「勝負の三週間」と設定された期間が終わった。先週末、私は、たまたま夜遅くの電車に乗った時の光景と、その数日前からの新規陽性者数の拡大傾向とを重ね合わせ、忘年会シーズンに新規陽性者数の減少を果たすのは難しいだろう、といったことを書いた。http://agora-web.jp/archives/2049329.html
その後の一週間は、全般的に私の書いたとおりに展開した。新規陽性者数の再拡大は顕著な傾向となった。「勝負の三週間」が宣言された11月下旬は、新規陽性者数の拡大は鈍化傾向にあったのだが、その後はしばらく横ばいが続き、12月半ばになって、むしろ上昇に戻った。
新規陽性者数の拡大に、科学的な法則はない。むしろ人間の社会生活の動向によって、左右される。そのことを痛感する12月である。新規陽性者数の再拡大を強くけん引している東京のトレンドを見ると、週平均で1.2倍のスピードで進んでおり、しばらく新規陽性者数の拡大は続きそうである。
ただし、実はこの再拡大を引っ張っているのは、東京およびその近郊の神奈川などの首都圏が主である。広島などその他の一部でも再拡大の傾向が強い地域があるが、全国的には再拡大のペースは鈍り始めた。
全国的な傾向を、首都圏に抗して引き戻しているのは、大阪などの首都圏以外の地域だ。特に大阪は、7日移動平均で前の週の水準を下回るペースを続け、しかも今週になってから平均値を減少させるペースを維持している。大阪の7日移動平均の値は、三週間前以前の水準に引き戻されている。大阪は、これまで何度となくGoogle
AI予測で、東京を上回る甚大な被害を出すと予測されてきた。そのGoogle AI予測を覆す堅調ぶりである。
「勝負の三週間」で全国的な結果が出せなかったことについてはきちんと総括し、次の一手を提示する責務が、政府にあると思う。ただし十把一からげに悲観をするのではなく、堅調な数字を見せている地域については、そのことを肯定的に取り上げるべきだ。頑張っている人々は、その頑張りを認め、引き続き頑張ってほしいというメッセージを送るべきだ。そういうメリハリがなければ、人々はついてこない。
感染拡大については、SIRモデルからK値に至るまで、あたかもそこに科学的に識別可能な法則があることが自明の前提であるかのように扱う言説が、注目を集めてきた。
しかし本当に必要なのは、その時点その時点のトレンドを捉え、その背景にある人々の努力を認めてあげて、称賛したりしてあげることではないだろうか。科学的法則に従って新規陽性者が推移しているだけなら、誰も感染防止の努力などしない。
予測当てごっこから卒業し、社会政策に活かしていくという実践的な目的にそって、新規陽性者を観測する姿勢を確立したい。
コメント
コメント一覧 (263)
(参考: ソクラテス、岩波新書、田中美知太郎著)
ご助言、ありがとうございます。
私も「インフルエンザ菌」騒動を通じて某老婆の尋常ならざる人間性を知悉したつもりだったのですが、まだまだ甘かったようです。
ただ、現在の(このブログにおける)私の関心事は、篠田教授は現時点でも「日本モデル vs 西浦モデル」というという着想を維持されているのか、Gくんその他の方がおっしゃるCOVID-19と日本の医療体制の問題点の指摘は妥当なのか、という2点にあります。
前者については、既に紹介したいくつかのネット記事や西浦博『新型コロナからいのちを守れ!』(以下、本コメント欄では『西浦』と略記させていただきます)を読む限り妥当性を欠くと考えています。
後者については、日本の医療体制(法的諸問題を含む)には多くの問題があると認識はしておりますが、COVID-19に関連する範囲での諸提言には余りにも視野狭窄的なものが多く、もう少し根本的な次元から議論する必要があると考えています。
カロリーネさんへの対応については、今後は反さんのご忠告に従いますが、上記2点に関することにおいては逸脱することもあるかもしれませんので、何とぞご寛恕ください。
なお「全集中!老婆の呼吸、参の型!須非戯流(シュピーゲル)!」等は、単なる「おふざけ」ですので、流していただけるとありがたいです(「反時流的」というハンドルネームを用いておられる方が『鬼滅の刃』をご存知かどうかは分かりませんけど。「漫画を読む時間があれば古典哲学に親しめ!」という正論による批判は、私のごとき凡人には何とぞご容赦のほどを!)。
この講演は日本語ではなくて英語で行われている。日英の同時通訳養成所に通い、会社で英独日が飛び交っていた環境にいた私のような者には、耳できいて自然に吸収できる情報が、難しい法律的な日本語で書かれた文章は自然に吸収できても、この種の情報は通りすがりの老人の脳裏には入らないのだ、ということが。篠田教授も音楽家になりたい、と思われていたぐらいの方なので、ヒアリングが得意なのではないのだろうか?弟の「日本が国際化する際の問題点は耳です。」という主張の意味がよくわかった。
すると、この医学部教授はちゃんと、(日本独特の医療体制や社会制度のことを考えると)「日本は他国と違って<有事>の発想が戦後ずっと無いことに気づく」と本質をずばりついていた。
つまり、補足するとこういうことだ。日本の左傾化しきった大衆マスコミにとっては、絶対に先進国のなかで日本正j府または日本人だけが異様に<有事>の発想や対策ができないことが焦点になっては非常に困る。なぜなら、それを徹底的に隠蔽したのが日本の守旧マスコミであるからだ。
そのため、コロナ初期には狂ったように韓国などのPCR検査だけクローズアップして「日本はだめだ、だめだ」と主張しつづけたのだ。欧米や台湾、韓国、東南アジアなどが<有事>の態勢で備えた、そのことから日本国民の目をそらさせて、安倍内閣への憎悪を煽るためだ。
驚くなかれ! 日本の医療体制がどうのこうのとか、緊急時に対応できないというのも根本はそこにたどりつく。しかし、日本の民度は高いので、それなりに対応して医療を発達させてきた。
しかし、世界はそうだけど日本はこうだという方向で国民が客観的情報に基づいて議論したり考えたりできない。無能は偏向マスコミの塩加減でどうにもでなることに驚愕して、ほんとうにこれが問題だと思っている。だから、日本政府は民主主義の基礎が深刻なほど脆弱なのである。大衆マスコミが経済が弱っていると絶叫すればGotoをはじめ、大衆マスコミが一部の声だけ拡散してGoToをやめろと絶叫すればGoToをひっこめる。とにかく滅茶苦茶なのである。日本の医療体制の特殊性が、結局は<有事>の発想ができないことが根本であることも国民は小指の先ほども知らない。それは、そもそも日本の狂った左翼マスコミが「有事を考えれば、それが有事を起こす」という本当に日本の言霊信仰を逆手にとった狂信的なキャンペーンを何十年も繰り返してきたからである。
平時でなく緊急時に対策できない日本国の深刻な問題は、ほとんどすべてと言ってよいほど、根本を探っていくと、ここにたどりつく。根本がそうだと、つまり有事で国が動けなければ、末端の制度をいくらいじっても基本的にはダメだろう。
だが、何もしないよりは何かしたほうがよくて、コロナで医療機関が機動的に運営できないことへの対策は、非常に頭のよい官僚や政治家がなにか今後方策を考えるだろう。それは付け刃のような法律であろうが、国民が危機意識を認識し認知し協力的に動けば非常に効果があがるという形でできあがるかもしれない。
いままで日本の場合は超高齢化という事象への対策を第一に考えていたが、震災や感染など非常事態がそれと同等かそれ以上の事象と考えられつつある。たとえば、貨物列車なども、ふだんは金食い虫だが、震災やコロナで緊急時の役割が見直された。
いまのままの政府では無能マスコミの命令通りに日本の政治家が動く懸念が非常に強いので、ネットなどで自発的に収集する国民のほうがまだ今後ずっと信頼できる。「この国では」という変てこなセリフはアホ左翼の常套文句だったが、「この国では国民の知恵と自発性がすべて」「それを信頼し支援し協力する政治家や官僚に期待する」といったところだろうか。
篠田教授の根底には日本国民への信頼感が基底にある。こういう人こそが日本の指導者になってほしいと常日頃かんがえている。
日本の守旧マスコミは、「日本国民はアホだからおれたちが啓蒙してないとダメだろう」という発想だ。だから、いつも居丈高となり、なにからなにまで執念深く罵倒することに熱中する。そのくせ外部からの批判にはすごく弱く、すぐに言論弾圧だと自分を棚にあげて論点ずらしをしてきた。
日本の大衆マスコミがこれほど哀れなのは、戦前は右翼言論人に、戦後は左翼言論人に、それぞれ、よいようにこきつかわれて奴隷のように思想信条を洗脳されて、自力で考えたことがないからだ。いくら本を読んで雑学があっても、自ら社会のなかに溶け込んで汗水たらしてまっとうに働いて現場の知識を知らない人間は本当にだめだ。
その背景には、日本独自の先人が考えた「マスコミこそ民主主義の基礎」という完全に間違った幻想があると思われる。だから、メディア制度や電波制度の改革こそが、日本の社会問題を考える際の大前提の議論なのに、それができない。まったく新聞テレビでマスコミ問題が議論されない。そもそもそれが本丸だということを高齢者中心に知らない。「正しい情報をよこせ」と抗議できない。だから、若い世代は徹底的に新聞テレビという収容所から逃げ出しつつある。
こうやって煙幕をはって、国民をやりたい放題に誘導するのがNHKの得意わざだった。
末端の議論をする前に、「国家とは非常時にどうあるべきなのか、日本は世界とくらべてどこが違うのか、どうしてこうなったか」という高所から問題設定し、日本の制度のメリットやデメリットを比較して公正に視野広く分析しないといけない。
それが全くできない。すぐに、末端の現象だけ見て大騒ぎする。それはNHKをはじめとして、決められたレールの上でのみ報道という列車を走らせるという日本の大衆メディアの宿命である。
日本の国民は本来かしこくて視野は広い。その民度の高さが、逆に謙虚さとなり礼儀正しさとなり、日本の左翼など無頼漢にやりたい放題にのさばらせる結果となってきた。
この動画は出演者全員英語人ではないので、難しい言い回しも単語もなく、おまけに英語の字幕もついているので、ふつうの日本人でも充分理解できるでしょう。ただし、内容はあまり面白くないので、たぶん時間の無駄でしょう。なお西浦先生の名前は一度も言及されていません。
日本のマスコミは、米国トランプ大統領の扇動にのって、中国が情報隠しをしている、とずっと主張しているのである。日中韓の情報シェアということは、三国が国際協力している、中国は情報隠しをしていない証明のようなものだし、中国は2月時点の武漢の重症患者の内訳を世界に公表している、そしてその情報が国際社会に役立ってもいるのである。つまり、そういう報道が世界の実情を知らせるために大事なのである。低開発国の医療にしろ、日本のマスコミ報道は、その必要性を主張しているだろうか?ワクチン接種についても、ドイツのマスコミは、低開発国に配慮して分ける、ことをきちんと報道しているが、日本のマスコミは日本人や英米人のことだけである。
こういう事実を、国際社会の現状を、日本のマスコミがテレビを通じてSNSで情報を取らない人に報道すべきだ、ということを私は主張しているのである。
もう一人の矯激な「反メディア」、謂わば「ハン(한=恨)・メディア」の主、同類である間欠泉氏もいて(170⇒【カロリーネさんの…マスコミへの本質批判は絶対に正しい】)と、狂信の種は尽きないようだ。「本質」の意味を、無礼講と取り違えているようだ。
164⇒【反氏のコメント161ネット上で「反時流的古典学徒」と検索すると…本ブログの「学期末の雑感」(2018年7月17日~)が再録されていて…と書かれているので、その経路で検索してみたが、その記事にいきあたらなかった】――本日27日、改めてパソコンで「反時流的古典学徒」と検索すると、4番目に以下に遥に当該記事に行き着く。
⇒【学期末の雑感:「平和構築」を専門にする国際政治学者 (記事 ...shinodahideaki.blog.jp › lite › archives › comments 2018/07/17 — 反時流的古典学徒さんのコメント、ソフィストが「詭弁家」、他方のソクラテスを真の知者である哲学者とする後世の評価が確定するのは、やはり、プラトンの2冊の対話形式の著作、「ソクラテスの弁明」と「クリトン」の .】――URLに続く冒頭の、⇒【反時流的古典学徒さんのコメント、ソフィストが「詭弁家」…「ソクラテスの弁明」と「クリトン」の…】は、篠田さんの本ブログ、「学期末の雑感」(2018年7月17日~)にある偏執狂の老婆によるコメント(2018年7月21日・24)の書き出し部分で、「反時流的古典学徒」という検索ワードに照応する。
いずれにしても、老婆は起き抜けでもないのだろうが、164を投稿した時点(→27日 05:59)では、寝惚けているか、性根が腐った人間性同様、お頭が迷蒙の闇に沈んでいて「事実」を受け入れられないのか、はたまた単に虚言を弄しているか、救いようがない。事実誤認で、よって、Q.E.D.
