日本学術会議会員の任命拒否問題が大きな話題となっている。率直に言って、過去に数々のスキャンダルを人工的な操作で作ってきたグループの特定メディアが、日ごろから政権批判を繰り返している学者たちと、お馴染みのキャンペーンをするために、新しい題材を見つけてきた、という印象は拭えない。当初は、私はたいして関心を持っていなかった。
もちろん論点がたくさんあるのは確かだろう。いずれも日本社会に深く根差す深刻な問題だ。議論は数多くすればいい。私自身は、そのすべてに関わるつもりはない。ただ、ここでは法的問題についてだけ、少し書いておきたい。
というのは、菅首相によって任命拒否された6名の方々の中心が法律分野の方々であるのに対して、当事者の方々を含めた法律家の方々が真っ向から一斉に反政府運動を行い始めた、という構図が見え始めているからだ。任命拒否された6名の中でも、政治学者の宇野重規教授が「何も語ることはありません」というコメントを出しているのに対して、法学者の当事者の方々は一斉に自ら政権批判を展開している。鮮明なコントラストだ。
背景に、2015年安保法制の際の憲法学者を中心とする方々の集団的な反政府運動の経験がある。法学者の方々自身が、党派的対立の当事者だ。そうだとすれば、まず心配しなければならないのは、果たして客観的な法律論が行われるかどうか、だろう。このような党派的対立の中で最も損をするのは、健全な情報にもとづいて考える機会を与えられるべき一般国民だ。
この点については、私自身もある種の思い入れがある。集団自衛権の合憲性を論じ、日本の憲法学の批判を行った一連の著作を通じて(『集団的自衛権の思想史』『ほんとうの憲法』『憲法学の病』『はじめての憲法』)、日本の憲法学の憲法解釈の問題性を、人事制度の慣行まで視野に入れて議論しようとした。しかし、「篠田は三流蓑田胸喜(戦前の右翼)だ」「法律家でない者が法律を語るな」といった類の批判を例外として、数名の良心的な方々を除けば、法律家の方々からは完全無視を貫かれている。今回のこの文章も同じように扱われるのだろう。だがそう思うからこそ、やはり一言書いておかざるをえないという気持ちがしてきている。
「学問の自由」と「統帥権」
日本国憲法23条は「学問の自由は、これを保障する。」と定める。これは一連の基本的人権の保障の規定の中で定められている条項である。学問の「自由」の保障は、思想・良心・信教・表現・職業選択の「自由」と列挙され、いわゆる「自由権」規定群の日本国憲法が定める基本的人権の一つを形成している。ここで憲法が保護している法的利益は、個人の尊厳である。学問を自由な追求が許されなければ、個人の尊厳は守れない。この人権規定によって保護されている「学問」とは、大学でお給料をもらっている人々の特権的地位を保障する何ものかではなく、もっと広く全ての国民の個人の尊厳を形成する精神的活動のことを指しているはずだ。
そのように保護法益が個人の尊厳である人権規定を根拠にして、ある組織体の完全独立性を主張することは、果たして可能だろうか。
その組織が人権保障に不可欠である場合、可能だろう。そうでなければ、不可能だ。
内閣総理大臣が、自らが「所轄」する組織(日本学術会議法1条2)の自らが任命権を持つ(同法17条)会員の任命にあたって、推薦を拒絶してはならないという主張が、基本的人権によって論証されるという主張は、控えめに言って、理解が困難だ。高度な論証責任は、むしろ内閣総理大臣の裁量を禁じる側の方にあると言っていい。
かつて大日本帝国憲法(明治憲法)をめぐって、「統帥権」と呼ばれた概念をめぐる議論があった。その根拠は、「第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という短い規定であった。これは、本来は、明治憲法における天皇を最高指揮官とする軍隊の指揮命令系統を法的に定めたものだ。ところが、米英に譲歩をして1930年ロンドン海軍軍縮条約の締結にこぎつけた浜口雄幸内閣を拒絶し、軍部の超然性を主張するために、軍部指導者層が持ち出したのが11条を根拠にした「内閣は統帥権を干犯できない」という主張であった。明らかに、当時の軍部指導者層は、11条を拡大解釈して、自らの特権確保に都合の良いように濫用したのである。これについて、野党やメディアは、浜口内閣を攻撃するのに好都合と考え、「統帥権干犯」を非難する論陣に加わった。
戦前の日本を破綻させた大きなきっかけは、独善的な軍部指導者層と、日和見的な野党政治家とメディアの「統帥権干犯問題」をめぐる無責任な態度だった。
今回の事件で菅内閣を批判する論者の中に、「このままでは戦前の復活だ」といった昭和に使い古された議論を用いる方が目立つ。しかし「学問の自由干犯」の主張が、「統帥権干犯」の主張と同じ党派的な憲法の拡大解釈の精神構造によって生まれていないか、よく考えてみるべきだ。
学問の自由と制度的保障論
安保法制違憲論の急先鋒の一人であった憲法学者の木村草太教授は、今回の問題について、次のように主張して、政府を批判している。「憲法23条が保障する学問の自由には、『個人が国家から介入を受けずに学問ができること』と、『公私を問わず研究職や学術機関が、政治的な介入を受けず自律すること』の二つが含まれる。学術の観点から提言をする日本学術会議は、学術機関の一種だ。憲法23条は『公的学術機関による人選の自律』も保障しており、今回の人事介入は学術会議の自律を侵害している。学問の自由に、公的研究職や学術機関の自律が含まれるのは、一般的な解釈だ。」https://www.asahi.com/articles/ASNB27V60NB2UTIL04Q.html?fbclid=IwAR1uI3p1InAGalP5XiRTeQr7kTkCsOSnL23VwWAwPEIbO316FGKKLgaN1ZM
私にとっては久しぶりの木村節だ。教科書レベルの一般論の陳述の後に、根拠不明な「日本学術会議は、学術機関の一種だ」という断定と、「一般的な解釈だ」という多数派・通説の側にいるのが自分だという権威主義を織り交ぜて、結論が自明であるかのような印象を作り出す。いつもの木村教授の議論の方法である。
しかし、「わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし」、「科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする」(日本学術会議法前文・2条)という政治的性格を持つがゆえに「内閣総理大臣の所轄」(同法1条2)となっている日本学術会議は、果たして言葉の正確な意味での学術機関であろうか。果たして基本的人権としての「学問の自由」を根拠にして、不可侵の独立性を憲法によって保障されている組織だと言えるだろうか。相当に怪しいように思わざるを得ない。
次に「学問の自由に、公的研究職や学術機関の自律が含まれるのは、一般的な解釈だ」という点を見てみよう。ここで木村教授が言及しているのは、いわゆる「制度的保障論」のことであると思われる。これは、基本的人権の主体はあくまで個人だが、制度を保障しないと個人の権利が保障できない場合には、制度の保障が人権保障の観点から正当化される、という議論である。大学の自治が学問の自由の観点から保障されるのは、大学などの学術機関の制度的存在が保障されなければ、学問の自由という基本的人権の保障も、絵に描いた餅に終わってしまう、という制度的保障論の考え方による。
制度的保障論は、伝統的にドイツ法学の影響が根強い日本の憲法学で、数多くの議論がなされてきた分野だ。私は、この問題に精通した専門家を気取るつもりはない。しかし制度的保障論が、カール・シュミットの名と深く結びついていたり、ナチス・ドイツにも利用された経緯を持っていたりする概念であることくらいは、法律家ではない私でも、もちろん知っているくらいだ。法律家の方々が知らないはずはない。制度的保障論の濫用を通じた不必要な制度保障は、かえって基本的人権を阻害する。これについては数多くの議論を行ってきた憲法学者の方々が、誰よりもよく知っていることのはずだ。
制度的保障論を取り入れた憲法23条解釈を行って、いわゆる大学の自治といった制度的保障を認めていく「一般的な解釈」を根拠にして、「内閣総理大臣は推薦された日本学術会議会員候補の任命を拒絶することはできない」、という結論を導き出そうとする態度には、明らかに論理の飛躍があると言わざるを得ない。
素直な日本学術会議法の解釈
今回の事件があって、私も初めて日本学術会議法なる法律を読んでみた。結果、素直な日本学術法の解釈は、次のようなものではないかと思わざるを得ない気がしている。
日本学術会議とは、「科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし」、「わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的と」した組織だ(同法前文・2条)。したがってこの組織の使命と目的は、学術活動を行うこと自体ではない。基本的人権を守ることでもない。日本の国家政策としての学術振興に寄与することが、この会議の使命・目的だ。
この政治的性格のために、「内閣総理大臣の所轄」とされ、構成員の任命も内閣総理大臣が行うことになっている。ただ内閣総理大臣が法律の目的に沿って「優れた研究又は業績がある科学者」を適切に任命するために、同会議は新規の会員の推薦を行う(同法7条2、17条)。内閣総理大臣による適切な任命に寄与することが、会議に会員を推薦させることの法的趣旨だ。
この際、任命者である内閣総理大臣は、推薦という寄与を受けながら、会員候補者が適切であるかどうかを審査する責任を持つ。内閣総理大臣は、当然、候補者一人一人の「研究又は業績」だけでなく、法の趣旨にしたがって、日本学術会議の使命と目的にも照らして、任命責任を遂行しなければならない。そうでなければ「経費は、国庫の負担」(同法1条3)である日本学術会議を「所轄」する者としての責任を、納税者や国民に対して負うことができない。そこに一定の裁量の余地が発生することは、当然だろう。
なお日本学術会議法は、その前文と第2条で、「科学者の総意」や「わが国の科学者の内外に対する代表機関」といった文言を用いている。しかしこれらは「使命」と「目的」の一部として用いられている概念である。そもそもどこにも「総意」や「代表」を確保する手続きがない。会議は「総意」を反映するように行動する使命を遂行し、「代表機関」として行動することを目的としなければならない、というのが法律の趣旨である。わかりやすく言えば、努力目標にすぎない。「学者の国会」というのは、その努力目標の観点から述べられる比喩にすぎない。
「総意」を反映し、「代表」として行動するために不断の自省を含めた努力をせよ、という指針ではあっても、万が一にも「学問の自由」の不可侵を旗印にして「所轄」責任を持つ者に対しても絶対独立を主張する根拠を与えるのが、この法律の趣旨であるとは思えない。
たとえば、もし会議が法の趣旨を逸脱し、「科学者の総意」を受けて「わが国の科学者の内外に対する代表機関」として行動しているか疑問が残る会員候補を推薦してきた場合には、内閣総理大臣が任免拒否権を行使して、「使命」と「目的」を守ることを期待するのが、法の趣旨だと考えるべきだ。
「学問の自由」と「研究又は業績」だけが内閣総理大臣の判断基準ではない。もしそうだとしたら、内閣総理大臣を任命者に定めている日本学術会議法は、的外れで欠陥のある法律だということになる。「使命」と「目的」に照らした政策判断を行う責任を内閣総理大臣に求めているからこそ、任命の権限を内閣総理大臣に与えているのが、この法律の法体系の素直な理解だ。
政策論をせよ
結論としては、内閣総理大臣の任命拒否権の行使が違憲だとか違法だとかという糾弾は、控えめに言って根拠薄弱だと言わざるを得ない。
ただし、この指摘は、政策論における結論を先取りするものではない。政治的重要性を鑑みて、内閣総理大臣は説明責任を果たすべきだ、任命拒絶の理由は政策論的観点から議論の対象にするべきだ、といった意見には、私も全面的に賛同する。尊敬すべき政治学者である宇野重規教授が「優れた研究又は業績がある科学者」である点には、いくぶんかの疑念の余地もない。疑う見方には断固として反対する。
ただし仮に内閣総理大臣の行動に問題があるというのが議論の結論になる場合には、最終的には選挙を通じた民主的な審判を通じて、内閣総理大臣の行動の是正が図られるべきだ。それが民主主義国家のルールであり、日本国憲法を頂点とする日本の立憲主義の仕組みだ。
いやあ実は選挙では勝てそうもないので、民主主義のルールを回避し、「学問の自由」云々といった話を持ち出して問答無用の攻撃をして、印象操作でとりあえず内閣支持率の低下を目標としよう・・・、といった態度は、邪道であり、有権者に対する裏切り行為である。
コメント
コメント一覧 (285)
私は、オバマ時代のpolitical correctnessも、褒め殺しのようで、不自然に感じたが、そうかといって、トランプ大統領のバイデン候補や、ヒラリーさんへの形容がまともなものだと思わないし、東大系憲法学者の篠田教授の形容、安倍首相に対するマスコミ知識人の批判もどうかと思うし、東大系の憲法学者の芦田均さんの形容に至るや、とても、知的でまともな感性のある人の表現とは思えない。
とにかく、そのような形容詞を使って、徒党を組んで、数の力で、他人を批判し、罵倒しておいて、自分がされたら、目くじらをたてる行動はフェアーではない。日本学術会議についても、私は同様に考えている。
コメント176の「三権分立の原則がわかっていれば、日本の最高権力者は、国会議員」は、二重の意味で誤りです。
第一に、カロリーネ氏が念頭に置いたと思われる憲法41条の「国権の最高機関」の主体は、合議制機関としての「国会」であり、国会を構成する個々の国会議員ではありません。カロリーネ氏の議論は、合議制機関とその構成員の権限を混同しております。これは、芦田均に関する過去の議論でも指摘済みです。
第二に、憲法41条で「国権の最高機関」と規定されているのは、国会が主権を有する国民を直接に代表する機関であることからその政治的重要性を強調する趣旨にすぎず、三権分立を構成する他の二機関(内閣と裁判所)に対して法的に絶対的優位である趣旨ではありません(第一次国会乱闘事件・東京地裁昭和37年1月22日判決・判例時報297号7頁参照)。
このコメントのみでも、カロリーネ氏が、基本概念である「三権分立」を全く理解できていないことを示しており、コメント110の「中学の「三権分立」のテストで優秀な生徒ぞろいのクラスで一番が取れた」というカロリーネ氏の「自慢話」(これが自慢になるのかは甚だ疑問ではありますが)は滑稽な上、こちらが恥ずかしくなります。
憲法41条所定の「国権の最高機関」の趣旨については、憲法学説上も様々な議論がされてきました。しかし、これをここで紹介してもカロリーネ氏には理解不能であり、かえって消化不良で混乱に陥ると過去の議論経過からは想定されます。
