルスの場合、多くの人は誰にも感染させていないので、或る程度見逃しても、一人の感染者が多くの人に感染させるクラスターさえ発生しなければ、ほとんどの感染連鎖は消滅していく、という事実がある。」、つまり、「日本モデル」は「無為無策」の結果ではなくて、「合理的に考え抜かれたシステム」であったのである。
東京都と大阪府だけにします。
東京は記録し始めたのが7月12日の6.1%で、以来4週過ぎて1%増の7%、
漸増といえなくもありませんが、驚くほど安定しています。数値操作しているのではないかと疑いたいほどに安定しています。
東京都の重症者数には変化はみられないほどゼロですが、全国では7月に入ってから現在の15名まで増加を見せましたので、コロナの明らかな地方拡散なのでしょう。
全国的には、地方拡散のピークがあと2~3日続くのではないでしょうか。
東京では変化ないのですが、全国総数では人工呼吸器装着数が7月15日底日の50件くらいから現在の150件弱くらいまで増加していますので、地方拡散の効果が出ているのでしょう。
集団感染にご注意ください。
【東京都】 7.0%(7日)7.2%(6日)7.0%(5日)6.9%(4日)7.1%(3日)6.8%(2日)6.5%(1日);6.5%(31日)6.5%(30日)6.6%(29日)6.5%(28日)6.5%(27日)6.5%(26日)6.3%(24日)6.7%(21日)6.5%(20日)6.0%(19日)6.1%(12日)
【都内重症患者数】 25名(8日)23名(7日)21名(6日)21名(5日)22名(4日)15名(3日)15名(2日)15名(8月1日)16名(31日)22名(30日)22名(29日)
【大阪府】 9.3%(8日)9.2%(7日)9.1%(6日)9.1%(5日)9.3%(4日)9.2%(3日)9.3%(2日)9.3%(8月1日)9.9%(31日)10.5%(30日)10.1%(29日)9.8%(28日)9.4%(27日)6.6%(22日)
彼の提言は、「感染させる可能性のある人」の隔離を徹底することである。
「このウィルスに関する最近のデータをみれば、クラスター構成員の隔離期間は5日でいいだろう。その際、週末も加味して。5日経った後、クラスター構成員はPCR検査をうけなければならない。このような一括した規則がCovid19を克服するためには必要で、目的なしのロックダウンよりもずっと効果があがる。」とドロステン医師は専門家としての知見をのべておられる。
それに付け加えて、彼は、「我々は検査戦術を変える必要がある。感染したかどうかではなくて、感染力の強度である。PCR検査でウィルスの量がわかり、同時に患者がなお感染しているかどうかがわかる。つまり、行政医が、感染者がいわゆるドロステンになずける「沈静期」にはいったかどうか判断できる。」、
日本のテレビは、岡田晴恵博士を中心として、20歳代で唯一Covid19で亡くなった大相撲力士一人の事件を針小棒大に報道し、政府批判をしたが、そういう一般認識をもつことも、現実社会に生きる我々には必要ではないだろうか。
最後に、分科会のメンバー、小林慶一郎さんを、後藤慶一郎さんと誤記してしまいました。お詫びして、訂正します。
119で日下部眞一さんは、”あわてるな”とお書きですが、あわてているわけではありません。ステージレベルⅠ~Ⅲ(Ⅳは深刻度で例外です・Ⅳにならないようにすること)に合わせて、優先順位を付けた対策はある< ということを言いたいのです。
皆さん!!対策は、ON・OFF、ゼロか100の両極端を、主張していますが、Gは真理というか最適解は、その中間(0~100)にあるという立場です。それは25かも知れないし50かも知れないし75かも知れません。そして、どのように現状に対処するか!?の判断は、分科会などの専門家が考えて、政治責任を負う政府が執行すればよい< と考えています。
また、特措法改正問題も、橋下徹さんの主張されるような「知事の権限強化、で県民をそれに従わせる」形ではなくて、「公共の福祉」を「個人の権利」に優先させる、つまり、「Covid19を感染させない」ことを「市民の行動の自由」に優先させるような、「日本国憲法」の精神に従った特措法の改正をすれば、行政官も、国民全体も利益を得られるのではないのだろうか。民主政治の、for the peopleである。
なんども書くように、民主政治の根本は「妥協」である。人によって、生まれ、置かれている環境によって、それぞれ違った見方になっているのだから、問題解決のために必要なことは、妥協であって、反氏の主張されるような「論戦のテクニック」などというものは本来必要ではないのである。必要なものは、正解への道、なのであって、「三人寄れば文殊の智慧」なのである。いろんな側面を認識することによる、深まった問題解決方法なのである。
与野党論戦をみていると、論争、批判に終始する。特に野党は、政府に対する妥協も、理解もまるでない。それでは、多大な税金を使って国会を開いても、問題は解決せず、時間の無駄である。いわゆる「政争」に主眼が置かれているからである。
野党の国会議員は、まず、「民主政治とはなにか。」を考え、「ダメなものはダメ、絶対反対。」が民主主義ではない、という常識を身に着けてほしい。
忽那さんが8月1日付で書いていた表題の記事を見落としていました。陽性率の理解を深めるのによい論説だと感じたので、読んでいただいたらよろしいのですが、わたしがビックリしたのは、文末に書いてあった
❝東京都内で最も検査陽性率が高い新宿区では現在も30%近い陽性率が続いています。❞
クルーズ船の経験では❝閉鎖空間の安定感染率が20%くらい❞であると思われたのですが、開放空間でそれ以上の30%であるとは。びっくりしました。たしか、4月ころニューヨークの刑務所で集団感染して感染率が60~70%となったので、❝密度効果か?❞と思ったことを記憶しているのですが、ということは、住環境が悪くなると解放空間でも20%を超えることになるのでしょうか?
