忙しくてブログの更新等も一か月ほどしていない間に、新型コロナの新規陽性者が着実な減少を見せた。一か月前の前回の記事は、「正月の大きな山を下っていく新規陽性者数:感染拡大も減少も、人間的営みの結果」という題名で書いた。
今では、1月11日頃に今回の「第3波」のピークがあったことは、論証不要なほどに明らかになっている。
私が1月16日に書いた一か月前の文章は、正月の後のピークを越えて、新規陽性者数の減少が着実に進んでいることをはっきりと書いていた。
押谷仁教授が、正月後の異常な新規陽性者数の増加を、「疫学的に見ると異常な増え方」と描写していたことを前回の記事では紹介した。だが、押谷教授の洞察力を尊重せず、瞬間的な衝動に駆られた「専門家」の方々は、1月中旬でもなお、新規陽性者数の増加が継続し続けていることを主張し、2月にはさらに大変な惨事が訪れる、などといったことを主張していた。
前回の記事では、僭越ながら、こうした相変わらずの「煽り系」自称「専門家」の方々を、「季節労働者のような」「感染拡大期用の煽り系の専門家」と呼ばせていただいた。失礼ながら、「感染が減少してくると休暇をとる」が、「拡大期に入ると荒稼ぎをする出稼ぎ労働者といってもいい類の専門家」の方々とも書かせていただいた。
大変に失礼な言い方だったが、「私は、以前はこの人たちの言説をチェックしたりしていたが、もはや面倒でチェックもしていない」とも書いた。本心であった。正直、批判するインセンティブも失ってしまっている。価値がない。
私が尾身茂・分科会会長や、押谷茂・東北大学教授を「国民の英雄」と呼んで称賛し続けていることをもって、私に何かそのように行動する政治的な思惑があるのではないか、といったことを言い続けている人もいる。反論の必要もないナンセンスな話である。
なぜ2月に感染爆発すると主張していた人を軽視していたからといって批判されなければならず、感染拡大の回避を主導した方々を称賛したことをもって批判されなければならないのか。
ナンセンスもいい加減にしてほしい。
私は、昨年は、尾身会長や押谷教授が体現しているものとしての「日本モデル」に関心を持ち、文章を書き続けた。だがもはや結論ははっきりしている。
盲目的に「欧米を模倣せよ!」と主張し続けている人たちの言っていることには、何ら妥当性はない。
日本の取り組みが完璧だったということではない。しかし少なくとも「欧米を模倣せよ」に何の妥当性もないことだけは明らかだ。
冷静に「日本モデル」の長所を認めてそれを伸ばしていくことを中心に据えながら、ただ淡々とその短所を補う努力も欠かさないで行っていく姿勢を続けていきたい。
コメント
コメント一覧 (212)
それにしても、篠田先生の本当の理解者のつもりなのかね、あんた。最近、少し、おかしいと思うよ、ご本尊の篠田先生。理解者のつもりなら、もっと他に言うことあるんじゃない⁉︎
どうもカロさんやキューちゃんは複数アカウントを反氏が投稿していると信じたいようだが、似た者同志か。
カロさんのコメントへの反論をした人は他にも何人もいる。ただ大方、辟易して相手にするのも鬱陶しくなっただけ、反氏や政府解釈氏はよほど誠実であろう。
そもそも正式に大学入学も卒業も果たしていない短期留学をしただけの人、アカデミックな世界の底辺を垣間見て、まして自分の信じたいものしか見ずの人が他者に対して高慢な態度を取れることが信じ難い。自分も学者の端くれなどと、学者が聞いたら卒倒するのではないか。
正式に大学入学も卒業も果たしていない、というのは、事実誤認である。
書いたと思うが、私は、日本の高校、大学の卒業証明書をミュンヘン大学の学生課に提出し、ドイツ語の語学試験を受けて、正規の学生としてミュンヘン大学に入学を果たしているのである。あの時代、西独では、語学学校であろうが、大学の単位であろうが、資格を順調に取っていかなければ、ヴィザの延長はできなかったのである。その代わり、語学留学ではなく、正規の大学生として入学でき、きちんと単位を取った証明があると、学費はほぼただ、大学生は健康保険付き、休暇中はアルバイトをしてお金を稼ぐこともできた。その為に、大黒柱の祖父が亡くなった後、学生を続けようか、帰国しようか悩んだ。ただ日本の実家は、前途ある弟がまだ中学生だった。音楽学というのはしょせん趣味の世界、頑張って卒業しても、先の見通しが立たない。まず地道にお金を日本で稼ぎ、自立を考えよう、ということで帰国することに決め、就職に有利な資格をということで、語学習得に勤しんだのである。自分の学生時代の経験を顧みて、外国の大学で単位をとることが、どれだけ大変なことか、よくわかる。だから、言葉があまり必要のない分野以外で、外国の一流大学を首席卒業、などという言葉を信じることができないのである。また、現実の大学教授は、私の「端くれという言葉」に対して卒倒などはしていない。
その意味で、Tom氏の指摘、106⇒【カロさんは、未だに「歴史認識は相対的でしかない」ということを理解できない】は事態の一面について、正鵠を射ている。
狂信家の老婆のように、自らそれが真実だと思い込む「歴史」なるものが、少しもその客観的妥当性(Objektivegültigkeit)、普遍妥当性(Allgemeingültigkeit)を主張できるものでもないことは間違いない。
そもそも、老婆は生来の怠惰、愚鈍、そそっかしさも手伝って、条理を尽くした論証ができない。自らの貧しい知見や経験、愚にもつかないお勉強の成果をもって、個々の事例、つまり論理学的には特称肯定命題(μερικὴ καταφατικὴ πρότασις)または特称否定命題(μερικὴ ἀποαφατικὴ πρότασις)、つまり個々の老婆の議論に都合がよい事例を挙げて、それが他のケースにも妥当するかのように、つまり全称肯定命題命題(τὸ καθόλου καθαφατικὴ πρότασις)または、全称否定命題命題(τὸ καθόλου ἀπόφατικὴ πρότασις)であるかのように断定する。
老婆が面識のある個々のドイツ人、米国人、中国人について主張すること(99⇒【日本のマスコミ知識人の国際感覚が、私の個人的につきあった…アメリカ国民…ドイツ国民…中国国民…からかけ離れている】)は、所詮は、「~である特定のA」(米、独、中国人〔国民〕)が存在することの言明でしかない。
「~でない特定のA」(米、独、中国人〔国民〕)は、その逆に存在しないことの言明にとどまり、前者なら「~でないあるA」が存在すること。後者なら「~であるあるA」が存在することを示せば、言明、つまり命題に優劣は存在しない。つまり、「~であるあるA」と「~でないあるA」が個々に独立して存在する、ということだ。
今の時点でいえることは、旧郵政省・電波行政部門は、政治と直結する大臣部局からGHQの時代にあった組織「電波監理委員会」のような政治から独立した組織にすべきということです。そのメリットは、二つです。
一つ目は、大臣部局から独立することで、政治からの距離がおけて”中立性が担保”される。二つ目は、政治権力から遠ざかることにより、放送業界(NHK・民放)を監視しやすくなる。読者の方には、逆!!じゃないか!?との疑問をお持ちの方もおられると思います。しかし現状は、大臣部局がゆえに逆に政治権力の行使だ!と(痛くもない腹を探られ)、放送監視機能の行使ができにくい!状況になっています。
NHK・民放によって設立されたBPOが、現状(放送)業界のお手盛り機関となっていて、その機能を果たしていません。放送法第4条の実効性担保のためにも、少なくとも総務省旧郵政省部門の放送関連部局は、政治から独立した機関にすべきです。
周知のように全称命題を退けるためには、「すべてのAはBである」なら、「少なくともBではないあるAが一つ存在する」ことを、「いかなるAもBではない」なら、「少なくともBであるAが一つ存在する」ことを示せばよいからだ。個々の事例を示しただけでしかない老婆の議論は、その適用範囲を越えて一般化できないことになる。
論理的には極めて初歩的な知見で、老婆は論理的な思考に関しては白痴(ἠλίηθιος)に等しい所以だ。老婆の議論にはこの種のものが大半だ。
歴史の客観性を論じるなら、そもそも個々の史実を裏づけるとみられる史料も、過去の「客観的事実」そのものではない。史料にも解釈が付与されていることが少なくないからだ。つまり、歴史家(ὁ συγγραφεύς)が行う「歴史記述」(ἡ συγγραφή)は、個々の史料(や証言)によるとしても、歴史記述=叙述事態が「解釈の解釈」でしかないからだ、この観点からみるなら、歴史記述は叙述であるよりも、どこか創作(ποίησις)に近い。
つまり、客観性を事とする歴史家も物語作家(ποιητής)と同じことになる。この点でヘーゲルではないが、歴史叙述(Historie)と歴史的出来事(Geschichte)を截然と分ける古典的な二分法は成り立たず、両者を一体的に考えるヘーゲル流の歴史哲学も一種の合理性をもつ。
歴史の真実(τἀληθές)とされる、特定の「史実」、歴史的出来事であっても、何らか特定の解釈から自由ではあり得ない歴史叙述も独立性を主張できない。歴史を語り、記述するという行為自体が、物語行為なのである。
歴史の父ヘロドトスが、その著『歴史』(Ἱστορίαι)をもって[Ἱστορίαι]=「ヒストリアイ」と称したのは「探究」を意味するヒストリアー(ἰστορία)に由来する言葉であることは既に紹介したが、結局「人間のしたこと」(τὰ γενόμενα ἐξ ἀνθρώπων)を記述したものであり、過去の記憶(μνήμη)に基づく想起(ἀνάμνησις)と歴史叙述は無縁でない。
だから、「歴史的事実」という「身分」(ἡ τάξις)は極めて危ういのである。従って、この場合、所謂歴史と物語は近代語では同一の語源であることが示すように、歴史と物語は、事実(τὸ ὅτι)と虚構(μῦθος)のような対立概念とは言えないということだ。
近代歴史学上は、いずれもドイツの偉大な歴史家である批判的歴史学の創始者で古代史家のニーブル(Barthold Georg Niebuhr, 1776~1831)や近代史の泰斗、L. ランケ(Leopold von Ranke, 1795~1886)のように、厳密な史料批判を徹底することで学問的批判に堪える客観的な歴史叙述を目指す実証主義が19世紀以来主流になったが、そこにいう客観的な歴史叙述の手法や史料批判の手続きは、歴史の客観性にまつわる本質的な問題を基本的に解決していない。
その点で、実証主義史学の対極に位置すると考えられ、歴史を貫く「理性の狡知」(List der Vernunft)を説くヘーゲルの壮大な歴史哲学、「メタ歴史」も全く荒唐無稽ではないのが、歴史認識の難しさだ。
いずれにしても、歴史家の史料批判はもとより、私が徹底しているフランスの古代史家クーランジュ(Numa Denis Fustel de Coulange, 1830~89)が口癖とした、‘Avez-vous un texte?’(「それには何か典拠があるのか?」)など考えたこともないであろう老婆のお子様歴史論など、唐人の寝言でしかない。
篠田先生の見解が気に入らないなら、このブログを読まなければいいだけ。
罵詈雑言のあらしで、品格がない。このブログと関係のない、くだらない主張したいのなら、自分のブログでも立ち上げて、好きなだけほざけばよい。篠田先生のブログに寄生しているだけだ。
カロリーネさんのほうが、まだ可愛げがある。
ドイツに普通の意味でのルネサンス文化が開花しなかった事情については、前回91~96で論じた。老婆の似而非反論も値しない貧弱な抗弁については、改めて取り上げる必要もあるまい。
そうでもしないと、変異株「Carove-20」に感染して日本語の促音をまともに表記できない老婆同様、デューラー(A. Dürer)が「デユーラー」(95→「で言うら~」)になりかねない。老婆の正しいドイツ史の認識は、トーマス・マンの凡庸な次男、ゴーロの『近代ドイツ史』(Gore Mann, „Deutsche Geschichte, 1919-1945“, 1958)を読むことらしい。
2巻本の邦訳も出ている(上原和夫訳、みすず書房、1973~77年)。退屈な本だ。最終章・第7節が「Les Allemagnes」で、老婆がドイツ人を意味するこの複数形のフランス語の蔑称について、よく知らなかったことも奇妙だ。
老婆は狂信的だから、自らが理解可能なものしか受けつけない(「精神の狭量は頑迷をもたらす。われわれは自分の理解を超えるものをなかなか信じようとしない。」→‘La petitesse de l’esprit fait l’opiniâtreté, et nous ne croyons pas aisément ce qui est au-delà de ce que nous voyons.’; La Rochefoucauld; Maximes 265)。
Tom氏が97で言及しているヘルムート・プレスナー(Helmuth Plessner, 1892~1985)の『遅れてきた国民』(„Die verspätete Nation. Über die politischen Verführbarkeit bürgerlichen Geist“=邦訳が2種類ある)の刊行年が1959年であることをもって、98⇒【今から60年以上前である。今でもその著書は、国際社会で重用されているのだろうか】とか、無学特有の無邪気さだ。『近代ドイツ史』は1958年だ。
フッサールの弟子、マックス・シェーラー(Max Scheler, 1874~1928の弟弟子筋に当たり、代表的な哲学的人間学の研究者であることを知らないようだ。ズーアカンプ(Suhrlkamp)社から10巻本の全集も出ている。
Tom氏が言及した(97)、ドイツの非政治的な特権的知識層、シナの士大夫層に似たドイツ版‘mandarinism’的「文化的保守主義」を特質とする「教養市民層」(Bildungsbürtum)についてさえ皆目無知な老婆に、歴史を語る資格はない。2年前以上前、老婆とのやり取りでこの言葉を、非政治性という視点で始めてコメントで使った際も(2018年6月26日・35⇒【私にはヒトラーより、彼と全く異なる心性の持ち主であるドイツ教養市民層が、しかもユダヤ人に必ずしも偏見を有していなかった彼らの知性の政治的敗北が重大】)、それ以降も、それを単なる「ドイツの教養ある市民」程度にしか考えていない老婆の頓珍漢な応答に驚愕した。
老婆は、1986年に始まり当時の西独を揺るがせた「歴史家論争」(Historikerstreit)についても、何も知らなかった。恐るべき元留学生の無知である。
Tom氏がさらに触れている、1870年代ごろから使用されるようになった人種論的な、反ユダヤ主義的な色彩を帯びた排他的で不寛容な民族主義的立場を表わす語、フェルキッシュ(völkisch)については、曲がりなりにもドイツ語が読めるから、言葉の表面的な意味は理解できようが、何の反応もない。
議論が成立しないのは、一つは度を越した狂信、残りは無知で、阿呆につける薬はない。[完]
★余白に 「篠田先生」を宣う雑魚のような篠田さんの「ご贔屓」筋が、何やら這い出てきた。それほど支持するなら、隠れてぶつくさ片言隻句を投げつける前に、「篠田先生」のためにも、まともに立論したらいい。言語空間は自由だが、言論を甘くみると火傷をするか、老婆のように醜態をさらす。キューちゃん、Koba、雑魚はまとまってくれた方が、手間が省ける。
2020年(12月末)の超過死亡数の速報が出ました→総死亡数1384544人で、前年よりマイナス9373人です。元記事は日経→年間死亡数11年ぶり減 コロナ対策で感染症激減https://www.nikkei.com/article/DGXZQODG228660S1A220C2000000/
日経記事一部引用しますと、分科会メンバー岡部氏→「欧米では平年より死亡数が大きく上回る『超過死亡』が生じたが、日本は逆に抑えられた」
池田氏の以前の推定は、年計で-16000人程度でしたが、実際は-9373人でした。まぁー!こんなものでしょう。毎年高齢化で18000人程度自然増していましたので、9373人でも相当のマイナス超過死亡です。その評価は、上記分科会の岡部氏のとおりでしょう(→日本は逆に抑えられた<)。
池田氏の評価の方を見てみましょう→「感染症関連の死亡が減少する厳しい感染症対策でも新型コロナの流行を止められていない」というのは錯覚。コロナは一昨年の数字がないので増えたようにみえるが、対策でかなり減ったはずだ<(引用終り) 両者(前者・後者)ともに見方は、正しいと思います。
池田氏の評価は、考慮を要します。2019年は新型コロナ死亡はカウントしていないので、2020年はプラス(年計3500人)しかない。日本の感染症対策は、新型コロナだけでなく肺炎・インフルエンザを含むすべての感染症の抑制に、(総論マクロ的には)効果があった!ということでしょう。ただし、(個別ミクロ的には)有事への医療体制の準備などその他の対策に不手際があったことは言うまでもありません。なお、超過死亡数の過剰なマイナスもよくありません。過剰自粛で本来死亡者を先送りしているだけです。プラマイゼロあたりがちょうどよい(2020年のマイナス9373人は妥当)!といえます。
‘Φαντάζου πάντα τὸν ἐφ ᾡτινιοῦν λυπούμενον ἢ δυσαρεστοῦνταὅμοιον τῷ θυομένῳ χοιριδίῳ καὶ ἀπολακτίζοντι καὶ κεκραγότι·’; Aurelius, M.; ‘‘τὰ εἰς ἑαυτόν’’, X, 28)
τί δὲ βλέπεις τὸ κάρφος τὸ ἐν τῷ ὀφθαλμῷ τοῦ ἀδελφοῦ σου, τήν δὲ ἐν τῷ σῷ ὀφθαλμῷ δοκὸν οὐ κατανοεῖς; ἢ πῶς ἐρεῖς τῷ ἀδελφῷ σου• ἄφες ἐκβάλω τὸ κάρφος ἐκ τοῦ ὀφθαλμοῦ σου, καὶ ἰδοὺ ἡ δοκὸς ἐν τῷ ὀφθαλμῷ σου; ὑποκριτά, ἔκβαλε πρῶτον ἐκ τοῦ ὀφθαλμοῦ σου τήν δοκὸν, καὶ τότε διαβλέψεις ἐκβαλεῖν τὸ κάρφος ἐκ τοῦ ὀφθαλμοῦ τοῦ ἀδελφοῦ σου.; Κατα Μαθθαιον, VII. 3~5.
