8月10日に「鈍化する陽性者拡大 ~ 日本モデル vs. 西浦モデル2.0の正念場⑤」という文章を書いた。http://agora-web.jp/archives/2047553.html その後も新規陽性者数の鈍化現象は続いている。東京で見てみよう。
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新規陽性者数 (7日間平均) |
増加率 (前の7日間との比較) |
8月11日~17日 |
258人 |
0.77 |
8月4日~8月10日 |
335人 |
0.99 |
7月28日~8月3日 |
338人 |
1.34 |
7月21日~27日 |
252人 |
1.15 |
7月14~20日 |
219人 |
1.30 |
7月7日~7月13日 |
168人 |
1.69 |
これを日ごとの7日移動平均値をとったグラフで見るとこうなる。https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/
東京の新規感染者数は、都道府県単位では常に日本全国で最大の割合を占めているだけでなく、先行指標としての意味もあるので、多くの人々が注目してきた。実際に、8月の全国の新規陽性者数の推移は、東京の動きを後追いする形で、鈍化の傾向を顕著に見せている。
https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/
私が「『日本モデル』vs.『西浦モデル2.0』の正念場」シリーズで検証してきていることを、あらためて確認しよう。
4月半ばに「西浦モデル」は「42万人死ぬ」を派手に宣伝した。このときに前提としていた数値を修正したのが、5月に公表された「西浦モデル2.0」と呼ぶべきものである。基本再生産数や致死率のことは捨象しつつ、緊急事態宣言が解除されれば、3月下旬以降の新規陽性者数の拡大が再現されると予言したのが、「西浦モデル2.0」である。具体的な数値の計算は変更したとしても、「6~8割の人と人との接触の削減」がなければ新規陽性者数の増加は集団免疫の獲得まで止まることはない、というのが「西浦モデル」の大前提である。たとえば「2~3割程度の人と人との接触の削減」であれば、曲線がわずかに緩やかになるだけで、新規陽性者数の指数関数的拡大という傾向に対する変化はない。これがオリジナル「西浦モデル」から「西浦モデル2.0」を通じて一貫した前提であり、そもそもの「SIRモデル」の前提であった。
「日本モデル」が「西浦モデル」と対決するのは、二つの点においてである。第一に、「日本モデル」は、新規感染者数の拡大と新規重症者数の拡大は、一定の固定的な比率では進まない、と考える。なぜなら高齢者や基礎疾患保持者は重症化しやすいが、そうでなければむしろ無症状者のほうが圧倒的に多いといった新型コロナの特性を考えれば、同じ新規陽性者数の拡大の場合でも、その構成内容は異なってくるため、重症者数との関係は一定ではない。また、そもそも重症者の絶対数についても、医療体制との相関関係においてその深刻度を評価すべきと考える。
7月以降の新規陽性者数の拡大の局面において、「日本モデル」は、その洞察の重要性を証明し続けた。新規陽性者の拡大ペースに反して、重症者数の増加を抑え込むことによって、医療崩壊を中心とした社会経済的なインパクトを抑え込むことにも成功した。
第二に、「日本モデル」は新規陽性者数の「ゼロ」化を目指さない。「人と人との接触の8割削減」を通じた新型コロナウィルスの撲滅という主張とは異なり、「日本モデル」は新型コロナウィルス撲滅の不可能性を洞察する。そこで「日本モデル」が目標とするのは、新規陽性者数の拡大の緩やかな抑制であり、要するに医療崩壊を起こさない程度に押さえ込んだ重症者数の抑制である。そこで「日本モデル」は、「西浦モデル」が要請する画一的な「人と人との接触の削減」ではなく、「三密の回避」などを通じた大規模クラスター発生予防を中心にした現実的な感染拡大の抑制を目指す。
8月になってからの新規陽性者数の拡大の鈍化の局面において、「日本モデル」は、その洞察の重要性を証明し続けた。「人と人との接触の〇割削減」を語ることなく、「三密の回避」などを中心にした大規模クラスター発生予防を中心にした取り組みによって、新規陽性者数の拡大の抑制に成功したのである。
5月3日に西村大臣が日本の政策の説明で用いた「ハンマーとダンス」の表現を用いると、「日本モデル」は、政策目標として掲げたとおり、ダンスの踊り方の形を模索している最中である。https://twitter.com/nishy03/status/1257303798516613124
「日本モデル」の現実に即した実績と、「西浦モデル」の抽象理論の予言の相違は、上記で示した現実の実績と抽象理論の予言のグラフの違いによって明らかであろう。
これをふまえて、現時点で確認しうる観察を記しておきたい。
第一に指摘できるのは、新規陽性者数の拡大は、極めて人間的な事情で増減し、「人と人との接触の削減」以外の方法で管理されうる、ということである。7月上旬をピークにした新規陽性者数の拡大は、7月においても鈍化の傾向を見せていたが、ただ4連休の期間においてのみ拡大を活性化させる傾向が生まれた。しかしそれでも新規陽性者数の拡大を抑え込みたいという国民の努力は、大きな傾向としては、7月~8月を通じて、着実な成果を見せてきている。
つまり、「人と人との接触の削減」あるいは「緊急事態宣言」だけが、新規陽性者数の拡大を抑え込むための方法ではない、ということである。「三密の回避」などの「日本モデル」の地道な努力には、大きな意味があるのである。
また、国民意識が熟成するまえの早まった緊急事態宣言には、効果が乏しいだろう、と予測される。国民の危機意識があって初めて緊急事態宣言は機能するのであり、とにかく早め早めに実施すれば良い、ということではない。
第二に、ウィルスの弱毒化や、集団免疫の成立を証明する要素は、確認できない、ということである。仮にそれらの要素が働いていたと仮定しても、統計的に有意な差を生み出したと言えるかどうかを争うだけで、大勢には影響がなかった。重症者は生まれる。新規陽性者数の拡大と重症者数の拡大が反比例することはない。ただ抑え込めるかどうかが、重要である。
新規陽性者が減退する局面に入ると、異様な「煽り」報道に代わって、立証できない集団免疫成立論やウィルス弱毒化論や「SIRモデル」に代わる数理モデルなどが幅を利かせてくる。私は科学者ではないので、全ての立証されていない仮説に対して中立的だが、社会科学者として言えば、せいぜい統計的に有意な差があると言えるかどうかだけのことを争っているだけの立証されていない仮説によって大枠の政策を決めることはできない、とは感じる。
日本の新型コロナ対策の最重要人物である押谷仁教授は、「日本の戦略の肝は、『大きな感染源を見逃さない』」ことだと説明し、「消耗戦を避けながら、大きな感染拡大の芽を摘む」ことが重要で、「一人の感染者が多くの人に感染させるクラスターさえ発生しなければ、ほとんどの感染連鎖は消滅していく」という洞察が背景にあると述べている。(「巻頭インタビュー押谷仁教授 感染症対策 森を見る思考を」『外交』Vol.61, Jun/May, 2020)
様々な仮説を提示して検証を行うのは勝手にすれば良いと思うが、尾身茂分科会会長の下、押谷仁教授のような卓越した専門家の洞察を活かした「日本モデル」の努力と功績を、すべて単なる偶然とみなそうとする態度には、私は明確に反対する。
すでに結果が出ている。認めるべきだ。尾身先生や押谷先生は、日本の国民的英雄である。7月と8月の重症者数抑え込みと、新規感染者数の管理は、尾身先生や押谷先生の卓越した貢献があればこそだ。
第三に、4月期と7月期を通じて、東京などの大都市圏が全国的な傾向を主導し、濃密で長時間の接触が起こる環境が新規陽性者数の拡大の傾向を左右する、ということが相当程度に明らかになった。さらに重要なことに、その点に着目することによって、新規陽性者数の拡大の管理が相当程度に可能となることも分かった。
7月の集中的な検査実施によって、いわゆる「夜の街」とされた濃厚接触空間において、新規陽性者が多数確認できる傾向があることがわかった(仮に「夜の街」それ自体では重症者は生まれていないとしても)。結果的には、「夜の街」に対する集中的な検査実施は、新規陽性者数の抑制という結果に貢献したと言える。
逆に言うと、新規陽性者数に占める「家族感染」の増大や、それと同じ事情として東京への通勤者の多い神奈川県などの東京近郊圏の新規陽性者数に占める比率の増大は、新規陽性者数の減少が始まっている示唆となる先行指標であることも示された。
家族感染についても、予防の努力は無駄ではないと仮定したとしても、市中感染ルートと比して、著しく予防が難しいことは、間違いないだろう。逆に言うと、政策的な介入や、国民の行動変容によって容易に操作が可能なのは、たとえば「夜の街」のタイプの感染ルートであり、「7月の4連休」で増加したようなタイプの感染ルートである。
「日本モデル」は、決して新規陽性者数の拡大を完全に無視する態度のことではない。重症者数の管理を重視する視点をとったからといって、新規陽性者数の拡大がやがては重症者数の拡大につながる圧力となることを否定しなければならないわけではない。「日本モデル」の観点からしても、いたずらに心配しすぎるべきではないとしても、新規陽性者数の拡大は、やはり抑制が望ましい事柄ではあるだろう。
「西浦モデル」であれば、「人と人との〇割削減」といった数値目標を至上命題とする余り、児童公園まで使用禁止にしてテープで封鎖することを要請するアプローチをとる。しかし、「日本モデル」であれば、より政策的にメリハリの利いた介入を重視する。
いずれにせよ、尾身茂先生や押谷仁先生ら、「旧専門家会議」「分科会」主要メンバーが推進してきた「日本モデル」は、着実な成果を見せている。
少なくとも旧専門家会議が招集された2月中旬以降の現実をふまえて自己設定した目標の達成度という観点で評価すれば、「日本モデル」は素晴らしい成果を収めている。
54兆円+αを費やすことを厭わず、全国民毎日PCR検査で絶対的な安心を提供せよ!といった、まるで非武装中立で絶対平和を達成せよ!のような非現実的で無責任な言説を流布して日毎の視聴率を稼ごうとするメディアの弊害にさえ気づけば、「日本モデル」の意義は明らかである。
「日本モデル」vs.「西浦モデル2.0」の意味は、今や「良識的な現実主義」vs.「現実を否定する机上の空論至上主義」の戦いの様相も呈してきている。
私としては、日本国民が「良識的な現実主義」を支持することを期待しつつ、あらためて一層の尾身茂先生や押谷仁先生が主導する「日本モデル」の称賛を表明しておきたい。
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コメント一覧 (171)
テレビばかり観ていて午後になって、今度は北朝鮮がどうのこうのと喚き散らしている。「クズ」投稿の枕なら、何でもお構いなしなのだろう。教養の程度が知れているから、相も変わらず芸がなく、うんざりさせるほど一本調子(ὀχληρός)で、退屈この上ない。
間違いなしに文章を綴ることができない無学(ἀπαιδευσία)だから、金正恩朝鮮労働党委員長が「金主席」になる。「主席」は祖父で建国の父である金日成にしか許されない称号だという程度の基礎知識もないのだろう。最高実力者は皆一緒だろう程度の認識しかないから、北朝鮮を理解できない。父正日は国防委員長で、主席を名乗ったことはない。
うっかり肩書を間違えたら、処刑されかねない国家だ。テレビ出演した毎日の記者を批判しているが、老婆は新聞記事の読み方も幼稚で、後は判で押したような、楠山義太郎礼讃しかできない。どこまでも気が滅入るような、婆さんの無駄話に興じて倦む様子もない。パラノイア気質は元々の狂信家(ὁ μαινόμενος)に拍車を駆ける。
自らの莫迦さ加減を棚に上げて、60⇒【とにかく、マスコミの人は、批判、糾弾は上手であるが、合理的な思考方法が欠如…私の投稿の努力を、「クズ投稿の量産に躍起になっている」と私を批判する反氏と同じ】など、被害妄想もいいところで、「私の投稿の努力」はただの妄執(ἀματηλός αὐθάδεια)、暇つぶしで鬱憤を晴らすしかない習性ゆえの「病気」だろう。
今回の感染再燃を「第二波」と認めたがらない政府を差し置いて、重症者の定義でもあるまい。
政府のコロナウイルス感染症対策分科会のメンバーで日本感染症学会理事長を務める舘田一博氏が昨日19日、都内で始まった学会の講演会あいさつで、「『第一波』は緊急事態宣言の後、何んとか乗り越えられたが、今まさに『第二波』の真っただ中にいる」と語って、政府との認識の違いを浮き彫りにした。
それを受けて「定義」問題にすり替えて煮え切らない態度に終始するのが厚生労働省や担当大臣の西村康稔氏で、「どう呼ぶかは別として大きな波であることは間違いない」(西村氏)程度でお茶を濁している。
対策を自治体に丸投げして様子見を決め込み、特措法改正を含めて抜本的対策に着手することを先送りしている政府に、危機管理に応じた危機感が希薄なのは明白で、国民への明確なメッセージが届いていない。
それを頬被りして、67②⇒【二重スタンスをやめるべきで、正邪をはっきりさせるべき】が聞いて呆れる。何にでも首を突っ込みたがり、1日20件の「投稿公害」をものともしない「コロナ狂い」のおしゃべり婆さんの、ご都合主義の二重基準(διπλοῦς κριτήριον)は明らかだ。
新たに結ぶ「休戦協定」など、存在しない。それを言うなら、現在の休戦状態を本格的な停戦に移行させ、平和条約につなげることだろうが、無学で粗忽者の婆さんにはその程度の基本的知識もない。寄せ集めの情報を粗雑なお頭に詰め込んで、やれ歴史観だとか歴史の真実だとか、他愛もない莫迦話に熱狂している。