ただし、すべての比較を対等に行えるかはわかりませんが。
新宿区が今も陽性率ということで、新宿区を除いた都内地域での陽性率を計算すると、現在の陽性率を7%として、6.4%に下がりました。
一般住環境地域(定義するのが難しいのですが)の陽性者率は、5%位なのでしょうか?
新宿区→30%近い陽性率< ですか!?ビックリです。まさに日本のエピセンターですねw まぁー!その記事を、ゆっくり読んで、筆者の真意を把握してみます。
ただ、「東京型・埼玉型といった地域に起因する型(type)を認定するような根拠は得られていないし、ステレオタイプに定義のない型を使用して混乱を増長する危険性を感じている。」ともあるので、その点については注意をする必要はありそうです。専門外なので分析をする能力はありませんが、興味のある方は下記の原資料をご参照ください。
(国立感染症研究所の調査結果)
https://www.niid.go.jp/niid/images/research_info/genome-2020_SARS-CoV-MolecularEpidemiology_2.pdf
(イメージ図)
https://www.niid.go.jp/niid/images/research_info/genome-2020-2-large.png
今、昨日のNHKBSの夜10時からの、シリーズ 人体、脅威の免疫ネットワーク、コロナウィルスとの戦い のヴィデオを見終わり、よく理解できないなりに、大変勉強になり、参考になったので、書き記します。デマンド配信もしているみたいなので、興味のある方は見てください。新しい発見があると思います。また、薬としてはサイトカインの暴走を抑える薬、治療薬としては、治癒した抗体を含有する血清を使ったもの、がよいみたいです。
この意味での大衆(masa=ὄχλοι)とは、「自然的欲望の満足に安心して、トラブルの原因を外部の蔽うもののうちにのみ求め、自己の構成に堪え得ない多数者」(清水幾太郎『倫理学ノート』、327頁)の謂いであり、そして逆の意味で、オルテガ・イ=ガセが指摘するように現代史に際立つ「大衆の叛逆」(La leberión de las masas)は、「その特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある」(‘Lo característico … es que el alma vulgar, sabiéndose vulgar, tiene el denuedo de afirmar el derecho ge la vulgaridad y lo impone, dondequiera.’; ibid.,, p. 146)以上、その宿命として、「莫迦は死なねば治らないのであり、救いの道はない。」(‘El tonto es vitalicio y sin poros.’; ‘‘La leberión de las masas’’; Obras Completas, Vol. 4, p. 187)
早朝から、懲りずに偏執狂の婆さんが、同工異曲の戯けた独り相撲でしかない猿芝居に興じている。今さらcytokine stormでもあるまい。
「コロナ狂い」だが、レパートリーは少ないから今回も特段傾聴に値するもの、新たな切り口による分析は、何もない。間違いだらけで愚鈍である以上に、思考の性が怠惰であり、退屈この上ない。テレビを観て悲憤慷慨し、クズのような投稿を量産して憂さを晴らす、畢竟暇つぶし(διατριβή)をする以外に能がないのだろう。
それもまた、コロナ禍が生み出した、凡庸ゆえの病い(νόσημα)だ。「公共の福祉」(εὐτυχία κοινὸν)云々を騙る料簡違いの法螺話が尽きず、そこに垣間見えるのは、公共(κοινόν)=われわれの(ἐμῶν)ではなく、私の(ἐμοῦ)関心事、詰まるところ私利私欲(ἐμοῦ)でしかない。
そもそも、「三人寄れば…」で「正解」(δίκαιος ἀπὸκρισις)にたどりつくなら、学問も科学も存在意義(raison d’être)が失せよう。
私は、問題解決のために⇒【論戦のテクニック】など主張した覚えはないが、まともに日本語が読めないのだろう。だから、一度に700人に感染させるスーパースプレッダーのような、途方もない法螺話が尽きないのだろう。いい加減な妄説を撒き散らしておいて、都合が悪くなると、127⇒【ドイツ人も私も虚偽体質である、という印象操作をし、私の主張を抹殺しようとする】のような、見当違いな泣き言、恨み節の連発だ。
主張の論理を強固に鍛え上げ、文章をそれに相応しいものに練り上げたうえで披歴すれば出てこない愚にもつかない繰り言で、「ドイツ狂い」ゆえの狂信的で独善的な「信仰対象」への傾倒や、ふと思いついた(παρίστασθαι)程度の内容を、徒然なるままに日記のように書き散らすばかりで、本日も早朝から莫迦騒ぎが止まない。
しかも、中国へのおべっか使い(κόλακες)が、ご都合主義で今さら民主制でもあるまいが、その内実たるや小学生並みの政治論である。民主制は畢竟、多数者の専制(tyrannnie de la majorité)に基づく「民衆の支配」(δημο[ς]-κρατία=δημοκρατία)であって、権力の運用の正統性をめぐる闘争でしかない。お子様道徳の出る幕はない。