ΕΙ ΚΑΙ ΤΥΡΑΝΝΕΙΣ, ΕΞΙΣΩΤΕΟΝ ΤΟ ΓΟΥΝ / ΙΣ’ ΑΝΤΙΛΕΞΑΙ. ΤΟΥΔΕ ΓΑΡ ΚΑΓΩ ΚΡΑΤΩ. / ΟΥ ΓΑΡ ΤΙ ΣΟΙ ΖΩ ΔΟΥΛΟΣ, ΑΛΛΑ ΛΟΞΙΑ. / ΩΣΤ’ ΟΥ ΚΡΕΟΝΤΟΣ ΠΡΟΣΤΑΤΟΥ ΓΕΓΡΑΨΟΜΑΙ. / ΛΕΓΩ Δ’, ΕΠΕΙΔΗ ΚΑΙ ΤΥΦΛΟΝ Μ’ ΩΝΕΙΔΙΣΑΣ. / ΣΥ ΚΑΙ ΔΕΔΟΡΚΑΣ ΚΟΥ ΒΛΕΠΕΙΣ ΙΝ’ ΕΙ ΚΑΚΟΥ, / ΟΥΔ’ ΕΝΘΑ ΝΑΙΕΙΣ, ΟΥΔ’ ΟΤΩΝ ΟΙΚΕΙΣ ΜΕΤΑ. / ΑΡ’ ΟΙΣΘ’ ΑΦ’ ΩΝ ΕΙ; ΚΑΙ ΛΕΛΗΘΑΣ ΕΧΘΡΟΣ ΩΝ / ΤΟΙΣ ΣΟΙΣΙΝ ΑΥΤΟΥ ΝΕΡΘΕ ΚΑΠΙ ΓΗΣ ΑΝΩ, / ΚΑΙ Σ’ ΑΜΦΙΠΛΗΞ ΜΗΤΡΟΣ ΤΕ ΚΑΙ ΤΟΥ ΣΟΥ ΠΑΤΡΟΣ / ΕΛΑ ΠΟΤ’ ΕΚ ΓΗΣ ΤΗΣΔΕ ΔΕΙΝΟΠΟΥΣ ΑΡΑ, / ΒΛΕΠΟΝΤΑ ΝΥΝ ΜΕΝ ΟΡΘ’, ΕΠΕΙΤΑ ΔΕ ΣΚΟΤΟΝ. / ΒΟΗΣ ΔΕ ΤΗΣ ΣΗΣ ΠΟΙΟΣ ΟΥΚ ΕΣΤΑΙ ΛΙΜΗΝ,; ΟΙΔΙΠΟΥΣ ΤΥΡΑΝΝΟΣ, 408~420.
「弱肉強食は世の変わらぬ原則」(‘αἰεὶ καθεστῶτος τὸν ἥσσω ὑπὸ τοῦ δυνατωτέρου κατείργεσθαι’; Thucydides, I-76)
反氏のコメント118、 論理的には極めて初歩的な知見で、老婆は論理的な思考に関しては白痴に等しい所以だ。老婆の議論にはこの種のものが大半だ、という主張であるが、たまたまであるが、私の大学時代、一番成績がよかったのは、一般教養のこの論理学で、99点がついた。論理的思考力のある学生にはほぼ、その点数がついたのであるが、教授の「人間に完璧はないから、100点はつけない。」という主張と共に、その点数をよく覚えている。次によかったのが、社会心理学で、これは純粋に私が社会心理学に大変興味をもったから、が理由であるが、その時に身に着けた知識は、今回のコロナ騒動の分析にも役立っている。なにが、全称命題を退けるためには、「すべてのAはBである」なら、「少なくともBではないあるAが一つ存在する」ことを、「いかなるAもBではない」なら、「少なくともBであるAが一つ存在する」ことを示せばよい・・。個々の事例を示しただけでしかない老婆の議論は、その適用範囲を越えて一般化できないことになるだ。
第二次世界大戦後の一番の違いは、敵対し合ってきた独仏が協調路線を歩むようになってきたことで、ドイツの統一も、ECを通じて、ヨーロッパ諸国にドイツという国が信頼できる国である、ということが醸成された証、なのである。そうでなければ、英仏は、国力が増強するドイツを統一はさせない。第一次世界大戦後、英仏はドイツの強国化を恐れたから、領土を縮小させたのだから。
今のEUの委員長も、ドイツの政治家で、これもフランス、マクロン大統領の推薦である。古代ギリシャもいいが、元ジャーナリストを誇るのなら、楠山義太郎さんがそうであったように、現在のヨーロッパ情勢に、もう少し精通してほしい。、
私に対する反論らしきものとして、大学時代の論理学の試験で、125⇒【大学時代、一番成績がよかったのは、一般教養の…論理学で、99点】とか称している。
しかし、125~126で言明されたことは、老婆の個々の知見や経験に基づく個々の特殊事例の挙示は、「特定の命題の論証の正当性を必ずしも保証するものではない」ということの含意を、つまり、老婆が何ら論理的思考(λογιστικόν)の本質を理解しておらず、実際に厳密な論理的思考が覚束ない人物であることを端的に示している。
そして、無知蒙昧な老婆は、それによって何が意味されていることを理解することができない。《白痴(ἠλίηθιος)に等しい》(118)とした所以だ。
「99点」が本当か否か、その場ででまかせを言ってごまかす老婆の習性(ἔθος)から、嘘であることも考えられる。論理学を受講していない可能性もある。それくらい、理解力が欠落しているからだ。
一方で、違う解釈も可能だ。一般教養だから、試験内容が容易に99点というという高得点が老婆にも取ることができる平易な水準だった、ということだ。つまり、受講した内容を確認する程度のものだったことも考えられる。
ところで、老婆の125~126の議論から推して、老婆がアリストテレスの定言三段論法(συλλογισμός=categorical syllosismus)の四つの命題(A, I, E, O)、A=全称肯定命題(καθόλου καθαφατικὴ πρότασις=すべてのAはBである)▽I=特称肯定命題(μερικὴ καταφατικὴ πρότασις=あるAはBである)▽E=全称否定命題(καθόλου ἀπόφατικὴ πρότασις=いかなるAもBではない)▽O=特称否定命題(μερικὴ ἀποαφατικὴ πρότασις=あるAはBでない)――など、文字通りチンプンカンプン(‘C’est de l’allemande pour moi.’)であることが分かる。
だから老婆の、126⇒【論理的考察の帰結】なる莫迦話は論理と何の関係もない。それは、論理的な推論の結果ではなく、現象の必ずしも論理的には論証できない「連関のようなもの」を挙示しているにすぎない。あたかも、老婆が出会った米国人、ドイツ人、中国人の個々の例をもって、他の米国、ドイツ、中国の事例に一般化して論じるようなものだ。
非論理的な(ἄλογος=ギリシア語の原義は「言論に値しない」の謂い)、非理性的な(ἄλογος)老婆が、それしかできない個々の事例を挙げて反論したつもりになっているのは、滑稽だ。端的に「阿呆の証明」(τὸ τεκμήρίον τῆς ἠλίηθιου)だ。
そもそも、老婆は「すべてのAはBである」の否定が「少なくともBではないあるAが一つ存在する」であることを理解していない。かかる人間が、幾ら論理学の試験で「99点」を誇示しても反論にならない。
老婆は以前の「自己申告」から枚挙(ἀπολογίζεσθαι)と演繹の違いも、矛盾対立(ἀντίφασις)と反対対立(ἐναντιότης)との違いも理解できない、「論理音痴」(ἀμουσος τοῦ λογικοῦ)であることも明らかだ。
それくらいだから、むろん論点ずらし、論点窃取(τὸ ἐξ ἀρχῆς αἰτεῖν=petitio principii)や論点移動(μετάβασις εἰς ἄλλο γέννο)についても、何も理解していない。
支離滅裂な莫迦話を眺めていると、原始人並みに粗野な(οὐκ ἀπειργασμένος)ことがよく分かる。以前なら、眩暈がするところだ。οἴμοι.
上記は、何を意味するのだろうか!?123下段を補足します。次のように考えることができると思います→日本の感染症対策は、新型コロナだけでなく肺炎・インフルエンザを含むすべての感染症の抑制に、(総論マクロ的には)効果があった!
