メディア関係者「〇〇せんせ~い、感染拡大止まってきちゃいましたねえ」
煽り系専門家「そうだなあ、ちょっと早かったなあ、消化不良だよ」
メディア関係者「しばらくお休みってことになっちゃいますけど、また増加し始めたら、またバーンと脅かすやつ、お願いします」
煽り系専門家「次は最初からもっとガンガンやるから、早めに呼んでよ、とにかくPCR検査に金を回すんだ」
メディア関係者「わかりました、またそんときはパーっと派手にお願いしますね」
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今、こういった会話が、メディア関係者と「感染爆発で日本は終わりだ」系の専門家との間で、繰り返されているのだろうか。
私の「日本モデル vs. 西浦モデル2.0の正念場」シリーズでは、8月になってから一貫して新規陽性者数の減少を書き続けている。東京で見てみよう。
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新規陽性者数 (7日間平均) |
増加率 (前の7日間との比較) |
8月18日~24日 |
221人 |
0.85 |
8月11日~17日 |
258人 |
0.77 |
8月4日~8月10日 |
335人 |
0.99 |
7月28日~8月3日 |
338人 |
1.34 |
7月21日~27日 |
252人 |
1.15 |
7月14~20日 |
219人 |
1.30 |
7月7日~7月13日 |
168人 |
1.69 |
これを日ごとの7日移動平均値をとったグラフで見るとこうなる。https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/
全国でも同じような傾向を見せている。
https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/
7月の4連休の際には、陽性者数拡大の鈍化が一度止まったような形になった。8月のお盆休みの時期にも似たような傾向が見いだせないわけではないが、小さな影響を見せただけで、再び新規陽性者数の減少が継続している。
私が称賛し続けている尾身茂会長・押谷仁教授を中心とする本当の専門家たちが推進してきている「日本モデル」は、2月中旬の段階での新型コロナの封じ込めの不可能性を洞察する英断から始まっている。緊急事態宣言の影響が出尽くした後の6月下旬から新規陽性者数の増加傾向が戻るのは、「日本モデル」の視点からは織り込み済だったと言ってよい。
問題は、「西浦モデル」が予言するように際限なく死者が出たり、果てしない新規陽性者の指数関数的拡大が続いたりするのか、あるいは「日本モデル」が目指すように死者数の増加の抑制を図りながら、新規陽性者の拡大も抑制できるのか、であった。
結果は、「日本モデル」の勝利である。
7月の段階で「西浦モデル」の勝利を確信した煽り系の専門家たちは、日本の政策の破綻を予言したり嘲笑したりすることによって、野党勢力を喜ばせ、左翼系メディアでもてはやされた。
東大先端科学技術研究センターの児玉龍彦・東京大学名誉教授は、立憲民主党に招致された参考人として参議院予算委員会に登場し、東京は「ニューヨークの二の舞になる」とか、8月は「目を覆うようなことになる」とかと予言した。これに対して日頃から世界の問題はすべて安倍首相によって引き起こされているかのような論調を繰り返しているメディアが歓喜して群がり、喝采を送った。
ちなみに児玉氏は、感染症の専門家ではない。それにもかかわらず児玉氏こそが全てを知る専門家の中の専門家だ、といったふうに持ち上げた野党勢力や左翼系メディアが、自作自演の煽り行為から免責されるとは、私は思わない。
3月頃から、日本ではすでに感染爆発が起こっているので「手遅れ」だと主張し続けていた渋谷健司氏は、7月以降に再び頻繁にメディアに登場するようになった。渋谷氏は、もう「手遅れ」であるはずの日本のために、どういうわけかPCR検査拡大の伝道者を演じ続けている。「54兆円全国民PCR検査」国民運動プロジェクトにも立ち上げ時から関わっている。http://agora-web.jp/archives/2045987.html 今や渋谷氏は、立憲民主党や共産党の議員が嬉々として頻繁に参照する人物である。
ちなみに渋谷氏は、感染症の専門家ではない。それにもかかわらず渋谷氏こそが全てを知る専門家の中の専門家だ、といったふうに持ち上げた野党勢力や左翼系メディアが、自作自演の煽り行為から免責されるとは、私は思わない。
経済学者の肩書で政府諮問委員会や分科会のメンバーとなった小林慶一郎氏は、感染封じ込めこそ最大の経済対策なるスローガンで、暇さえあればPCR検査の話をして、メディアにもてはやされた。旧専門家会議=現分科会の尾身会長・押谷教授ら本当の専門家の主導でPCR検査は着実に戦略的に増やされているのに、あたかも政府の陰謀でPCR検査の拡大が阻止されているかのような印象論をまき散らし、小林氏は、分科会内の野党勢力として左翼メディアに歓迎される言説を繰り返している。ちなみに小林氏は、消費税30%以上を唱える筋金入りの増税主義者である。諮問委員就任にともなって名前を抜いたようだが、「54兆円全国民PCR検査」国民運動プロジェクト立ち上げ時の賛同者である。http://agora-web.jp/archives/2046051.html
ニューヨーク州は今でも人口一人当たりの新規感染者数や死者数が日本や東京よりも多い。それにも関わらず、小林氏は、ニューヨーク州はPCR検査で新型コロナの封じ込めに成功した、といった印象を与える無責任な言説を繰り返し、野党勢力や左翼メディアを歓喜させた。
ちなみに小林氏は、感染症の専門家ではない。それにもかかわらず小林氏こそが全てを知る専門家の中の専門家だと持ち上げた野党勢力や左翼系メディアが、自作自演の煽り行為から免責されるとは、私は思わない。
なおこれらの煽り系専門家たちの塊を形成しているのが、東大系の人物であることが着目され始めている。これだけ塊になっていると、感染症の専門家を育ててきていなかった東大系の人物たちが、あわてて資金獲得のための操作に奔走しているのではないか、という憶測が広まり始めているのは、やむをえないことだろう。https://web-willmagazine.com/social-history/W2AtR
巨額のお金の流れにかかわる話に積極的に関わろうとする人々に、日ごろから「アベ政治を許さない」だけを専門家だか知識人だかであることの基準とするメディアが結びつき、執拗な煽り報道を通じた世論を支配するための運動が続いている。
この怪しい社会情勢の中で、「分科会は政府に近すぎる」などといった、本当の専門家である尾身会長や押谷教授に対する全く不当な誹謗中傷まで繰り返されるようになった。
「アベ政治を許さない!と叫ばない者は知識人ではない」方式の無責任な言説をまき散らしている左翼メディアに、「どこまでもお金を使ってPCR検査を!(なお私がそれを管理する!)」社会運動家たちが結びついている現状は、酷すぎる。
私は、繰り返し、尾身会長や押谷教授らを称賛してきている。彼らは、日本の英雄である。その英雄的な本当の専門家たちに対する不当な誹謗中傷は、私としては、絶対に許せない。
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コロナ禍の渦中での突然の辞任表明は、対策で政府の存在感、表立った主導性が影を潜めていることへの疑念や不満が国民の間にも広がっていることから、潮時なのだろう。宿願だった憲法改正も拉致問題の解決も、結局先送りになる。
臨時代理を置かず、退任までの期間を全うしたい考えだという。中途で政権を終えざるを得ず、当然忸怩たるものがあるのだろう。
国論が二分するというほどではないが、政府のコロナ対策への国民の支持は低い。それを、成果を否定的にとらえ、揚げ足取りをするメディアの責任と糾弾する、もう一方の独りよがりな俗論(φαῦλος λόγος)が、本ブログを主宰するする篠田さんをはじめ、一部に根強い。
そうした立場から、政府と旧専門家会議―現対策分科会が主導する日本的な対策「日本モデル」を過大評価して、それへの否定的評価を許すまじとする偏狭な批判が空回する。
メディアに洗脳され、振り回され、不安に懊悩する無辜の国民という空疎な図式ですべてを裁断する。メディアは世論を形成する装置、社会的インフラの一つではあるが、現実はそれほど単純でもなかろう。
そこにいう「現実」(τὸ γιγνόμενον)の認識なるものは、現実というものが絶えざる生成変化の渦中にあり、一時としてとどまらないものであることを忘れている。現時点の目の前の見える(ἐφάνην)状態だけが現実であるかのような、現実に対する固定観念が別種の盲目と偏狭性を生む。
矯激なメディア批判は、一方でメディア漬けの心性という皮肉でもある。過激な政府批判が、実は「お上頼み」の裏返しだったりするのと同じだ。
‘Κριτήριον … τῆς ἀληθείας φασὶ τυγχάνειν τὴν καταληπτικὴν φαντασίαν, τουτέστι τὴν ἀπὸ ὑπάρχοντος, καθά φησι Χρύσιππος ἐν τῇ δευτέρᾳ τῶν Φυσικῶν καὶ Ἀντίπατρος καὶ Ἀπολλόδωρος. ὁ μὲν γὰρ Βόηθος κριτήρια πλείονα ἀπολείπει, νοῦν καὶ αἴσθησιν καὶ ὄρεξιν καὶ ἐπιστήμην• ὁ δὲ Χρύσιππος διαφερόμενος πρὸς αὐτὸν ἐν τῷ πρώτῳ Περὶ λόγου κριτήριά φησιν εἶναι αἴσθησιν καὶ πρόληψιν• ἔστι δ’ ἡ πρόληψις ἔννοια φυσικὴ τῶν καθόλου. Ἄλλοι δέ τινες τῶν ἀρχαιοτέρων Στωικῶν τὸν ὀρθὸν λόγον κριτήριον ἀπολείπουσιν, ὡς ὁ Ποσειδώνιος ἐν τῷ Περὶ κριτηρίου φησί.’; Diogenis Laertii Vitae philosophorum, VII, 54, ed. R. D. Hicks, p. 162~64)
知識とは理性による誤る(παρανοέω)、誤った判断を下す(οὐκ ὀρθῶς κρίνειν)ことのない確実で不動な把握のことであり、意見は確実性を欠くという意味で弱くて誤った同意(συγκατάθεσις)、把握は両者の中間に位置する。真(ἀληθής)であって偽(ψεῦδος)になることのない把握的な現われ(φάντασμα=表象)に対する同意である。
事の本質からいって、知識は多くの事柄について過つことのない者(ἀναμάρτητοι)、例外的な知者のみに可能なものであり、意見は俗悪な者(φαῦλος)にも可能で、把握は知者にも俗悪な者にも可能である。
このように、真理は例外的な知者のみに許されるものではあってもけっして属人的なものではないから、そこで出てくるのが共通観念(κοινὴ ἔννοια)という真理観で、共通観念は真理の基準(κριτήριον τῆς ἀληθείας)であり、共通の意見とか信念(πίστις)からは峻別された普遍的なものについての自然に生じてくる観念(ἔννοια φυσικὴ τῶν καθόλου)ということになり、特定の知者のみに限定されない共通性=普遍性(τὸ καθόλου)をもつ。
そうは言っても、ここに言う共通観念は、単なる人々によって共有される一般通念(συνήθεια)とは異なる。ストア派の認識のイメージは、認識を司る白紙の状態(tabula rasa)にある「魂の統轄的部分」(ἡγεμονικὸν τῆς ψυχῆς)に観念を書き入れていくということで、最も基本的な形は感覚(αἴσθησις)を通じて行われ、把握しうる表象(καταληπτική φαντασία)となる。
ところで観念、つまり魂の統轄的部分への書き込みには二種類あり、一つは生得的なもので自然に具わった先取観念(πρόληψις)であり、「共通観念や共通の先取観念」(‘τὰς ἐννοίας καὶ τὰς προλήψεις τὰς κοινὰς’; De communibus notitiis adversus Stoicos, 1060A, p., 670)は同じものだ。もう一つの観念は教育やある種の訓練、修練をによって形成されるもので、こちらを単に(μόνον)観念という。
このほか魂の統轄的部分に印象を与える現われも、外界の対象をそれによって知覚できる把握的なもの(καταληπτική)と、それが不可能または正確にできないものとに分かれる。
以上が、真理の基準(κριτήριον τῆς ἀληθείας)とされる。
「感覚とは、ストア派の人びとによれば、魂の統轄的部分からさまざまな感覚にまて達している気息(πνεῦμα)、およびさまざまな感覚を介しての把握、およびもろもろも感覚器官(αἰσθητήρια)を取り巻く状態(κατασκευή)――ある人びとが欠陥を有している状態――のことである。また彼らによれば、感覚器官の活動(ἐνέργεια)そのものが感覚と呼ばれることもある。」(‘Αἴσθησις δὲ λέγεται κατὰ τοὺς Στωικοὺς τό τ’ ἀφ’ ἡγεμονικοῦ πνεῦμα ἐπὶ τὰς αἰσθήσεις διῆκον καὶ ἡ δι’ αὐτῶν κατάληψις καὶ ἡ περὶ τὰ αἰσθητήρια κατασκευή, καθ’ ἥν τινες πηροὶ γίνονται. καὶ ἡ ἐνέργεια δὲ αἴσθησις καλεῖται.’; VII, 52, ibid., p. 160)
運命は抗いがたい。今回の持病の悪化にしたところで、偶然が重なったという側面もあろうが、根治するのが困難であることから、必然的とも言える。昨年夏、肝臓癌と重度の肝硬変の結果死んだ私の妻の場合も、最初の発病から32年後の死とは言え、後半生は、文字通り目に見えない落とし穴が潜む野原を歩むような生活だった。
すべては、最終的に運命なのだろう。そして運命は、
「他の仕方でもありうるものや可能なもの、選択やわれわれ次第のもの、運や自己偶発的なもの、さらにはおそらく、たぶんといった言葉で言い表されるものも含め、それらに類するもののことである。そしてまさに、運命は、これらすべてを包括しているのであるが、それらどれ一つとして、『運命に従って』いるのではない。」(‘τό τ’ ἐνδεχόμενον καὶ δυνατόν, ἥ τε προαίρεσις καὶ τὸ ἐφ’ ἡμῖν, ἥ τε τύχη καὶ τὸ αὐτόματον, τά τε παρακείμεν’ αὐτοῖς ὧν καὶ τὸ τάχα καὶ τὸ ἴσως• ἃ δὴ πάντα περιέχει μὲν ἡ εἱμαρμένη, οὐδὲν δ’ αὐτῶν ἐστι καθ’ εἱμαρμένην.’)
