1月上旬の日本では、急激な新規陽性者数の増加が見られた。押谷仁教授は、これを「疫学的に見ると異常な増え方」と描写した。https://news.yahoo.co.jp/articles/00663ff629bd4af1d407b81bf513690a8becfb13
もともと年末年始の休みで、検査数のムラがあり、統計が読みにくい時期ではあった。それでも新規陽性者数の激増は数日にわたって観察できたので、事実として激増が発生していたことは確かだろう。
問題は、この激増が、突然の指数関数的拡大の開始を示していたのか、一時的な傾向だったのか、だ。
結論から言うと、後者であったと言える。
新規陽性者数は、この一週間では減少傾向に入っている。少なくとも指数関数的拡大が継続しているようには見えない。
私が素人なりに継続モニタリング用に作っているメモ代わりのグラフを見てみよう。7日移動平均を前週の同じ曜日と比較した際の増加比をグラフ化したものである。
(筆者作成:7日間移動平均の週単位の増加比の推移)
これまでは、もう少し繊細な感染拡大のスピードを可視化するために用いてきたグラフだ。過去2週間の動きは、あまりに劇的すぎるように映している。年末年始のムラが影響しているところもあるのだろう。
だが、それでも押谷教授が言う「疫学的に見ると異常な増え方」があったことは確かだと思われる。そしてそれは、今は反転してきている。
もちろんここまで劇的な増加と反転であると、東京都の通常の7日移動平均の曲線などでも、同じような傾向は見てとれる(ただし一度市中の陽性者数が増えてしまうと、一時的な激増傾向が収まった後もすぐには絶対数は元には戻らないので、増加比ほどには劇的には映らない)。
なぜ1月の上旬にこのような異常な激増と反転が見られたのか?
私が、過去10ヵ月ほどの間の観察で強く感じているのは、新型コロナの感染拡大は、非常に人間的な営みだ、ということだ。
どう見ても、何らかの宇宙の運動法則や定期的な周期にそって感染拡大が起こっているようには見えない。
もちろん、気温や乾燥の影響なのか、換気の困難なのか、夏より冬のほうが感染拡大しやすい、といったレベルの傾向は世界的に確認できる。予測もされていた。だが週単位や月単位の感染拡大の動きを、科学的法則として説明することは、不可能ではないか。
より多くの人間が、感染しやすい行動をとれば感染は拡大する。逆であれば、逆なのだ。
10月末に「第三波」の発生が確認されて警告が出されると、11月に新規陽性者の拡大は顕著な鈍化の傾向を見せた。人々がよりいっそう警戒したからだろう。ところが12月に入ると増加傾向に転じた。尾身茂・分科会会長が丁寧に説明してくれているが、忘年会シーズンに入り、飲食の機会を通じた感染が増えたのである。
新型コロナの潜伏期間は2週間と言われるが、ほとんどの発症者は5日程度で症状を見せるとも言われる。12月の新規陽性者数の増加傾向は、クリスマスの会食機会の影響が見られるはずの12月末日まで続いた。
その後に発生した1月上旬の「疫学的に見ると異常な増え方」は、このように考えると、年末年始、特に正月の会食機会の影響だった、と考えざるを得ない。数多くの日本人は、コロナ禍であっても、正月を正月として過ごす選択をした。その結果、「疫学的に見ると異常な増え方」が発生した。そう見るべきではないか。
https://twitter.com/Invesdoctor/status/1350262913966039041
逆に言うと、正月の影響は、一時的なもので終わる可能性がある。もし数多くの日本人が特別な時期は終わったという感覚を持ち、これまで同様の感染予防に努める生活に戻れば、少なくとも「疫学的に見ると異常な増え方」は終わってくると想定できる。実際に、その反転現象が、今週になって確認されたように見える。
この正月の時期によって引き起こされた「疫学的に見ると異常な増え方」は、あらためて新規陽性者数の増加が「人間的、あまりに人間的」なものであることを痛感させてくれる。
過ぎたことは、もういいだろう。
感染拡大を防ぐために、全国民が、クリスマスはもちろん、正月も無しにするべきだった、と論じることは、可能だ。正月を放棄して、全てを感染拡大防止に捧げることだけをしなかった日本人がいたのは、全て菅首相の責任だ、政府の無策がこのような事態を引き起こしたのだ、と絶望や非難の雄叫びを上げることもできるのだろう。
だが全世界では、一日あたり約75万人、今月中には累計陽性者数は1億人の大台に到達する勢いで感染拡大を続けている。日本人が正月を正月として過ごしてしまって新規陽性者数が一時的な急増を見せたくらいで、絶望のどん底に陥り、政府を呪う言葉を吐き続けることを誓うのは、むしろ現実離れしている。
死者数も増えているが、必ずしも異常値ではない。新規陽性者が増えているから、死者も増えている。今後も感染拡大を抑制する努力を続けていくしかない。
私は、新規陽性者数が正月の山を下りているからといって、緊急事態宣言は不要だった、といった結論を出したいわけではない。政府は、緊急事態宣言解除の目安として、東京の一日当たりの新規陽性者数を500人以下にするという指標を掲げている。「医療崩壊を防ぐ」という、従来から日本が一貫して重視してきている目標を達成するために必要と思われる数値だということだろう。この数値に到達するには、しばらくかかると思われる。緊急事態宣言も、一つの方法だ。
過去1年近くの新型コロナとの取り組みの中で、日本人はこのウィルスの特性を理解してきている。そして人間的な取り組みで感染を避けようとしたり、人間的な気持ちで「正月くらいは・・・」と思ったりしている。緊急事態宣言下で自粛していることもあれば、自粛していないこともあるだろう。まずは日本人が自分たち自身で考えて行動する能力を信じ、それを支援する方法を講じていくしかない。緊急事態宣言は、共産主義化を図るための第一歩ではなく、感染予防を推進するための社会的雰囲気を醸成するための手段である。冷静に運用したい。
メディアは相変わらず「外出者が劇的には減っていない!」などといったニュースを作り続けているが、いつまでも「人と人との接触が8割削減されるとウィルス撲滅」、「6割以下では感染爆発で数十万人死ぬ」、といった乱暴な物差しだけでニュースを作るのは、やめてほしい。
新規陽性者数が増加すると、季節労働者のような「感染拡大期の煽り系の専門家」がメディアに登場してくる。感染が減少してくると休暇をとるようだが、拡大期に入ると荒稼ぎをする出稼ぎ労働者といってもいい類の専門家たちだ。私は、以前はこの人たちの言説をチェックしたりしていたが、もはや面倒でチェックもしていない。他の多くの人たちも、やはりそうなのではないだろうか。
他方、私は、尾身茂・分科会会長と、そのブレーン的存在である押谷仁・東北大教授については、「国民の英雄」と呼んで、称賛し続けている。尾身会長は、その堂々とした振る舞いから、菅政権誕生後は、首相よりも首相らしいとまで評価されている。尾身会長がいて、本当に日本人は幸運だ。
尾身会長や押谷教授が素晴らしいのは、感染拡大が「人間的な」事象であることを理解して行動しているように見えることだ。ともにWHO西太平洋事務所でSARS対応に当たった経験を持つ公衆衛生のスペシャリストだ。
私としては今後とも尾身会長や押谷教授のような、感染症の知識に加えて、公衆衛生が「人間相手」の作業であることを理解している方々の発言だけに注意を払っていきたいと思っている。それが本当に必要なことだし、それ以上はいらない。
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私が所持しているものだけでも、手塚富雄、大山定一の場合は『修業時代』の一部ではなく、詩のみの単独訳で、『修業時代』は古い順に関泰祐(『世界文學大系』第20巻、「ゲーテII」〔1958年〕、『筑摩世界文學大系』第25巻同=再版)、高橋義孝(『新潮世界文学』第3巻〔1970年〕、「ゲーテI」)、前田敬作・今村孝(潮出版社『ゲーテ全集』第7巻〔1982年〕)、山崎章甫(岩波文庫〔2000年〕)。いずれも大家ないし、代表的なドイツ文学者だ。
当該個所(„ Möcht’ ich mit dir, o mein Geliebter, ziehn!“▼„Möcht’ ich mit dir, o mein Beschützer, ziehn !“▼„Geht unser Weg; o Vater, laß uns ziehn !“)を紹介すると、それぞれ、以下の通りだ。
①関泰祐訳(『世界文學大系』第20巻、77頁)
「ああ恋人よ、われはゆかまし、君とともに / ああ頼む君よ、われはゆかまし、君とともに / われらの道はゆく、ああ父よ、ゆかまし君とともに。」
②高橋義孝訳(『新潮世界文学』第3巻、233頁)
「恋人よ、いざかの国へともに行かまし / わが守護者よ、いざかの家へともに行かまし / われらが道は、かしこに通ず。わが父君よ、ともに行かまし。」
③前田敬作・今村孝訳(『ゲーテ全集』第7巻、125~26頁)
「いとしい人よ あそこへごいっしょに行きたいのです / わたしを守ってくださかた あそこへごいっしょに行きたいのです / わたしたちの道は通じています 父よ さあ行きましょう」
④山崎章甫訳(岩波文庫、上巻227~28頁)
「おお、いとしき人よ、ともに行かまし。/ おお、我(あ)を守る人よ、ともに行かまし。/ おお、父よ、われらが道を、ともに行かまし。」
当時学習院大の独文科教授で明治生まれの関が「われはゆかまし、君とともに」としたのを、手塚が簡潔に「君とともにゆかまし」としたことによって「ゆかまし」が確固たる地位を形成することは、東大独文科の後輩で1913 年生まれの高橋義孝も採用し、平成の新訳である山崎に継承される。一方、大山の弟子筋の前田・今村訳は、大山訳を継承しているが、凡作。
老婆の無慙な訳、⇒【恋人よ、貴方と共にかの地(イタリア)へ行きたい / 保護者よ、貴方と共にかの地へ行きたい / 父よ、貴方と共にかの地へ行きたい】は、原文のニュアンスを全く理解せず、直訳にもなっていないことは、上記の各訳業の比較しても明らかなことは指摘するまでもない。
老婆のドイツ語の水準は週刊誌を読む場合はともかく、詩やその表現の芸術性を論じるには極めて低劣なことは、改めて指摘するまでもない。「文才」に至っては皆無だ。一言で言えば、莫迦丸出し、ということである。
単に「上品で、慎み深い少女」などではないミニヨンが、「いとしき人」(mein Geliebter)、「頼める人」(mein Beschützer)、「父なる人」(Vater)と呼び掛け、思慕を寄せる自らの保護者ヴィルヘルムにも明かせない秘密を抱えていたことが、ミニヨンの人間像に陰翳を与えている。ゲーテは女好きだから、この辺りの観察は秀でている。
その苦衷と胸の内を歌った詩が『修業時代』第5巻末尾に出てくる。阿呆の相手で文章を終えるのは、如何にも無粋なので、手塚富雄の名訳で紹介する。
„Heiß mich nicht reden, heiß mich scheweigen,
Denn mein Geheimnis ist mir Pflicht;
Ich möchte di mein ganzes Innre zeigen,
Allein das Schicksal will es nicht.
Zur rechten Zeit vertreibt der Sonne Lauf
Die finstre Nacht, und sie muß sich erhellen;
Der harte Fels schleißt seinen Busen auf,
Mißgönnt der Erde nicht die tiefverborgen Quellen.
Ein jeder sucht im Arm des Freundes Ruh’
Dort kann dei Brust in Klagen sich ergießen;
Allein ein Schwur drückt mir die Lippen zu,
Und nur ein Gott vermag sie aufzuschließen.“
(„Wilherm Meisters Jehrjahre“, hirsg. von E. Trunz, J. W. von Goethe Werke Hamburger Ausgabe in 14 Bänden, Band. 7, S. 356~57)
最後に、こうした抒情詩翻訳への古語の使用は、わが国上代以来の和歌の伝統、表現と技巧の洗練もあって、文化の蓄積を実感させる点で私も好ましく思う。聖書の口語訳も、語学的正確さはともかく、総体として昔の文語訳に及ばない。
一方で詩といえども、口語自由詩が現代の宿命である。それが嫌なら、漢文調か和歌を詠む伝統的語法に通曉しなくてはならない。それもまた、実質的に不可能である。
西脇順三郎の諧謔と哀愁のモダニズムは、そのことへの挑戦である。[完]
❝無意識の情報操作❞ということについてはすでにいくつか書いた。
今、関心を持っているのは、カロ婆婆ーに汚染される掲示板を一般庶民の❝思想、思考、信条の自由❞から救うには、どんな手立てがあるかということ。
まず大切なのは、思考、環境からの束縛から自由になることであろう。
荘子にでも帰ろうか。
日本経済新聞の朝刊一面コラム❝春秋❞の質がコロナ以前、一昨年後半あたりから落ちてきたように感じている。
まあ、それは置いといて、いろんな社会環境からの圧力があれば、こんなコラムは空気が自由に出入りする窓のように、さわやかなひと時を、一息をつかせてくれるようであってほしいと思うのは、わたしだけであろうか。
それを、ご丁寧に、コロナ感染者数が増えだすと❝コロナ❞入りの記事が60~70%位の頻度にまでなってくる。編集部が、これを意識的に行っていれば、これは❝意識的情報操作❞であり、編集部子たちが❝コロナ脳❞になっていれば、❝無意識的情報操作❞になってくるのであろう。しかし、
情報というものは、しょせんそんなものだ。
年明けてから、NHKが朝から晩まで、TV問わず、FM問わず、一所懸命に、ちょっとした時間の隙間に❝コロナ情報❞をいれている。おそらく、社会的使命と考えての事だろう。これが、本当にNHKの社会的使命なのだろうか?
