プーチン大統領がモンゴルを訪問した。「ノモンハン事件」85周年を記念する式典という機会に、ロシアの国家元首の存在が不可欠だっただろう。ただし、国際社会の側から見ると、ICC(国際刑事裁判所)がプーチン大統領を訴追してから、初めてのICC加盟国への同大統領の訪問となる。数少ないアジアのICC加盟国であり、ロシアに制裁を科して敵対的政策を進めている日本としても、ショックは小さくない。
ICCに訴追された国家元首が、外国訪問をした事例は、過去にもある。スーダンのバシール大統領が、AUサミットの機会に、開催国の南アフリカを訪れたことがある。その際には、大きな議論と紛糾が巻き起こった。今回は、類似のケースだが、幾つかの点で、異なっている。
第一に、バシール大統領訴追の理由となったダルフール地方での戦争犯罪は、国連安全保障理事会が国連憲章7章を発動して、ICCに捜査開始を要請した異例の事例であった。憲章7章が発動されると、「強制措置」として、国連全加盟国が協力しなければならない義務を負う。今回のプーチン大統領の場合には、ウクライナがICCの管轄権を受け入れた、という「ICCローマ規程」という多国間条約の特殊な運用形態の結果として、プーチン大統領の訴追が可能になった。このことはモンゴルの条約上の義務を減免する指摘にはならないが、法的拘束力の度合いが低い、という評価をしても、間違いではない。伝統的な国際法の解釈では不可能とされていた「主権免除の対象である国家元首の逮捕」という重大な行動であるだけに、この点に留意は必要だろう。
第二に、モンゴルの条約上の義務の不履行に対しては、罰則はない。規定がないからである。今後、ICC加盟国が集まる締約国会議の機会などにおいて、モンゴルへの批判が出る可能性はある。あるいは遺憾の表明くらいがなされなければ、格好がつかないだろう。だがそれはいわば政治的圧力のレベルにとどまる。おそらくその圧力が強すぎたら、モンゴルはICCを脱退するしかなくなる。そして、それで終わりである。
南アフリカがバシール大統領を逮捕しなかったときには、他の加盟国からの批判に直面して、南アフリカはICCから脱退すると表明した。いくつかのアフリカ諸国も追随する意図を示唆した。説得が功を奏して、結果的に脱退をしたアフリカの国はブルンジだけにとどまったが、ICCにとっては大きな危機であった。アフリカ諸国が脱退してしまったら、ICCに残るのは、ほぼ欧州諸国と、欧州人の末裔が政権を担っているラテンアメリカ諸国だけになってしまう。日本や韓国の存在は、例外的である。
アフリカ諸国脱退問題以降、ICCは加盟国の維持に細心の注意を払っている。モンゴルが脱退したら、アジアでの新規加盟は望めない。日本にICC事務所などを作っても、何もできない日本の納税者の趣味あるいは浪費だ、ということで終わる。
今回は、欧州のICC加盟国は、かつてほど強い態度を、モンゴルに対して見競ることはできないのではないかと思う。、あるいは、そうすべきではない。
第三に、ウクライナが先走り過ぎている。ウクライナ外務省報道官が、「テレグラム」に、「ICCと刑法制度に対する大きな打撃だ」と投稿した。「モンゴルは犯罪者が法の裁きを逃れることを許したため、戦争犯罪の責任を共有している」とし、「同盟国と協力しモンゴルの責任を追及する」と述べていると報道されている。
少し前に、マリの反政府勢力に支援をしている、とウクライナ関係者が述べたことから、マリ、ニジェール、ブルキナファソが、ウクライナと関係断絶をしたうえで、国連安全保障理事会に問題提起する、という事件が起こった。プーチン大統領が戦争犯罪の容疑者であるということは、ロシアと関係を持つ者全てが犯罪者であることを意味しない。ましてウクライナが常に正しいことを意味しない。そのことをウクライナは理解していないのではないか、という疑惑が世界に広がっている。
確かにウクライナは、プーチン大統領の訴追理由になっている犯罪行為の当事国である。しかしまだ、ICC加盟国ではない。今までは、管轄権の受け入れ声明、という例外的なやり方で、ICCの捜査を招き入れていた。しかし自国兵士の訴追の可能性を懸念する国内の右派勢力に配慮して、ICCへの正式な加盟は、見送り続けていた。ウクライナがようやく議会の批准をへてICCに加盟申請を正式に決めたのは、ほんの10日ほど前の今年の8月下旬のことである。ICCローマ規程にしたがえば、この批准が効果を発するのは、60日後のことだ。ウクライナはまだ、正式なICC締約国ではない。締約国会議からの認知もない。
まだICC加盟国として活動していないウクライナが、加盟国として長年の実績があるモンゴルを、ICCローマ規程の運用方法を理由にして糾弾するのは、異例だ。ICCローマ規程は、多国間条約である。たとえば中国が、「日本は日米安全保障条約上の義務を全うしていない」などと糾弾したら、異様であろう。法技術論で言えば、ウクライナ外務省報道官の発言は、それに近い。
まして「戦争犯罪の責任を共有している」というのは、言い過ぎだ。モンゴルが、戦争犯罪の責任を共有している、と断定できる国際法上の根拠はない。共有などしていない。単なる感情的な罵倒である。
ウクライナの憤りは正当であり、理解できるものである。しかし第三者でしかないモンゴルの反発を招く以外の結果が何も期待できないような罵倒の言葉を並べても、ウクライナが得られるものは、何もない。被侵略国であるという事実は、世界中の諸国に対して道徳的な説教ができることや、国際法の運用方法を決定できることまでも、意味しない。
ウクライナにとって、現在の戦局は厳しい。焦りは、誰の目にも明らかだ。しかし、だからこそ、感情だけで発言している、という印象を世界の諸国に与えることは、避けたほうがいい。
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