首相にはゆっくり静養してほしい。[完]
「神意はさまざの姿をとりて、顕われ、 神々はさまざまの思いもよらぬことを遂げたもう。 思い設けしことは成らずして、 思い設けぬことを神は成らしめたもう、 かくてぞ過ぎぬ 今日のことも。」(‘πολλαὶ μορφαὶ τῶν δαιμονίων,/ πολλὰ δ᾽ ἀέλπτως κραίνουσι θεοί·/ καὶ τὰ δοκηθέντ᾽ οὐκ ἐτελέσθη,/ τῶν δ᾽ ἀδοκήτων πόρον ηὗρε θεός./ τοιόνδ᾽ ἀπέβη τόδε πρᾶγμα.’; Bacchae, l. ~, 1388~92, Evripides Fabvrlae, rec. G. Murray, Tom. III)
これで、メディアを始め世間の目は、後任選びの予想や自民党内政局になります。派閥力学です。しばらく、自民党各派閥の動向に注目です。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61863
理論疫学は賞味期限過ぎた❢❢❢
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/newpage_00034.html
主に、指定感染症の政令改正や季節性インフルエンザ(念のための注釈ですが、カロリーネ氏が誤訳をした「インフルエンザ菌」のことではありません)の流行期への備え等が今後の課題として提示されています。
安部首相としては、新型コロナウイルス感染症対策の一応の道筋だけでも示す形をとり苦渋の辞任判断に至ったものと推察いたします。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/newpage_00034.htmlを読んだが、私の心配、を含めて、どうして、日本ではPCR検査問題にばかり焦点があたり、国際社会で最も恐れられ、話題になっている「スーパースプレッダー問題」が話題にならないのだろう。これは、「人権」ばかりに重きを置く「日本のマスコミ」の報道の責任である。「スーパースプレッダー」問題に重きをおくと、「差別」が起こるから取り上げず、それを避けるために、真実はまるで違うにもかかわらず。Covid19を「誰でもがかかり、誰でもが他人に移す感染症」にしたいのである。現実は、陽性患者80%は移さず、20%の人が大量に移しているから、感染という面からみれば、PCR検査の陽性、陰性の尺度は、感染力の有無の判断基準にならないのである。
尾身茂・押谷博コンビは、その可能性を考えられたから、Covid19をインフルエンザのような5類感染症ではなくて、2類相当の感染症に指定するようにアドバイスされたのではなかったか。押谷博教授は、Sarsが蔓延していた時、WHO職員として北京で活躍され、実際に「ベトナム」で蔓延をとめたイタリア人の英雄医師、ウルバニー医師と実際に連絡を取り合っていた人物で、テレビに「感染症」の専門家としておなじみの博士や医師とは、知識や経験の格が違う。マスコミは、どういう観点で、専門家、という肩書をつけているのか計り知れないが、肩書や学歴だけで、その人物を判断するから間違うのであって、人間は社会に出てから勉強することも多いのである。「引きこもって」いては、社会経験が積めないから、若者にいつまでも「stay home」でもないだろう、と思うが、「反安倍」のイデオロギーの結果、マスコミの人は、ろくでもない煽り系の専門家の主張を妄信している。彼らの主張には、学問への深い見識、合理性がまるで感じられない。現実は、口先男、口先女ばかりなのに、その煽り系の専門家の主張を毎日、一日中流すことで、国民の不安を増大させ、「嘘を本当」にしている。「嘘も三度言えば、本当になる。」の格言どおりである。そして、その主張をテレビ局は、毎日公共の電波を使って、拡散し、「世論」をミスリードしている。
本当に、左翼系マスコミの政治部記者が主張するほど、安倍政治は、日本にとってよくない政治だったのだろうか?左翼系マスコミが応援した民主党政治と比べてどうなのだろう?
Covid19対策と同じで、国際社会から見て、評価され、日本国内で、マスコミの作りあげた世論によって、評価されていないだけなのではないのだろうか。
本当に、このような恣意的来な行為が、放送法4条からみて、マスコミ各局に許されるのだろうか。とにかく、真実でないことを、あたかも真実であるかのように報道し、コロナ対策一つを取ってみても、日本をアメリカやイギリスのようにしかねない、おかしな理論で、公共の電波を使って、日本国民を洗脳するのは、いい加減にしてほしい。
「公共の福祉」が配慮できる大人に、社会人として良識のある人に、マスコミの人には、成熟してほしい。それがないと、国民に信頼を失ってしまうのではないのだろうか。
>>>安倍首相に対しては、「ほんとうにお疲れ様でした。ゆっくりお休みください。」、と思うが、本当にテレビ局の人、マスコミの人、というのは、人間性があるのか、と感じる。自分たちにとっては大事かもしれないが、体調不良でも、責任感から記者会見をされている首相に、国民から見てどうでもいいこと、不愉快な気分にすることばかり、質問する。
ミスばかり追求して、成果は取り上げない。それでいて権力を監視している気になっている。国民には、公正な情報は伝わらない。
>>>反氏を含めてマスコミの人は文章力はあっても、感度は鈍い。知性と知識の量とは違う。
新聞記者こそ「ごろつき」だろう。本当に文章力があるなら、賢人の言葉に頼らずに、自分の言葉で読者にわかりやすく記述してはいかがか。
これでまた憲法改正が遠のいてしまった感がある。
本当にお疲れさまでした。
東京大学児玉龍彦の国会発言から44目になってしまいました。
全国の人工呼吸器装着数 179件(28日)180件(27日)188件(26日)179件(25日)184件(24日)202件(23日)187件(22日)187件(21日)
東京重症者数 30人(28日)31人(27日)31人(26日)34人(25日)38人(24日)39人(23日)
大阪重症者数 58人(28日)58人(27日)68人(26日)67人(25日)67人(24日)66人(23日)
東京都陽性率は 4.5% 大阪府陽性率は 5.6% に下がってきています。
全国の人工呼吸器装着数ピークは 202件(8月23日)です。
重症者数ピークは、東京で39人(8月23日)、大阪で68人(8月26日)です。
感染爆発も起こらないことが明確になりましたので、そろそろ、お役目が終わりになりました。不穏な動きが出始めるようでしたら、また顔を出すとして、一旦、締めにいたしましょう。
一部重なりますが、「反氏」が引用していた「帰去来兮辞」の一節を記録しておきます。
「実に途に迷うこと」多い世の中ではありますが、❝神風❞とはいえ、コロナ被災の少なかった日本国は幸いである。が故に、世界に貢献できるコロナ後の国際協調政策を大胆にとっていかねばなりますまい。
已往の諫められざるを悟り
来者の追うべきを知る
実に途に迷うこと其れ未だ遠からず
今の是にして昨の非なるを覚る
船は遥遥として以て軽くあがり
風は飄々として衣を吹く
征夫に問うに前路を以てし
晨光の喜微なるを恨む 「帰去来兮辞」より
Cela est bien dit, il faut cultiver notre jardin.
で、終わろうと思っていたら、ふと、 Le vent の句がよぎった。
Le vent se leve, il faut tenter de vivre. 風立ちぬ、いざ生きめやも。
100年前、結核は不治の病であり、多くの人がその命を落とした。
とにかく、マスコミの記者は、大人の責任をよく考えて、「公共の福祉」に貢献する仕事をしていただきたい。
読者の皆様には退屈で非生産的な議論で申し訳ありませんが、カロリーネ氏の「虚偽体質」を示す一例として記載させた頂きます。
再三指摘している通り、「インフルエンザ菌」は「インフルエンザウイルス」とは全く異なる感染症であり、「インフルエンザウイスル」を指し示す訳として「インフルエンザ菌」を使用するのは明らかな誤訳です。
上記の訳語の議論とは別に、重複感染の例示としてなら厳密には誤りではありませんが、例示として挙げるのであれば、発生する可能性が高い「インフルエンザウイルス」を使用するはずであり、カロリーネ氏の場合は明らかに「インフルエンザウイルス」とすべきところを全く性質を異にする「インフルエンザ菌」と誤用していたのです。
なお、カロリーネ氏の場合は「恒例行事」となっておりますが、「押谷仁」教授がいつの間にはコメント82では「押谷博」教授に「突然変異」しています。
私は政府解釈さんとは異なり、必ずしも貴女が誤訳されたと断定まではしませんが、ならばコメント59で「Spiegel誌の記事を独和辞典の助けを借りて訳したところ、日本語にするとインフルエンザ菌となった」の原文をお示しいただけないでしょうか?