他にも山積する反論の真似ごとについて、改めて指摘するまでもないが、明白な虚偽または事実誤認、論点ずらしを列挙すると、以下のような有様である。
②165⇒【このコメント37に対する反氏の主張も、二人の見解の違いから生じる】――そもそもコメント37(2018年7月22日)は冒頭の「ソクラテスは、人間として善く生きるために…」以下が剽窃で仕立てられており、【二人の見解の違い】という立論を構成しない。醜悪なのは、165自体が、剽窃ででっち上げたコメント37(2018年7月22日)の一部をそのまたコピペする手抜きで仕立てられており、横着者ぶりは比類がない。性根が腐っている(μοχθηρία)所以だ。よって、Q.E.D.
③165②⇒【TANTANの雑学と哲学の小部屋…由来だから、間違いだと決めつけ】――TANTAN氏の産婆術論は、何のテキストの裏付けもない無駄話。「間違い」云々以前の問題で、要するに他愛もない素人論議=解釈、別名「ソクラテス文学」。よって、Q.E.D.
④166⇒【恩師の京都大学教授、田中美知太郎】――田中は私の恩師ではない。師の藤澤令夫の前任者(京都大文学部教授。哲学哲学史第二講座主任教授)。明白な事実誤認。よって、Q.E.D.
⑤166②⇒【作家、詩人…について、ソクラテスはこう書いている】――ソクラテスは一切著作を残していない。「ソクラテスはこう書」くも何もない。よって、Q.E.D.
なお、「こう書いている」として、田中の『ソクラテス』から杜撰に引用している、(166)⇒【やはり自分でよく考えもしなければ、また真面目に考えてみようともしない人たち】云々以下の文章は、わずか277文字にすぎないにもかかわらず、脱落(4箇所)、誤記(4箇所)が満載。老婆の粗雑極まりない思考をそのまま映している。
ちなみに、老婆は引用すら、ただの一回も正確にできない「出来損ない」。
⑥166③⇒【(田中美知太郎の)岩波新書…「ソクラテス」の中で述べられている。当時のジャーナリストの役割…】――田中の主張の趣旨は、ソクラテスの同時代の古代アテーナイで「知者」(σοφός)とされた有力政治家や名工(職人)、作家・詩人は、いずれも知者ではない、というもの。
ただ、この場合の「知」(知識=ἐπιστήμη, 思慮=φρόνησις, 知恵=σοφία)とは「善美なるもの」(καλὸς τἀγαθός)に関する知であって、それを認識しうるのは哲学だけだという主張であり、老婆が日頃無駄口を叩いてメディア批判に狂奔するような領域の知や、それに関する無知ではない。無知の自覚の対象となる知も、この「善美なるもの」に関する知であって、その意味では「神だけが本当の知者」(ὄντι ὁ θεὸς σοφὸς εἶναι)という趣旨だが、究極の「善美なるもの」以外について、人は老婆のように無知であるわけではない。
現在のジャーナリズムの役割を当時担ったのは作家・詩人で、その知と称するものは、哲学が志向するものとは全く異なる、知の偽物(ψεῦδος)、つまり幻影(εἴδωλον)、似像(εἰκών)、畢竟「真実らしきもの」(εἰκκός)にすぎないということで、何もジャーナリズムに限らない。
文学もジャーナリズムも、真実の周辺をなぞって模倣する(μιμέομαι)虚構=物語(μῦθος)にすぎないという冷厳な認識だ。この点で言えば、偉大なるホメーロスもヘシオドスも、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスも皆失格で、ゲーテなど問題外という話。
その趣旨を敷衍するなら、ゲーテを頼りに老婆がしきりに強調する「芸術のもつ力」など、ソクラテス・プラトン的な見解に立てば論外で、芸術(創作=ποίησις)自体への根源的な否定に外ならない。
プラトンは、ソクラテスの認識を受けて詩人が創作に当たって得意とする手法である模倣(μίμησις=ミーメーシス)について、中期の代表作『国家』(第10巻1~8章)の中で展開している古来、著名な議論だ。
それを「芸術学」に関する「学者の端くれ」を僭称する老婆が皆目知らないこと自体が驚くべきことだ。ドイツ留学の内実がその程度だということだ。随分、低水準だ。
プラトンは、詩歌、演劇に関する徹底した考察を行い、真似(描写=μίμησις)としての詩作については、それが作り出すものは「実在」やその根拠であるイデア(ἰδέα)から遠ざかること「第三の序列」(τριττὰ→「実在から遠ざかること三番目のもので、真実を知らなくとも容易に作れるような代物だと言うことに、気づかない」〔‘οὐκ αἰσθάνονται τριττὰ ἀπέχοντα τοῦ ὄντος καὶ ῥᾴδια ποιεῖν μὴ εἰδότι τὴν ἀλήθειαν-φαντάσματα.’; Respublica, 599A〕)、詩人・作家は自分が真似て描くものごとについて、真の知をもたないことを挙げている。
さらに、詩作(創作=ποίησις)の感情的効果も、真似(描写)としての詩作は「魂の劣った部分に働きかけるもの」(「なぜなら、[詩人・作家は=筆者註]真理と比べれば低劣なものを作り出すという点でも画家に似ているし、また魂の低劣な部分と関係をもち、最善の部分とは関係をもたないという点において、彼は画家とそっくり」=註)であり、人間の人格形成に有害な影響を与える、と切り捨てる。
プラトンは創作活動自体を否定しているわけではないが、この非常に厳しい芸術・創作批判は、別に『第七書簡』で、人間の生き方、国家社会のあり方にかかわる価値は「ただ、哲学からこそこれを見極めることができる」(→「それとともに私は、国事も個人生活も、およそその正しいあり方というものは、哲学からでなくては見定めるものではないと、正しい意味での哲学を讃えながら、言明せざるを得なくなった」→〔‘λέγειν τε ἠναγκάσθην, ἐπαινῶν τὴν ὀρθὴν φιλοσοφίαν, ὡς ἐκ ταύτης ἔστιν τά τε πολιτικὰ δίκαια καὶ τὰ τῶν ἰδιωτῶν πάντα κατιδεῖν:’; Epistlae, 326A〕)という認識だ。
そこには、何としても哲学を人間の営みの中核に位置づけたいという思いがある。
「正しい意味において、真に哲学しているような部類の人たちが、政治上の支配者の地位に就くか、あるいは現に国々において専断の権力をふるっているような部類の人たちが、天与の配分ともいうべき条件を得て、真に哲学するようになるかの、いずれかが実現されない限り、人間の諸々の種族が、禍から免れることはあるまい」(‘κακῶν … οὐ λήξειν τὰ ἀνθρώπινα γένη, πρὶν ἂν ἢ τὸ τῶν φιλοσοφούντων ὀρθῶς γε καὶ ἀληθῶς γένος εἰς ἀρχὰς ἔλθῃ τὰς πολιτικὰς ἢ τὸ τῶν δυναστευόντων ἐν ταῖς πόλεσιν ἔκ τινος μοίρας θείας ὄντως φιλοσοφήσῃ.’; ibid., 326A~B)という哲人王構想だ。
ジャーナリズムにしろその観点からは真も偽もなく、創作と同様、一義的な価値などない。よって、Q.E.D.
哲学が探究する知の真似ごと(μίμησις)はできても、ソクラテスやプラトンが自らに課した「美にして善なるもの」(τὸ καλὸκἀν ἀγαθόν)、最善のもの(τὸ ἄριστος)=善それ自体(αὐτὸ τὸ ἀγαθόν)に関する原理的な知、認識(γνῶσις)を与えない。ゲーテなどは問題外ということだ。よって、Q.E.D.