そこで、上記論点に関する政府統一見解を示した国会答弁(平成5年3月9日参議院予算委員会、当時の大出峻郎内閣法制局長官)が簡潔な説明をしているので、以下で概要部分を引用します。なお、杉山恵一郎・参議院法制局長(当時)も、昭和53年3月11日の参議院予算委員会で、要約すると「国会が国権の最高機関であるとする意味は、法律上の意味はなく、いわば政治的宣言である」という趣旨の国会答弁をしています。
(以下、上記引用部分)
「憲法第四十一条の「国会は、国権の最高機関」、こういうことについての意義を御説明申し上げたいと思います。
憲法第四十一条における国会は国権の最高機関である旨の規定は、国会が主権者たる国民によって直接選挙された議員から成る国民の代表機関であるところから、国家機関の中で主権者に最も近く最も高い地位にあると考えるにふさわしいものであるとの趣旨を表明したものと解されるわけであります。他方、憲法は、国家の基本体制といたしましていわゆる三権分立の制度を採用いたしておるわけであります。
したがいまして、この四十一条の規定は、行政権及び司法権との関係において国会の意思が常に他に優越するというそういう法的な意味を持つものではないと解されるわけであります。例えば国会の一院である衆議院が内閣の助言と承認による天皇の国事行為として解散されるということが制度的にあり得るわけであります。また、国会の制定した法律が最高裁判所による違憲審査の対象となるということがこれもまた憲法上明文で規定されているところでございます。」
要約すれば、政府の諮問機関的存在であり、2,000億円規模の国の科学技術振興予算の配分にも無視できない影響力を持つ政府組織が、一部の声の大きい、特定の政治的傾向をもったグループ、内部組織の委員の存在(「民科法律部会」所属者)によって牛耳られている外形的な状況を炙り出したものだ。
それに従えば、6人の任命見送りによって政府側が何を意図して任命を拒んだかが、何となく透けて見えてくる。そしてそれが、表向きの「口実」(πρόφασις)である「学問の自由」をめぐる対立などではなく、「一番本当の理由」(ἡ ἀληθεστάτη πρόφασις)は、問題の所在を承知しつつ確信犯的に「組織の論理」で既得権益を何とか維持しようとする学術会議側と、現状を何とか変えたいと手を突っ込んだ政府側との攻防であり、暗闘はそれ以前から始まっていたことが分かる。
それでも学術会議側の対応は変わらないだろうし、「学問の自由」という錦の旗をめぐって政治闘争化することも避けられまい。そうした学術会議の内情の根底には、戦後を長らく支配してきた日本的慣行があるからだ。
学者の政治運動、内部の声の大きい一部の集団の影響力で弊害が顕在化し、学術会議の裾野を支える大多数の研究者の意図や関心とは別の論理や力学で騒動が動き、実態と懸け離れていく形で政府への批判が過激化することは、珍しいことではない。
それでも双方の「公式見解」(ἐς τὸ φανρὸν λεγόμενον)は、政府側が「総合的、俯瞰的な」任命拒否であると説明するだろうし、学術会議側は慣行という形の既得権益が崩されることへの警戒感や今後の影響を考慮して「学問の自由」を楯に抵抗するだろう。
ノーベル物理学賞受賞者の益川敏英氏が昨日14日、「首相がこんな乱暴なことをしたということは、歴史上長く糾弾されるだろう。戦争の反省の上に作られた日本学術会議に汚点を残すものだ」というコメントを出している。
益川氏は「安全保障関連法に関する学者の会」の呼びかけ人であり、宇宙物理学の池内了氏と並び「立憲デモクラシーの会」では数少ない自然科学関係者だ。
益川氏は湯川秀樹の共同研究者であった物理学者坂田昌一の研究室に属していたことから、早い段階から平和運動や護憲運動に取り組んでおり、2005年に「九条科学者の会」の呼びかけ人になるなど、政治活動にも熱心なことはよく知られる。
物理学者で独自の唯物論的方法論を提唱し、原子力の平和利用三原則「自主・公開・民主」を提唱、「思想の科学」の創設メンバーである武谷三男の影響も見逃せない。
しかし、その政治的見識に卓越性は見受けられない。ノーベル賞とは別個のものだからだ。
同日「抗議声明」を出した「学者の会」の記者会見でも、「アカデミーに政権が関与すると学術的な発信力を損なう大きな問題で、長期的に日本全体の国益を損なう」(哲学の内田樹氏)、「選挙で選ばれた権力者であっても、法に定められた手順を踏まないといけない。理由も説明もしない現状で放置すれば、不透明な差別の温床」(歴史社会学の小熊英二氏)のような、気持ちが分からないでもないがどこか上滑りする論調が目立つ。内田氏は「デモクラシーの会」の呼びかけ人。
そこに顕著なのは、研究者としての独自の見解や信念というより、学界の共通の利害関心、「空気」のような学界世論に配慮というか気兼ねした「集団的思考」でしかない。別に学者でなくとも、世間に幅広く観察される現象だ。
ましてや、「安全保障関連法に関する学者の会」のまとめで、学会や大学関係など、今回の騒動で政府に批判的な声明を出した組織・団体は370団体、大学などが17に上るが、そのいずれも判で押したような同種の独立性や学問の自由への侵害を糾弾する内容で、大衆組織である労働組合の声明と択ぶところはない陳腐さだ。
5年前の安全保障関連法案への過去の抗議活動のような運動は、「学問の自由」の存在理由や権力による介入や圧迫、形骸化の危機を独自の論点で深化させるより、大半が十把一絡げの、「独自には何も考えない」ことに等しい「集団的思考」の産物であることが珍しくない。そうした活動は一過性で終わる。
それは、卓越性と同時に独創性が求めれれる学者としては、致命的な弱点であり、政治的分野にかけては、それぞれの専門分野では卓越した業績を上げた研究者でも、所詮は大衆の一員でしかないことを示している。「政治ごっこ」(παιδειίά πόλιτκόν)と称した所以だ。
学問の真の危機は、それとは別の側面から生じる。そして政治的な知恵、洞察とは、ミルが『自由論』で説いた次のような知恵から生まれる。
「一般に、世間に受け入れられているものと反対の意見は、努めて穏やかな言葉を用い、最大の注意を払って不必要な刺戟を避けることによってはじめてその発言の機会を得るのであって、これに少しでも背けば、ほとんどいつもその立場を失う。」
いずれにしろ、学問は組織の論理とは別の観点で自由でなければならない。ミルの主張はそうした洞察に富んでいる。
「すなわち、文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人に対する危害の防止である。…それらは彼を諌めたり、彼と議論して納得させたり、彼を説得したり、彼に嘆願したりする十分な理由にはなるが、彼に強制したり、そうしない場合に彼に何らかの刑罰を加えたりする理由にはならない。それが正当化されるためには、彼の思いとどまることが望まれる行為が、だれか他の人に対して害を生み出すことが予測されていなければならない。人間の行為の中で、社会に従わなければならない部分は、他人に関係する部分だけである。自分自身にだけ関係する行為においては、彼の独立は、当然、絶対的である。彼自身に対しては、彼自身の身体と精神に対しては、個人は主権者である。」(224~25頁=‘That the only purpose for which power can be rightfully exercised over any member of a civilised community, against his will, is to prevent harm to others. …… These are good reasons for remonstrating with him, or reasoning with him, or persuading him, or entreating him, but not for compelling him, or visiting him with any evil in case he do otherwise. To justify that, the conduct from which it is desired to deter him must be calculated to produce evil to some one else. The only part of the conduct of any one, for which he is amenable to society, is that which concerns others. In the part which merely concerns himself, his independence is, of right, absolute. Over himself, over his own body and mind, the individual is sovereign.’; ibid., Chap. I, p. 17~18)
思想と自由の貧困は深刻だ。[完]
しかし、それは、「一知半解」の事柄について「剽窃」をしてまで論じることでもなければ、頭に思い浮かんだままに思い付きで自分の頭で考えるなどと称して論理性を無視した投稿を繰り返すことでもありません。
また、中学の三権分立のテストで一番になったという反証可能性のない大昔の個人的体験談を無意味に持ち出し、不必要な場面で殊更に「三権分立」を誤用的に使うことでもありません。
更に、「インフルエンザ菌」等の明らかな誤訳を頑なに訂正しないことでもありません。
ファンタジー(Fantasy)と空想(fancy)はいずれも同じ心的作用を指しており、幻=パンタスマ(φάντασμα)またはパンタシス(φάντασις)と称するが、それは現われ=パンタシアー(φάντασία)、見かけ=パイネスタイ(φαίνεσθαι)、要するに仮象(φαίνεσθαι)を実体(οὐσία)と取り違える想念(φάντασμα διανοίας)を指す。
老婆にはパラノイア気質ゆえの妄想(φαντασία)の癖がある。サンスクリットで妄想(vikalpa)という。具体的には誇大妄想(Grössenwahn)、被害妄想(Beeinträchtigswahn)、迫害妄想(Verfolgungswahn)で、「パラノイア性疾患」(paranoische Erkrankung)にみられる心的疾患に似ている。度が過ぎるようだと、医者に相談した方がよい。
「独りよがり」(αὐθάδης)も老婆の際立った性向で、「独りよがりは聖なる病い」(‘τήν τε οἴησιν ἱερὴν νοῦσον.’; Diels-Kranz, Bd. I, S. 159)、平たく訳せば「独りよがりは気違い」というヘラクレイトスの断片もある。
いずれにしても、学問を語る資格が老婆にはないことを示している。
「国際協調は音楽の概念」とかいう戯言もあったが、ゲーテも若い詩人たちに言っている。「ミューズは生活の道連れではあるけれど、導き手ではない」(„Daß die Muse zu begleiten, Doch zu leiten nicht versteht“; „Für junge Dichter wohlgemeinte Erwiderung“, Goethe Werke Hamburger Ausgabe in 14 Bänden, Band. 12, S. 359)と。
惚けた妄想から醒めて、自分を見つめ直すことだ。
ファンタジー(Fantasy)と空想(fancy)はいずれも同じ心的作用を指しており、幻=パンタスマ(φάντασμα)またはパンタシス(φάντασις)と称するが、それは現われ=パンタシアー(φάντασία)、見かけ=パイネスタイ(φαίνεσθαι)、要するに仮象(φαίνεσθαι)を実体(οὐσία)と取り違える想念(φάντασμα διανοίας)を指す。
老婆にはパラノイア気質ゆえの妄想(φαντασία)の癖がある。サンスクリットで妄想(vikalpa=迷いの心によって真実を見誤ること)という。具体的には誇大妄想(Grössenwahn)、被害妄想(Beeinträchtigswahn)、迫害妄想(Verfolgungswahn)で、「パラノイア性疾患」(paranoische Erkrankung)にみられる心的症状に似ている。度が過ぎるようだと、医者に相談した方がよい。
「独りよがり」(αὐθάδης)=極端な思い込み(οἴησις)も老婆の際立った性向で、「独りよがりは聖なる病い」(‘τήν τε οἴησιν ἱερὴν νοῦσον.’; Diels-Kranz, Bd. I, S. 159)、平たく訳せば「独りよがりは気違い」というヘラクレイトスの断片もある。
いずれにしても、学問を語る資格が老婆にはないことを示している。
「国際協調は音楽の概念」とかいう戯言もあったが、ゲーテも若い詩人たちに言っている。「ミューズは生活の道連れではあるけれど、導き手ではない」(„Daß die Muse zu begleiten, Doch zu leiten nicht versteht“; „Für junge Dichter wohlgemeinte Erwiderung“, Goethe Werke Hamburger Ausgabe in 14 Bänden, Band. 12, S. 359)と。
惚けた妄想から醒めて、自分を見つめ直すことだ。
という主張は、国会議員は複数いるのだから、議員間の序列はつけられないが、例えば、合議機関としての「国会」は、立法府、作った法律や予算、に国民が従う義務がある「国権の最高機関」であるが、「日本学術会議」は国の権力をもたない、ただの諮問機関である。行政府である「内閣」も行政権をもっている。そして、行政権の行使について連帯して「国会に」責任をもっているからこそ、戦争を遂行することもできる、だからこそ、前文に「政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、」という文言が入っているのだし、先の戦争で米軍との戦争を始めたのは、具体的には、陸軍大臣から首相になった東条英機さんである。日米開戦の日、毎日新聞社で米国に負けるからという理由で浮かぬ顔であったのは、楠山義太郎さん一人で、デスクは、熱狂と歓声で沸き返っていたそうだ。http://www.maesaka-toshiyuki.com/war/3825.html、現在のマスコミに流布される解釈の基礎を形作った東京帝国大学の憲法学の宮澤義俊教授も、開戦に沸き返った人の一人である。特に宮沢教授は、日本が戦争に勝利するための独裁体制、大政翼賛会にまで関与されたのに、私の祖父と違って、「全く責任を取らされていない。」のはどういうわけなのだろうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E4%BF%8A%E7%BE%A9。