何を勘違いしているの不明だが、71⇒【反氏は、どうあっても認められないが、北朝鮮と中国の国情は違う】――私は北朝鮮と中国を比較して、どうこう論じたりしていない。「北朝鮮」の文字のない57~58のどこをどう読めばそうした粗笨な読みが可能になるのか、不可解だ。パラノイア気質しか、思い浮かばない。
71⇒【中国人は、自分の意志で、外国に住むことができ…自分の意志で、中国に戻る】などといったところで、それは現在の中国の抑圧体制を批判したりしなければ、という前提での話だろう。
老婆は論理的思考上の極端な欠陥を抱えた狂信の塊=「音痴」(ἀμουσοι)なのだろう。「民主主義人民共和国」と称する中国には民主制はもとより、政治的な自由(ἡ αὐτονομία)も個人の政府からの政治的独立(ἡ αὐτονομία=political independence)も存在しない。発言の自由(παρρησία)も「すべてが私事とみなされる完全な個人的自由」(ἀνεπίτακτος πᾶσιν εἰς τὴν δίαιταν ἐξουσία)もない。あるのは、奴隷の平和と繁栄だ。
「烏にでも喰われろ」(ἐς κόρακας ἐκ τῆς οἰκίας.)[完]
楠山に おべっか過ぎて クズ山に 蜘蛛の巣だらけ お頭も逼迫
また、国際協調を「音楽の概念」で考えている人物が「まるでゲーム観戦」と批判をしても何ら説得力がありません。外交・安全保障問題についていえば、音楽よりはゲームで語る方が分かり易いように思います。
貴女の22のコメントはかなり非礼なものだと思いますが、反時流的古典学徒さんが(以前の記事のコメント欄でもおっしゃってましたが)ドイツ語の発音について詳しく説明されておられますので省略します。ただ一言、貴女のお好きなWikipediaの【ヨーゼフ・ゲッベルス】の項目の冒頭に「発音」というボタンがありますのでクリックしてみてください。
貴女は、マスコミ(特にワイドショー)が事実と異なる報道をしているから、自分はそれを糺すためにコメントをしている、故に自身の微細な間違いは問題視されるべきではないとお考えのようですが、それは全く間違ってます。
論理的にきちんとした反論は反時流的古典学徒さんや政府解釈さんにお願いするとして、次の点について申し上げます。
(1) 少なくとも、この篠田教授のコメント欄の参加者にはワイドショーのコメンテーターの論を盲信するような者はおらず、以前にも申しましたが、ワイドショー批判なら5ちゃんねるなどより効果的な媒体が存在します。
(2) 下記はYahoo!の岡田晴恵氏に関する記事ですが、コメント欄を読んでみてください。岡田氏に対する批判的コメントが圧倒的、コメントの支持状況も批判的コメントに対するものが圧倒的です。媒体によるバイアスもあるでしょうが、世間は決して同氏に全面的に同調しているわけではないのです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/004bfbb1b21d82491b6d4b7d7c006e4f71889099
(3) 下記は(2)の記事についての5ちゃんねるのスレッドですが、Yahoo!のコメント欄よりは岡田氏擁護の傾向がみられるものの、やはり同氏に批判的なレスの方が多いようです。
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1597665618/
よって、ワイドショーの間違いを糺さんがためであるがゆえに自分のコメントの軽微なミスは許されるとお考えでしたら、前提条件から狂っていると思います。
(番組抄録)
https://jcc.jp/news/16281598/
(西岡省二氏のプロフィール)
https://news.yahoo.co.jp/byline/nishiokashoji/
なお、カロリーネ氏は、些細なケアレスミスで事柄の本質には何ら影響しないと弁明するかもしれません。しかし、皆様が既に指摘しているとおり、カロリーネ氏のコメントは誤りだらけなのです。そのような誤りだらけのコメントはカロリーネ氏が好んで使う「公共の福祉」に寄与するどころか迷惑になっていることを自覚して欲しいものです。再三に亘る指摘にも関わらず自己認識を改めずに「公共の福祉」になると勝手に妄想して投稿を繰り返している姿は、滑稽ですし哀れでもあるのです。
ギリシア語で言論の自由、何でも話せる自由のことを「パレーシアー」(παρρησία=freedom of speech)と称する。
それは、現代の抑圧国家である中国にはない、民主制の祖国ギリシアが育んだ美風だ。
だから、ギリシア人はデモクリトスの言にもあるように、次のように考える。
「民主制のもとで貧乏暮しをしているほうが、王侯のもとで幸せと呼ばれるような生活をしているよりも、はるかに望ましい。それは自由と隷属との違いなのだ」(Frag. 251: ‘ἡ ἐν δημοκρατίηι πενίη τῆς παρὰ τοῖς δυνάστηισι καλεομένης εὐδαιμονίη τοσοῦτον ἐστι αἱρετωτέρη, ὁκόσον ἐλευθερίη δουλείης.’; Dieils-Kranz, Bd. II, S. 195)
つまり、プラトンが『国家』で指摘するように、民主制(δημοκρατία)とは、自由と多様性を許す放任(ἡ ἐξουσία)、つまり極めて寛容な制度ということだ。
それが、人民各層に充分に均霑されることのない経済的繁栄を餌に人民を支配し、現代の奴隷を大量に生み出す中国のような抑圧体制との根本的な違いだ。
自由なき富(πλοῦτος οὐκ ἐλευθερία)を、自由と尊厳ある貧困(σεμνός πενία)より上に置く典型的な奴隷の思考(διανοία δοῦλου)が、多くの中国人を支配している。
一方、個人的な自由について、プラトンは次のように説く。
「『民主制国家が善と規定するところのものがあって、そのものへの飽くことなき欲求こそが、この場合も民主制を崩壊させるのではあるまいか?』『民主制国家は何を善と規定していると言われるのですか?』『自由だ』と僕は言った、『実際、君はたぶん、民主制のもとにある国で、こんなふうに言われているのを聞くことだろう――この自由こそは、民主制国家がもっている最も善きものであって、まさにそれゆえに、生まれついての自由な人間が住むに値するのは、ただこの国だけである、と』」
つまり、自由を善と規定するのが民主制の原理(ὃ δημοκρατία ὁρίζεται ἀγαθόν, … τὴν ἐλευθερία)だということだ。
具体的には、「ではまず第一に、この人々は自由であり、またこの国家には自由が支配していて、何でも話せる言論の自由が行きわたっているとともに、そこでは国家の中で、何でもしたいと思うことをすることが放任されているのではないかね?」(‘οὐκοῦν πρῶτον μὲν δὴ ἐλεύθεροι, καὶ ἐλευθερίας ἡ πόλις μεστὴ καὶ παρρησίας γίγνεται, καὶ ἐξουσία ἐν αὐτῇ ποιεῖν ὅτι τις βούλεται;’; ibid., 557B)という自由であり、放任となる。
さらに、「しかるに、そのような放任のあるところでは、銘々が自分の気に入ったように自分なりの生活設計をすることになり、自分だけのやり方をすることになる」(‘ὅπου δέ γε ἐξουσία, … ἰδίαν ἕκαστος ἂν κατασκευὴν τοῦ αὑτοῦ βίου κατασκευάζοιτο ἐν αὐτῇ, ἥτις ἕκαστον ἀρέσκοι.’; ibid., 557B)と。
それが、中国との違いだ。
むろん、過度の自由(ἡ ἄγαν ἐλευθερία)が民主制の逸脱形態である過度の隷属(ἄγαν δουλεία)、即ち僭主制につながる危険性を抱えているという根本的矛盾から、プラトンは手放しで民主制を賞讃しないが、中国など論外ということだ。
☆訂正 74の「休戦状態を本格的な停戦に移行」は「終戦に移行」の誤り。
「民主主義」政治についても同じことである。民主主義とは、自由であり、またこの国家には自由が支配していて、何でも話せる言論の自由が行きわたっているとともに、そこでは国家の中で、何でもしたいと思うことをすることが放任されていることではない。その構成員一人一人が、無制限に自由を謳歌できるのではない。権利を濫用するのではなく、その自由や権利を「公共の福祉の為に利用する責任を負う」、と日本国憲法に定められている。マスコミ、メデイアは、その責任を負っているのだろうか?ドイツのメルケル首相の統一29記念スピーチにも、「責任」、という概念が多用されていた。自分の下した結果の責任は自分にあり、うまくいかなかったといって、その責任を国家やエリートの責任にしてはいけない。日本のマスコミのしていることは、まさにこれで、自分たちが煽っておいて、失敗した責任は政府に押し付ける。コロナ問題にしろ、自分がその賠償責任を取らなければならないとして、本当にアビガンを勧め、一人3-4万円も検査量のかかるPCR検査を54兆円もかけて、「いつでも、どこでも、なんどでも」するように国民に煽るのだろうか。自分がプロとして言論を使って主張したことの責任を、主張した人が取るのが「自由と民主主義」である。
そういう他人の主張をきく耳をもつ大統領であってはじめて、「国際協調」が進むのであって、「America first」の大統領であると、いくら、個人的な首脳同士の仲がよくても、結局は、「自国ファースト」の主張で押し切られる。第二次世界大戦の敗戦後、日本のその政治姿勢はいけない、とアメリカに促されて、「国際協調」の大切さが憲法の前文に取り入れられているのが「日本国憲法」なのではないのだろうか。つまり、日本国憲法で一番大切なのは「戦争放棄」ではなくて、「国際協調」である。そのことを主張され、私に気づかされてくださったのが、篠田英朗教授なのである。
本来、報道番組は、こういう意味合いもきちんと報道すべきものではないのだろうか。あれでは、素人の酒場談議である。
どの観察数も頭を打っています。
全国、各都道府県の人工呼吸器装着数すべてで夏波はすでにピークを過ぎています。
東京都陽性率は 5.4%、大阪陽性率は 7.4% に下がってきています。
おそらく、検査対象が集団感染から家庭内感染へと変わってきているからでしょう。
わたしは統一的観点からECMOnetの数値で感染状況の判断をしています。
福岡でも昨日から、❝コオロギが鳴き始めました❞。
無事、感染爆発は起こっていません。
熱中症による死亡者数のわずか10分の1の❝コロナ第2波❞です。
朝日新聞やNHKが❝第2波❞と呼びたいのは、❝感染爆発❞と煽り続けてきたことへの❝アリバイ作り❞と、煽り行為への❝罪悪感❞からでしょうか❓
もちろん、朝日新聞は安倍内閣への批判の口実にしたいのでしょうが、
DNC/NBC Newsです。
探してみてください。
39万回 視聴されています。
>私の世代でSNSのコメント欄を読む人がどれだけいるのだろう
COVID-19をめぐるマスコミ報道について国際政治学者のブログのコメント欄を読む人がどれだけいるのだろう。
また、8月10日記事のコメント125で貴女は
>アゴラをみると、この篠田教授の「鈍化する陽性者拡大、日本モデル vs 西浦モデル2.0モデルの正念場5」のブログ記事は、週刊アクセスランキング3位に入っている。つまり、篠田教授の支持者は多いのである。
とおっしゃっています。
アクセスランキングは必ずしも支持者の数を意味するものではないと思いますが、それはさておき、貴女も(広義の)SNSの動向をしっかり気にしておられるではないですか?
ということで、貴女がお考えであろう「ワイドショーの報道姿勢を修正していただきたいからです」(コメント56)ということを軸として、反時流的古典学徒さんや政府解釈さんや他のコメンターからの指摘・批判を軽微なものとして斥けるというのは、一貫性を欠いた態度だと思います。
加えて13の政府解釈さんのコメントもしっかり読み返してくださいね。
ところで、調べ物をしていたら、渋谷健司の4月29日付の記事が目についた。フジテレビ報道局解説委員の二関吉郎がインタビューしている。ということは、フジテレビも❝オオカミ・メディア❞なのだろうか❓
【日本の感染被害のピークはこれからやってくる】
この記事を検証しようかと考えていたが、読めば読むほどバカバカしくなってきてやめることにした。
今日の日本経済新聞にジャパン・パラドックスにかかわる❝交差免疫❞についての研究報告がのっている。
新型コロナに類縁のコロナに、すでに感染している経験がある人は、新型コロナに感染しても、無発症、軽症ですむ可能性があるという研究報告である。
東洋経済ONLINEで❝感染者4人で再封鎖「ニュージーランド」の凄み:ハードな短期戦で再びコロナ撲滅を目指す❞を報告している。
100日隔離でコロナ撲滅が成功したと思ってたら、8月11日4人の新規感染がオークランドで確認されたため13日ふたたび170万都市オークランドをロックダウンさせたという。
有名なアーダーン首相は❝ケタ違いのスピードで対策を講じている❞とどちらかといえば評価されているようだ。
「私たちは状況をわきまえているし、政府もしんらいされていると思う」と記事にある。
しかし、アーダーンの即決は正しいだろうか?
❝いつかコロナは侵入してきて行き着くところまで蔓延する❞という生態原理にしたがえば、延々と❝モグラ叩き❞が続くことになって、ニュージーランドの国は立ってゆかないようになるのではないか❓
その時、首相アーダーンはどのように評価されるのであろう。
彼の地から我が国へと目をやると次善の策とは言え❝無為無策の策❞がしっかりと根付いている。これも、数年たてば意外と評価されるようになるのかもしれない。
古代ギリシャって、そんなに民主的なのかな?
所詮現代とは違って女性に参政権はないうえ、奴隷制もあったのでは?