もっとも、芸術を生み出す創作活動が人間生活に潤いを与えることまで否定しない。人生には楽しみや娯楽が必要で、それは生活に彩りを与え、人生を生き生きとさせるものとして文明生活に必須な要素と考えることに一定の理由がある。人間は食うため、つまり広義の経済活動がすべてではないように。
また哲学でもその他の学問、科学でも、知的な探究をすべての人々に強いることもできない。学問の機会は均等であるべきだとしても、その資質も能力もない人間の方が圧倒的多数で、この世は学問だけで成り立っているわけでもない。老婆のような阿呆も、学問の真似ごとをする。
プラトンが論じたように人間の精神的活動を司る魂の三分説に譬えれば、魂にロゴス的部分(τὸ λογιστικόν)と、それが制御する欲求的部分(τὸ ἐπιθυμητικόν)と気概的部分(τὸ θυμοειδές)があるように、それは自然だからだ。ただ、ロゴス的部分は芸術・創作の原理ではないということだ。
『ファウスト』は立派な作品だが、人生の指針とはならぬことを、ゲーテ自身が指摘している。ましてや哲学の代わりになど、なるわけがない。
老婆はどこまでも無知で愚鈍だ。[完]
「詩神(Muse)はともに人生を歩むとも、君を導いてはくれぬ」(„Daß die Muse zu begleiten, Doch zu leiten nicht versteht“; „Für junge Dichter wohlgemeinte Erwiderung“, Goethe Werke Hamburger Ausgabe in 14 Bänden, Band. 12, S. 359)
なぜこう考えるかといいますと、68最後で提示した放送法第四条第一項に関する諸問題に関する質問主意書→http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a190133.htm でも、放送法第4条の公平性をだれが判定するの!?と質問した野党議員も訊いています。もちろん総務大臣(その内部部局)でしょうが、それだと政権が判断した!と言われます(いわゆる「利益相反」です)。たとえ公平であっても痛くもない腹を探られかねません。ゆえに、総務省本体から電波行政部門(旧郵政省部門)を外局として独立させ、電波行政を管轄させるです。現実に”停波”などの強権を発動することはなくても、少なくとも「抑止力」にはなります。では、いまの放送業界が設立したBPOはどうすんの!?となります。これは、民間のお手盛り団体なので、そのままでも構いませんw
放送法4条(平成22年改正前は同法3条の2)については椿事件などを契機に当時の郵政省が法規範説を公言するようになった1990年代頃から現在に至るまで同条違反を理由とする行政処分例はないようです。
少し古いですが、元経産官僚の岸博幸氏が下記で放送法4条問題を論じています。
https://diamond.jp/articles/-/89661
廃止された電波監理委員会のような独立行政委員会を設置し、現行法で総務大臣が有している放送及び電波の規制権限を付与することで政治的中立性を制度的に担保することは立法論としては在るべき行政組織論のように思います。2014年4月に当時の民主党等の野党が「通信・放送委員会設置法案」(この案では総務省ではなく内閣府の外局という形態になっています。)や電波法改正案(電波の有効利用を促進するため、無線局の免許手続としてオークション制を導入するとともに、現行の電波利用料制度を電波の経済的価値を反映した制度に見直す等の措置を講じようとするもの。)を提出したこともありましたが、審議未了で廃案になっています。
Gくんの試案のように総務省の外局としても独立行政委員会となると独自の規制権限を失うことになるので、総務省は、規制を受ける放送業界とともに反対すると思われることから、政治的には実現可能性は乏しいのかもしれません。
( 「電波法改正案、通信・放送委員会設置法案を衆院に提出」)
https://www.dpj.or.jp/article/104182/
https://jp.reuters.com/article/idJPL3N1R42UN
総務大臣経験のある菅首相が放送を巡る規制改革にどのような方針で臨むのか興味深いところですが、新型コロナウイルス感染症対策で余力が残っていない可能性はあり得ます。
s阪神大震災、東日本大震災やサリン事件、などの有事に日本の病院は、すばやくよく対応したのではないのだろうか。Covid19は、感染力の強い感染症で、人手がかかる、ということが、対応を難しくしているのであって、それは諸外国も同じだと思う。
有体に言えば、その外部に位置する他者の幸不幸は、どうなろうと知ったことではないという、生物種としては極めて健全な本能的行動に基づいて生きている。
だから、他者の不幸や窮状、不安や懊悩などに無関心でいられるし、何年でも平気で見殺しにすることもできる。「われわれは皆、他人の不幸を我慢して見ていられるほど、忍耐強いのである」(‘Nous avons tous assez de force pour supporter les maux d’autrui.’; La Rochefoucauld, Maximes 19)というのもまた真理なのである。
人間には善心、善意があるではないか、「惻隠の情」(「無惻隠之心。非人也。無羞惡之心。非人也」(『孟子』公孫丑上=「惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞惡の心無きは、人に非ざるなり」)も人間性の本性に根づいているという意見もあろう。
しかし、それはことさらに「性悪説」によらないでも、幻想でしかない。人は意識するとしないとにかかわらず、状況次第でいくらでも「人非人」になりうるからである。
だから孟子も「惻隠の情」を説く一方で、それが必ずしも人間性の本質を反映しておらず、無条件に期待できないところから、「羞惡の心無きは、人に非ざるなり」と添えることを忘れなかったのだろう。
「羞惡」(不正を愧じ、憎む)という、社会を前提とした人為的な心の動きをもち出したことでも、それは了解できる。
しかし、この世には、そうした人間自然の性向(ἡ φύσις ἀνθρώπων)に抗って、人間性の限界を突破できる稀な人物もいる。篠田さんが「英雄」(ἥρως)と讃えるべきは、そうした例外的存在だろう。
私はちょうど1カ月前、⇒【不断に迫る死の危険と隣り合わせで、生命と引き換えに追求したのは「国際協力」などというふやけた美名などではない】(11月25日・59)と書いた。きょう昼前、本を読みながら、聴くとはしに聴いていたNHK・Eテレのドキュメンタリー『中村哲の声がきこえる』で出くわした。中村氏の活動を現地で支えたWorkerと呼ばれる若者たちの証言で綴った記録だ。
国連が音頭取りをし、ざまざまなNGOが中心になって活動を展開する「国際援助」に中村氏は基本的に冷淡だ。別に否定するわけではないが、自分を同類と見てくれるなと、自分の活動に専心する。その原理がキリスト教徒としての信仰とは別の次元で、座右の銘として唱える「照一隅」という日本天台宗の開祖、最澄の教えだ。
それは、苛酷な状況下で、文字通り「片隅」に生きる人々に寄り添うことなのだろう。「国際協力」などという大上段に構えた気負いがない。テロの撲滅も、活動の行きつく先に自ずと訪れる余碌のような感覚で、拍子抜けするほど肩肘張ったところがない。活動に必要なのは、「虚心になること、素朴な心情と心意気」だという。
憲法9条による恒久平和の理想を素朴に説く人物であり、私はその活動に敬意を表しつつ、原理的に氏の平和思想に否定的だし、軽蔑していた。
人間としての器の大きさは、甚だ差し障りがある言い方だが、緒方貞子氏より遥かに上だろう。むろん、篠田さんは足元にも及ばない。緒方氏のように、「畳の上で」、最後の生を無事全うできるタイプの人間ではないことが、その最大の理由だ。
国際援助などという文脈で、自分の活動を語ってもらいたくなかったのは、明白だ。
「照一隅」にしたところで、
「それよりも自分の身の回り、出会った出来事の中で人として最善を尽くすことではないかというふうに思っております。今振り返ってつくづく思うことは、確かにあそこで困っている人がいて、なんとかしてあげたいなあということで始めたことが、次々と大きくなっていったわけですけれど、それを続けてきたことで人間が無くしても良いことは何なのか、人間として最後まで大事にしなくちゃいけないものは何なのか、ということについてヒントを得たような気がするわけです」『医者よ、信念はいらない まずは命を救え!』――と気負いも軽躁もない。
アフガンに死に場所を見出した人間の言葉なのだろう。自分の生命より大事なものを見出した人間は幸いという逆説だ。世俗の論理は太刀打ちできない。
翻ってここ最近、篠田さんの人間としての卑小さが嫌でも鼻につき、聊か憂鬱だ。これほど幻滅させられるとは予想外だった。中村氏の偉大さを見誤ったのは自らの不明として甘んじて受けるとして、篠田さんの場合は、ただの買い被りにしろ、後味が悪い。
そうした人物を、如何に追従とはいえ、173⇒【こういう人こそが日本の指導者になってほしいと常日頃かんがえ】とかいう、世間知らずがいる。メディアへの敵愾心とこの阿諛は、大方表裏一体なのだろう。[完]
☆余白に 「通りすがり」殿
アニメは、『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』その他、宮崎駿作品以外はとんと無知で、『鬼滅の刃』は先月初めて知りました。昔見た萩尾望都(光瀬龍原作)『百億の昼と千億の夜』は、コミックとしては秀逸だと思います。気遣い無用です。
「マスコミの寵児となってしまった岸博幸氏、いくら元経済産業省官僚であるとしても、中立性を期待できるのか、と思った。」→公務員を退職した以上、政治的中立性は期待されていません。
「マスコミによって元官僚が中立であるかのような印象操作がされているが、やめた、ということは反なのであって、それは元経産官僚の古賀氏をみていてもわかるのではないのだろうか。」→元官僚は古賀氏だけではありませんし、古賀氏のような立場は元官僚でも少数派と思われます。
「竹中氏のメデイア戦略の一翼を担っておられるのではないのだろうか。」→根拠が不明です。
「岸田政調会長は、総裁選の時メデイアに厚遇されなかったが、公共の福祉とは、中立性とはなにをさすのか、ということが重要なのである。」→岸田氏の政治的能力かつ発信力の不足にすぎず、メディアの責任ではありません。
「Covid19は、感染力の強い感染症で、人手がかかる、ということが、対応を難しくしているのであって、それは諸外国も同じだと思う。」→対応が難しいことを前提に、諸外国に比較して日本の医療体制が脆弱という議論をしているので、カロリーネ氏の議論は相変わらず頓珍漢です。
169⇒【「日本モデル」を歪曲したのが西浦博教授、東京都小池知事と日本のマスコミなのである…ということがどうしてわからないのだろう】――篠田さんのこじつけに等しい議論、「日本モデル」(または「押谷モデル」)≠「西浦モデル」なる虚偽の概念設定、実態を反映していない二項対立図式に誑かされることのない人間は、誰も偏執狂の老婆のようには考えない。
それにしても、169②⇒【会社で英独日が飛び交っていた環境にいた私の】低能ぶりは、目も当てられない水準だ。阿呆は口から出まかせで、何でも口にする。169③⇒【ヒアリングが得意なのでは】云々なる、篠田さんへの度を越したおべっかも滑稽だ。
ところで、東京都の新型コロナ対策の基本は、国、というか手法の理論的サポートの点では、基本的に旧専門家会議、現対策分科会の論理立てと基本的には変わらない。双方の専門家間に、感染対策の基本的な考え方、その具体的な実施メニューに際立った違いはなく、驚くほどの共通性がある。
実際、都の対策に大きな影響力を及ぼしている感染症の専門家や医療関係者と、政府の対策に助言する専門家の間で、対策や個々の実施法をめぐる論争らしいものも存在しない。言っていることは、双方でほとんど差はなく、共通である。
違いがあるとすれば、国民または都民へのメッセージの出し方、リスクコミュニケーションの頻度や巧拙、危機的な事態における指導者のリーダーシップの見え方くらいだろう。
この点で、安倍晋三前首相や菅義偉首相より、小池百合子知事の方が、いずれが適切かは措いて、小池氏の方がより発信力があると受け止められていることは事実だろう。
だから、今年の流行語大賞=「三密」でスポットライトを浴びたのは小池氏だったのは、充分理由がある。
しかし、後づけの論理でいくら批判したところで、旧専門家会議の実質的な責任者たちもそれを事実上容認せざるを得なかったことが実態であり、西浦氏に別の理論的根拠を突きつけて制止したり、反論できる理論的知見を有した人物は、旧専門家会議をはじめ、政策への影響力を有するか、期待される、感染症やウイルス学・免疫学など周辺分野の専門家に見当たらなかったことが、遺憾ながら日本の現実ではなかったか。
そうしたなかで、現象の表面的推移にしか関心を示さない、数理解析モデルへの基本的理解を含め科学的知見などほとんどないに等しい篠田さんのような、憐むべき素人論議も跳梁跋扈することになる。あろうことか、それを飛び越えて、実質的に存在しない「イデオロギー論争」を喋喋して、にわかコロナ批評に淫する。
日本も例外ではあり得ない感染拡大がいよいよ深刻な現実問題化し、元々理論的な精錬など何もない「日本モデル」の失墜、控え目に言えば雲行きが怪しくなると、端から「科学的知見」などなかったことを言い訳にして逃げを打つ。その対象が、当面は当たり外れが容易には見極められない「ファクターX」だったりする。その言辞は、驚くほど軽率にして軽薄だ。
そして、批判の矢面に立ったのは、ほとんど西浦氏一人だけだ。西浦氏がそれでよしとして潔いから、陰では西浦氏を支えたらしい尾身茂氏や押谷仁氏を批判しても仕方がないが、如何にも日本的風景で感心しない。
篠田さんも老婆も、所詮は無知な素人の空騒ぎだから、毒にも薬にもならない点で罪がないのかもしれない。
老婆の問い掛けが愚劣なのは、それでは目下感染拡大の勢いが容易に下火にならないどころか拡大傾向に減衰の見通しがつかない東京都と、日本の他の地域との間で、政策判断の決定的な適否が問われるような、有意な数値の違いが存在するか、ということだ。
篠田さんも、その尻馬に乗って老婆も、感染規模も犠牲者も日本の十数倍から数十倍に上る欧米諸国と比べた日本の「成果」の比較優位性を「現実を見よ」と説く。
ならば、「日本モデル」ではなく「西浦モデル」に拘泥した(その事実は実際にはない)とされる東京都と他の地域間で、欧米と日本の間のような際立った違いが確認できるかと言えば、ほとんど存在しない。
つまり、見当違いな理由で老婆が東京都の対策を批判しても、実態は東京都もそれなりに感染を抑止しているのだ。メディアの連日の報道を「煽り系」と批判するが、東京に1日の新規感染者は最高が949人と、日下部翁的な措辞なら、高が1,000人にも達しないではないか。目立った死者数増加もない。民衆は、当局の呼び掛けなど、話半分に聞いている。
つまり、党派心剥き出しで小池都知事を糾弾する老婆が問題視する対策が、結果だけを大局的にみるなら、けっして失敗と言えるような惨憺たる水準ではない。「高級誌」らしいSpiegelに数等劣るらしい日本メディアの実害も、政府や都の足を引っ張る形では、感染拡大に何ら顕著に「貢献していない」。それが、冷静に考えるなら、現実だ。
現実というものは、元々多様な側面があるうえ、刻一刻と変動する。自分に都合がよく映る途中経過の現象の一端、畢竟「仮象」をもって先走りした判断をすることを軽率という。
愚劣な素人論議は、ほどほどにしたらよい。外にすることが、山ほどあるだろう。[完]
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
と規定されているのであって、それは、普通の教育を受けた日本人の読解力で判断すべきなのである。東京大学法科大学院の教授の理解が深いわけではない。政府解釈氏のような立場をとるから、東大系の憲法学者の日本国憲法9条解釈が、正論のようになったり、天皇機関説が排斥されたりするのである。
岸博之氏が中立でないのならなおのこと、岸博幸氏の主張を妄信するのではなくて、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすべきだし、公平さを期すべきだし、事実をまげない必要がある。
旧会社員の方も主張されているが、日本のマスコミ報道が「反日本政府」、具体的には、「左翼」や「トランプ型の」右翼のイデオロギーに曇らされた結果、放送法4条に則った報道ができていないことが問題なのである。マスコミ関係者が「中立を装って」ある特定の集団のメデイア戦略の片棒を担いでいる。
また、竹中平蔵氏と岸博之氏との関係について、根拠があいまいな主張、という批判であるが、マスコミ報道はそれをしていないのだろうか?自民党幹部の情報、取材で取ってきた、ということは、要するにそういう意味で、その為に、どれだけの夜討ち朝駆けをマスコミ記者たちがしているか。また、その情報源を秘匿するのも、ジャーナリストのマナーなのである。楠山義太郎さんは、最後まで、リットン調査団のスクープの取材源を明かされなかったが、だからといって、それが根拠のあいまいな報道、という形容はあたらない。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/3%E5%AF%86-%E8%80%83%E3%81%88%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%AF%E5%B0%8F%E6%B1%A0%E7%99%BE%E5%90%88%E5%AD%90%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F-%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A-%E9%83%BD%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E3%81%AE-%E5%85%B1%E7%8A%AF%E8%80%85-%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B/ar-BB1cg97N?ocid=msedgntp
私もほんとうにこの主張とおりだと思う。どうしてコロナ問題で、地道な政策を遂行しておられる和歌山県に仁坂知事や、分科会の尾身・押谷教授に脚光があたらないのか?