結局、国際感覚が全く欠如していたんです。軍部が強硬になっていく過程で、社内でも支那(中国)派が勢力を握り、英米派は冷や飯をくわされた。支那問題を連盟で論じていると、『欧米に支那のことがわかるか』と反発をくいましてね。私は『支那通の支那知らず』とことあるごとに言ったんだがね。とにかく、新聞を含めて、日本人全体が井の中の蛙になっていた、と答えられているが、東京帝国大学の宮澤教授も、マスコミも、当時の政府に強いられたわけではなくて、自発的に、熱狂的に日米開戦を歓迎したことを認識すべきなのである。日本政府の弾圧の力で、マスコミや学者が、反戦の声があげられなかった、わけではないのである。
だからこそ、「平和と国際協調」を愛する楠山義太郎さんは、大学生の時の私の米国留学の奨学金の選考の時、面接会場まで付き合って下さり、女子大学生の私に、「無学だ、あるいは、無知だ」とレッテル付けする代わりに、懇切丁寧に面接の時の対処方法を教えてくださったり、西独留学を応援してくださったのだな、と思った。留学経験を経た私も、学術会議に任命されなかった6人の学者の主張をきいていて、特に「国際感覚」が欠如していると感じからである。篠田教授も同じではないのだろうか。「学問の自由」の問題ではなくて、その学者の「政策提言」で日本の安全保障が脅かされる危険があるからである。戦前のドイツ留学をした上杉慎吉教授と同じである。つまり上杉教授は、留学先でも机上の空論に頼り、国際情勢の現実をみようとせずに帰国したのではないのだろうか。
現在、国際情勢は、米国大統領がトランプ氏であること、コロナ騒ぎもあって、混とんとしている。このような時だからこそ、おかしな学者の説に惑わされるのではなくて、国権の最高機関である国会を中心に、優秀な行政の手足であるキャリア官僚を信頼し、「日本の針路」を着実に進めていかなければならない、と私は思う。専門家と呼ばれる学者の主張が、いかにいい加減か、毎日のワイドショーのコロナ解説、アメリカ情勢の解説で、日本国民には実証済み、なのではないのだろうか。
私は、カロリーネ氏のコメント176の「三権分立の原則がわかっていれば、日本の最高権力者は、国会議員」についての二重の誤りを指摘したもので、日本学術会議が諮問機関に過ぎないことなど関係ないことを縷々投稿していますが、「日本の最高権力者は、国会議員」であることを論証しなければ反論にはなりません。なお、「宮澤義俊教授」ではなく「宮澤俊義教授」です。
余白に駄作ではありますが・・・
カロリーネ コピペをしないと(しても?) 間違い(瑕疵)だらけ
カロリーネ氏のいう「最高権力者」の意味するところが、国際法上は「軍隊」として扱われる実力組織である自衛隊の「最高指揮官」という趣旨であれば、その趣旨を明確にした上で、寧ろ、「内閣総理大臣」(もちろん、憲法67条1項は、選任要件であると同時に在任要件でもあると一般に解されているので、同時に国会議員を兼ねることになりますが)とすべきかと思います。
【自衛隊法7条】
(内閣総理大臣の指揮監督権)
内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する。
戦争は道徳問題ではないから、それを道徳論的な願望や精々法的な是非で非難することは思慮ある態度とは言えない。
ところが日本の場合、戦後長らく憲法など法律の条文解釈で終始し、刻々と変動する国際社会の力学に応じて、平和を維持するための、必要なら検討されるべき立法措置も先送りしてきた。一部の彌縫策的な特別措置法で対応するにとどまった。
しかし、問題や災難を引き起こす構造的要因を覆い隠して無にすることはできない。矮小化して過小評価するのも有害だ。戦争や軍事に関する研究は、平和の条件を探るために不可避なのは自明だ。しばしば必要性が指摘される「戦略的思考」(στρατηγικὸς διάνοια)の欠如は、思いもよらぬ災いを招き寄せることにつながる。
そうした日本の退嬰的平和主義に潜む弱点や法制度の不備、社会的脆弱性はこれまでにもたびたび指摘されてきたが、「平和が大切、戦争は悪」の大合唱でかき消され、有事法制の検討さえ先送りに終始した。
5年前の安全保障関連法制をめぐる騒動も、それを痛感させた。護憲勢力は「平和の危機」「いつか来た道」を指摘して退嬰的姿勢に終始し、結局は一過性で収束した。
今回の日本学術会議の会員任命をめぐる騒動の社会問題化にも共通する要素が少なくない。そこに「学問の自由」をめぐる危機など、存在しない。「危機」を唱えるばかりで、ものごとの真相を何も考えない思考の貧困があるばかりだ。
この点で、昨日15日のJB Press、森清勇氏による「日本人から『学問の自由』を奪ってきた日本学術会議」は、メディアの一様でない対応を含め論点をよくまとめ、問題の所在を的確に抉剔する。
それは自由を蝕む「日本型」の社会的専制(social tyranny)の指摘でもある。
19世紀後半に市民社会の発展に伴って「新しい社会的自由」の擁護を主張したもので、『自由論』は、国家ではなく社会によって個人に加えられる「合法的執行力」の限界を見定めようとする意図から書かれたと言える。
それは、ロールズが『正議論』(J. Rawls, A Theory of Justice, 1971)の中で展開した次の議論を髣髴とさせる。「寛容および共通な利益」(Toleration and the common interest)と題した第二部34節に見える。
「公正としての正義は、良心の自由の平等を擁護する強力な論拠を提供してくれる。こうした論証を適切な手法で一般化するならば、平等な自由の原則を裏づけうるものと想定しよう。それゆえ、当事者たちにはこの原理を採択するにじゅうぶんな根拠がある。こうした考慮事項は自由の優先権を弁護する主張にとっても明らかに重要となる。憲法制定会議の視座に立てば、こうした論証を通じて、道徳上の自由、思想と信条の自由そして宗教的実践の自由を約束する体制の選択が導き出される。公共の秩序と安全保障を司る国益なるものが、それらの自由をつねに統制しようと見張っているかもしれないにせよ、である。」
そう説き起こしたうえで、公共の秩序や安全保障と、学問の自由も含む「良心の自由」の制限について、次のようにその条件と必要性を説く。
「公共の秩序と安全保障に関する共通の利益が良心の自由に限界を付す。だが、このことに反対する人はいないし、こうした限界づけそれ自体は契約の観点から容易に導出される。第一に、この限界づけを受諾したからといって、道徳および宗教上の関心事よりも公共的な関心事が優越することを何ら意味するものではない。良心の自由に限界を付すことを求めるからといって、宗教上の事項をどうでもよいものとして見なすように政府に要求したり、あるいは哲学的信条が国事と衝突するときはいつでもそうした信条を抑圧する権利が政府にあると主張したりすることはない。政府には、芸術や科学に関してと同様に、連合体が正統であるとか正統でないとか言い渡す職権はないからである。こうした重要事項は、正義にかなう憲法によって定められる政府の権限の埒内に断じてとどまるものではない。むしろ、正義の諸原理をもってすれば、対等な市民を成員とする連合体そのものとして、国家は理解されねばならない。」(引用続く)
‘Liberty of conscience is limited, everyone agrees, by the common interest in public order and security. This limitation itself is readily derivable from the contract point of view. First of all, acceptance of this limitation does not imply that public interests are in any sense superior to moral and religious interests; nor does it require that government view religious matters as things indifferent or claim the right to suppress philosophical beliefs whenever they conflict with affairs of state. The goverment has no authority to render associations either legitimate and illegitimate any more than it has this authority in regard to art and science. These matters are simply not within its competence as defined by a just constitution. Rather, given the principles of justice, the state must be understood as the association consisting of equal sitizenes. It does not concern itself with philosophical and religious doctrine but regulates individuals’ pursuit of their moral and spiritual interests in accordance with principles to which they themselves would agree in an initial situation of equality. By exercising its powers in this way the government acts as the citizens’ agent and satisfies the demands of their public conception of justice.’(引用続く)
ロールズが列挙するまでもなく、「道徳上の自由、思想と信条の自由そして宗教的実践の自由」(moral liberty and freedom of thought and belief, and the religious practice)は、近代市民社会における必須の自由である。それに異論が出ることは、近代民主制社会を構成する基本的原理を承認する限り、まずあり得ない。「学問の自由」も同様だ。
さらにそれは、そうした自由の「限界づけ」(limitation)の受容が、「良心の自由」より公共的な関心事が優越することを何ら意味しないからだ。そうした自由を保護する「政府の義務」も異論の余地がない。
ならば、どこから自由への抑圧が生じるか。それこそミルが警戒した「支配的な意見と感情の暴虐」(the tyranny of the prevailing opinion and feeling)に外ならない。極端にイデオロギー化した「平和主義」もその一つである。
学術会議内部の特定勢力、構成員による「平和と自由」を楯とした一切の検討や異論を排除する支配的影響力や論理、不適切な組織運営を通じて形成された虚偽的な危機意識、それを「学問の自由」の名を借りて強弁する組織自体の硬直性や形骸化、それが「共通の利益」の条件である安全保障政策への障碍となりうるからだ。
学術会議の会員任命騒動から透けて見える自由の危機とは、既得権益のうえに幼稚な「政治ごっこ」や退嬰的平和主義に狂奔する一部の研究者が募らせる危機でも、それに疑念を抱きつつを巻き添えを恐れて座視する多くの研究者の杞憂でもなく、社会的専制、幼稚な学者の道徳的支配の悪弊がもたらす、思考の貧困に外ならない。[完]
学術会議関係者(学者さんですよね)は、「学問の自由」を振りかざします。しかし、Gから言えば切れない刀で人を斬ろうとしているように感じます。「学問の自由」を始め、憲法には思想良心の自由、信教の自由、表現の自由などいろいろな”自由”を規定しています。いつも思うんですが、いま問題になっている「学問の自由」、一般の人が理解する「学問の自由」と講学上(憲法学の研究の結果としての)の「学問の自由」とは、似ていますが違います。
日本の学者さんは、あるときは前者を使ってプロパガンダを行い、オフィシャルなところでは、後者を論じます。何だかなぁー!という気がします。学者さんその手法は、憲法第9条についてもいえると思います(反さんの→183投稿を見てそう感じました)。
そのため、訴訟となり、原告側が安倍政権が提出した重要法案に反対した言動を理由とする任命拒否だと主張した場合(但し、同様の活動をして任命されている方もいるため立証が容易とは限りません)には、国側は、それらの活動は「実社会に働きかけようとする実践的な政治的社会活動」なので「学問の自由」による保障の射程外と主張すると思われます。また、国側は、仮に射程内だとしても活動それ自体を禁止したことはなく公務員の任命をしない事情として消極的に斟酌したという原告の主張を前提にしても学問の自由に対する「制約」は生じていないとの主張も考えられます。
そこで、原告側があえて憲法論を持ち出すのであれば、「思想を理由とする不利益な取扱い」を禁じた憲法19条違反となりそうです。ただ、主張は兎も角も立証が容易かといった問題は残るので、原告の訴訟戦略としては、日本学術会議法7条2項に違反する事由として、任命から除外をする裁量権が極めて狭いこと(中曽根内閣時の国会答弁などを援用した上で、「に基づく」との文言を用いていること、定員超過の推薦ではなく定員通りの推薦であること、安倍政権よりも前は任命拒否の前例はなく安倍政権下でも欠員補充の拒否のみであったこと等)を第一次的には主張をするのが得策と思われます。憲法19条の問題は、裁量権を行使するにあたり考慮すべきでは事項を考慮したという「他事考慮」事由であり違法であることを論じる際に主張をするという構造になるのではないかと思われます。
もっとも、政治的には、訴訟で負けるリスクがあるとしても訴訟で結論が出るまで時間を要するので(特に最高裁まで行く場合は)、菅首相としては、日本学術会議の行革が進み国民的な支持を得られ政治的に勝利をすれば良いといった判断はあるのかもしれません。
愚鈍な私ごときが評価するようで烏滸がましいのですが、すごくバランスのとれた議論を展開されていて勉強になります。
今回の任命拒否騒動をめぐって、先に平等原則との関係にも言及されてましたが、裁判上の主張として成立するか否かはともかく、他の媒体ではお目にかかったことのない論点なので、私の視野も幾分拡がったように思います。
どうもこの問題は両極端な主張が目立つようで、片や「定員内の推薦なら任命拒否権は全くない」、片や「任命権は総理にあるのだから総理の自由だ」とでも言いたげな議論が幅を利かせていて困惑しています。
ご意見ありがとうございます。