先に「ドイツ語はちんぷんかんぷん」と申しましたが、辞書の助けを得れば、誤訳か否かくらいは私にも判断できると思います。
できれば当該記事のURL付きでお願いします。
もしお示しいただけなければ、遺憾ながら88の政府解釈さんと同様に、貴女を「虚偽体質」の持ち主と考えざるをえないところです。
勝手な憶測ですが、Spiegelでは「病原体」となっていたのを「菌」と誤訳されたのではないかと思っています。
アクサン記号を含めて正確に引用すれば、‘Le vent se lève!… Il faut tenter de vivre !’で、全部で144行ある『海辺の墓地』の終わり近く、第24節の冒頭にある。139行目になる。
それはともかく、日下部氏がそれに先立って、“Cela est bien dit, mais il faut cultiver notre jardin”(「お説ごもっとも、何はともあれ、われわれは自らの畑を耕さなくては」)というヴォルテールの風刺小説『カンディード』(“Candide, ou L’optimisme”, 1759)の一節に続けて、なぜ「風」(Le vent)なのかは、直ちには分からない。
もっとも、陶淵明の「帰去来の辞」になぞらえて、数多の阿呆相手の投稿も含めて既往の、諫(あらた)むべからざるを思い知り、自らの本来の生活に「歸去來兮」(歸んなんいざ)、「悟已往之不諫/知來者之可追/實迷途其未遠覺/今是而昨非/舟遙遙以輕颺/風飄飄而吹衣問征夫以前路/恨晨光之熹微」(「帰去来の辞」)ということで、役人生活に見切りをつけた淵明を乗せた舟が、故郷に向かって長江を遡り南の方、鄱陽の大湖に漕ぎ入れた際の情景とされる、「風飄飄而吹衣」、波とともに湖面を自由に渡る風が飄々として何とも心地よく、それを思えば生命が蘇えるようだとの連想が働くからだろうか。
「風立ちぬ」に戻れば、風(vent)は、波とともに生命の象徴である。ギリシア語の「(気)息」(πνεῦμα)、ひいては万物の構成原理(στοιχεῖα)である「地水火風」の風(ἀήρ)=空気に通じる。生命の息吹が吹き起こり、新しい生命を肉体の中に立ち上がらせる。欣(喜)び躍る水=波という生命の躍動を得て、という趣旨だ。
ところで、「いざ生きめやも」と堀が訳した[Il faut tenter de vivre !]の[Il faut tenter~]は「努めなければ(試してみなければ)ならない」の謂いであって、全体は「生きめやも」ではなく、「生きねばならぬ!」、くどくどと訳せば「生きるべく努めざらんや!」にならなくてはならない。
「生きめやも」の「やも」は、助詞の「や」に終助詞「も」を添えた表現で、活用語の已然形「生きめ」を受けた反語的表現であるから、「生きなくてはならないのに」の謂いで、ニュアンスがまるで違う。端的に言えば、誤訳である。
それでも、フランス語に通じた堀がこだわったのは、「やも」は奈良時代に多用された修辞法だから愛好していたうえに、当時「生きながらえる」(vivre vieux)のが困難だった死の病=結核に取りつかれた主人公(モデルは当時の婚約者)の運命に寄り添って、「生きなくてはならないものを…」という、無念の思いを異国の詩の一節に込めたのだろう。
ちなみに、最終節は次の6行で構成される。
‘Le vent se lève !… Il faut tenter de vivre ! / L’air immense ouvre et referme mon livre, / La vague en poudre ose jaillir des rocs ! / Envolez-vous, pages tout éblouies ! / Rompez, vagues ! Rompez d’eaux réjouies / Ce toit tranquille où picoraient des focs ! ’
『海辺の墓地』全体のモチーフは冒頭のエピグラフ、ギリシアの詩人ピンダロスの『ピューティア祝捷歌』第3(「愛しき魂よ、不死の生命を望むな、為し得る業を探れ。」=‘Μή, φίλα ψυχά, βίον ἀθάνατον σπεῦδε, τὰν δ’ ἔμπρακτον ἄντλεῖ μαχανάν.’; Pindare, Pythiques, III. 109~110)にも明らかで、この世はそうできている。‘Ma présence est poreuse’(現身のわが身は粗鬆)、ひぐらしの儚い命(ὦφήμερε)、結局は「すべては蜉蝣のよう(に儚い)。」(‘Πᾶν ἐφήμερον’; Aurelius, M.; ‘‘τὰ εἰς ἑαυτόν’’, IV, 35)からだ。
‘Et vous, grande âme, espérez-vous un songe / Qui n’aura plus ces couleurs de mensonge / Qu’aux yeux de chair l’onde et l’or font ici ? / Chanterez-vous quand serez vaporeuse ? / Allez ! Tout fuit ! Ma présence est poreuse, / La sainte impatience meurt aussi ! ’(「而して、尊い魂よ、お前は夢を期待するのか、/肉體の眼に いま波と金とが此處に作り出す/虛妄(いつわり)のこの色彩もないやうな 儚い夢を。/一抹の煙とお前がなるやうな時にも 歌ふか。/さあ。一切は遁走する。わが現實の存在は/粗鬆。神聖な不滅の焦慮も また死ぬ。」=97〜102行、235頁)
安倍首相が辞意を表明したらしたで、偏執狂の老婆が懲りずに大騒ぎである。
85⇒【本当に文章力があるなら、賢人の言葉に頼らずに、自分の言葉で読者にわかりやすく記述してはいかがか】――どこぞの頓馬が気の利いふうなことを宣って、無学のようだから後が続かない。
言わんとするところは、57⇒《元新聞記者を相手に…「世間知らず」(ἄπειρος)もないものだが、「与太者」(ὁ ὑβριστής)というか、「ごろつき」(ὁ μαστιγίας)というのか、単に口の利き方…言葉を知らないのか…片言隻句で「があがあ」言うだけの「はったり屋」(ὁ ἀλάζων)、妙な御仁》に異論を鸚鵡返しするしか能がない、雄鶏か雌鶏の類なのだろう。
老婆にも指摘済みだが、相手の批判、揶揄に対して、相手が使ったのと同じ言葉をそのまま返すという子供じみた作法を「幼児のしっぺ返し」(infantile Retourkutsche)といって、フロイトはパラノイアの表現目的(Darstellungszweck)を満たすものとしている。
投稿は自由だが、他人を批判したり当て擦りを言うなら、どこまで凡庸なのか分からないが、もう少し芸を磨いたらよい。
本日の「朝日」一面連載コラム、鷲田清一「折々のことば」1919に、「『悪』はつねに外部にあるなら、経験は何度繰返しても経験にならない」。コラムニストで編集者の山本夏彦の言葉だ。
『毒言独語』からとあるだけで、引用箇所が明示されていないので調べてみると、当該書の中に収められた「みんな世の中が悪いのか」(中央公論文庫、33頁)に次のようにある。
「非は常に他人にあって、みじんも自分になければ、経験が経験にならない」――しかし、趣旨は一緒でも、文章は違う。「朝日」には別に「非は常に、ことごとく他人にあって、みじんも自分にないと、このごろの相場はきまったようだ」(31頁)とあるから他でないのは間違いないが、妙である。
「自分の目で見よ、他人の目で見るな、という。自分の言葉で語れ、他人の言葉で語るなという。そして自分で考えよ、となが年学校で教えるから、生徒も親もまにうけて、それが可能で、げんに自分の目で、自分で語っているつもりでいるが、そんなこと、出来ない相談である」(133頁)
知性の程度が大衆レベルだと自分で考える(αὐτός νομίζειν)というのは錯覚ということだ。玉葱の皮を剥ぐように、過去に受け入れた他人の考えを除いていくと、最後には結局何も残らないのが凡夫の宿命だ。自分の頭で考えている人間は、メディア批判に現を抜かしたりはしない。
自分を欺く本当の敵はメディアよりずっと手ごわいことに気づいている。凡夫の本質は無知の自覚の欠如。「まず魂の病気とは『理性を欠いていること』、それには二種類あり、一つは狂気、一つは無知」(‘νόσον μὲν δὴ ψυχῆς ἄνοιαν συγχωρητέον, δύο δ’ ἀνοίας γένη, τὸ μὲν μανίαν, τὸ δὲ ἀμαθίαν.’; Timaeus, 86B)。
山本も「人は他人の目で見て、他人の言葉をおうむ返しに言う動物である。自分の考えと自分の言葉をもつものは希である。そしてこの世は、他人の言動に従う無数と、従わぬ少数とからなっている。無数は進んで従っていたのだから、強いられた自覚がない」(134~35頁)と。
騙す方にも非はあるが、騙される方が愚かなのだ。85、87のような凡庸そのものの物言いは、自分で考えているのではなく、思考の水準に達しない意見(δόξα)という名の俗論にすぎない。
新聞の投書欄でよく見かける、わざわざ文章に仕立てる内実性に乏しい「クズ」と同じだ。問題は大衆には老婆が典型的に示すように、その自己認識が決定的に欠落している点だ。
おめでたいの一語。[完]
私のコメントに書いた4月8日のコメント6にリンクされれば、当該記事のURLhttps://www.spiegel.de/wissenschaft/medizin/coronavirus-die-vier-phasen-von-covid-19-a-1bab9807-d869-4e96-8a77-ee8ea01ee02d
Von Irene Berres
は載っている。あなたは、リンク先まで戻って、本文を読むこともせず、私がなにを主張したいのか、という内容を考えることもなく、インフルエンザウィルスではなく、インフルエンザ菌としているのは、おかしい、虚偽体質だ、とそれのみを声高に主張おられるだけだ。そういう傾向をさして、私は、「カトリーネ族」と形容しているのであって、私なら、ああ、タイプミスで、カロリーネをまちがえたんだな、ですますのである。押谷仁教授を押谷博教授となってしまったミスと同じだからである。tとrのタイプミス。それよりも重要な問題は、Superinfektion、重複感染であって、それは、細菌でも、ウィルスでも、即ちインフルエンザウィルスでも起こり得るものである。アーヘンの50例の重症患者のうち4人が、重複感染者であった。重症化問題を問題にする日本で、なぜ、インフルエンザとCovid19の重複感染問題、これはダイレクトに患者の人生、生命にかかわる重要問題なのに、問題にしないのか、理解できない。どうして「カトリーネ」族には、物の軽重がわからないのだろう。それは「机上の空論」にのめりこみすぎて、「現実感覚が欠如している」としか思えない。
原文をお示しくださいとお願いしたのにお答えいただけず、大変残念です。
あらためて「インフルエンザ菌」の原語を含むセンテンスのご教示をお願いいたします。
ちなみに、当方がご紹介いただいた記事を翻訳ソフトの助けを借りて拝見したところ、貴女の主張に関連しそうな部分は以下の部分だけでした。
(ドイツ語)Ist das Lungengewebe bereits durch das Coronavirus entzündet, können sich viel leichter zusätzlich auch Bakterien ansiedeln.
(ソフト翻訳)肺組織がコロナウイルスを通してすでに感染しているならば、ずっと簡単にさらにも、バクテリアは定着することができます。
端的に言えば、精神医学上の分類であるパラノイア=妄想性痴呆症(Dementia paranoides)特有の擬似「パラノイア性疾患」(paranoische Erkrankung)について、論じてきた。
それは狂信(τὸ αύθάδης)、まるで「取り憑かれたかのような」(ἐνθυσιασμός ὡσπερεί)老婆の投稿行動の端々に窺える狂態(ὁ κακός τρόπος)について、折に触れて酔狂までに論じたものだが、相手は相当いかれているから、最近は妄想コンプレックス(Wahnkomplex)や不安ヒステリー(Angsthysterie)も昂じて、相当重症であるだ。その根底にあるのは、度を越した自己愛(Narzissismus)であることも指摘済みだ。
首相辞任表明で錯乱したのか、78⇒【私は…カトリーネではない、自分のミスには平然…相手に対しては重箱の隅を楊枝でほじくって、「ケアレスミス」を根拠に…主張の骨子を否定する人々、特にマスコミの人にみられるこの「カトリーネ」族こそ…諸悪の根源】のような、一見して狂気の沙汰とも見える大仰な取り乱し方だ。
まず、【重箱の隅を楊枝でほじくって、「ケアレスミス」を根拠に…主張の骨子を否定する人々】の対象、つまり「人々」(οἱ ἄνθρωποι)の外延が明確ではない。メディアも本件には無関係だ。
「通りすがりの老人」氏も政府解釈氏も、そして私も、「ケアレスミス」=「不注意な誤記」以上のものを具体的に提示して、老婆の間違いだらけの主張、拡大解釈、論点ずらしの姑息な態度や居直り、頬被りを批判している。
被害妄想→「ケアレスミスを根拠に…主張の骨子を否定」と、誇大妄想→「諸悪の根源」と「族」(γένος)のような実態を伴わない誇張した表現から明白である。
95⇒【どうして「カトリーネ」族には、物の軽重がわからないのだろう…「机上の空論」…「現実感覚が欠如】――が聞いて呆れる。
95②⇒【押谷仁教授を押谷博教授となってしまったミスと同じだから…tとrのタイプミス】など、「語るに落ちる」ごまかしの典型で、墓穴を掘っている。仁→[jin]、博→[hiroshi]をキーボード上の操作ミスだと強弁しても、[j]と[r , t]は離れているから、[jin]は[hin]または[kin]、精々[nin]にはなっても、[hiroshi]即ち[haku]=博には、なり得ない。
逆に、[r]と[t]は隣同士だから、[karorine]=「カロリーネ」は、容易に[katorine] =「カトリーネ」になる。「タイプミス」を主張できるのは「通りすがりの老人」氏の方で、老婆ではない。ここにも、老婆の「虚偽体質」が歴然としている。
しかも、「通りすがりの老人」氏は54で、⇒【カトリーネさんの遁走】、同②⇒【カトリーネさん…個別的誤謬】とミスしても同じ54の中で、正しく、③⇒【カロリーネさん…Wikipedia】としており、不注意なミスを主張できる。
82⇒【尾身茂・押谷博コンビ】が可能になったのは、押谷仁氏と西浦博氏が「蜘蛛の巣お頭」の中で交錯する一種の妄想癖だろうか。 [jin]と[nin]は近いから、そのうち「押谷忍」が登場するかも。
ところで、65⇒【Spiegel誌で興味深い記事……/superspreading-event-in-boston-eine-konferenz…】のうち、[superspreading-event]は「スーパースプレッダー事件」ではあっても、1人が膨大な二次感染者を生み出す特定の個人[superspreader]の存在を立証したものではなかろう。[superspreading-phenomenon]=「スーパースプレッダー現象」が生まれやすい状況=環境が出現したわけだ。
老婆の議論は、常に[superspreader]と[superspreading-phenomenon]を混同する素人論議で、両者の違いは未だ科学的に解明されていない。