どんなに立派なプラトンやアリストテレスの一部の言説が残っていようと、説得力は感じませんけどねぇ。。。
また、カロリーネ氏には正確に引用する能力が決定的に欠如しているので、想定し難い仮定にはなりますが、仮にカロリーネ氏が「番組の表現をそのまま踏襲したもの」だとした場合、カロリーネ氏は日頃からマスコミ批判をしてきたのですから、当然ながらマスコミ報道の内容を充分に吟味した上で紹介すべきであり、無批判に「そのまま踏襲した」と都合が悪くなると番組に責任転嫁をできる立場ではないのです。
ついでながら、岡田晴恵氏は「医学博士」ではありますが医師免許はもっていないようなので「医師」ではありません。これは前にも確か指摘したような記憶があり他の方も指摘されていたような記憶もあるのですが、何度も繰り返し間違えてしまうのがカロリーネ氏の軽率なところであり、ある意味では「病気」である可能性も疑われる事態なのです。
さらに、カロリーネ氏は、コメント81で「政府解釈氏や反氏は、「私の主張は信頼できない」という理由をゲッペルスや金主席をあげて、教養の程度が知れているから、と主張する。」と記載しています。
しかし、私についていえば、「毎日新聞の西岡記者」の件について指摘をしたのであり、「ゲッペルス」や「金主席」について何らかの主張をした記憶はありません(過去に、カロリーネ氏の「金日恩」という誤りについて触れたことはあったかもしれません。)。
「通りすがりの老人」氏や反時流的古典学徒氏の投稿によってカロリーネ氏の「軽率さ」を再確認したに過ぎません。
「音楽の概念」に関する見解も、「国際協調」には関係しない音楽に関する個人的体験談を縷々書き連ねているだけであり、全く反論にはなっていない「反論偽装」で自己満足をしているにすぎません。
なお、カロリーネ氏のコメントは誤りだらけなので、私がコメントをした方が良いところに限定してコメントをしました。
そうした彼らの立場からみても、女性や子供、在留外国人、そして「財産」である奴隷を除いて、政治参加の平等(ἰσονομία)という原則によって市民権(πολιτεία)、要するに公職に就き、政治に直接参加できたことは、特別の意味がある。
なぜなら、そうした政治制度、国制は極めて限定的な範囲や規模の社会でなければ、古代ギリシア以外では実現しなかったからだ。91⇒【女性に参政権はないうえ、奴隷制もあった】と言ったところで、それは現代の価値観を2千数百年前の社会にもち込むことでしかなく、単純な比較で言えば最も民主制の原点に近い国家である米国は、建国以来長らく奴隷制度と「同居」した社会だ。
しかも、古代社会の奴隷は人種的偏見や奴隷貿易の結果ではなく、多くは戦争の結果だ。
ところで、悲劇作家エウリピデスの『アウリスのイピゲネイア』の台詞、「バルバロイ(βαρβάροι=ギリシア人以外の者、夷狄)をギリシア人が支配するのは当然だけれども、バルバロイがギリシア人を支配するのは不当だ。彼らは奴隷たるべき者、われらは自由でなければならない者」(‘βαρβάρων δ᾽ Ἕλληνας ἄρχειν εἰκός, ἀλλ᾽ οὐ βαρβάρους, / μῆτερ, Ἑλλήνων· τὸ μὲν γὰρ δοῦλον, οἳ δ᾽ ἐλεύθεροι.’; Euripides, Iphigenia Avlidensis, l. 1400~01)に端的にみられるように、ギリシア人には隷属(δουλείη)を極端に嫌う気質がある。
女性の政治参加はもっと別の価値観、平等基準もかかわっており、近代の市民革命以降に限定して、最も先進的な社会と言える欧州ですら、およそ100年前まで、フロイトやD. H. ロレンスが生きた時代、正常な女性が私生児を生んだというだけで、50年間も精神病院に収容されるという文化のなかで人々は生きていたという事情や、女性の政治参加が遅れたことを知る必要がある。
91②⇒【どんなに立派なプラトンやアリストテレスの一部の言説…】は、彼らがあたかも民主制に好意的あったかのような思い込みを反映している気配が濃厚で、どの程度古代ギリシア社会、民主制を知悉しているか想像するほかないが、自由が、現在考えられている以上に社会に浸透していたことを窺わせるのは、プラトンやアリストテレスが、行き過ぎた自由が社会にもたらす影響について警戒していたことからも明らかだ。
それは「立派な言説」という表現が含意する民主制やその前提である自由に対する手放しの肯定的な評価ではなく、否定的なものだ。過度な自由(ἡ ἄγαν ἐλευθερία)が民主制を突き崩し、その逸脱形態である過度な隷属(ἄγαν δουλεία)である僭主制(τυραννίς)、独裁に転化することへの警戒感だ。こうした変革はギリシアの場合、深刻な内部対立、ギリシア社会の習性とも言える内乱・内紛(στάσις)を引き起こすからだ。
78~79で自由を封殺する中国の抑圧体制と比較したのは、極端な格差社会で経済的繁栄の僅かな配分に人民が甘んじているとするなら、それが何より自由を尊ぶギリシア人の感覚からは奴隷と同じということだ。14億人の圧倒的多数が現状に甘じるなら確かに仮象の平等が成立するが、それば奴隷の平等で、自由はどこにもない。
以前、国立国会図書館に掲げられた「新約聖書」由来の銘文「真理はわれらを自由にする」(‘Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ’=‘ἡ ἀλήθεια ἐλευθερώσει ὑμᾶς.’;ただし、ギリシア語の正確な意味は「われらを」[ΗΜΑΣ=ἡμᾶς]ではなく、「あなた方を」[ΥΜΑΣ=ἡμᾶς])などもって回っていたが、それにならって言えば、「狂気は老婆を盲目にする」(‘Η ΜΑΝΙΑ ΤΥΦΛΟΕΙ ΓΡΑΥΝ’=‘ἡ μανία τυφλόει γραῦν.’)ということになる。
先の銘文の前提は、「私の言葉にとどまるなら、汝らは本当に私の弟子である。汝らは真理を知り、そして、真理は汝らを自由にする。」(‘ἐὰν ὑμεῖς μείνητε ἐν λόγφ τῷ ἐμῷ, ἀλήθῶς μαθεταί ρού ἐστε, καὶ γνώσεσθε τῆν ἀλήθειαν,’; “Κατα Ιωαννην”, 8, 31~32)と呼び掛ける主体が、「わたしは道であり、真理であり、命である」(‘ἐγώ εἰμι ἡ ὁδὸς καὶ ἡ ἀλήθεια καὶ ἡ ζωή•’; ibid., 14, 7)であることを承認することを前提にしている。
だから、普通の社会では老婆の姿勢は狂信または狂気、気違い沙汰、正気を失った(οὐ φρονεῖν)状態、つまり「正常な思考を逸脱した状態で」(ἐν τοῖς λόγοις)ということになる。
老婆はその意味で、「話が通じない人」(βάρβαροι)、まるで異邦人(βαρβαρικός)ということになる。狂信や狂気とはおよそそうしたもので、そういう人間がもち出す「真理」とか「真実」くらい危険なものはない。老婆のような単細胞には、そのまま狂気ならぬ凶器(τὸ ἐπαχθής ὅπλισμα)、文字通り「気違いに刃物」になる。
それは、仮令正鵠を射ていたとしても軽信の徒には「危険なおもちゃ」(τὸ βαρύς παίγνιον)であり、ヴォーヴナルグならずとも、「どこか正気を失った人間に誤謬のたねとならないような真理というものは恐らくこの世にはない。」(‘Il n’y a peut-être point de vérité qui ne soit à quelque esprit faux matière d’erreur.’; Vauvenargues, Maximes 32)という場合の真理であったり、ニーチェが端的に、「真理とは、それなくしてはある種の生きものが生きられないかもしれないような誤謬のことである」(„Wahrheit ist die Art von Irrtum, ohne welche eine bestimmte Art von lebendigen Wesen nicht leben könnte.“[Frag. 493], „Aus dem Nachlaßder Achtzigerjahre“[=„Wille zur Macht“])と喝破したものだ。
そして、齢70近くにして、懈怠を抱え、わがままかつ気ままで凡庸な主婦、暇をもて余した精神の幼児でしかない老婆のような人間は、「公共の福祉」(εὐτυχία κοινὸν)なる、戯けた、という以上に狂気じみた口実を設けて、「私欲はあらゆる種類の美徳悪徳を総動員する」(‘L’intérêt met en œuvre toutes sortes de vertus et de vices.’=La Rochefoucauld; Maximes 253)という狂態を演じ、早朝から、狂犬(μανικός κύων)のように騒々しく(μετὰ θορύβξου)吠え、「クズ」投稿を量産している。
88⇒【国際協調を「音楽の概念」と考えている…はミュンヘン大学で、ドイツ人の音楽学の先生に言われて、なるほど、と納得したことの一つ】は、国際協調(ἡ κόσμου κοινωνία)、平和協調の国際社会(die schiedlich-friedliche Völkergesellschaft)を音楽になぞらえて理解するところまではそれぞれの自由だが、113⇒【私の言う国際協調とは、音楽の概念】という前回の妄言の説明には全くならない。
国際協調と音楽を結ぶ、つまり媒介するものが欠落しており、論理的に完結しない、単なる宣言にとどまっている。「調和」(ハーモニー)=ハルモニアー(ἁρμονία)は音楽に限らないし、もとより「平和」(εἰφήνη)は音楽の概念などではなく、謂わばこの世界に共通する一般的な価値観であり、認識の枠組みということでしかない。
そうした、真っ当な思考様式が身につかず、何でもイマジネーション、無学な人間が想像を逞しくして見当違いなことを饒舌に語る阿呆を、音楽になぞらえれば「音痴」(ἀμουσος)という。別に音楽などもち出さなくても済む話だ。
そもそも、「音楽」を意味する「ムゥシケー」(μουσική)とは、音楽をはじめ「ムゥサ」(Μοῦσα)、つまり諸技芸を司る9人の女神であるミューズ(Muse=Μοῦσαι)に端を発する言葉で、元々の意味は、熱烈に希求する(μῶσθαι=ムゥスタイ)、転じて探究(μέθοδος)と愛知(φιλοσοφία)を意味している。
ギリシア神話に、軍神アレース(Ἄρης)と愛の女神アフロディーテー(Ἀφροδίτή)の娘ハルモニアー(Ἁρμονία)というのがいて、その名(「調和」の謂い)にふさわしく、和解と調和を司る。
ここでも音楽の出番などない。
ヘラクレイトスに有名な断片、「ビオス(生)、弓(τόξον)はビオスという名があるけれども、実の仕事は死なのだ。」(‘βίος: τῶι οὖν τόξωι ὄνομα βίος, ἔργον δὲ θάνατος.’; Frag. 48, Diels-Kranz, Bde., I, S. 161)とある通りだ(ビオス=βίοςはアクセントの位置によって生にも、弓[τόξον]の古語である殺戮の道具である弓[βιός]にもなるという意味)があるくらいだ。
さらに、「ハルモニアー」=調和(ἁρμονοία)の原義は単なる一致(ὁμόνοια)ではなく、「弦を張る」(χορδή νευράν)、つまり「弓に張られた弦や竪琴の調弦(ἁρμονοία)のように」(ὥσπερ ἁρμονίαν τόξου τε καὶ λύρας)、「逆向きに働き合う」(παλίντροπος)、逆向きに引っ張り合う(παλίντονος)見えない力の均衡という含みがある。
各国間の緊張関係を緩和することで衝突を避け平和を維持するために国際協調が求められるのは、一般的にはその通りだが、それはそれぞれの国家の単純な妥協によって対立や緊張をもたらす不均衡を緩和、解消するというより、一見して顕わでない「結びつき」(ἁρμονίη=ハルモニエー)を見出し、共存、並存の論理、つまりロゴス=理(λόγος)を見出すことで、緊張関係による相互依存の確認こそ、意味のある実質的な協調に道を開く。老婆のお子様友好論のつけ入る余地などない。
現在の米中対立を老婆のような天安門事件肯定派、しかもトランプ大統領の再選戦略とだけ短絡させて、極端に中国寄りの姿勢で、しかも自家撞着だらけの民主制論で中国を擁護しても、現在の国際秩序に対する挑戦者が中国であるから、前提からして成り立たない。
莫迦の一つ覚えのように、陳腐な「人民の、人民による、人民のための政治」(goverment of the people, by the people, for the people)を妄信する一方で、体制維持のため、「人民解放軍」の精鋭部隊が人民に銃口を向け装甲車で轢き殺す蛮行を擁護する醜悪な二重基準も意に介しない。
こうした政治や権力者への隷属意識は、政治的な未成熟さの発露で、悪い見本、政治におけるドイツ的な後進性、伝統的従属意識をそのまま受け継いでいるから滑稽だ。そうした政治的に未熟な同胞を、カントは冷徹に分析している。
「ドイツ人はあらゆる文明国民の間で、彼が従属している政府に最も容易に、またどこまでも言いなりになる国民であり、一度導き入れられた秩序を更新しようと欲したり反抗しようとすることからは最も縁遠いものである。ドイツ人の性格は悟性と結びついた粘液質であり、すでに導き入れられた秩序について理屈をこねまわしもしなければ、自分自身で一つの秩序を考え出そうともしない。」(山下太郎訳『人間学』、理想社版『カント全集』第14巻、310頁=„ Der Deutsch fügt sich unter allen zivilisierten Völkern am leichtesten und dauerhaftesten der Regierung, unter der er ist, und ist am meisten von Neuerungssucht und Widersetzlichkeit gegen die eingeführte Ordung entfernt. Sein Charakter ist mit Verstand verbundenes Philegma; ohne weder über die schon eingeführte zu vernünfteln noch sich selbst eine auszudenken.“; „Anthropologie“, hrsg. von O. Schöndörffer, Immanuel Kants Werke in Gemeinschaft,, Bd. VIII, S. 211)
老婆には軽信と妄信しか存在しない。[完]
休戦も 主席も知らぬ うつけ者 酷暑昂じて 酷評の渦
米国には建国時には奴隷がいた。けれども、トランプ氏が大統領になるまでは、その奴隷だった黒人に、白人と同じ市民権を与えよう、と努力してきたのが、アメリカの民主主義、アメリカ史である。反氏の見方が差別的なのも、古代ギリシャに由来するせいなのではないだろうか。つまり、大事なことは、ゲーテの「君の書くものに、自分の経験が生きているだろうか。」なのである。仮想現実を夢想してみても、なにも生まれない。
カントはいつの時代の人なのだろう。
カントは、1724年から1804年までの
生涯を送った人である。現代の日本人が、江戸時代と同じ国民性をもっているのだろうか?