メデイア戦略の上手な人が、有能な政治家のような印象ができあがってしまうのか?
本当に日本のマスコミは、「公共の福祉」に責任をもたず、視聴率目当ての言論や表現の自由だけ、主張していていいのだろうか?その極端なモデルが米国のトランプ政権の政治なのではないのだろうか。https://www.spiegel.de/politik/ausland/donald-trump-und-corona-ein-extremes-jahr-in-den-usa-a-62626ae2-bdf1-45f0-b775-ed00a394ad49
同じく参考、(ドナルドトランプとコロナ、アメリカの極端な一年)
中村氏が篠田さんとは異なり、人間としての器、つまり「人柄としての器量」(ἡ ἠθικὴ ἀρετή)が遙かに大きな人物であることは、おべっか使いの老婆以外は、自ずと明らかだろう。篠田さん自身が一番よく自覚しているはずだ。
それを、199⇒【反氏が…篠田さんは足元にも及ばない…と傲慢に主張…なぜ、反氏自身が中村哲氏のような生き方を選ばないのだろう?】というような受け止め方しかできないナイーヴな粗忽者を、世間知らずの道化者(βωμολόχος)、単細胞(ἁπλοῦς)という。
いい歳をして、その程度の分別(σύνεσις=vijiñāna)もないから、お子様という。
それは、自分の手の手が届かないものに何にでも非を鳴らし、自分が何も知らない(οὐκ οἶδα μηδέν)ことに無闇に嘴を突っ込みたがるお子様の心性だ。
「あまりにも軽佻浮薄で、堅実な長所はもちろん、真の欠点さえ到底持てないような人がいる」(‘Il y a des personnes si légères et si frivoles, qu’elles sont aussi éloignées d’avoir de véritables défauts que des qualités solides.’; La Rochefoucauld, Maximes 498)という。
やれ、A. シュヴァイツァーがどうのこうのとかいうミーハー、間違いとごまかしだらけで総すかんに遭い、自分の頭の蠅も追えないで、77⇒【いじめに負けない、態度が必要…老婆カロリーネのように】が示すように、身から出たさびにもかかわらず、「いじめ」(ἡ αἰκία)云々と繰り言、怨みごとを繰り返す程度の阿呆に、八つ当たりで、200⇒【海外ボランテイアもせず】でもあるまい。
‘Il y a plus de défauts dans l’humeur que dans l’esprit.’; La Rochefoucauld; Maximes 290.
‘Les vieillards aiment à donner de bons préceptes, pour se consoler de n’être plus en état de donner de mauvais exemples.’; La Rochefoucauld, Maximes 93.(「年寄りは悪い手本を人に見せることができなくなったのを自ら慰めるため(腹いせに)、結構な教訓を垂れたがる」)という。ドイツ語と異なり、フランス語は洗練を極める。
Carova-20に汚染されるので、チェーホフの名文(『たいくつな話』)を仏訳で添える。
‘Elle se lève et, avec un sourire glacé, sans me regarder, me tend la main. Je voudrais lui demander: «Alors, tu ne seras pas à mon enterrement ? » Mais elle ne me regarde pas, sa main est froide, comme morte. Je l’accompagne à la porte, sans rien dire … La voirà hors de ma chambre, elle suit le long couloir, sans se retouner. Elle sait que je l’accompagne des yeux et se retournera sans doute à l’angle.
Non, elle ne s’est pas retournée. Sa robe noire m’est apparue une dernière fois, ses pas se sont évanouis … Adieu, mon incomparable ! ’; Une banale histoire, traduction par É. Parayre, Anton Tchékhov, Œuvres II, Bibliotèque de la Pléiade, 1970, p. 739.
「彼女は立ちあがって、ひややかな微笑をうかべ、私のほうを見ないようにしながら、手をさし出す。私は『じゃあ、私の葬式には来てくれないんだね?』とたずねようと思ったが、彼女はわきのほうを向いたままだ。彼女の手はひやりとつめたく、まるで見も知らぬ他人の手のようだ。私はだまって彼女をドアのところまで送って行く……やがて彼女はへやを出て、ふりむきもせず、長い廊下を歩いて行く。私があとを見送っていることは彼女にもわかっている。たぶん曲がり角まで行ったらこちらをふり返るだろう。
いや、彼女はふり返らなかった。黒い服がちらりとひらめいたのが最後の見納めで、やがて足音もしだいに消えた……さようなら。私のたからよ!」(木村彰一訳)
フランス文化や言葉は洗練されている、とプロイセンがフランスのお雇い教師を雇い入れたころである。彼はイギリスのシェークスピアの演劇を評価したのである。また、彼はフライブルグの大学留学中に、ここはフランスと国境が近いが。ヘルダーと知り合い、ドイツ民衆のためにドイツ語で詩や小説を書く、大切さに気付き、のちに、ドイツ語で詩や小説を書くことを一生の仕事にすることに決めたのである。ラテン語、イタリア語やフランス語に堪能であったにのかかわらずである。そのおかげで、ドイツ文学は世界文学の一つになった。また、ゲーテのようなドイツ人がいたから、明治維新後の日本は、日本文化を大切にし、日本語が英語に置き換えられなかったのではないのだろうか。反氏は、その出来事の持つ意味、民族文化の大切さ、がまるでわかっておられない。日本語、日本文化のよさ、をなくしてしまうと、日本ではなくなってしまう。そのことを学生時代に欧米に留学して学んだ。
早朝だから、CDを思い切りかけるわけにもいかず、テレビは一足早いおせち番組のように、どれも似たようなものばかりなので、退屈です。そこで、このブログを時折のぞきます。
相変わらず、カロリーネさん、大暴れですね。最近はGくんさんにまで絡んだりして。わがままに育ったんでしょう。小池百合子さんを盛んに批判していますが、「女王様気取り」はカロリーネさんも同じじゃないですか。
202で「机上の空論」とか言って、政府解釈さんに突っかかっています。どうせ、かなうはずないのに。まるで大人と子供のやり取り。政府解釈さんて、クールなところがいいのよね。うちの主人と少し似ている。余計なこと、おべんちゃらを言わないことも。少し地味だけど、安定感がある。自分をよく知っているのね、きっと。
法律的には、複雑な、素人には錯綜していて難しいことを、厳密に、几帳面ていうのかな、そんなふうに議論することは、「机上の空論」でも何でもないと思うけど。政府解釈さんの目には、おしゃべりなお婆ちゃんの議論は、穴だらけ、ザルで水をすくうような感じじゃないかしら。
反時流的古典学徒さんて、時々ドキッとするような怖いことを書かれます。元新聞記者だから、世の中のヤミのようなこともきっとご存じなのかも。チェーホフって、『桜の園』『三人姉妹』とか、お芝居は好きです。短編小説もたくさんありますね。
フランス語は少ししかわからないけど、素敵な文章。最後の「mon incomparable !」なんて、私も言われてみたいわ。うちの主人には期待できないけれど。きっと、お亡くなりになった奥さまのことと重ねていらしゃるのでしょうね。ごちそうさまでした。 かしこ
村上氏は「こんな混乱ですから、人が間違ってしまうのは当然のこと。ならば、「アベノマスクなんて配ったのはばかげたことでした」「Go Toを今やるのは間違っていました」ときちんと言葉で認めればよいのです」とし、「それなのに多くの政治家は、間違いを認めずに言い逃れするじゃないですか。だから余計に政治に対する不信が広がっていくのです」と一撃を加えた、とあるが、本当にアベノマスク配布、Go toをしたことが間違っていたのだろうか?そういう印象をテレビのワイドショーが、PCR検査の量を増やすことが至上命題のように、一日中報道することによって作っただけなのであって、あの布製のマスクを便利だ、と使用した人も現に私の周りにいるし、Go toによって、旅行業界、飲食店は随分助かったのが現実の姿なのである。桟敷席などというコメントを付け加え、あたかも大多数がそう思っている印象づくりをする方がおられるのと同じように。私は戦前そのままの家父長制の大家族で育ったので、祖父が一番偉く、子供の位置づけは一番下、わがまま放題などということは許されなかった。
常識的に考えて、政府幹部、キャリア官僚、企業の幹部、医師、弁護士、下々では企業の役員秘書や、法律事務所の事務員の方が、世の中の闇を知っている。企業秘密、の書かれた文章をタイプしたり、整理したり、するのだから。もちろん、職業上、その守秘義務もある。
日経新聞が
❝死亡1万4000人減 国内1~10月 コロナ対策影響❞ と伝えている。
❝新型コロナウイルス対策で他の感染症の死亡が激減した影響とみられるが、新型コロナの死亡数は抑制できていない。専門家は「さらなる警戒が必要だ」と強調する。❞
日経も単なる新聞に過ぎない。民衆を❝煽る❞以外の紙調を知らないらしい。
インフルエンザの激減ももちろんだが、それ以上に肺炎、心疾患、脳血管疾患の減少ははなはだしい。
こんな数字を、わたしが見るとすぐ、❝減った分の死者数はどこへ行ったの?❞と疑問がわくのですが、感染症専門家だけでなく、新聞記者たちも本当に減ったと信じ込んでいるようだ。
どうも、わたしの頭は歪んでいるらしい。
何のことはない、かねてから指摘していたように❝コロナのsweep away 現象❞なのだろうと考えている。減った死亡者数の幾分かは、かなりの部分かもしれないが、コロナ死亡で処理されているのかもしれない。
すると、ますます❝コロナ恐怖煽り❞のバカバカしさと、❝専門家❞という頭脳の❝虚妄❞さを思い知らされる一年であった。
代償とした、日本社会の社会文化経済活動の沈没は大きすぎる。
陰鬱な冬の福岡の空模様におもえない快晴だ❢
はればれと散策できるのも今日が最後かもしれない。
208⇒【フライブルグの大学留学中に…フランスと国境が近い…ヘルダーと知り合い】は、フライブルク・アン・ブライスガウ(Freiburg im Breisgau)ではなく、現在はフランス領アルザス地方のシュトラスブルク(Straßburg→Strasbourg)だろう。A. シュヴァイツァーが教鞭を執ったことでもよく知られる。
ゲーテとヘルダーの出会いはドイツ文学史上、著名な出来事で、ゲーテを語る者は普通は取り違えたりはしない。特に、ひっきりなしにゲーテ、ゲーテと喋喋する人間は。Goethe Institutが泣くというものだ。しかも「フライブルク」で、[Freiburg]は濁らない。
フライブルクは南ドイツのカトリック文化圏で、【フランスと国境が近い】には違いないが、シュトラスブルクとは違ってライン川右岸。200キロ以上東に離れているとはいえ同じ南独、ミュンヒェン大学に留学していた割には歴史も地理感覚も乏しいようだ。