自分に対するちょっと批判的なテキストがあると、「与太者」「ごろつき」「はったり屋」「凡庸」など、本論と関係のない部分で人格を攻撃してくる。これが反氏の言うところの「言論上の喧嘩の仕方」だとしたら、この上なく陳腐なものだ。
おそらく新聞記者としてロクな記事も書けず、周囲の人も誰も相手にしてくれないから、広い部屋に一人引きこもって、他人のブログのコメント欄に、さも学識があるようにギリシャ哲学の引用をつらつらと書きこんでいるにちがいない。
反氏ふうに言うなら、きっとこういうことだろう。
私もすべてカロ氏に賛同するわけではないけれども、「精神の幼児」「強迫観念に伴う不安神経症」「ヒステリー症状特有の健忘と忘却」などといった言葉の羅列は、読んでいて決して気分のよいものではない。
本来は私が対応しなければならないことをカバーしていただき、ありがとうございました。
自分の主張、批判が正しい、という主張を通すための、マスコミ流、野党流、の言論上の喧嘩の仕方、我々の政治のリーダーを誹謗中傷したり、あるいは、あたかも自分が政府の諮問機関の代表であるかの顔をして、自分の主張を押し通そうとする専門家の表現には、目にあまるものがある。欧米かぶれをして、トランプ流の手法を使う日本の知識人の浅ましさを痛感するとともに、その「レッテル」を日本国民が「真に受ける」危惧を感じる。ほんとうに、「けん」さんのおっしゃるように、現在のテレビの人々というのは「報道番組」と称して、解説者を登場させ、他人の人格や政策を批判、中傷することしか能のない「ごろつき」集団なのではないのだろうか。楠山義太郎さんの、「新聞記者は羽織ゴロ、と呼ばれていたんだよ。」という言葉を思い出す。
100⇒【「親安倍」と「反安倍」のイデオロギー論争】など、現在の日本に事実上(ἔργῳ)存在しない。老婆程度のお子様が、「イデオロギー」云々と空疎なお題目を弄ぶ。
そして性懲りもなく間違いを繰り返す。病気(τὸ νόσημα)だ。
102⇒【PCR検査…感染者の偽陰性が70%も】は端的に誤りで、偽陰性は30%程度とされる。新型コロナが中国で拡大し始めたころからの共通認識だ。
早朝から寝惚けているようで、「妄想コンプレックス」(Wahnkomplex)だろう。ケアレスミス以前の問題で、専門家相手の憐むべきがらくた素人論議に、つける薬はない。
逆に偽陽性、つまり「感染していない人」を調べた場合に陽性と出る確率は極めて低い。別の言い方をすれば、陰性と出る確率は厚生労働省の「公式的見解」によれば99%以上とされる。
偽陰性ではなく逆の偽陽性を回避する確率を特異度(specificity)と称するが、実際の特異度は99.90%~99.99%とされる。つまり1,000~10,000人に1人しかにPCR検査よる「偽陽性」は存在せず、大量に検査した場合、陽性ではないのに感染症予防法に基づき、隔離または入院措置等が必要で、それでなくと不足する専用病床からあふれ出すと懸念したのが、厚労省が一貫してPCR検査を「抑制的に行う」という「本当の理由」(ἡ ἀληθεστάτη πρόφασις)だ。
そもそも、102②⇒【「重複感染」を問題にしたい私の理論】と妄言を繰り出しても、老婆に「理論」(ἡ γνῶσις)に値するものなど、何もない。ドイツの高が週刊誌電子版を妄信する、控え目にみて粗笨な読みで「半可通」ならではの大風呂敷な議論に逆上せ上がっている婆さんのパラノイア気質(ὁ τρόπος παρανοίας)特有のご意見(ἡ δόξα)でしかない。
しかし、それに続けて、105②⇒【ピアノのミスタッチ…プロの巨匠の演奏の場合、ミスタッチがあるから、その演奏には、音楽性がない、感動させられない、とはならない】など、論点ずらしもいいところで、愚鈍さゆえに墓穴を掘る。
立論の趣旨は「プロの巨匠」(maestro di professione)でもない老婆が言うことではない。そうした途方もない勘違いを、誇大妄想(Grössenwahn=ὑπερβολή)と呼ぶ。
「患者の妄想体系は、自分が世界を救済し、人類に失われた幸福を、再び取り戻すべき使命を帯びていると信ずる時に絶頂に達した。彼の主張によれば、ちょうど予言者から教えられるように、神から直接与えられる霊感によって自分はこの使命を課せられたのであった」(„Das Wahnsystem des Patienten gipfelt darin, daß er berufen sei, die Welt zu erlösen und der Menschheit die verloren gegangene Seligkeit wiederzubringen. Er sei, so behauptet er, zu dieser Aufgabe gekommen durch unmittelbar göttliche Eingebungen, ähnlich wie dies von der Propheten gelehrt wird;“; Sigmund Freud, Gesammelte Werke, Vol. VIII, S. Fischer, 7. Aufl. 1973, S. 248)という、まるで「パラノイア患者」(Paranoiker)と同じ心性だ。
104⇒【金持ちのユダヤ人に虐げられている「貧乏なドイツ人の救済」】など、如何にも、ドイツを「第二の祖国」(‘ἡ δεύτερος πατρίς’)とか称する「ドイツ狂い」(Γερμνανία μανία)の老婆に相応しい、それゆえナチスの政治的戦略に絡め取られていった、それどころか加担し狂奔したドイツの獰猛な民衆と同水準の「悲憤慷慨症」(ὀργιλότητα)が如実に表れている。
「けん」氏も、妄想癖のある老婆によく似て、99⇒【新聞記者としてロクな記事も書けず、周囲の人も誰も相手にしてくれないから、広い部屋に一人引きこもって、他人のブログのコメント欄に、さも学識があるようにギリシャ哲学の引用をつらつらと書きこんでいるにちがいない】のような、想像(ἡ δόκησις)に基づく無知ゆえの(δι’ ἄγνοιαν)の思い込み(οἴησις)で無駄口を叩く。
私は17年前まで新聞記者だったが、新聞社の大部屋でこのコメントを書いてはいない。「さも学識があるようにギリシャ哲学」云々は、無学ゆえの(δι’ ἀπαιδευσίαν)の僻み(φθόνος)で、不毛な(ἄπρακτος)感情だ。読めなければ、添えた訳文を参照するか、他の訳文にあたればよい。引証箇所を明示してある。
妄想癖のある人間が一人前のつもりで、稚拙で凡庸で陳腐、退屈かつ愚鈍極まりない文章を綴っても恥をかかずにいられると錯覚している。
99⇒【「悪質なレッテルはり」と言っていた意味がよくわかった…本論と関係のない部分で人格を攻撃…この上なく陳腐】とは称しても、老婆に「レッテル」(ἐκμαγεῖον)を貼るまでもなく、個々の症例を明示してある。
早とちりで何が「よくわかった」のか知れたものではないが、具体的な反論でもあれば、試しに投稿したらよい。それができずに単なる被害者意識で不平不満を募らせても老婆同様、負け犬根性でしかない。精々、「けん、けん」と凡庸な言いぐさで吠えたらよい。
それを呑み込んだうえで、「凡庸で陳腐、退屈で愚鈍」(μέτριος καὶ φλαῦρος καὶ βαρύς καὶ ἄπρων)ということを老婆同様、頓馬は頓馬なりに、自分で得と考えればよいのではないか。
「想像力は、愚かな人たちを賢者にすることはできないが、彼らを幸福にすることができる。それに反して、理性の方は、その友人たちを惨めにするだけである。前者は彼らを栄光でおおい、後者は恥辱でおおう。」(‘Elle(imagination) ne peut rendre sages les fous; mais elle les rend heureux, à l’envi de la raison qui ne peut rendre ses amis que misérables, l’une les couvrant de gloire, l’autre de honte.’; “Pensées”, Frag. 82, Œuvres de B. Pascal par L. Brunschvicg, Tom. 13. p. 3)
『詩経』大雅・召旻に、「皐皐訾訾會不知其玷」とある。「皐皐(こうこう)訾訾(しし)たり、會て其の玷(きず=過ちの謂い)を知らず」と訓じる。皐皐は→「がやがやと騒いで、道理を知らないさま」、「訾訾」は→「ぐずぐず文句をつける」(「訾」は文句をつけるの謂いで、悪口を「訾毀」という)で、驢馬並みの物言いを指す。二匹の頓馬な驢馬が互いにエール交換する図は、醜悪を通り越して滑稽である。
閑話休題。日下部眞一氏が前回の86をもっていったん、退出されたようだ。‘Le vent se lève!’、何ら言及はないが、首相の退陣表明をちょうどよい頃あいとみたのだろう。餞に何か詩賦でも贈りたいが、これも何かのご縁なのでヴァレリーと陶淵明にしたい。
「歸去來兮請息交以絶游世與我而違復駕言兮焉求悦親戚之情話樂琴書以消憂農人告余以春及將有事於西疇或巾柴車或棹孤舟既窈窕以尋壑亦崎嶇而經丘木涓涓而始流善萬物之得時感吾生之行休已矣乎寓形宇内復幾時曷不委心任去留胡爲乎遑遑欲何之富貴非吾願帝郷不可期懷良辰以孤往或植杖而耘耔登東皐以舒嘯臨凊流而賦詩聊乘以歸盡樂夫天命復奚疑」
全文340字からなる「歸去來兮辭」の後半、第三段以下の155字は上記の通りである。日下部氏が愛唱しているのかもしれない。
「善萬物之得時感吾生之行休」→萬物の時を得たるを善しとし/吾が生の行ゆく休まんことに感ず⇒というのも齢70に達した人間の基本的な修養なのだろう。
「已矣乎寓形宇内復幾時曷不委心任去留」→已んぬるかな乎/形を宇内に寓すること復た幾時ぞや/曷(な)んぞ心を委ねて去り留まるに任せざるや。
「胡爲乎遑遑欲何之」→胡爲(なにせ)んとて遑しくも遑しく何ずくにか之(ゆ)かんと欲する⇒政治への参与に熱心だったあまり惶惶として気が落ち着かなかった孔子の二の舞は踏むまい。精々、「懷良辰以孤往」→良き辰を懷しみては以て孤り往き⇒天気の良い日には孤独な散歩に限るのかもしれない。
「聊乘以歸盡樂夫天命復奚疑」→聊か化に乘じて以て盡くるに歸し/夫の天命を樂しみつつ復た奚をか疑わん⇒死生はすべて天命次第、思い煩うこともない。
‘Quel pur travail de fins éclairs consume / Maint diamant d’imperceptible écume,/ Et quelle paix semble se concevoir ! / Quand sur l’abîme un soleil se repose, / Ouvrages purs d’une éternelle cause,/ Le Temps scintille et le Songe est savoir.’(“Le cimetière marin”,“Œuvres de Paul Valéry”, 1933, p. 157)
「知覺し得ない泡沫の數々の金剛石を/鋭い燦きの 何といふ純粋な働きが 閉ぢ込めてゐることか、/そして何といふ平安が 懷胎されさうに見えるのか。/深淵の上に 太陽が身を憩ふ時、/永遠の素因が生んだ純粹な二つの作品、『時』は閃き、そして『夢』は卽ち智慧となる。」(鈴木信太郎訳、『全集』第1巻、228~29頁)
『海邊の墓地』は堀辰雄が死去するまで枕元に置いたのと同じ、ガリマール書店印行の限定版著作集(Œuvres de Paul Valéry)に拠った。局紙刷りの贅沢本だ。
いずれまた(χρόνον τοσοῦτον)。[完]
コメント22で、Gくんが「一番心配なのは、インフルエンザ等が流行する秋冬(11月~2月ころ)です。」と投稿しました。カロリーネ氏は、これを受けて、コメント40で、「この秋から冬のCovid19について、、私もGくんと同じようにインフルエンザ菌がらみで心配する。そのかかわりについては、4月11付のコメント7で翻訳し、http://shinodahideaki.blog.jp/archives/ 34893461.html#comments、それ以来なんどか書いたことであるが、インフルエンザ菌が、Covid19の重症化 の遠因になるからである。」、「つまり、感染者がコロナウィルス以外の細菌、例えば、インフルエンザ菌に感染していると、重症化のリスクが高くなるのである。」とコメントしたものです。
Gくんの「インフルエンザ」が、秋冬に流行する季節性インフルエンザを念頭においたものなので、「Gくんと同じように」「心配する」のであれば、その対象は「インフルエンザ菌」ではなく「(季節性)インフルエンザ(ウイルス)」の方になります。
さらに、カロリーネ氏は、コメント59で「Spiegelの記事を独話辞典の助けを借りて訳したところ、日本語にするとインフルエンザ菌となったのであって」としていたにも関わらず、具体的な原文も示さずに「重複感染による重症化」の問題にすり替える「論点偽装」をしたので、カロリーネ氏が「虚偽体質」であるとの私の評価は維持せざるを得ません。
しかも、カロリーネ氏が主張する重複感染による重症化問題よりも、(季節性)インフルエンザの流行期に同時に流行した場合の医療提供体制への負荷が現実の政策課題となっているのであり(その対策として、検査体制の拡充等が議論されています。)、カロリーネ氏の主張する議論は一方的に信奉する尾身茂氏や押谷仁氏の問題意識とも相当に外れているのです。
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000664825.pdf
どうあっても「インフルエンザ菌」に係るSpiegelの原文をお示しいただけないようで、誠に残念です。
なお、「私は重複感染のことを言ってるんだ!」と頑張られても、政府解釈さんがコメント111でまとめていただいたような経緯に従って私も議論しているのであり、「論点偽装」による貴女の「虚偽体質」は明らかでしょう。
なお、インフルエンザとCOVID-19との重複感染についは、既に下記の記事が出ており、(会員限定記事のため)私は冒頭しか読んでませんが、それだけでもSARS-CoV-2とインフルエンザウイルスとの重複感染についての記事であることは分かり、貴女があえて「インフルエンザ菌」を持ち出される理由が分かりません。
大西淳子「SARS-CoV-2とインフルエンザの重複感染症例 死亡率は単独感染例と差がなかったが症状を悪化させる可能性」(『日経メディカル』@2020/06/08)
https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/t344/202006/565914.html
また、細菌性肺炎との重複感染を強調されんがためだとしても、貴女の大好きなWikipediaソースで恐縮ですが、【肺炎】の項目には下記のとおり記載されており、例の多い肺炎球菌を差し置いてあえて「インフルエンザ菌」を持ち出される理由がやはり分かりません。
【以下"Wikipedia"より引用】
細菌は市中肺炎(CAP)で最も一般的な原因であり、その50%のケースでは肺炎レンサ球菌単独によるものであった[26][27]。
その他の菌ではインフルエンザ菌(20%)、クラミジア(13%)、マイコプラズマ(3%)[26]ほか、黄色ブドウ球菌、モラクセラ・カタラーリス、レジオネラ菌、グラム陰性菌などであった[11]。
今度は、「ただよく吠える犬」「妄想癖のある人間」「凡庸で陳腐、退屈で愚鈍」「頓馬」ときたものだ。それこそ、あなたの勝手な「想像(ἡ δόκησις)に基づく無知ゆえの(δι’ ἄγνοιαν)の思い込み(οἴησις)」ではないのか?