話し合いや妥協もその一幕にすぎない。所詮は偽善と欺瞞の産物であって、感傷のつけ入る余地はない。福田恆存が面白い指摘をしている。少々長いが、引用する。
「保守反動」を逆手に取った、日本人には稀有な反語的精神のモラリストの筆鋒は鋭い。
もしさうだとすれば…『對話』といふのは、少なくとも民主主義體制下においては、甚だいかがはしい詐術といふことになる。なぜなら、話合ひとはたとへ話合ひが附かなくとも、所詮別れられぬと諦めた親子や夫婦の間で行はれるものであつて、善かれ惡しかれ、永遠の未解決に堪へる爲の方法である以上、これを複雜な人間關係を處理する都政や國政に利用するのは不可能でもあり、民主主義の原則にも背く事になる。親子や夫婦の間で、話合つたところで解決出來ない知りながら、それで諦めてゐられるのは、解決不可能の責任は相互にあるといふ信賴感が根柢にあるからである。この家庭といふ一對一の最小集団團における附合ひの原則と方法とを、信賴感の全く成立たぬ大都市や國家の政治に持ち込めば、その動機は如何に善意に滿ちたものであつても、結果としては信賴感の一方的押賣りによつて、早々に解決せねばならぬ數々の案件を『未濟』の箱に投げ入れ、任期滿了の時まで手を附けずに濟せられるといふ事にもなりかねない。」(引用続く)
別に註釈の必要はなかろう。民主制を飾り立てる空疎な(μάταιος)、ある意味「惑わしに充ちた」(ἀπατηλός)理念や、美辞麗句の氾濫(καλλιεπέω)を排して、それこそ理にかなった(κατὰ τὸν λόγον)分別を働かせるなら、中学生にも分かる道理が展開されている。
老婆が強調する国際協調も、福田に劣らぬ反語家のトーマス・マンにかかれば以下のように、完膚なきまでに粉砕されるだろう。西欧流の民主制に否定的なマニフェストの書、『非政治的人間の考察』(„Betrachtungen eines Unpolitischen“)に見える。
後年、ナチズムに身をもって徹底抗戦した稀有な人物の洞察(γνώμη)は、単なる政治理論以上の重みをもつ。
「平和協調の国際社会というようなものは、幻影である。恒久平和は、あらゆる人種や民族の完全な混淆と融合が行われたときにのみ可能なことであろう。そして、残念ながらと言うべきか、幸いなことにと言うべきか、ともあれ、これが実現するには長い時間がかかる。ところで、戦争は不滅であると考えたとしても、それは別に人類を侮辱することではないであろう。むしろ、逆であろう。」(引用続く)
…文明の文士は、人間を現在すでに高貴なる愚者にして文学聖者であると見做しているか、あるいはできるだけ早く人間をそういうものに作り上げたいと望んでいるが、所詮、人間とはそんなものでないことは明らかである。人間は、文明の進歩や安全保障を絶対的な理想とは感じない。」(„Die schiedlich-friedliche Völkergesellschaft ist Chimäre. Der Ewige Friede wäre nur möglich bei völliger Vermengung und Verschmelzung der Rassen und Völker, ― womit es, sage man leider oder gottlob dazu, gute Weile hat. Wer aber den Krieg für unsterblich hielte, der beschimpfte damit die Menschheit nicht, ― er täte eher das Gegenteil. Es ist nur eine Oberfläshenwahrheit, wenn man eklärt, daß die Völker in Frieden hätten leben wollen und daß sie wie Lämmer zu Schlachtbank geführt worden sein. Im mythischen Sinne möge man von Schuld sprechen, die tiefere Wahrheit ist, daß alle den Krieg gewollt und nach ihm verlangt haben, es ohne ihn nicht mehr aushielten. Sonst wäre er nicht gekommen. Und würde es die Menschheit nicht eher ehren als schänden, wenn sie es im bürgerlichen Sicherheits- und Regenschirmstaat auf die Dauer nicht aushielte ? …… Alles in allem ist der Mensch offenbar nicht der edle Fadian und Literaturheilige, als welchen der Zivilisationsliterat ihm entweder jetzt schon sieht oder den er doch baldmöglichst aus ihm machen möchte. Der Mensch empfindet Zivilisation, Fortschritt und Sicherheit nicht als unbedingtes Ideal;“; T. Mann Gesammelte Werke in dreizehn Bänden, Bd. 12, S. 463)