ともあれ、これは
❝ Subliminal Interjection ❞ なのだろう。
450=「反氏と日下部教授の……内容は、篠田英朗教授をないがしろ」というなら、貴女は、おべっかとお追従ばかり⁉︎
「どうして、このコメント欄内容は、そうではなく、筆者のナルシズムそのもの主張か、全く関係のない梅や詩に」という貴女こそ、何にでも口を出す「饒舌ナルシズム」じゃない‼︎ 貴女が口を出すからややこしくなるのよ‼︎
「私は、ミニヨンの歌曲については……」、だから何なのよ‼︎ 元々『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』をろくに読んだことのない貴女が、知ったかぶりで間違いだらけの話を書くから批判されるのよ、それがわからないの。
わからないはずもないけど、だから、貴女は「虚偽体質」と言われるのよ‼︎ インフルエンザ菌の話と同じ。
「私は、ミニヨンの歌曲については、日本のドイツリートの専門家だけでなく、パリ国立音大や、ウィーン音大のリート科の教授の教えも受け」、だから何なのよ‼︎ 元々、音楽の話じゃないよ。
「長い期間かかって作り上げた極めて客観的なミニヨンの人物設定」、そんなこと、ゲームの元の詩とは、何の関係もないし、客観的でもない。議論のテーマは音楽じゃなくて、ゲーテなんだから。
「筑摩世界文学大系を引用するだけの人に否定され」、は間違うからよ。それに、ハンブルク版からの関係個所の引用、手塚、大山訳以外にも、4種類も訳も紹介しているじゃない。「日本語さえ正確に読み取れない」貴女こそ、問題ありよ‼︎ 貴女と違って、コピペじゃないと思うよ。
ナルシズムに凝り固まって自分の意見以外に考えが及ばないのは、ドイツ命、中国忖度の貴女‼︎
結局、貴女は批判されて恨みつらみばっかり。ドイツ語が少しばっかり読めても、おバカさんだからよ‼︎
日下部さんの和歌の話の方が、よっぽどいいわ。もっと聞きたいです。
かしこ
んね。
PC 開けてみて、掲示板に カロ婆婆ーの書き込みが4つ5つならんでいると、❝今日もまた不幸がおとずれる❞と、陰鬱な気分になって。
みんなもそうだろうと思って、それでほとんど関係ないような、楽しくなるような話題を提供したら、いいかもね。 と、思って。
そのネタ探しがたいへんだよね。
450=05:254~451=05:26というのは、さぞ暗かろうし、寒かろう。狂信に猛り狂った人間には、関係ないのかもしれない。
私は日下部翁ほど「陰鬱な気分」(455)にはならない。日本語がまともに読解できないような人物、しかも論理的思考能力にかけては、それこそ「白痴」(идиот)並みの人物については、莫迦ウイルス変異株=「Carove-20」に移るのに用心して、嘲笑すればよいと、この間の経験から割り切っている。
所詮は、「話の通じない」(βάρβαρος)ならず者だからだ。
従って、応答もウイットとユーモア、諧謔を忘れなければよい。日下部翁のような詩心も大切だ。翁の引用に触発されて、私も手持ちの岩波文庫版『拾遺和歌集』(武田祐吉校訂、1938年)を繰った。
「巻第十六」の「雜春」に、
新しき 年はくれども いたづらに 我が身のみこそ ふりまさりけれ(1001=右近)▼あかざりし 君がにほひの 戀しさに 梅の花をぞ 今朝は折りつる(1005=贈太政大臣)▼數ふれど おぼつかなきを わが宿の 梅こそ春の 數をしるらめ(1012=よみ人しらず)▼年毎に 咲きはかはれど 梅の花 あはれなる香は うせずぞありける(1013=源順)▼梅が枝を かりにきて折る 人やあると 野べの霞は 立ちかくすかも(1014=右衞門督公任)▼春きてぞ 人もとひける 山里は 花こそやどの あるじなりけり(1015=安法法師)
妻の友人から一昨日、昨日と相次いでLINEがあり、図らずも長話になった。わが家の紅梅も見ごろになったら、ろそろ茶会でもしたいものだが、なかなか思うに任せぬ。
春霞 酔ひに(412)任せて 梅が枝を 埴生の宿の 妹背に供え(反時流)
東京都の本日9日の新規陽性者は412人だという。コロナ禍の物憂い春である。
きょうは、福岡は快晴になりました。
食材をもとめに出た往来の庭先の梅がかぐわしい香りをただよわせて満開になっていました。
公園の池では、ちょっと冷気のせいか3匹の子がめたちが甲羅干しをしていました。
煮込んでいた蕪ができあがったので、
これから裏山の展望台まで散策して、北に志賀島、能古島、東に三郡―宝満・四王寺山系、西に遠くは唐津・鏡山、近くは背振山系を見渡してきます。
百年は花にやどりて過ぐしてき この世は蝶の夢にざりける 匡房
藤原さんの分析、結論からいえば「自然減」に依拠していて、宣言は”ほとんど効果ナシ派”です。なるほどグラフ化した各図表を見ますと宣言後2週間といわれる日から顕著な効果は、グラフからは見えません。
果たして、グラフからそう見えないからといって、宣言発令の効果がなかったのか!?解釈難しいです。Gは何らかの考慮を要すると思います。Gは前投稿385では、政府・分科会の対策を、建物の1階2階建論(1階:一般国民の自粛・気象条件による「自然減」+2階:「感染発生源にターゲット絞った対策」)に例えました。
そこで藤原さんの理論に戻ります。2週間後に宣言の効果が出て来る< という立論自体がおかしいのではないか!?です。宣言の効果は、発令後直ちに生じている< と考えられます。弱いながら宣言効果は直ちに生じていて、すでに生じている「自然減」を後押し(それが2階部分)していると。そして、その「自然減」を「感染発生源への対策」が加勢して、現在(2月9日)に至っている。いつも付言しますが、いまでも水面下での感染は進行中です。数字高止まりの可能性はあります。
を読んで、これはCovid19に対する切迫感の問題なのだと思う。日本は英米、中国の武漢のような感染爆発を経験していない。私の周りでコロナに感染した人はまるでいないし、ウルヴェさんにしろ、すっかり元気になってテレビに登場されている。乳癌の手術を受けた私と変わらない。私自身の二度の入院生活は自覚症状なし、検診でひっかかったものばかりである。医師の言葉を信頼するから痛い手術をされるのであって、この決断は理性的に考えた結果でしかない。コロナも全くそうで、合理的に考えて、今身近に被害がなくても、感染が拡大すれば英米のような悲惨な状態になる、と考えるから騒ぐのである。今、誰を信頼すれば一番正しいのか、それは、感染症の経験豊富で日本政府のブレインになっておられる尾身ー押谷コンビの諮問を受けた政府の方針である。その手法で日本はCovid19の被害を少なくしてきたのではないのだろうか?マスコミに扇動されて、日本政府を不満のはけ口にしても、なにも解決しないことを識者はよく認識すべきなのである。
マスコミは、緊急事態宣言をすれば、国民に緊張感が出て、感染を収束させることができる、と主張して、政府に「緊急宣言の発動」を要求し続けるが、尾身会長の「Covid19を防ぐ肝の部分がわかってきた。」、アルコールを伴う飲食店での会食はマスクを、という手法がきいてきたのである。東京都は、12月初旬飲食店の時短、日本政府の要請を断り続けたから、忘年会シーズン、からしばらくしての、特に東京の感染者が増えたのであるが、このCovid19は潜伏期間が長い上に、PCR検査にかかる期間、集計の期間があるので、対策を施してから結果がでるまで2週間の誤差がでるのである。感染してから発病するまで日数がかかるし、突然重症化し、死にいたるまでも時間がかかる。とにかく浅薄なマスコミ報道に流されず、勉強してCovid19ウィルスの特徴をよくつかんでから、コメントを書くことが求められているのではないのだろうか。
議論以前から、相手より明らかに理屈が通っていて、その論旨が相手の言い分を凌駕している(ὑπερέχω)とみえる場合でも、主張の論理的首尾一貫性と、それを根拠づける個々の事例の具体的提示が不可欠だ。事柄自身が自ずから(τὸ αὐτόματον)示すことにおいて、相手を凌駕する周到さが求められる。
だから、何も相手の水準に降りて行く(ὑποβαίνω)ことや,見当違いな言い分、怨みごとや笑止な八つ当たりに耳を貸す(ὑπακούω)必要はない。
僻み根性で、怨みがましく「下から見上げる」(ὑφοράω)相手の悪意のまなざしを相手にするには及ばない。相手が論理的に「不正である」(ἀδικέω)場合は情け容赦なく、「理がある」(δίκαιός εἰμι)場合はそのまま論証を通じて承認するだけでよい。議論において劣る(ἡττάομαι)相手には、そうするのが相応しい(πρέπει, προσήκει)。それ以上でも以下でもない。
その過程、正当な手続きを尽くしても、相手が往生際が悪く否定したり(ἀρνοῦμαι)、反対(ἀντιλέγω)して居直るなら、「然るに,あなたこそが、それは最も惨めな女になる」(‘σὺ δ ̓ ἂν γένοιό γ ̓ ἀθλιωτάτη γυνή.’; Euripidis Medea, 818)と葬り去ればよい。
ある程度の知性を具えた人間なら、それで状況を認識し、言辞を改めるからそれで済む。そうではない、例外的な人間がいることを否定しないが、情けをかけるには及ばないし、一定の手続き、儀礼は済んでいるので、殺伐非情な取り扱いも許される(ἔξεστι)。
『たいくつな話』の中で、死期が迫った62歳の功成り名を遂げた老教授ニコライ・ステパノヴィッチ(Николай Степанович)をして、「私のたからよ !」(мое сокровище !)と心を寄せる、元同僚に後見を託された若い娘カーチャ(Катя)が、カーチャの心酔者で恋心を隠さない教授の同僚で、同席したミハイール・ヒョードロヴィチ(Михаил Федорович)との間で繰り広げる遠慮のない内輪話を、苦々しく描写する箇所に出てくる。
ミハイールは毒舌家だ。学生と話した際の挿話として、
「そいつと話をしているうちに、私がこう言った。『ねえ君、こういう話があるぜ。どこかに書いてあったが、何でもあるドイツ人が――名前は何といったかなあ――人間の脳髄からアルカロイド・イジオチーンなるものをはじめて抽出したそうだ』とね」(木村彰一訳により、一部表記を変えた=‘Разговорились. «Такие-то дела, говорю, молодой человек. Читал я, говорю, что какой-то немец — забыл его фамилию — добыл из человеческого мозга новый алкалоид — идиотин».’)。
中ほどの「アルカロイド・イジオチーン」(алкалоид — идиотин)のイジオチーン[идиотин]は白痴」 [идиот]をもじったものだ。
ロシア語の[идиот]は英語の[idiot]と同じだ。元々は「私的、素人」を意味するギリシア語のイディオーテース(ἰδιώτης)に由来する。公共の(κοινός)に対立する言葉だ。なぜそれが、愚鈍につながるのか。考える必要がある。
しかし、本当の心胆寒からしめる毒舌、悪罵とは、私の老婆相手程度の生易しいものではない。
それが、老教授を辟易させるカーチャとミハイールのやり取りだ。
「ミハイール・ヒョードロヴィチは相変わらず毒舌をふるい、カーチャは傾聴している。二人とも、同胞をののしるというこの一種罪のない愉しみが、彼らを深い深淵の中へ少しずつ引きずり込んでいくことに気がついていない。ありふれた会話が次第に悪質な愚弄に変質して行きつつあることを、二人とも既に誹謗に類する行いに耽っていることを感じないのである。」(‘Михаил Федорович злословит, Катя слушает, и оба не замечают, в какую глубокую пропасть мало-помалу втягивает их такое, по-видимому, невинное развлечение, как осуждение ближних. Они не чувствуют, как простой разговор постепенно переходит в глумление и в издевательство и как оба они начинают пускать в ход даже клеветнические приемы.’; Скучная история, III)
毒舌に溺れ、我を忘れては相手と同じレベルとは言えないまでも、警戒しなくてはならないということだ。人は自覚的な観察者でなくてはならない。
「『世の中には時々死ぬほどおかしなやつがいるものですな』とミハイール・ヒョードロヴィチが言う。カーチャは耳を傾けながら、しきりに笑う。彼女の笑い方はちょっと変わっている。まるでハーモニカを吹いているように息を吸ったり吐いたりする動作が、速い速度で、しかも正確なリズムで交替するのである。」(引用続く)
なかなか痛快だが、冷笑家の老教授もさすがに耐えられない気持ちになる。知的優位性にある人間にも、自ずと自らを抑制する矜持(μεγαλοψυχία)と自制心(σωφροσύνη)が求められる。それは、自分と距離をとる(διάστῆναι)、正確な自己認識だ。
謙虚さとか社会や人間性への敬虔というより、本来の知性に具わった、知と俗物性を分けるもので、狂信家の老婆には欠片もないものだ。以て用心したい。
「『もういい加減にやめたまえ。そういつまでも二匹のひきがえるみたいに座り込んで、妖気を発散させていることはないだろう。もうたくさんだ !』」(‘— Замолчите, наконец ! Что вы сидите тут, как две жабы, и отравляете воздух своими дыханиями ? Довольно !’; ibid.)