確かに、「すべての新聞記者はゴロツキである」という命題に対して否定するならば、「少なくとも一人、『ごろつき』(ὁ μαστιγίας)ではない新聞記者が存在することを例示すればよい」のだろう。
しかし、私は決してそんなことを言いたいわけではない。
ほとんどの新聞記者や報道機関の関係者は、結果はどうあれ、建前であっても「権力の横暴にペンで立ち向かう」という正義感・気概をもって職務に当たっていると思う。けれどもあなたは、夜討ち朝駆けに励み、政府高官と賭けマージャンをしている側なのではないのか、と「ごろつき」と指摘された返礼として申し上げているのだ。
もちろん、テキストを読んだだけの、単なる推測に過ぎない。
哲学に関する見識は誰もが認めるところだから、今のやり方はもったいないですよ。
素人相手に哲学を語っても仕方がないが、食うために働く事実上の奴隷の生活から解放された人間に、114⇒【哲学に関する見識は誰もが認めるところ…今のやり方はもったいない】などという佞言(θῶπες λόγοι)や諌言(ἀντιλογία)は無用で、そもそも学徒(οἱ μαθητής)を称するとは言え酔狂にも哲学を志す者、世間様の評価やご機嫌を伺う立場にないし、義理もない。
やれ民主制を信奉すべきとか、人間は平等とか、戦争は絶対悪で人間の生命は至高のものだとか、当世風のありふれた、つまり凡庸で陳腐とは、明証的ではなくとも誰でも普通はそう信じたがる、世間を憚って信じたふりをして思考停止している世間的通念(τὰ ἔνδοξα)、臆見(δόξα)から基本的に自由であるがゆえに、哲学なのだ。
凡庸で陳腐(μεσότης καὶ φαυλότης)というのは、世間並み(μέτριος)で取り立てて言うほどのことはない(φλαῦρος)ということで、人格攻撃の問題ではなく、ありのままに指摘しているにすぎない。
老婆のような世間知らずでもあるまいし、114②⇒【もちろん、テキストを読んだだけの、単なる推測】で、③⇒【あなたは、夜討ち朝駆けに励み、政府高官と賭けマージャンをしている側】も妄想だろう。
しかし、所詮は言論ではないか。そして言論、即ち理=ロゴス(λόγος)にはロゴスの原則がある。それは、論理的な首尾一貫性(τὸ ἐναυτῷ σύμφωνεῖν)を徹底すること以外にはない。
別に価値観を論じているわけではない。絶対的な真理や信仰、信条がテーマでもない。相手の立場に配慮する(ἐπιμελέομαι)とか、リスペクトする(ἐν τιμῇ ἔχειν)とか、見解の多様性以前に、真に気遣わねばならない(ἐπιμελητέον)のは、そうした論理性だ。
私が座右の銘の「殺伐非情」を説明する便宜で掲げるヴィトゲンシュタインの断片、「哲学者は如何なる観念の共同体の市民でもない。そのことが彼を哲学者にする」(‘Der Philosoph ist nicht Bürger einer Denkgemeinde. Das ist, was ihm zu Philosophen macht.’:L. Wittgenstein, “Zettel”, Frag. 455)とはそうした意味で、英訳すれば、‘The Philosopher is not a citizen of any community of Idea, That is what makes him into a Philosopher.’となる。
世の耳障りのよい俗論に抗して、そうした重圧を受け止める覚悟(πίστις)を、歴史家の立場から宮﨑一定は次のように説くが、基本的に同じことだ。
「歷史家になるには一種の鈍感さ、冷淡さなどの惡德が必要である。それがなければ、人類に代わって運命の重壓を感知し、捉え所のないほど大きな世界史の構圖を、しっかり摑んで描きおおせることが出來ない」(同所収「世界史序説」、7頁)
高がブログへのコメントだ。私はそうした持論を人様に求めはしないし、理解も求めないが、私自身に限っては相手の立論に容赦はない。人格攻撃を「目的」(τέλος)にするほど酔狂でもない。攻撃に見えるのは、論証の結果にすぎない。
それにしても、「けん」氏には芸がない。
Irene Berresさんの書いた文章です。その記事は、あなたがお示しになった(会員限定記事のため)冒頭の記事だけ読めないのではなくて、全文が読める。あなたも大学時代、一応ドイツ語を第二外国語で取られ、二年間勉強されたのだろうから、その知識を生かし、辞書をひけば、内容がすべてわかるはずなのである。私は、特にワイドショーの報道で、このCovid19のウィルスについて、新型インフルエンザウィルスと混同した報道をするから、日本では、まっとうな世論が作られないと思ったので、このCovid19ウィルスの特色を全文訳したのです。、高校時代に得た、生物や保健の知識を生かして、Covid19問題についても発言しているのです。マスコミがまともな報道をしてくれていたら、老婆の主婦だてらにこんなことはしません。「老婆カロリーネ」にもできるのだから、通りすがりさんにも訳せるはずなのである。なんのために、大学時代に第二外国語を勉強したか、考えるべきです。
そして、きちんと訳し終えたら、あなたが正しいと信じるその文章をきちんとコメント欄に載せていただきたい。「自分」でそれ相応の努力もせず、「論点偽装」による「虚偽体質」と安易に「他人の人格を貶めるな」、と言いたい。暇だから、ゲーム感覚で、「時間つぶし」にこんなことをしているわけではないし、この主張は、反氏と同じ、「ごろつき」の攻撃手法なのです。
Covid19ウィルス問題でも、専門家と自称してマスコミに登場している人々が、Covid19の特色、例えば、スーパースプレッダーの存在、感染者の80%は他人に移さない、重複感染者の症状は重篤化しやすい、感染者のうちPCR検査で偽陰性が出やすい発症前48時間から24時間に感染者は、自覚症状と関係がなく感染力が強い、ということを、ドイツのSpiegel誌とは違って、日本のマスコミは視聴者に報道しないから、PCR検査だけ増やせばいい、接触制限、移動制限をすればいい、という「西浦モデル」がもてはやされるのである。渋谷健司医師などは、「偽陰性ということは、ウィルスがすくないから、感染力が低い。」などというとんでもないの主張を、ロンドンの著名な日本医師という肩書で、「そもそも総研」で述べられていたが、それは、科学的知見からみて、真実なのだろうか。本来「公正な報道をしなければならない」放送局が、自分たちの主張、「イメージ戦略」の都合で、科学的真実を曲げて、公共の電波を使って放送する。これを「虚偽体質」と』名づけずに、なんと形容するのだろう。
昨夜のテレビの解説にしろ、またぞろ「政治解説」の専門家たちが登場し、マスコミと考えの同じ「反安倍」の「石破茂」氏に首相になってもらいたいから、党員に人気がある石橋を首相にするために「自民党」の総裁である以上、全員の「党員投票」で決めるべきだ、と主張しておられたが、安倍さんが辞任されたのは、「激務の、行政の長、首相の職責を全うできない。」からであって、「総裁を全うできない」からではない。今までの政権運営は、「内閣」が一体となって行政の責任を担ってきた。今問題になっているのは、行政の長、首相の人選であって、立法府の自民党の長の人選ではない。本当にその政治の基礎もわからずに、専門家をしているのか、とはじめは思ったが、よく考えてみると、わかった上で、石破茂氏を首相にしたいから、あのような論理構成で発言しているのだな、と納得した。「一応もっともらしい」この報道、解説姿勢を、「虚偽体質」、「ならず者体質」以外のなんと形容するのだろう。
という反氏の主張は、一応もっともらしいが、そう主張したのが、ナチスドイツの御用理論家としてつとに喧伝された政治学者、カールシュミットなのである。それが、篠田教授がブログのテーマにされている、「友・敵」理論であり、「国際協調」の対極にある理論である。
今、特に「民主主義の危機の時代」と言われる。彼の「政治的なものの概念」未来社、田中浩、原田武雄訳を読んで考えてみるのも、対極になるハンス・ケルゼンの「民主主義の本質と価値」を読むことと共に、これからの国際「政治」を考える上で、必要なことなのではないのだろうか。
一部読者のご指摘は、いっぺんや二遍ではありません。しかも指摘は事実です。そもそも、その他の読者が、このことについてダンマリです(利害関係ないので関心がない!?)。
117~122を眺めていると、一見して狂人まがいの文章であることが分かる。コロナ狂いの偏執狂老婆(γραῦς παρανοίας)を形容した「虚偽体質」(ψεύστης φυσικός)いう私の造語もここにきてすっかり定着したようだ。
一昨年5月21日以来、前回116までで私の本欄への投稿は4,469件を重ねるが、フロイトがパラノイア患者の表現目的(Darstellungszweck)を満たすものとして、相手の批判、非難に対して、相手が使ったのと同じ言葉をそのままやり返す子供じみた作法を「幼児のしっぺ返し」(infantile Retourkutsche)と称したように、老婆まで連発しているのは滑稽だ。
ラテン語にも「売り言葉に買い言葉」とでも訳したらよい‘quid pro quo’(‘something for something’=相当物、転じて報復)があるが、老婆ほど苦し紛れ、つまり子供じみても狂気まがいでもない。
老婆など、「世には莫迦たるべく定められた人がいて、彼ら自身が進んで莫迦なことをするだけでなく、運命そのものが否応なしに彼らに莫迦なことをさせるのである。」(‘Il y a des gens destinés à être sots, qui ne font pas seulement des sottises par leur choix, mais que la fortune même contraint d’en faire.’; La Rochefoucauld, Maximes 309)ことを端的に示す。
「虚偽体質」は生まれつきの(φύσεως)嘘つき(ψεύστης)という意味で、金正恩→金日恩▼石原莞爾→石川莞爾▼前川喜平→前原喜平▼トゥーキュディデース(トゥキディデス)→ツキデユデス(「月で湯です」?)▼グロティウス→ゴロテイウス▼ストア派→スコア派(古代Stoa派と中世Schola哲学の区別さえ知らぬゆえの新造語)――数限りない誤記にとどまらない、おびただしい無知、事実誤認、論理矛盾、論点ずらし、頬被り、端的にごまかしは、他は厳しく、自分には極端に甘い「精神の幼児」の心性であって、虚偽と同居している。
Gクン氏は人格者なのだろうが相手が悪く、逆効果。
そうすれば、「民主主義」を否定することもなくなるし、トランプ流の「覇権争い」、「分断政治」もなくなり、世界は、安倍首相や、篠田英朗教授や私がめざす「国際協調」の平和な世界になる。
些細な間違いの指摘ではなく,「本質的なことを議論すべき」だとする当の本人が中身がからっぽ(χώρα)、つまり虚勢(προσποιησις)、虚飾(ἀλαζονεία)、虚栄(χαυνότης)が揃った、空虚な(μάταιος)「四虚の人」だから、「思い違い」(παρανοέω)も甚だしい。
それが昂じると手前勝手な「思い込み」が、「聖なる病い」(ἱερὴν νοῦσος)ゆえの狂信に転じて、「精神の状態に異常を来した」かとも受け取られかねない「錯乱した」(μαίομαι=lose one’s wits)状態が現出する。取り憑かれ(ἐνθυσιασμός)病んでいる(ταράσσειν)人間の所業だ。
老婆のもって生まれた性向(ἕξις)、謂わば人柄(ἦθος)であり、内なる人間性(ὁ ἐντὸς ἄνθρωπος)だから、常人の説得に応じることなど、まずもってない。
「腹黒き人柄、女々しい人柄、融通が利かぬ頑固な人柄、さらに挙げれば野獣にも似て粗野なもの、残忍なもの、子供くさいもの、怠惰なもの、油断のできぬ狡猾なもの、下品なもの、小商人根性のもの、暴君的なもの。」(‘Μέλαν ἦθος, θῆλυ ἦθος, περισκελὲς ἦθος, θηριῶδες, βοσκηματῶδες, παιδαριῶδες, βλακικόν, κίβδηλον, βωμολόχον, καπηλικόν, τυραννικόν.’; Aurelius, M., ‘‘τὰ εἰς ἑαυτόν’’, IV, 28)とストア派の哲人皇帝が吐き捨てるように書き遺した俗物性こそ、「油断のできぬ狡猾なもの」(κίβδηλον)を除けば、老婆のありのままの姿なのだろう。
非難されるべき(ἐπονείδιστος)は党派心の強い人物(ὁ ἑταῖρος)で、愚にもつかない素人論議で手前味噌の真理(αὐτάρκής ἀλήθεια)=狂信に酔うおしゃべり婆さん(πολύλογος γραῦς)なのである。
私は「インフルエンザ菌」という言葉を含むセンテンスをお示しくださいと申したはずです。もし貴女が誤訳されたのなら、その誤訳の基となったセンテンスないしパラグラフでも構いません。
また、貴女は「インフルエンザ菌、という言葉が存在するのなら、インフルエンザウィルスをインフルエンザ菌と訳しても、致命的な間違いではない」とおっしゃいます。
致命的か否かは、それぞれの主張の根幹が何かということに依存する面が大きいと思いますが、文字通りに用いますなら、ウイルス性肺炎を細菌性肺炎と誤診しますと生命に関わる事態にもなりかねません。
正直におっしゃって楽になったらいかがですか?