註釈は不要だろう。[完]
民主主義の本質は妥協である、と簡単に言いますが妥協する前に何のために妥協するのかが問われなければならないでしょう。ナチスが権力を握ったのも、当時のドイツ国民の妥協の産物ではないですか?民主主義は社会を運営する入れ物であって、そこに何を盛るかは人々の価値観によっていかようにも変わるということです。カロさんは、自分に都合の良いそして深みの無い知識の断片で、単なる自己主張を繰り広げているだけですから、他に対する説得力はありません。
今回の新型コロナウイルスの知見は、日進月歩。8月1日記事は、周知のように感じました。このヤフー記事の途中に、感染者数のイメージを「氷山の図」で示しています。これは、Gもすでに想定していて、4月ころ有事の際は、氷山の水上部分(発症者)だけを、検査対象にしていた(医療崩壊を防ぐため)。いま沖縄県の玉城知事が、この方針に回帰しています(上昌広医師は裏切り者扱いをしていますww)。
6月以降の検査陽性者数の増加の要因は、氷山の水面下の部分(無症状者など)も検査対象にしている< からと、忽那賢志医師は解説しています。
ただ、最近1週間は重症者数が徐々に増加し始めています。これは、「危険の兆候」ではないか!?と、Gは118投稿で書きました。問題は、この事実(重症者数の増加)を、どう解釈するか!?です。普通”氷山”というと気温が上がって溶けて、小さくなる一方です。氷山自体が、大きくなることはありません。
ここ最近の「重症者数増加」は、感染者全体数が拡大している< と思われます。つまり、氷山に例えると、氷山自体(感染者数)が大きくなっていると推定できます。もちろん、そのこと(感染者数拡大)を前提とした対策が求められる段階に至ったといえます。
次は、140で政府解釈さんご提示の→国立感染症研究所の調査結果< を読んでみたいと思います。
東京、大阪ともに驚くほど安定しています。変化ありません。
東京都の重症者数には変化はみられないほどゼロですが、全国では7月に入ってから現在の15名まで増加を見せましたので、コロナの明らかな地方拡散なのでしょう。
【全国人工呼吸器装着件数】 135件(9日) 7月15日最小52件
【全国ECMO装着件数】 16件(9日) 7月28日最小6件
【東京都】 7.0%(9日)7.0%(8日)7.0%(7日)7.2%(6日)7.0%(5日)6.9%(4日)7.1%(3日)6.8%(2日)6.5%(1日); 6.5%(26日)6.0%(19日)6.1%(12日)
【都内重症患者数】 23名(9日)25名(8日)23名(7日)21名(6日)21名(5日)22名(4日)15名(3日)15名(2日)15名(8月1日)16名(31日)22名(30日)22名(29日)
【大阪府】 9.1%(9日)9.3%(8日)9.2%(7日)9.1%(6日)9.1%(5日)9.3%(4日)9.2%(3日)9.3%(2日)9.3%(8月1日)9.9%(31日)10.5%(30日)10.1%(29日)9.8%(28日)9.4%(27日)6.6%(22日)
またもや「ゲッペルス」という謎の人物が登場しましたね(笑)
ええ加減にせんかい!
貴女の言う「歴史の真実」の認識は不可能だと言っているのに、何とか学派はどうのこうのと関係のない話で浅薄な知識をひけらかしている。
「妥協」より先に、「何のために」ということを曖昧にしたら、民主主義の名のもとに破壊的なことが起こり得る、と言っているのに、妥協の意味の御託を並べている。あなたの言っていることは、ただ知識の断片を放言しているだけ。従って貴女のコメントは何の役にも立たない、資源の無駄遣いと言っている。謙虚さの無い、傾聴に値しない、傲慢な態度は誰からも評価されない。その批判を理解しようとする意欲もなければ、能力もない。
宮坂昌之先生との話をnippon.comの持田譲二さんがまとめています。
現在のコロナ状況をわかりやすくまとめてあります。
これをよく読んでおけば❝感染爆発説❞などのホラ話にだまされずにすむでしょう。
特に、欧米、英国、ドイツ、米国の疫学理論屋の多くは計算機シミュレーションに頼りきってホラ話をふりまくのが多いですから注意してください。
❝社会集団は2割免疫を獲得したら、これ以上感染はひろがらなくなる。、、、感染が広がりにくい状況が徐々に生まれつつある。❞
❝PCR検査以上に感染者が増えているのは確かだが、おさまっていくと思う。つまり、感染爆発は起こらない。❞
緊急事態宣言は必要ですか?