208②⇒【ゲーテのようなドイツ人がいたから、明治維新後の日本は…日本語が英語に置き換えられなかったのでは】は全く意味不明な主張。戦後に、日本語を廃してフランス語に(志賀直哉)とか、ローマ字論者も現われたが、明治期に英語云々の史実はない。
207⇒【ファウスト…一生をかけて…大山定一…が日本語に翻訳】――大山(1904~74)が『ファウスト』の翻訳を上梓するのは1960年6月で死去の14年前。とても「一生をかけて」翻訳したとは言えない。
一生かけたのは、第一部を1806年に完成した後、第二部に26年を要し、死の前年の1832年に82歳で完成させたゲーテ自身だろう。
他にもいろいろあるが、救いようがない。
とにかく、自分の学歴を鼻にかけて、独善的な憶測による断定をし、他人におかしなレッテルをはるのをやめていただきたい。それが、「三流蓑田胸喜」をはじめとするマスコミ知識人の悪癖である。
(参考 ゲーテ詩集、大山定一訳、株式会社新潮社 1975年)
聊か悪趣味だし、赤子の手を捻るも同然の「精神の幼児」相手に大人げないが、退屈しのぎにはなる。
214⇒【反氏お得意の、ささいなケアレスミスをつついて、全体の論理構成を崩そうとする策謀】――間違える方が悪いのだろう。「莫迦らしい」とは思いつつ、いい気になって、未明から見当違いな莫迦話に夢中になっているから、指摘したまでだ。
それにしても、「策謀」(ἐπιβουλη)とは、如何にも誇大妄想(Grössenwahn)、被害妄想(Beeinträchtigswahn)、迫害妄想(Verfolgungswahn)の「三位一体」ならぬ「三莫迦」の狂信家らしい大袈裟な物言いだ。
「三莫迦」は「産婆か」とも読める。老婆が、その本質を一向に理解できないソクラテスの産婆術(μαιευτική)になぞらえれば、私は老婆の誤謬を指摘することで、真理とは言えないまでも、少なくとも迷蒙から解放し(λύσω)、真理に近づけるきっかけを与えたことになる。感謝されてもよいくらいだ。
しかし、阿呆ほど饒舌とは言うが、すぐ錯乱する。蜘蛛の巣だらけのお頭に妄執が渦巻いていることはよく分かる。無学なうえに、思い込みが激しい人物だから、軽信も避けられない。真っ当な議論を可能にする基礎的な素養も欠いており、何と言っても怠惰で横着者だ。
しかも、⇒【コピペをしないと、正確な、万人にわかりやすい文章が書けない】(9月11日・207)病気のもち主だ。道理で、何度試しても田中美知太郎『ソクラテス』から、ただ一度も間違えずに引用できた試しがない。
さらに悪あがきして、この期に及んで、事実誤認がばれないと心得違いして、笑止にも居直っている。
その都度思いついたことを直情径行的に書き散らして、しかも「幼児性強弁」が持ち味だから、相手を選ばず誰にでも敵愾心剥き出しで喰ってかかる。「論理構成」から最も遠い心性だ。
今朝も、正月準備に忙しい女性の投稿があった。特段目くじらを立てるほどのこともない常識的な内容の議論に執拗に難癖をつける。相手はそうした老婆のような狂信家を相手にするはずもない。女性特有の正義感のようなもので、老婆が独力では全く歯が立たず、有効な反論ができない政府解釈氏の至極もっともな主張を「机上の空論」と難癖にもならない、莫迦の一つ覚えのような陳腐な措辞でごまかせると高を括っている子供じみた作法を憐れんだのだろう。
214②⇒【それ以外は事実】は、→【それ以外も間違い(ただし、私の中では事実)】の間違いだろう。
齢70近い老婆は、京大を1968年3月に定年退官した後、関西学院大で教えた大山の教え子に当たる。同大での学生生活は1970年代前半と推定されるから、74年7月1日に死んだ大山の最晩年に当たる。一方、『ファウスト』の訳が上梓されたのは60年6月10日だ(『世界文學大系』第19巻「ゲーテ」所収)。「一生をかけて」にならないことは明白だ。214③⇒【ゲーテのお仕事の中でまず第一位…は、「ファウスト」の翻訳】という前田敬作の解説は、その理由にはならない。
一方、大山は京大退官後は、ほとんど文章を発表していない。老婆が挙げる死後出版の『ゲーテ詩集』(75年2月25日)は、67年に「世界詩人全集」(新潮社)の一冊として上梓された『ゲーテ詩集』に未発表の49篇を加えた遺著だ。「一生をかけて」と言うなら、最も早い訳は昭和10年代に遡るこちらの方が相応しい。
老婆は錯覚に生きている。それくらい、208は誤謬とごまかし、不当立論の宝庫で、阿呆が咆哮している。
そこでも田中美知太郎『ソクラテス』の場合と全く同じで、老婆以外では考えられない杜撰さだ。出来損ないである所以だ。
214④⇒【自分の学歴を鼻にかけて、独善的な憶測による断定をし、他人におかしなレッテル】には当たらないことは明白だ。僻みも凄まじい。よって、Q. E. D.
クズのような人物を相手にすると莫迦が移るので、最後に大山『ファウスト』の一節(『筑摩世界文學大系』第24巻、281頁、『ゲーテ詩集』239~40頁)を添える。
「おれは見るために生れてきた。/見ることがおれの職分だ。/塔の上からみると、/世界はおれの気に入った。/おれは遠くを見る。/おれはまた、近くを見る。/月や星を。/森や小鹿を。/自然はすべて/神の永遠の装飾だ。/世界はおれの気に入ったが/おれもおれの気に入った。/幸福な二つの目よ、/おまえの見たものは、/何が何であろうと/さすがにみんなうつくしかった。/(間)しかし、高い望楼の上にいると、/たのしいことばかりとは限らない。/暗黒の世界から、何という気味のわるい/恐怖が襲ってくるのだろう。」
„(Lynkeus der Türmer auf der Schloßwarte, singend): / ‘Zum Sehen geboren, / Zum Schauen bestellt, / Dem Turme geschworen / Gefällt mir die Welt. / Ich blick’ in die Ferne, / Ich seh’ in der Näh’, / Den Mond und die Sterne / Den Wald und das Reh. / So seh’ ich in allen / Die ewige Zier, / Und wie mir’s gefallen / Gefall’ ich auch mir. / Ihr glücklichen Augen / Was je ihr gesehn, / Es sei wie es wolle / Es war doch so schön!/(Pause)Nicht allein mich zu ergetzen / Bin ich hier so hoch gestellt; / Welch ein greuliches Entsetzen / Droht mir aus der finstern Welt !“; Faust: Der Tragödie zeiter Teil, Z. 11288~11307=J. W. von Goethe Werke Hamburger Ausgabe in 14 Bänden.; Band. 3, 16., Aufl., hrsg. von Erich Trunz, 1996, S. 57.[完]
長崎大学の北潔先生のチームが 5-ALA 天然アミノ酸が抗コロナ薬として有望で、臨床試験が始まっているそうだ。
もし、本当なら感激だ❢❢
期待して、朗報を待とう。
聊か悪趣味だし、赤子の手を捻るも同然の「精神の幼児」相手に大人げないが、退屈しのぎにはなる、という主張が、悪質なマスコミ知識人の典型的なものである。内容に対する批判ではなく、人格攻撃をする、こういう人格だから、その人の主張を真剣に取り上げる必要はない。篠田英朗教授の三流蓑田胸喜、の命名にもその意図がある。わずか158字の短い文章にもかかわらず、誤記、脱落が8箇所もある。誤記がある、ということは、主張が間違っている、ということを意味しない。前田敬作教授は大山定一教授の「遺稿」について書かれている。それによると、京大を退官してから大山教授は文章の類を発表されなかったが、一人で酒をくみ、詩をひもといておられた、そうだ。その翻訳されたノートを亡くなる前前田敬作氏に渡された。その詩は、1973年から74年の日付、そこには、ゲーテの49篇のほかに、ヘルダーリーンとアイヒェンドルフドルフのものが含まれていた、そうである。ちょうど私が、授業を取っていたころだ。そして、私の実年齢も、大山定一教授が翻訳された年齢に近づいているが、大山教授が、終生ゲーテを愛されたこと、その翻訳をライフワークになさったことは紛れもない事実で、反氏の主張、カロリーネが無学なうえに、思い込みが激しい人物、蜘蛛の巣だらけのお頭に妄執が渦巻いているという形容は全くあたらない。そういう雑音が読者の理解を混乱させている。
少なくとも、これ以上、政治家や専門家が、マスコミを通じて、自分が目立つ為に行う、無意味で浅薄な日本政府批判、「本来の日本モデル」の立役者、尾身ー押谷の批判をして、日本国内にCovid19の感染を拡大させる片棒を担ぐことだけは、マスコミの方々にやめていただきたいと、心から願っている。
ソクラテスの「産婆術」の意味も、反氏と私の解釈のどちらが正しいか、二人の主張(誤記や脱落の量で判断するのではなくて、中身で)をよく読んで、判断していただきたい。これは、人生観にもかかわることだし、その真偽を判断することは、きっと読者の為になると思う。
要するに、その人の主張している内容の真偽を、その人の肩書や学歴で判断してはいけない、真実は自分でみつけなさい、自分の体験や判断力を信じなさい、という現代にも通用する教訓を、このソクラテスの言葉は含んでいるのである。
それを「虚偽体質」(ψεύστης φυσικός)というのだし、そうした自己認識を欠くが故に愚鈍にして狂信家、笑止な言い訳を重ねれば重ねるほど自分で自分の首を絞めるだけだから、それを称して阿呆という。
そもそも事実誤認と莫迦話満載の206で老婆は、
⇒【ゲーテは…ファウストを書き…一生をかけて京都大学の大山定一教授が日本語に翻訳】と書いた。普通に読めば、大山が⇒《『ファウスト』の翻訳に一生=生涯を費やした》ということだろう。
しかるにごまかすことに躍起になっているから、
220⇒【大山教授が、終生ゲーテを愛されたこと、その翻訳をライフワークになさったことは紛れもない事実】とするばかりで、そこに終世をかけた『ファウスト』翻訳について、一言もない。
それでは何の反論にもならないことは明らかで、『ファウスト』翻訳が「ライフワーク」ではないうえに、論点を移動させることで二重のごまかしを行っている。だから、老婆が、220②⇒【無学なうえに、思い込みが激しい人物、蜘蛛の巣だらけのお頭に妄執が渦巻いている】ということになる。よって、Q.E.D. (証明終わり)
滑稽なのは、220は冒頭から私の216のコピペ(【偏執狂の阿呆が浅ましく吠え…退屈しのぎにはなる】の132字分)で始める悪癖で、216~218の議論は、220③⇒【内容に対する批判ではなく、人格攻撃】には当たらず、個々の事実を老婆が提示した大山の遺著『ゲーテ詩集』に即して具体的に論じている。
そもそも、【一生をかけて】とは、⇒《①生涯の大半、またはそれに匹敵する長期間を費やした、所謂ライフワーク、若しくは、本来の意味からずれるが②完成に晩年までかけて》という意味だろう。大山の『ファウスト』翻訳はそれには当たらないことを、反論の余地がないほど明確に論じている。
大山が終世にわたってゲーテに関心があったことは事実だが、大山の死の14年前に上梓された『ファウスト』翻訳は、大山がゲーテ研究の集大成として【一生をかけて】仕上げた仕事ではないのは、火を見るより明らかだからだ。
従って、間違いを犯す一因は、老婆が⇒《無学なうえに、思い込みが激しい人物、蜘蛛の巣だらけのお頭に妄執が渦巻いている》ことも明らかだ。よって、Q.E.D.