ゼロコロナを目指して、このウイルスを抑え込んだ国は、台湾・ニュージーランドなど島国で且つ人口の少ない比較的小国です(鎖国・防疫が容易)。韓国(人口5000万人)は、感染初期に比較的抑え込んだもののその後リバウンドして、結局他の欧米日諸国と同様の傾向になって現在に至っています。韓国を例として挙げましたが、他の諸国も同じ傾向です。
ただし、有事への医療体制の備えを怠り、患者の受け入れに支障をきたしていることは周知のとおりです。現在もその状況は、東京都などで続いています。現場レベルでの事前対策に不手際があった。そのことがわかっていても改善がなされていない。全体では好成績なれど、個別ミクロ的には失敗に近かった。
東大で経済学を学んだあと、大山定一や谷友幸らの下でドイツの詩人リルケを研究するため京大大学院に転じたが、生家の事情で企業経営に転じた。経営者に加え、芸術文化関係者や研究者、批評家にも幅広い人脈をもち、地方在住のコレクターとしては有数の東洋美術コレクションのもち主だ。
新聞記者時代から、公私ともに大変お世話になった。足を向けては寝られない、文字通りの恩人だ。
元リルケの研究者だが、単純なドイツ贔屓ではないバランス感覚に優れた人物だ。新型コロナについても話題になったが、ギリシア彫刻を発端に美術や文学、書物、東西交渉史について話すうちに時の経つのを忘れた。ドイツにおけるルネサンス文化について、話す時間がなくなるほど。
ところで、以下は補説のようなものだが、「不完全燃焼」と呼ぶほどの水準にも達しなかったドイツにおけるルネサンス文化の「扼殺」について、西欧におけるギリシア・ローマの文化的遺産、古典作品の主として文学への影響を、中世から現代まで包括的に詳細にたどった大著『西洋文学における古典の伝統』(Gilbert Highet; The classical tradition, Greek and Roman influences on western literature, renewed 1976, Oxford)で、米国を代表する古典学者G. ハイエットは、古代文化の再生による人間の解放から取り残された不毛の「後進国」であるほかなかった祖国の固有の事情について、あるドイツ人古典学者が次のように述べたのを紹介する。
そこには、ルネサンスをめぐる「後進国」、ドイツならではの特異な歴史を窺わせる。
…これがドイツ人を他の諸国民と距てる第一のものである。本能的にわれわれはまずギリシアを思い、次にローマを思う。第一次ルネサンスの人々や西ヨーロッパの他の文化国家の人々はその逆である。そして、ドイツ人が世界には余りよく分かってはもらえてはおらず、また大変に誤解されているのは、恐らくこれで説明がつくのではと思われる。パウル・ヘンゼル」(柳沼重剛訳、下巻118頁=一部表記を変えた)
‘All nations have had one Renaissance … with one single exception, namely, Germany. Germany has had two Renaissance: the second occurs about the middle of the eighteenth century, and is linked with such names as Herder, Goethe, Schiller, Lessing. Winckelmann. In it the Greeks predominate, as the Latins did in the first; the national kinship of Germans and Greeks was discovered. That is why the Germans can be Greek as intensely as the English, French, and Italians, right down to this moment, can be Latin. …… that is fundamental distinction. Instinctively, we think first of Greece, and then of Rome; the men of the first Renaissance and the great civilized nations of the west do just the opposite; and perhaps that goes far to account for the fact that the Germans aro so little known and so greatly misunderstood in the world. Paul Hensel [Montaigne und die Antike, Vörtrage der Bibliothek Warburg, 1925~26, S. 69]’; The classical tradition, Chap. 19, p. 367)
それは同時に、ドイツの「歪み」の「自己認識」でもある。
これに対してハイエットは、ヘンゼルの主張が「一部は本当」だとしても、「しかし、ほとんどは誤っている」(‘but much of it is lalse’)と退けたうえで、ドイツのルネサンスの不毛を以下のように説く。それは、古典学界の重鎮によるドイツ人が認めたがらない、ドイツ・ルネサンスの否定だ。
やや長いが引用する。
「ドイツには二度のルネサンスはなかった。やはり一度である。15、16世紀には他の諸国(「すべての国」ではない)はルネサンス的なものと宗教改革的なものとを経験した。ところがドイツでは宗教改革だけがあったのである。その主導者であったルターは、この宗教改革と時を同じうしてドイツにも実際にルネサンスの火花が生じたにも拘わらず、それを揉み消してしまうのに力を貸している。そのためにその火花は焔となって燃え上がるには至らなかった。他の諸国のルネサンスは何であったかと言うと、知力が解放され、芸術的な美感、精神的な美感、感覚的な美感が大いに高められ、一般的な文化水準が著しく高まった時代であり、おびただしい書物や発明や芸術作品が生産され(多くは全く価値のないものであるが、他とは比べものにならないほど貴重なものもある)、社会環境は比較的貧しかったにも拘わらず、議論の余地がないほど偉大な、想像することができない立派な天才が輩出した時代だった。」(引用続く)
‘Germany did not have two Renaissances, but one. In the fifteenth and sixteenth centuries other countries (though not ‘all nations’) had both a Renaissance and religious Reformation. Germany had only a Reformation, whose leader Luther helped to crush out those sparks of the Renaissance flame which did appear at the same time. And the fire did not catch.’(引用続く)
‘In other lands the Renaissance meant an immense liberation of intellectual energy, a greatly heightend sense of aesthetic, spiritual, and sensuous beauty, a marked rise in general culture, producing great quantities of books, inventions, and works of art (many quite worthless but some incomparably valuable), and the emergence, from comparatively low social milieux, of a number of indisputable and unpredicatable geniuses. If this had occurerd in Germany, the sixteenth century would have shown us a German Shakespeare or Milton, a German Tasso or Caldéron, a German Rabelais or Montaigne. Instead, we find nothing except a few humanists writng Latin ― the most distinguished being Urlich von Hutten, far less original and creative than his Dutsch contemporary Erasmus; a number of vernacular authors doggedly reproducing outworn medieval forms, poorly adapted classical ideas, and folk-patterns, notably the figure Wagner chose as typical of the best in his age, Hans Sacks; and a great cloud of religious writers, mostly sincere enough but devoid of real taste and education. …… partly because the cultural level of the ordinary public was too low, and partly because the class-distinctions of German society was kept a gulf fixed between the Latin-reading and writing university men and the outside world. For these and other reasons German in the fifteenth and the sixteenth centuries had no Renaissance.’; G. Highet, The classical tradition, Chap. 19, p. 367~68.
宗教改革がドイツの近代史に与えた影響は深甚だ。長らく中世を支配したカトリック的秩序への抵抗、「信仰の自由」という、「人間性の解放」=近代精神の覚醒をもたらす側面と同時に、のちのナチスの暴発に至る萌芽もそこにあるとみることも可能なのがドイツの特異性だ。それは単に「信仰の自由」の内面化不足にとどまらない。
なぜなら、人間性への手放しの信仰が、逆に人間に牙を剥く逆説として、ナチズムもその一つである民主制の逸脱に通底しており、「神なき時代」の人間性の解放神話と無縁ではないからだ。そして、「普遍」(καθόλου)を意味するカトリックも再生する。歴史の皮肉だ。[完]
私は、篠田英朗教授のこのブログに出会わなかったら、その真実にたどり着けなかったろう。日本国憲法9条の解釈と同じである。だから、篠田英朗教授を応援しようと、コメント数も多くなってしまうのであるが、それは、Webinar “Managing COVID-19 Pandemic - Experiences & Best Practices of China, Japan and the Republic of Korea"2020.07.02の押谷仁教授の講演であきらかである。
この講演のことも、篠田英朗教授のこのブログで知ったが、中国、日本、韓国のCovid19パンデミックの経験と一番優れた臨床のマネージメントというタイトルで、中国、日本、韓国が取り上げられ、国際連合のESCAPで押谷教授が講演されているわけで、その意味を本来は重く考えるべきなのである。日本政府の政策が本当に、後手後手に回っているのなら、このようなタイトルの元、押谷仁教授は講演されない。
昨日、アメリカのバイデン大統領が、Covid19パンデミックで亡くなったアメリカ人が50万人を超えたということで追悼の行事をホワイトハウスで催されたが、John Hopkins大学の2月24日日本時間1:22現在の資料によると、アメリカの死者、500,617人に対して日本は7,595人、中国は4,833人、中国の人数隠し、という面をさしおいても、アメリカの犠牲者の数が多すぎるのである。この数字に対して、バイデン大統領は、これだけ豊かで、科学技術の発達した先進国の米国がこれだけの犠牲者を出すのは、信じられない、と前任者トランプ大統領の無策ぶりを批判されていたが、そのトランプ氏の政策を決定したのは、米国感染症の権威、ファウチ博士ではなくて、フォックスニュースの解説員だそうである。どうして、日本のマスコミは、このアメリカ人、バイデン大統領の嘆きを大きく報道しないのだろう。この期に及んでも、その真実を報道しないのは、トランプ支持者が日本のマスコミ界に多い、としか考えられないが、日本も、マスコミの自称専門家の解説どおりにしていたら、米国社会のように大変なことになるところだったのである。
Gくんの解説によると、有事への医療体制の備えを怠り、患者の受け入れに支障をきたしていることは周知のとおりです、とあるが、医療崩壊は、ドイツを含めてどこの国でも起こっている。日本のマスコミが、さも、日本だけの問題であるかのように報道しているだけだし、東京都は、どうして、オリンピック施設を使って、無症状の陽性者を隔離しないのか、はかりしれない。無症状者が保菌しているウィルス、特にB,1,1,9ウィルスに感染力があるから、欧米では爆発的な感染が続いているのであって、東京都の感染者が減ったのは、検査数を減らしているせいである。それは、東京都のグラフを見れば、歴然としている。東京都の専門家ボードには、西浦博教授も、大曲貴夫医師も入っておられるが、彼らの主張は本当に正しいのだろうか?特に、無症状者の発症前の感染力が強いのに、特にB.1.1.9変異種のそれが強いのに、ウィルスの特性や感染連関を知る手掛かりとなるクラスター調査をしない、などという主張がわからない。
そのことが、感染者数全体の20%をしめる重症者の減少につながり、医療崩壊を防ぎ、コロナ感染症の感染爆発を防ぐのである。Gくんは日本のマスコミ報道をそのまま信じられるから、医療現場が改善されていない、と思われるのであって、重症者が爆発的に増えると、どの病院も対応できない。 乳がんを患ったことによって入院を含めて病院へ行く機会の増えた私には、医療現場の改善の努力はよくわかる。その改善は例えば、東京医科歯科病院の現状がNHKのドキュメンタリーで、取り上げられていたし、地域医療機関も同じである。わかっていても改善がなされていない、全体では好成績なれど、個別ミクロ的にはそうでない、というのは、日本のマスコミ、ワイドショーが作り上げた虚像である。
篠田さんのこのブログでの主張=尾身・押谷礼賛はともかく、コメント欄を140⇨「コロナ対策『日本モデル称賛』の場」と決めてかかっている。勘違いもいいとこ。だから、篠田さんにおべっかばかり。
Gくんさんの主張は常識的なもの。特に、有事への備えを怠った医療体制の問題。篠田さんも以前、Twitterで呟いていたと思う。
日本政府のコロナ政策が「後手後手」というのは、与党の政治家も、多くの専門家も認めていて、別にマスコミが主導したわけじゃない。民間臨調の報告書にもあった。さらに、日本のマスコミがトランプ支持なんて、あり得ない。バカバカしい。
舘田一博氏って、日本感染症学会のトップ。変異株についての「恐れるに足らず」という話の文脈を取り違えている。政府が認めたがらない時、第二波についてもちゃんと指摘していた。
ところで、ルターっていうのが、ドイツの癌なんだ。確かにエラスムスとも喧嘩別れしていることを昔習った。エラスムスって、「人文主義の王者」とか言われた人。ルターみたいに狂信的じゃない。
138・139⇨‘Germany had only a Reformation, whose leader Luther helped to crush out those sparks of the Renaissance flame which did appear at the same time. And the fire did not catch.…… partly because the cultural level of the ordinary public was too low, and partly because the class-distinctions of German society was kept a gulf fixed between the Latin-reading and writing university men and the outside world. ’って、納得。
宗教改革は他の国でもあるけど、ドイツは特別なんだ。宗教改革が泥沼化したのは、ルターっていう疫病神がいたからかな。プロテスタントの人は、絶対認めたがらないけれど。カロリーネさん、歪んでるよ⁉︎
Gくんさん、あなたいい人みたいだけど、中途半端に相手にしない方がいいよ‼︎
かしこ
「1. 川原玲子 2018年01月02日 20:17
☆☆☆☆☆
なんの肩書きもない主婦ですが、毎日新聞を読んで、水島朝穂さんの、意見に、憤慨し、同じ年で、ドイツに住んだことがあることがおなじなのに、どうしてこうも意見が反対なのだろう、と興味をもって、ホームページをよんでいたら、貴方様への痛烈な批判、それで、貴方のブログを読んでみると、考え方が近いので、嬉しくなりました。応援しています。頑張ってくださいね、」
意味のない投稿はやめましょう!