今のヨーロッパの政治を束ねているEUの委員長、の国籍はどこで、
ドイツのメルケル首相は、政治家として、EU域内や、アメリカでどのように評価されているのだろう。彼女は、難民問題でも、ベラルーシュのことでも、ウクライナのことでも、一つの秩序を作ろうとされたのではないのだろうか。
とにかく、反氏には時代錯誤をいい加減にして、現実の時代感覚、をきちんともっていただきたい。
「冷戦終結」の言葉は知っていても、そのドイツの現実の姿を知らない日本人が多いのかもしれないが、是非、その現実を認識してから、文章を書いてほしい。ドイツ人と政治、については、私の認知能力が低い、のではなくて、反氏の認知能力が低いのである。
老婆を衝き動かすエネルギーは、誇大妄想、被害妄想、迫害妄想と、おしなべて「パラノイア性疾患」(paranoische Erkrankung)が顕著な不安ヒステリー(Angsthysterie)であり、度を越した自己愛(Narzissismus)が生む妄想コンプレックス(Wahnkomplex)だ。
ちょうど1年前、その厚顔無恥ぶりをワイヤー製の「ピアノ線並み」と評したら、2019年8月29日・7⇒【私の趣味に、ピアノ演奏…ピアノ線に自分の思いが伝わり、素敵な演奏ができたらいいな、と思うので、ピアノ線並みの神経…は私にとっては誉め言葉】と書くような、強靭=「狂人」ならぬ「強靭な神経」(στερεός νεῦρον)で嘯いた御仁だ。以降、「クジラの髭並みの神経」に差し替えた覚えがある。
101⇒【政府解釈氏は、自分が批判されると、非常に傷つくくせに、他人への批判…は無神経…カロリーネ氏の認知・記憶・叙述の各能力の低さ…と…平気で書く】にも、独りよがりな自己愛が影を落としているのがまざまざと窺える。
少し考えれば分かる通り、政府解釈氏が傷つく理由がない。傷ついたのは婆さんの方だろう。それでも、政府解釈氏はよほど抑制的で、いつもながら感心する。莫迦が移るから、無闇に深追いしない。人間ができている。
102⇒【反氏は、いつのドイツ人のことを主張】というが、婆さんの莫迦の一つ覚えのゲーテ(1749~1832)やベート―ヴェン(1770~1827)とさして違わない。問題は、ドイツ人の政治的未熟さについて、カントの認識が両者より徹底していることだ。無知蒙昧なお子様の老婆には理解不能だろう。
音楽で 政治を語る お子様に ゲーテ逆立ち コペルニクス?
私らしく 間違えました だから何 それでも懲りず 恥は書き捨て
ことの発端は、1年前の老婆の驚愕の投稿、2019年9月3日・81⇒【日本の学校で習う歴史は、英米仏史観…けれども、西独で音楽学を学ぶと、コペルニクス的転換がおこる】。天動説に固執した常識人のゲーテには逆立ちしても老婆の与太話は理解不能だろうという意味。
前回113⇒【私の言う国際協調とは、音楽の概念】のような戯言は、老婆の場合、パラノイア気質ゆえに過去にも似た事例が尽きない好例。
そもそも、「コペルニクス的転換」ではなくて、「コペルニクス的転回」(eine kopernikanische Umwärtung)なのだが、底知れない無学だからお構いなしで、出典となったカントの『純粋理性批判』(„Kritik der reinen Vernunft“, 2 Aufl., 1787)など読むはずもなく、無学以上に「阿呆」だから、背伸びして大恥をかく。
ついでだから、カントの原文で相当箇所を引用する。
「この事情はコペルニクスの主要な思想とまったく同じことになる。コペルニクスは、すべての天体が観察者の周囲を運行するというふうに想定すると、天体の運動の説明がなかなかうまく運ばなかったので、今度は天体を静止させ、その周囲を観察者に廻らせたらもっとうまくいきはしないかと思って、このことを試みたのである。」(篠田英雄訳『純粋理性批判』第二版序文、岩波文庫上巻33頁=„Es ist hiemit ebenso als mit den ersten Gedanken des KOPERNIKUS bewandt, der, nachdem es mit der Erklärung der Himmelswebegungen nicht gut fortwollte, wenn er annahm, des ganze Sternheer drehe sich um den Zuschauer, versuchte, ob es nicht besser gelingen möchte, wenn er den Zuschauer sich drehen und dagegen die Sterne in Ruhe ließ.“; „Kritik der reinen Vernunft“, hrsg. von A. Görlamd, Immanuel Kants Werke in Gemeinschaft, Bd. III, S. 18)
底なしの 阿呆も逆立ち パラノイア
「G20開幕とベルサイユ条約100周年」のブログで、
ベルサイユ条約が結ばれて100年の記念日に大阪でなにも大きな行事がなかった、と書かれたが、それにについて、コメント欄1,2,3にも書き、その後も何度も書いているがhttp://shinodahideaki.blog.jp/archives/32450048.html#comments、世界史の認識に、ドイツの主張に沿ったコペルニクス的転換が起こっているから、そうなのである。ヒトラーが権力をもったのは、「ベルサイユ条約」、特に231条が、その大きな要因である、ということが、EU諸国で認識されている。それは、国際協調して、歴史を共通に認識しようと努力する試みが行われているせいで、現在の中東紛争の遠因となっている第一次世界大戦後の戦勝国と敗戦国オスマントルコとの、「セーブル条約」と「ローザンヌ条約」も問題になっている。これらの条約も、中東の民族、文化を無視した、戦勝国、英仏のエゴ、の体現そのものの条約であるからである。
最近の国際情勢、歴史認識を反氏は知らず、とっくに過去の遺物になってしまった理論に固執されるから、齟齬が生じるのであるが、それを反氏は、私が無学以上に「阿呆」だから、背伸びして大恥をかく、と主張される。
反氏が「有学」であることは折り紙付きであるが、おかしな認識をいつまでも持ち続けておられるのはどちらだろう。それは、東大系憲法学者にもあてはまる。
ドイツ文化センターが「Goethe Institut」で、「Kant Institut」ではないことも、同時につけ加えておきたい。
どの観察数も頭を打っています。
全国の人工呼吸器装着数 187件(21日)
東京都陽性率は 5.3%、大阪陽性率は 7.3% に下がってきています。
メディアが大阪、東京のコロナ被災の逆転を報道していますが、もう少しでこの暑さが過ぎますので動揺しないほうがよろしいでしょう。
感染爆発は起こっていません。
熱中症による死亡者数のわずか10分の1の❝コロナ第2波❞です。
ヨーロッパでロックダウンして感染爆発を抑えたイタリア、スペインは経済危機に陥っているのであって、日本と違って、現在本当に感染再爆発しているスペインは、ロックダウンをしない方針である。経済へのダメージが大きすぎるからである。日本は、Covid19の感染者数、死者数とも少ないのに、経済が低迷している、とSpiegel誌が報道しているが、それは、日本のマスコミが不安感、危機感を煽るからである。日本の社会生活、精神生活に悪影響を与えるのを、本当にいい加減にしてほしい。マスコミ、テレビ業界の人々は、一体なにを考えているのだろう。
それが101⇒【間違え(い)探しをして、私を批判しているだけだ】、遡って87⇒【反時流的古典学徒…政府解釈…他…から指摘・批判を軽微なものと退けるのは、本質をついていないから…私のケアレスミスを指摘すること、「虚偽体質」、「老婆の妄想」とレッテル付け…主張全体を「たわいのないもの」、「信頼のおけないもの」であると…印象付け…その悪意がすけてみえる…マスコミの…安倍政権批判と同じ】のようなパラノイア気質特有の被害妄想(παρανοία=Beeinträchtigswahn)、責任転嫁となる。
さらに誇大妄想(ὑπερβολή=Grössenwahn)や迫害妄想(Verfolgungswahn)を通じて一種の救済妄想(Erlöserwahn)につながり、前回113⇒【私の言う国際協調とは、音楽の概念】のような極端な妄想形成(Wahnbildung)という形での特異な思考形成(Gedankenbildung)過程を経て妄想コンプレックス(Wahnkomplex)に至っている可能性があるようだ、という趣旨のことを以前にも書いた(8月17日・138)
そして、そうした現実の歪曲(Entstellung)は、老婆の際立った特質である過度な自己愛(Narzissismus=φιλαυτος)が引き起こす強迫観念(Zwangsidee)となり、明らかな思考の停滞(Verweilen im Denken)を生んでいる。
老婆にみられる極端な感情移入(Einführung)や感情転移(Übertragung)もそれを窺わせる。あるいは、単にしらばっくれている(εἰρωνεύομαι)のかもしれないが、抑圧(Verdrängung)が強いのだろうし、何度でも繰り返し間違いを犯すヒステリー症状特有の健忘(Amnesie)と忘却(Vergessenheit)の繰り返しも異様だ。葛藤(Krankheitskonflikt)もあるのだろう。
あの奥床しい、というか日頃は極めて自制的で冗語を弄することのない政府解釈氏が、93⇒【何度も繰り返し間違えてしまうのがカロリーネ氏の軽率なところであり、ある意味では「病気」である可能性も疑われる事態】というくらいだから、相当重症、つまり病膏肓だ。
私は一連の奇矯な妄執的な言辞の背景に、反動形成(Reaktionsbildung)としての父親コンプレックス(Vaterkomplex)があると推測する。老婆も充分自覚していない「病気」の原因(Krankheitsanlassung)など、精神科医でもないので決定的なことは言えず、本稿も酔狂ついでに書いているが、精神分析学的分析は、フロイトくらい説得力があると素人では手に負えず、どうとでも解釈できる余地を残しており、ある意味他愛ないものだ。それは心理学全般に言えることかもしれない。
107で苦し紛れに歴史解釈にすり替えてごまかす、⇒【音楽学で「…コペルニクス的転換】という莫迦話に、老婆の虚偽体質は明らかだ。
テレビ漬け 妄想募らせ ヒステリー コペルニクスも 解けぬ煩悩
☆訂正 「コペルニクス的転回」の綴りに誤り。»…Umwärtung«ではなく、正しくは»eine kopernikanische Umwälzung«。»eine kopernikanische Wendung«とも。
舛添要一氏のあたかも「日本モデル」が失敗したかのような効果あったかに見えた日本のコロナ対策、なぜ惨状にhttps://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8A%B9%E6%9E%9C%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%AB%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E5%AF%BE%E7%AD%96-%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%83%A8%E7%8A%B6%E3%81%AB/ar-BB18eXqgで、あたかも日本がアジアの「劣等生」のような「国際政治学者」という肩書の前東京都知事の文章を読んでいると、ほんとうにこの人はなにを考えているのか、とびっくりする。インドはどうなのだろう?イランはどうなのだろう?日本は、世界から、コロナ対策で優等生、というお墨付きをいただいているのである。それを肩書とイメージ戦略で覆す。とにかく、虚偽体質は、私ではなくて、マスコミで活躍している知識人であり、その知識人たちが、日本の公共の福祉を阻害している、ということを読者にはよく納得してほしい。
だから、政府の新型コロナ対策に関するテレビメディアの取り上げ方について、偏執狂の老婆のような関心も興味もないが、113⇒【テレ朝のような「無責任な詐欺集団を逃してはいけない」と主張】というのは、正確ではあるまい。
篠田さんが直接主張しているわけではなく、藤原かずえ氏という、そのブログ記事が『アゴラ』に転載されるメディア批評家の20日の発信を篠田さんがリツィーとしただけの話だろう。
しかも、老婆が大騒ぎする「詐欺集団」ではなく、藤原氏は「詐欺的集団」と逃げを打てる余地も。訴訟沙汰でもなく、両者の違いを厳密に論じても実質的に意味はないが、篠田さんも酔狂だし、それに飛びつく老婆は愚鈍だ。
すべからく、この間の政府の「無為無策」に等しい新型コロナ対応に批判的なメディアを、自らのクズ投稿に対する本欄での総スカンに重ねて、87⇒【「信頼のおけないもの」であると…印象付け…その悪意がすけてみえ…マスコミの…安倍政権批判と同じ】のように、論点をごまかすことしかできないのを、精神分析の用語でなくとも「歪曲」(Entstellung)というのだろうし、そうした自己認識を欠いているから「虚偽体質」(ψεύστης φυσικός)なのである。
レッテル(ἐκμαγεῖον)を貼っているのではなく、そうした評価=レッテルに相当する事柄を、具体的に指摘し、叙述しているだけの話で、レッテル貼り、印象操作(κακῶς εἰκάζειν περί)と非を鳴らすだけの婆さんにはない論証がある。
藤原氏の20日の発信は、「テレ朝は雇上げの司会者を利用して逃げにかかっています。無責任な詐欺的集団を逃がしてはいけません」としたのも、メディア批評として正鵠を射ているか否か、議論の余地がありそうだ。
それを篠田さんも一々リツィートしている。果たしてテレビ朝日が無責任な「詐欺的集団」か否か、BPO(放送倫理・番組向上機構)の審査基準に抵触するほどの詐欺的な悪質さか、7日移動平均の逓減傾向を藤原氏が視聴した当該番組に限定して「一切報じない」というのがたとえ事実だったとしても、編集権はNHKにあり、報道番組全体として特段意図的な歪曲や情報操作の実態がなければ、「絶対に解体」というほどの問題でもなかろう。
視聴者を子供扱い扱いしている姿勢もいただけない。
政府対策分科会委員の小林慶一郎氏が、現実問題としてこのところ、113②⇒【国費から54兆円を出費して大量のPCR検査をすべき】と主張しているわけでもない。以前、篠田さんのお仲間の国際政治学者細谷雄一氏を含めたそうした主張を含む緊急提言(「緊急提言・新型コロナV字回復プロジェクト『全国民に検査』を次なるフェーズの一丁目一番地に」=鹿島平和研究所、国力研究会/安全保障外交政策研究会+有志)に賛同しただけで、現在は見解を修正している。
PCR パー(P)繰り返し(C) リフレイン(R) 問題の肝 何処にありや?