悪態のつき方にも、対象との距離感(διάστημα)が欠かせないということだ。日中に(ἡμέρας)鳴りを潜めていた阿呆が、夕刻になって(πρὸς ἑσπέραν)、また病気が始まった(459~460)。
そして、その観点から眺めると、老婆の狂態は低劣な喜劇、茶番でしかない。[完]
クソ婆婆ー くたばれー
ネット公害(婆婆ー害)防止条例をつくったらいいのではないかなー
どうしようもない、溝を踏み違えた蓄音機のゴミ音だ、
騒音防止条例でなんとか刑事処罰してほしい❢❢❢
篠田ブログに寄生し始めたのは昨年の6月4日になっている。
4月初めの、山中伸弥がNHKにでてコロナについて間違った解釈をしていて将来おかしいことになるなと直感したのがことの始まり。(山中伸弥の三つの間違い)
下劣な言葉を書き連ねてきたけれど、やはり科学者はきちんとした科学的事実なしには将来の予測を過度にも過少にもすべきではないというのが、わたしの信条である。
山中伸弥は橋下徹との談話(文芸春秋2020年6月号)で、
「どちらかで失敗するとしたら、「やり過ぎ」のほうがいい。やり過ぎの失敗はあとからカバーできますが、不十分を選んで医療崩壊を起こし、死体がゴロゴロ転がる状況になったら取り返しがつきませんから。」 と言っていた。
「やり過ぎ」というのは、医者の傲慢であり、ノーベル賞学者の傲慢であろう。正義感も行き過ぎるとこうなるのである。これがすでに昨年4月の段階で見えていた。
こういう人間をノーベル賞学者にしたのは日本の不幸かもしれない。
留め置きて誰をあはれと思いけん子はまさるらん子はまさりけり
此の身こそ子のかはりには恋しけれ親恋しくは親を見てまし
親のため人の喪事は悲しきをなぞか別れをよその聞きけん
反氏さんが、絞り出すようにして語られる奥様への語りは、わたしにはつらかった。そのたびに話題がそれるように、それるようにと、そればかりを思って書き込んでいたのですが。
和泉式部の歌はいい。 憶良と和泉式部がわたしの好き人だ。
数ふれば年の残りもなかりけり老いぬるばかり悲しきはなし
コロナ脳に感染してほぼ一年、年明けて久しぶりに統計解析のまとめを続けはじめたら、よみがえってきた。わたしには、こちらの方が身にあうなと。さもあらばあれ。
いつか、また会う時もあるでしょう。
468⇒【反氏さんが、絞り出すようにして語られる奥様への語りは、わたしにはつらかった。そのたびに話題がそれるように、それるようにと、そればかりを思って書き込んでいた】――日下部翁の心遣いに感謝しなくてはならない。
それは、春の彼岸で二人で墓参りをした日だった。その日は同時にイチローの引退会見もあって思い出深い日であったうえに、妻にとっては、ある意味で画期的な一日だった。
というのも、それまである有名女優から父親が採ったという名の響き、具体的には音の濁りが好きでないといっていた妻が、ニコニコして私に新聞の切り抜きを示しながら、ヒヤシンスを意味する「風信子」を発見したことを喜び、すっかり自分の名前のイメージが変わったと告げた。
それは、堀辰雄の若き友人で、24才で肺結核で死んだ、詩人にして建築家の立原道造の80回目命日、「風信子忌」が近いことを告げる一面コラムだった。ヒヤシンスというより、大輪の牡丹、面ざしはバタ臭かったからダリアのような女だったが。
新型コロナの新規陽性者は減少傾向で昨日9日は全国で1,570人、東京は412人だったが、死者が相変わらず多く、94人だった。遺族が故人の最期を看取れない、哀切な別れが、繰り返されたことだろう。2類相当の指定感染症ゆえの不条理と言えば言える。
灰になって、変わり果て、小さくなって帰ってきた故人を出迎える辛さ、遣る瀬なさを思うと、心から同情せずにはいられない。この世はすべからく、生者の都合でできている。人間とは、生きることとは業が深い境位で、それもまた宿命だ。
もう一つ、コロナに重ねて言えば、妻は二度目の大規模な吐血で一時生死の境をさまよったが、気丈な妻を一番苦めたのは、そこから不死鳥のように蘇った後に襲った重度の味覚障害だった。
季節は折から大好物の西瓜の季節だった。そうして、食べるものすべてが苦いと訴え、カビの生えたものを口にするような感覚でほとんど食事が進まなかった。同時に嗜好が変わって、それまで苦手だった酢の物が辛うじて口にできたことは皮肉な巡り合わせだった。
時折襲う吐き気に、横になっていることが多かった自宅療養中は、打ちひしがれて暮らしていたわけではなく、死の直前には3泊4日の台湾旅行にも出かけた。しかし、食を奪われ、生きること自体が苛酷な日々だった。それでも残されることになる気の利かない亭主を気遣って、「ごめんねぇ~」と泣き崩れることもあった。
そうして燃え尽きるように死んでいった。誰も恨むことなく。
「或る荒れ果てた季節 / 果てしない心の地平を / さまよい歩いて/ さんざしの生垣をめぐらす村へ / 迷いこんだ / 乞食が犬を煮る焚火から / 紫の雲がたなびいている / 夏の終りに薔薇の歌を歌つた / 男が心の破滅を歎いている / 実をとるひよどりは語らない / この村でランプをつけて勉強するのだ / 『ミルトンのように勉強するんだ』と / 大学総長らしい天使がささやく / だが梨のような花が藪に咲く頃までに / 猟人や釣人と将棋をさしてしまった / すべてを失つた今宵こそ / ささげたい / 生垣をめぐり蝶と戯れる人のため / 迷つて来る魚狗と人間のため / はてしない女のため / この冬の日のために / 高楼のような柄の長いコップに / さんざしの実と涙を入れて」(「冬の日」、西脇順三郎『近代の寓話』)
「なつかしい、素朴な、古びたあの家。中二階の窓がまるで二つの眼のように私を見つめ…ミシューシの住む中二階の窓に、ぱっと明るい光がさし、…
中二階のあるあの家の記憶も、近ごろはだんだん薄れてきました。ただ、ごくまれに、ものを書いたり読んだりしているときなど、あの窓、窓にともった緑色の灯火のことや、真夜中に、寒さにかじかんだ手をこすりながら、恋に酔って野道を帰ったときに聞いた、われとわが足音のこと、わけもなく、ふと思い出します。それから、これはもっとまれにしかないことですが、悲しい孤独の思いに苛まれて、そこはかとない追憶に耽るようなとき、なぜかしら、向こうも私を思っていてくれるだろう、待っていてくれるだろう、そして二人はいつかは会えるだろう、と、そんな気が少しずつしてくるのです……
ミシューシ、君はどこにいるの?」(‘милый, наивный, старый дом, который, казалось, окнами своего мезонина глядел на меня,… В окнах мезонина, в котором жила Мисюсь, блеснул яркий свет,……Я уже начинаю забывать про дом с мезонином, и лишь изредка, когда пишу или читаю, вдруг ни с того, ни с сего припомнится мне то зелёный огонь в окне, то звук моих шагов, раздававшихся в поле ночью, когда я, влюблённый, возвращался домой и потирал руки от холода. А ещё реже, в минуты, когда меня томит одиночество и мне грустно, я вспоминаю смутно, и мало-помалу мне почему-то начинает казаться, что обо мне тоже вспоминают, меня ждут и что мы встретимся…
Мисюсь, где ты ?’; Дом с мезонином, IV)
人は出会い、そして別れる。[完]
まもなくコロナ禍もちょうどまる1年です(去年2月ころから始まりました)。日本だけでなくこのウイルスについては世界的な動向も注視だと思います。1年で収束(≠終息)するのか!?まだ新たな展開があるのかについてです。ーーー最後に反さんの470拝読しました→「ごめんねぇ~」と泣き崩れる・・< 切ないですね!(残された反さんが) この投稿だけでなく奥さまの件は、度々反さんの記事に出て来ています。Gも何気なく拝読しています。きっといい奥さまだったのでしょう。
問題は、五輪・パラリンピックの領域、「女性蔑視」の枠組みを超えて、所謂、社会的多様性追求とジャンダー・フリーを至上命題とする、あらゆる性的、社会的差別の撤廃を訴え猛り狂い、女性蔑視発言に甘いどころか、「日本社会の抱える」時代錯誤的な「遅れた体質」に広がり、国際問題化をもくろむ動きが内外にみえる。
そのため、アスリート・ファーストというもう一つのお題目もかすみがちだ。皆それぞれ、自分に向かって言われたことと勘違いしているのか一家言があるらしく、十把一からげの、生真面目でナイーヴな、愚にもつかないお題目を無邪気に唱和している。私が唾棄する集団的思考だ。
メディアもその喧伝役として、連日大きな扱いで報じている。こうなってくると、一種の「ジャンダー・フリー教」で、その正当性を信じて疑わない問答無用の当世風の「神聖病」(ἱερὸς νόσος)が、新型コロナ同様蔓延しつつある。そして私はこの偽善、つまり現代的な慣習である擬似法、つまり人為的な約束事=ノモス(νόμος)に何の興味もない。
たとえそれが国法(οἱ νόμοι)なったところで、所詮は時と所が異なれば扱いが変わる人為=ノモスに外ならず、自然=ピュシス(φύσις)ではないから、時代を超えて容易には変わらない、人間自然の性情(ἡ ἀνθρπεία φύσις)、人間の自然的条件(ἡ φύσις ἀνθρώπων)、人間普通のやり方(τὸ ἀνθρωπείου τρόπος)と言い方はいろいろあるが、至上の真理などではなかろうと、勝手に考えている。
しかし、「だから何なの?」としか思わない保守反動に徹している。それが、自由に生きる人間の特権かもしれない。人間は「平等であるかのように」(ἰσονομία ὡσπερεί)扱われるべきだし、それが礼儀だろうと思うだけである。
しかし、この点に関して現代社会は極めて不寛容である。「ジャンダー・フリー」を認めない社会の旧弊を糾弾するだけで、この問題の本質にある人間自体について考えようとする視点は、恐ろしいほど欠落している。それは、「そうであるべき」という規範命題(ἐπιτάττουσαι ὑπόληψις)、実現が望ましい目標(προθέσις)であって、事実(ὅτι)でも現実(τὸ γιγνόμενον)でもない、という考察が欠落している。
事実判断(Tatsacheurteil)と、規範命題のような価値判断(Werturteil)が自ずと異なることは人々も知らないわけではないが、それが当世の問答無用の規範になっていることは、例外らしい。
人々や社会の大半が正しい(δίκαιος)と信じて疑わないことを、世の認識や価値観とは全く別の観点から考えるのが哲学というものだから、仕方がない。それ以上に人々を無意識のうちに支配している善や正義(この二つは同じではない)に関する概念的混乱も同時に考えている。
「ムーアの書物の重要な目的は、心の属性としての善さ(goodness)と、行動の属性としての正しさ(rightness)とを区別することにあった。彼にはまた、行為の一般的規則の正当化を扱ったが一節がある。正しい行為に関する彼の理論において、確率にかんする考察が演じている大きな役割が、実のところ、私が多年確率の問題の研究に余暇のすべてを費やすに至った重要な原因であった。つまりわたしは、ムーアの『倫理学原理』とラッセルの『数学原理』と双方の影響を同時に受けて、この主題について筆を執っていたのである。しかし、先に述べたように、普通われわれは、ムーアの本のこの側面には注意を払わなかったか、あるいは、本気で取り組もうとはしなかった。われわれは尤もらしい現在の中に生きていて、行為の結果に関するゲームの規則には手を染めていなかった。われわれはプラトンの『対話篇』の世界の中にいたのであって、『法律』はおろか『国家』にも到達していなかった。」(大野忠男訳、580頁=‘It was an important object of Moore’s book to distinguish between goodness as an attribute of states of mind and rightness as an attribute of actions. He also has a section on the justification of general rules of conduct. The large part played by considerations of probability in his theory of right conduct was, indeed, an important contributory cause to my spending all the leisure of many years on the study of that subject: I was writing under the joint influence of Moore’s Principia Ethica and Russell’s Pirincipia Mathematica. But for the most part, as I have said, we did not pay attension to this aspect of the book or bother much about it. We were living in the specious present, nor had begun to play the game of consequences. We existed in the world of Plato’s Dialogues; we had not reached the Republic, let alone the Laws.’; My Early Beliefs, The collected writings of John Maynard Keynes, 1972, vol. 10, p. 445)
ケインズたち、俗悪なヴィクトリア朝的価値観への若き反逆者、しかも個性や嗜好、職業や地位、個別の信条も一色ではない上層中流階級のエリート、知識人や芸術家によるインナー・サークル、所謂ブルームズベリー・グループ(Bloomsbury Group)が無視し、軽視したようとしたのは「将来の全工程を通じて、因果関係の吟味により、最も確実な、終局的な善の極大を生み出すように行動すべき責務」(‘the obligation so to act as to produce by causal connection the most probable maximum of eventual good through the whole procession of future ages’;)であり、「一般的ルールに従う個人の義務」(a personal liability on us to obey general rules)だった。
それについてケインズは 「これはわれわれに一つの大きな利点をもたらした」(‘This brought us one big advantage’)と語る。その根底にあるのは、功利計算に基づく快楽主義からの自由であり、その「哲学」において、「経済的動機や経済的基準が、少なくとも小鳥たちのために托鉢した、アッシジの聖フランチェスコにとってほどの意味もなかった」(‘with the economic motive and the economic criterion less prominent in our philosophy than with St. Francis of Assisi’; p. 455)と揶揄をこめて回想する功利主義哲学=ベンサム主義の伝統からの解放だった。
「ベンサム主義の伝統から抜け出したことが、われわれにとってなぜそのように大きな利点であったのか、その説明を試みることは、この回想録の眼目でがない」(‘It can be no part of this memoir for me to try to explain why it was a such a big advantage for us to heve escaped from the Benthamite tradition.’; p. 445)と前置きしたうえで、ケインズはベンサム主義的な合理性追求の功罪を、二重の意味を込めて語る。
それに基づいて、ケインズは「慣習的な道徳や、因襲や、伝統的な知恵全く拒否した」(‘We repudiated entirely customary morals, conventions and traditional wisdom’)、「合理的」社会改良の進化形、マルクス主義もベンサム主義の同類だったという認識がある。
「そのうえ、マルクス主義として知られる。ベンサム主義の極端な帰結(reductio ad absurdum)の決定版から、われわれの仲間全体を守るうえに役立ったのはわれわれの哲学の至高の個人主義に加え、上に述べた、ベンサムからの脱却であった。われわれは、確かに、これらの経済学上のインチキ信仰に代えて、われわれの後継者たちを守り、あるいは、満足させるに足るものを提示することのは完全に失敗した。けれども、われわれ自身は――われわれすべては、と言えるのではなかろうか――このウイルスから全く免疫になっていて、城塞の中にあるローマ教皇のごとく、われわれの究極的信条という城塞の中で安全であった。」(581頁)