いまコロナ患者に対応している病院は、主に公的病院と大手民間病院(徳洲会など)の一部です。もちろん、これら医療従事者へは賛辞を送りたいです。その関連記事も以前紹介しました。このことは、政治的要因として開業医の団体医師会の抵抗もあって改善できていません。だからといって頬かむりもできません。ゆえに前投稿(134下)のように書きました。
Gは感染経路から、コロナイメージを、入口・出口に例えています。感染入口→出口医療機関です。上記は、その出口論(医療機関)です。感染入り口論は、感染供給源(エピセンター)への規制< として、アゴラ藤原かずえさんの記事を紹介した際に「1階2階建論」として、以前(→102)紹介済みです。この両者(入口・出口)は、車でいえば両輪です。バランスよく配置することが重要と考えます。
発言するかどうかかなり迷いましたが、一言
もうそろそろ、マスコミへの言及は控えてもいいのではないでしょうか。
私よりも知識・経験のある方だと推測いたしますが、カロリーネさんの発言自体がご自身で非難されているマスコミと変わらないように感じます。
ご留意いただけますと、一読者として幸いです。
追記:ドイツ語の翻訳や通訳に関して記述を拝見しました。私には語学の才能が無いため、英語圏で20年以上生活・仕事をしていますが、未だに苦労しております。大変ご苦労様です。
「同類」を除いて、全く相手にされないか批判されてばかりだと、疑心暗鬼(ἡ αἰώρησις)を募らせ、145⇒【桟敷席氏も、反氏の腹話術だと思う】ということらしい。
桟敷席氏、「かしこ」で結ぶ奥床しい人は女性らしいが、さぞ迷惑だろう。病気のパラノイア同様、妄想性パーソナリティ障害(paranoid personality disorder)か、妄想性障害における被害妄想タイプ(persecutory type)の症状と類似性があるから、妄想癖もほどほどにしたらよい。
遡って調べてみ見ると、今回以前に、桟敷席氏は5回投稿しているようだ(2月9日・454▽2月7日・425▽2月6日・404▽12月28日・209▽11月22日・99)。
いずれも、偏っていたり、狂信的だったり、奇矯な言辞を弄することはない、中立的な立場で、日下部翁に対する好意的な書き込みがある程度だ。
12月28日・209⇒【相変わらず、カロリーネさん、大暴れですね。最近はGくんさんにまで絡んだりして。わがままに育ったんでしょう。小池百合子さんを盛んに批判していますが、「女王様気取り」はカロリーネさんも同じじゃないですか】について、本欄で異論がある人物は、例外的な存在だろう。
ご亭主の話として、1月5日 23:24・161⇒【狂気というのは、理性を失った状態じゃなくて、理性以外のすべてを失ったこと】という議論を引き合いに出して、狂信性についても触れている。
それを受けて私も紹介したが、
曰く、「実際、この意味では、狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」(安西徹雄訳『正統とは何か』、『G. K. チェスタトン著作集』第1巻、23頁〔訳語と表記の一部を変えた〕=‘Indeed, the common phrase for insanity is in this respect a misleading one. The madman is not the man who has lost his reason. The madman is the man who has lost everything except his reason.’; G. K. Chesterton, Orthodoxy, 1908, Cap. II, The Maniac)
よく老婆を観察しているらしい。
144⇒【Gくんさんの主張は常識的なもの。特に、有事への備えを怠った医療体制の問題。篠田さんも以前、Twitterで呟いていたと思う】と記憶も確かなようで、それは政府解釈氏が12月20日・114~115で言及し(「山中教授の『ファクターX』に踊らされていいのか」)、一部を引用してもいる、内科医で東大法学政治学研究科教授の米村滋人氏の主張(「日本のコロナ対策論議に根本的に欠けているもの」=ビデオニュース・ドットコム)について、同月19日のTwitterで篠田さん自身がretwiteしている(「素人には、すぐに変えれそうな気がすることだが、業界の人にとっては、何年かけても変えれないこと」)。
篠田さんも基本的に、医療体制の問題ありと感じていることはほぼ明らかだ。
さて、その狂信家の見当違いで幼稚な主張、145②⇒【もし、ルターがいなければ、バッハの音楽もうまれないし、ウィーン古典派、モーツァルトやベートーベン(ママ=ベートーヴェン)の音楽も…要するにドイツ文化の大部分は存在しない】は、老婆の無知ゆえの(δι’ ἄγνοιαν)特有の思い込み、即ち神聖病(ἱερὸς νόσος)でしかない。
そもそも私は135~39で、ルター(Martin Luther, 1483~1546)の存在、特にその狂信的で攻撃的な態度が、聖書に基づき内面の信仰の自由を何とかして確保しようという動機から出たものだとしても、ルネサンスが開花するの妨げとなり、実質的には「扼殺」したに等しいという事情を論じた。
バッハ(J. S. Bach, 1685~1750)はプロテスタントで、なるほど偉大な存在には違いないが、ドイツ文化の発展とルネサンスの関係を論じる議論の主たるテーマとは何の関係もない。時代自体がずれている。議論の対象となっている16世紀前半とは次元の異なる話で、モーツァルト(A. W. Mozart, 1756~91)やベートーヴェン(Ludwig van Beethoven, 1770~1827)が活躍したザルツブルクやウィーンはカトリック文化圏であろう。
19世紀初頭までケルン大司教区の首都(Hauptstadt des Erzstifts)だったドイツのボン生まれのベートーヴェンは、宮廷楽長の祖父、宮廷楽員の父同様、カトリックのケルン大主教に宮廷付きオルガン奏者として仕えていた。その程度のことを、わざわざ西独留学までして音楽学を学んで知らないのだろうか。
音楽史上、バッハの影響は甚大だとしても、「ルターがいなければ」云々は意味のない想定だ。
如何にも音楽しか知らない阿呆だから無駄口を叩くだけで、悔しさ紛れに、145④⇒【他人を無智文盲扱いする前に、ご自身が教養を積まれた方が】もないものだ。
しかも、「文盲」の意味が分からないらしい。それを言うなら、「無知蒙昧」(ἄγνοια καὶ ἀπαιδευσία)、老婆は「無恥蒙昧」(αναίδεια καὶ ἀπαιδευσία)だろう。
ルターの存在は、自由意志(liber arbitrium)ならぬドイツ的な奴隷意志(servum arbitrium)の淵源となった側面をもつ。カントが、
「ドイツ人はあらゆる文明国民の間で、彼が従属している政府に最も容易に、またどこまでも言いなりになる国民であり、一度導き入れられた秩序を更新しようと欲したり反抗しようとすることからは最も縁遠いものである。ドイツ人の性格は悟性と結びついた粘液質であり、既に導き入れられた秩序について理屈をこねまわしもしなければ、自分自身で一つの秩序を考え出そうともしない。」(山下太郎訳『人間学』、理想社版『カント全集』第14巻、310頁〔訳語を変えた〕=„Der Deutsch fügt sich unter allen zivilisierten Völkern am leichtesten und dauerhaftesten der Regierung, unter der er ist, und ist am meisten von Neuerungssucht und Widersetzlichkeit gegen die eingeführte Ordung entfernt. Sein Charakter ist mit Verstand verbundenes Philegma; ohne weder über die schon eingeführte zu vernünfteln noch sich selbst eine auszudenken.“; Anthropologie, hrsg. von O. Schöndörffer; Kants Werke in Gemeinschaft, Bd. VIII, S. 211)
ルターは、彼を庇護する反ローマ教会勢力の思惑も加わって新たな教派を確立したが、結局のルターの思惑を超えて動き出した政治に翻弄され、自らも政治的に動く自縄自縛に追い込まれた。
一方で、ルターの教えを「再洗礼主義」にまで拡張したT. ミュンツァー(Thomas Münzer, ca. 1490~1525)やそれに結びついて自らの解放を訴えた農民戦争に対してルターは激しく批判して領主側の利益を代弁する結果となった。結局、権力者側に加担する。
ツヴィングリ(Huldrych Zwingli, 1484~1531)やカルヴァン派との対立もあり、危機感から立て直しに動いたカトリック側の反攻、所謂「対抗宗教改革」(Counter Reformation=プロテスタント側の貶称が「反動宗教改革」)もあって結局、その改革運動がドイツにもたらしたものは民族の結束ではなく、かえって激しい内部対立に伴う混乱を招いた。聖書のドイツ語訳にしたところで、当時の識字率は低い。おまけに、ドイツは共通文章語としての標準ドイツ語が確立されるまで(18世紀後半~19世紀初頭)、ルターのドイツ語=民族語訳から2世紀半を要している。聖書の民族語訳は、ルター以前も以降も、英語、フランス語ほか各種あり、特別なことではない。
内乱はルターの死後、1555年のアウグスブルク宗教和議によって一旦は収まったが火種は残り、17世紀に入って再燃したのが三十年戦争で、それによって国土の荒廃と小国分立を決定的にした。
しかも、ルターは陰湿な反ユダヤ主義者であるメニエール病の癲癇もち。その反ユダヤ主義的な数多の発言をみれば歴然としている。
…ユダヤ人の肥溜の中を這いずり回り、その聖所を崇め奉り、それによって慈悲の精神を実行に移し、悪魔とその末裔の増長に手を貸したことを鼻にかけるがよいのだ。こうして、わが愛する主と、われらの罪の贖いとなった尊き血を好きなだけ冒瀆することができるであろう」(『ユダヤ人とその虚偽に抗して』、1542年=引用はレオン・ポリヤコフ[Léon Poliakov]の反ユダヤ主義の歴史に関する網羅的な大著『反ユダヤ主義の歴史』[“Histoire de l’antisémitisme”, 1955~1994]第1巻、272頁)
奴隷意志を説くルターが厄病神である所以だ。
最後に、145⇒【文化の大輪は、徳川時代のような平和な時代に花開く】も欧州文明、特にルネサンスについて肝腎なことを何も知らない見本のような莫迦話。ルネサンス文化の、それこそ「大輪の花」を咲かせたイタリアは、ルネサンス期を通じて戦乱に明け暮れた。
「無恥蒙昧」の阿呆につける薬はない。[完]
★余白に全国の古書店が出展するサイト「日本の古本屋」にハンブルク版の『ゲーテ全集』が格安で出ている。無学な老婆は、暇だろうから、せめてゲーテぐらいはまともに読んだ方がいい。註釈が充実している。相手にするのに退屈しないで済む。
→Johann Wolfgang von Goethe Werke: Hamburger Ausgabe; Erich Trunz (hrsg.), Deutscher Taschenbuch Verlag, GmbH & Co. KG, Müchen, 1994, 12, dudchgesehen Auflage (1981 C. H. Beck’sche Verlagsbuchhandlung [Oscar Beck], Müchen; ISBN 3-423-59038-6), 14Bde. 13,000円
プラスナーって、Tomさんや反時流さんの説明で知ったけれど、専門の事典には、「現代ドイツの哲学的人間学を代表する一人」(滝浦静雄=『岩波 哲学・思想事典』1414頁)で、ナチスの迫害に遭ったユダヤ系とある。
戦後ドイツに戻り、ゲッティンゲン大学の教授になったけれど、10年後にアメリカに渡り、最後はスイス・チュウリヒに移り、そこで死ぬ。
元ドイツ留学生のカロ婆さんが何も知らないことには驚かないけれど、よく知らないことを、考えもなしに、国民性とか、どうして言えるんだろう。その神経に呆れる。
あれこれ書き散らして、間違えても平気の平左。ドイツ人は、自分が不利益なことは滅多なことでは謝らないと、昔にドイツ在住の日本人の書いた本で読んだけれど、日本人のような潔さが全くない。
婆さんがドイツ、ドイツって言うから、ドイツの印象がますます悪くなった感じ。「ナチズムの時代のドイツ人の精神構造は、ドイツ人特有なものではなくて、どの民族にも、集団にも、条件が整えば起こりうる」って言うけれど、国家挙げてのユダヤ民族の計画的な殺戮と、カルト宗教集団のオウムのテロとを同一に論じる感覚がどうかしている。
最近はトランプ憎しでひたすらQアノンだけど、比較の対象がズレている。ナチスの行為はドイツという国家、それを積極的と消極的とを問わず加担したドイツ国民の問題。
オウムやQアノンは、普通の日本人やアメリカ国民は関係ない。ドイツ人の口マネで、何でもナチスやヒトラーのせいにして、国民の大多数が口を拭っている。
それが国民性⁉︎
「どうして、このコメント欄の主張は…『日本モデル』…の是非ではなくて、ドイツ人の国民性なのか…摩訶不思議」というけど、元々は、いつの間にか「ドイツ系の主婦」(⁉︎)らしい貴女がTomさんに対して、【「遅れた国民」のブレスナーの主張を信じるということは、「ドイツ国民」の国民性をよく知らない表れ】(99)とか言ったから。
話の発端は、反時流さんが、貴女の独善的な偏った議論、「ドイツ系の主婦」らしい、「狂信性を別の『後進国ドイツ的』な側面から考えた」(74)ことへの貴女の頓珍漢な対応だろうけど。
貴女は、太平洋戦争時の掛け声「鬼畜米英」が戦争の原因とかいう「摩訶不思議な」人で、旧ユーゴ内戦の時、【マスコミに民族分断をあおられた】(31)とかズレたこと言ってる人だし。
それは、戦争の原因と戦争の結果起こったこととを取り違えている。
ナチスってカルト⁉︎ 何でも一緒くたにして、拡大解釈が過ぎる。「健全な人をプロパガンダで騙し」って言うけど、オウムに騙されて日本で何か起きたかね。
実際は、オウムが衆院選で惨敗して、つまりプロパガンダなんか何の効果もなくて、それに業を煮やしてテロを起こしたという話。
「ドイツ語が歌詞である音楽…ドイツ語の芸術的な音楽作品は…プロテスタントの成立と共に始まる」らしいけど、話は、ドイツにルネサンスが開花しなかった原因、ルネサンスを押し潰した最大の要因が宗教改革で、その元凶が狂信的なルターという話だろう。
音楽しか知らない貴女がそれを、「ドイツ語が歌詞である音楽」にすり替える。その論点ずらしって、狐さんがもうやめたらという、マスコミでもあまりやらないごまかしで、貴女の一人芝居。
橋本聖子を【橋下聖子さんとしてしまった不明】を詫びる(68)前にすることがあるんじゃない‼︎
Tom氏が97で言及している、ドイツ特異の非政治的な知的な特権層、特権的知識層、シナの特権的な「読書人」階層である士大夫層に一面似たドイツ版の»mandarinism«的な、しかも「文化的保守主義」を特質とする、所謂「教養市民層」(Bildungsbürtum, der Bildungsbürger)の「政治的未熟さ」、即ち政治的な敗北が、ドイツの戦前のナチズムの擡頭と深く結びついていることを、欧米の研究を紹介しながら、私は本欄ブログで何度も紹介してきた。
マックス・ヴェーバーもトーマス・マンも、K. ヤスパースもT. アドルノも、元ドイツ連邦大統領の兄で著名な物理学者で哲学者C. F. von ヴァイツェッカー(ドイツ語の発音は「ヴァイツゼッカー」ではない)も、各自の政治的な立場は必ずしも同一ではないが、皆、教養市民層だ。
それは、「カントとゲーテの国で、なぜナチズム(のような野蛮な政治勢力)が勝利を収めることになったのか」という問いから発する、ドイツに関心をもつ者、その弱点も長所も知悉している人々の胸中に当然のように胚胎した疑問を突き詰めるなかで浮上する問題意識だ。
教養市民層について、日本で一般的に関心が集まったのは、リンガー(Fritz K. Ringer)の『ドイツ・マンダリンの没落』(“The decline of the German mandarins. The German academic community 1890–1933”, Harvard University Press, 1969=邦訳は『読書人の没落――世紀末から第三帝国までのドイツ知識人』、西村稔訳、名古屋大学出版局)が話題になって以降のことだろう(なお、ドイツ語版は„Die Gelehrten. Der Niedergang der deutschen Mandarine 1890–1933.“, 1983)。
リンガーは元々、宗教社会学に関するヴェーバーの一連の研究のうち、『儒教と道教』(Konfuzianismus und Taoismus, 1915)でのシナの官僚層、家産官僚制(Patrimonialbureaukratie)を特徴づける、厳格な官吏登用試験の合格者を核とする非世襲的な知的エリート=士大夫層に関する研究の分析から着想を得た。
そして、その教養の中核は、シナの場合は儒学の古典の知識であったように、教養市民層にとってはギリシア・ローマの古典の知識であり、ギムナジウムでの徹底した古典語教育、つまりギリシア語やラテン語の修得を通じて、民衆とは異なる知的エリートとして、謂わば「聖別」される伝統と、それがドイツ特有の事情で、政治を蔑視し、政治的に保守化して無力化されていく過程を明らかにする。
従って、教養市民層、読書人と言っても、単に高等教育を受けた教養のある人々ということでは全くない。
ところが、教養市民層という言葉さえ知らない老婆は、2018年8月27日・138⇒【ドイツ人たちが…ナショナリズムを求めたから、ヒトラーの暴走の前に全く無力だった…世界屈指の知識教養層とはなにをさすのだろう? イギリスにも、フランスにも、イタリアにも、知的教養層はいるだろう】程度の認識以上に出ない。
端的に無知だから、私が、⇒《世界に先駆けてプロイセン時代に当時もっともすぐれた『アリストテレス全集』(Aristoteles Graece, editit Akademia Regia Borussica, 5 Vols. 1831~1870)を出し…哲学や古典学、社会科学、歴史学、自然科学分野で数多くの卓越した業績を輩出した知識教養層が形成されていたで…W. von Humboldt…Max WeberもG. Fregeも、U. von Wilamowitz-Möllendorff…も私が座右から離さない大ギリシア文法の著者R. Kühnerも皆ドイツ人…世界最大のパウリ・ヴィソヴァ・クロール『古典古代学大辞典』(A. Pauly, G. Wissowa und W. Kroll; „Realenzyklopädie der klassischen Altertumswissenshaft“, 1893~1978., 84 Bde)もドイツ人の業績…世界有数の教養市民層が不在でそんな学者や業績が存在しますか?》(引用続く)