イライラを 募らす老女 浅ましき 錯乱いや増す 晩夏猿芝居
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/corona6.pdf
その中には、同分科会の構成員ではありませんが西浦博・京都大学大学院医学研究科教授が作成した資料1が掲載されています。概要としては、東京都、大阪府、愛知県、沖縄県の実効再生産数とそれに関する考察(評価と課題)が記載されています。
西浦教授は、同分科会でも廃止された専門家会議と同様に、構成員ではないオブザーバーとして、感染症数理モデルを利用した流行データ分析に関する専門的知見を提供しているようであり、若干の認識の違いや温度差はあるとしても、同分科会の尾身会長や押谷構成員と西浦教授とを対立的図式で評価するのは短絡的ではないかと思います。
確かに、そういう一面はあるかも。
1兆7千億円を超える予算を投入して、政府も急遽、対処しようとしているのにマスコミ(や野党)がいろいろ言いすぎ。さらに世論や業界に配慮して、キャンペーンを前倒しして実施してくれたのに、「東京は除外しろ」だの現場はさぞ大変だろうな。
私から見ればヘンな批判ばかりしていて、結局のところ、日本全体としてよい方向へ行くようには思えない。
https://www.jiji.com/sp/article?k=2020082001139&g=soc
上記引用の押谷教授の分析内容は、コメント118で紹介した西浦教授の実効再生産数の分析内容と整合するものです。
しかし、この減少傾向で安心して感染対策を直ちに緩めて良いというわけではなさそうです。感染防止に向けた行動変容に緩みが生じると実効再生産数は増加傾向に推移するのが過去のデータから窺えるからです。また、お盆の時期の感染状況の結果は現時点ではまだ出てきていないので、その推移にも注視する必要があるようです。
なお、下記は西浦教授の考え方を知る上で参考になります。
(対談記事)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61732
下記では42万人死亡予測についても若干の言及をしています。
(文春オンライン)
https://bunshun.jp/articles/-/39438
あらかじめ、文中のギリシア語を説明すれば、[ἐπισθήμη]は理論的な知識または学的理解(scientific knowledge or science)のことで、それと対比されるのが実践的な知慧、賢さを意味する[φρόνησις=practical wisdom]。ちなみの、知慧を意味するもう一つの伝統的な言葉はソフィア[σοφία=thoretical wisdom]。
[ἀποδεικτική]は論証(ἀπόδειξις)の技術、[ἀποδεικτικοί]の論証の結果、[συλλογισμοὶ]は推論(συλλογισμός)の結果、[ἐπισθημονικοί]は知識の各機能、科学的推論は[ὁ ἐπισθημονικὸς συλλογισμός]になる。[ἕξις]は状態または性向の意味。[προαιρέσις]は選択とか意図のことである。
アリストテレスの見解を以下のようだと註釈する(‘His doctrine in these passage may be outlined simply thus:’)
‘The man of science (ἐπισθήμων) is the man who can prove: science (ἐπισθήμη) is ἕξις ἀποδεικτική (i.e. a state of mind describable as an established power of demonstration), and express itself in a chain, or a system of chains, of scientific, i.e. demonstrative, syllogisms (συλλογισμοὶ ἐπισθημονικοί, ἀποδεικτικοί). The φρόνιμος is the man whose action is intelligent, controlled by reaosoning, i.e. true deliberlation. His φρόνησις is a ἕξις ἀποδεικτική ― an established power of reasoning deliberating ― which expresses itself in syllogisms whose conclusions are προαιρέσις (purposes), or (Aristotle says this is the same thing) ations.’(H. H. Joachim, Aristotle the Nicomachean Ethics, a Commentary, ed. by D. A. Rees, 1951, P. 208)
アリストテレスの原文には、
「『思慮』については、どのような人をわれわれが『思慮ある人』と呼んでいるかを考察してみれば、そのまま把握できるだろう。そこでまず、自分にとって善きもの、利益になるものについて適切に、しかも部分的にではなく思案できる…これが思慮ある人の特徴であると考えられる。…したがって、人生の全般にわたって思案する能力を備えた者が、思慮ある人ということになろう。…実際彼らは、自分たちにとって善いこと、そして人々にとって善いことを洞察することができるからである。…このことから、われわれはこの言葉に因んで、『節度』も『思慮を保全すること』という意味で、これを呼んでいるのである。」(‘Περὶ δὲ φρονήσεως οὕτως ἂν λάβοιμεν, θεωρήσαντες τίνας λέγομεν τοὺς φρονίμους.’ δοκεῖ δὴ φρονίμου εἶναι τὸ δύνασθαι καλῶς βουλεύσασθαι περὶ τὰ αὑτῷ ἀγαθὰ καὶ συμφέροντα, οὐ κατὰ μέρος,…… ὥστε καὶ ὅλως ἂν εἴη φρόνιμος ὁ βουλευτικός. …… ὅτι τὰ αὑτοῖς ἀγαθὰ καὶ τὰ τοῖς ἀνθρώποις δύνανται θεωρεῖν•…… ἔνθεν καὶ τὴν σωφροσύνην τούτῳ προσαγορεύομεν τῷ ὀνόματι, ὡς σῴζουσαν τὴν φρόνησιν.’; Ethica Nicomachea, 1140a24~31, b9~12)
なお、婆さんは勘違いしているが(103⇒【私の認知能力が低い、のではなく】)、「認知」とはsensible perception(αἰσθητικὴ ἐπισθήμη)にかかわる能力のことで、認識の前提だ。
日本語は正確に使用することで、認知症にはまだ早い。
東京都陽性率は 5.3%、大阪陽性率は 7.2% に下がってきています。
人口呼吸器装着数が全国で5件増えました。4月のピークが300件ちょとでしたので3分の2、返したことになります。この数が増加し始めてからほぼ1か月になりますので200件前後がピークになるでしょう。下がり方は、どれほど高温多湿が続くかによってきそうです。
GO to キャンペーンによる人の動きも感染増加を引き起こす誘因ではありますが、それは7月から8月の都内感染増加を十分に説明できないように思います。おそらく、梅雨明けの開放感、高温多湿が3密を促すような働きを持っているのではないかと深読みしています。
南朝鮮で梅雨明けから感染再増加が見られ始めたのはそのためではないかと考えます。
感染爆発を心配する必要はありません。
と考えているのである。そして「自他をよくしらべる」ということも、単に否定的な、無知暴露に終わらず、あるいはさきの産婆術にもみられたように、何か取り上げることのできるものが、精神の出産物の中に含まれていないかと、積極的な意図をもってしらべることになるかもしれない..。愛智としての哲学へのむすびつきは、何かこのような積極的な転換によらなければならないだろう。』また、「・・・ただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいということに気をつかっていて、恥ずかしくないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮や真実には気をつかわず、また自分の精神を、できるだけすぐれたものにすることにも、気をつかわず、心配もしていないというのは、と言い、諸君のうちの誰かが、これに異議をさしはさみ、自分はそれに心を用いていると主張するならば、その者をわたしは、すぐには去らしめず、また私も立ち去ることをせず、これに問いかけて、しらべたり、吟味したりするだろう。」とも書かれている。
このブログの主、篠田英朗教授のなさっていることも、「ソクラテスの産婆術」そのものなのであって、篠田教授のブログを読まなければ、「日本国憲法の核心は国際協調である」とも考えなかったし、日本がCovid19対策で成功しているのは、「日本モデル」、「過去のクラスター調査」に重点をおく手法、三密回避、マスク着用である、ということに気づかなかっただろう。普通の我々の世代の人も、仕事に忙しい人も、テレビで情報をとっているのであって、テレビの報道は、どの局も一様に、新規感染者数をおどろおどろしい音楽とナレーションと共に諸外国と比べることもなく発表し、不安を煽り、日本政府はなにもしない、と糾弾する。そして、「日本の感染者数も死亡者数も少ないではないですか。」と指摘されると、「PCR検査自体が少ないため」、或いは、「アジア系の人々の遺伝的、文化的特質もあげて、たまたま日本は今まで運よく、被害が少なかっただけで、今のままだと、昔のニューヨークになる。ニューヨークは、「いつでも、どこでも、だれにでも」のPCR検査の拡大で、感染者を抑え込んだ。日本も安全に経済を回したいのならPCR検査数を拡大し、危機を感知して即座に「緊急事態宣言」を宣言しなければ、日本は感染爆発を引き起こす。」、と喧伝するのである。その情報にしかふれないと、人は無意識的にそう考えるようになる。このご時世、どこに行っても、話題が「これに」なるが、ほとんどの人が、マスコミと同じ主張である。「PCR検査の精度が問題よね。緊急事態宣言が出たら、経済はどうなるのかしら。失業が心配よね。」などという主張はほとんどない。
「緊急事態宣言」の発令にしろ、マスコミは日本政府に求めるが、それは具体的になにをすることを求めているのだろう。まさか、東京都のレインボーブリッジのような、視覚的刺激を与えて、国民に注意喚起を求めよう、というものではないから、具体的には、4月と同じ、西浦式の「接触削減」と「stay
home」なのではないのだろうか。今、一番「家庭内感染」の新規感染者が多いという事実を踏まえた主張なのだろうか?マスコミに登場される専門家に限っていえば、一般的に学識のある者、専門知をもつ人間と賢い人間=賢慮ある人についてのアリストテレスの見解はあたらないのである。夫に言わせれば、「まともな良識ある専門家は、テレビに出ない。」そうであるが、テレビ報道で世論が作られている以上、その弊害があまりにもありすぎる。「家庭内感染」が増えているのは、「自宅療養」を認め、感染する危険性のある感染者を隔離しないせいで、なぜ、「東京オリンピック」の為に大量に建設した選手村の施設をこの非常時に使わないのか、ということである。
否定的な、無知暴露に終わらず、対案を出さなければ、意味がない。マスコミの識者のように、「安倍政権の政策の、批判否定」、ばかりしていても、意味がないのであって、それからなにかを生み出すことが大事なのである。それが、「PCR]検査の拡大」と、「緊急事態宣言の発布」だけなら、あまりにも、お粗末だし、その二つの対策から派生する問題が多すぎる。
専門家が主張しているからではなくて、対立する意見から新たな問題解決法を見出す、というのが、Hegelが主張したほんとうの「Aufhebenの意味」である。識者が、わかりやすい言葉ではなく、知的虚栄心を満足するために、難しい言葉や横文字言葉ばかり使うから、理解が難しくなる、本当に、ゲーテの主張するとおりである。
どうして、日本の報道番組は、それをきちんと報道し、日本国民に周知徹底させないのだろうか。
つまり、発病者の80%は軽症であるCovid19患者は、熱中症患者よりも死者数が少ないし、Covid19の感染者の80%は感染させないのだから、感染したかどうか、つまり陽性か陰性か、ということよりも、他人に多く感染させる可能性のある人を割り出し、隔離することの方が、はるかに重要なのである。それは、「大きな感染拡大の芽を摘む」ことにつながるからである。一人の感染者が多くの人に感染させるクラスターさえ発生させなければ、ほとんどの感染連関は消滅していく、だから、日本モデルは、「三密の回避」と「マスクの着用」を奨励し、その対策の結果、日本の実績は欧米と比べて成績がいいのである。
例えば、「天理大学」の一件は、日本のCovid19感染者の現状から見て、30歳以下の死者は糖尿病を患っていた力士だけ、天理大学のクラスターは、30歳以下のクラスターなのだから、東京都が「夜の街」クラスターの時に実施しなかった他者への「感染リスクを避けるための隔離」さえきちんと実施してあれば、「感染連鎖」は消滅していくのである。どうして、この簡単な「初歩の公式」が理解できないのだろう。
おかしな人を「識者」とテレビの報道番組が持ち上げるから、日本の世論がおかしくなるのである。
テレビ各局のプロデユーサーは、全くの勉強不足、知性の裏付けのない「口先男、女」ばかりを「識者」、「専門家」と持ち上げて、連日テレビに登場させるのをやめてほしい。
その歪な、間違った報道によって、現実に日本人が払っている犠牲は、「夏の思い出」作りを含めて、計り知れない。
あれだけ立派な政治をし、日本を高度成長に導いてくださった偉大な政治家に対して、罵詈雑言、どれだけのことを日本の新聞は書いたろう。その結果、退任演説の時、新聞記者は追い出されたのであって、そのころテレビは、切り取りの技術がなかったから、佐藤首相に信頼されたが、現在の安倍首相なら、一番に出て行ってほしいのは、テレビ関係者だろう。どれだけひどい「安倍批判」の報道をしているか。
松原耕二さんは、ポスト民主主義から独裁の時代と言われているが、それを端的に示しているのが、英米の政治なのであって、元首が「プロパガンダ」、嘘、パーフォーマンスの政治をして、人気を博しているからである。プーチン大統領もその傾向が強い。
その対極にあるのが、ナチス時代に失敗したドイツのメルケル首相、妥協の政治家である。安倍首相も妥協の政治家なのではないのだろうか。マスコミが、「パーフォーマンス」の政治家を持ち上げるから、ファシズムになるという歴史の教訓を本来マスコミ関係者がよく認識し、反省すべきなのである。
新規感染者数 新規死亡者数
スペイン 3650 25
イギリス 1288 18
イタリア 1071 3
フランス 3602 9
ドイツ 836 3
カナダ 257 7
スイス 295 ?