平等原則との関係については、現時点では政府側の説明が人事上の事柄(情報公開法(略称)5条6号ニ及び行政機関個人情報保護法(略称)14条7号ニ所定の「人事管理に係る事務に関し、公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれ」は、いずれも不開示情報)ということで極めて抽象的であり原告側の主張を具体的に想定することは難しい面があります。
しかし、仮に訴訟になり「総合的・俯瞰的な観点」の詳細な主張が被告である国からなされ、任命された99名の会員との比較(場合によっては過去に任命された会員との比較も)において「不合理な取扱い」との主張構成が可能な場合は違法事由として「平等原則違反」の主張を追加することは考えられるのではないかと思います。
しかし、コメント212で記載した不開示情報であることからすると、政府の対応としては、法的根拠があるものでやむを得ないと思われます。行政機関個人情報保護法(略称)の不開示情報でもあることからすると、単に対象者のプライバシーを保護するためというわけではなく、公にすることによる今後の人事への影響を背景にしたものなので、任命を拒否された当事者の求めや同意があるとしても開示をするのは難しいと思われます。
もっとも、訴訟になれば、その他の争点で勝訴できる見込みがない限りは、任命拒否の裁量権行使にあたって考慮した具体的な事実主張をしないと敗訴をする可能性が高まるので、国側は主張せざるを得ないと思われますが、敗訴を覚悟の上で、明かさないという選択肢も全くないわけではないとは思います。
ミル(J. S. Mill)やロールズ(J. Rawls)、トクヴィル(A. C. comte de Tocqueville)の方が読んでいてはるかに面白いし有益だが、自分の好みに合うことことばかりを、賛同する著者や思想家の著述を論拠に展開するのは、学問的には正攻法(ἀξιόπιστος μέθοδος)ではないからだ。
それは評論やエッセーの手法であって、学問的な論考(article, treatice)ではないと、学生時代に師に厳しく叩きこまれた。
もっとも、エッセーと言っても文字面だけならJ. ロックの『人間知性論』(An Essay concerning human Understanding, 1690)やH. ベルクソンの『時間と自由』、つまり『意識の直接与件に関する試論』(Essai sur les données immédiates de la conscience, 1888)のように、エッセーにも論考=試論としての歴史があるから、この場合のエッセーは、師が説いた日本的な「随想」と論説=論考との区別とは問題が異なることはいうまでもない。
私は古典学徒だから、研究の対象となる古代哲学、つまりプラトンやアリストテレス、プルタルコスに加え、歴史家のトゥーキュディデースまで、テキストの裏付けのない議論に興味はないし、相手にもしない。
偏執狂の老婆のような、初等教育(γραμματιστική)レベルの知見に終始し、まともな議論の前提条件を満たしていないソクラテスやソフィスト解釈を歯牙にもかけないのはそのためだ。
しかしそれ以上に、ギリシア語を解しない人間のプラトン解釈は、伝統的な思想に関する無邪気な一般論的解釈としては可能かもしれないが、学問的には全く無意味だと思っている。
つまり、一在野の学徒とはいえ、専門家(τεχνίτης)には、本文のテキストをめぐる細かい議論や考証を承知し、それを独自に補正(προσθήκη)して自らの読みに基づく一人前の見解に到達する前提条件を満たし、その限りで「自由と責任」(ἐλευθερία καὶ αἴτιον)もあるが、古典語を解さないがゆえに、ギリシア語や註釈のラテン語の知識を伴わない非専門家(ἀνεπιστήμων)=素人(ιδώτης)には、「主観的」な解釈(ἐξηγέομαι)の自由という幻想(φάντασμα)があるだけだからだ。
それが研究者の傲慢でも何でもないことは、実際にそれぞれの学問と呼ばれる精神的な営為の内実に立ち入って検証すれば自明な事実だ。学問は甘くない。
しかし、今回の学術会議会員の任命拒否騒動に引きつけていえば、如上の専門家としての学識や研究の自由に何ら関係がない領域では、つまり対象が異なれば通用しない理屈であることも明白だ。
それは神聖な「学問の自由」という「観念」をめぐる攻防でしかなく、実体を伴わない。
任命を見送られた6人について、少なくとも宇野重規、加藤陽子、芦名定道各氏の専門家としての識見や業績に問題があるとも思えない。「民主主義科学者協会法律部会」に所属する他の3人については、私は論評する立場にないが、学問的業績が、任命された他の会員と異なり、特に問題となる水準ではないことも明らかだろう。この点でも「学問の自由」と今回の政府の対応は、基本的に関係ないことは、篠田さんの直近の論考(PRESIDENT Online10月13日)でも明らかな通りだ。
論点を換えれば、日本には「神聖なる病」が、今なお牢固として蔓延っているということだろうか。
田中美知太郎は1971年、新聞連載したエッセーで、次のような日本的病理を指摘する。
「現代の日本は世俗化の最も進んだ社会、およそ非宗教的な社会だとも考えられる。しかしまた、現代の日本はいわゆる新興宗教の数も多く…いわゆる高等宗教は不振だけれども、未開社会の原始宗教心理に近いものは、日常いつも経験されるということであろうか。」として、「町には人間より神々の方が多くみられた」と揶揄された古代ローマの例を挙げ、「わが国もその類ではないかと疑われる」と皮肉る。
毒舌家の田中の矛先は、当時の世論や戦後的価値観全体に向けられ、「神聖化とか絶対化とかういうことが、あまりにも多くの事物について行われるからだ。ヒロシマとかオキナワとか、あるいはベトナムや成田が神聖な名前になるのも、その一例ということができる」として、当時、無意識に絶対視または神聖視され、批判がダブー視されていた原水爆禁止運動、返還闘争、反戦運動、空港建設反対闘争も例外とはしない。
「被害者や遺族というようなものが、何か絶対性をもったものとしてタブー化されるのもそのまた別の例となるかもしれない。天皇の人間宣言があり、過去の戦争はもはや聖戦ではなくなったけれども、何かを聖化したい気持がわれわれには根づよく残っている…何のための戦争であるかと問うことは許されず、戦争そのものが聖化されたのであるが、今日でもスト決行中などと言えば、もはや何のためのストかは問うことが許されない。理由らしきものは聖化の理由であって、実際の戦争や闘争の理由ではない。」
現在の、「学問の自由」を楯に神聖視される学術会議の会員任命をめぐる、会議側の推薦の「絶対不可侵性」も似たようなものかもしれない。
しかし、ここまでならよくある保守派の論理と格別異ならない議論が、より根源的な批判精神に根差していることを窺わせるのは、結論部分だ。
「実体のない空名が与えられるだけ…それは超越的な理由、理由にならない理由ということになる。現在の日本での生活は、そのような多数の神聖物、タブーにみちみちている…本当の宗教の役目はこれらの偶像を破砕して、真に聖なるものの姿を明らかにすることではないか。神のものは神にかえすということである。」(『田中美知太郎全集』第15巻、279頁)
「学問の自由」も、現在の学術会議には、その本来の意味を離れて一種の「偶像」(τὸ εἴδωλον)であり、本来の存在理由を越えて無闇に絶対視、神聖視する大半の学者たちの姿勢も「偶像崇拝」(ἡ θεραπεὶα εἴδωλον)に等しい。
未開人や古代人を嗤えないわけだ。
当否は措いて、本物の神的存在、絶対的存在ではない別物、神のイメージ(τὸ ἄγαλμα)を崇拝する(θεραπεύειν)ことは、原始的心性であることを、われわれは自覚すべきだろう。
ところで、余談だが、C. シュミットの名を挙げたついでに言及すれば、本日17日は鳴りを潜めている老婆の9日・71⇒【カール・シュミットは、ドイツ社会では犯罪者、としての烙印を押された人…丸山(眞男=筆者註)氏の主張は、ドイツ人に失礼】は、後段の主観的な論評はともかく、前段の「犯罪者」云々は事実誤認だ。
シュミットがナチスの政治理論の法理論的支柱となる大きな影響を与え、1933年の政権獲得の3年後に見解の相違から政権から除外されたとしても敗戦までベルリン大学教授に留まり、戦後に逮捕されて一時期投獄され、戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判で尋問を受けたものの、結局は不起訴になっている。
その程度のことは、老婆が頼みとする日本版Wikipediaでも確認できる初歩的な知識で、「犯罪者」というのは、批判する側の政治的なレッテルであり、端的に事実誤認である。ドイツが誇る20世紀を代表する哲学者、ハイデガーと似たようなものだ。
こちらは、釈明など生前は一切口にせずに沈黙を押し通した。死後に公表という条件で、老婆の偏愛する雑誌Der Spiegelのインタビューに応じたが、反省などしていないのだから、筋が通っていると言えなくもない。西独の社会や学界は、明白なナチスへの関与や責任問題の追及を結局は有耶無耶にした。ドイツ的偽善の典型だ。
シュミットは戦後、一切公職に就かなかったが旺盛な著述などを通して学界に復帰し、戦前に劣らぬ活動を展開していてその影響は無視できないものがあったし、著書も刊行され続けた。
「この『憲法論』に対する需要があとをたたないのは、本書が今でも説得力のある体系の下に、法治国的民主制憲法のタイプを展開しているからということができよう。それゆえに、この本は、本書の引用する憲法諸規定の効力とは無関係に、法治国的民主制憲法のタイプが積極的妥当性を有する限り、その実際上および理論上の価値を失わないであろう。これはドイツ連邦共和国およびその諸邦ならびにその他の西欧民主制諸国家についていいうることである。…初版が1928年に公にされ、この形で国内および国外において、今日にいたるまで価値を認めれられてきた本書を、手を加えることなく再版する理由もここにある。」(阿部照哉、村上義弘訳、3頁=一部訳語を変えた)
„Die anhaltende Nachfrage nach dieser „Verfassungslehre“ dürfte sich daraus erklären, daß sie den Typus einer rechtsstaatlich-demokratischen Verfassung mit einer bis auf den heutigen Tag überzeugenden Systematik entwickelt hat. Das Buch behält deshalb, ohne Rücksicht auf die Weitergeltung der von ihm als Beispiel herangezogenen Verfassungsbestimmungen, seinen praktischen und theoretischen Wert, solange der Typus der rechtsstaatlich-demokratischen Verfassung positive Geltung hat. Das ist sowohl in der Bundesrepublik Deutschland und ihren Ländern, wie auch in den andern Staaten des demokratischen Westens der Fall.……So rechtfertigt sich der unveränderte Abdruck eines Buches, dessen erste Ausgabe im Jahre 1928 erschienen ist und das in dieser Gestalt im Inlande wie im Auslande bis auf den heutigen Tag Anerkennung gefunden hat.“; Verfassungslehre, S. VIII.
とても、犯罪者の口上ではない。老婆は本当に肝腎なことを、何も知らない(οὐκ οἶδα μηδέν)。
愚劣なお子様論議はできても、以前に1986年に始まる西独社会全体を巻き込んだ「歴史家論争」(Historikerstreit)さえ、皆目知らなかったように。[完]
野党は、政府としての「統一見解」を出せ!!とは言えません。すると最近の法解釈を政府統一見解として出してくるでしょうから、やぶ蛇ですw あと6名の任命拒否理由の”説明責任”で攻めるのが有力でしょう(今もやっています)。「説明責任」って、政治学ではどうなっているのでしょうね!? 国家審議を見ていますと、「説明責任」の問題になりますと追及される政府側が、無限責任になってしまいます。純粋な政策ならそれもアリだと思います。人事での説明責任ってどうなっているんでしょうね。与野党公平の立場からは、無限責任の土俵は、個人的には疑問に思います。裁判なら、任命拒否の理由を開示しないと、裁判所も判断できませんから裁判になりません(主張責任や証明責任になる)。
3年前の17年に学術会議は、軍事研究反対声明< を出しました。そのときGは、学者の団体が、何でこういう声明!?を出すのかな!?と深く考えませんでした。学者の団体なんてそういうものかな!?正義感からかな!?などと考えました。しかし、そのときもこの「上から目線」なんの権限があって!?との疑問は、持っていました。
しかし、最近のこの学術会議を巡る騒動から、学術会議の存在意義を初めて知りました。GHQの置き土産的存在「学術会議」は、政権を監視する役割もあったんですね。ゆえに、上記で生じた学術会議の「上から目線」の疑問も氷解しましたw その「戦後レジーム」も、米中新冷戦で(ほぼ)意義がなくなりました。長らく戦後レジームという無言の圧力にさらされていた政権側が、巻き返し(反発!?)を狙っているという構図だと思います。
従って、内閣は日本学術会議法を誠実に執行する義務を負う。
この義務に反した内閣の行為は違憲行為である。
日本学術会議法第3条は「日本学術会議は、独立して左の職務を行う。」と定める。
従って、内閣は、日本学術会議の独立性を妨げる行為をしては成らない。
日本学術会議が推薦して来た者をそのまま任命する事は、日本学術会議の独立性を妨げ無い事は明らかで、日本学術会議法第3条にも日本国憲法73条1号にも反しないのは明白である。
しかし、日本学術会議が推薦して来た者の任命を拒否した場合はどうだろう?
・・・続く
仮に、「任命者である内閣総理大臣は、推薦という寄与を受けながら、会員候補者が適切であるかどうかを審査する責任を持つ。」とすれば、内閣総理大臣の審査が適切かと云う問題が発生する。
会員候補者が適切であるのに、適切でないと云う誤った判断を内閣総理大臣が下す可能性があるからだ。
それだけでは無い、単に気に食わないとか、政府の政策、例えば、ふるさと納税に反対したから任命しないとしたらどうだろう?