通常、「プロシア王立アカデミー」(Akademia Regia Borussica)の通称を取ってベルリン・アカデミー版、または最初の2巻に収められたアリストテレスの本文(Corpus Aristotelicus)の校訂者の名前をとって「ベッカー版」と呼ばれるこの画期的な全集は、現在でもアリストテレスの引用をその頁数、左右欄、行数で行う便利な慣行の基準になっている、近代的な全集だ。
19世紀初頭当時、アリストテレスの著作に接する機会は、大学の専門の研究者であっても限られていた。版本は、ルネサンス時代に刊行された極めて古いものと同種の、写本との校合も極めて不充分なものが主流だった。
ドイツの古典学者ベッカー(August Immanuel Bekker, 1785~1871)は、そうした学界の水準を抜く行き届いた本文を提供し、以来長らく標準版の地位を確保する。それを実現するだけの蓄積と実力がドイツの学界にあり、その需要を満たす知識層が育っていた、ということだ。
それ以前の1619年にパリで出版された、世界的美学者でアリストテレスに精通した今道友信が「私の宝もの」と公言し、大切にしていたものと同じ、それなりによくできた、ギリシア・ラテン語対訳の2巻本『アリストテレス全集』(“Aristotelis opera omnia quae extant Graecè & Latinè”, authore Guillelmo Dv-Vallio)を私は所蔵しているが、それを含め、当時の知識人はプラトンやアリストテレスの著作は入手困難で、苦労して入手しても望みのものが手に入ることは少なかった。
ゲーテはもとより、ヘーゲルもアリストテレスを直接はあまり読んでいない。ベッカー版の第1~2巻が出たのは、ヘーゲルがコレラで死んだのと同じ1831年だからだ。
ヘーゲルが充分アリストテレスを読み込んでいたら、少なくとも彼の論理学や弁証法に関する主張は全く違っていた可能性すらある。
こうした事情や知見は、西欧で大学教育を受ける者の、謂わば常識(τὰ ἔνδοξα)に属する。老婆にはそれが欠落しているのは、付き合うのがその程度の層だったか、相手も東洋からやってきた、ドイツ語で授業についていくのがやっとの、しかも音楽学の、官費ではなく私費の、その他大勢の留学生だから言うだけ無駄だと考えたのかもしれない。周知のように、西欧における外国人差別は陰微かつ巧妙だ。
ともかく、「カントとゲーテの国で、なぜナチズムが勝利を収めることになったのか」、そうした世界有数の知的教養層のうちにはユダヤ系も相当割合を占めたとはいえ、なぜ政治的に未成熟、無力で、教養層的価値観とは全く対蹠的なナチズムの擡頭に対する防波堤となり得なかったのかについては、膨大な研究がある。
極めて大雑把に要約するなら三つの類型に分かれる。
①カントやゲーテに代表されるドイツの文化的、思想的、歴史的伝統の中に、ナチズムを予兆させるか、それと親和的な傾向があったとするもので、ルターはともかく、一面的に引き合いに出されるのが、ヘーゲルやニーチェだ。つまり、権威主義的、国家主義的傾向とナチズムとの連続性だ。カントについても、私が153で指摘した、権力や権威への国民の従順さ(„Der Deutsch fügt sich unter allen zivilisierten Völkern am leichtesten und dauerhaftesten der Regierung, …“)がある。
一言で言えば、ドイツにおける民主制の伝統の欠如。
②カントやゲーテに代表されるドイツの文化的伝統とナチズムを全く異質なものとして、野蛮なナチズムによって国家が占拠、壟断された例外的な事例としてナチス時代をみる、戦後ドイツの保守系知識人に目立った自己防衛、その象徴的存在としてゲーテを隠れ蓑にする論理。自らを文化=ゲーテの側に置き、ナチズムの被害者と主張する。批判者からは「アリバイとしての文化」(Kultur-als-Alibi)、「アリバイとしてのゲーテ」(Goethe-als-Alibi)と呼ばれる。
さらに、両者の中間にある多数の見解のうち、
③ドイツ的なものの中に、ゲーテ的ドイツとヒトラー(=ルター)的ドイツが共存していて、そういうものとしてドイツの国民性を考える議論。そしてヒトラーとナチズムの関係、どちらに主導権があったかを含めて多種多様だ。ドイツ人を擁護する必要のない第三者的な立脚点に立つなら、①との類似性も窺える。
いずれにしても、ドイツの場合、知的エリートと民衆との社会的、文化的乖離は他の西欧先進諸国以上に際立ったものがあり、畢竟、民主制的な伝統の形成がルネサンスの開花同様、革命的変化のヴァイマール期を除けば無きに等しい政治的貧困と、統一国家形成の遅れ、第一次大戦後の窮状などが重なって暴発したとみるのが、最も無理のない観察だろう。
戦争目的そっちのけで、ユダヤ民族の欧州大陸からの絶滅を期した蛮行は、歴史上他に類例がなく、ナチスやヒトラーだけでは説明できないということだ。
問題は、軽率に「国民性」「カルト」を語る狂信的な老婆に、そうした諸要素を総観的にみる知識も態度も全く欠如していることだ。
「過去の遺物」云々(159)からみて如何に無知か、端的に示す。贔屓の引き倒しの「ドイツ系主婦」なのだろう。[完]
緊急事態宣言の効果が、”陽性者数減少の鈍化”との報道です。これは予想できました。解明を試みます。感染入口→出口(医療機関)で見てみますと、自然減の部分として「一般国民の自粛による行動接触制限+気象条件」に加えて、人為による減少部分として「感染供給源(いわゆるエピセンター)とされる接待・会食を伴う飲食店への規制」の、両者が相俟って”一定の効果”があった。
一方、水面下では無症状感染者による市中感染が、野放し状態です。ゆえに、近時の陽性者数減少の鈍化(下げ止まり)も、想定済みです。ウイズコロナで対策して行くことは言わずもがなです。
感染入口側の現状は、上記のとおりです。感染出口側(医療機関の現状)を見てみましょう。上記新潮の記事の肝の部分(4ページ目)を要約して、紹介いたします。東京脳神経センターの川口浩医師は、回復した元コロナ患者を受け入れてくれる中小民間の後方病院の不足に言及していて、現状日本の「医療体制の脆弱性」を指摘しています。
つまり、こういうことのようです。コロナ患者を受け入れた指定病院と回復した患者を受け入れてくれる中小民間病院の連携がスムーズに行けば、患者の回転率が上り、指定病院の「病床のひっ迫」も避けられる!とのことです。その原文は、リンク先を参照されたい。
そうしたなか、ノーベル生理学医学賞を受賞した大村智氏が発見した新種の放線菌(ストレプトマイセス・アベルミティリス, Streptomyces avermitilis)を基に米国の製薬会社MSDが開発した腸管糞線虫症や疥癬治療の経口駆虫薬「イベルメクチン」(Ivermectin=商品名ストロメクトール)が米国で新型コロナの最有力な薬として注目されているらしい。
ところが、肝腎のイベルメクチンの製造販売権をもつMSDが、コロナ治療薬としての承認申請に消極的らしい。「治療効果に科学的根拠がない」というのが表向きの理由だが、薬価としては安いうえ、特許が切れているのに、通常の治験には、米国の場合でも数十億~数数百円の膨大な費用を要し、仮に供給しても感染が収束して売れ残りが出た場合、その費用を回収できない恐れがあるからだという。
「製薬会社は慈善事業ではない」(ノーベル生理学医学賞の本庶佑氏)からだ。
治験については日本でも、厚生労働省が依嘱する研究者などの研究データが、海外を含め臨床現場での実績にもかかわらず、効果を裏付ける科学的なevidenceが乏しいとして、日本製の「日の丸」治療薬の推進に及び腰なのだという。
そこに、医療体制の機動的で柔軟な運用を阻むのと同じく、非常時の緊急対応でいたずらにリスクを忌避し、「平時の論理」を出ない日本特有の体質があるとする批判も根強い。
「文春砲」がすっぱ抜いた首相の長男が勤務する制作会社と許認可権を握る総務省幹部との癒着の疑惑、実質は経費を使った飲み食い、一人当たり7万円を超す「過剰接待」に、世間の道徳感情をざわつかせるものがあるのだろう。
先ごろも、自民党代議士が午前8時以降の深夜のラウンジルームでの接客業経営の女性との飲酒が糾弾されたが、民衆=多数者の道徳的支配(empire moral de la majorité)が顕著だ。民主制の宿痾だ。緊急事態宣言中に模範を垂れなくてはならない政治家も難儀だ。
「自分の金なんだから、感染防止に留意すれば、酒ぐらい自由に飲ませろ。いいじゃないか」というわけにはいかないのが、コロナ禍では、世界共通のようだ。
「民意」を体して、そのお先棒を担ぐ、実態は権力闘争に加担するメディアも、それで溜飲を下げる民衆も、それに対して、先の女性蔑視発言騒動同様、一切の異論を封じる「知性に適用された平等理論」(la théorie de l’égalité appliquée aux intelligences)に、特段の勘考はない。
そうなると、詩でも読むしかない。悲憤慷慨の趣味はないし、大人げないから、技巧的なものがいい。それには、自身も詩人である英国の古典学者A. E. ハウスマン(Alfred Edward Housman, 1850~1936)が、「私はこの詩こそ古代文学の中で最も美しい詩であると思う」(“I regatd as the most beautiful poem in ancient literature”)と称したローマを代表する詩人ホラティウス(Quintus Horatius Flaccus, BC 65~8)でも取り上げる。
抒情詩集『歌章(カルミナ)』(Carmina, odarum libri)の第4巻7が問題の詩だ。
‘Diffvgere nives, redeunt iam gramina campis / arboribusque comae; / mutat terra vices et decrescentia ripas / flumina praetereunt; / Gratia cum Nymphis geminisque sororibus audet / ducere nuda choros. / immortalia ne speres, monet annus et almum / quae rapit hora diem: / frigora mitescunt zephyris, ver proterit aestas / interitura, simul / pomifer autumnus fruges effuderit, et mox / bruma recurrit iners. / damna tamen celeres reparant caelestia lunae; / nos ubi decidimus, / quo pater Aeneas, quo Tullus dives et Ancus, / pulvis et umbra sumus. / quis scit an adiciant hodiernae crastina summae / tempora di superi ? / cuncta manus avidas fugient heredis, amico / quae dederis animo. / cum semel occideris et de te splendida Minos / fecerit arbitria, / non, Torquate, genus, non te facundia, non te / restituet pietas; / infernis neque enim tenebris Diana pudicum / liberat Hippolytum, / nec Lethaea valet Theseus abrumpere caro / vincula Perithoo.’; Carminxm Liber IV-VII: Q. Horati Flacci Opera, recog. E. C. Wickham, ed. altera cvrante H. W. Garrod, p. 96~97.
積む雪は遠く逃げ去り はやも野に若草は 甦り木の枝は芽吹く、/ 大地は衣を更え、水嵩減りてゆるき流れは岸辺を洗う / 肌も露わに典雅天女の姉妹も揃えば 仙女も寄って美々しき歌舞の群具し出ずる、/ されど永遠の生命は望むべからずとは、楽しき日々を覆す年と季節の訓え。/ 寒さは春の微風に身をひそめ、春は夏の熱さについえてゆく。/ 豊かなる秋の稔りに夏滅びれば、間もあらずもの憂き冬馳せかえる。/ み空の月は速やかにその毀傷を癒すなれども、心の虔しきアエネーアースも、財宝豊かなるトゥルスも、/ アンクスも、共に消えたる闇の彼方に、我ら一度赴けば、影とも塵ともなりて戻らぬ。/誰か知る今日の日嵩に明日の時を、天上の神々がつけ加え給うや否やを。/ 愛しき世継ぎに、汝が遺せるものとても、さしだされたるそのその手をみな遁れ去らん。(引用続く)
/ 汝息絶えて、冥界の神ひとたび厳かの判決を下したまわば、/ おお豪勇のトルクァートゥスよ、汝が生れ、はたまた雄弁、敬虔とて、身を蘇らせは能うまじき。/ 女神ディアナさえ 冥界の闇より、無実のヒッポリュトスを救いもならず、/ 英雄テーセウスとて黄泉の牢を破って、親友のペイリトオスを取り戻しは得ざりしを。(坪井光雄訳『世界名詩集大成』第1巻、164頁を参照した)
ところで、ハウスマンは詩人ではあるが日ごろは厳格な古典語教師で、講義でも文章法と韻律にこだわり、正確に原文を読めない学生に詩の鑑賞など許さない。京大の古代哲学教室も似たようなものかもしれない。田中美知太郎も正確に原文を読むことをひたすら求め、田中が総合雑誌などに書く政治的エッセーに関する話題を禁じた。
以下はその例外的情景。
‘one morning in May, 1914, when the trees in Cambridge were covered with blossom. he reached … the seventh ode in the fourth book of Horace. … This ode he dissected with usual display of brilliance, wit, and sarcasm. Then for the first time in two years he looked up at us, and in the quite a different voice said: “I should like to spend a last few minutes considering this ode simply as poetry.” Our previous experience of Professor Housman would have made us sure that he would regard such a proceeding as beneath contempt. He read the ode aloud with deep emotion, first in Latin and then in an English translation of his own (now the fifth in More Poems). “That,” he said hurriedly, almost like a man betraying a secret, “I regatd as the most beautiful poem in ancient literature,” and walked quickly put of room.’; G. Highet, The classical tradition, Chap. 21, p. 497)
舞台はケンブリッジだが、そうした訓練が英国のエリートを育てた。そしてそれが、文字通り大英帝国の屋台骨となっていったことも一面の事実なのだ。[完]
感染出口側としては、感染有事の際の医療機関側の患者の受け入れ体制に課題を残しました。「無い袖は振れない」ですから、現状の体制で乗り切るしかありません。工夫が必要なのでしょう。それは、官・民の病院間での連係を密にして、感染有事を想定して医療業界全体で乗り越えて行くしか、現状できません(政治的要因で医療の制度が変えられないなら)。
Gは、(過去の自己の投稿見てませんが)去年1回目の緊急事態宣言4月のときから、感染有事(当時はオーバーシュートなんて言っていましたw)に備えて、受け入れ医療側がその備えをしておくことだ!と、提言していました。現在なら、大木隆生医師(慈恵大)・東大医療担当理事のかたらが、口を揃えて言っていることです(当時は本サイトでも相手にされませんでしたw)。
そのココロは、このことは何もGのオリジナルな発想ではなく、当時の加藤厚労大臣が、感染カーブの図表を示して感染のピークを後方にずらして、日本の医療資源のキャパシティオーバーを抑える!との説明を、そのままに理解しての書き込みでした。
このコロナ禍、いまどの道程にあるのでしょうか!?マラソンでいえば何キロ時点(35キロ!?)、トンネルの出口が見えません。いま懐中電灯をかざして真っ暗なトンネルを歩いています。もう少しするとトンネル出口の明かりが、見えてくるかも知れません。
Gくんは、病院をCovid19を治療する場所、だとのみ考えられるから、あのようなコメントになるのであるが、実際の病院は、同時にCovid19に感染する場所でもあるのである。感染力の強い感染者が患者としてやってきて、免疫力が落ちている他の病気の患者がそのウィルスに感染すると、重症化する危険性が高い。検査をする場所も、診察していただく場所も同じだし、感染した無症状の医療従事者と接触すると重症化リスクの高い患者が、Covid19に感染するのである。その為に、クラスターが発生した病院や高齢者施設での致死率、重症率が上がっているのである。まず、感染対策を考える時、その基本を押さえるべきだし、東京オリンピックを開く、となると、世界中からスポーツ選手がやってくる。選手だけではなく、関係者もやってくるのだから、彼らがイギリス、ブラジル、南アの変異株を海外からもってくる危険性が非常に高い。
「安心、安全の東京オリンピック」にするためには、それ相当の医療上の現実的な裏付けがいるのではないのか、と思う。その現実的裏付け、準備もなく、「ただいけいけ、ゴーゴー」では、日本の太平洋戦争突入のように、悲惨な結果にしかならない、と私は危惧する。
Kommunen kämpfen gegen B.1.1.7 – mit unterschiedlichem Erfolg
Zwei Städte an der Küste, Emden und Flensburg, und beide gehen gegen die britische Mutante B.1.1.7 vor. Einer gelingt es, die andere tut sich schwer. Wie ist das zu erklären – und was lässt sich daraus lernen?