オーストリア 300 2
ベルギー 716 9
オランダ 508 5
スェーデン 181 5
フィンランド 35 0
韓国 332 2
再拡大と言えなくもないですが、少ない。
しかも死亡者数は4月波に比較するとほとんどゼロです。
残存波扱いでいいのではないでしょうか。
安倍首相は、現実を直視し、判断し、言葉で表現されている。それを理解しようとせず、重箱の底をせせって、批判するのが、日本のマスコミの記者であって、忙しい中時間を作って記者会見してもらっても、理解するのではなくて、批判のネタを探しているのが日本のマスコミの記者なのである。それでは、首相が記者会見を開く気持ちがなくなるのではないのだろうか。ブログの主、篠田教授が、Twitterに載せておられる主張、社会問題を悪化させることが自分たちの利益であり使命であると思い込んでおられる人たちは、さすがに珍しいが、多くの日本のマスコミ人とはそういう人々だ、という主張は、ほんとうにその通りだと思う。
そうした自身の憐むべき実態、「自画像」(αὐτός εἱκών)に向き合うことは、いたずらに「本当の(ἀληθές)~」とか「真理愛」(φιλαληθής)を云々する以前に行われるべき前提で、パスカルも、
「人は自分自身を知らなければならない。それがたとえ真理を見いだすのに役立たないとしても。すくなくとも自分の生活を律するには役立つ。そして、これ以上正当なことはない。」(‘Il faut se connaître soi-même : quand cela ne servirait pas à trouver le vrai, cela au moins sert à régler sa vie, et il n’y a rien de plus juste.’; “Pensées”, Frag. 66, Œuvres de B. Pascal par L. Brunschvicg, Tom. 12, p. 67~68)と書き遺している通りだ。
しかし、狂信家(ὁ μαινόμενος)とは、まさそうした肝腎の 自己認識(sich wissen=ἀναγνώρισις)を欠くがゆえに狂気じみたもの言いが可能になるわけで、所詮は無明(avijjā)の底にうごめく、煩悩(kleśa)の塊である「餓鬼」(preta)、いわば「精神の幼児」(ὁ νήπιος τῆς ψυχῆς)だから、どこまでも子供騙しのクズ投稿の量産に余念がない。
取り憑かれているのが、手に取るように分かる。
クズの山 澄みたる葛の 菓子なれば 涼を誘うも 灼熱の京(狂)
そこにも、「虚偽体質」(ψεύστης φυσικός)は明らかで、おまけにこのところは、残暑という域を超えた連日の酷暑のせいでもあるまいが、鬱屈を募らせ、元々の誇大妄想(Grössenwahn)に加え、それこそパラノイア=妄想性痴呆症(Dementia paranoides)によく似た、被害妄想(Beeinträchtigswahn)や迫害妄想(Verfolgungswahn)、つまり「パラノイア性疾患」(paranoische Erkrankung)がエスカレートしている。
「日本モデル」と言えば、以前篠田さんが「ロジカルな正解」、新たな「日本モデル」になる「大きな潜在力」をもつと盛んに持ち上げていた「大阪モデル」も、今は見る影もない。
老婆は見え透いたおべっか使いだから、盛んに篠田さんや中国に媚び諂うばかりで、その場しのぎのヒステリーに終始している。その中身たるや、午前中の124~132、夕刻の134~135が端的に示すような、判で押したような紋切り型のメディア批判と、壊れかかった蓄音機が奏でる「老婆の他愛ないおしゃべり」(ὁ γραός ὕθλος)そのままの愚劣なコロナ論議で、何の芸もない牽強附会の俗論でしかない。
124~125は、例によって性懲りもなく田中美知太郎『ソクラテス』を引用して、愚劣なお子様論議を展開し、何かを論じた気になっている。
まず、引用が不正確だ。当該箇所は『ソクラテス』の150~152頁から3カ所引き写したものだが、コピペに頼らなければ、およそ一字一句、正確に引用することが、老婆には「何度やっても」できないことを歴然と示す。
それぞれ正確には(⇒《》内に列挙)、
①【「自他をよくしらべて、智を愛し求め(哲学し)ながら「生きる」ということが、神命だ、】⇒《「自他をよくしらべて、智を愛し求め(=哲学し)ながら生きる」ということが、神命であると言われている。》――「」の位置が間違い、「(哲学し)」→「(=哲学し)」▼「神命だ、」→「神命であると言われている。」。誤記が3カ所。
②【「自他をよくしらべる」ということも、単に否定的な、無知暴露に終わらず、あるいはさきの産婆術にもみられたように、何か取り上げることのできるものが、精神の出産物の中に含まれていないかと、積極的な意図をもってしらべることになるかもしれない…。愛智としての哲学へのむすびつきは、何かこのような積極的な転換によらなければならないだろう。』】⇒《「自他をよくしらべる」というようなことも、単に否定的な、無智暴露に終らず、あるいはさきの産婆術にも見られたように、何か取り上げることのできるようなものが、精神の出産物のうちに含まれていないかと、積極的な意図をもってしらべることになるかも知れないのである。愛智としての哲学へのむすびつきは、何かこのような積極的な転換によらなければならないであろう。》
あまりに酷いので、煩雑を厭わず続けると、
③【「…ただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいということに気をつかっていて、恥ずかしくないのか。…〔中略〕…その者をわたしは、すぐには去らしめず、また私も立ち去ることをせず、これに問いかけて、しらべたり、吟味したりするだろう。」】⇒《…ただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいというような気をつかっていて、恥ずかしくないのか。…〔中略〕…その者をわたしは、すぐには去らしめず、また私も立ち去ることをせず、これに問いかけて、しらべたり、吟味したりするだろう》――「したいという」→「したいというような」▼「立ち去る」→「立去る」。末尾の「。」は不要。誤記が3カ所。
つまり、それほど長くない文章を引用するのに合わせて15カ所も間違える人間は、老婆を措いて他に見出し難い。病的だ
チリも積もれば山になるというが、つける薬はない。
そうした人間が田中の口真似で(実際には田中が祖述するソクラテスの口真似で)、『ソクラテスの弁明』に見える、124⇒【「自分の精神を、できるだけすぐれたものにすることにも、気をつかわず」】(《「魂をできるだけ優れたよいものにするには、どうすればよいか、心を用いることもしない」(‘τῆς ψυχῆς ὅπως ὡς βελτίστη ἔσται οὐκ ἐπιμελῇ’; Apologia Socratis, 29E)》という大言壮語(μεγαληγορία)など、百年早いということだ。
124⇒【田中美知太郎…「ソクラテス」の「哲学」という項目で、「哲学」という学問の意味を】は、「無知の自覚」、「不知の知」(田中は「無知の知」の表記を意図的に避ける)に関する素人、特に老婆のような「哲学音痴」(ἀμουσος φιλοσοφιᾷ)にありがちな明白な誤読であり、125⇒【「哲学を愛する」父が私に教えてくれた…高校時代倫社の先生が教え…たこと】も、甚だしい勘違いで、下らない俗論と、田中なら一蹴したろう。ミーハー婆さんのソクラテス熱は笑止である。
高校時代の恩師が、125②⇒【これから学識ある者、専門知をもつ卵たちに、「賢慮になってほしい」という願いで、あの授業】も、老婆に限っては論外で、およそ学識(μάθημα)や専門知(ἐπιστήμη)に対して、老婆くらい無縁な人間は存在しない。
126⇒【一般的に学識のある者、専門知をもつ人間と賢い人間=賢慮ある人についてのアリストテレスの見解はあたらない】など、ものを知らない、アリストテレスを一行も読んだことのない無学の怖いもの知らずの戯言で、127⇒【Hegelが主張したほんとうの「Aufhebenの意味」】も、ドイツ語でも日本語でもヘーゲルなど読めもしない阿呆の無駄口の典型だ。
阿呆は蝉並みに饒舌だ。
蝉なれば 姦しくとも 儚さに もののあはれを 誘いしものを
125③⇒【篠田英朗教授のなさっていることも、「ソクラテスの産婆術」】は老婆の誇大妄想で、莫迦話に同調するほど篠田さんも妄想家ではるまい。
老婆のご機嫌取り(ἄρεσκος)やごますり体質(κόλαξ φυσικός)も生来のものなのだろうが、度が過ぎると贔屓の引き倒しにしかならない。
なお、ソクラテスの勧告として、裁判でソクラテスがアテーナイ市民に語りかけた言葉(「ただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいというような気をつかっていて、恥ずかしくないのか」云々を含む一節)は、以下の通り。
「世にもすぐれた人よ、君はアテーナイという、知力においても、無力においても最も評判の高い、偉大なポリス(市民国家)の一員でありながらただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいというようなことに気を使っていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮と真実には気をつかわず、たましい(いのちそのもの)を、できるだけすぐれたよいものにするように、心を用いることもしないというのは、と言い、もし諸君のうちの誰かが、これに異議をさしはさみ、自分はそれに心を用いていると主張するならば、その者をわたしは、すぐには去らしめず、また私も立ち去ることをせず、これに問いかけて、しらべたり、吟味したりするでしょう。そしてその者が徳(よさ)を、もっているように言い張っているけれども、実際にもってはいないと、わたしに思われるなら、いちばんたいせつなことをいちばんそまつにし、つまらないことを、不相応にたいせつにしているといって、わたしは非難するでしょう。」(田中訳、岩波書店版『プラトン全集』第1巻、84頁)
‘“ὦ ἄριστε ἀνδρῶν, Ἀθηναῖος ὤν, πόλεως τῆς μεγίστης καὶ εὐδοκιμωτάτης εἰς σοφίαν καὶ ἰσχύν, χρημάτων μὲν οὐκ αἰσχύνῃ ἐπιμελούμενος ὅπως σοι ἔσται ὡς πλεῖστα, καὶ δόξης καὶ τιμῆς, φρονήσεως δὲ καὶ ἀληθείας καὶ τῆς ψυχῆς ὅπως ὡς βελτίστη ἔσται οὐκ ἐπιμελῇ οὐδὲ φροντίζεις;” καὶ ἐάν τις ὑμῶν ἀμφισβητήσῃ καὶ φῇ ἐπιμελεῖσθαι, οὐκ εὐθὺς ἀφήσω αὐτὸν οὐδ᾽ ἄπειμι, ἀλλ᾽ ἐρήσομαι αὐτὸν καὶ ἐξετάσω καὶ ἐλέγξω, καὶ ἐάν μοι μὴ δοκῇ κεκτῆσθαι ἀρετήν, φάναι δέ, ὀνειδιῶ ὅτι τὰ πλείστου ἄξια περὶ ἐλαχίστου ποιεῖται, τὰ δὲ φαυλότερα περὶ πλείονος.’; Apologia Socratis, 29E~30A)
最後に、以前にも2度(1月26日・64、6月15日・44)指摘済みだが、「無知の自覚」、「不知の知」の該当箇所(21D)は次の通り。
「この人間より、私は知恵がある(ἐγὼ σοφώτερός)。なぜなら、この男もわたしも、おそらく善美のことがらは、何も知らない(οὐδὲν … εἰδέναι)らしいけれども、この男は、知らないのに、何か知っているように思っている(οἴεταί τι εἰδέναι οὐκ εἰδώς)が、わたしは、知らない(οὐκ οἶδα)から、そのとおりに(ὥσπερ)、また知らないと思っている(οὐδὲ οἴομαι)。だから、つまりこのちょっとしたことで(σμικρῷ τινι αὐτῷ τούτῳ … ὅτι)、わたしのほうが知恵のあることになるらしい。つまりわたしは、知らないこと(μὴ οἶδα)は、知らないと思う(οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι)、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。」(田中訳、62頁)[完]
暇つぶし 尾張名古屋は 櫃まぶし 尽きぬ失態 不死身の不思議
「無知の自覚」(「私は知らないから、その通りに、また知らないと思っている」=‘ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι’)と、「不知の知」(「知らないことを、知らないと思う」=‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι’)の原文は次の通り。
‘τούτου μὲν τοῦ ἀνθρώπου ἐγὼ σοφώτερός εἰμι• κινδυνεύει μὲν γὰρ ἡμῶν οὐδέτερος οὐδὲν καλὸν κἀγαθὸν εἰδέναι, ἀλλ᾽ οὗτος μὲν οἴεταί τι εἰδέναι οὐκ εἰδώς, ἐγὼ δέ, ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι• ἔοικα γοῦν τούτου γε σμικρῷ τινι αὐτῷ τούτῳ σοφώτερος εἶναι, ὅτι ἃ μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι.’(Apologia Socratis, 21D)