❝やらなくていい。❞
❝旅行者がきちんと守るべき行動変容を実行してくれれば、そう簡単にこのウイルスは広がらない❞
❝お年寄りには、ワクチン打ってから、30~40年も免疫学的なチャレンジを受けていないので、訓練免疫が効かなくなっている。お年寄りに肺炎球菌ワクチンもインフルエンザワクチンも面倒くさがらずに受けてもらえれば、思わぬ恵があるかもしれない。❞
*)この最後の話は、わたしのコロナ経験で語っていたことです。
つまみ食いと言われてはいけませんので、自分で、ぜひ読んでください。
「独りよがり(思い込み)は聖なる病い」(‘τήν τε οἴησιν ἱερὴν νοῦσον.’; Diels-Kranz, Bd. I, S. 159)というが、平たく訳せば、「独りよがりは気違い」ということだ。
「聖なる病い」とは、ギリシア語では、所謂「癲癇症」(ἐπίληψις)のことで、誤解を避けるために註記すれば、発症のメカニズムが解明されている現代の同名の発作を指すものではなく、当時の感覚なら「気のふれた」(μαινόμενος, διὰ μανίαν)という含みだ。
Tom氏の問いに対する老婆の回答154~155、161が典型的に示す、本来の指摘事項、論点に対する意味不明で堂々めぐりする要領を得ない議論は、思い込みが激しい矯激な人物にありがちな一方的な信念の披歴に加え、相手の意図を真面目に受け取ることなく、また最初からその気持ちもない独善性に加え、根本的に無知蒙昧で、自らに理解可能なことしか受け付けない、老婆のもって生まれた性向(ἕξις)、内なる人間性(ὁ ἐντὸς ἄνθρωπος)が影響している。
鷹揚というか、老婆の生半可ではない「虚偽体質」(ψεύστης φυσικός)と「自己愛」(φιλαυτος)について、徹底した認識を欠いているらしいTom氏は、論点ずらしを指摘する点では相手の意識的ないし無意識的性格を見抜いているものの、問題はなのは、159⇒【浅薄な知識をひけらかし】とされる老婆の法螺話が、浅薄な(ἁπλοῦς)という形容がつくとはいえ、「知識」の名に値しないことだ。
頭脳明晰な虚飾家はまだ話が通じるが、老婆はその水準にも到底達しないただの「道化者」で、クズ投稿には解釈以前の知識をめぐる致命的な(θανάσμος)無知が山積みだ。
2年前に、Weizsäcker演説の欺瞞と偽善を指摘し、1945年の敗戦をナチズムからの解放と強弁するドイツ(人)の見え透いた主張について議論した際、国家ぐるみでのユダヤ人大量虐殺に代表されるドイツの犯罪について歴史家論争にも言及したが、老婆はその存在すら知らず、論争が存在したこと自体を「嘘だ」を言い張ったほどだ。
今回も性懲りなしに、154⇒【歴史解釈は、反氏とずっと意見が対立…反氏は、 T. アドルノ、M. ホルクハイマー 、J. ハバーマス(ハーバーマス=筆者註)ら…フランクフルト学派支持、私は…支持しない】というが、ドイツの近世以降の歴史認識と、前記の二者ではなくハーバーマスがかかわった、先の大戦に至る過程を含めたドイツの戦争責任をめぐる歴史家論争を一緒くたにして、妄言を紡いでいる。
私がアドルノやホルクハイマーに言及したのは、ハーバーマスとは見解が分かれる共著の『啓蒙の弁証法』で展開された「文明の野蛮」(Zivilisation zur Barbarei)に関する議論の一環で、ホロコーストや米国の原爆投下を論じたもので、二人は歴史家論争とは何の関係もない。
Tom氏の148⇒【1986年には歴史修正主義を唱える者が出てきて…】についても、老婆は修正主義(Revisionismus)の意味(ホロコーストを含む第三帝国の史上未曽有の犯罪を、過去の他の戦争犯罪や歴史上の虐殺行為などと同列に扱い、相対化=比較可能だとする、客観的議論を装った護教的相対主義)を理解できず、それがドイツの保守派によって浮上してきた経過や背景、そのお先棒を担いだのがFAZやDer Spiegelだということすら知らない体たらくだ。
つまり、老婆は歴史認識を云々する以前の個々の事象について碌に知らないまま、無謀な手前味噌のドイツ擁護論を展開しているにすぎない。ドイツ狂い(Γερμνανία μανία)たる所以だ。
学問上の大きなテーマであるドイツ特有の非政治的知識層、教養市民層(der Bildungsbürger)についてなど、その名称すら知らない。
あまりに無学なため応酬に窮すると、横着者だからドイツ版ではなく日本版Wikipediaの記述を論拠にしたり、中にはネット上のいかがわしいブログ、またはブログ記事のコメントを盗用して貼り付け、子供騙しの反論を装う狂気じみた作法も厭わない。その中には、「アラー氏」とか「JJ太郎」とかいう、老婆と同列な矯激な人物の主張もある。それをそのままコピペする老婆の莫迦さ加減は、醜悪を通り越して喜劇的ですらある。
アドルノについてなど、実際には皆目無知に等しい。音楽理論に関するアドルノの著書を読んだが、生家とともに阪神大震災で失い、ルカーチ(Georg Lukács)を支持すると称した趣旨の主張もあったが、調べてみると、上記ネット上の書き込みの剽窃にすぎなかった。