阿呆と生まれつきの「嘘つき」につける薬はない、ということだ。
224⇒【ソクラテスの「産婆術」の意味…反氏と私の解釈のどちらが正しい】――愚問もいいところで、老婆の誤りに決まっており、既に論証済みだ。もっとも、「老婆の解釈」ではなく、「TANTAN」説の剽窃による事実誤認。そもそも、老婆は「産婆術」をソクラテス(実際はプラトン)がどこで論じているかさえ知らない。知らないから、解釈以前の問題だ。
それにしても、コピペ抜きだと金魚の糞のようなクズ投稿の連発だ。「人生観」とは、老婆の場合、手前味噌の真理(αὐτάρκής ἀλήθεια)=狂信(αύθάδη)を意味するようだ。
私は愚劣にも老婆が反論の材料になると思って挙げている大山の遺著『ゲーテ詩集』を所持しており、前田敬作の解説に基づいて老婆の事実認識を、老婆が挙げていない当該箇所の頁数まで示して個別具体的に論じている。
それが間違いだらけの老婆に対する、【内容に対する批判ではなく、人格攻撃】だったら、普通はそこまでしない。むしろ、具体的に反論ができず、相手の主張を、220③⇒【悪質なマスコミ知識人の典型】と矮小化するしか能がない老婆こそ、《内容批判ではなく、恣意的な論点ずらし》たる所以だ。
しかも、わずか158字の短い文章の引用に誤記、脱落が多いこと「のみ」をもって、老婆の220④⇒【主張が間違っている】理由にはしていない。阿呆だから、議論以前の基本がなっていないことの「傍証」として挙げた。
224②⇒【誤記や脱落の量で判断するのではなくて、中身で】のようなごまかしの常套句は、悲惨な実態を見れば通用しない。
ことほど左様に、老婆の議論は内容も形式(論理構成と論証の素材)も間違いだらけで論外ということだ。
☆余白に なお、大山定一訳『ゲーテ詩集』に収められた前田敬作の解説のうち、老婆が引用した部分(355頁)は、正確には、脱落している中略の箇所の表示(……)を含め、以下の通り。人間性は粗雑で凶暴、お頭は驢馬並みを典型的に示す。
「大山先生をリルケ一辺倒の人だとおもっている人もあるようだが、先生は、若いときからずっとゲーテひとすじの道を歩いてこられた。リルケは、先生にとって、ゲーテをよりよく理解するための、あるいは、ふたたびゲーテへ帰るための必要な寄り道であった。……ゲーテにかんするお仕事のなかでまず第一位に挙げなくてはならないのは、『ファウスト』の翻訳であろう」
Gが68(電波監理の変遷~BPOができるまで)と188で触れた(仮称)電波監理委員会(総務省の外局)の件です。問題点は、この質問と政府の回答に集約されています→(68最後で提示した)放送法第四条第一項に関する諸問題に関する質問主意書http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a190133.htm 放送法第4条の公平性をだれが判定するの!?など。総務省(その族議員!?)などの反対で、政治的に実現は難しいと政府解釈さんなどがご指摘です。それはあるでしょうね。政治的背景が熟すれば、小泉首相の郵政民営化のように、劇的に実現するかも知れません。
繰り返しになりますが、現在は総務大臣(総務省内部部局)の権限ですが、逆にそれゆえ、政権が自己のために行使した!とされ権限を行使しにくい状況にあります。宝刀が抜けない状況になっています。実現すれば総務省本体としてはその権限は減りますが、電波行政全体から見れば権限が行使しやすくなります。少なくとも「抑止力」にはなりうると思います。
年末正月になりました。Gも帰省します。帰省先から投稿できましたら投稿します。篠田教授、(先任順に)カロリーネさん、旧会社員さん、反時流的古典学徒さん、 rinkさん、けんさん、 函南子さん、通りすがりの老人さん、日下部眞一さん(漏れがあればお許しを)その他読者のみなさま、よいお正月をお迎えください。
羽田立憲民主党参議院幹事長が亡くなって、大変だ、とまたマスコミが日本国民の恐怖を煽っている。1月に入れば、入院・手術が待っている私にとって正月以降の医療体制が大変気になるところであるが、羽田さんは基礎疾患をもっておられ、高齢者と重症リスクは変わらないのである。マスコミが、若くても重症化するという印象操作をするから不安が増すのであって、問題は、感染者と濃厚接触をしていた基礎疾患をもった男性が医療機関につながれなかった、ということなのである。要するにCOCOAがあれば、そして、基礎疾患のあるCovid19感染者の濃厚接触者が例えばオリンピック施設に隔離され、専門のスタッフとつながっていられれば、このような事態は回避できたかもしれない。逆にみんなが不調だから、と開業医に押し掛ければ、感染者からのCovidウィルスの感染リスクが高まり、重症者も増え、医療破壊につながるのである。私はそちらの方を心配する。
とにかくマスコミは不安を煽る報道して、日本国民にパニックを起こさせ、Covid19の感染爆発をさせるのをともかくをやめていただきたい。
コメント214に書いたように、大山先生はリルケ一辺倒の人だとおもっている人もあるようだが、先生は若いときからずっとゲーテひとすじの道を歩いてこられた。リルケは、先生にとって、ゲーテをよりよく理解するための、あるいは、ふたたびゲーテへ帰るための必要な寄り道だった、と前田教授は書かれている。ゲーテをギヨエテと笑い話にするぐらいしか知識のない人も多いのかもしれないが、ゲーテのファウストは、口語体ではなくて、韻文、詩の体裁で書かれている。その体裁を自分のものにするために、大山先生は、ドイツ語のゲーテの詩を日本語に訳され、吉川幸次郎さん(中国の詩人、杜甫の権威)たちとの詩の会に参加され、リルケという回り道をして、準備万端整えられてから、ファウストの翻訳を完成させられた。それも、自分の詩の翻訳力を向上させるためである。この仕事の仕方をみて、ライフワーク、と呼ばずにどういう仕事の仕方をライフワークと定義するのだろう。
帰省なさるのですね。うちは四代前からの東京っ子なので帰省した経験がありませんが、今年はきっとゆっくり旅できるのではないでしょうか。一年間の労働と思考、ご苦労さまでした。ゆっくりお休みください。篠田コメ欄でいちばん健全なのはあなたかもしれません。みんなに安らぎを与えてくれます。ありがとう。
医療体制の問題については(問題の本質部分において)少し見解が相違するところもありますが、緊急時における医療のあり方を早急に検討しなければならないということでは、貴方と問題意識を共有しているつもりです。
私がこのコメント欄に出入りするようになったのは4月中旬以降のことですが、Gくんに教えていただいたことも多かったです。
よいお年をお迎えください。ただし、帰省でハメを外しての飲酒を伴う多人数での食事には、十分に注意してくださいね。
当方は、老父の病状がいよいよ悪化してきて、いえ所詮は「老人」の父親ですのでいわゆる「大往生」の部類なのですが、それでもやはり気掛かりなことには違いなく、やや陰鬱な年末年始になりそうです。
新年には、また、ほんわかとした、どことなく微笑みをもたらしてくださるようなGくんのコメントを期待してます。
追記:コメント228では「政府解釈」さんが抜けているようですよ
コメント229にプロが間違うから、コロナ問題でも、専門家同士の見解、尾身・押谷コンビと日下部教授やテレビに登場する専門家の見解が違う、と書いたが、その例をブログの主、篠田英朗教授がTwitterでみつけたので紹介する。時々感じるのであるが、このコメント欄は誰のブログのコメント欄なのだろう?
https://twitter.com/ShinodaHideaki
東京大学医学部卒内科医の上昌弘氏の
羽田さんの検査が間に合わなかった。野党は政府をどのように追及するのだろう。「クラスターさえ見ておけば大丈夫です、このようにしているから医療が崩壊しないのです」とNHKスペシャルで公言した専門家がいた。なぜ、このような人物を更迭しないのだろう。人がかわらなければ方向転換できない、という明らかに尾身・押谷仁コンビに対しての批判に対して、篠田教授は死因が不明なこともあるが、正確な引用なのかも問題。
特定人物を誹謗中傷して追い落とすことが狙いの広報工作であることが明確であり、名誉棄損になっていないか、検証が必要だろう。とコメントされているが、上医師のような人がマスコミを牛耳っているから、日本の世論はおかしくなる。
この問題は、感染者と濃厚接触のある羽田議員をクラスター関連でみなかった、東京都の保健所の罪なのであって、クラスターをきちんと見ていれば、大丈夫だったのではないのだろうか。
どちらの見解が間違っているのだろう?