ところで、140で126⇒【アリストテレスの見解はあたらない】について、アリストテレスなど一行も読んだことのない無学な老婆特有の、言いっぱなしで後が続かない戯言と書いた。
しかし、よく考えれば、以前の老婆の見解と正反対になり、それこそ「コペルニクス的転回」(eine kopernikanische Umwälzung)を遂げたのでなければ、首尾一貫しない。
科学的な専門知(ἐπιστήμη=scientific knowledge)、つまり「知識」と、実践的な知慧=思慮(φρόνησις=practical wisdom)を対比させる形で論じた議論は、現代人の一般常識にも適った見解だ。
つまり、頭でっかちには知識はあっても知慧がないという広く行きわたった見方を支持するもので、老婆も基本的に同じ立場、アリストテレス説ということになる。
それを「当たらない」というのだから、ソクラテス・プラトン流の理論的認識と実践的知慧の一体化を支持するかと言えば、そうでもない。明らかな矛盾だ。
自分で何を言っているのか、皆目分からない程度に、愚鈍なのだろう。莫迦が移りそう。
何ごとも その場しのぎで 遣り過ごす 恥も知慧もなし 蜘蛛のお頭
(承前3)つまり、「ということも」→「というようなことも」▼「無知」→「無智」▼「終わらず」→「終らず」▼「みられた」→「見られた」▼「できるものが」→「できるようなものが」▼「出産物の中に」→「出産物のうちに」▼「かもしれない」→「かも知れない」▼「ならないだろう」→「ならないであろう」と、短い文章の中に実に8カ所もある。末尾の「』」は不要。誤記が計9カ所。
何度も書くように、Covid19の感染者、80%は移さないのである。実効再生産数どおりに、一人の人が他人に移すわけではないのである。クラスターができ、一人が多くの人に感染させれば、実効再生産数の値は高くなり、少なければ、低くなる。要するに、クラスターの大きさの目安として使うべき数字、感染爆発の指標になる数字であって、一喜一憂すべき数字ではない。また、日本政府が政策をまるで取っていない、というのは嘘なのであって、どれだけの介護施設、病院が感染防止に力を入れているだろう。その為に、Covid19の患者のたらいまわしが起こるのであって、三人とも実情をまるでご存じない。また、Covid19であることを若者が隠すのは、三人がこの感染症を病気の一つと認識するのではなくて、大変なことのように大騒ぎをするせいで、対応さえ間違えなければ、
Covid19はそれほどこわい病気ではない、という認識が三人とも欠如しているし、逆に、三人の主張するような対処法を日本政府が取れば、英米のように、日本も感染爆発をするのではないか、と危惧する。
安倍さんへの信頼がどうかというより、日本のコロナ感染状況への政府(厚生省)の海外広報がなってないからである。4月と7月の厚生省発表の感染状況を公表していれば、日本でコロナが再び大発生していることがわかるわけである。
そういう意味でも、政府はコロナ情報について世界へ正しく伝わるような広報をせねば、五輪への示しがつかないであろう。
8/24/2020 2:27:55AMのアメリカ、John Hopkins大学の集計資料によるとhttps://www.arcgis.com/apps/opsdashboard/index.html#/bda7594740fd40299423467b48e9ecf6?sara_ecid=nl_upd_1jtzCCtmxpVo9GAZr2b4X8GquyeAc9&nlid=rllbdrav、
今まで累計のアメリカのCovid19の感染者総数は、5,683,530人、ブラジルが3,582,362人、インドが3,044,940人であるのに比べて、日本は、中国89,679人、フィリピン、インドネシア、よりも下の62,655人、死者は、米国が176,579人、ブラジルが114,250人、英国が41,515人、ドイツが9,275人、スウェーデンが5,810人、中国4,711人に対して、日本は1,188人。本当に、元厚労大臣の舛添要一氏が主張されるように、日本は、アジアの劣等生なのだろうか。そういう間違った主張が、日本社会で批判もなく、通ってしまうことが、日本社会の大問題なのである。
テレ朝の「サンデーステーション」、日経新聞が報道した、「危機の時のリーダーの資質」の主要先進国の国民の評価にしてもそう。日本より成績の悪いドイツのメルケル首相が、ドイツ国民の評価ではプラス評価41パーセント、日本の安倍首相が、英、米を含めてもワーストで、評価しない日本国民のマイナス評価34パーセントである。それが異常である、とマスコミの人は考えないのだろうか。真実は政府が「説明責任を果たしていない。」のではなくて、マスコミが「理解しようとしない。」のである。反氏と私のやり取りと同じである。
日本のマスコミの矛先はただ一点、「PCR検査を増やさない。」ということ。マスコミの手法は、「政府がなぜ、PCR検査をふやさないのか」、ということを調べ、理解しようとするのではなくて、「専門家」という肩書の似非専門家を毎日スタジオに読んで、コメンテーターと一緒になって、「PCR検査を増やさないことに対して、分科会、政府を糾弾する」のである。
反氏は、アリストテレスに興味をもっておられても、Covid19ウィルスには、ほとんど興味がない。興味がないのに、批評力だけは異常に旺盛でありが、その手法は私の人格批判と、国語能力批判である。人格批判として、「コロナ狂い」で、パラノイア気質の偏執狂の老婆、生まれつきの嘘つきという意味で「虚偽体質」と私を形容する。コメント144は、私がCovid19対策について書いた内容に対する批判ではなくて、すべてが、漢字の送り仮名などの「重箱の隅を楊枝でほじくる」批判に使われている。コメント欄は、漢字の書き取りのテストの場所ではないし、外国人の為の「日本語検定」の場所でもない。マスコミの人が大問題にする、「政治家の失言問題」、も現実は、その種のくだらない批判が多すぎるのである。要するに、マスコミの人は、国際問題しろ、コロナ問題にしろ、経済問題にしろ、内容に関心がないから、あのような批判をするのだと思うが、マスコミの人々は、国語力、表現力はあるのかもしれないが、ジャーナリストとしての全般的な知性が欠如している。古代ギリシャ哲学だけが、知性の指標ではない。
ブログの主の篠田英朗教授のTwitterに載せておられる主張、社会問題を悪化させることが自分たちの利益であり使命であると思い込んでおられる人たちは、さすがに珍しいが、多くの日本のマスコミ人とはそういう人々だ、という主張が本質をついたものであることを、ここでもう一度繰り返しておきたい。
東京大学児玉龍彦の国会発言から39日目。
全国の人工呼吸器装着数 202件(24日)202件(23日)187件(22日)187件(21日)
東京重症者数 39人(23日) 大阪重症者数 66人(23日)
東京都陽性率は 5.3%、 大阪府陽性率は 6.9% に下がってきています。
全国の人口呼吸器装着数は、4月のピークが300件ちょとでしたので3分の2、返したことになります。
全国の人口呼吸器装着数が7月15日の51件から増加し始めてから40日になりますので現在の200件前後がピークになるでしょう。下がり方は、どれほど高温多湿が続くかによってきそうです。
東京大阪の重症者数も今がピークでしょう。
東京大阪の重症者数の逆転を騒いでいますが、おおまかですが、人工呼吸器装着数の4月波と夏波のピーク時の数を足し合わせると、東京で120、大阪で130なので、まあまあ同じくらいになります。わたしが夏波を独立波と考えていないのはこういうことだからです。
人口比を考えると、東京の方が多くていいのでしょうが、大阪の方が、人がすむ環境条件としては3密になりやすいのではないでしょうか。それと、手前勝手ですが大阪の方がsocial capital(社会的資本)が低いのも一因なのでしょう。
これについては、その内、検証してみます。
いずれにしても、感染爆発を心配する必要はありません。
Spielge誌で面白い記事を見つけた。https://www.spiegel.de/wissenschaft/psychiater-manfred-luetz-keiner-meiner-patienten-ist-jemals-so-verrueckt-gewesen-wie-donald-trump-a-a27268ec-599b-47da-83ac-3701914787a2
精神科医M.Luetzさんのインタビュー:
私の患者で、ドナルド トランプほど狂っていない人はいない。
Ein Interview von Jörg Blech
23.08.2020, 07.33 Uhr
精神科医で同時にベストセラー作家であるM.Luetz氏は、米国大統領の登場を分析した。
トランプ氏は、ナルチストではない
多くの国で狂信者が政権を握る。例えば、アメリカのトランプ大統領、ブラジルのボルソナロ大統領。民主政治の国でも、このような人物が政権を握るのは、困った問題である。彼ら二人とも、精神病患者ではない。多くの単純な国民が考えていることをそのまま演説しているのです。単純な国民は言います、ほら、私と同じことを考えている、だから、彼に投票する。
病的なナルチストは異常なほどの拍手喝さいを求め、その為にしばらくすると友人がなくなります、それに悩み、診察に来るのです。ドナルド・トランプは、悩んではいません。たくさんの友人を持ち、100万の支持者をもっています。彼は、ナルチストではありません。性根から非道徳な人物なのです。彼は父親から、「人生で一番重要なものは、成功、金、偉大であること」で、その目的の為に、すべきことをすべてすることができる、と学んだのです。この男はだから大変危険なのです。彼は治療はできません。彼が病気であると説明することは、事態を軽視することです。
なぜ、日本のマスコミは、「ポピュリスト政治家」ばかりをもちあげ、「真の公明正大な政治家」、を正しく評価することができないのだろう。
Luetz氏の主張は、トランプ大統領は精神など病んでいない、ただ彼の性向は、精神を病んだ自分の患者よりも人間的にもっとたちが悪い、国を、世界をどの方向に導くかわからない、と強調しているのである。トランプ大統領の実の姉も同じ主張であったのではなかったか。
石原良純さん個人は、善良ないい人だと思うが、今日の「羽鳥慎一モーニングショー」を見ても、洗脳されている、としか思えない発言だった。「PCR検査」を大量にして、東京都の、世田谷区の感染状況が知りたい。
そういう検査がないから、日本政府がなにもしないから、我々にはCovid19の現状がまるでわからない。一応はもっともらしい理屈である。
ただ、なんどもコメント欄で説明したように人間には足があるので、移動できる。例えば新宿「夜の街」の感染者が一人まざって、彼がスーパースプレッダーであると、一挙に一日20人程度感染し、それが拡大する。潜伏期間があり、発症するまで1週間かかり、検査期間があるから、判明した状況は、1週間前のもので、現在は、感染者数はその何十倍も増えているかもしれない。要するに、PCR検査を大量にしても、過去の状況はわかっても、現状はつかめないのである。そのことも翻訳して、説明した。
つまり、私の主張を狂人扱いせずに、正しく理解してくだされば、マスコミに惑わされずに、真実をつかみ、日本の窮状を救えるのである。彼らは、毎日毎日Covid19のなにを勉強し、報道でなにを視聴者に伝えているのだろう。単に「虚しさ」だけが残る。そして、私は、ドイツで最初のCovid19患者を治療したミュンヘン大学病院の女医と同じ心境になる。
自らの失態、莫迦さ加減を棚に上げて、148⇒【反氏は…Covid19ウィルスには、ほとんど興味がない…批評力だけは異常に旺盛で…その手法は私の人格批判と、国語能力批判…「コロナ狂い」で…「虚偽体質」と私を形容…コメント144は、私がCovid19対策について書いた内容に対する批判ではなくて、すべてが…「重箱の隅を楊枝でほじくる」批判】なのだという。
感謝されてもよいくらいだが、狂人まがいのもの言いには、恥の感覚も何の反省もない。
私は、新型コロナに関する、執拗に繰り返される老婆の素人論議に何の興味もない。ただ、その夥しい誤りと拡大解釈について、適宜、論理的に批評してきただけだ。その点で、篠田さんに対する批判的見解と同じスタンスだ。
しかも、昨日23日のコメントは、137⇒《判で押したような紋切り型のメディア批判と、壊れかかった蓄音機が奏でる…愚劣なコロナ論議で、何の芸もない牽強附会の俗論》、138⇒《間違いだらけのうえ…狂人の戯れ言…「クズ」投稿に付き合う必要などないが、引用の仕方も弁えない無学な婆さんの誤謬を指摘》と断ったうえで、懲りずに、田中美知太郎の『ソクラテス』を引用した124~125の愚劣なお子様哲学論議を、動かぬ根拠を提示して具体的に、老婆が如何に愚鈍で、ほとんど病気としか思えない間違いを繰り返す人物か、その被害妄想、誇大妄想ぶりを逐一論証したものだ。
コメント144は、あまりに間違いが多く、莫迦が移ったのか、うっかり脱落させた老婆の膨大な誤記の一部を追加補正したものにすぎない。老婆が「Covid19対策について書いた内容に対する批判」は、何本か添えた狂歌、「クズの山 澄みたる葛の 菓子なれば 涼を誘うも 灼熱の京(狂)」「蝉なれば 姦しくとも 儚さに もののあはれを 誘いしものを」で充分だろう。
参考になるのは、年頭の次の議論だ。
„Die dialektische Aufhebung ist ein zentraler Begriff der Philosophie G. W. F. Hegels. Er bezeichnet den Vorgang der Überwindung eines Widerspruchs, wobei die positiven, wertvollen Elemente erhalten und fortgeführt werden und die negativen entfallen.