Von Heike Klovert und Philipp Löwe • 25.02.2021, 18.41 Uhr
その差は、クラスターを封じ込めているか、甘く見て広げてしまったかである。Emdenは、11月には10万人あたり150人いた新規感染者を20人に抑え込んだのに比べて、Flensburgでは、193人に高どまったままである。Emdenの市長は、スーパースプレッダーなどを発生させなかった幸運もあるが、努力の結果、クラスターのコントロールができている、と自信をのぞかせているが、これ一つ見ても、「日本モデル」がいかに効力があり、B.1.1.9変異株、に対しても有効か、がわかるのではないのだろうか。クラスター探査、疫学調査をなくしてもCovid19を収束できる、という考えは幻想である。
かくいう私も、感染症学、免疫学、ウイルス学、公衆衛生学、そして医学や薬学に関しては一個の無学な素人にすぎないから専門知では大差はなく、現在は以前のように、新聞記者としてこれと思った専門家に直接取材する便宜もないから、Gくん氏と同水準、ひょっとしたら、劣るかもしれない知見しかもち合わせていないので、新型コロナウイルス自体や、新型コロナウイルス感染症についてご大層なことは言えない。
しかし、唯一の取り柄と言えば、問題を論じる際の、三段論法的な演繹推理の推論として妥当性や、問題を構成するすべての論理的に可能な推論形式という側面から、世に行われている多くの議論を純粋に形式的に、つまり論理的に眺めて、常々どうかと思われるものが多い。
篠田さんの素人コロナ評論についても、それを痛感するし、本欄に跳梁跋扈する狂信家の老婆など、問題にもならない。
Gくん氏に教えられて読んだ、藤原かずえ氏という人物による一見してもっともらしい議論、日下部眞一氏とは異なった観点から、気温の変動という要素を過大視して感染伝播の挙動を一元的に説明する議論も同様だ。以前は、Twitterで盛んに篠田さんに賛意を表明していたが、昨今は一転して人間中心主義の篠田さんとは真逆の主張を展開している。一種の自然主義だ。
感染防止のための人的な介入措置をすべて否定しているわけではないが(ワクチンの有効性を認める)、少なくとも藤原氏によれば、有意な効果が確認できない緊急事態宣言など、対策としては何の意味もないことになる。
この点については、謂わば人格円満な中庸派のGくん氏は反対だが、有効に反論できていない。102⇒【一定の効果はあったと見たい】としたそばから、「どう違うの?」と自分から言っては身も蓋もない。
私の見るところ、藤原氏の議論は読者をして誤謬推論に導く(παραλολιστικός)詐術的議論だ。つまり、論理的には誤謬推論(παραλολισμός)である。論理構造的には論点窃取(τὸ ἐξ ἀρχῆς αἰτεῖν=petitio principii)の誤謬で、よくあるタイプだ。
藤原氏の議論は気温(気温差)以外に、関連するその他の要素(気圧差、最低湿度、最大風速)を交えて、時系列データの多変量統計モデルである「多変量自己回帰モデル」(Vector Autoregression model)による解析をことさらに強調するが、議論の核心は、⇒【自律神経を乱して抵抗力を低下させる気圧差とウイルスの感染力を増大させる最低湿度が、実効再生産数の絶対量の説明変数として推定】(「陽性者増加は気象が主要因/札幌・大阪・福岡・沖縄編」=1月24日)という結論を導出する構造になっている。
他のコロナ性の風邪や季節性インフルエンザと同じく、新型コロナも気温の変動に連関する自律神経の機能低下やウイルスの活動環境に好適な環境因子を列挙して、常識的な納得を演出する形になっている。
つまり、中身は拍子抜けするようなもので、新型コロナウイルス自体の分析に踏み込んだ議論は、意識的に避けている。
それがなぜ、論点窃取の誤謬かと言えば、藤原氏の議論は、⇒【季節の変わり目に脳がストレスを受けて自律神経が乱れることで体温調整に支障…免疫力が低下する…特に気温が急に冷え込む季節の変わり目に風邪をひきやすい】を「現代医学」の知見としたうえで、それを特段の根拠を提示することなく新型コロナにも比定して、evienceを装った「実証データ」と感染伝播の挙動を関連づけたものでしかない。
何のことはない、風やインフルエンザは冬に流行するという経験的な事実をコロナ感染に投影したものにすぎず、冬季の感染拡大=第三波の主要因は、見渡したところそれ以外には考えられないではないか、というものだ。
感染拡大は、季節性因子を認めつつ、すべては人間的な行動の結果とする篠田さんの主張、つまり、⇒【流行は、人間が自分たちで作り出している現象…人間的な営みの結果として流行が発生…実際には、「波」など存在していない。存在しているのは…伝播させている人間の活動】(12月30日=「歴史の節目で日本の立ち位置を考え直す」)とは異なり、正反対の議論だ。
そして、「定量的な分析」が可能な対象に限って、極めて限定的な分析を行い、「緊急事態宣言」不要説を説く。気温など=季節的因子以外の分析をしないのは、専ら季節的因子と感染拡大の連関(「因果関係」ではなく)を論証する構造に議論自体が構成されているからで、論点窃取とした所以だ。
ところで、論点窃取とは、連関性または因果性を論証すべき命題について、前提の中に結論を導く要素を事前に含める論証のことで、見かけ上は論証の形をとっているが、この場合は、冬季には風邪や季節性インフルエンザなど呼吸性疾患が流行するという前提を「現代医学」の知見として前提し、それに合致する「実証データ」の枚挙をもって、論証にすり替えることになる。
藤原氏の真の目的は政府を緊急事態に追い込んだメディアもその一員である野党や専門家を「バカのクラスター」として攻撃する、主として矯激的なメディア批判にあることも見えやすい道理だ。鬼面人を驚かす体の表題の著書を売りたいのだろう。
しかし、藤原氏が考えるほど愚鈍ではなく、野党の政府批判やメディアに煽られて集団ヒステリー状態になり、「科学的根拠のないヒステリックなゼロリスク信奉者」にもなり切れない国民は手探りで自衛策に動き、状況に応じて、社会経済活動の面では歓迎せざる緊急事態宣言による収束を求め、「Go To 事業」にも便乗したり、一定の理解を示すなど首尾一貫を欠くとしても、元々自然災害が頻発する「災害大国」の民の習性でそれなりに節度ある非常時対応に大方が一致して動く特性から、何とは明示できない幸運=偶然にも助けられて、ここまでは最悪の事態を回避している。
緊急事態宣言があった場合となかった場合の比較は困難だとして、少なくとも行き当たりばったりに終始する政府を尻目に、宣言の効果を先取りして動く民度の高さが国民に具わっており、発令に先立って動いた結果、発令以前に感染拡大がピークを迎える事態も呼び込んだのかもしれない。
つまり、実際のものに先立つ見えざる「緊急事態宣言」を想定するなら、それが感染伝播の挙動と連関し、この点で「緊急事態宣言」という選択は一定の有効性と、実際の発令後にそれを継続させる、充分なメッセージ性があるとみることもできる。
この点で、藤原氏の議論は、一面性を免れないのである。
提示または想定される前提(πρότασις)から論理的に(εὐλόγως)導出可能な結論(συμπέρασμα)とはいったい何であるのか、その結論を導き出す議論の「論理構造」に対する目配り、「根拠として提示されている判断の妥当性」、根拠、新型コロナの場合なら個々のevidenceや観察、観測結果自体は、それ自体としては正当、つまり正しいとしても、そのことと、そこから当該の結論が論理的に導き出されるか否かは、また別問題だからだ。
Gくん氏は哲学的な専門的知見に基づいて、議論自体の正当性、論理構造の分析や妥当性の評価にまで踏み込んで論じているわけではないのだから、私の指摘はある意味で無理な注文、見方によっては無理難題をふっかけている印象を抱くかもしれないが、厳密に(ἀκριβως)考えるということは、それくらい多くの手続きを要するものなのである。
こうしたことは、標準的な論理学の初歩の問題なのだが、実際にものごとを考えるうえで、厳密にその要求を満たすことは、一般の人々にとっては、想定される以上に難しいものにようだ。
議論の内容、言語表現(λέξις)を記号化=形式化して論理式(logical formula)として演算すれば形式的な誤謬(ἁμάρτημα)は、当該の論理式が表示する命題(πρότασις)については妥当でも、形式化されたもの自体の正しさ=妥当性の問題はまた別だからだ。日常言語、つまり自然言語の判断を正確に論理式に転換するには、一種の知識、訓練に加え、実際の使用にあたっては、論理形式自体について習熟する必要があるからだ。
老婆には言うだけ無駄だが、Gくん氏は将来がある。
世に行われている議論、少なくともネット上の甲論乙駁のの大半はそうした顧慮を満たしていない。Gくん氏に触れていろいろ言及したが、論理を喋喋する狂信的な老婆の議論など、論理の欠片もない。
当の本人がそれに気づいていない点も含めて、致命的で惨憺たるものだ。論理的推論に関しては、白痴(ἠλίηθιος)に等しいと私が繰り返す所以だ。
老婆の別種の議論(165)、「カントとゲーテの国で、なぜナチズムが勝利を収めたのか」に対する似而非反論も同じ構造だ。
それがすべて、ヒトラーとナチズムの蛮性に帰着するは、本来のドイツは文化的=「カントとゲーテの国」、それが非本来的な野蛮=「ヒトラーのナチズム」に乗っ取られたのは、ヒトラーのナチズムが野蛮で、第一次大戦後の不本意な状況に追い込まれた国民による、不本意な選択の結果として、文化的なドイツを圧倒したからだ、という構造になる。
一言で言えば、「ドイツの過ちのは責任はヒトラーとナチスの野蛮にある。なぜなら文化的なドイツを悪夢と蛮行に追いやったのはナチスが野蛮であったからだ」という循環論に等しい。
文化と野蛮の極端な二分法も虚偽的で、ドイツ自身の中に「カントとゲーテ」だけで代表するわけにはいかない多様な要素があることを一切無視して、しかも国民がナチズムに進んで加担したことを度外視する、結論ありきの論証でしかないからだ。
老婆に論理意識など皆無に等しいから、それが論点窃取の虚偽であることを、少しも理解できない。[完]
Διὰ τί τοὺς μέν, ἐὰν ἄρξωνται ἀναγινώσκειν, ὕπνος λαμβάνει καὶ μὴ βουλομένους, τοὺς δὲ βουλομένους ποιεῖ ἐγρηγομέναι, ὅταν λάβωσι τὸ βιβλίον *** ; …… τῶν δὲ κατὰ φύσιν ἐχόντων ὅταν στῇ πρὸς ἓν ἡ διάνοια καὶ μὴ μεταβάλλῃ πολλαχῇ ἰσχυροτάτη οὖσα, ἴσχεται καὶ τὰ ἄλλα ὅσα ἐστὶ περὶ τὸν τόπον τοῦτον, ὧν ἠρέμησις ὁ ὕπνος ἐστίν. ὅταν δὲ στῇ καὶ οἷον κοπιάσῃ ὁ νοῦς, βαρύνει τὴν κεφαλὴν ὢν ἐν αὐτῇ καὶ ποιεῖ τὸν ὕπνον. κινουμένης δὲ τῆς ψυχῆς κατὰ φύσιν οὐ καθεύδει• ζῇ γὰρ τότε μάλιστα. τὸ δ’ ἐγρηγορέναι τοῦ ζῆν αἴτιόν ἐστιν ἢ τὸ καθεύδειν.; ibid., XVIII-1, 916b2~4, b12~19.
Διὰ τί τοῖς παραδείγμασι χαίρουσιν ἄνθρωποι ἐν ταῖς ῥητορείαις καὶ τοῖς λόγοις μᾶλλον τῶν ἐνθυμημάτων; …… ῥᾷον δὲ διὰ τῶν παραδειγμάτων καὶ τῶν λόγων μανθάνουσιν• ἃ γὰρ ἴσασιν, ἔστι ταῦτα καὶ ἐπὶ μέρους, τὰ δὲ ἐνθυμήματα ἀπόδειξίς ἐστιν ἐκ τῶν καθόλου, ἃ ἧττον ἴσμεν ἢ τὰ μέρη. ἔτι οἷς ἂν μαρτυρῶσι πλείους, μᾶλλον πιστεύομεν, τὰ δὲ παραδείγματα καὶ οἱ λόγοι μαρτυρίαις ἐοίκασιν• αἱ δὲ διὰ τῶν μαρτύρων ῥᾴδιοι πίστεις. ἔτι τὸ ὅμοιον μανθάνουσιν ἡδέως, τὸ δὲ παράδειγμα καὶ οἱ μῦθοι τὸ ὅμοιον δεικνύουσιν.; XVIII-3, 916b26~35.