230⇒【大山定一教授の人生は、果たして反氏の主張されるとおり…?】――事実以外に記述しておらず、大山については、私は複数ルートで、ある意味「よく知っている」と言ってもよい。
一つは京大文学部の吉川幸次郎氏の同僚としての表向きの大山像。次いで、吉川の教え子で、大山の著書の出版元であった筑摩書房、第二代社長竹之内静雄(支那哲学科卒)を通じた表裏を含めた大山像。世間話を含め本欄で書くのが憚られる種類の話題を含む。
三つ目は、竹之内の後任の筑摩第三代社長井上達三と西洋古典文学科(主任教授松平千秋)の開設時の同窓で、私の妻の大叔父にあたる芹澤茂のルート。この方面の情報もいろいろ興味深い。
芹澤茂は芹澤光治良の弟という以外は地味な学究で、師の松平と田中美知太郎の共著『ギリシア語入門』で「語彙、変化表」を担当したから、その方面では知られた存在。当然、師の松平は大山の同僚。同窓の井上は筑摩入社以来、京大と同社のパイプ役。
老婆が引いている前田敬作の証言、220⇒【一人で酒をくみ】は、京大時代は吉川と同類の「大酒飲み」とは書けない、教え子の綺麗ごと。遺著に滅多なことは書けない。
そして私は元新聞記者。京大文学部をめぐる裏の人間模様は、哲学科以外にも熟知しており、老婆のようなお子様とは違って、その真偽を確認する手立てに事欠かない。老婆は、関西学院時代の、しかも大山最晩年の出来の悪い学生として、末席を汚しただけの話だろう。
何せ、関学に縁の深い竹友藻風が訳したダンテ『神曲』を「ラテン語で書かれている」と思い込んでいたような無知の塊だ。元欧州留学生とは信じられないような水準。『神曲』を読んだことがないのだろう。
230②⇒【仕事の仕方をみて、ライフワーク、と呼ばずに…】――日本語の勉強からやり直した方がいい。
莫迦が移りそう。
そうではなくて、いま大事なことは、このコロナの現在の状況をどうする改善したゆくか、なのではないのだろうか?経歴を誇っても、何の意味もない。
「Gくん」氏を評して、231⇒【篠田コメ欄でいちばん健全なのはあなたかも】という凾南子氏は、その口調から、あるいは女性なのかもしれないが、下町言葉の趣もある。
「Gくん」氏は私も春風駘蕩、大人の風があり、将来有望かもと評したことがあるから、少々食い足りないなりに健全と言えば健全で、一見して無邪気な印象は、トーマス・マン『魔の山』(„Der Zauberberg“, 1924)の主人公、ハンス・カストルプ(Hans Castorp)を髣髴とさせる。
ハンス青年は「単純な」(einfach)人物だが、けっして愚鈍ではないように。ということは、本欄は有象無象の魔物が棲息する魔の山、下界から隔絶された一種のサナトリウムなのかもしれない。
穏やかな人柄は、なるほど好感を抱きやすい。精々、郷里でゆっくり休んで英気を養い、気が向けば来年も、都合が許せば帰郷中も健筆を振るわれたし。日本の将来は、年寄り連中ではなく、将来ある「Gくん」氏のような若者にかかっている。
メディアがどうのこうのといって、水準が高が知れている安易な標的=「雑魚」にかかずりあうことなく、この社会、世界を支配しているもっと「こわもての」相手、この世の根本的矛盾のような対象を選んで格闘したらよい。
どこかの誰かさんのように陳腐なメディア批判、次元の低い領域に入れ込んでいても、何も見えてこない。何せmedium=媒体というくらいで、その本質は仲介、中間の(medial)、並みの(average)の存在にすぎない。
それは、アリストテレスが中庸(μεσότης)=「中間的なもの」(μέσον)と称した過剰と不足の中間の最適なものではない(「節制と勇気は過剰と不足によって失われ、中庸(中間)を保つことによって保たれる=Ethica Nicomachea, 1106b25~27)
いずれにしても、佳いお年を。
篠田教授のバランス感覚はまあ妥当なところだ。現代ビジネスのコラムも読んだ。要は、左派だけでなく右派も一部は眉唾だということをほのめかしている。
典型的なのは、(基本的には有能な記者だが)アビガンが承認されないのは厚労省のせいだと推測していた門田隆将氏などだ。現在のアビガンの評価はボロボロだ。(ちなみに個人的には製薬に詳しい専門家の見解を読んで、当分アビガンはだめだろうと推測したが、右派系のブログでは厚労省が悪いと一方的に信じる意見も見られた)
しかし、アビガンに幻想をもたせたのは安倍首相でなく、大衆マスコミの煽りだ。これも。まわりの素人やメディアが安倍首相を必死でつっつくので、安倍首相はアビガンにかけたのだ。
今後も、篠田教授の公平で中立的な視点を大事にしていただきたい。いまのところ、揚げ足をとられる部分は諸処あるだろうが、致命的な間違いは少ないような気がする。第三波の首相周辺の専門家は混乱しているように見えるが、仕方ないだろう。経済崩壊も恐ろしいが、ウィルス変異による英国など深刻な状況はあなどりがたい。
日本人の行動パターンはどうなりつつあるか? 以下の3原則に集約されつつあると見ている。
「高齢者や持病持ちは行動自粛し、医療機関とまめに連携しろ」
「高齢でない健康者はマスクを最低限の公共マナーとわきまえるが、基本的には自由に行動する」
「公共機関や公共施設、娯楽施設の責任者はそれなりの対策をとれ。皆もそれには従い、協力するから」
この3原則だ。為政者の対応としては、ここしばらく状況を静観しながら、その結果を待って、判断を来年に持ち越すのだろう。
関学で社会心理学にとても興味をもったが、だれか、社会心理学的なアプローチをして、現在を分析してくれないだろうか、と思っている。ちなみにSpiegel誌で今年ドイツ人に一番人気のあった記事は、ハーバード大学哲学科のMichel Sandei教授のトランプ大統領の人気には、民主党にも責任がある、という分析であったそうであるが、https://www.spiegel.de/politik/ausland/harvard-philosoph-michael-sandel-ueber-die-mitschuld-der-demokraten-am-aufstieg-donald-trumps-a-00000000-0002-0001-0000-000173100143。
アメリカ社会の負の側面が描かれ、内容的にとても興味深いものだった。
皆様、いいお年を。
死んだ妻 「私のことなんか言った? それにしても、ちっとも片づいちゃいないわね。何やってんの? あと3日でお正月ョ」
私 「地獄耳…、いや失礼、天国在住のお方には違うか。すべてお見通しの千里眼か」
妻 「そうよ、あなたのことは何だって知っているんだから。でも、よく見ると少しは片づいたか、褒めてあげる、可哀そうな鰥夫暮らしちゃん」
私 「どう致しまして、奥方様。きょうは一段とお美しい。★の親爺に言わせると原節子だもんな。どっちかっていうと、河内桃子だろうけど」
妻 「どっちも昔の人じゃな~い。なんか昭和っぽくてピンとこないけれど、『私のたからよ』(mon incomparable)なんでしょ」
私 「そうですね。ところで、きょうはどのような御用向きで?」
妻 「別に用事なんかないわ。お正月にDlifeの一挙放送がないでしょ。映画も、みんな昔観たものばっかりだから、御本でも読もうかと思って」
私 「それは感心な心掛け。何でも持って行っていいよ。そうだ、チェーホフなんか、どうだい。短いから途中で挫折したりしないし、僕も最近読み直しているけれど、しんみりして、なかなかいいぜ」
妻 「『桜の園』とか『ヴァーニャ伯父さん』のようなお芝居は読んだことあるけど、短編もいいらしいわね。選りすぐりの名文揃いだって」
私 「そうさ。しかも、日本人向き。『桜の園』かぁ、‘― Ô mon cher, mon tendre, mon merveilleux jardin ! … Ma vie, ma jeunesse, mon bonheur, adieu ! … Adieu …’(La Cerisaie, Anton Tchékhov, Œuvres I, p. 559).
妻 「ええ、何ですって」
私 「『ああ、わたしのいとしい、なつかしい、美しい庭!… わたしの生活、わたしの青春、わたしの幸福、さようなら!… さようなら!…』(神西清訳)さ」
妻 「知ってる知ってる。昔高校の演劇部でもやってた。最後のところの、領地を売ることになった女主人の台詞よね」
妻 「さらばかぁ~。私は、人生よAdieuだったわ、確かに。ところで、短編でお勧めは?」
私 「『犬を連れた奥さん』。映画にもなったから、観たことあるだろう。今風に言えば、保養地で出会った人妻との恋。不倫と言えば、不倫だな」
妻 「フリンねぇ~。私の場合は、絶対あり得ないけど。それで?」
私 「‘«Arrête, ma chérie, dit-il, tu as pleuré, cela suffit … Maintenant, parlons un peu, nous allons bien trouver quelque chose.» Et il y eut long consiliabule où cherchèrent le moyen d’éviter de se cacher, de mentir, de vivre dans des villes différentes, de rester longtemps sans se voir. Comment se libérer de ces entraves insupportables ?’; Œuvres III, p. 904.
妻 「ん、ん~ん。何で一々フランス語なのよ!」
私 「『もうおやめ、いい子だから』と彼は言った。『それだけ泣いたらもうたくさん。…今度は話をしようじゃないか、何かひと工夫してみようじゃないか』」
「それから二人は長いこと相談をしていた。どうしたらいったい、人目を忍んだり、人に嘘をついたり、別々の町に住んだり、久しく会わずにいなければならないような境涯から、抜け出すことができるだろうかということを語り合った。どうしたらこの堪えきれぬ枷からのがれることができるだろうか?(神西清訳)」
妻 「そっかぁ~。やってるやってるて感じね。ところで、ロシアで保養地っていうくらいだから、お金持ちの奥さんね。相手は悪い男じゃないの? ワルではなくても、甲斐性なしのダメ男ってよくあるじゃない」
私 「いや、至って真面目な話さ。しかも、ヤルタからもモスクワに訪ねていくんだぜ。何せ、奥さんの方の夫婦関係は冷え切っているからね。恋する二人、居てもたってもいられないってわけさ」
私 「«Comment ? damandait-il en se prenant la tête à deux mains. Comment ? Et il lui semblait qu’encore un peu et il trouverait la solution, et alors commencerait une vie nouvelle, magnifique, mais ils voyaient bien tous deux que cette fin était encore loin, bien loin, et que le plus compliqué, le plus diffcile, ne faisait que commencer.’; Œuvres III, p. 905.」
妻 「何か、フランス映画みたくなってきたわね。何て言ってるの」
私 「『どうしたら?どうしたら?』と彼は、頭を抱えて訊くのだった。『どうしたら?』すると、もう少しの辛抱で解決の途がみつかる、そしてその時こそ新しい、すばらしい生活が始まる、とそんな気がするのだった。そして二人とも、旅に終りまではまだまだはるかに遠いこと、いちばん複雑な困難な途がまだやっと始まったばかりなことを、はっきりと覚るのだった(神西清訳)」
妻 「なるほどねぇ、こりゃ大変だわ。それで結末はどうなるの?ぐちゃぐちゃの刃傷沙汰、決闘もありよね」
私 「いや、今読んだところでお終い」
妻 「何それ、ちっとも面白くない。金返せって感じ」
私 「文学なんですよ、奥様。『恋について』ってのもあるぜ。
‘«Lorsque nos regards se recontrèrent, nos forces nous abandonnèrent tous deux, je la serrai dans mes bras, elle appuya son visage sur ma poitrine et des larmes coulèrent de ses yeux; couvrant de baisers son visage, ses épaules, ses mains mouillées de larmes ― oh! que nous étions malheureux !’; Œuvres III, p. 799.」
妻 「どういう感じよ」
私 「この車室のなかで、ふと眼と眼が出会った時、二人はとうとう自制心を失ってしまったのです。私は彼女を抱擁し、彼女は私の胸に顔を押しつけました。眼から涙があふれ出ました。涙にぬれた彼女の顔や、肩や、手に接吻しながら、――ああ、二人はなんと不幸だったのでしょう!(木村彰一訳)」
妻 「そうこなくちゃね。まさに男と女は濃厚接触よね」
‘― je lui avouai mon amour, et je compris, avec une douleur poignante au cœur, combien était vain, mesquin et trompeur tout ce qui nous avait empêchés de nous aimer. Je compris que lorsqu’on aime, il faut, si l’on veut raisonner sur son amour, partir d’un point de vue plus élevé, plus important que ceux de bonheur ou de malheur, de péché ou de vertu, dans leur acception courante, ou ne pas raissoner de tout.