貴女は、インフルエンザがウイルスによって引き起こされるものであることを知らなかった、又は細菌とウイルスの区別がついていなかった。
その部分を政府解釈さんに指摘され、貴女が論点をすり替えようとしているときに、迂闊にも私が「インフルエンザ菌」という存在を暴露してしまった。
これ幸いと、貴女はこの期に及んでもなお「自分は間違ってない」と喚き散らしている、そんなところでしょう。
もし違うとおっしゃるなら、センテンスないしパラグラフ単位でのご教示を重ねてお願いいたします。
Wikipediaによると、現実に肺炎を起こす菌として、インフルエンザ菌が20%の肺炎を起こしているのである。その事実は、Covid19のウィルスと二重感染すると、重複感染となり、肺炎の重症化リスクとなり、命にかかわる。私はそのことを重視して、指摘しているのであって、Wikipedia に「インフルエンザ菌」の言葉がある以上、単語的にも致命的な間違いではない。
センテンスに関しては、リンク先を書いてあるので、そのセンテンスを探し、ドイツ語の知識を借りて、全文読んでいただきたい。全文の趣旨を理解しないで、その部分の単語だけ取り出しても、まるで意味がない。
野党の安倍政権への批判、論点外しではないことを、あたかも「論点外し」であるかのように、国会や、マスコミを通じて、糾弾する手法なのである。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%94%BF%E6%A8%A9%E3%81%AE%E5%BB%B6%E5%91%BD%E3%82%92%E6%94%AF%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F%E4%B8%8D%E8%AA%A0%E5%AE%9F%E7%AD%94%E5%BC%81%E6%89%8B%E6%B3%95-%E3%81%94%E9%A3%AF%E8%AB%96%E6%B3%95-%E3%81%AB%E4%BB%8A%E3%81%93%E3%81%9D%E8%A8%A3%E5%88%A5%E3%82%92/ar-BB18wKku?ocid=msedgntp
カロリーネ氏は、コメント59で、「私は、ウィキペデイアとは関係なく、Spiegel誌の記事を独和辞典の助けを借りて訳したところ、日本語にするとインフルエンザ菌となった」と記載しました。それがカロリーネ氏の「嘘」か「妄想」でないのであれば、「インフルエンザ菌」という訳語を選択した元となるドイツ語の単語を示せるはずですし、「しつこい」(コメント129参照)追及をされずに一瞬で真偽が明らかになるはずです。
ところが、「通りすがりの老人」氏が、コメント96で、翻訳ソフトの助けを借りて関連しそうな該当部分を提示しましたが、カロリーネ氏は、それに対する具体的な説明もせずに、記事の全文を読めば趣旨が分かるといった強弁をするか(コメント117、コメント129)、全く関連性のない「野党の安倍政権への批判」(コメント130)という問題を持ち出して別の問題に論点をすり替えています。因みに、「インフルエンザ菌」の学名は「Haemophilus influenzae」ですが、カロリーネ氏が引用する記事に、そのような記載はなく、重複感染による重症化の紹介がされているにすぎません。
最後に、カロリーネ氏はコメント117で「高校時代に得た、生物や保健の知識を生かして、Covid19問題についても発言しているのです。」と臆面もなく投稿をしています。しかし、高校レベルの生物の知識(それどころか、小学校の理科で習得するレベルの初歩的な内容かと思います。)があれば、「細菌」と「ウイルス」を混同して議論をすることはないように思います(過去の投稿でも、カロリーネ氏は、細菌とウイルスを混同している議論があったように思います。)。
脇から失礼します。
上記に描写されているような人物だと、早期に退職されて古典学徒になる訳がなく。テキストを読んで憶測されるにしては適切とは言えないのでは。
カロリーネさんの真似をして、やられたらやり返すにしても切り口をもっと模索すべきですね。
「悪質なレッテルはり」というのも、以前にカロリーネさんに他者が見ているカロリーネさんのイメージを自分が思っているイメージと同等まで引き下げてみることも必要というようなコメントをしたら、いきなり反氏はカロリーネさんのイメージを悪く書き込むから、皆がそう思うのだと主張されたのです。
カロリーネさんに限らず、自己反省することによって思惟を深めたほうがより確かな自己形成ができるのではないかという主旨だったのですが、通じそうもないので、コメントするのを止めた次第です(言っている本人も未熟者ですので)。
>ご自身が、コメント113で、インフルエンザ菌、という言葉を使われているのではないのだろうか
こっ・・・こっ、こっここまでアホだとは思わなかったorz
でも、気を取り直して反論します。
相手の言論を批判する場合に、当該言論の引用の必要があることは論を俟たない。この一言に尽きますけど、念のため私は113では「インフルエンザ菌」の語を鍵括弧書きで表記しています。
他にも反論したい点はありますけど、政府解釈さんと重複する部分があり、また、貴女のアホぶりに脱力しましたので、申し訳ありませんが、今日のところはここまでとさせていただきます。
自己反省することによって思惟を深めたほうがより確かな自己形成ができる、ということは確かであるが、私は私をよく知るまともな社会人の助言、例えば、夫や弟や親友たちの助言を参考にする。哲学を専攻した父も、反氏のように古典学徒になりたかったが、経済的な理由で、それができなかったが、父の晩年をみて思ったが、傍観者として社会を批判するより、社会の構成員として生きていくことの方が、はるかに大変なのである。首相の仕事が大変であることは言うまでもない。それを外野席から批判中傷するマスコミ、ジャーナリストは、その大変さを実際に分かった上で、あのような批判、中傷をしているのだろうか。
私が政府解釈氏に、Spiegel誌のあの記事を読んでほしいのは、日本でマスコミに、自称専門家に報道されているCovid19だけではない、Covid19ウィルスの本当の姿を知ってほしいからである。このCovid19ウィルスの真実が、特性がわかってはじめて、「日本モデル」と「西浦モデル2.0」のどちらが優れていることを理解することができるからである。
ただ、私や「通りすがりの老人」氏が指摘した「インフルエンザ菌」に関する疑問点に対し、カロリーネ氏が、「頰被り」をして「論点ずらし」をし続けたことについては是非認識をして頂きたいと思います。私が「虚偽体質」と評したのには、そのような事情がありますし、過去にも再三に亘って同様のやり取りを繰り返してきたように思います。
コメントありがとうございます。
私は、はなから適切な憶測をしているつもりはありません。あえて、間違った憶測をしているのです。
ただ、それは反氏も同じではないかと言いたいのですよ。どうして他人のことはいとも簡単に、「ただよく吠える犬」「妄想癖のある人間」「凡庸で陳腐、退屈で愚鈍」「頓馬」とまで言えるのか。
そもそも私は、鳥や家畜ではない。「雄雌いずれだろうか」などと、全く口の利き方を知らない。
カトリーネさんの肩を持つわけではないけれど、ケアレスミスの範疇にあたるものまで「生まれつきの嘘つき」呼ばわりすることはないだろう。
以前に書き込みをした時に、反時流的古典学徒氏にも戯れての罵詈雑言は見苦しいので止められたほうがいいのではなどと提言してみましたが、そうではないと一蹴されました。
反氏にしても最初はカロリーネさんに対して礼を弁えた物言いをされていました。今に至るまでにはそれなりの経緯があってのことで、カロリーネさんの書き込みをその頻度も含めて鬱陶しく感じているのが反氏おひとりでもない。カロリーネさんは他人の書き込みの内容をきちんと理解しないまま、自説を執拗に繰り返しての投稿を続ける。で、いつの間にか反氏の言葉も鋭くなりました。
カロリーネさんの世界史観は現在の中国、アメリカを含めてかなり偏っていると思っていますが、それにしても、確かに褒められたコメント欄のやり取りではないですね。
辛辣なフランスのモラリストは愚かさをそう抉り出すが、臆面もない本欄の「ならず者」(ὁ μοχθηρός)=偏執狂の老婆は、およそ悔い改める(μετανοέω)ということがない御仁で、愚劣さはエスカレートするばかり。
回心の(μετανοίας)というのは、一定以上の思慮(φρόνησις)のもち主にして初めて可能になることをよく示す。
モラリストは「もしわれわれに全く欠点がなければ、他人の粗探しをこれほど楽しむはずはあるまい。」(‘Si nous n’avions point de défauts, nous ne prendrions pas tant de plaisir à en remarquer dans les autres.’; Maximes 31)とも言って戒めているが、要は自らの人間性を含めそれを自覚しているか否かの問題で、クォ・ヴァディス氏のような思い遣り(συγγνώμη)に満ちた人間の目には、苦々しく映るかもしれない。
ところで、さながら祭壇に供せられた犠牲の子羊(ἀρήν)のごとき様相を呈し、防戦一方かと思いきや、老婆はいつもながらの狂気じみた言辞で殺気立っている。救いようのない人物、しかも齢70近いのだから、悲惨である。
新約聖書『マタイによる福音書』に出てくるイエスの説法、「惨状」ならぬ「山上の垂訓」に、「なんぢら人を審くな、審かれざらん爲なり。/己がさばく審判にて己もさばかれ、己がはかる量にて己も量らるべし。」(‘Μὴ κρίνετε, ἵνα μὴ κριθῆτε• ἔν ῴ γὰρ κρίματι κρίνετε κριθῆσεσθε, καὶ ἐν ῴ μετρηθήσεθαι ὑμῖν.’; Κατα Μαθθαιον, VII. 1~2)とあるが、別に言論によるリンチで血祭りに上げるわけでもないから、主の御心に背くことにもなるまい。
問題は、自分の欠点や短所ならどんなに致命的でも気づかない愚かさを諭した続く箇所だ。
「何ゆゑ兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木(うつばり)を認めぬか。/視よ、おのが目に梁木のあるに、いかで兄弟にむかひて、汝の目より塵をとり除かせよと言ひ得んや。/僞善者よ、まづ己が目より梁木をとり除け、さらば明かに見えて、兄弟の目より塵を取り除き得ん。」(‘τί δὲ βλέπεις τὸ κάρφος τὸ ἐν τῷ ὀφθαλμῷ τοῦ ἀδελφοῦ σου, τήν δὲ ἐν τῷ σῷ ὀφθαλμῷ δοκὸν οὐ κατανοεῖς; ἢ πῶς ἐρεῖς τῷ ἀδελφῷ σου• ἄφες ἐκβάλω τὸ κάρφος ἐκ τοῦ ὀφθαλμοῦ σου, καὶ ἰδοὺ ἡ δοκὸς ἐν τῷ ὀφθαλμῷ σου; ὑποκριτά, ἔκβαλε πρῶτον ἐκ τοῦ ὀφθαλμοῦ σου τήν δοκὸν, καὶ τότε διαβλέψεις ἐκβαλεῖν τὸ κάρφος ἐκ τοῦ ὀφθαλμοῦ τοῦ ἀδελφοῦ σου.’; Κατα Μαθθαιον, VII. 3~5)
格調は高いが古風な文語訳だから馴染みが薄いが、「梁木」(δοκὸς)とは、梁の丸太のことである。相手の目(ὀφθαλμός)の中にある塵(κάρφος=実際にはおが屑)には気づいても、肝腎の自分の中にある見誤りようもない致命的な欠点には築かず、相手に目くじらを立てる身勝手さ、愚かさをついたものだ。
肝腎の自分の間違いをごまかすのに躍起になっている老婆同様、浅ましことこの上ない。
自分で自分を知らない(αὐτὸ αὑτὸ ἀγνοεῖν)、その割にはソクラテスの無知の自覚(‘ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι’)、不知の知(‘μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι’)など正確には知らず、126⇒【相手の人格と主張を否定するのをやめ、「無知の知」の意味を深く味わわれればいい】のような戯けた御託を並べるばかり。