Hegel sah in dem deutschen Wort Aufhebung den spekulativen Geist der Sprache, der in der Lage ist, gegensätzliche Bedeutungen in einem Wort zu vereinen. Er stellte die drei Momente der dialektischen Aufhebung folgendermaßen dar:“
上記に引用したドイツ語の文章は、今年1月17日11:14・40⇒【今朝、私を西独に留学させてくれた父を偲んで、小池百合子知事で有名になったヘーゲルのAufheben 止揚という言葉の意味について調べてみた。日本語の辞書で調べるとよく意味がわからないが、ドイツ語のWikipedia https://de.wikipedia.org/wiki/Dialektische_Aufhebung で調べるとよくわかる】のような、わざとらしい言い訳をして、「哲学音痴」(ἀμουσος φιλοσοφιᾷ)の虚飾家(ἀλαζών)である老婆が茶番を演じた際の、ヘーゲルの»Aufhebun«に関する解説文の一節だ。
言うまでもなく、1月17日は27年前に阪神淡路大震災が発生した日で、老婆の生家も被災し、その後死去した父親を回顧すること自体には、何の不自然さもない。しかし、それが、誤訳、杜撰な素人解釈の誤りを指摘されると、丸一日も経たないうちに、一転して次のように変わる。
そこに何の論理的必然性もない。「虚偽体質」だからだ。
添えられた老婆による訳文は以下のようなもので、ドイツ語が一応読める割には、如何にも元劣等学生らしい「唐人の寝言」に等しい要領を得ない内容で、酷暑で「蜘蛛の巣だらけの」お頭が相当いかれているとはいえ、繰り返し、127⇒【Hegelが主張したほんとうの「Aufhebenの意味」】のような、莫迦丸出しの法螺話をする程度の理解力のもち主であることは、一目瞭然だ。
念のため、その際の私の訳文も添える。
カロリーネ⇒「弁証法的なAufhebungはヘーゲルの哲学の中心概念である。彼は、二つの相反する主張の克服の過程を、積極的で価値のある要素を保持し、しかも改良され、否定的な要素をなくすという意味で、そう名付けた。ヘーゲルはドイツ語のAufhebenという一つの言葉の中に、相反する二つの意味が含有されている、言語もつ思弁的精神をみた。」
反時流的古典学徒⇒「弁証法としての[aufbebenする]ということはG. W. F. ヘーゲル哲学の中核概念である。彼は矛盾の克服を、肯定的で価値ある要素を生かし継続させる際に、否定的な要素を解消することで、そう(Aufhebung=[aufbebenする]と)呼んだ(意味した)。ヘーゲルはドイツ語の[aufbebenする]という言葉の中に言葉の思弁的真意を看てとった、その立場とは、一つの言葉の中に一体化された矛盾する意味をみるものだ。彼は弁証法的に[aufbebenする]ことの三つの契機を次のように示す。」
それにしても、「言語もつ思弁的精神をみた」には嗤わせられる。「日本語の辞書で調べるとよく意味がわからないが、ドイツ語の…」など、法螺なのがよく分かる。
それに飽きると、「パラノイア気質」特有の気まぐれさで、次のような冗語に淫する。同じ日の午後の「クズ」投稿だ。»Aufhebun«が今度は、愚劣な仏教談議にになる。
1月18日13:51・65⇒【仏教では中道、「三人寄れば文殊の智慧」という言葉が重んじられるのではないのだろうか】――仏教など何も理解できない老婆の他愛もないおしゃべり(ὁ γραός ὕθλος)の典型で、前回の113⇒【私の言う国際協調とは、音楽の概念】に通じる。
そもそも、中道(madhyamā pratipad)とは、相互に矛盾対立する二つの極端な立場、即ち「二辺」のいずれにも固執しない自由な立場、「中観」(有無や断見と常見、などの極端な考え方から離れてものを自由にみる視点)に立って、それを超える教え(『岩波仏教辞典』、574頁)ではあっても、»Aufhebun«やそれを支えるヘーゲルの弁証法(dialektik)または弁証法論理(dialektische Methode)とは全く異なる。
剽窃の癖、つまり「盗み癖」がある老婆には「中道」ではなく、「偸盗」(adattādāna)、つまり不殺生、不邪婬、不妄語、不飲酒と並ぶ不盗の「五戒」の禁を破る悪業の方が相応しい。
このことからも明らかなように、「中」(antara)はふたつのものの「中間」ではなく、矛盾対立の克服、超越を意味し、「道」(pratipad)はそのまま実践の謂いであるから、「三人寄れば文殊の智慧」のような、単純に宥和的な見解ではない。
仮とは、「相対的に成り立ったもの」(upādāya prajñaptiḥ=因果設)のことである。
認識において矛盾が発生するのは、絶えず生成変化している世界、畢竟「現実」を、何か確たる固定的な存在とみて、あるがままに見る般若(prajñā=慧)の理解が不足しているためで、同じように流動的な存在、現実というものを概念化して理解すること、すなわち執着に基づく有限な認識である分別(vikalpa)、つまり識(vijiñāna=「認識」)に限界があることを理解しないがゆえに、それとは異なる作用である般若との間に齟齬、即ち矛盾が生じる。
そうした識の根底には、仏教で無知に相当する無明(avijjā)が存在する。
正確な自己認識(sich wissen=ἀναγνώρισις)、つまり「自分で自分を知る」(αὐτὸ αὑτὸ νοεῖν)ということに関する日本的な表現、戒めである「身の程を知る」とは、身の程、つまり時代が違うから社会的な地位としての身分はともかく、自らの「ありのまま」(ἀληθῆ)という意味での「分限」や「分際」を弁える(ζννιέναι)ことだろう。
「自己に対する執見を絶ち、我欲を捨てて、事物をありのままに観察し、それに的確に即応することであり、主体的には自己の能力や境遇に応じて充全の努力をすること」(『岩波仏教辞典』、767~68頁)とされるが、お子様の老婆には何も分からない。
「ジャーナリストとしての全般的な知性」などと称したところで、知性(νοῦς)はもとより、おおもとの「知」(ἐπιστήμη, φρόνησις, σοφία)について、真面目に考えたこともないであろうおしゃべり婆さん(πολύλογος γραῦς)に、「憤激(θυμός)の程度は、攻撃者の知性(νοῦς)の程度に反比例(ἀντιπεπόνθησις)する」という子供騙しのくだらぬ減らず口(ἡ λαλία)、牽強附会(διάστροφος λόγος)そのものの莫迦話は可能でも、肝腎の足下が疎かだから、狂信家の戯言以上に受け取る者は稀だろう。
宗門の教え「身の程を知る」について、「ある書に云く、身の程知れ云ふ七字は山門の伝なり。在るべき様と云ふ六字は三井の伝なり」(『大原談義詮要鈔』上)といい、六字(あるべきよう)は、鎌倉時代の華厳宗の僧侶、明恵が「阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)と表現したが、その精神である「自然法爾」にくらい、老婆に縁遠いものはない。
156⇒【私の主張を狂人扱いせずに、正しく理解してくだされば、マスコミに惑わされずに、真実をつかみ、日本の窮状を救える】――紛れもない狂信家の弁だ。人間として修養もできておらず、狂犬並みにすぐ噛みついてくる。[完]
蝉しぐれ 時節悟りて 止みしもの 独り媼の 虫に劣れる
「ありのままの自分を見せるほうが、ありもしないものに自分を見せかけようとするよりも、本当は得になるはずなのだ。」(‘Nous gagnerions plus de nous laisser voir tels que nous sommes, que d’essayer de paraître ce que nous ne sommes pas.; La Rochefoucauld , Maximes 457)
私がこちらのブログに参るようになったのは4月以降のこと(3月28日付け記事のコメント29)ですので、反時流的古典学徒さんが159で述べられているやり取りを確認しようと、過去の記事を読んでみました。
もちろん、カロリーネさんと反時流的古典学徒さんのやり取りの背景を知るためには過去記事のコメント欄を読む必要があり、できるかぎり読んできたのですが、今回、面白い発見がありました。
159で反時流的古典学徒さんのおっしゃる記事の次の記事『トランプの「ジャクソン主義」とBJCの「悪いひとたち」』の中に「ジャクソンは、苛烈な人種差別主義者でもあった。黒人差別は言うまでもないが、ネイティブ・インディアンに対する徹底した虐殺は、米国史においても、際立ったものだった。」とあります。
同記事にはこの他にも4回、合計で「ネイティブ・インディアン」が5回も登場します。
無学なもので、あるいは「ネイティブ・インディアン」という言葉が特殊な文脈で用いられるのかもしれませんが、私ごとき馬鹿の極みが乏しい知識を振り絞ってみた限りでは、これは間違いです。
私は、カロリーネさんを虐めるために彼女のあら探しをしているわけではなく、面倒くさくなければ誰に対してでも間違いは間違いと指摘するタイプです。
今回は、国際政治学者としてこれはちょっとアカンやろと思いましたので、下記魚拓を採取した上、ご報告いたします。
私をアクセス禁止にされようが、魚拓削除の手続きをとられようが、先生のお気持ち次第です。
http://archive.is/61zMy
以前、篠原氏は facebook にご自身のブログのコメント欄は目を通していないと書いておられたうろ覚えの記憶が。
いつから読まれていないのか定かではないが、そうだとすると読まれない可能性もあります。又、私の記憶間違いであればご容赦ください。
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000662184.pdf
なお、内閣官房が事務局となり西村康稔担当大臣が所掌をする新型コロナウイルス感染症対策分科会とは異なり、新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボードは厚労省に対して助言を行う役割で、座長は廃止された専門家会議と同様に厚労省の附属機関である国立感染症研究所の脇田隆字所長が務めており、構成員は旧・専門家会議の構成員とほぼ重なります。
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000649234.pdf
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/corona7.pdf
西浦博教授は、コメント120でご紹介した対談で「現状、リスク評価自体は厚労省のアドバイザリーボードという専門家組織に残っていて、リスク管理は厚労省外の内閣官房の新型コロナウイルス感染症対策分科会(尾身茂分科会長)でやっています。第一波の教訓もあるので、リスク評価と管理の切り分けをしたいという強い意識が専門家の中にあります。」と述べていました。
しかし、そのような役割分担が本当に可能なのか疑義がないわけではなく、それが成功するのか注視をしていきたいと思います。
日本の場合は、逆である。いい対策を取っている「安倍政権」に対して、「なにもしないから」、このままでは日本は感染爆発をする、と煽り、安倍首相に対しての不信感を煽る。「なにもしないから」の具体的な意味は、「PCR検査を欧米を中心とした世界の国々のように大量にしない」から、である。ただ、その日本のマスコミに糾弾されているやり方が、合理的に考えれた「日本モデル」、コロナ対策の戦略の肝なのである。
要するに、ある地域でPCR検査を大量にしても、1週間前の感染状況はわかっても、現在も予想できないし、未来の感染状況を予想することは無理なのである。けれども、感染者の濃厚接触者は、感染した疑いが濃く、他人を感染させる可能性があるから、その人を感染時期が強い間隔離をすれば、感染の伝播は減らすことができる。そのために、Covid19対策で成功している、ニューヨーク州や、「Covid19」収束に成功している世界の国々は、検査だけではなくて、クラスター対策、隔離措置をとっているのである。第二波、とマスコミに騒がれているCovid19が日本で広がったのも、端的に言って、検査だけ大量にして、クラスター対策もせず、隔離措置も取らず「夜の街の人々」の自由な行動を許した東京都の小池知事の責任である、そのことは、東京大学児玉龍彦教授の「東京、埼玉がエピセンターになっている。」という言葉がなによりもその事実を表している。ということになぜ、マスコミは気づかないのだろう。
東京大学児玉龍彦の国会発言から40日目になってしまいました。
全国の人工呼吸器装着数 184件(24日)202件(23日)187件(22日)187件(21日)
東京重症者数 38人(24日)39人(23日)
大阪重症者数 67人(24日)66人(23日)
東京都陽性率は 5.0%、 大阪府陽性率は 6.5% に下がってきています。
全国の人口呼吸器装着数は、4月のピークが300件ちょとでしたので3分の2、返したことになります。
全国の人口呼吸器装着数が7月15日の51件から増加し始めてから41日になりますので現在の200件前後がピークになるでしょう。下がり方は、どれほど高温多湿が続くかによってきそうです。
東京(38人)大阪(67人)の重症者数も今がピークでしょう。
東京大阪の重症者数の逆転を騒いでいますが、おおまかですが、人工呼吸器装着数の4月波と夏波のピーク時の数を足し合わせると、東京で120、大阪で130なので、まあまあ同じくらいになります。わたしが夏波を独立波と考えていないのはこういうことだからです。
福岡も朝、夕、めっきり涼しくなってきました。
なんとか夏波もおさまってくれそうです。
沖縄も心配だったのですが、グッデイに沖縄県知事のデニーロさんが出演されていて落ち着いた対応されていて安心いたしました。
沖縄の人工呼吸器装着数もすでにピークを過ぎていますので安心してください。
ただし、沖縄は島嶼部が多いですので、搬救体制は常備してないといけません。
感染爆発が起こりそうもないと知るや、今度はもう冬の感染爆発を煽るような記事が出始めています。本当に、日本のメディアにしろ、煽り口先人間にしろ❝ゴミ❞が多い。
ご忠告、ありがとうございます。
しかし、明白な間違いも訂正できないようでは国際政治学者の名が泣きますね。
ちなみに「篠原氏」ではなく「篠田氏」ですね。
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