«Je l’embrassai une dernière fois, lui serrai la main et nous séparâmes ― pour toujours’; Œuvres III, p. 799~800.」
妻 「どう致しまして。いよいよ佳境に入ってきた感じね」
私 「――私は思いのたけを彼女に打ち明けました。そしてそのとき、やけつくような胸の痛みとともに、私は自分たちの恋を妨げていたものがすべて実にとるに足らないものだったこと、こけおどしにすぎないものだったことをさとったのです。恋をする以上は、その恋について考える場合に、ありきたりの意味での幸福とか不幸とか、罪とか美徳とか、そういったものよりはもっと高い、もっと重要なことから出発すべきだ。それはいやなら、むしろぜんぜん何も考えないほうがいい。わたしがさとったのはそのことだったのです。
私は最後の接吻をし、手を握って別れました――これが最後の別れでした(木村彰一訳)」
妻 「それで、ハッピーエンド? それとも破局?」
私 「いや、進展なしさ。二人とも同じ町に住んでいるけど。文字通り『これが最後の別れでした』」
妻 「何ぃ~それぇ~。文学って、ていうかチェーホフってみんなそうなの。もういい。聞かなきゃよかった」
私 「んで、どうする。持って行くかい?」
私 「ところで、昨夜アフガニスタンで去年暮れに殺された中村哲さんの追悼番組があったけど、彼も医者で立派な文筆家だね」
妻 「母方の伯父さんが作家の火野葦平なんでしょ」
私 「うん。『我々は地表をはう虫けらにすぎぬ。いかなる人間の営みもあなたの前には無に等しい。しかし、それでも自分が逆らえぬ摂理というものがあれば、喜んで義理を果たすでしょう』(『ペシャワールにて』)」
妻 「肝が据わっている感じ」
私 「彼は同時2001年の同時多発テロの後、国会で自衛隊の海外派遣は『百害あって一利なし』って反対するけど、人間にとって何が究極の不幸で、何が幸福か、普通の人とは全く次元の違う感覚で捉えていたようだね」
妻 「飄々としているけど、芯は強い人よ。息子さんが悪性腫瘍で死ぬ時も、現地で頑張ったんでしょ。『あの世で俺が供養してやるから、待っていろと』。死んで、今は息子さんと一緒ね」
私 「平和より自由を選ぶ僕とは考え方が対極にあるけど、祈りにも似た彼の気持ちはよく分かる。テロが絶えなくても、それでも人間は生きていくし、必ずしも不幸じゃない、と。その点でコロナ禍、コロナ騒動と言ってもいいけど、最近の日本も、篠田さんの軽佻浮薄ぶりも、ウンザリする。人には器量の違いが確かにある」
妻 「今年も随分コメント書いたね」
私 「これで2,288件さ。自分で言うのもなんだけど、今にして、ひどく空しい。それに引き換え、『自分もまた、患者たちと共にうろたえ、汚泥にまみれて生きてゆく、ただの卑しい人間の一人に過ぎなかった」(『ダラエ・ヌールへの道』)という中村さんの感覚は、不幸を意味しないのが人生なんだよね』
妻 「そう。来年は、やり方を変えた方がよさそうね」[完]
来年がいい年になりますように。
そういうのをネットスラングで「おまいう」って言いますね(笑)
そういう授業を受けると、発言者の肩書、つまり、専門家・素人の視点、ではなくて主張の中身と現実の結果で考える。だからこそ、憲法学の門外漢、国際政治学者の篠田英朗教授の憲法9条の解釈は正論だ、と考え、このブログに興味をもち、私自身のコメントが批判されることが多いからコメント数が増えるのである。コメントの数を誇る気持ちは毛頭ない。それが特に反氏との違いなのである。
こういうあるイデオロギーに洗脳されている人が「専門家」の肩書で世論に影響力を与え、マスコミ幹部が左翼のイデオロギーで汚染されているから、日本の憲法改正論議が全く進まない。これは、日本国の安全保障上、問題なのではないのだろうか。
>>憲法学の門外漢、国際政治学者の篠田英朗教授の憲法9条の解釈は正論だ、と考え、このブログに興味をもち、私自身のコメントが批判されることが多いからコメント数が増えるのである。コメントの数を誇る気持ちは毛頭ない。それが特に反氏との違いなのである。
意味不明な妄想。
どちらが意味不明の妄想、なのだろう。とにかく、ブログの主の主張をよく理解して、コメントを書くのが、コメンテーターの礼儀だと私は思う。
どうぞコメンテーターとしての礼儀を守ってください。
他者の書き込みの理解、やたら同じことの繰り返しや他のブログからの剽窃も含めて。
他人の所為にする前に自省することが肝心。
日下部氏に一票!
本当に、名前通りフラストレーションを誘発させる人ですね。
東日本大震災後のNHKの朝ドラで一躍国民的人気者になった女優が出演する麹甘酒のCMに、「おひとり様は最高だ。なのに恋をしてしまった…」とかいう台詞が出てきて、思わず温かい気持ちになる。あすが期し難いのもまた、人生だ。
ところで、年の瀬に至っても、しかも、昨日夕・239⇒【皆様、いいお年を】、本日・247⇒【来年がいい年になりますように】とか称して二度まで暇乞いじみた言辞を繰り返している割には、妄執(φιλοψυχία)ゆえに立ち去りがたい偏執狂の老婆がいる。
神戸への帰省もかなわず、贅沢な不幸(τρυφερός δυστυχία)ゆえの苛立ちがもたらす「独りよがりな思い込み」(αὐθάδης οἴησις)、「ナイーヴかつ軽率な」(ἁπλοῦς καὶ ῥᾳδιος)人間性をそのまま示すような狂信(ἡ μανία)、謂わば「神聖なる病」(ἱερὸς νόσος)取り憑かれているのだろう。
狂信家(αὐθάδης)には余裕(σχολή)、つまり「心のゆとり」(σχολή τῆς ψυχῆς))がない。同時にユーモア(ἡ εὐκολία)、私にはあるサービス精神の欠片もない。老婆のクズ投稿=独りよがりの莫迦話=妄言(ἀλλοδοξία)が禽獣の呻きに等しい、端的に言えば「狂人の戯言」(μανικός παίζειν)にすぎない所以だ。
同じことを執拗に繰り返すこと(καρτερία σκληρῶς)、愚にもつかないことやものに固執する(ἔμπεδος)のは、執念深く(αὐθάδως)、怨みを忘れない(πικρός)、「自己本位」(πλεονέκτημα)ということの真の意味を取り違えた愚鈍さ、驕慢さのゆえだろう。
稚拙極まりないその文章が端的に示すように、日本語の使用法が理解できないのだろう。それに加え論理性が皆無に近いから、比べるにも愚かだが、アリストテレスが考案した論理の法則性の前では、「白痴」(ἠλίηθιος)に等しいと映る。
身勝手な、いや老婆の場合はパラノイア気質特有の健忘症(Amnesie)を示す、246⇒【反氏の過去を掘り返したカロリーネ論によって議論が別の方向に行き、ソクラテスやゲーテやダンテ、大山教授、竹友教授の名前まで再登場】とある。
ゲーテの『ファウスト』の大山定一による翻訳について、間違いだらけの莫迦話を、大山に、214⇒【反氏は直接習ったことがないだろう。私は最晩年に授業を取った】はずの、肝腎なことを何も知らない老婆が始めたことが、そもそももの「発端」だろう。謂わば、身から出たさび(τὸ ἀντιπεπονθός)、別の言葉で言えば自ら蒔いた種(bīja)の報い(vipāka)、仏教でいう「因果応報」(hetuphala-vedanīya)だろう。
何の脈絡も、論証もなしに、167⇒【本を読んだり、机上の議論をしてもわからない…その真理を…Goetheがファウストで主張した。ソクラテスの主張と、Goethe の主張の根本原理、は同じ】のような、何も意味もない主張を繰り返し、あろうことか、167②⇒【(参考:ソクラテス、岩波新書、田中美知太郎著)】を典拠に挙げる。
ソクラテスも(つまり、対話篇の中でプラトンも)、田中も、そうした主張は全くしていない。典型的な不当資料(invalid documentation)のでっち上げによる不当立論(invalid argumentation)だ。
産婆術はソクラテスの論駁的吟味の手法、問答競技=争論術(ἐριστική)の別名であって、生まれた思考が問答、つまり吟味(ἔλεγχος)の結果、充分な検証(πεῖρα)に堪え得ない場合に、躊躇なく捨て去ることを促す。主体的思考の勧めなどでは全くない。
そもそも、ソクラテスやプラトン、アリストテレスも含めて、古典期のギリシア人には「主体的」云々という観念が存在せず、今日の主体的=[subjective] に対応する言葉は、同じ意味、用法では存在しない。それは、解釈、見解の違いなどとは次元の異なる問題で、老婆には無知しかない。
主体的[subjective]、その元になる形容詞[subject]の語源は、▼[ὑποχείριος, χείριος]=他者の支配下にある▼[ὑπήκοος]=従順な▼[ὑποχείριος]=~を条件として▼[ὑποτελής]=帰属する、服従する、名詞としては述語(κατηγορία)に対する主語(κατηγορούμενα=「述語づけられるもの」の謂い)としての「基体」(ὑποκείμενον=as opposed to predicate)▼[οἱ ὑπήκοοι]=被支配者、動詞なら[ὑπακούειν]=支配されている、服従する、臣従する、などが言葉の本来の意味で、主体性(主観性)の入り込む余地がない。
老婆の無知ゆえの誤認は、老婆が産婆術について2年半前(2018年7月22日・37)に剽窃によるコピペで自説の如く論じた「TANTAN」説の受け売りだろう。しかも、「TANTAN」氏以上の間違い、愚劣な拡大解釈をしている。
258⇒【剽窃ではなく、引用である。引用元も書いてある】こととは背反する盗用、剽窃を、「TANTAN」説以外にも最近まで性懲りもなく繰り返してきたのに加え、それ指摘されると居直る狂態を、私は過去に何度も指摘したはずだ。当然ながら、それに対する反省は一切ない。
つい最近でも、11月08日・169で、全文377文字のうち196字が、Wikipediaと「goo辞書」からの剽窃、コピペによる剽窃率は51.99%の莫迦話を繰り返し、本欄の他者のコメントの引用も引用符など一切ない杜撰さだ。そもそも、「引用」ということができないのだろう。引用したらしたで、コピペ以外は誤記、脱落が常習だ。それで、「学者の端くれ」を称する夢想家だ。
被害妄想、迫害妄想も絶えない。B. ラッセルが面白い指摘をしている。
「極端な形では、被害妄想は狂気の一種とされている。…私が考察したいのは、より穏やかな形である。というのも、穏やかな形の被害妄想は、不幸の原因となることが多いからであり、また、はっきりとした狂気をもたらすほど高じてはいないので、まだ患者自身で治療する余地があるからである。ただし、彼を説きつけて、自分の病気を正しく診断させ、その原因は自分自身の中にあるのであって、他人の想像上の敵意や不親切にあるのではない、ということを悟らせることができれば、の話である。」(安藤貞雄訳『幸福論』、岩波文庫、122頁)
原題を『幸福の獲得』(The Conquest of Happiness, 1930)と称する『幸福論』の第8章「被害妄想」にある一節で、ラッセルの悪戯っぽい、くすくす笑いが聞こえてきそうな文体で書かれている(平易な英文なので、原文は省略する)。
「周知のように、世の中には、男女を問わず、その人自身の話によれば、いつも忘恩や不親切や裏切りの犠牲になっているといったタイプの人がいる。…彼らの物語る話の一つ一つには、おおむね、それ自体としてありそうもないところは少しもない。彼が訴えるような虐待は、確かにときどき実際に起こる…
そのうちに聞き手に不審の念を起させるのは、当人が不運にも出くわした悪党の数が多すぎることだ。確率の理論によれば、ある特定の社会に住んでいる異なる人びとは、一生の間にほぼ同じ量のひどい仕打ちを受けるはずである。ある特定集団の一人の人が、彼自身の話によれば、みんなから虐待を受けているとすれば、たぶん、その原因は彼自身にある…実際は侮辱を受けていないのに受けたと想像しているか、それとも、知らず知らず、抑えきれない怒りを買うようなふるまいをしているのだと思われる。
だから、経験を積んだ人たちは、本人の話によれば、つねに世間から虐待されていると称する人たちをうさん臭く思うようになる。彼らが同情を示してくれないので、これらの不運な人たちは、万人が自分の敵だという思いをさらに強固にする。」(123頁)
「出くわした悪党の数」は、反時流的古典学徒の外、政府解釈、日下部、通りすがり、村雀、Tom(敬称略)…と、確かに「多すぎる」ようだ。敵に回す必要のない相手さえ、狂信的だから敵に回す。しかも、本欄は衆人環視だから、老婆の言い分は通らない。
ラッセルの診断は簡潔で、
「自己欺瞞に基づく満足は、決して堅実なものではない。そこで、真実がどんなに不愉快なものであっても、きっぱりそれに直面し、それに慣れ、それに従ってあなたの生活を築きあげるようにしたほうがいい。」(137頁)
しかし、無理な相談だ。老婆は何より、自分で自分を全く知らない(αὐτὸ αὑτὸ οὐκ οἶδα μηδέν)からだ。[完]
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。