篠田教授のブログに書かれていること、特に、篠田英朗教授がブログの最後に書かれている、盲目的に「欧米を模倣せよ!」と主張し続けている人たちの言っていることには、何ら妥当性はない、ことに日本国民は、早く気づくべきである。
Acht Milliarden – Der Auslands-Podcastにこんな記事があるそうだ。
失われたロックダウン世代
コロナの後遺症は、現在の学生世代に、厳しくのしかかる。
現在、あまり勉強ができない、大人になっても、あまり稼げない、
けれども、コロナによってで生じた負債は返済しなければならない。
Ein Podcast von Olaf Heuser
26.02.2021, 20.39 Uhrhttps://www.spiegel.de/politik/ausland/corona-pandemie-die-verlorene-lockdown-generation-podcast-a-43b18589-cb8f-47e9-9932-80e23fcd3567
世界銀行の試算によると、このコロナ感染症で10トリリオンドルの収入が減るそうである。世界全体でみると、生存のため、家族の生活を支えるために、2400万人の子供たちが学校に戻れないそうである。Spiegel誌のブラジル特派員の報告によると、裕福な家庭の子供は私立の学校に登校し、勉強を続けることができるが、貧しい子供の通う公立の学校は、休校しているそうである。その教育の差が、大人になった時の社会的な格差を生み、社会の軋轢を生むことを記者は危惧している。。
日本のマスコミも、日本政府に無制限な財政支援を要求するだけではなくて、そういう世界の現状や、将来の予想を含めて、事実をきちんと日本国民に報道すべきなのではないのだろうか。
日本の戦略は、「森を見て全体像を把握する」ことで、ニューヨークをはじめ欧米諸国は「木を見る」方法だと言えます。欧米諸国は、感染者周辺の接触者を徹底的に検査し、新たな感染者を見つけ出すことで、ウィルスを一つ一つたたくことに力を入れてきました。・・特に、米国は、食品医薬品局(FDA)が拙速にPCR検査キットを承認したため、粗悪な製品が出回ってしまいました。・こうした要素が相まって、PCR検査の精度を下げ、混乱に拍車をかけたのだと考えられます。・・
日本の戦略の肝は、「大きな感染源を見逃さない。」という点にあります。感染が大規模化しそうな感染源を正確に把握し、その周辺をケアし、小さな感染はある程度、見逃しを許容する、つまり、「日本モデル」は、一人の感染者が多くの人に感染させる「クラスター」を阻止する戦略なのである。このタケノコ耳鼻科のキットは、その目的に役にたつのだろうか?とにかく、反氏にも「日本モデル」の有用性がわかっていない、と感じるが、「日本モデル」の基本がきちっとわかっている専門家に、マスコミの解説をお願いしなければ、混乱に拍車がかかる。また、押谷流の日本モデルではなく、欧米流の東京都小池知事のやり方をまねると、日本のコロナ感染の収束はおぼつかないのではないか、と首都圏に住む私は危惧している。
ゲーテを楯に(隠れ蓑?)、ドイツが先の大戦でやったことを言い逃れできない、ということ。
ゲーテは「他者、異文化を尊重」で、ヒトラーはドイツ民族、文化の優位性という主張ばかり言い張ったって、何の反論にもならない。だって、ドイツ人の大半はゲーテでもヒトラーでもないんだから。カロさんて、論理メチャクチャ。
「論点窃取」の虚偽とか、「循環論」て何だろうとWikiで調べたら、「詭弁」の一種として「論点先取」(petitio principii=begging the question)とあった。
「証明で真偽不明の前提を使ってしまう論理的誤りを論点先取といい、それが循環論法をひき起こす」とある。循環論法は、論点先取の中でも、「前提が結論の根拠となり、結論が前提の根拠となる形式の推論」だという。
どっちにしても、論点先取は、「前提の中に結論を導く事が出来る情報を『あらかじめ』含め……見掛け上は『論理』の形になっている」が、「実際は同義反復の推論」だと。
例えば、「ルノワールは偉大な画家である。なぜなら、素晴らしい画家だからだ」と「論理構造が等しい」らしい。この「ルノワール」にドイツ人、「偉大な画家」にゲーテを産んだドイツを当てはめると、カロさんのように、ドイツはヒトラーに扇動されなければ……となるらしい。
でもそれは、おかしい。
私はどっちかと言うと、「早まった一般化」 (hasty generalization)=少ない例から普遍的な結論を導く誤りだと思う。
【私は…哲学音痴でもなければ、論理的な文章が書けない人間でもない】というけれど、どうみても論理的じゃない。確かに、論理じゃなくて、lonelyだろうけど。
言ってる意味、分かる⁉︎
前回182、つまり本日27日未明(182→00:48)に、アリストテレス『問題集』(“Προβληματα”)からのものとして引用した3種の文章、ちょうど「朝まで生テレビ」を観るため入浴前に投稿したから、訳文を添える手間を省いた。読者には不親切だったかもしれない。
最初の→‘Διὰ τί αἱ μεγάλαι ὑπερβολαὶ νοσώδεις; Ἢ ὅτι ὑπερβολὴν ἢ ἔλλειψιν ποιοῦσιν; τοῦτο δὲ ἦν ἡ νόσος.’は、主としてGくん氏向けで、最新の『アリストテレス全集』(第13巻)の冒頭にある。
「なぜ、大きく度を超すことは、病気の原因となるのだろうか。あるいは、それによって超過や不足がもたらされるからだろうか。じじつそれが病気というもの」(丸橋裕ほか訳)という意味。病気(νόσος)の概念の一般的規定だ。要するに不摂生=放埓(ἀκολασία)の戒めだろうか。
言論にも放埓は存在するから、その意味では病気=狂信家の老婆向けかもしれない。
三番目→‘Διὰ τί τοῖς παραδείγμασι χαίρουσιν ἄνθρωποι ἐν ταῖς ῥητορείαις καὶ τοῖς λόγοις μᾶλλον τῶν ἐνθυμημάτων;……’;は、純粋に論理的、その意味で抽象的な概念を用いた議論ができない人間向けで、.
「なぜ、人は弁論において、説得推論(ἐνθυμημα)より実例(παράδειγμα)や喩え話(λόγος)を喜ぶのだろうか。…実例や喩え話を用いれば、人はより容易に学ぶ。なぜなら、それらのことは知っていることであるし、また、個別的なものであり、他方、説得推論は普遍的なことにもとづいた論証であって、われわれは普遍的なことを個別的なよりよく知らないからである。さらに、われわれは多くの人が証言していることをよりいっそう信じるが、実例や喩え話は証言に似ているからである。」(引用続く)
厳密な議論は、厳密な定義と厳格な論理的操作が欠かせない。暇を持て余した婆さんの他愛もないおしゃべり(ὁ γραός ὕθλος)とは異なるからだ。老婆の愚劣な無駄話(ἀδολεσχεῖν)にも、見当違いな身の上話の類が多い。しかも、現実的とか分かり易くとか称して一向に要領を得ず、取り留めがない。
誤謬推論を犯す(παραλολίζεσθαι)ことがあっても気づくことは稀だし、条理を尽くしてまともな議論を構成することができない。蜘蛛の巣が張ったお頭では、「論点窃取」の誤謬どころの騒ぎではない。そもそも、「論理的」ということの意味が理解できないのだろう。文章も稚拙で、どこにも取り柄がない。何度でも同じ間違いを繰り返す。
残る二番目の文章は、意味深長で、
「なぜ、本を読み始めると、眠ろうと思わなくても眠気に襲われる人もいれば、本を手に取ると、眠ろうと思っていても目が覚めてしまう人がいるのだろうか。…これに対して自然な状態にある人たちは、精神の働きが一つのものに固定し、きわめて強くて様々に向きを変えることがないときには、この場所〔=精神の座〕のあたりにあって、それらの静止が眠りであるような他のものも停止する。知性が立ち止まり、いわば疲れ果てると、それは頭の中にあるので、頭を重くし、眠りをもたらす。しかし、魂が自然本性に即して動いているときには、魂は眠ることはない。というのは、そのときこそ、魂は最もよく生きているからである。生きていることの原因は、眠っていることよりも目覚めていることである。」(366頁)
老婆の愚劣かつ陳腐で退屈な議論は、「知性が疲れ果てる」(κοπιάω ὁ νοῦς)状態と言える。
今の自分は何処にあるのか?自己自身を見つめる力なくして、他人に吠えるばかりでしか自己確認が出来ないのか?寂しい今を戦うことで生きている。
「賢者の叱責を聴くこと」(τὸ ἀκοῦσαι ἐπιτίμησιν σοφοῦ)とは言っても、別に相手が賢者=知者(σοφός)である必要はあるまい。条理のある言葉であるかどうかを見抜くことができればよいだけの話だ。それを見逃すから、いつまでも愚鈍にとどまるしかない。
陶淵明の「歸去來兮辭」にも「悦親戚之情話。樂琴書以消憂」(「親戚の情〔まこと〕ある話〔ことば〕を悦び、琴と書とを樂しみつつ以て憂いを消す」)とある。情話とは、嘘のない、心に沁み入る話=言葉の謂いだ。
愚者の歌詠を聴く(ἀκούοντα ᾆσμα ἀφρόνων)=つまり讃美(τὸ ἐγκώμιον)、畢竟「おべっか」(κολακεία)など聴いても何とも空しいだけだ。「愚者の笑い」(γέλως τῶν ἀφρόνων)は「鍋の下にはぜる柴の音のよう」(ὅτι ὡς φωνὴ τῶν ἀκανθῶν ὑπὸ τὸν λέβητα)とは言い得て妙で、ペチャクチャうるさいだけだろう。
わが国のフランス・ルネサンス文学研究の開拓者、ユマニスム(humanisme)研究の先駆者で、フランソワ・ラブレーの訳者として知られる渡邊一夫(1901~75)は、生前上梓した著作集の付録、つまり「月報」の表題のアイデアを求められ、‘Spicilegium amicitiae’と名づけた。直訳すれば。「友情の麦穂の束」だ。
[Spicilegium]とは、中世カトリック、ベネディクト派の学僧たちの研究文集の名称から取ったものだ。
「amicitiaとは友情の義であるが、厳峻・柔和・憐憫・諧謔……と様々な友情があり得ることを覚悟している」と。
仲間内の褒め言葉など無用、「建設的な議論」という名の腰の引けた怯懦も。学問の厳しさも喜びも熟知する碩学、真の学者の諧謔とはそうしたものなのだろう。
冒頭の語句に先立って、「賢き者の心は哀傷の家にあり 愚なる者の心は喜樂の家にあり」(‘καρδία σοφῶν ἐν οἴκῳ πένθους, καὶ καρδία ἀφρόνων ἐν οἴκῳ εὐφροσύνης.’; VII. 4)という。「弔いの家を訪ねることは、酒宴の家に家を訪ねるのに勝る」(‘ἀγαθὸν πορευθῆναι εἰς οἶκον πένθους ἢ ὅτι πορευθῆναι εἰς οἶκον πότου.’; VII. 2)からだ。
「そこには人皆(避けられない)終わりがあり、生命ある者は心せよ」(‘καθότι τοῦτο τέλος παντὸς τοῦ ἀνθρώπου, καὶ ὁ ζῶν δώσει εἰς καρδίαν αὐτοῦ.’)という。
どんなに考えないようにしていても人は必ず死ぬ宿命だし、たとえ1,000年の長寿を二度全うしても空しい。
「人の壽命(いのち)千年に倍するとも福祉を蒙れるにはあらず 皆一所に往くにあらずや」(‘καὶ εἰ ἔζησεν χιλίων ἐτῶν καθόδους καὶ ἀγαθωσύνην οὐκ εἶδεν, μὴ οὐκ εἰς τόπον ἕνα τὰ πάντα πορεύεται;’; VI. 6, 249)
明日のことは期し難いし、生まれくることも死ぬことも自由にはならない。
人が苦労してみたところで、何になろうか、つまり「働く者はその勞して爲すところよりして何の益を得んや」(‘τίς περισσεία τοῦ ποιοῦντος ἐν οἷς αὐτὸς μοχθεῖ;’, III. 9, p. 243)。
「神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗しかり神はまた人の心に永遠をおもふの思念を賦(さづ)けたまへり 然ば人は神のなしたまふ作爲(わざ)を始より終まで知明むることを得ざるなり/…/我知る凡て神のなしたまふ事は限なく存せん 是は加ふべき所なく是は減すべきところ無し神の之をなしたまふは人をしてその前に畏れしめんがためなり/昔ありたる者は今もあり 後にあらん者は既にありし者なり神はその遂やられし者を索めたまふ」(‘σὺν τὰ πάντα ἐποίησεν καλὰ ἐν καιρῷ αὐτοῦ καί γε σὺν τὸν αἰῶνα ἔδωκεν ἐν καρδίᾳ αὐτῶν, ὅπως μὴ εὕρῃ ὁ ἄνθρωπος τὸ ποίημα ὃ ἐποίησεν ὁ θεός ἀπ' ἀρχῆς καὶ μέχρι τέλους. /… / ἔγνων ὅτι πάντα ὅσα ἐποίησεν ὁ θεός, αὐτὰ ἔσται εἰς τὸν αἰῶνα• ἐπ’ αὐτῷ οὐκ ἔστιν προσθεῖναι, καὶ ἀπ’ αὐτοῦ οὐκ ἔστιν ἀφελεῖν, καὶ ὁ θεὸς ἐποίησεν, ἵνα φοβηθῶσιν ἀπὸ προσώπου αὐτοῦ.’; III. 11, 14~15, p. 244)
それにしても、今観ている大河ドラマ「青天を衝け」は詰まらないし、人間も。醜悪な面が否定できず、動物にも劣る側面が少なくない。元々「死すべきもの」(θνητός)だからそれもまた宿命だ。
「我また心に謂ひけらく是事あるは是世の人のためなり 即ち神は斯世の人を撿(ため)して之にその獸のごとくなることを自ら曉(さと)らしめ給ふなり/ 世の人に臨むところの事はまた獸にも臨む この二者に臨むところの事は同一にして是も死ねば彼も死ぬるなり 皆同一の呼吸に依れり 人は獸にまさる所なし皆空なり/ 皆一の所に往く 皆塵より出で皆塵にかへるなり/ 誰か人の魂の上に昇り獸の魂の地にくだることを知ん/」(続く)
‘ἐκεῖ εἶπα ἐγὼ ἐν καρδίᾳ μου περὶ λαλιᾶς υἱῶν τοῦ ἀνθρώπου, ὅτι διακρινεῖ αὐτοὺς ὁ θεός, καὶ τοῦ δεῖξαι ὅτι αὐτοὶ κτήνη εἰσὶν καί γε αὐτοῖς. / ὅτι συνάντημα υἱῶν τοῦ ἀνθρώπου καὶ συνάντημα τοῦ κτήνους, συνάντημα ἓν αὐτοῖς• ὡς ὁ θάνατος τούτου, οὕτως ὁ θάνατος τούτου, καὶ πνεῦμα ἓν τοῖς πᾶσιν• καὶ τί ἐπερίσσευσεν ὁ ἄνθρωπος παρὰ τὸ κτῆνος; οὐδέν, ὅτι τὰ πάντα ματαιότης. / τὰ πάντα πορεύεται εἰς τόπον ἕνα• τὰ πάντα ἐγένετο ἀπὸ τοῦ χοός, καὶ τὰ πάντα ἐπιστρέφει εἰς τὸν χοῦν• / καὶ τίς οἶδεν πνεῦμα υἱῶν τοῦ ἀνθρώπου εἰ ἀναβαίνει αὐτὸ εἰς ἄνω, καὶ πνεῦμα τοῦ κτήνους εἰ καταβαίνει αὐτὸ κάτω εἰς γῆν; / καὶ εἶδον ὅτι οὐκ ἔστιν ἀγαθὸν εἰ μὴ ὃ εὐφρανθήσεται ὁ ἄνθρωπος ἐν ποιήμασιν αὐτοῦ, ὅτι αὐτὸ μερὶς αὐτοῦ• ὅτι τίς ἄξει αὐτὸν τοῦ ἰδεῖν ἐν ᾧ ἐὰν γένηται μετ’ αὐτόν;’; III. 18~22, p. 244~45.