(‘Moreover, it was this escape fron Bentham, joined with the unsurpassable individualism of our philosophy, which has served to protect the whole lot of us from the final reductio ad absurdum of Benthamism known as Marxism. We have completely failed, indeed, to provide a substitute for these economic bogus-faiths capable of protecting or satisfying our successors. But we ourselves have remained ― am I not right in saying all of us ?― altogether immune from the virus, as safe in the citadel of our ultimate faith as the Pope of Rome in his.’; p. 446)
ケインズは「換言すれば、われわれは厳密な意味における不道徳主義者であった」(‘We were, that is ot say, in the strict sense of the term, immoralists.’)として、「順応するとか従うとかいう、道徳的責務や内面的拘束は一切認めなかった。神を前にして、己の事件は己で裁くのだと主張した」(‘we recognised no moral obligation on us, no inner sanction, to conform or to obey. Before heaven we claimed to be our own judge in our own case.’)。
ケインズはそれを「ロシア人的特性」(a Russian characteristic)と見なす。ケインズはそれに対する疑念を深めつつ、しかもなお「私は依然として不道徳主義者であるし、これから先もずっとそうである」(‘I remain, and always will remais, an immoralist)と言い切る。それは、カントやベンサムに依拠した合理的利己心(rational self-interest)への反逆の確認だ。
同時に、注目すべきは「今にして思えば、人間の本性、つまり他の人々とわれわれ自身の人間性がどんなものかということについての、はなはだ浅薄な、ア・プリオリな見解に基づくものであったという事実なのである。この見解は、どうにもならないほどのひどい誤りであった」(‘the fact that is it was flimsily based, as I now think, on an a priori view of what human nature is like, both other people’s and our own, which was disastrously mistaken.’; p. 447)という醒めた認識と同居することだ。
そこから、次のような苦渋に満ちた認識が生まれる。
プラトンは『法律』の中でこう述べた。すぐれた法典のうち最善の法律の一つは、およそ青年に対しては、それらの法律の中のどれが正しいとか誤りだとか、詮索することを禁じている半面、法典の中になにか欠陥を認めた老人は、自分の気づいた点を、青年が誰もいないときに、統治者なり同年輩の人なりに伝えることが許される、そういう法律だというのである。それはわれわれにとって、その主眼点や重大さをまったく見出し得なかった金言であった。」(583~84頁=‘We were not aware that civilization was a thin and precarious crust erected by the personality and the will of a very few, and only maintained by rules and conventions skilfully put across and guilefully preserved. We had no respect for traditional wisdom or the restraints of custom. We lacked reverence, …… It did not occur to us to respect the extraordinary accomplishment of our predcessors in the ordering of life(as it now seems to me to have been)or the elabolate framework which they had devised to pretect this order. Plato said his Laws that one of the best of a set of good laws woule be a law forbidding any young man to enquire which of them are right or wrong, though an old man remarking any defect in the laws might communicate this observation to a ruler or to an equal in years when no young man no present. That was a dictum in which we should have been anable to discover any point or significance whatever.’; p. 447~448)
そのうえで、次のように指摘する。
それはある強力で価値ある、感情の源泉を無視していた。自発的で、不合理な、人間本性の噴出のあるものには、われわれの図式主義とは無縁な、ある種の価値がありうる。邪悪な振る舞いと結びついた感情の中にさえ、価値を有するものがありうるのである。」(584頁=‘As cause and consequence of our general state of mind we completely misunderstood human nature, including our own. The rationality which we attributed to it led to a superficiality, not only of judgement, but also of feeling. It was not only that intellectually we were pre-Freudian, but we had lost something which our predecessors had without replacing it. …… The attribution of rationarity to human nature, instead of enriching it, now seems to me to have impoverished it. It ignored certain powerful and valuable springs of feeling. Some of the spontaneous, irrational outbursts of human nature can have a sort of value from which our schematism was cut off. Even some of the feelings associated with wickedness can have value.’; p. 448~449)
人間性と合理性に関する晩年の透徹した視点がそこにある。それは同時に「若き日の信条に」対する省察の結果であった。
人間も社会も一筋縄ではいかない存在だ。洞察はナイーヴな軽躁からは生まれない。「女性蔑視発言」騒動にも、何も考えないことを真理とする人々の思想的貧困が透けてみえる。[完]
ポリコレについては、カロさん(486)の見解に賛成したいです。孔子もいいました→「過ぎたるはなお及ばざるが如し」でしょうか!?。
政府解釈さん!わざわざご丁寧な回答(489)ありがとうござます(期待していませんでした)。裁判官って激務のようですね。裁判官を経て公証人(男性)になった方の講演でのネタですが、現役時代女性の裁判官は優遇されている!と本音を漏らしていましたw 自分らは、逮捕状審査のための当直があるのに女性はないとか!?そういう内情を、その講演で初めて知りました。
一応コロナの話題にも触れておきます。最近はワクチンが話題です。神の手医師いわれる大木隆生 氏からのツイッター情報https://twitter.com/Ohki_TakaoMD/status/1359711741731434498→ワクチン接種でコロナ禍が収まるとの楽観的な見方もありますが、忘れてはならないのはインフルに対して毎年何千万人にワクチンを打ってもインフル感染者が1,000万人(新コロの30-40倍)も発生し死者数も3,000人~1万人出ていると言うnot so simpleである事を示すシンプルな事実です。< (引用終り)としてワクチン接種の効果は、インフルエンザの例から限定的としています。それより、欧米並みの感染症有事に対する「医療体制の強化」の方が課題と指摘しています(以前紹介済み)。
ところで、民主制における自由と平等(ἐλευθερία καὶ ἰσονομία)を考えるうえで、示唆に富む議論がある。端的に言えば、それは民主制の下で不可避な過度の平等の追求に伴う画一化(Uniformierung, uniformisation)であり、自由の窒息(Erstickung, étoufement)だ。
政治形態に限らず、特に民主制の場合はなおさら、「いずれの国民もそれぞれに応じた政府をもつ」(‘Toute nation a le gouvernement qu’elle mérite.’; Correspondance diplomatique de Joseph de Maistre, 1811~1817, Recueillie et publiée par Albert Blanc)とはいうが、いろいろ考えさせられる。
この点について、ハイデガーの弟子で、ナチスの迫害を逃れて先の大戦中に亡命したユダヤ人哲学者、カール・レーヴィット(Karl Löwith, 1897~1973)は、名著『ヘーゲルからニーチェへ』(„Von Hegel zu Nietzsche: Der revolutionäre Bruch im Denken des neunzehnten Jahrhunderts“, 1941)の第二部「市民的=キリスト教的世界の歴史」(Studien zur Geschichite der bürgerlich-christlichen Welt)の「アレクシ・ド・トクヴィル」(A. C. comte de Tocqueville)を論じた章で、トクヴィルと民主制について、次のように説き起こす。
「トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』は1830年から40年にかけて、そして『旧体制と大革命』という歴史的分析は1856年に出たが、著者本人は、時代の動きに対して完全なバランスのとれた立場にあった。」(三島憲一訳、岩波文庫、下巻60頁=„Tocqueville dessen Werk über die amerikanische Demokratie von 1830 bis 1840 und dessen historische Analyse des alten Staatswesens und der Französischen Revolution 1856 erschien, war persönlich gegenüber dem Geschehen der Zeit in einem vollkommen Gleichgewicht.“; Philosophische Bibliothek, S. 274)
「わたしは、長い革命の最後の時期にこの世に生まれた。この革命は旧来の国家を破壊したが、恒常的なものはまだ生み出していなかった。わたしが物心ついた時には貴族階級は死滅していたが、デモクラシーはまだはじまっていなかった。したがってわたしは本能からして、このどちらかに盲目的に飛びつくことはできなかった。……わたし自身は祖国の旧来の貴族階級の出身なので、この階級を憎むことも嫉妬することもなかった。だからといって、この階級が破壊されたときに、特に愛惜することもなかった。なぜなら人間は生きているものとのみつながることを好むものだからである。わたしは貴族階級に近いので、十分にこの階級を知っていた。だが同時に、この階級から十分遠くにあったので、いかなる情熱にも惑わされずに、この階級について判断することができた。デモクラシーについても同じである。」(61頁=„»Ich kam an Ende einer langen Revolution zur Welt, die den alten Staat zerstört und nichts Dauerhaufes begründet hatte. Als ich anfing zu leben, war die Aristokratie schon gestorben und die Demokratie noch nicht geworen. Mein Instinkt konnte mich also nicht blind bestimmen, die eine oder die andere zu ergreifen …. Da ich selbst der alten Aristokratie meines Vaterlandes angehörte, haßte oder beneidete ich sie nicht und leibte sie auch nicht mehr besonders, als sie zerstört wurde; denn nur dem Lebendigen verbindet man ich gern. Ich war ihr nahe genug, um sie gut zu kennen, und stand ihr genügend fern, um sie ohne Leidenschaft beurteilen zu können. Über die Demokratie kann sich das Gleiche sagen.«.“; ibid., S. 274=Phil. Bib.引用の独訳に拠った)
レーヴィットが説くように、トクヴィル=「彼はバークやゲンツのようにフランス革命を断固として批判する立場に立つことはなかったし、また革命の友でもなかった。」(引用続く)
『アメリカの民主政治』(“De la démocratie en Amérique”, 1835~40)にも見られる、民主制における「自由と平等との間の不均衡」(das Mißverhältnis von Freiheit und Gleichheit)の問題だ。平等が時に自由と激しく対立せざるを得ない事情について、
「第三身分の解放は、水平化と平等化をもたらしたが、問題は、市民的デモクラシーが果たして自由をもたらすかという点にある。トクヴィルの理解する自由とは、単なる独立のことではなく、自らに責任を負う人間の尊厳のことである。こうした責任感に基づく尊厳がなければ、真の支配も真のデモクラシーもありえないと彼は論じた。元来フランス革命は、平等を求める心情のみでなく、自由の制度化を激しく求めたのだ。だが、自由への情熱はじきに失われ、残ったのは平等への情熱のみだった、とされる。自由への情熱と平等への情熱は、当初のほんのしばらくのあいだ、どちらもおなじ本心からの強力な情熱のように見えたが、もともと古さに関してはおなじでなく、より古く、またより永続的だったのは、平等の追求だった。」(61頁=„Die Emanzipation des dritten Standes hat nivelliert und gleichgemacht, die Frage ist aber, ob die bürgerliche Demokratie auch frei macht.“(引用続く)
(„Unter Freiheit versteht Tocqueville nicht bloße Unabhängigkeit, sondern die Würde des sich selbst verantwortenden Menschen, ohne die es weder wahre Herrschaft noch wahren Dienst gibt. Die Französische Revoluyion hat sich ursprünglich nich nur für Gleichheit, sondern auch für freie Institution begeistert, aber sehr bald verlor sich die Leidenschat für die Freiheit und übrig blieb die für die Gleichheit. Beide sind nicht vom gleichen Alter und haben nicht immer nach demselben Ziele gestrebt, obgleich sie für einen Augenblick gleich aufrichtig und kräftig erschinen. Älter und beständiger ist das Streben nach Gleichheit.“; S. 275)
そして、そうした平等の追求を推進したのが、教会であり通商と交通の発展、貨幣経済、印刷術や火器の発明、米国の植民、文学による啓蒙であったことを指摘しながら、