だから、歴史認識に関する問いに対してすら、154②⇒【アドルノは、音楽学者でもある…大学時代に 著書を読んだ時から違和感…ミュンヘン大学で…学識を深め…彼の音楽理論を支持しない】程度の無関係な法螺話しかできない。どんな学識を深めたのか知れたものではないことは、現在の惨状が歴然と物語っている。
議論はいつの間にか音楽理論に移動し、専門家云々の判で押したような大風呂敷の主張に行き着く。未だに正確な引用すらできない。
すべて子供じみた虚勢(πρόσχημα)とはったり(βαναυσία)で、狂人の戯言を聞く趣がある。
盂蘭盆が近い。莫迦話に付き合うのはこの程度で充分だろう。
「それ自体で存在するもの」(svabhāva)、「実体としてあるもの」(dravyataḥ sat)を否定する一方で、勝義の存在(Paramārtha-sat)としてのダルマ、即ち法(Dharma)、「自性をもつもの」(sa-svabhāva)と称するが、それ以外の「世俗の存在」(Saṃvṛtj-sat)はすべて「一刹那」(kṣaṇa)であり、すべては移ろう。
ギリシア語でも、ひぐらしの儚い命(ὦφήμερε=「ひぐらしの命儚き者よ、なぜ私を呼ぶのか」[τί με καλεῖς, ὦφήμερε])という言い方をする。
哲学者皇帝マルウス・アウレリウスにも、「すべては蜉蝣のよう(に儚い)、追憶する側もされる側も。」(‘Πᾶν ἐφήμερον, καὶ τὸ μνημονεῦον καὶ τὸ μνημονευόμενον.’; Aurelius, M.; ‘‘τὰ εἰς ἑαυτόν’’, IV, 35)と、その『自省録』に書きつけている。
次のような突き放した観察もある。
「さらには、それぞれの局面においてお前が見知っている限りの人々に目を向けよ。あるものは甲を、またあるものは乙を葬り、やがて自身葬られた。すべては束の間の存在である。これ要するに、人間のことは蜉蝣のごとく儚く、取るに足らぬものである。」(‘ἔπιθι δὲ καὶ ὅσους οἶδας, ἄλλον ἐπ ἄλλῳ˙ ὁ μὲν τοῦτον κηδεύσας εἶτα ἐξετάθη, ὁ δὲ ἐκεῖνον˙ πάντα δὲ ἐν βραχεῖ. τὸ γὰρ ὅλον, κατιδεῖν ἀεὶ τὰ ἀνθρώπινα ὡς ἐφήμερα καὶ εὐτελῆ,’; ibid., IV, 48)
人の世は、おしなべて「明日は」(αὔριον)期し難い。確かなものとみられた昨日(ἐχθὲς)も所詮、「すべては束の間の存在である」(πάντα δὲ ἐν βραχεῖ)ことを示すものでしかない。それを市井の人々も肌で感じている。全国を席捲しているコロナ禍の現在はなおのこと。
老婆との違いは、それをもて余して苛立ったりしないことだ。今後、訪問客で多少は賑やかになるにしても、今から何となく拍子抜けしている。ここにもコロナ禍が影を落としているのだろう。
ところで、死んでいった人間の側から見れば、現在のわれわれはどう映るのであろうか。時折、妻に問いかけたりもするが、「哲学というのは、末期の眼で、つまり永遠の相の下に(‘sub specie aeternitatis’)ものごとをみることじゃなかったかしら?」と返されそうだ。
ドイツ語にも[vergänglich]、移ろいやすい、とか束の間の、儚い、という形容詞があって、その名詞形[Vergänglichkeit]は、さしずめ無常ということになる。
私がこの言葉を知ったのは高校1年の時、トーマス・マンの「無常礼讃」(„Glob der Vergänglichkeit“, 1952)という短いエッセーを前年から刊行の始まった翻訳全集で読んだことがきっかけだ。
それ以前に、小林秀雄の著名なエッセー「無常について」や『源氏物語』などにみられる無常観は幼稚なりに承知していたから、西欧人の無常観はどのようなものかと気になっていた。ギリシア人の無常観に親しむ以前の話だ。
所謂「ソクラテス以前」(Vorsokratiker)のイオニアの自然哲学者ヘラクレイトスの人口に膾炙した「万物流転」(‘πάντα ῥεῖ’)という言葉も、よく考えてみればすべては流れ(ῥοή)、つまり絶え間のない(διατελής)生成変化(γένεσις καὶ ἀλλοίωσις)の過程、「生々流転」(γένεσις καὶ ῥεῦμα)ということだから、諸行無常と基本的には変わらないわけだ。
また、人間の生と死についても、「生まれれば、生きて行くつもりになるが、それはまた死を覚悟することなのだ。そして子供たちを後に遺すが、それは死なせるためなのだ。」(‘γενόμενοι ζώειν ἐθέλουσι μόρους τ᾽ ἔχειν, μᾶλλον δὲ ἀναπαύεσθαι, καὶ παῖδας καταλείπουσι μόρους γενέσθαι.’; Frag. 20: ibid., S. 168)と観念するのも、誕生は即ち死への始まりである人間の儚い生を、そのまま解き明かしている。