明らかに、内閣総理大臣が持つ審査権限から逸脱している。
従って、内閣総理大臣の審査の相当性を判断する為に、どの様な審査が適切で、どの様な審査が不適切かの判断基準が確立されていなければ成らない。
その上で、「内閣が、日本学術会議を「所轄」する者として納税者や国民に対して負う責任を、果たしたかどうかを」検証する為には、拒否の理由を述べることが必須である。
然るに、「総合的、俯瞰的活動を確保する観点から判断をした」では、菅総理は、世間を舐めているとしか思えない。
そんな総理に言葉を掛けるとしたら、世間を舐めると怖いよとしか言えない!
・・・終わり
まず
あらためて三角四角さんへ
まず「天皇による首相の任命行為」について、コメント94(Gくん)、96(政府解釈さん)、9
学術会議の主張がGHQの平和への置き土産、という主張は、とんでもない主張である。
1950年朝鮮戦戦争が起こり、再軍備を迫った米国政府に憲法9条を持ち出して拒否したのは、時の日本宰相、吉田茂さんである。一番な理由は、戦前の日本の軍閥の復興を恐れたのである。そして、自衛隊を創設した。その結果、軍拡競争で経済を疲弊させたソ連や北朝鮮と違って、奇跡の経済発展をしたが、これは冷静時代だからできたことで、トランプ政権下可能なのだろうか?
他の国と同じように、日本国憲法の前文にある、民主国家の国民として、政府をチェックして、しんり
「国会は、国権の最高機関であり、憲法改正の発議・提案、立法、条約締結の承認、内閣総理大臣の指名、弾劾裁判所の設置、財政の監督など、国政の根幹にかかわる広範な権能を有しているのであるが、憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国会は、国民の間に存する多元的な意見及び諸々の利益を、その構成員である国会議員の自由な討論を通して調整し、究極的には多数決原理によって統一的な国家意思を形成すべき役割を担うもの」ですが(最判平成9年9月9日民集51巻8号3850頁参照)、形成された統一的な国家意思に反対していた国民を「反国民」として排除することを意味するものではなく、カロリーネ氏の論理には飛躍があります。
カロリーネ氏の論理だと、民主党政権時の内閣提出法案に反対をしたことがある安倍晋三氏や菅義偉氏を含む当時の野党議員やその支持者も、国会の多数決で法案が成立した時点で、「民主政治の元、成立したのだから、主権者である国民とは、意見が違う人たちなのである。」、「民主的な選挙でリーダーがきまっている以上、反国民なのである。」ということになりかねません。これが明らかに不合理な結論になることは流石にカロリーネ氏にも理解できると思われます。
なお、余談ですが、コメント228の「最期の裁判」は、正しくは「最後の審判」ではないかと思います。
『 94. Gくん 2020年10月10日 09:48
おはようございます。”前”内閣なんでしょうね!! 天皇は新総理の任命を取り止めるのでしょうか?→その疑問は生じますね。難しい問題だと思います(是非と結論は出せません)(中略)。
実際の運用について→(1)内閣総理大臣の任命については、争いはあるが、従前の内閣による助言と承認を必要とするとするのが多数説であり、実際上もそのようにう運用されている< とあります。ゆえに→前投稿5のように記したした次第です。 』
「日本国憲法第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。」
内閣総理大臣は国会の指名に基づいて、天皇により任命されることを失念していました。
前内閣も、国会の指名に反する助言は出来ないのかなと思います。
「日本国憲法第四十一条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」
国会にとって、内閣総理大臣を決定(実質的任命)するのは、国会自身の権限であり、前内閣と雖も剥奪出来ないのでしょう。
従って、天皇は、前内閣の形式的助言に基づいて、新内閣総理大臣を形式的に任命するのだと思います。
従来は、日本学術会議の会員も、日本学術会議の推薦(実質的任命)に基づいて内閣総理大臣が形式的に任命する取扱いでした。
然るに何の説明も無しに、内閣総理大臣は、日本学術会議の推薦に対して、一部を拒否すると云う実質的任命に切り替えたのです。
法律に基づく行為が、解釈の変更により、180度変えられると云うことは異常な事だと思います。
今までの解釈が、間違っていたならば、きちんと説明するべきです。
そうでないと、内閣に立法権を与えたに等しい行為を認めることは、大変危険なことと考えます!
(97. 通りすがりの老人 2020年10月10日 11:34 93. 三角四角さんへ)
日本国憲法における三権分立は、国会(立法権)と内閣(行政権)と裁判所(司法権)が互いに抑制と均衡を保つ国家制度です。
裁判所は国会に対して違憲立法審査権を行使し、国会は裁判所に対して、裁判官の弾劾裁判を行使します。
また、裁判所は内閣に対して、行政事件の裁判をし、内閣は最高裁判所長官の指名をします。
そして、内閣は国会に対して衆議院の解散権を行使し、国会は内閣総理大臣の指名権を行使します。
三権分立制度は、日本国の統治における大切な制度なのです。
故に、国会が指名した内閣総理大臣を前内閣が覆すことは出来ないと思います。
C. シュミットにしたところで、毀誉褒貶が激しいその評価やそれぞれの政治的価値観を論じているわけではない。シュミットが「犯罪者」(Verbrecher)でも「戦争犯罪人」(Kreigsverbrecher)でもなく、戦後のドイツでも国外でも公法学者、法哲学者として戦前と同様活躍したし、注目を集めたという、「事実」(τὸ ὅτι)を、218~219で指摘したにすぎない。老婆の228は、それに対する何の反論も構成しない。
何も論証する(ἀπόδεικνύναι)ことなく、未明の闇の中で莫迦話に淫している。老婆は口から出まかせの、その場しのぎの戯言と「遊ぶ子供」(παῖς παίζων)だ。226~230は外形的にも「クズ」そのものだ。暇つぶしの老婆の備忘録的投稿でもなければ、わざわざ5件も連ねる内容ではない。
絶対的な真理や信仰、信条がテーマでもない。相手の立場に配慮する(ἐπιμελέομαι)とか、リスペクトする(ἐν τιμῇ ἔχειν)とかいう以前の問題だ。見解の多様性以前に、まともな議論に際して真に気遣わねばならない(ἐπιμελητέον)ことは、議論と不可分に結びついた論理性だ。老婆にはそれが全くない。愚鈍で無学、しかも怠惰だからだろう。
昨夜、遅くまで聖書を読んでいて、イエスの山上の垂訓にある「地の塩」という箇所をギリシア語で書き写してみた。新約聖書『マタイによる福音書』第5章13節にある。
新共同訳で引けば、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば。その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」とある。
「汝らは地の鹽なり、鹽もし效力を失はば、何をもてか之に鹽すべき。後は用なし、外にすてられて人に蹈まるるのみ。/汝らは世の光なり。山の上にある町は隱るることなし。/…/かくのごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き行爲を見て、天にいます汝らの父を崇めん爲なり。」(Ὑμεῖς ἐστε τὸ ἃλας τῆς γῆς• ἐαν δὲ τὸ ἃλας μωραντῇ, ἐν τίνι ἁλισθήσεται; εἰς οὐδὲν ἰσχύει ἔτι ἐἰ μὴ βληθὲν ἔξω καταπατεῖσθαι ὑπὸ τῶν ἀνθρώπων. / Ὑμεῖς ἐστε τὸ φῶς τοῦ κόσμου οὐ δύναται πόλις κρυβῆναι ἐπάνω ὄρους κειμένη• /……/ οὕτως λαμψάτω τὸ φῶς ὑμῶν ἔμπροσθεν τῶν ἀνθρώπων, ὅπως ἴδωσιν ὑμῶν τὰ καλὰ ἔργα καὶ δοξάσωσιν τὸν πατέρα ὑμῶν τὸν ἐν τοῖς οὐρανοῖς.; Κατα Μαθθαιον, V. 13~14, 16)
私が「地の塩」(ὁ ἃλς τῆς γῆς)にこだわるのは、老婆の展開する議論とも呼べない狂信的で独りよがりな主張の愚劣さは、それ自体が理想論にも値しない甘ったれたものであることに加え、「味」である内容を引き出す塩=論理の役割に価値がある(ἄξιος λόγου εἶναι)と考える一般的な意味に加え、ほとんどの場合、少数者がその役割を担うからだ。
そして、それを正当に理解しない多数者、ミルの『自由論』の表現なら、「自己の意見が世論という名で通用している人々」(‘Those whose opinions go by the name of public opinion’; On Liberty”, Chap. III, p. 123)、つまり大衆が障碍となるからだ。
つまり、「しかし、彼らは常に大衆、すなわち凡庸な人々の集団である」(‘But they are always a mass, that is to say, collective mediocrity.’; ibid., p. 124)ことにとどまるからだ。
「独創性が人間社会における価値ある要素であることは、だれも否定しないであろう。新しい真理を発見し、かつて真理であったものがもはや真理ではなくなるときに、これを指摘するのみならず、新しい習慣をはじめ、人間生活におけるより洗練された趣味と感覚の模範を垂れる人々が、常に存在しなければならない。……これらの少数者こそ、地の塩である。彼らがいなければ、人間の生活は澱んだ水溜りのようになるであろう。以前存在しなかったすぐれたものを導入するのが彼らなのだというだけではない、既に存在するすぐれたものの中に生命を保たせるのもまた彼らなのである。」(早坂忠訳、288~89頁=‘It will not be denied by anybody, that originality is a valuable element in human affairs. There is always need of persons not only to discover new truths, and point out when what were once truths are true no longer, but also to commence new practices, and set the example of more enlightened conduct, and better taste and sense in human life. …… But these few are the salt of the earth; without them, human life would become a stagnant pool. Not only is it they who introduce good things which did not before exist; it is they who keep the life in those which already existed.’; ibid., p. 120)
政治参加の自由と平等を保障する民主制社会であっても、「少数者こそ地の塩」(few are the salt of the earth)であり、そこには自ずと独創性の有無に伴う優劣が存在するからだ。
ミルはまたそれを「人間を脅かしている危険は、個人的な衝動や好みが多すぎることではなく、それが不足していることである」(284頁=‘the danger which threatens human nature is not the excess, but the deficiency, of personal impulses and preferences.’; ibid., p. 113)とも指摘する。
本欄の「未開人」(barbarian)である老婆にも一種の偶像崇拝、幼稚な平和への崇拝という空疎な「観念」(ἐννόημα)しかないように。
そして、「専制政治は、その目的が彼らの向上にあり、そしてその手段が、その目的を実際に達成することによって正当化される限り、未開人を扱う正しい支配形態」(225頁=‘Despotism is a legitimate mode of government in dealing with barbarians, provided the end be their improvement, and the means justified by actually effecting that end.’; ibid., Chap. I, p. 18~19)であり、
「一つの原理体系としての自由は、人類が自由で平等な討論によって進歩しうるようになる時代以前の社会状態に対しては、適用されない」(同=‘Liberty, as a principle, has no application to any state of things anterior to the time when mankind have become capable of being improved by free and equal discussion.’; ibid.)ということになる。
228⇒【ソクラテス…イエス・キリストの裁判…最期の裁判】云々のような「空語」(κενολογία=empty, idle talk)は何ももたらさない点で、「学問の真理」を楯にして(προβάλλω)というか、「隠れ蓑」(τὸ ἄδηλος ἱμάτιον)にして幼稚な抵抗運動、「政治ごっこ」に躍起になっている一部の研究者と同じ神聖な観念、即ち病に取り憑かれている(ἐνθυσιασμός)点で、老婆も少しも変わらない。
「三権分立」(séparation des pouvoirs)、つまり「権力の分立」(die Unterscheidung der Gewalten, sogenannten Teilung)について、老婆が皆目無知に等しい俗論を恥ずかしげもなく披歴していたように、狂信性、「精神の狭量」(la petitesse de l’esprit)ゆえの頑迷さ(opiniâtreté)が際立っている。