「自由を通じてのみ平等になりうるという信念は、こうしたものに比べれば、最近のことであり、それほどずっと存在していたわけではない。ナポレオンが革命の主人公になったときに、平等が優先されて自由は退くことになった。」(62頁=„Jünger und unbeständiger ist der Glaube, daß man nur durch Freiheit auch gleich werden könne. Als noch Napoleon zum Herrn der Revolution macht, dankte die Freiheit zu Gunsten der Gleichheit ab.“; S. 275)として、何ゆえに、そのことがナポレオンによる合理的な形態での専制政治が可能になったのかという事情を解き明かす。
「市民たち相互の、また市民と国家との何千というさまざまな関係を規則化するいっさいの法律をナポレオンは同じ平等の精神で策定し公布した。それを通じて、彼は同時にいっさいの行政権力を生み出し、こうした行政権力を自らに服せしめ、それらが一丸となって巨大かつ単純な政府機構となるように、そしてその唯一の動力が彼ナポレオンその人にほかならないような政府機構にしたのだ」(62頁)
(62頁=„»Nachdem er alle Gesetze, die die tausend Beziehungen der Bürger unter sich und mit dem Staate zu ordenen hatten, in einem gleichen Geist verabschiedet hatte, konnte er zugleich alle Exekutivgewalten schaffen und sie so subordinieren, daß sie alle zusammen nur eine große und einfache Regiorungsmaschine darstellten, daren Triebkraft er einzig und allein war«.“; S. 275)とするのがトクヴィルの見解だ。
レーヴィットはそれを「一人ひとりが自らの価値とその独立性を過大評価している間に、実際には公共の領域は、個人の存在を奪うような『政治的汎神論』へと向かっていた」(„Während jeder Einzelne seinen Wert und seine Unabhängigkeit überschätzte, strebt die Öffentlichkeit einem »politischen Pantheismus« zu, der Individium seine Existenz nahm.;“; S. 275)と、平等の逆説を指摘する。そしてナポレオンの軍事的な天才が対外的な優位性を実現していく過程で、人々は民主制を見失っていく。
「人々は自分の運命に無関心となり、古典古代のポリスのデモクラシーの優れたところである偉大なる市民感覚からは遠いところにきてしまった。ポリスにあってはまさに政治的共同体の強制力こそが、強力な個性を生み出したのだが。」(63頁=„Die Menschen aber wurden gegen ihr Shicksal gleichgültig, fern von allem großen Bürgersinn, wie er die antiken Stadtdemokratien ausgezeichnet hatte, weil dort gerade der Zwang der Polis die extremsten Individualitäten hervortrieb.;“; S. 275)
だから、トクヴィルとともにレーヴィットは、平等への過度の傾斜が自由という土台を腐食させる民主制の根本的矛盾を訴える。
今回の一連の騒動、私の見立てだと集団ヒステリーの根底にも、平等に関する根本的な議論はない。「ジャンダ―・フリー」は、異論を許さない「不文の掟」として壁のように立ちはだかっている。
そして、そうした時代の滔々とした潮流(τὸ ῥεῦμα)に酔狂に抗い、「反時代的考察」(Unzeitgemäße Betrachtungen)を続けるのが私ということになる。この間の当事者はもとより、外野の世間やメディアの議論は、自由と平等との関係について、根本的洞察を欠いていることは言うまでもない。
私はナイーブな信条の類を唱和する趣味はない。[完]
「私がどこから始めるべきかということは、私にとってはどうでもよいこと。なぜなら、私はやがてまたそこへ帰ってくるであろうから。」(‘ξυνὸν δέ μοί ἐστιν, ὁππόθεν ἄρξωμαι• τόθι γὰρ πάλιν ἵξομαι αὖθις.’; Frag. V, Diels-Kranz, Bd. I, S. 232)
自分と立場の違う人の立場も尊重する、それが民主主義の根本である。人間には思想、表現の自由があり、その人自身が考え、判断する自由がある。洗脳される道具ではない。楠山義太郎さんは、それがよくわかったジャーナリストであったから、尊敬できた。氏が80歳を過ぎてからお付き合いさせていただいたが、深い洞察力ははかりしれなかった。
その高校時代の倫社の教師の学歴は、東京大学法学部、政治学科卒でした。
お詫びして、訂正します。
要するに、米国のファイザーにしろ、ジョンソンエンドジョンソンにしろ、巨大薬剤企業は、利益拡大のために、薬を作っているのであって、国民の健康や公共の福祉の為に薬を作っているのではない。また、アメリカのトランプ前大統領が、その米国の巨大企業のこの傾向の後押しをしていた、と報道されていたからである。ギリアドのレミデシベルも、その薬剤の一つだそうであるが、だからこそ、トランプ大統領が強力に宣伝し、現実は、10月17日、WHOは大規模な治験の結果、レムデシビルが新型コロナウイルスに効果がなかったとの暫定的な研究結果を発表し、11月20日、副作用や医療現場への負担の懸念から新型コロナウイルス患者に対して使用しないことを勧告したそうである。日本の報道番組は、本来、薬品、PCR検査、ワクチンの宣伝の場ではないはずである。それぞれの商品の、メリット、デメリットを報道すべきなのではないのだろうか。この情報は人の命にかかわるのだから、それが、医学系情報番組の基本だと、私は思う。
「巨大薬剤企業」?、「製薬企業」じゃない。なお、「レミデシベル」ではありません。Remdsivir。他人のをコピペ!?すると、「WHOは大規模な治験の結果、レムデシビルが…」と書くのに、少しも気づかない。バカバカしい「東大政治家卒」より重大。
レムデシビルについて、ギリアドはNIAID(米国立アレルギー・感染症研究所)主導の臨床試験の厳密さを強調して、 WHO主導の臨床試験について「WHOのガイドラインがNIAID主導の臨床試験のエビデンスを軽視していることを残念に思う」との声明を発表、日本政府も承認を見直す考えはないとの認識を示している。今年1月には添付文書が改訂され、中等症の患者にも投与できるようになった。
カロお婆ちゃんの指摘は一面的。いつものことだから驚かないけれど。
なお、厚生労働省の「新型コロナウイルス感染症治療の手引き」(第4版)によると、日本で現在使用されている薬は以下の通り。
レムデシビル=抗ウイルス薬→エボラ出血熱(ギリアドサイエンシス/商品名ベクルリー)▼デキサメタゾン=ステロイド→重症感染症など(日医工など、デカドロン)▼ファビピラビル=抗ウイルス薬→新型・再興インフルエンザ感染症(富士フイルム、富山化学工業/アビガン)▼イベルメクチン=駆虫薬→腸管糞線虫症、疥癬(MSD/ストロメクトール)▼トシリズマブ=抗IL-6R抗体→関節リウマチなど(中外製薬、スイス・ロシュ/アクテムラ)▼バリシチニブ=JAK阻害薬→関節リウマチ(米国イーライリリー/オルミエント)▼ナファモスタット=タンパク分解酵素阻害薬→急性膵炎など(日医工など/フサン)▼カモモスタット→タンパク分解酵素阻害薬→急性膵炎など(小野薬品工業など/フオイバン)
森問題でも、モリカケサクラ問題でも同じであるが、
人の揚げ足取りばかり、批判や中傷ばかりするのをやめて、日本のマスコミ、コメンテーターは、視野をひろげるべきなのだ。
ドキュメンタリー、をみてから、批判するのが、本来の礼儀のある知性のある人のすること。それをしないから、いつまでも真理のつばさが羽ばたかず、堂々巡りをくりかえすのだ。
これも昨今話題の「老害」(ἡ βλάας τοῦ γέρωντος)かもしれない。若者たちの害(ἡ βλάας τῶν νεανιῶν)ということがあるのかどうか分からないが、「若者の無思慮」(ἀφροσύνη τῶν νεανιῶν)はあろう。最もこの点で、「老人の無思慮」(ἀφροσύνη τῶν γέρωντοιν)も似たようなものかもしれない。
違うところがあるとするなら、若者のたちの無分別が経験や学習の不足によって避けれれない、大目に見なくてはならない側面があるのに対して、馬齢を重ねても一向に賢くならない、堪え性のない幼児のような老人が少なくないということだろうか。
ところで、レーヴィットの議論に戻せば、次のような認識だ。
「古き貴族政治は、国民国家をつなげて大きな鎖を鋳造した。その鎖のひとつひとつの輪は、農民から王までつながっていた。ところがデモクラシーは、個々の特別な身分や権利から成るこうした正当なる権利の構造をばらばらにしてしまった。身分を相互に孤立させ、それぞれすべてを平等にし、ひとつの専制的な中央権力に服従しやすいように変えたのだ。『自由な市民』から『人間以下のなにものかを作り出す』ことを革命はやりとげたのだ。」(三島憲一訳、下巻、63~64頁)
★余白に 「一面的」にも狂信家の老婆の「独自の定義」(ἴδιος ὁρισμός)があるようだ(502)。アンチノミー氏は老婆と異なり、WHO、ギリアドサイエンシス、日本の対応を多面的に紹介している。それを、通常は「一面的」とは言わない。
惜しむらくは、×Remdsivir→ ◎Remdesivir。
„Die alte Aristokratie hatte aus den Staatsbürgern eine große Kette geschmiedet, deren mannigfache Glieder vom Bauern bis zum König reichten. Die Demokratie zerriß dieses legitime Gefüge von besonderen Ständen und Rechten, isolierte einen jeden vom andern, machte sie alle gleich und damit reif zur Unterwerfung unter eine despotische Zentralgewalt. So brachte es die Revolution fertig, aus dem »freien« citoyen » etwas Geringeres als einen Menschen zu machen«.“; Von Hegel zu Nietzsche, Philosophische Bibliothek 480, S. 276.
さらに、
「市民的デモクラシーから生まれた専制政治はまた同時に、いっさいの社会的勢力を糾合することで、個人の孤立化をさらに強める反作用を惹き起こした。……だがデモクラシーにおける専制政治において最悪なのは、水平化を生み出す中央権力への服従そのものというよりは、むしろ、この服従が不誠実になされていることである。というのも人々は、フランス革命によってあまりにも自立し、啓蒙された疑い深い存在になってしまったので、絶対的だが正当性の欠如した権力が正しい法となるなどということは信じられなくなっているのである。…こうして伝統が破壊された結果、国民の統一性はあまりにも高く評価し、一人ひとりの人間を低く見る『必然性というドクトリン』になるというのだ。」(64~65頁=„Zugleich mit der Zusammenfassung aller sozialen Kräfte wirkt der aus der brügerlichen Demokratie hervorgegangene Despotismus aber auch wieder verstärkend zurück auf die Isoletion der Individuaen .…… Das großte Übel der demokratischen Despotie ist aber nicht schon die Unterwerfung unter eine nivellierende Zentralgewalt, sondern die Unaufrichtigkeit dieser Unterwerfung. Denn die Menschen sind durch die Französische Revolution viel zu unabhängig, aufgeklärt und skeptisch geworden, um noch an das Recht einer absoluten, aber illegitimen Gewalt glauben zu können. .…… Die Folge dieser Zerstörung der Tradition ist die »Doctrin der Notwendigkeit«, welche die Einheit der Nation allzu hoch und den einzelnen Menschen allzu niedrig schätzt.“; ibid., S. 278~77)
正式に辞任した森喜朗元首相の「女性蔑視発言騒動」で、盛んに日本の悪弊、後進性が指摘される。だが、巷間の議論には明確に意識されざる二重基準がある。「旧態依然」が指摘されるが、それこそ未曾有の大地震があって社会が大混乱を極めても、暴動どころか掠奪も起きない日本的特殊性と根底でつながっている。
川淵三郎氏への後継指名も「密室の決定」「透明性を欠く」と早速批判が上がって振り出しに戻った。
ケインズは先に紹介した晩年のエッセー「若き日の信条」の「人間の本性を合理的なものとみなしたことは、今にして思えば、人間性を豊かにするどころか、むしろ不毛なものにしたようである。…自発的で、不合理な、人間本性の噴出のあるものには、われわれの図式主義とは無縁な、ある種の価値がありうる。邪悪な振る舞いと結びついた感情の中にさえ、価値を有するものがありうる。」(‘The attribution of rationarity to human nature, instead of enriching it, now seems to me to have impoverished it. …… Some of the spontaneous, irrational outbursts of human nature can have a sort of value from which our schematism was cut off. Even some of the feelings associated with wickedness can have value.’; My Early Beliefs, The collected writings of J. M. Keynes, vol. 10, p. 448~449)に続く箇所で、さらに踏み込んで次のように言う。
「そうして、自発的な、爆発的な、邪悪ですらある衝動から生じる価値に加えて、われわれの知っている対象の中にも、さらに価値ある観照と交わりとの対象が多数存在する。」(‘And in addition to the values arising out of spontaneous, volcanic and even wicked impulses, there are many objects of valuable contemplation and communion beyond those we knew of’; ibid.)
戦後は日本人自身も卑下する社会の伝統的合意形成の残滓は、欧米水準の、しかもにわかづくりの偽善的な「ジェンダー平等」ファシズムとは別の次元で近代化を成し遂げ、欧米諸国に比して少しも遜色のない民度の高さを実現できたことと無縁ではあるまい。
この点で、隠然として階級が存在する英国はもとより、エリート支配が既定の事実である欧米流儀の軽佻浮薄なpolitical correctnessなど、公職や商売上の都合でもなければ簡単には真に受けないことだ。
今回の海外世論の熱狂を眺めていると、コロナ禍ですっかり自信喪失状態になっている、特に進歩的な欧米のリベラル系世論が、手近で恰好な批判、攻撃対象を見出してほくそ笑み、糾弾して溜飲を下げているように見える。
日本メディアや海外事情通は「海外の常識」の提灯持ちだから、話半分に聞いておけばよい。
菅義偉首相は森氏に、後任人事について、適格者として「若い人、女性、スポーツ経験者」を挙げたようだが、それこそお題目と根本的には対立する。
それに同調して、「図に乗って」と言うべきか、世間知らずのアスリート(ὁ ἀθλητής)やオリンピック経験者らが、世間知らずの一面的な発言をしている。
そんなに「オリンピックの原点」(ἡ ἀρχή τοῦ Ὀλυμπιου)が大事なら、古代オリンピックの原点に返って、男性のみで、しかも不正防止に全裸で、原則観客なしで行えばいい。
もっとも、オリンピックの実像は「平和の祭典」(ἡ πανήγυρις τῆς εἰρήνη)というより、休戦期間中の息抜きで、古代のギリシアくらい同じギリシア人同士の抗争、つまり内乱(στάσις)の絶えない国家はなかった。
ただ、昨今のオリンピックのように見世物(ἡ θεωρία)ではなく神事(ἡ θυσία)なのだが。[完]