それにしても、コピペ狂いの横着者だから、恥の上塗りで134⇒【金正恩→金日恩…▼ストア派→スコア派】と、まるで「誤記だけ」であるかのように、134②⇒【私が生まれつきの嘘つき…と書いたから】と矮小化して言い逃れられると高を括っているのも笑止で、より重大な、それこそ塵ではない「梁木」、⇒《数限りない誤記にとどまらない、おびただしい無知、事実誤認、論理矛盾、論点ずらし、頬被り、端的にごまかしは、他は厳しく、自分には極端に甘い「精神の幼児」の心性…虚偽と同居》の部分は、コピペから除外するようなご都合主義に終始する。
書き洩らしたが過去には悪質な剽窃もある。コピペ狂いによる嵩増しも後を絶たない。
この期に及んでも、自覚と反省などまるでないからだろう、134⇒【コメント欄の大半が、私のバッシング…反氏の手法が悪辣だから、こうなってしまう】という自意識過剰さで、何も考えずにクズを書き散らすから、結果として益体もない「病気」そのものの誤記にもまして、半可通の素人論議ゆえの致命的な間違いが避けられなくなるわけで、責任転嫁も甚だしい。
それなのに被害者面して大騒ぎしている。まさに「われわれが小さな欠点を告白するのは、大きな欠点は無いと信じさせるためにすぎない。」(‘Nous n’avouons de petits défauts que pour persuader que nous n’en avons pas de grands.’; Maximes 327)という小細工だ。
自分のやっていることの子供じみた愚行に今もって気づかない(または行きがかり上認めたくない)から、見え透いた手口に終始している。愚鈍に輪をかけたような人間性の欠陥が嫌でも顔を覗かせ、かかずに済む恥をかくことになる。
すべて、身から出たさびだろう。
政府解釈氏や「通りすがりの老人」氏が嫌気がさして根負けするまで、老婆は何とか遣り過ごせると甘く見ているが、とんだ勘違いだ。心根優しい「Gクン」氏のせっかくの取りなしも無駄にしている。
老婆を長らく観察していると、「人間は何かに動かされている時でも、自分で動いていると思うことが多い。そして頭では一つの目的を目指しながら、心に引きずられて知らぬまに別の目的に連れて行かれるのである。」(‘L’homme croit souvent se conduire lorsqu’il est conduit, et pendant que par son esprit il tend à un but, so cœur l’entraîne insensiblement à un autre.’; Maximes 43)取り留めのなさが窺える。
何んと言っても、自分で訳したドイツ版Wikipediaのヘーゲルの解説文のような唐人の戯言並みの珍妙な訳を、ルターの聖書ドイツ語訳になぞらえるような誇大妄想狂だから、口から出まかせに何を言い出しても不思議ではない。何せ、前回は選りにも選って113⇒【私の言う国際協調とは、音楽の概念】だ。
今回のインフルエンザ菌、細菌とウイルスの無知ゆえの混同、同一視については、ちょうど2年前の2018年07月24日・62、老婆が敬愛する楠山義太郎氏による東條英機の陸軍士官学校、陸軍大学時代の成績に関する「妄言」を真に受け老婆が喋喋していたのを思い出す。
あり得ない間違いを個々の証言を挙げて粉砕したら、しばらく逃げ回っていた。ようやく「伝聞」云々にすり替える不得要領な主張をしたが、楠山氏の発言は戦後で、歴史上の人物になった東條について、伝聞も何もない。
ごまかしにごまかしを重ねる虚偽体質の原点(ἀρχὴ)だ。[完]
「弱い人間は率直になれない。」(‘Les personnes faibles ne peuvent être sincères’; Maximes 316)
本日も午前05:11~05:14(143~146)というのだから、ホメーロス風に言えば、薔薇の指さす暁(ἠριγένεια φάνη ῥοδοδάκτυλος)からけたたましい。取り憑かれた人間の妄執(ἀματηλός αὐθάδεια)は凄まじいと言えば凄まじいが所詮は虚勢だからどこか虚ろだし、狂犬は闇雲に吠えるものだから、本能なのだろう。
日が高くなったらなったで、147⇒【篠田教授の主張が…子供騙しの議論…以外のなにか特段の主張があるのだろうか】――「日本モデル」≠「西浦モデル」という篠田さんの議論の枠組みに論点窃取(τὸ ἐξ ἀρχῆς αἰτεῖν=petitio principii)の虚偽が存在することを冒頭示してある(12~13)。愚鈍だから意味が理解できないのだろう。
「コロナ狂い」の偏執狂の老婆の妄想癖、物語思考(εἰκὼς λόγοι)に基づく極端な歴史認識、新型コロナ解釈、篠田さんへのおべっか(κολακεία)については改めて指摘するまでもないが、世界史認識や本欄での私と老婆との応酬に関するクォ・ヴァディス氏の認識は誤ってはいない。
しかし、それ以前の問題がある。老婆の憐むべき日本語やその論理意識、日本近代史の構造的理解に関して言えば、老婆は肝腎のことを何も知らない。その程度の無知蒙昧な単細胞が、西独留学でにわかに覚醒したなどという法螺話が如何に奇矯か、しかも話を聞いていると、結局「篠田さんの本ブログに出会って」云々という程度の話で、西独留学も随分過去の話だ。
篠田さんを知る以前の憲法認識、歴史認識は「左翼的」と称してもよい極端な戦前の否定論につながる近代主義的解釈、その意味ではごくありきたりのものというか、特段の洞察など何もない単純で粗雑な見方、裁断で、左翼的な心性をもつ人間にはおなじみのものだ。
143⇒【私も、日本の教育を受けたから、大学在学中は、みんなと同じ世界史観…けれども、ヨーロッパで「ベルリンの壁」を見たことで、考えが変わった。特に…敗戦国、ドイツの歴史を深く知れば深く知るほど、日本のマスコミの大勢となっている「世界史観」は正しいのか、と思うように】など、思いつきのはったり(βαναυσία)もいいところで、1970 年代の日本でも充分得られた情報や知見を何ら弁えずに、にわかに西独で歴史観に劇的な変化、それこそ「コペルニクス的転回」(eine kopernikanische Umwälzung)が起きたなど、子供騙しの莫迦話にすぎない。
日本の歴史や政治の構造的理解も覚束ないような人間が西独留学で大変身するのは、単にナイーヴで愚鈍だからだ。その程度の人間は状況の変化で、今後も何度でも認識を誤り、間違いを繰り返すだろうし、ご都合主義で立場をコロコロ変えるだけの話だ。
ドイツと言えば、「鉄血宰相」(Eiserne Kanzler)ビスマルクも言っているではないか、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(„Nur ein Idiot glaubt, aus den eigenen Erfahrungen zu lernen. Ich ziehe es vor, aus den Erfahrungen anderer zu lernen, um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.“)=「ただ愚者ばかりが自らの経験から学ぶと信じている。私はむしろ、始めから自分の誤りを避けるべく、他人の経験から学ぶことを好む」)と。
「大部分の女の才気は、彼女らの理性よりも狂気を強めるのに役立つ。」(‘L’esprit de la plupart des femmes sert plus à fortifier leur folie que leur raison.’; La Rochefoucauld, Maximes 340)
「ヨーロッパで『ベルリンの壁』を見た」云々は、西独留学の陳腐な成果を誇示するための「はったり」にすぎず、しかも凡庸なレベルのドイツ語、時折繰り出す意味不明なフレーズ「ミュンヒェン大学の音楽学」云々は「こけおどし」(θρασύδειλοι)だ。しかも間抜けだからすぐにぼろを出し、それが空疎な「張り子の虎」(tigre m en papier mâché)であることを露呈する。
そもそもドイツの歴史と言ったところで、近代史に限っては精々トーマス・マンの次男、ゴーロ・マン(Golo Mann)の『近代ドイツ史』(„Deutsche geschichte des 19. und 20. Jahrhunderts“, 1966)を、大方翻訳で読んだ程度の知識だろう。その割には、最終章(第12章)の表題(„Les Allemagnes“)、フランス語複数形の長らく使用されたドイツの蔑称について何も知らない体たらくだ。
ゴーロはそこで、「これは極めて長い時代にわたってドイツ国民を特徴づけた、政治的文化的多様性を指したもの」(上原和夫訳、下巻367頁)とする。「19世紀後半から20世紀にわたる間のドイツ人のエネルギーは極めて強大だった。このエネルギーを分別ある態度で利用したならば、統一と自由を確保するに十分だっただろう」(同)とその政治的未成熟さを生んだ要因に及ぶ。
ドイツの知識層の中核を担った所謂「ドイツ教養市民層」(der deutsche Bildungsbürger)について、その非政治的な性格(ohne politishes Engagement)はもとより、学問上のテーマになっているその言葉すら老婆は知らない。
老婆が莫迦の一つ覚えのように言及するメルケル首相のハーバード大学講演で、ドイツにおける革命の挫折について言及した事情は、別にトーマス・マンだけがドイツ人の非政治性を指摘していたわけではないからだ。
「市民による教養概念への期待は、とりわけ三月革命前期に、政治的影響力と社会的可能性への期待と結びついたが、1848年の革命の挫折以降、市民層の保守化とともにもっぱら非政治的な概念へと収斂していった。市民層はさらにプロレタリアートの台頭を前に、革命に対する危機感から、啓蒙主義や新人文主義の教養理念のなかに含まれていた個人の自由と平等への信仰というデモクラシー的要素への否定的感情を強めていった。
……教養の社会的性格は、18世紀から19世紀初頭までは、教養を通じた社会改革と政治改革をも含意していたが、三月革命が失敗に終わり教養概念の主な担い手となった市民層が非政治化するとともに、むしろ懐疑のまなざしを向けられるようになった。教養概念は普遍性や啓蒙の理念と結びついた社会的政治的志向を持つ概念としてよりも、個性と内面性への志向として理解されるようになり、19世紀末にはさらに、社会的徳としての性格を失った単なる学識へと形骸化した」(速水淑子『トーマス・マンの政治思想――失われた市民を求めて』、2012年、111頁)というのが、それが英仏とは明確に異なったドイツの支配層を担う知識層の現実だったということであり、マックス・ヴェーバーの危惧でもあった。
【ドイツの歴史を深く知れば深く知るほど】と法螺を吹いたところで、東西統一前の「歴史家論争」についてさえ、何も知らない。その間の事情は私との過去の応酬からも明らかで、単に「ケアレスミス」程度の軽微な誤謬ではない致命的な錯誤が、老婆には存在するということだ。[完]
「人生には時として、少々狂気にならなければ切り抜けられない事態が起こる。」(‘Il arrive quelquefois des accidents dans la vie d’où il faut être un peu fou pour se bien tirer.’; La Rochefoucauld, Maximes 310)
押し出しもいいし、外務大臣をされていたし、現在は自民党政調会長で、政策のこともよくわかっておられる。実績、経験、意欲とも十分なのではないのだろうか?そう解説しない、政治解説者というのは、どこか歪んでいるのではないかと思う。一般的に、日本のマスコミの人というのは、客観的に見て、信頼できる人を、尊敬できる人を、凡庸であるとか、いろいろあら捜しをし、あしざまにいう人が多いのではないのか、という印象を受ける。