「憲法制定権力は政治的意思であり、この意思の力または権威により。自己の政治的実存の態様と形式についての具体的な全体決定を下すことができる。すなわち政治統一体の実存を全体として決定することができるのである。あらゆる憲法法律的規律の妥当性は、右の意思の決定に由来する。しかもこの決定そのものは、それに基づいて定められている憲法法律規定と質的に異なる」(阿部照哉、村上義弘訳、98頁=„Verfassunggebende Gewalt ist der politische Wille, dessen Macht oder Autorität imstande ist, die konkrete Gesamtentscheidung über Art und Form der eigenen politischen Existenz zu treffen, also die Existenz der politischen Einheit im Ganzen zu bestimmen. Aus den Entscheidungen dieses Willens leitet sich der Gültigkeit jeder weiteren verfassungsgesetzlichen Regelung ab. Die Entscheidungen als solche sind von den auf ihrer Grundlage normierten verfassungsgesetzlichen Normierungen qualitativ verschieden.“; Verfassungslehre, § 8, S. 75~76)とC. シュミットは説く。
『憲法論』(„Verfassungslehre“)は老婆のようなお子様が読む著作ではないことが分かる。「自己の政治的実存の態様と形式」(Art und Form der eigenen politischen Existenz)、「政治統一体の実存」(die Existenz der politischen Einheit)などと言われても、途方暮れるだけだろう。
力と権威についても同じだろう。「権威」(Autorität)はローマ国法(Römischen Staatsrecht)の概念に遡り、元老院が権威(auctoritas)をもち、それに対して力(potestas)と権力(imperium)は人民から引き出されたとする。
「憲法は、内容が正当であるために妥当するところの規範に基礎を置くものではない。憲法は、自己の存在の態様と形式についての、政治的存在から出てくる政治的決定に基づいている。『意思』という言葉は――規範的または抽象的な正当性に依存するようなものでは全くなく――妥当根拠としての本質的に実存するものをいい表わす。」(99頁=„Eine Verfassung beruht nicht auf einer Norm, deren Richtigkeit der Grund ihrer Geltung wäre. Sie beruht auf einer, aus politischen Sein hervorgegangenen politischen Entscheidung über die Art und Form des eigenen Seins. Das Wort „Wille“ bezeichnet―im Gegensatz zu jeder Abhängigkeit von einer normativen oder abstrakten Richtigkeit―das wesentlich Existenzielle dieses Geltungsgrundes.“; idid. S. 76)
なぜなら、シュミットに従えば、憲法制定権力(die Verfassunggebende Gewalt)は「政治的意思、具体的な政治上の存在」(politischer Wille, konkretes politisches Sein)だからだ。法律が一般的にその本性上、命令(Befehl)であるか理(Ratio)であるかという問題とは別に、「憲法は決定であり、憲法制定権力のあらゆる行為は必然的に命令」(die Verfassung eine Entscheidung und jeder Akt der Verfassunggebenden Gewalt notwengigerweise Befehl sein muß; idid. S. 76)、「命令行為」(acte impératif)だからだ。
いずれにしても、そこには危機的、例外的状況において国家の存立根拠と帰趨を見極めようと苦闘した姿があることは確かだ。
老婆には、シュミットの所説に賛同するか否か以前に、当時ドイツが置かれていた状況や、議会制民主政治自体が抱えていた問題についての問題意識が全く欠落していることが、ナイーヴで愚劣なお子様論議を可能にするのだろう。[完]
「『なんぢの隣を愛し、なんぢの仇を憎むべし』と云へることあるを汝等きけり。/されど我は汝らに告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。/これ天にいます汝らの父の子とならん爲なり。天の父は、その日を惡しき者のうへにも善き者のうへにも昇らせ、雨を正しき者にも正しからぬ者にも降らせ給ふなり。」(Ἠκούσατε ὅτι ἐρρέθη· ἀγαπήσεις τὸν πλησίον σου καὶ μισήσεις τὸν ἐχθρόν σου. / ἐγὼ δὲ λέγω ὑμῖν· ἀγαπᾶτε τοὺς ἐχθροὺς ὑμῶν καὶ προσεύχεσθε ὑπὲρ τῶν διωκόντων ὑμᾶς; Κατα Μαθθαιον, V. 43~45)というのはイエスの教えだが、改めて神の(正)義(ἡ δικαιοσύνην τοῦ θεοῦ)をもち出すまでもない。
本気かどうか怪しいが、学術会議に巣食う神聖なる学問の精神への熱狂は、一種の「偶像崇拝」(ἡ θεραπεὶα εἴδωλον)にすぎず、疑似宗教の趣がある。
だから、いくら思い煩ったところで、「汝らの中たれか思ひ煩ひて身の長一尺を加へ得んや」(τίς δὲ εχ ὑμῶν μεριμνῶν δύναται προσθεῖναι ἐπὶ τὴν ἡλικίαν αὐτοῦ πῆχυν ἕνα; ibid., VI. 27)ということになろうか。
さらに、イエスはこうも言っている。
「この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。」(μὴ οὖν μεριμνήσητε εἰς τὴν αὔριον, ἡ γὰρ αὔριον μεριμνήσει ἑαυτῆς· ἀρκετὸν τῇ ἡμέρᾳ ἡ κακία αὐτῆς.;ibid., VI. 34)――そこには案外、神ならぬものを「神聖視」する邪信、「似而非宗教」を戒める厳しさと知恵があるのかもしれない。
昨日10月17日、愚劣な「お子様論議」が鳴りを潜めていたものの、一日で復活し、その憐むべき知性の程度を示すようにスカスカの議論を撒き散らしている偏執狂という反氏の表現があるが、私の主張はスカスカではない。大事なことを大事である、難しい言葉で書いてあっても、どうでもいいことは、どうでもいい、とわかってもらうために、コメントを書いている。
成長戦略会議は、安倍政権の際に設置された未来投資会議を衣替えしたもので、竹中平蔵氏や三浦瑠麗(瑠璃ではありません)氏は安倍政権下で選任されており、それを継承したものです。デービット・アトキンソン(アトキンスではありません)氏は新任ですが、官房長官時代から菅氏のブレーン的存在であり、安倍政権のインバウンド強化にも寄与してきました。
なお、コメント245の「尾身教授」も不正確であり、(出身の自治医科大学の)「名誉教授」です。
また、ドイツの歴史的所産である「戦う民主主義」を採用する国は比較憲法的には少数派であり、それを根拠に批判をするのも頓珍漢な主張です。著作権保護期間が切れた「我が闘争」を巡る頓珍漢な投稿をしていた際も同様の指摘をしたはずです。
投稿自体も本日未明の242で通算4,808件になった。400字詰め原稿用紙換算で9,600枚を超す計算だ。字数にして凡そ400万字近い(計算上は384万字強のはずだが、アルファベットなど洋数字は日本字基準の800字以内より多く入る)。
別の類比なら、私が愛読するM. プルーストの小説『失われた時を求めて』(“À la recherche du temps perdu”)のNRFの元版は全部で15冊あり、合計4,011頁、翻訳なら原稿用紙換算で8,000枚超だから、既にそれを上回っていることになる。
中断したのは妻の死去の前後と、昨年秋に妻を偲んで「巡礼」めいた旅をした際ぐらいだから、毎日飽きもせず、よく続いたものである。一昨年5月21日以来、平均して1日5.44枚(=4,808枚÷884日)書いた計算だ。
1件当たり、制限の800字近くまで書き込み、不必要に件数を増やさないことが「鉄則」だから、散漫にクズを書き散らしている偏執狂の老婆とは異なる所以だ。私には、老婆には決定的に欠落している自制心と矜持がある。「お子様論議」を唾棄する所以だ。
だから、死んだ人間とは言え、妻の誕生日につまらないことを書きたくはない。文章は、惰性で書くものではないからだ。なるほど、「群離索居」の気儘な閑暇ゆえの閑文字には違いない。しかし、よく言えば観照的な生活(θεωρηθτικὸς βίος=vita contemplativa)、それなりに安楽な暮らし(διαγωγή)の結晶とはいえ、老婆のように暇をもて余して惚けているわけではない。
余生を過ごす人間には世の中との距離感も大事で、それが現役にはない知慧を生むこともある。そして、ただの経験からは人様に語るほどのものは何も生まれない。
「子曰、知者不惑、仁者不憂、勇者不懼」(『論語』「子罕第九」)
「『幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。/幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。/幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。/幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。/幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。/幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。/幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。/幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。/我がために、人なんぢらを罵り、また責め、詐りて各樣の惡しきことを言ふときは、汝ら幸福なり。」(‘Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν. / μακάριοι οἱ πενθοῦντες, ὅτι αὐτοὶ παρακληθήσονται. / μακάριοι οἱ πραεῖς, ὅτι αὐτοὶ κληρονομήσουσιν τὴν γῆν. / μακάριοι οἱ πεινῶντες καὶ διψῶντες τὴν δικαιοσύνην, ὅτι αὐτοὶ χορτασθήσονται. / μακάριοι οἱ ἐλεήμονες, ὅτι αὐτοὶ ἐλεηθήσονται. / μακάριοι οἱ καθαροὶ τῇ καρδίᾳ, ὅτι αὐτοὶ τὸν θεὸν ὄψονται. / μακάριοι οἱ εἰρηνοποιοί, ὅτι αὐτοὶ υἱοὶ θεοῦ κληθήσονται. / μακάριοι οἱ δεδιωγμένοι ἕνεκεν δικαιοσύνης, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν. / μακάριοί ἐστε ὅταν ὀνειδίσωσιν ὑμᾶς καὶ διωχωσιν καὶ εἴπωσιν πᾶν πονηρὸν καθ᾽ ὑμῶν [ψευδόμενοι] ἕνεκεν ἐμοῦ.’; Κατα Μαθθαιον, V. 3~11)
そこに言う「幸福」、「幸いなるかな」(μακάριοι)とは、神に「祝福されている」(blessed)という意味だ。けっして現世的な話ではない。
私は別に信仰の問題を論じているわけではないから、勘違いしてはいけない。先に紹介した田中美知太郎のエッセー(216~217)ではないが、神の領域は神に返して、擬似的な神聖観念を崇める(θεραπεύειν)、日本人的アニミズム思考と峻別すべきだという趣旨だ。それは、現在版「偶像崇拝」にすぎない。
「学問の自由を」をめぐるこのところの一部の学者たちの騒動も似たようなものだという話で、改めて繰り返さない。それは、既得権益化した慣習を神聖不可侵な「聖域」(τὸ ἱερός=sanctuary)とし、「逃げ場所」(ἡ καταφυγή)とするのは欺瞞で、錯覚してはならないということだ。
老婆にも別種の錯覚がある。244⇒【カロリーネの論議は、愚劣な「お子様論議」…という主張…それでは、机上の空論が、国民や国際社会を幸せに…をまずはっきりさせた方がいい…「マルクス主義」この机上の空論】云々は、議論のすり替えだ。
老婆の間違いだらけの愚劣な議論の誤りはそれ自体で明白で、別に他の空理空論と比較するには及ばない。マルクス主義のイデオロギー性、観念性を論証しても、否定できはしない。それ以上でも以下でもない。
この世にはいろいろな錯覚がある。譬えて言えば、鏡像(ἐμφαίνειν εἰκών)を左右が逆と誤認するのもその一つで、実際には鏡(τὸ ἔνοπρον)に向かって前後が逆になっていることでしかない。文字を鏡に映して見れば納得する。本のカバーを透かして見た像と鏡面上の像を比べると、一目瞭然だ。
老婆の議論は、愚鈍と偏狭というお頭の鏡に移した虚像、つまり仮象(φαίνεσθαι)を現実や真理と取り違えていることに気づかない幼稚な作文であるように。
狂信家だからそれに気づかない。それが愚鈍さを一段と増幅させる。[完]
肝腎のことが何も理解できない老婆には納得いかないようだが、246⇒【いくら「学問の自由」だからといっても、東大系の憲法学者が自分勝手な解釈をすることが許されるのだろうか】と言えば、許されるに決まっている。
それは憲法学主流派の中核を形成する東京大学出身の研究者、またはその系譜にある研究者だからではなく、いずれの学者であれ、好き勝手なことを考え、それに基づいて憲法を解釈することを許容する制度的保障こそ「学問の自由」であり、それを自由に教授することを可能にするのが講学の自由を含む「大学の自治」だからだ。
何を研究することも、どう解釈するかも、どういう政治思想をもつことも、いかなる政治的見解を表明することも基本的に自由であり、法に抵触するのでない限りそれが最大限尊重されなければならないのが、日本を含む法の支配の下での自由を尊重する民主制国家である。
しかし、そうした解釈や見解に対する批判もまた自由であり、それが活力ある社会を生む。ミルが『自由論』で強調したように、そうした過程を通じて生み出され、優劣を競う「独創性が人間社会における価値ある要素であること」(‘originality is a valuable element in human affairs.’; On Liberty, Chap. III, p. 120)は、何ぴとも否定できないからだ。
一個の研究者にとどまる限りそれでよく、そのことは今回の日本学術会議をめぐる問題の所在とは基本的に関係がない。