そこで混迷の原因だけを考えてみました。506でも言及がありますが、コロナ禍で、五輪の”7月末開催(Aプラン)が不透明”だということが、混迷の遠因です。開催がはっきりしていれば、こうは迷走しません。現状、五輪関係組織(IOC・日本政府・組織委・東京都)の連携がうまく行っていません。一番は、決定権者IOCに原因の一端があると思います。
やや変則的になりますが、来年(2021年)7月への延期のBプランを、もっと早めに示しておくべきでした(過去冬の五輪が夏の五輪と2年ごとに交互にできるようにしたので2年間隔もありえます1992年ー(2年)→1994年)。これがダメなら、2028年ロサンゼルスまで決まっていますから、2032年への飛び石延期(Cプラン)しかありません。いずれにしろコロナ禍が、一連の迷走の原因であることはまちがいありません。
それを普遍的な真実と思い込んで、どのような意図であれ、その正当性に疑いを挟む如何なる議論も容認しない「ジェンダー平等」狂に私は何の関心もない。だから、かかる教義に気兼ねして自由にものを考えることを憚ることもない。
冒頭の句は別の意図で提示した。「自分で自分を知らない」(αὐτὸς καθ’ αὑτόν μὴ οἶδα)もう一人の無学な婆さん(ἀμαθής γραῦς)の狂信への応答だ。
老婆は自分で「知らないことを知らないと思う」(μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι)という、真理を語る人間としては最も必須な分別が欠落した虚飾家だから、莫迦丸出しの法螺話に余念がない。
498⇒【反氏の定義とは違う、東大政治家卒(ママ=東大法学部政治学科卒)の倫社の教師に習ったソフィスト】――高校時代の倫理社会の授業で教師がソクラテスに関するプラトンの対話篇を、英語の副読本を教材に使って老婆に何を教えたかはおおよそ推測がつくが、教師自身の理解が元々通俗的な俗説を出ないか、老婆自身の理解に問題があるか、判然としない部分があるものの、そこに言うソフィスト(σοφιστής)の「定義」(ὁρισμός)とは、一般の国語辞書などにある既述通りの一面的理解、詭弁家という、ソフィストの全体像を反映しない後世の貶辞=悪名(διαβολή)のことだろう。
現在はそうした辞書や教科書の記述も変わってきて、老婆が主張し、狂信的に思い込んでいるような内容ではなくなってきていることも以前論じたが、ここでは繰り返さない。
老婆の主張は次のようなものだ。
そのほとんどすべてが間違いだらけの主張、老婆特有の思い込みで、箇条書きにすると、①【ソクラテスは、ペロポネソス戦争にアテネが敗れ、国力が衰退し始めた時に出てきた哲学者】②【ソフィストを揶揄したために、多くの敵を作り】▼③【ソクラテスが、アテネの衆愚政治時代に現れた哲学者】④【衆愚制は、ソフィストによってもたらされた】⑤【ソクラテスに対して若者を中心として人気が出て、ソフィストに敵をたくさん作り】――のすべてが、「定義」以前の事実誤認であることも、既に証明済みなので繰り返さない。
そこでソフィストの悪名に関するプラトンの記述として挙げるのが、冒頭の文章を含むプラトンの『国家』(第6巻6章)の一節だ。
「いったい、君もやはり多くの人々の考えと同じように、一部の若者たちがソフィストたちから害毒を受けているとか、ソフィストたちが個人的な教育を通じて害毒を――言うに値するほどの害毒を――与えているとかいうふうに、考えているのかね?」(引用続く)
もはや余計な註釈は不要だろう。ソクラテス自身も初期対話篇『メノン』でソフィストの代表格であるアブデラのプロタゴラス(Πρωταγόρας Ἀβδηρίτης, BC494/488~c. 424/418)について、ソフィストが若者たちを腐敗させる元凶として口を極めて罵倒するのに対して、プロタゴラスの生前や死後の評判がいいことを挙げて弁護している。
ソクラテスもプラトンも、その哲学観からソフィストについては批判的な見解を隠さないが、ソフィストと敵対してはいない。何より、ソフィストのほとんどは、アテーナイにとって滞在客か外国人居留民の教師であったこともそれを後押している。
高額の報酬を得て弁論術などを伝授するソフィストに対する警戒感や反撥がアテーナイ社会に存在したことは事実だが、彼らに政治的にも反感を抱いたのは、ソクラテスやプラトンではない。
田中美知太郎は戦前に上梓した『ソフィスト』(1941年、弘文堂、教養文庫87=現在は講談社学術文庫)で簡潔に述べている。
「プラトンも賛成しないソピステースのこの青年腐敗説を取り上げて、ソピステースを道徳破壊者に仕立て、ソピステースであるか否かの疑わしい人たちまで、その片言隻句によって、これをそのような意味のソピステースのうちに数え、一種の循環論によって、ソピステースをますます危険人物にしてしまった者は、19世紀ドイツの哲学史家たちであった。そしてこのソピステースと戦うために登場する騎士が説教家ソクラテスなのであった。このあまりにも通俗的な道徳家ソクラテスに対しては、われわれはニーチェともともにこれを唾棄しなければならないであろう。そしてその反動としてソピステースが英雄化されなければならなくなる。しかしながら、そのいずれも事実ではなかったのである」(講談社学術文庫版、191頁、『田中美知太郎全集』第3巻、141頁)
文中の「ソピステース」はソフィストを示すギリシア語[σοφιστής]を音写したもので、所謂「ソフィスト」がソピステースの実像と懸け離れていることから、敢えて表記を変えたものだ。
無知は途方もない妄想と狂信、道化者を生む。502⇒【真理のつばさ】(ἡ πτέρυξ τῆς ἀλήθειας)が聞いて呆れる。[完]
☆余白に 497末尾の‘ξυνὸν δέ μοί ἐστιν, ὁππόθεν ἄρξωμαι• τόθι γὰρ πάλιν ἵξομαι αὖθις.’; Frag. V, Diels-Kranz, Bd. I, S. 232.は、ソクラテス以前の哲学者エレアのパルメニデス(Παρμενίδης Ἐλεάτης, ca BC540~450)の『自然について』(Περί φύσεως)の断片5。
誰かのブログ(高校の先生?)、「世界史の窓 世界史用語解説」の「ソフィスト」(https://www.y-history.net/appendix/wh010.)に、【彼らの相対主義的な思考は、絶対的な真理を探究するソクラテスによって批判された】とあり、【相対主義・多元主義に立つソフィストの思想が、多様な価値観を認め合う現代にマッチしているとも考えられる】とある。
さらに、ソフィストについて、【通説的なソフィスト像を覆す、興味深い論考】として、納富信留氏の『ソフィストとは誰か?』を取り上げて、ソフィストに関する【悪い名前として広く用いられている】ソフィスト像が作られたものとを指摘する。
しかも、【ソフィストの本来の姿、あり方に迫った日本人哲学者が、すでに戦前に存在していた】として、反時流的古典学徒さんも言及している田中美知太郎氏の名前を挙げている。
その田中氏は、【ソピステースの思想のなかに、彼らが「普遍的教養」を授けることによって「人間教育」を行ったのであり、その理念はローマを経て西洋にける正統的なヒューマニズムに繋がる、と評価】として、これまで流布されてきた通俗的なソフィスト観が一面的であったことを指摘している。
さらに、ソフィストの活動が、【そこに見られる「論理的思惟」はプラトンの問答法やアリストテレスの論理学に発展し、ギリシア思想を飛躍的に発展させた】とも。
ブログは「授業と学習のヒント」というくらいだから、今時の高校生は、カロリーネさんのようなソフィスト観では合格点が取れないことを示している。
とにかく、「若い頃東大法学部政治学科を卒業された教師によって」教わった思い出話や、「反氏やそのお仲間によってどれだけ、これに類した悪意のあるレッテル」ではなく、具体的に、反さんの①〜⑤に答えないと、何の反論にもならないよ。
貴女には到底無理だと分かっているけれど。
ヒポクラテスの全集、所謂『ヒポクラテス集典』(Corpus Hippocraticum)については最近、希英対訳の『ロウブ古典叢書』(Loeb Classical Library)の11冊本全集を手に入れた。最も権威ある版本であるÉ. リトレの校訂、翻訳による10巻本全集、『ヒッポクラテス全集』(Œuvres complètes d’Hippocrate, traduction nouvelle avec le texte grec en regard, par Émile Littré, 1839~61)は、第一巻の復刻版を、50年近く前にオランダの出版社(Adolf M. Hakkert, 1973)から出たものを入手したが、揃いは復刻版でも高額で、そもそも出回りが少ない。
以前に紹介した『疫病論』(Ἐπιδεμιόν, De morbis popularibus)や『神聖病について』(Περὶ ἱερῆς νούσου, De morbo sacro)に加え、恐らくもっとも著名な著作『箴言』(Αφορισμοί, Aphorismi)、『女性の医学』(Περὶ γυναικείων, De muliebribus)など、折に触れて気ままに拾い読みする。
ヒポクラテスは極めて合理的な観察をする。人体を一つの有機体とみなして治療法を説き、そうした臨床経験に基づく観察と治療実績を重視した合理的な仮説を立てる。「体液理論」と称される、人間の疾病の原因を、血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁の調和が崩れることに求めた。
それはともかく、例えば、『箴言』。冒頭にラテン語の格言、「藝は長く、生は短し」(‘ars longa, vita brevis’)、つまり「学芸は長く、人生は短し。機会は逸しやすく、経験は危うく、決断は難しい」(‘ars longa, vita brevis, occasio praeceps, experimentum periculosum, iudicium difficile.’)の元になった、人口に膾炙した文章がある。次の一節だ。
一般的な観察としても充分説得力に富む洞察だ。「環境」と訳されているのは、‘τὰ ἔξωθεν’(externals)である。この場合の「学術」とは通常「技術」と訳されるテクネー(τέχνη)で、所謂「創作」(ποίησις)のことではない。[τέχνη]には「知」の意味があり、この場合は端的に医術(ἡἰατρική=medical science)を指す。
ところで、新型コロナの東京都の13日の新規陽性確認者は369人で引き続き低下傾向にあるが、死者は11人、重症者は104人で、病床使用率は52%。医療の逼迫状況が続いている(全国は同1,662人、死者65人)。
医学関係者にお馴染の「ヒポクラテスの誓い」(Ἱπποκράτειος ὄρκος, De visu)は、次の記述で始まる。
「私は誓います。医神アポロン、アスクレピオス、ヒュギエイア、パナケイア、およびすべての男神、女神にかけて、またこれらの神々を証人として、私の能力と判断に従い、この誓いと契約を実行することを。」(215頁)
‘Ὄμνυμι Ἀπόλλωνα ἰητρὸν καὶ Ἀσκληπιὸν καὶ Ὑγείαν καὶ Πανάκειαν καὶ θεοὺς πάντας τε καὶ πάσας, ἵστορας ποιεύμενος, ἐπιτελέα ποιήσειν κατὰ δύναμιν καὶ κρίσιν ἐμὴν ὅρκον τόνδε καὶ συγγραφὴν τήνδε•’; De visu, vol. I, p. 298.
続く部分は、
「私はこの術の師をば私自身の両親と同様に敬愛し、生活をともにし、師が金銭を必要とするときには私の財を分かち、死の子息をば私の兄弟に等しい者と考え、もし彼らが学ぶことを望むならば、報酬も契約もなしにこの術を伝授いたしましょう。教規と口述とそのほかのあらゆる教育を授けるのは、私の息子、わが師の子息、および医師の法に従って契約し誓いをたてた弟子に限り、そのほかの者にはこれを許しません。
私が自己の能力と判断とに従って医療を施すのは、患者の救済のためであり、損傷や不正のためにはこれを慎むでありましょう。」(249頁=‘ἡγήσεσθαι μὲν τὸν διδάξαντά με τὴν τέχνην ταύτην ἴσα γενέτῃσιν ἐμοῖς, καὶ βίου κοινώσεσθαι, καὶ χρεῶν χρηΐζοντι μετάδοσιν ποιήσεσθαι, καὶ γένος τὸ ἐξ αὐτοῦ ἀδελφοῖς ἴσον ἐπικρινεῖν ἄρρεσι, καὶ διδάξειν τὴν τέχνην ταύτην, ἢν χρηΐζωσι μανθάνειν, ἄνευ μισθοῦ καὶ συγγραφῆς, παραγγελίης τε καὶ ἀκροήσιος καὶ τῆς λοίπης ἁπάσης μαθήσιος μετάδοσιν ποιήσεσθαι υἱοῖς τε ἐμοῖς καὶ τοῖς τοῦ ἐμὲ διδάξαντος, καὶ μαθητῇσι συγγεγραμμένοις τε καὶ ὡρκισμένοις νόμῳ ἰητρικῷ, ἄλλῳ δὲ οὐδενί. διαιτήμασί τε χρήσομαι ἐπ᾽ ὠφελείῃ καμνόντων κατὰ δύναμιν καὶ κρίσιν ἐμήν, ἐπὶ δηλήσει δὲ καὶ ἀδικίῃ εἴρξειν.’; ibid., p. 298)
「たとえ懇願されても、死を招くような毒薬はだれにも与えず、だれにもこのような示唆を慎み、また同様に婦人に堕胎具を提供することはいたしません。純粋に清潔に、私の生涯と私の術を守りぬくえありましょう。」(249頁=‘οὐ δώσω δὲ οὐδὲ φάρμακον οὐδενὶ αἰτηθεὶς θανάσιμον, οὐδὲ ὑφηγήσομαι συμβουλίην τοιήνδε• ὁμοίως δὲ οὐδὲ γυναικὶ πεσσὸν φθόριον δώσω. ἁγνῶς δὲ καὶ ὁσίως διατηρήσω βίον τὸν ἐμὸν καὶ τέχνην τὴν ἐμήν.’; ibid., p. 298)
私が個人的に興味をもったのは、『女性の医学』の次の記述。女性の立場から見たら異論が出るかもしれない。そこに、病気でも男女間の認識の裂け目があるが、平等であろうとなかろうと、男と女は異なる。
極めて簡潔なので、訳文は英訳で紹介する。
‘You must also consider women’s natures, their complexions ant their ages, as well as the seasons, the places, and the winds. For cold women are moist and subject to fluxes, whereas warm ones are drier and more subject to stasis; fair women are moister and more subject to to fluxes, while dark ones are drier and more constricted; wine-colored women have something of both. The ages of life have the following significance: young women are generally moister and richer in blood, while older women are drier and have less blood; those between the two have something of both, since they are of an intermediate age. A person who maneges these matters correctly must distinguish on each occasion women’s natures, their ages of life, the seasons, the places, and the winds.’; ibid., p. 269)
‘Σκέπτεσθαι δὲ χρὴ τὰς φύσιας τῶν γυναικῶν καὶ τὰς χροιὰς καὶ τὰς ἡλικίας καὶ τὰς ὥρας καὶ τοὺς τόπος καὶ τὰ πνεύματα. αἱ μὲν γὰρ ψυχραὶ [αἱ δὲ] ὑγραὶ καὶ ῥοώδεις, αἱ δὲ θερμαὶ ξηρότεραί τε καὶ στάσιμοί εἰσιν• αἱ μὲν γὰρ ὑπέρλευκοι ὑγρότεραί τε καὶ ῥοώδεστεραι, αἱ δὲ μέλαιναι ξηρότεραί τε καὶ στριφνότεραι• αἱ δὲ οἰνωποὶ μεσηγύ τι ἀμφοῖν ἔχουσι. καὶ ἀμφὶ τῶν ἡλικιῶν ὡσαύτως συμβαίνει• αἱ μὲν γὰρ νέαι ὑγρότεραί τε καὶ πολύαιμοι ὡς ἐπὶ τὸ πολύ• αἱ δὲ πρεσβύτεραι | ξηρότεραί τε καὶ ὀλίγαιμοι• αἱ δὲ μέσαι μέσον τι ἀμφοῖν ἔχουσιν• ἰσενύουσαι. δεῖ δὲ τὸν ὀρθῶς ταῦτα διαχειριζόμενον διαγινώσκειν ἑκάστοτε τὰς φύσιας τῶν γυναικῶν καὶ τὰς ἡλικίας καὶ τὰς ὥρας καὶ τοὺς τόπους καὶ τὰ πνεύματα.’; De muliebribus, II-2, vol. XI, p. 268.