「ただよく吠える犬」「妄想癖のある人間」「凡庸で陳腐、退屈で愚鈍」「頓馬」は、私のコメントの中から「けん」氏が拾い出し137で並べたもので、なるほど老婆にも当てはまるから、それで瞋恚を募らせてごちゃごちゃ言っている「けん」氏を巻き込もうという魂胆で、故意(ἑκουσίως)または無意識に(οὐκ εἰδώς)書かせるのかもしれない。
政府解釈氏や「通りすがりの老人」氏の追及を何とかごまかそうと必死で、自分の守備範囲外での応酬を唆すことで、それに乗じて追及をはぐらかす見え透いた時間稼ぎとみえなくもない。
137⇒【カトリーネさんの肩を持つわけではないけれど、ケアレスミスの範疇にあたるものまで「生まれつきの嘘つき」呼ばわり】どころの騒ぎではないから、穏やかで折り目正しい政府解釈氏も、どちらかと言えば淡白な「通りすがりの老人」氏も、追及を緩めないのだ。
「われわれは相手にうんざりしても、その人を大目に見てやることが多いが、われわれにうんざりするような相手は、容赦できない。」(‘Nous pardonnons souvent à ceux qui nous ennuient, mais nous ne pouvons pardonner à ceux que nous ennuyons.’; La Rochefoucauld , Maximes 304)という人間心理を見誤ると怒りの火に油を注ぐことになる。
152⇒【首相は、どうして、岸田文雄さんではいけないのだろう? 押し出しもいいし、外務大臣をされ…現在は自民党政調会長】――小学校の学級委員でもあるまいし、ミーハー婆さんのお子様政治論。政治は権力闘争、「精神の幼児」には永遠に分かるまい。
つまりカテゴリーそれ自体が罪状ということだ。しかも、内容は老婆が言い募る不注意(οὐκ αἰσθάνεσθαι)の結果の軽微な過ち(ἁμάρτημα)などではない。おびただしい誤記に加え、誤訳、事実誤認、論理矛盾、論点ずらし、頬被り、隠蔽、弱論強弁、剽窃・盗用と何でもありだ。
私は議論の内容に関しては情け容赦なく(ὠμῶς)、それ以外は何の興味もない。不当な人格攻撃、否定、誹謗中傷だとされるものは、あくまでも論証の論理的な帰結、つまり必然的に(ἐξ ἀνάγης)だ。
そしてそうした性向(ἕξις)を子細に検討すれば一時的、偶然的なものではなく、生来の(φύσει)自然の(φύσεως)もので、嘘つきは今に始まったことではなく、性格に根差した体質的なものだから「虚偽体質」(ψεύστης φυσικός)というわけだ。
罪状は過去の言辞から山ほどある。「罪を贖う」(ἀπολυτρόω)時期は迫っている。
ところで、「伝染病のようにうつる狂気がある。」(‘Il y a des folies qui se prennent comme les maladies contagieuses.; Maximes 300)というが、137⇒【カトリーネさんの肩を…】では、「けん」氏も「カトリーネ」族のお仲間入りのようだ。不用意にかかわると莫迦が移るから、用心することだ。
驢馬並みのお頭の老婆と同じ頓馬の免疫があるのなら、その懸念はあるまいが。οἴμοι.
「笑い者になることは不名誉以上に名誉を傷つける。」(‘Le ridicule déshonore plus de déshonneur.’; Maximes 326)
【コメント152について】
現在の比較第一党である自民党総裁は、慣行上、国会における首相指名選挙において指名すべき者を選出する機能を事実上有するのであり(総理・総裁分離論も理論的にはあり得え、過去にもそのような議論はありましたが、現在の政治情勢では考慮に入れる状況ではありません。)、カロリーネ氏の主張は意味不明です。
安倍内閣が正式に内閣総辞職をするのは新総裁選任後と見込まれていますし、新しい首相が国会で指名され(日本国憲法67条)天皇陛下によって任命(同6条1項)されるまでは従前の内閣が職務を行うことになりますが(同71条)、現実問題としては、辞任表明した首相のもとでは大きな政治決断が難しいことから、行政府における政治的空白も現実には生じてしまうのは明らかです。現実の政治日程上も、来年度(令和3年度)の予算案の編成(概算要求期限は例年と異なり1か月遅れの9月30日となっています。)も控えている状況であり、安倍首相は、出来る限り政治的空白が生じないように辞任表明の時期を設定したと推察されますが、それでも当然ながら限界はあるのです。
また、カロリーネ氏は、コメント120では、「安倍さんが辞任されたのは、「激務の、行政の長、首相の職責を全うできない。」からであって、「総裁を全うできない」からではない。今までの政権運営は、「内閣」が一体となって行政の責任を担ってきた。今問題になっているのは、行政の長、首相の人選であって、立法府の自民党の長の人選ではない。」と投稿しており、これも含めて評価すると、カロリーネ氏は政治行政の基本的理解を欠いていると言わざるを得ません。
因みに、「立法府の自民党の長」という表現は正確には誤りです(「トランプ首相」、「世田谷区知事」といったあり得ない表現を用いるカロリーネ氏に対して正確な表記を要求するのは酷かもしれませんが・・・)。総裁の被選挙権を有する者は党所属国会議員とされていますが(自民党の総裁公選規程9条参照)、自民党は立法府の組織ではありません。自民党は(国会議員のみならず地方議員や議員ではない大多数の党員を構成員とする)全国組織の政党であり、また、議会内の活動は厳密にいえば議会内の「会派」(自民党所属の衆議院議員は院内会派「自由民主党・無所属の会」に、自民党所属の参議院議員は院内会派「自由民主党・国民の声」に、それぞれ所属しています。)を通じて活動する形態となっています。
逆に言えは、パラノイア気質の悲憤慷慨症(ὀργιλότητα)の憤激(θυμός)の程度は、攻撃者の知性の程度に反比例(ἀντιπεπόνθησις)するということだ。
それにしても、横着者が好き勝手に恥のかき捨てよろしくクズ同然の幼稚な文章を書き殴っているからそれを少しも意に介しないし、自分の文章に何の責任も感じないのだろう。
134⇒【悪辣なレッテルをはる材料を仕入れるために、どれだけの時間を割いて、過去の私のコメントを漁って】を見落としていた。
私はパソコンの文章ソフトを利用して書いているから、検索は容易だ。検索機能を使い、いくつかのキーワードを入力すれば、老婆が如何に仰天の誤記を繰り返し、議論をすり替えるために論点ずらし=論点窃取(τὸ ἐξ ἀρχῆς αἰτεῖν)または論点移動(μετάβασις εἰς ἄλλο γέννο)の詐術的議論を繰り返し、事実誤認をどれほど指摘したか、たちどころに探し出せる。
私は新聞社でデスクを務めた編集のプロでもある。だから健忘症(Amnesie)の婆さんが疾うに忘れている(忘れたふりをしている)ごまかしが逐一分かる。ドイツ語の綴りの間違い、事実関係の誤認の指摘を何度したか、すべては老婆の狂言と愚行の記録『カ氏(瑕疵)誤録』に記録されている。過去4,481件の投稿がものをいう。
さらに、新たに間違いとごまかしが日々積み上がるから、浅ましい虚偽体質は自ずと実証される形だ。
材料に不足はない。
品定め 政治音痴の ご託宣 勘(菅)より岸(癌)田 法螺の音響く
政府解釈氏は、私が指示した記事をドイツ語を読んで内容を理解しようとする努力はまるでもせず、私を批判し、「インフルエンザ菌」か、「インフルエンザウィルス」かにこだわる。大事なことは、重複感染になった場合、重症化して、感染者の命にかかわるかどうか、なのであって、このブログのテーマ「日本モデル」vs.「西浦モデル2.0」の正念場、の趣旨も同じ、篠田教授も、この問題の対応の如何によって、日本人の命、これからの日本の社会、経済生活にかかわるから、国際政治学者、専門外であるにもかかわらず、この問題をシリーズものとして、7回にわたって書かれているのである。どうして、この問題の内容に興味をもとうとせず、私の一つの単語の訳にこだわるのだろう。ウィキペデイアに「その単語自体が存在する」にもかかわらず、である。こだわる理由は、ただただ、私の糾弾の種を探す意図しか、この三人にはない。どうして、もっと日本に、国際社会にとって、大事な問題に興味をもたれないのだろう。
反氏の手法をまねたものだと思うが、糾弾、批判しかしない「ジャーナリスト」、というのは一体何のために、日本社会に存在しているのか、と思う。 日本政府が大所高所から見て、いい政策をとっていても、糾弾の種を探し、それを大げさに表現し、批判に明け暮れる。
「反」を貫く日本のマスコミの現在の報道姿勢は、未熟な日本人に悪い影響しか与えない、のではないか、という感触をもっている。
実際の日本の自民党の成功した政治家は、テレビを見ていても、「自分を支えてくれる人がいなければ、ここまでこられなかった。」と発言している。つまり、その人の考えに共鳴し、自発的に親身になってその政治家を支える人がいなければ、その人は、政治家として頂点を極められないのであって、安倍晋三さんは、菅義偉さんをはじめとして、そういう人をたくさんもたれていたのではなかったのだろうか。それを称して、「王道」政治という。神戸に戻るたびに、ちょうど通り道なので、県庁前の孫文の遺跡を見、孫文が戦前に私の母校の前身、旧制神戸高等女学校講堂において行われた演説のことを考えるが、彼は、王道は仁義道徳を主張し、覇道は功利強権を主張する、と述べている。戦前の日本は、覇道を志したから、失敗したのであって、同じ失敗をした西洋の敗戦国ドイツがしているように、日本も東洋の大国として、自国中心主義を捨て、安倍首相がされていた政治を継続、発展させて、「国際協調」、「国際平和」をめざさなければならないのではないか、と思う。
それだけ、常識ある知性派の日本人にとって目に余るものなのである。
いまは、安倍首相が辞任の表明(事実上)をしている状況です。制度上は、首班指名の前に総辞職してから首班指名→宮中で天皇陛下によって首相に”任命”されて、正式首相の誕生です。前の内閣が総辞職して、新首班が指名され天皇陛下によって任命されるまでは、職務執行内閣(おおきな政策判断はできないとされる)とされています。
あくまでも「インフルエンザ菌」に係る原文を示そうとせず論点をずらせていく、そのような貴女の卑劣な態度が批判の対象になっているのですよ。
それはさておき、
>中学時代から憲法や安全保障に興味があったから、「三権分立」を問う社会の試験で優秀な生徒ぞろいのクラスなのに、女だてらに1番だった
確か、過去に貴女は、篠田教授の著作で初めて「芦田均」を知った、とおっしゃっていたような・・・?(間違っていたら謝罪しますが、貴女の論点ずらしには辟易してますので、正誤判定については、お手数ですが、カロリーネさんの過去の言論に一番お詳しい反時流的古典学徒さんにお願いしたいと思います。)
あのぉ~、私は別に「中学時代から憲法や安全保障に興味があった」わけではないんですけど、「芦田均」という人名や「芦田修正」なんて言葉は遅くとも高校入学時には知っていましたよ。
それからコメント161が、なぜ155の政府解釈さんへの反論になるのか理解できません。というかコメント自体が何をおっしゃりたいのかもよく分かりませんが。
政府解釈さんがおっしゃる「現実問題としては、辞任表明した首相のもとでは大きな政治決断が難しい」と、大災害が起こった場合に憲法71条の規定により「引き続きその職務を行」っている内閣が災害に対応することとは何ら矛盾しないと思います。
そのことをさして言っているのです。篠田教授もその芦田修正の本当の意味を2019年に出版されたご自身の著書、「憲法学の病」についてかいておられるのではないですか?
その理由は、本当の「芦田修正」の意味を知らない、憲法や法律の専門家が多すぎるせいです。
そういう中身の議論をしないと、その人物の名前を知っているか知っていないか、いつ知ったかを競っても全く意味がない。
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