「人間は動物に何も勝っているところはない」(ἐπερίσσευσεν ὁ ἄνθρωπος παρὰ τὸ κτῆνος; οὐδέν)。すべては空しい(τὰ πάντα ματαιότης)。
「すべては、塵から成り、すべては塵に還る」(τὰ πάντα ἐγένετο ἀπὸ τοῦ χοός, καὶ τὰ πάντα ἐπιστρέφει εἰς τὸν χοῦν)。
人間は蛋白質、つまり水と炭素の塊だし、その挙動はブラウン運動と基本的には同じだから、その通りには違いない。[完]
そう言う面で、私は東京都小池百合子知事を批判しているのであって、彼女は日本政府を批判することで、日本のマスコミに応援されて名声を博している。「アレは森喜朗の娘でしょ」 小池百合子氏vs橋本聖子氏の長き因縁
2021/02/27 16:05
という週刊ポストの記事にしろ、典型的である。カタールのドーハで開かれた世界陸上の女子マラソンで、暑さにより選手の4割が棄権したのをきっかけに、IOCが東京五輪のマラソン開催地見直しに動き、森氏や橋本氏が「札幌開催」に同意、事前に知らされていなかった小池氏が「青天の霹靂」と猛反発した事件だが、「この件は森氏が進めたものです。IOCがマラソン会場見直しを言ってきていたので、大臣就任の“ご祝儀”として橋本氏の地元の北海道にしてあげようということ。森さん流の義理人情の発想です。」と政治評論家の有馬晴海氏が解説をはさむ。この有馬氏は解説者として民放のワイドショーに頻繁に出てこられるが、豊洲問題の頃から、明らかに小池百合子御用人である。客観的に考えて、東京の夏は暑い。札幌はオリンピックの経験もあるし、涼しいから、という妥当な結論なのに、うがった見方をわざとして、橋本聖子氏に不信感をかきたてる。モリカケサクラ、菅首相の長男問題、森氏のジェンダー問題、など、日本のマスコミ、テレビ報道はすべてその調子である。今年の東京は猛暑なのではないのだろうか?どのように運営するつもりなのだろう。
石井妙子さんの書かれた「女帝、小池百合子」によると、小池百合子さん自体が、カイロ大学に入っても、文語がわからないので授業に出ても何の授業なのかさえわからない。テストは、カンニングしてもアラビア文字が欠けないので引き写すことができなかった、と自著で明かしておられるそうであるが、そんな語学力で、どのように単位を取って、カイロ大学を首席で卒業するのだろう。
感染場所をきちんと特定し、感染者の濃厚接触者が具体的にだれなのか、ということがわからなければ、また今は、危険な変異株が増えているのだから、そのCovid19ウィルスのどのタイプなのか、という特性がはっきりわからなければ、[stay home」だけでは、感染収束に意味をもたないからである。経済も疲弊してしまう。
Tomさんの195のコメント、カロさんは詰まると自分の学生時代を表に出して何かを言うのだが、齢70と言われる老婆は、過去でしか自分のアイデンティティーを確認できないのか?ということであるが、私の学生時代を含めた過去がこうだから、こう考え、発言する現在があるわけで、小池百合子さんとは、年も近いし、少女時代育った場所も近い。小中高は違うが、大学は同じである。水島朝穂教授も、年が同じだし、ドイツに留学したのも同じである。ところが、全く意見が違う。なぜ、そうなのか?それを考える上で、当然、自分のことをみつめ、自己確認している。
「宗教改革後の近代ヨーロッパの思想はそうではない」とか言って、カロリーネさんに、「近代ヨーロッパ思想」なんて分かるんですか? どっちにしろ、話がトンチンカン。
それって、Fujiwara Kazueko(藤原かずえ子⁉︎⁉︎)さんの言う、【早まった一般化(hasty generalization)】。
孫引きだけど、Wikipediaによると、【A「私が今まで付き合った4人の男は、皆私に暴力を振るった。男というものは暴力を好む生き物なのだ」ーーAの発言は、少ない例から普遍的な結論を導こうとしており、早まった一般化】ということで、論理的にはナンセンス。
何が、→「絶体絶命のタイミングで大臣が現われる、というのは『奇跡』、『神の采配、神の助け』」よ。馬鹿馬鹿しい。創作上の人物と小池東京都知事を比較して、どうするの⁉︎
→「小池百合子さんとは、年も近いし、少女時代育った場所も近い。小中高は違うが、大学は同じ……水島朝穂教授も、年が同じだし、ドイツに留学したのも同じで…ところが、全く意見が違う」ーーだから何なの。そんなこと、世間にはありふれた話。
同じ本を読んでも、受け取り方は、人それぞれ。カロリーネさんは、本当に世間知らず。
Tomさんの→「自分の学生時代を…出して何かを言うのだが、齢70と言われる老婆は、過去でしか自分のアイデンティティーを確認できないのか?」というのは、当たっている。
【合成の誤謬 (fallacy of composition) 】というのもあって、→【A「Bさんの腕時計はロレックスで、財布とサングラスはグッチだった。きっと彼はお金持ちに違いない」ーー「ある部分がXだから、全体もX」という議論で、論理的に間違い。
ところで、「巧言令色少なし仁」じゃなくて、「鮮し仁」だよ。
少し、考えてから投稿したら。
シェイクスピアの悲劇『リア王』の第5幕第2場の末尾にある、エドガーの、父であるグロスター伯爵に対する科白だ。
人はこの世に生まれて来るか来ないか、自分では選べない。同時に、死ぬ時も自分の自由な選択には委ねられていない。自殺があるではないかとの反論が想定されるが、自由な意志の表明の結果としての自殺は、実際のところ、ほとんどない。実態は自殺せざるを得ないほどに追い込まれて自ら死を選択するだけだ。
自殺はストア派の哲学者やエピクロスが説いたが、大半の人間は哲学者にはなれない。従って、お子様論議が専らの狂信家の老婆の莫迦話、即ち
200⇒【反氏…198で明日のことは期し難いし、生まれくることも死ぬことも自由にはならない、と他力本願の主張】――?? 老婆は「他力本願」という日本語の意味を理解していないのだろう。
人はどうあがいたところで、生まれること、その時を選べない。自力も他力もあり得ない。死ぬこと自体もその時期も、前述の理由で同様。それは経験的にも確認可能な「事実」に関する言明でしかない。
他力本願(本願〔pūrva-praṇidhāna〕は誓願、他力は「仏、菩薩の力」の意味)と自力本願、そういうものがあり得たと仮定して、魂、心の信仰上の見解、教説でしかない。死や誕生についてどう考えるか、事実をどう受け入れるかに関する考え方、態度の問題と事実とは別問題だ。
お頭に蜘蛛の巣が張っていると、論理的推論はもとより、事実認識も、日本語の標準的な理解も覚束ないようだ。
妄想癖(207)も相変わらずのようだ。
問題の解決法にはさまざまなケースが想定される。妥協は主に政治的、経済的、社会的な暫定的解決法だ。
その形態も、①問題またはそれをめぐる対立点を、なかったことにする②中間をとって双方の利害得失を相殺。足して割って、「三方一両損」的な大岡裁きも③他の要因を織り交ぜて、Aの問題では不利でも、Bの問題で実益を獲得する調整④解決法に納得がいかなくても、彼我の力関係から諸般の事情を勘案して受け入れる⑤解決または合意自体を先送りする⑥問題に利害関係のない第三者に裁定を委ねて、それを関係者が受け入れる⑦問題を解釈し直して、新たな問題=利害見解対立・不一致として再提出し、一致点を探ることに合意(先送りの変形)⑧占い、籤などで決め、それを関係者が受け入れる――といろいろ考えられる。
しかし、それは特に将来に関する不確実性が伴うような、つまり誰でも確実に前もって予見できないような問題、領域に対する場合に、誰も他に対して優位性をもたない場合、または利害関係者が多数の場合に選択される。
政治上の問題のように、各自が平等であることを限定的に仮構して、つまり他の不平等な要素を棚上げして、受け入れ可能な一致点、合意点を見出す場合には有効でも、学問的議論のように、1人またはごく少数が正解で爾余はすべて間違いということがあり得るケースでは妥協は成立しないし、適当な対処法ではない。
この領域では、当該関係者の個性、育った環境、経験の差より知的能力が、それが同等なら説得力=説明能力がものをいう。いずれにしても、各種の強者が優位性を占める。
専門家同士の対立は1,000年かけても解消しないのが、学問の歴史。
けれども、自分の進路、結婚相手、今日一日何をして過ごそうか、をきめられる、それによって、その人の人生は大きく変わるのではないのだろうか?
このコロナ禍の中で、制約が多く、自由に行動ができないこと。自由にきめられないこと、が問題なのであるが、それでも入院生活よりはるかに自由度がある生活がてきる。みんながストレスを溜めているのは、自由が制限されているから、売り上げが落ち込んでいるからで、それだけコロナ問題が、社会の、政治の大問題だ、ということである。、
主張が首尾一貫せず、コロコロ変わる。私は208で200の「他力本願」云々という奇妙奇天烈な議論=莫迦話について、⇒《人はこの世に生まれて来るか来ないか、自分では選べない。同時に、死ぬ時も自分の自由な選択には委ねられていない》と、自殺を含めて人間には生死の選択の自由が事実上存在しないことを説いている。
それを、210②⇒【自分の生き死に、はきめられない】と鸚鵡返しにしておいて、⇒【反氏は何を主張しているのか】と、唐人の寝言のような主張もなかろう。210③⇒【自分の進路、結婚相手、今日一日何をして過ごそうか、をきめられる、それによって、その人の人生は大きく変わる】云々などと、愚にもつかない「一般的な考え」(τὰ ἔνδοξα)を並べ立ても無意味だ。
お頭に蜘蛛の巣が張っていると、「一般的にそう思われない考え」(τὰ ἄδοξα)を含めて、ものごとを論理的に、網羅的に考えることができないのが、狂信家の老婆の病弊だ。
210④⇒【このコロナ禍の中で、制約が多く、自由に行動ができない…】以下の退屈な話を並べて、一体どうするつもりか。207⇒【人を理解する努力をしなさい…社交的な母におそわった】程度の話は、幼稚園児か、小学校低学年のお子様にでもしたらよい。
老婆に論理など存在しない。
通常の論理学や科学(学問的)方法論とは別に、論理的な事項をきちんと押さえながら、「ものごとをよく吟味しながら考える思考の技術」を扱ったものに、日本語で「批判的思考」と訳される‘critical thinking’(以下CTと略記)という学問分野がある。英米を中心に20世紀後半に発達し、大きな影響を与えている。
「思考の技術」というと漠然としていて、論理学や科学方法論と具体的にどう違うのか、その内容や手法が一般読者には想定しづらいが、簡単に言えば、論理や科学=学問の意味や根拠、その基礎づけについて包括的に扱う哲学や論理学と異なり、研究者ではない普通の人々が日常生活の中で出会うさまざまなテーマについて応用できる思考法やその際の留意点を、論理学や科学方法論の知見を基に教えるものだ。
CT教育には、哲学系のアプローチと心理学系のアプローチがあり、哲学系では議論の構造の分析や妥当性の評価の手法、心理学系なら、科学的思考法の初歩や、人々が陥りやすいさまざまな心理的過誤、つまり認知バイアスと、それをどうして避けるかを教える。
この点からみると、老婆の論理性皆無の議論は、論理的に誤った思考法の迷路に迷い込んだ恰好の反面教師になるだろう。
いずれにしても、CT教育に中で中核的テーマになるのが論理的に「妥当な推論とは何か」という問題だ。老婆に最も欠けている発想だ。
アリストテレスが原点、中核となっているという意味は、アリストテレスが三段論法に象徴される厳密な演繹的推論=形式論理学の基礎を置いただけでなく、科学方法論や帰納法(ἐπαγωγή)、思考の立脚点(τόπρος)における思考の技術の分類、虚偽的=詭弁的論法による誤謬推論(παραλολισμός)の見分け方や対処法を、2,300年以上も前に包括的に論じているからだ。
CT教育の多くの要素を既にアリストテレスがカバーしており、現代の手法はそれを現代的に応用・整備しただけの側面があり、アリストテレスの先進性を物語っている。この意味で、アリストテレスは、われわれの同時代人とも言える。
「論理音痴」(ἀμουσος τοῦ λογικοῦ)の老婆は、何も知らない。白痴(ἠλίηθιος)に等しい所以だ。
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。