ミルはさらに、「すべての賢明な、また高尚な事柄の創始は、個人から生まれるものであり、また個人から生まれなければならない」(早坂忠訳、291頁=‘The initiation of all wise or noble things, comes and must come from individuals; generally at first from some one individual.’; ibid, p. 124)とする。そして、そうした価値観に立脚するのが近代自由主義だと言える。
なぜなら、それは独創性(originality)、畢竟「卓越性」(ἀρετή)にかかわるからだ。
ところが、そうした自由な気風や活力が失われるとするなら、学問精神にとっては致命的だ。
「もし、新たになされることが何もないとすれば、人間の知性は必要なくなるであろうか。昔からのものごとを行う人々が、なぜそうするのかを忘れ、人間存在にふさわしい仕方でなく、ただ家畜のようにそれをしているのはそのためなのだろうか」(291頁=‘If there were nothing new to be done, would human intellect cease to be necessary ? Would it be a reason why those who do the old things should forget why they are done, and do them like cattle, not like human beings ?’; ibid., p. 120)とミルは自問し、
「遺憾ながら、最善の信念や慣行でさえ、機械的なものに堕する非常に強い傾向がある。だからつねに新たな独創性によってこのような信念や慣行の根拠が単なる因襲的なものとなるのを防ぐ人々が、次々に現れてこない限り、そのような死せるものは、真に生命あるものからのほんのわずかな衝撃にも抵抗し得ないであろう」(289頁=‘There is only too great a tendency in the best beliefs and practices to degenerate into the mechanical; and unless there were a succession of persons whose ever-recurring originality prevents the grounds of those beliefs and practices from becoming merely traditional, such dead matter would not resist the smallest shock from anything really alive’; ibid., p. 120~21)として、旧弊の墨守に陥った社会の脆弱性を指摘する。
だから、「個性を押しつぶすものは、たとえそれがどのような名で呼ばれようと、またそれが神の意志ないし人々の命令を実行するのだと公言しようとも、すべて専制主義」(‘whatever crushes individuality is despotism, by whatever name it may be called, and whether it professes to be enforcing the will of God or the injunctions of men.’; ibid., p. 119)として退けることになる。
一方で、ミルの展望は楽観的ではない。
「赤裸々な真実をいえば、真の、あるいは想像上の精神的卓越性に対していかなる敬意が口にされようとも、あるいは現に払われてさえいるとしても、全世界のものごとの一般的傾向は、凡庸な人々を人類の中の支配的な力とすることにほかならない」(290頁=‘In sober truth, whatever homage may be professed, or even paid, to real or supposed mental superiority, the general tendency of things throughout the world is to render mediocrity the ascendant power among mankind.’; ibid., p. 123)からだ。
そこに現われるのが既に指摘した、自由を圧迫する社会的専制(social tyranny)であり、世論を形成する人々の道徳的支配、つまり「支配的な世論や感情の専制」(the tyranny of the prevailing opinion and feeling)だ。
よく考えれば、老婆もその点で社会的な専制に同調する「不道徳な」道徳家なのだろう。だから、思慮を欠く分よく吠えるし、言うことが一々「お子様道徳」の域を出ず、齢70近くにして「ままごと政治論」、「小児性法律論」に無邪気に興じるのだろう。
「一般原則として、現在のような人間精神の低劣な状態と両立しうるもので、これよりすぐれたものがある、と主張するわけではない。しかし、今述べたような状態では、凡庸者の政府が凡庸な政治になることを防ぐことはできない。主権をもつ多数者が(その最良の時代にはつねにそうしたように)彼らをよりすぐれた才能と教養をもつ一人または少数者の、忠告と影響との導きに従った場合を除けば、民主制あるいは多数者貴族制による政府はいかなるものも、政治上の行為においてであれ、それが促進する意見、特性、精神的傾向においてであれ、凡庸以上になったことはないし、またなりえなかったのである。」(291頁=‘I do not assert that anything better is compatible, as a general rule, with the present low state of the human mind. But that does not hinder the government of mediocrity from being mediocre government. No government by a democracy or a numerous aristocracy, either in its political acts or in the opinions, qualities, and tone of mind which it fosters, ever did or could rise above mediocrity, except in so far as the sovereign Many have let themselves be guided (which in their best times they always have done) by the counsels and influence of a more highly gifted and instructed One or Few.’; ibid., p. 124)
思えば、それが過激な社会的専制をコントロールして、社会がフランスのような暴力革命に向かわず、ドイツのような政治的暴発も回避する、受容可能なものとして民主制を比較的成熟したものに育て上げてきた英国の政治的伝統であり、老獪な思慮なのだろう。
「戦う民主主義」(streitbare Domokratie)など、政治的未成熟の証左でしかない。[完]
例えば昨日のBSTBSの報道1930の「橋本徹VS学術会議」、混迷する任命拒否問題、の
広瀬清吾日本学術会議元会長、東京大学名誉教授、と元大阪府知事の橋下徹氏の論戦を聴いていて、橋下徹さんとは意見が違うことの方が多い私であるが、さすがに昨夜は、広瀬清吾東京大学名誉教授の発言を聞いていて、広瀬清吾さんが、真理を追究する最高学府、東京大学の名誉教授に、つまり、東京大学の名誉にふさわしい学者なのか、と感じた。言葉の解釈が、あまりにも客観性がなく、自分本位にすぎるのである。
まず、任命権者、というのは、普通の読解力のある日本人なら、決定権がある人のことをさす。7条に、第17条の規定による推薦に基づいて学術会議が推薦し、内閣総理大臣が任命する、とあるのなら、決定権は、内閣総理大臣にある。17条にあるように、学術会議は、推薦しかできないのである。
日本学術会議法におれば、日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の相違の下に、我が国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学会と提携して学術の進歩に寄与することを使命にして、ここに設立される、とある。すばらしい理想であるが、そういう目的で設立されると、なぜ、自衛の為の軍事開発、軍事研究ができないのか、がわからないし、軍事的な防衛力をもたずに、日本の防衛ができる、自由と民主主義が守れると、広瀬清吾名誉教授が本当に考えておられるのか、という疑問をもつ。
もたない国際連盟の時代、ナチスや大日本帝国に仕掛けられた戦争を抑止できなかったからである。「平和を守る」、「自由と民主主義」を守る、という共通の利益の場合は、国連軍という武力を用いることが可能なのである。その例が、「朝鮮戦争」であり、「Ich bin ein Berliner.」というケネデイー米国大統領の言葉なのである。
もし、国連軍がなければ、韓国という国は存在しなかった、その意味が本当に、広瀬清吾東京大学名誉教授や加藤陽子東京大学教授に、あるいは、東大系の憲法学者の方々に理解されているのか、が本当に疑わしいのである。
そういう現実の国際社会の現実に全く目を向けず、「日本国憲法9条を東大系の憲法学者の解釈通り日本国民が解釈してさえいえれば、日本の平和が守られる。」、という日本学術会議の在り方に私は疑問をもつし、それは、コロナ問題の際でも明らかなことである。私が妄想を抱いているのではなくて、日本学術会議の幹部が妄想を抱いているから、問題なのである。その為に、私は「日本学術会議」がドイツのLeopoldinaのような優れた国の諮問機関であるとは、認識できないのである。もし、「日本学術会議」の国民のため、「公共の福祉」を考えた優れた諮問機関であるとすれば、どうしてPCR検査だけ増やせば、Covid19は収束するように主張する専門家と称する人たちが、マスメデイアを使って好き放題の主張をしているときに、歯止めをかけ、「日本モデル」の価値を宣伝しないのだろう。
「学問の自由」と主張して、自分たちの「机上の空論」のイデオロギーに合う研究をし、それを発表しているだけなのではないのだろうか。
(玉井さんのリツイートの引用始め)↓
良記事ですね。「微妙な均衡」が成立する、それが要求されるということは、潜在的に人事権が発動される可能性があるからこそ。
引用ツイート
清水功哉(日本経済新聞)
@IsayaShimizu
· 10月18日
学術会議の件で思い出したのが、日銀法にも「理事は政策委の推薦に基づき、財務相が任命」との規定があること。この任命権も形式的なものと見られてきましたが、財務相は任命を拒むこともできるのか?考えてみましたーー 日銀理事人事でも「拒否」ある? 編集委員 清水功哉 https://nikkei.com/article/DGXMZO65081470W0A011C2K10700/
午前11:39 · 2020年10月18日·Twitter for iPad (引用終り)
Gなりに再説・補足しますと→(人事ついては)、「微妙な均衡」が成立している、それ(均衡)が要求されるということは、(事前調整などで均衡が成立している以上普段は発動されていない)潜在的な人事権が発動される可能性があるからこそ<
日銀法・学術会議法に限らず他の似たような規定も、玉井教授が指摘する「微妙な均衡」についての程度の差あれ、同様に解することになると思われます。
259. カロリーネさんへ
「広瀬清吾」ではなく「広渡清吾」です。司会者も何度も「ヒロワタリさん」と呼びかけていたのに、ご自慢の絶対音感は役に立たなかったようですね。
絶対音感にしてもそうである。絶対音感というのは、どの音がCであり、CEGはGHDとは違う、ということがわかる音の高さに対する感性なのであって、語学のヒアリング能力とは違うのである。、
ところで広瀬さんというのは何方ですか?
私は、この「日本学術会議問題」について考える場合、吉田茂発言にもう一度注意を喚起したいが、吉田語録に「曲学阿世の徒」という言葉がある。1950年、5月3日吉田宰相が述べた言葉である。
「永世中立とか、全面講和などというのは、言うべくして到底行われないことだ。それを南原繁東大総長などが、政治家の領域に立ち入ってかれこれ言うことは曲学阿世の徒で、学者の空論に過ぎない」と切り捨てたのだ。曲学阿世は、真理を曲げて世俗におもねり人気を得ること、中国の古典「史記」にある。
当時、国内では講和論議が沸騰していた。吉田は米英など西側諸国と結ぶ単独講和を決意し、交渉を進めていたが、学者・知識人や革新陣営の間ではソ連などすべての交戦国との全面講和論が強まり、国論二分の様相だった(失言の雄「曲学阿世の徒」 岩見隆夫)より
とにかく、経歴がどれだけ立派なのかわからないが、彼らの認識を鵜呑みにすることはできないし、日本の民放も、もうすこしまともな国際報道ができないのか、と本当に悲しくなる。
お昼の大下容子さんのワイドショーでも、反中国の急先鋒の中国専門家、興梠一郎教授を出演させて、中国の脅威を煽り、千人計画について報道しているが、米ロには、スパイがいないのだろうか?Covid19のワクチンにしろ、欧州ではロシアのスパイの存在が報道されていたが、日本にはいないのだろうか。また、明治維新以降、第二次世界大戦後、の日本の技術の発展は、欧米の技術を学んだものであり、古代には、遣唐使を派遣して、中国やインドの優れた技術を日本人は学んで日本文化を作り上げたのである。どうして、現在中国のやり方だけを胡散臭く報道するのだろう。
私がこの報道手法を問題にするのは、日本人になんとなく、中国人はうさんくさい人々、というイメージができ、「国際協調の障害」になるからである。戦前もそうだったのではないのだろうか。とにかく特定のイデオロギーに支配されたプロパガンダ、米国トランプ大統領のされている政治手法はプロパガンダの典型であるが、日本のマスコミはその報道手法をやめるべきだし、本来は、それを防ぐために「日本学術会議」があるのではないのだろうか。要するに、人選は大事なのである。
260⇒【加藤陽子東京大学教授に、あるいは、東大系の憲法学者の方々に理解されているのか、が本当に疑わしい】のだそうだ。
自らの箸にも棒にもかからない無学と怠惰を棚に上げ、口から出まかせのその場しのぎの法螺話とはいえ、随分威勢のいいものだ。どこから見ても「狂信家」(ὁ μαινόμενος)の作法である。未明の午前5時からトチ狂っているのだから、つける薬はない。日が高くなっても傾向は変わらない。狂人(μανιώδης)と紙一重のような莫迦騒ぎで、その精力はすさまじい。
もっとも、偉そうなことを宣っている割には所詮は無学な凡夫でしかない。260②⇒【「国際連合憲章」をみてみよう。前文には、】以下は、例によって日本版Wikipediaからの大量コピペで投稿の嵩増しをして澄ましている。260は全体で648字あるが、その53.55%、347字という臆面のなさだ。凄まじい厚顔無恥であり怠惰で、老婆以外では、およそ考えられない狂態だ。