男と女の問題は永遠の課題だ。当世風の「ジェンダー平等」という、一切の異論を拒む「神聖病」がそれに応え得るか否かは、それぞれ考えればよい。[完]
☆余白に 反論不能だと、すべて「腹話術」らしい。私が答える立場にはないが、良識や知的誠意を期待できる相手ではない。
515⇒【本当の意味で「民主政治、法治主義」…ソクラテス的な生き方】――真の(ἀληθές)意味で民主制(δημοκρατία)それ自体の原理的否定者であるソクラテスについて、狂信的な信仰を語る老婆につける薬はない。
しかも、老婆に「徳」を語る資格があるとも思えない。徳とは、ソクラテスによれば知性や人柄における卓越性(ἀρετή)のことだ。老婆の莫迦話は戯画でしかない。
民放は、コロナ専門家の解説を、あたかも正しいもののように公共の電波を使って報道し、あまりの主張に老婆心からコメント440に、感染学会理事長で東邦大学教授の館田一博氏は、変異ウィルス、おそるに足らず、という意見の持ち主でもあると書いたが、Spiegelでこんな記事をみつけた。コロナの変異種 第三波を止めることはほとんど不可能だろう
Corona-Mutanten: Die dritte Welle ist kaum noch zu stoppen - DER SPIEGELである。
物理学者、数学者であるBraunschweigにある感染症研究所、HelmholtzセンターのM.M-Hermannによれば、変異種と共に、全く新しい感染症が始まった、ということだ。
ドイツでも、感染者数は下がったし、現在も対策の結果下がり続けている。しかし、まだ見えないところに山があり、感染力のある変異種が広がっている、まずB.1.1.7,数週間で英国を席巻した、その変異種の感染で世界で一番多い感染者数を出したポルトガルがある。この変異種が、ドイツでこの感染症の主役を果たすことは免れない。問題は、この危険な変異種が蔓延するかどうかではなくて、ただ、いつ蔓延するか、ということである。
また、日本でも、テレビやSNSで持論を展開する代わりに、実際にワクチンの研究開発をしている本物の研究者もおられる。神戸高校の合唱部の後輩、河岡義裕氏が主宰される河岡ラボであり、その様は、今日、2月14日(日) NHK BS1スペシャル 19:00~19:50「国産ワクチンを開発せよ! ~東大・河岡ラボ 300日の記録」
https://bangumi.org/si/35205で放映される。本来、ファイザーが、モデルナが、というのではなくて、日本でもワクチンを製造すべきなのではないのだろうか。昔、ミュンヘンの電気屋で、他の日本メーカーの製品は安値をつけているのに、井深大さんのソニーの製品だけが、日本の価格の2倍以上の高価格でも売れていて、とても嬉しかったことを思い出す。
勝手な思い込みで、やれソフィストだ、ソクラテスだとか、よく知らないことを書き散らしておいて、誤りを指摘されて反論ができなくなると一転して話がどんどんズレていく。
【東大法学部政治学科を卒業された教師他、私が小学校時代から習った教師…」(521)、結局東大卒とか国立大付属がどうこういう手前みその話ばかりで、議論があらぬ方向へ拡散して、ソフィストもソクラテスもいつの前にか置いてきぼり。勝手にやってればいいわ。
日頃は盛んに「無知の知」とか、人間には絶対はなくて相対的真理しかないからと、ソフィストの言ったことをそのまま繰り返していて、その肝心なことに少しも気づかない。
なぜ、反時流的古典学徒さんが、「老婆の他愛もないおしゃべり」と繰り返すのか、分かるわ。お婆ちゃんはほんとうに下らないことを、さも重大そうにもって回って、時間をつぶしている。
道徳がどうのこうの言っちゃって、皆さんの批判的コメントにゴマカシばかり重ねている。それも揚げ足取りだ、印象操作だ、誹謗中傷だとか被害妄想のような話ばかりで居直っている。肝心なことには何も答えない。貴女に道徳なんか語る資格はないんじゃない。
きょうも朝から4件も書き込んで、私の指摘もはぐらかすばかり。貴女のようなその場しのぎの、暇なお婆ちゃんの井戸端会議のような話、誰もしていないよ。
最近もミニヨンの話だっけ、桟敷席さんだかが指摘していたけど(「饒舌ナルシズム」)、ゲーテの原作を無視して、誤りを指摘されると音楽の話に論点をずらしてごまかす。
貴女のコメントに【陰鬱な気分に】になるのは日下部さんだけじゃない。皆さんうんざり。
チェーホフの小説にあった、【二匹のひきがえるみたいに座り込んで、妖気を発散させている】(464)って、誰のことなんだろう。一人は、確かに貴女。
勝手な思い込みで、やれソフィストだ、ソクラテスだとか、よく知らないことを書き散らしておいて、誤りを指摘されて反論ができなくなると一転して話がどんどんズレていく。
【東大法学部政治学科を卒業された教師他、私が小学校時代から習った教師…」(521)、結局東大卒とか国立大付属がどうこういう手前みその議論ばかりで、話があらぬ方向へ拡散して、ソフィストもソクラテスもいつの前にか置いてきぼり。勝手にやってればいいわ。
日頃は盛んに「無知の知」とか、人間には絶対はなくて相対的真理しかないからと、ソフィストの言ったことをそのまま繰り返していて、その肝心なことに少しも気づかない。
なぜ、反時流的古典学徒さんが、「老婆の他愛もないおしゃべり」と繰り返すのか、分かるわ。お婆ちゃんはほんとうに下らないことを、さも重大そうにもって回って、時間をつぶす。
道徳がどうのこうの言っちゃって、皆さんの批判的コメントにゴマカシばかり重ねている。それも揚げ足取りだ、印象操作だ、誹謗中傷だとか被害妄想のような話ばかりで居直っている。肝心なことには何も答えない。貴女に道徳なんか語る資格はないんじゃない。
きょうも朝から4件も書き込んで、私の指摘もはぐらかすばかり。貴女のようなその場しのぎの、暇なお婆ちゃんの井戸端会議のような話、誰もしていないよ。
最近もミニヨンの話だっけ、桟敷席さんが指摘していたけど(饒舌ナルシズム)、ゲーテの原作を無視して、誤りを指摘されると音楽の話に論点をずらしてごまかす。
貴女のコメントに【陰鬱な気分に】になるのは日下部さんだけじゃない。皆さんうんざり。
チェーホフの小説にあった、【二匹のひきがえるみたいに座り込んで、妖気を発散させている】(464)って、誰のことなんだろう。一人は、確かに貴女。
それにしても、【二匹のひきがえるみたいに座り込んで、妖気を発散させている】のは、確かに一人は「カロリーネ」を名乗るおしゃべりお婆ちゃんは何だけど、あと一人は、意見が合う旧会社員さん?確かにマスコミ批判の妖気は半端じゃないけど、
ところで、自分の文章(9日・464)に註釈することは、最小限に止めたいが、「ひきがえる」(жаба, zhaba)は漢字で表記(蟇蛙)すると、如何にも「漢字ならぬ感じ」がよく出るが、逆さまにすると「蝦蟇」=ガマになる。
525⇒【チェーホフの小説にあった、【二匹のひきがえるみたいに座り込んで、妖気を発散させている】…って、誰のこと…一人は、確かに】――アンチノミー氏が指摘するように、狂信家の老婆には違いない。
それでは二人目は誰か、「二匹の~みたいに座り込んで」という表現から当然もたげてくる疑問だ。
527は中途で途切れて(!?)いるが(⇒【あと一人は、意見が合う旧会社員さん?】)、本欄の常連投稿者のうち、矯激なメディア批判では両者は共通する、謂わば同類(συγγενής)だから、無理もない推測だ。
しかし、旧会社員氏は、私が戯れに「間欠泉氏」と名づけたように、一種異様な「妖気」(ὁ ἄτοπος ἀήρ)を漂わせてはいるが、必ずしも老婆のように「座り込んで」連日、コメントしてはない。
そうすると、常連投稿者のうち残るのは外でもない、私自身ということになるが、それでは具合が悪い。「二匹のひきがえるみたいな」悪態、つまり小説『たいくつな話』なら、カーチャ(Катя)とミハイール・ヒョードロヴィチ(Михаил Федорович)との間で繰り広げる気楽で遠慮のない猛烈な罵詈雑言に、「もういい加減にしなよ!…もうたくさんだ!」(Замолчите, наконец ! … Довольно !)と言い、464②⇒《悪態のつき方にも、対象との距離感(διάστημα)が欠かせない》と付言するのもまた、私だからだ。
集合論に関する「ラッセルのパラドックス」(Russell’s paradox)ではないが、例えば私がある集合、この場合は「二匹のひきがえる」の集合に含まれるか否か、ややこしい問題が浮上する。
つまり、人間の集合を想定して、人間を規定するさまざまな要素から100を超す集合が存在する。従って、「人間の集合」という場合、100以上の構成要素をもつ集合の要素ということになるが、ほとんどの集合は自分自身の要素ではない。なぜなら、人間の集合は集合ではあっても、人間ではないからだ。このことから、人間の集合は人間の集合の「要素ではない」。
しかし、このパラドックスが厄介なことは、自分自身の要素となる集合がいくつかあって、「すべての集合の集合」はそうだし、「非人間(nonmen)の集合」、つまり「人間でないもののすべてから成り立つ集合」も、それに入る。いかなる集合も人間ではないから、「非人間の集合」は人間ではないし、それによって「非人間の集合」は、自分自身が「非人間の集合」の要素となることだ。
それはともかく、「自分自身の要素とはならない集合」をすべて集めた集合(R)を考えた場合、何かがRに属するための必要十分条件は、「自分自身の要素とはならない集合」となり、そこでRは「自分自身の要素」か否か、という問題が浮上する。
Rが「自分自身の要素である」と想定した場合、RはRに属するための必要条件、つまり、Rは「R自身の要素ではない」という条件を満たすことが求められる。従って、Rが自分自身の要素なら、Rは自分自身の要素ではない、ということが論理的に帰着する。これは矛盾である。
そこで、Rは 「自分自身の要素ではない」と想定する。このとき、Rは「非自己要素的集合」(non-self-membered class)となり、R に属するための十分条件、つまり、Rは「自分自身の要素ではない」という条件を満たす。従って、Rが「自分自身の要素ではない」ならば、Rは「自分自身の要素である」、ということが論理的に帰着する。これも矛盾である。
もっとも、個々の矛盾は必ずしもパラドックスではない。Rのような存在は存在しない、と宣言すればよいと済ますことも可能だと考えられるからだ。しかし、その道も閉ざされる。それは、「集合が存在する」ということは、そもそも「いかなることであるか」ということに関して、自然ではあっても放棄せざるを得ないいくつかの見解があることを極めて明確に突きつけるからだ(以上、R. M. Sainsbury, Paradoxes, 1988, Cambridge U.P.を参照)。
何やら厄介な話になった。核兵器廃絶の運動に先鞭をつけたラッセルさえ知らない、論理的思考が全く覚束ない老婆は、それこそソフィストではないが、何か白を黒と言いくるめられ「騙されている」(ἐξαπατηθῆτε)と言い出しかねない。しかし、以上は数学的に一点のごまかしもない議論だ。
ちなみに、より直観的に理解できるよう記号式で表記すれば、次のようになる。
y∈R iff ¬(いかなる対象に対しても、「yは自分自身の要素である」)
R∈R iff ¬(「R は自分自身の要素である」)
RP R∈R iff ¬(R∈R)(「Rが自分自身の要素であるのは、Rが自分自身の要素ではないとき、かつ、そのときにのみ限定される。しかし、これは矛盾である」)
(Rは対象となる集合、∈は「~の要素である」、iffは「~のとき、かつそのときに限って」、¬は「~でない」、RP=Russell’s paradox)
なお、ラッセルのパラドックスは次のようにも表記できる。
(x)(x ε z≡~( x ε x) )[ ≡は iffと同じ]
そして、論理的には同じ構造を有する「自己述定」(self-predication)問題は、常に自己矛盾的な様相を帯びる。肝腎なことは、罵詈雑言をなすにも、それが常に自分に撥ね返ってくることに自覚的であることだ。
指摘したいのは自己批評の能力だ。それは何より、自らの考えや信念、信条、信仰から自由になる(ἐλευθερόω)、つまり自分と距離を取り(διάστῆναι)、自己を他者のように客観的に眺めたり、突き放して考える余裕(σχολή)をもつことだ。そこに自ずとユーモア(ἡ εὐκολία)も諧謔(εἰρωνεία)も生まれる。
何ごとにも余裕がなく(ἀσχολία)、それゆえ狂信的な老婆には、決定的に欠けている要素だ。いい年をして心に余裕がない人物は醜悪だ。
ヒポクラテスの『箴言』に、「睡眠が精神錯乱が鎮まるのは、よい兆候」(‘Ὅκου παραφροσύνην ὕπνος παύει, ἀγαθόν.’; Aphorismi, II-2, LCL, vol. IV, p. 108)とある。さらに、「睡眠も不眠も、節度を越せばともに悪いしるし」(‘Ὕπνος, ἀγρυπνίη, ἀμφότερα τοῦ μετρίου μᾶλλον γενόμενα, κακόν.’; II-3, ibid.)とも。
身のほどを弁えない、つまり正確な自己認識を欠いて、心に鬱屈したものを抱えているらしい老婆は不眠症(ἡ ἀγρυπνίη)の気配がある。言われていることは、狂信の証左を示すと同時に、どこまでも取り留めがない。
いつ寝ているのか分からないことに伴う焦慮は、睡眠不足も与っているのかもしれない。そして睡眠不足は精神錯乱(παραφροσύνη)に等しい戯言を生む。
コロナ禍で後景に退いた観があったが、まさに「天災は忘れたころにやってくる」。運転停止となった東北新幹線の復旧には10日を要するという。
寺田寅彦の『天災と國防』(1938年)には、警告を与えても、時が経てばなかったかのように行動する「人間界の『現象』」が説かれている。しかし、「地震や津波は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやつて來るのである」(38頁)
そして、この世は、人間に都合よくは出来ていない。[完]
今後は、厚生科学審議会(予防接種・ワクチン分科会)の意見聴取をした上で、昨年の臨時国会で改正された予防接種法附則第7条第1項に基づく臨時の予防接種が開始されることになります(サブスタンスの担当は厚労省健康局健康課課予防接種室、ロジスティクスは省庁横断となるため、総合調整を河野太郎内閣府特命担当大臣が担います)。
実質的審査を担当したPMDA(独立行政法人医薬品医療機器総合機構)のウェブサイトに公開された添付文書等は下記のとおりです。「医療従事者向け適正使用ガイド」には、mRNAワクチンの作用機序や各種の臨床試験のデータ等が記載されており参考になります。PMDAの審査報告書については現時点ではまだ公開されておりませんが、今後、公開されることになると思われます。
(添付文書)
https://www.pmda.go.jp/PmdaSearch/iyakuDetail/ResultDataSetPDF/672212_631341DA1025_1_01
(コミナティ筋注に係る医薬品リスク管理計画書)
https://www.pmda.go.jp/RMP/www/672212/844b8dfe-491e-470f-ab0f-31f68e867f5e/672212_631341DA1025_001RMP.pdf
(医療従事者向け適正使用ガイド)
https://www.pmda.go.jp/RMP/www/672212/844b8dfe-491e-470f-ab0f-31f68e867f5e/672212_631341DA1025_10_001RMPm.pdf
それにしても「徳」とは。
ニーチェ流の辛辣な言い方なら、狂信家の老婆は、その呆れた行状にもかかわらず、笑止にも狂信の証しである道徳なるものを騙る、特異な「道徳的自瀆者」(der moralischen Onanisten)だ。
即ち、「こういうのが道徳的自瀆者、《自慰者》というやからだ。何らかの形で優越をひけらかそうとする病者らの意志、健康者を暴圧するにいたるべき間道を求める彼らの本能―」(信田正三訳『道徳の系譜』第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するか?」、ちくま学芸文庫版『ニーチェ全集』第11巻、526頁=„die Spezies der moralischen Onanisten und »Selbstbefriediger«. Der Wille der Kranken, irgendeine Form der Überlegenheit darzustellen, ihr Instinkt für Schleichwege, die zu einer Tyrannei über die Gesunden führen―“; Zur Genealogie der Moral, Dritte Abhandlung: „Was bedeuten asketische Ideale ?“, F. Nietzsche, Werke, hrsg. von K. Schlechta, Band II, S. 864~65)
ニーチェが「俗物根性」(Philistertum)丸出しの同胞を嘲笑う(ἐπισκώπτειν)ように、田舎者根性(ἄγροικος τῆς ψυχῆς)剥き出しの粗野さ、ナイーヴさだ。
「徳、それは聞くものが薄笑いして、教師もそのような言葉では、もはや何も考えることができないような時代遅れの言葉なのだ。」(『反時代的考察』第三篇「教育者としてのショーペンハウアー」=„Tugend ist ein Wort, bei dem Lehrer und Schüler sich nichts mehr denken können, ein altmodisches Wort, über das man lächelt ―und schlimm, wenn man nicht lächelt, denn dann wird man heucheln.“; Unzeitgemäße Betrachtungen, Drittes Stück: „Schopenhauer als Erzieher“, Werke, Band I, S. 293)
話の通じない人間は存在するもので、概略三種に分類される。一つは老婆がその典型のような、特定の信念や信条に凝り固まった狂信家、次いで老婆のもう一つの側面である、無知と偏狭さが生む「思考の貧困」(ἡ πενία τῆς διάνοιας)、最後は痴呆(ἠλίθιος)で、この場合は比喩的な意味だ。οἴμοι.