「無常礼讃」は次のように始まる。
「私が何を信じるか、あるいは何を最も高く評価するか、というあなた方の問いに対する私の答えを聞けば、定めしあなた方は驚くことであろう。というのは無常というのがその答えであるからだ。」(„Sie warden überrascht sein, mich auf Ihre Frage, woran ich glaube, oder was ich am höchsten stelle, antworten zu hören: Es ist die Vergänglichkit.“; „Glob der Vergänglichkeit“)
無常が何か悲しいものだというとらえ方を退け、マンは、無常は人間性の根源にある、人間の生の一切にかかわる契機であることを明らかにする。時間的な存在である人間の生の構造を、それは根底から支えるものだからだ。
マンに顕著なのは、ハイデガーとは違った意味で、人間存在の時間性に関する認識だ。そのうえで、時間と創造、人間を充実させる要因となりうる時間について論を進める。
「人間を他の被造物から区別している最も本質的な特性の一つに、無常、初めと終わり、すなわち時という賜物に関する知識を持っていることがある。時とは非常に主観的で、独特に変化しやすく、その利点という点では全く習慣的なものに左右されるため、ごく僅かな要素であっても人によっては非常に多くなりうるような要素である。」(引用続く)
……Die Beseeltheit des Seins von Vergänglichkeit gelangt im Menschen zu ihrer Vollendung. Nicht, daß er allein Seele hätte. Alles hat Seele. Aber die seine ist die wachste in ihrem Wissen um die Auswechselbarkeit der Begriffe Sein und Vergänglichkeit und um die große Gabe der Zeit. Ihm ist gegeben, die Zeit zu heiligen, einen Acker, zu treulichster Bestellung auffordernd, in ihr zu sehen, sie als Raum der Tätigkeit, des rastlosen Strebens, der Selbstvervollkommnung, des Fortschreitens zu seinen höchsten Möglichkeiten zu begreifen und mit ihrer Hilfe dem Vergänglichen das Unvergängliche abzuringen.“; ibid., S. 384~85)
盂蘭盆を控え、聊か迂遠な議論になった。無学な老婆のような、何のテキストの提示もない一本調子のお子様正義論よりは、味読に値すると自負している。
素人のコロナ論議も結構だが、あまりの近視眼は、頭を悪くする。老婆にその兆候は顕著だ。[完]
感染症研究所の作成のそれによりますと、いま全国拡散中のコロナウイルスは、その図の説明文→(前略)しかしながら・・・< 以下に感染症研究所の結論が、書いてあります。
1 6月中旬から全国に拡散中の陽性患者の多くが、一つのゲノムクラスターに集約される(文中はっきり書いていないが、新宿歌舞伎町「夜の街」がエピセンターになっているということです)。
2 いま拡散中のゲノムクラスターは、3月中旬に欧州由来のものが変異(記事では「6 塩基変異」というそうです)したものである。
3 なぜ3月中旬に欧州由来ゲノムが、3か月後の6月中旬から、全国拡散したのかよくわからない。この3か月は、いわゆるミッシングリンクだといっています。ただ、感染症研究所は、軽症者・無症状者が、全国へ拡散させた!と推定しています。
この上記3は、2月に北海道が、道独自で非常事態宣言を、国内で初めて宣言しました。そのとき国の専門家会議(当時)は、北海道内での感染拡散の原因がよくわからない!!たぶん、無症状の若者が拡散させている可能性があると、尾身副座長などが、(検証なしで)おっしゃっていました。それが、当たった形です。やはり「餅は餅屋」、専門家会議(現分科会)恐るべし!!です。
齢70近い婆さんによる、子供騙しの莫迦げたお為ごかし(φιλανθρωπία)のお子様政治論の見本。
160⇒【ヴァイツゼッカー演説…過去自分たちが犯したことを直視することで、未来に備える】→→過去を「直視する」と言ったところで、都合のよい過去の断面を直視するだけでは歴史に向き合うことにはならず、敗戦をヒトラーやナチスからの解放(ἐλευθεροῦντες=Entzauberung)という「物語思考」こそ、かえって有害(βλαβερός)だろう。