前文に立ち入って国連憲章や国連、「国連軍」云々と称するなら国連中心の集団安全保障について論じてもよさそうだが、それは一切ない。ただ1950年に始まった「朝鮮戦争」という言葉を並べ、話は一気に13年後の1963年6月26日の西ベルリンでのケネディー演説中の一句に飛ぶ。論理的に脈絡を追える議論でないことは明白だ。
何も考えずに大量コピペで弾みをつけ、先の⇒【理解されているのか、が本当に疑わしい】となる。そもそも、前段の議論(259)と国連憲章に何の論理的、論証上の必然性もない。老婆のお頭同様、議論がスカスカである所以だ。
いずれにしても、260③⇒【と定められ、平和志向であるが、国連軍という軍隊をもって…】以降の議論とも何の脈絡もない。
莫迦の一つ覚えのように繰り返す“Ich bin ein Berliner.”を含め、コピペは老婆の早朝のルーティーンなのだろう。
当時の日本の国際社会への復帰=独立回復をめぐる議論は学問上の論点ではなく政策判断の問題であって、真理云々の問題ではない。
「曲學(学)阿世」とは、司馬遷『史記』(「儒林列傳第六十一」)に見える次の章句に由来するのは、簡単な国語辞典や漢和辞典にもある、謂わば常識の部類に属する。ちなみに手持ちの『史記評林』巻百二十一で前後を引けば、次のようになる(富山房『漢文大系』史記列傳、下巻517~518頁)。
「今上初卽位。復以賢良徴固。諸諛儒多疾毀固曰。固老。罷歸之。時固已九十餘矣。固之徴也。薜人公孫弘亦徴。側目而視固。固曰。公孫子務正學以言。無曲學以阿世。自是之後。齊言詩皆本轅固生也。諸齊人以詩顯貴。皆固之弟子也」(「今上即位のはじめ、また賢良をもって召されたが、阿り諂う儒者たちが固(轅固生=筆者註)を憎んで、『固はおいぼれている』と譏ったので、やめて帰った。時に九十余歳であった。固が召されたとき、薜の人公孫弘も徴(め)され、目をそばだてはばかって固を見た。固は、『公孫子よ、つとめて正學をもって直言しなさい。曲學をもって世に阿ってはいけません』と言った」〔小竹文夫、小竹武夫訳により、一部表記を変えた〕=ちくま学芸文庫版『史記』、第8巻73頁)
正確には「無曲學以阿世」(學を曲げて以って世に阿る無かれ)、ということになる。この曲は「無理にこじつける」「ねじ曲がっている」の謂いだ。
それにしても、老婆が吉田茂の口真似とはいえ、「曲學阿世」を喋喋すること自体が滑稽と言わなければならない。
なぜなら、老婆には真理を曲げる(枉げる)ほどの学識など皆無に近く、事実を曲げて、司馬遷の故国であるシナ、現在の中国に阿る、媚び諂うばかりだからだ。
それは、政府批判的勢力の一部を狙い撃ちしたロシアの比ではない。ロシアに現在の新疆ウイグルに存在するような矯正施設、現代版「強制収容所」は存在しない。
このほか、南シナ海島嶼部の軍事拠点化は、フィリピンが提訴した国際裁判で敗訴しており、その後の対応も明確に国際法秩序に敵対する。ベトナムやマレーシアなどとも係争を抱えている。日本にも尖閣諸島で中国籍の公船が領海侵犯を常態化させ、実効支配の足がかりにすべく狙っている。
さらに知的財産権分野におけるやりたい放題の「盗賊行為」は、国際社会で周知の事実だ。今回の日本学術会議騒動で日本でも改めて注目された「千人計画」も、高度な科学的基礎研究、応用技術を独自の強権的かつ違法で巧妙な手法で先進国から違法に摂取しようとする中国ならではの国家的策謀の一環だ。
中国が戦後の国際秩序に明確に敵対する行動をとる一方で、その経済的膨張、地位向上をてこに、軍事面でも国際社会の安定した秩序形成に逆行する動きを進めていることに神経を尖らせ、警戒感を強めていることは、米国のみではなく、世界的傾向、共通の懸念だ。
さらに、世界規模で拡大した今回の新型コロナ禍の震源地が中国であったことや、それを機に高まる可能性があった共産党独裁体制批判への国内の批判を一気に封じ込め、英国との国際条約を事実上反故にする内容を含む香港国家安全維持法を成立させ、反転攻勢を進めているのが現在の中国だ。新疆ウイグルでの一層の抑圧強化もインドとの小競り合いである武力衝突もその延長線上で起きている。
池田勇人元首相が「京大卒」という「常識」もない人間が、何を言っても莫迦話でしかない。[完]
ソクラテスやゲーテに関する愚劣な無駄話なら、それはテキストの裏付けのない単なる「物語思考」に伴う妄語だし、今回の現在の国際情勢に関する分析も極めて杜撰かつ一面的な、それこそ政治的なプロパガンが紛いの莫迦話であって、どこまでも取り留めがない。投稿自体が「世に言う老婆の他愛ない無駄話」(ὁ λεγόμενος γραῶν ὕθλος)たる所以だ。
269⇒【現実の国際社会を見てみると】云々と称して、少しも現実を反映していない、スカスカの議論に終始する。269②⇒【日本は、中国に侵略戦争をしかけて、中国大陸で内戦をし、中国軍に負けたのだ、という事実を日本人はきちっと認識方がいい】などという、途方もない史実誤認がある。
「内戦」(στάσις)というのは、主に蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる赤軍(共産党軍)との主導権争い=内戦であって、それを日中戦争の進展に伴い一時中断して日本に対抗するために国共合作(第二次=1937~46)もあり、対日戦争に勝利した後、最終的に赤軍が勝利して1949年に中華人民共和国が建国されるわけで、日本が噛んだ時点で既に内戦ではあるまい。従って、⇒【日本は…中国大陸で内戦をし】というのは全くの事実誤認で、妄語でしかない。
妄想(ἡ πλάνή)、錯覚(ἡ πλάνή)、幻覚(ἡ πλάνή)、絵空事の(κενός)――といろいろあるけれど、そにかく、尋常ではない(ὕπουλος)、ありもしない(κέρτομος)妄語は尽きない。
「空中楼閣」のような議論と言えば、新約聖書に、老婆のためにあるような興味深い一節がある。
「さらば凡て我がこれらの言をききて行ふ者を、磐の上に家をたてたる慧き人に擬へん。/雨ふり流みなぎり、風ふきてその家をうてど倒れず、これ磐の上に建てられたる故なり。/すべて我がこれらの言をききて行はぬ者を、沙の上に家を建てたる愚なる人に擬(なずら)へん。/雨ふり流みなぎり、風ふきて其の家をうてば、倒れてその顛倒はなはだし』」(‘Πᾶς οὖν ὅστις ἀκούει μου τοὺς λόγους τουτους καὶ ποιεῖ αὐτοὺς, ὁμοιωθήσεται ἀνδρὶ φρονίμῳ, ὅστις ᾠκοδόμησεν αὐτοῦ τὴν οἰκίαν ἐπὶ τὴν πέτραν· / καὶ κατέβη ἡ βροχὴ καὶ ἦλθον οἱ ποταμοὶ καὶ ἔπνευσαν οἱ ἄνεμοι καὶ προσέπεσαν τῇ οἰκίᾳ ἐκείνῃ, καὶ οὐκ ἔπεσεν, τεθεμελίωτο γὰρ ἐπὶ τὴν πέτραν. / καὶ πᾶς ὁ ἀκούων μου τοὺς λόγους τούτους καὶ μὴ ποιῶν αὐτοὺς ὁμοιωθήσεται ἀνδρὶ μωρῷ, ὅστις ᾠκοδόμησεν αὐτοῦ τὴν οἰκίαν ἐπὶ τὴν ἄμμον· / καὶ κατέβη ἡ βροχὴ καὶ ἦλθον οἱ ποταμοὶ καὶ ἔπνευσαν οἱ ἄνεμοι καὶ προσέκοψαν τῇ οἰκίᾳ ἐκείνῃ, καὶ ἔπεσεν καὶ ἦν ἡ πτῶσις αὐτῆς μεγάλη.’; Κατα Μαθθαιον, VII. 24~27)
聖書というのは、読みようによっては極めて穿った人間観察を提供する。それがけっして信仰の問題だけではないことを示す。
それは夢想する(δοξάζειν)ことであり、根拠のないイマジネーション(ἡ δόκησις)に等しい誤った像(τὸ εἴδωλον)に囚われ、それを実像だと思い込む愚、つまり幻影(φάντασις)に淫することでしかない。前回(254)、老婆が自らの恣意的な思い込み、「鏡像」(ἐμφαίνειν εἰκών)=仮象(φαίνεσθαι)を現実と錯覚しているようなものとした所以だ。
確固とした論拠と論理性に裏づけられることがなければ、雨が降り(κατέβη ἡ βροχ)、「流みなぎり」=川があふれ(ἦλθον οἱ ποταμοὶ)、風が吹きつけ(ἔπνευσαν οἱ ἄνεμοι)家に襲いかかれば(προσέκοψαν τῇ οἰκίᾳ ἐκείνῃ)ば、倒れる(ἔπεσεν)のは必定で、老婆程度の議論はひとたまりもない。
それを免れたかったら、もう少し質実な議論を心掛けるべきだ。老婆が何度かもち出した母校関西学院大のモットー、第4代院長を務めたC. J. L. ベーツ(Bates)に由来する‘‘Mastery for Service’’(奉仕のための練達)の精神の実践など、老婆に限っては冗談にも値しない。
「求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん/すべて求むる者は得、たづぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり。」(‘Αἰτεῖτε, καὶ δοθήσεται ὑμῖν, ζητεῖτε, καὶ εὑρήσετε, κρούετε καὶ ἀνοιγήσεται ὑμῖν· / πᾶς γὰρ ὁ αἰτῶν λαμβάνει καὶ ὁ ζητῶν εὑρίσκει καὶ τῷ κρούοντι ἀνοιγήσεται,’; ibid., VII. 7~8)とは言っても、真に救われ、真理に到達する道は険しい。
従って、人は自らに厳しくあらねばならない。
神の国に至る「神の(正)義」は誠に峻厳だ。
「なんぢら己がために財寶を地に積むな、ここは蟲と錆とが損ひ、盜人うがちて盜むなり。/なんぢら己がために財寶を天に積め、かしこは蟲と錆とが損はず、盜人うがちて盜まぬなり。」(‘Μὴ θησαυρίζειτε ὑμῖν θησαυρὺς ἐπὶ τῆς γῆς, ὅπου σὴς καὶ βρῶσις ἀφανίζει καὶ ὅπου κλέπται διορύσσουσιν καὶ κλέπτουσιν• / θησαυρίζετε δὲ ὑμῖν θησαυροὺς ἐν οὐρανῷ, ὅπου οὔτε σὴς οὔτε βρῶσις ἀφανίζει, καὶ ὅπου κλέπται οὐ διορύσσουσιν οὐδὲ κλέπτουσιν·’; ibid., VII, VI. 19~21)ともいう。
「我に對ひて主よ主よといふ者、ことごとくは天國に入らず、ただ天にいます我が父の御意をおこなふ者のみ、之に入るべし。」(‘Οὐ πᾶς ὁ λέγων μοι· κύριε, κύριε, εἰσελεύσεται εἰς τὴν βασιλείαν τῶν οὐρανῶν, ἀλλ᾽ ὁ ποιῶν τὸ θέλημα τοῦ πατρός μου τοῦ ἐν τοῖς οὐρανοῖς.’; ibid., VII. 21)というくらい、天国の門は狭く、救いに至る道は険しい。
最後の審判(ἡ κρίσις)を、最後の裁判(ἡ δίκη)と取り違える程度の阿呆に、何を言っても無駄だろうが。[完]
カロリーネ氏は、このような極めて基本的で常識的な事柄についてすら全く知らずに、事実誤認の「妄想」に基づいて議論を展開していますが、このようなカロリーネ氏がマスコミ報道を批判しているのは滑稽です。
(https://www.jsps.go.jp/j-pd/から引用)
「特別研究員制度は、我が国の優れた若手研究者に対して、自由な発想のもとに主体的に研究課題等を選びながら研究に専念する機会を与え、研究者の養成・確保を図る制度です。」
日本学術会議は、日本学術会議法を根拠法とする、内閣府の「特別の機関」(内閣府設置法40条3項)であり、国の一行政機関なので独立の法人格はありません。
これに対して、日本学術振興会は、「独立行政法人日本学術振興会法」を根拠法とする文部科学省所管の「独立行政法人」であり、独立の法人格を有します。
以上のとおり、両者は全く異なる組織形態であることが明白です。
また、日本学術会議の会員は特別職の国家公務員で連携会員は一般職の国家公務員であり、その多くは大学教授職の方々です(企業等の研究者もおりますが)。これに対して、日本学術振興会の特別研究員は、研究奨励金(生活費)と研究費の支給を受ける者(主に、若手研究者を念頭)であり、研究専念義務はありますが、国家公務員ではありませんし、また、日本学術振興会との雇用関係もありません。
国会議員には法的素養があることが本来的には望ましいとはいえますが、議員立法の場合でもほどんどの場合は国会議員が法案を作成するわけではなく政策意図を法案化する作業を議院法制局に依頼をするのです。また、法案の採決段階で賛否の判断をすること自体はその判断の妥当性は兎も角としてもカロリーネ氏でも可能です。なお、憲法44条但書により、「教育」による差別的な取扱いをする「資格」を設けること(例えば、大学法学部卒業や法的素養テストへの合格等を資格とする等)は違憲となります。
これに対して、法案を作成する場面においても、法学部卒業生である必要は必ずしもありませんが、法的素養は求められます。内閣提出法案を作成する霞が関の官僚(内閣法制局への出向者を含む)や議員立法を補助する議院法制局の職員の多くが法学部出身者であることは法的素養が求められることも要因として考えられます。もちろん、法学部卒業でなくても、入省後の業務等を通じて法的素養を身につける方はおられます。
なお、法案作成に限らず、法律を執行する段階においても、法解釈が求められる場面があることは、カロリーネ氏でも理解可能だと思われます。
>法律の条文を理解するために、法学部を卒業しなければならない、などということはないし、離婚裁判も、弁護士資格がなくても、個人がすることができ、勝訴もできる、ということも、弁護士さんからきいたこともある。
以前、政府解釈さんなど私も含めて「法学部出身者だろう」と推測されていた際にはあえて反論しなかったのですが、私は文学部史学科出身です。まぁ、永らく某都道府県庁に務めておりましたので、平均的な方よりは法律に詳しいでしょうけど、法学部の学派・学閥などとは無縁の人生を歩んでまいりました。
それから「(日本では)離婚裁判も、弁護士資格がなくても、個人がすることができ、勝訴もできる」なんてこと、弁護士さんに聞かなきゃ知らなかったのですか?ドイツでは民事訴訟でも弁護士強制主義を採用していると聞いたことがありますので(真偽未確認)、留学経験をお持ちなのでご存じなかったのでしょうけど、いや、でも私は「本人訴訟」という言葉を大学時代から知っていましたよ。
ちなみに以下は貴女のお好きなWikipediaの【本人訴訟】の項からの引用です。
地方裁判所の民事事件(通常訴訟)21万2490件 (2011年度)
双方代理人あり … 30.0%
原告本人訴訟 …… 4.1% (被告にのみ弁護士)
被告本人訴訟 …… 43.4% (原告にのみ弁護士)
双方本人訴訟 …… 22.6%
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