随分、冒頭に批判する相手のコメントを、引用符をつけないで、ダラダラ長く、前置きのように並べるんですね。
相手の主張を自分の言葉で正確に要約できない人が、「自分の頭で考える」とか言っても、どうかと思うわ。そういうのは、思考の自主性ではなく、ただただ思い込みの激しい、勘違いお婆ちゃんの「ナルシズム」というのよ。
貴女の言うことは、【東大卒の教師と京大哲学科卒の父から主にソフィストとソクラテスを教わった…国立付属の…」って、すべて東大卒、京大哲学科卒、国立(大学)付属という話ばかり。
それに対して反時流的古典学徒さんの話は、全然違う。例えばソフィストについて、大元のプラトンの原文を紹介しながら、具体的に論じている。
さらに田中美知太郎さんの戦前(‼︎)の先駆的な著書を引用して、「プラトンも賛成しないソピステースのこの青年腐敗説…道徳破壊者に仕立て…その片言隻句…一種の循環論によって、ソピステースをますます危険人物にしてしまった者は、19世紀ドイツの哲学史家たち」と、歴史上の「悪名」の由来について解説している。
それって、本当の意味で自由に、しかも貴女のように独りよがりではなく、学問的根拠を示して論じるということ。貴女の高校の倫社の先生や父親は、世間を支配していた俗説から一歩も抜け出せず、逆に支配されていただけ。
しかも、ソフィストは「彼らが『普遍的教養』を授けることによって『人間教育』を行った…その理念はローマを経て西洋にける正統的なヒューマニズムに繋がる」という話らしい。
そうした論じ方、俗説とは違った見方ができる人が「自分の頭で考える」というのよ。
そのどこが、【典型的な日本のマスコミ人の手法】なんですか。さらに反時流さんは、最初から一貫して、「女性蔑視発言」騒動と言ってるよ。
バカバカしい。
明治時代は、隣国中国が西洋の英国に破れたから、脱亜入欧は必要であった。けれどもいつまで東洋文明に劣等感を持たなければならないのだろうか?日本の文化のルーツはギリシアではない。中国、インドである。ドイツもゲーテたちが、ローマ法王庁から自立し、フランス文化からも自立して自国ドイツ文化の独自性に目覚め、個性の尊重を図り、ヒトラーの失敗を経だ後、隣国と協調しながらのドイツへの愛国心をも持つようになったのだから、日本も英米への劣等感を捨て、自立心を持ち、自国の文化に自信をもたなければ、日本の国は、国際社会で敬愛されない、。とわたしは考える、
その生き方が、ソフィスト、自分の主張が正しいと人々に思わせる弁論術を高額を取って教えたい、という人々とは違うのである。デイベートでも弁論術でも同じであるが、その本質は、白を黒にでも、赤にでもみせかける話術であり、ソクラテスはそれを認めないのである。リンゴをどのような言葉で表現してもその本質は変わらない。私は、学識がある人の意見が必ずしもいつも正解ではない、という教育を受けた。そして現在、コロナ専門家、ジェンダー専門家、ポリテイカルコレクトネスの専門家がそのことを証明している。私の疑問は、どうして権威に頼らず、自分で真剣に考えて結論を導き出そうとしないのか、ということである。塾の教師を頼りすぎた帰結なのではないのだろうか。
>私は、学識がある人の意見が必ずしもいつも正解ではない、という教育を受けた
その教育の精神に基づいて、貴女のこれまでのコメントを読み返してみてはいかがですか?
生物学者としてのアリストテレスの天才性を遺憾なく示し、しかも最大の著作である『動物誌』(Περὶ τὰ ζῷα ἱστορίαι, Historia animalium)にも出てくる。
「上の方には黒いものが歯の起始についているが、これは苦くて食べられない。多くの動物にこういうものやこれに相当するものがある。なぜなら、カメやヒキガエルやカエルや巻貝類や軟体類にもあるからである。」(島崎三郎訳『アリストテレス全集』第7巻、112頁=‘ἄνω δὲ τὰ μέλανα ἀπὸ τῆς ἀλχῆς τῶν ὀδόντων ἤρτηται, ἅ ἐστι πικρὰ καὶ οὐκ ἐδώδιμα. ἐν πολλοῖς δὲ τῶν ζῴων τὸ τοιοῦτόν ἐστιν ἢ τὸ ἀνάλογον• καὶ γὰρ ἐν ταῖς χελώναις καὶ φρύναις καὶ βατράχοις καὶ ἐν ταῖς στρομβώδεσι καὶ τοῖς μαλακίοις•; 530b31~31a1)。’
ヒキガエル=ガマの体内にある、「黒いもの」(τὰ μέλανα)について書いている。その他の個別的記述は、「ヒキガエル、…カエルの脾臓は非常に小さい」(‘μικρὸν ἔχει τὸν σπλῆνα… φρύναις, …, βάτραχος’ ; 506a14~20)。
脾臓(σπλήν)は怒りに象徴である。怒りっぱい、一日中イラついている老婆よく似合う。心中に「黒いもの」が渦巻いているのだろう。
ヒキガエルの敵についての記述もある。
「ヒキガエルもミツバチを滅ぼす。すなわち、巣箱の入り口にやってきて体をふくらませ、ミツバチが飛び出すのを待ち構えていて、ぱくりと平らげる。ところで、ヒキガエルはミツバチによっては何の害も受けないが、巣箱の世話人に殺される。」(第8巻、101頁)
‘ἀπόλλυσι δὲ καὶ ὁ φρῦος τὰς μελίττας• ἐπὶ τὰς εἰσόδους γὰρ ἐλθὼν φυσᾷ τε καὶ ἐπιτηρῶν ἐκπετομένενος κατεσθίει• ὑπὸ μὲν οὖν τῶν μελίττῶν οὐδὲν δύναται κακὸν πάσχειν, ὁ δ’ ἐπιμελόμενος τῶν σμηνῶν κτείνει αὐτὸν.’; ibid., 626a30~b1.
ところで、英語で[toad]、ヒキガエルに加え「嫌われ者」という意味がある。[toadeating]は「おべっか使いの」という形容詞だし、転じて[toady]はごますり、つまり「おべっか使い」(κόλαξ)を意味するから、狂信家の老婆には打ってつけの命名かもしれない。
ギリシア語の方の動詞は[κολακεύειν]=迎合する、つまりヒキガエルのように「があがあ」一日中(ὅλην τὴν ἡμέραν)うるさい老婆に、これまた相応しく、名(ὄνομα)は体(οὐσία)=「まさにそれであるもの」を表わすという点で、納得がいく。
それはともかく、534⇒【私の思考方法は、「ソクラテス的思考方法」、「反ソフィスト的」、「反反氏的思考方法」】などと、夜が明けないうちから怪気炎を上げている。その狂心は日中(ἐξ ἡμέρας)になっても止まず(538→14:12~539→15:50)、浅ましく喚いている。
538⇒【ソクラテス的思考方法】などと、実態を理解して宣っているとも思えないが、それにもかかわらず、同②⇒【いつまで東洋文明に劣等感を持たなければならないのだろうか? 日本の文化のルーツはギリシアではない】とか称している。大言壮語にもならない意味不明な莫迦話で、しかも支離滅裂だ。
元々蜘蛛の巣が張った憐むべきお頭で理解力が低劣なうえに、怠惰で、おまけに狂信に取り憑かれた「巫女」(προφῆτις)を自認するくらいだから、錯乱して、自分でも何が何だか分かっていないのだろう。
それくらいだから、早速536⇒【旧会社員さんと私の批判する姿勢を【二匹のひきがえるみたいに座り込んで、妖気を発散させている】という反氏の形容は異様】とか言って息巻いている。
私のコメントに基づいてアンチノミー氏の言及している、《二匹のひきがえる…妖気を発散させている》の箇所は、チェーホフの中篇『たいくつな話』からの引用だし、そもそも、私は528で、旧会社員氏については否定的な主張を披瀝した通りだ。
曰く、⇒《矯激なメディア批判では両者(老婆と旧会社員氏=筆者註)は共通する、謂わば同類(συγγενής)…しかし、旧会社員氏は…「妖気」…を漂わせてはいるが…老婆のように「座り込んで」連日、コメントしてはない》、と。
今後、「ヒキガエル婆さん老婆」(ἡ γραῦς φρύνης)という呼称も面白いかもしれない。
ところで、中期のプラトンに『クラテュロス』(Κρατύλος, Cratylus)と、あまり馴染がないが重要な対話篇がある。「名前の正しさについて」(Περὶ τὰ ὀνόματος ὀρθότητα)という副題をもつ。
ものの名前(τὸ ὄνομα)がどのように成立するのかについては、古来さまざまな議論があるが、それが各個人の自由な取り決め、さらに進んで「習わし」(ἔθος)「慣習」(νόμος)にすぎないとする現在でもよくある唯名論的見解と、名前は本性的なもの(ἡ φύσει)でなければならないとする実在論的なソクラテスとの対話が繰り広げられる。
老婆の陳腐なクズのような文章を眺めていると、暗澹とした気持ちにさせられる。老婆はまさに現代の「この時代に」(ὑπὸ τοῦτον τὸν χρόνον)珍しいくらいの単細胞だ。
碌に読んだこともないソクラテスが登場するプラトンの対話篇(老婆の自己申告を信じるなら、『ソクラテスの弁明』『クリトン』『饗宴』の三篇)に基づいて、539⇒【私が重視…プラトンの主張ではなくて、ソクラテスの生き方、無知の知…知的傲慢さが…ない】は、それさえ反映していない。
ソクラテスは傲慢な男だ。東大政治学科卒の高校教師や京大哲学科卒の父親に何を学んだか知らないが、俗説もここまで来ると、もはや妄想の域と言わざるを得ない。
老婆の主張する「プラトンの主張」なるものが明確でないうえ(大方、H. ケルゼンや、その発想の基になったK. ポパー説の受け売り)、そもそも読みをしないものを、かくまで莫迦丸出しで騙る能天気さに、つける薬はない。
⇒【反氏とは、民主主義の見方が違う】――確かに、私の民主制観と老婆の「お子様民主主義」論は異なろうが、何も知らない人間と比べられても困る。
ソクラテスが語るのは「無知の自覚」(οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι)、「不知の知」(μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι)、一名「人間並みの知」(ἡ ἀνθρωπίνη σοφία)であって、老婆が「無知の知」の名の下の勘違いするようなものではない。
何も知らないことについて、これほど無謀で雄弁だということが、ヒキガエルの習性なのだろう。[完]
何度読んでも、人間、70近くなったら、こうはなりたくないという、悪い見本のようなみっともない話。
高慢ちきな割には、出るわ、出るわ、愚痴とやっかみ、恨みつらみの八つ当たり。醜態だよ。
「反氏の主張…知的能力のある、高学歴で、高額な本を自前で買い、古今東西の難しい文章を読破…新聞記者として酸いも辛いも知っている専門家の自分の主張に従えというもの」
①知的能力、いいじゃない。貴女からは感じないな。論理的じゃないし。「国際協調は音楽の概念」とかいう与太公並みのコンコンチキだも。ひがむな、ひがむな。
②あちら京大、貴女は関学。やたらに学歴にこだわるけど、劣等感にしか見えない。
③いいじゃない、自分の金なんだから。奇特なものよ。自分が本買わないからって、一々難癖つけてどうするの。料簡が狭いから、理解できない。
④ 難しい本を読むのは、他に楽しみがないんだろうさ。貴女には真似できない勉強家なのは確か。字面見ただけで、分かるよ、貴女との違い。まるで、月とスッポン。貴女は怠け者。何とかしたら。
⑤元新聞記者だから特権階級よ。色々人脈あるんじゃない。この世は学歴より、金か人脈よ。いい年して、哲学の専門家でもないのに、ソクラテスで対抗してどうするのか。世間知らずだね〜。
⑥別に反時流氏の主張に従えなんて言ってないと思うよ。みんな、間違いだらけだから指摘されまくりの貴女と違って気にしてない。ガキみたいに勘違いすんなって‼︎
マスコミ出身の人特有の、ナルシストって、本当かね。いけすかない連中だけど、テレビ見ないわけにも、いかないさ。
年寄りは気楽だな。
★余白に 以上について、『クラテュロス』の冒頭箇所に以下の指摘がある。
「名前の正しさというものは、それぞれの有るにものに対して、本来本性的に〔自然に〕定まっている。そして名前とは、幾人かの人々がそう呼ぶことを申し合わせて〔取りきめて〕、自分たちの言語の一部分として発音することによって、呼んでいるものなのではなくて、何か名前の正しさというものが本性的に〔自然に〕存在しているのであり、それはギリシア人にも外国人にも万人に同一のものなのであると、このように彼は主張するのです。」(水地宗明訳『プラトン全集』第2巻4頁)
‘ὀνόματος ὀρθότητα εἶναι ἑκάστῳ τῶν ὄντων φύσει πεφυκυῖαν, καὶ οὐ τοῦτο εἶναι ὄνομα ὃ ἄν τινες συνθέμενοι καλεῖν καλῶσι, τῆς αὑτῶν φωνῆς μόριον ἐπιφθεγγόμενοι, ἀλλὰ ὀρθότητά τινα τῶν ὀνομάτων πεφυκέναι καὶ Ἕλλησι καὶ βαρβάροις τὴν αὐτὴν ἅπασιν.’; Cratylus, 383A~B.
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