ユートピア的な希望、救済神話の欺瞞と同程度の欺瞞を、非ナチス化(Entnazifizierung)というドイツの戦後が抱えていることに、老婆くらい盲目な(τυφλός)人物も珍しい。
かつて、歴史修正主義者のE. ノルテは、歴史家論争で「ナチスが後に仕出かすようになるすべての事柄、大量輸送や大量銃殺、拷問、死の収容所、専ら客観的な基準に従って遂行される全集団の絶滅、敵とみなされる数百万人の何の罪もない人間に対する公然とした抹殺の要求などは、ガス室での抹殺というプロセスを唯一除いて、既に1920年代初頭の文献に相当量書き遺されている」(「過ぎ去ろうとしない過去――書かれはしたが、行われなかった講演」=Die Frankfurter Allegemeine、1986年6月6日号)として、ホロコーストを含む第三帝国の史上未曽有の犯罪、ユダヤ人絶滅行為(Judenvernichtung)を相対化し、ドイツ人の「過去の克服」(Bewältigung der Vergangenheit)に対する渇望に応えた。
自らの無知蒙昧を棚に上げて、②⇒【歴史、を何のために勉強するか、わかっていない】もないものだ。西独に留学しても、ドイツ人の本音など、とんと気づかない愚鈍と世間知らずのお目出度さが、老婆を盲目にする(τυφλόω)。
ナチス=ドイツの蛮行と米国大統領を同じ土俵で論じる非常識、紋切り型のメディア批判、戦前批判しかできない単細胞、暇をもて余した婆さん連中のお勉強は、斯くも他愛ない。οἴμοι.
トーマス・マン『無常礼讃』から。創造的な時間について。投稿という暇つぶしは、有益な、創造的行為だろうか、時折考えないでもない。
「遠く天体の中には、全く信じ難いほどの比重をもっていて、地球上で測れば一インチ立法が二千ポンドもの重さの物質から出来ているものがある。創造的な人間の時間もまたそのようなものである。その時間は、密度の高くない、すぐに流れ去るような、大多数の人々のもつ時間とは異なった構造、異なった密度、異なった豊饒をもっている。そしてこの時間の中でどれだけの量の仕事がなされ得るかを知って、大多数の人間は驚き、おそらく尋ねるであろう。
……偉大な科学である天文学はわれわれに、地球は宇宙という巨大な雑踏のなかの最もつまらない、自らが属している銀河系にあってすら、全く周辺を漂うだけの目立たぬ小さな星であると考えることを教えてきた。このことが科学的に正しいということは疑う余地はない。」(高橋義孝訳、199頁=„Es gibt ferne Himmelskörper, deren Materie von so unglaublicher Dichtigkeit ist, dsß ein Kubikzoll davon bei uns zwanzig Zentner wiegen würde. So ist es mit der Zeit schöpferischer Menschen; sie ist von anderer Struktur, anderer Dichtigkeit, anderer Ergiebigkeit als die locker gewobene und leicht verrinnende der Mehrzahl, und verwundert darüber, welches Maß an Leistung in der Zeit unterzubringen ist, fragt wohl der Mann der Mehrzahl:
……Die Astronomie, eine große Wissenschaft, hat uns gelehrt, die Erde als ein im Riesengetümmel des Kosmos höchst unbedeutendes, selbst noch in ihrer eigenen Milchstraße ganz peripher sich umtreibendes Winkelsternchen zu betrachten. Das ist wissenschaftlich unzweifelhaft richtig,“; „Glob der Vergänglichkeit“, T. Mann Gesammelte Werke in dreizehn Bänden, Bd. 10, S. 384~85)
「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる。」(‘Le silence éternel de ces espaces infinis m’effraie.’; B. Pascal, “Pensées”; Frag. 206)
☆訂正 166の小林秀雄の著名なエッセーは「無常といふ事」の誤り。
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