5月9日ロシアで大祖国戦争戦勝80年のパレードが行われた。約30カ国の国家元首・政府首脳が集まる大規模な式典となり、外交会議も多数開かれたようである。ウクライナは西欧諸国にあわせて第二次世界大戦終結を5月8日と設定してロンドンでのパレードに参加したりした後、9日はウクライナ西部のリビウで「侵略の罪」を裁く「特別法廷」を設置するための準備会合を、欧州諸国・組織の代表者たちと開催した。その後、フランスのマクロン大統領、イギリスのスターマー首相、ドイツのメルツ首相、ポーランドのトゥスク首相が、キーウを訪問した。これら四カ国首脳は、ウクライナのゼレンスキー大統領とともに、「5月12日から30日間の停戦」をロシアに要請した。そして応じない場合には、アメリカとともに大規模な追加制裁をかける、と主張した。これに対して、プーチン大統領は、15日にトルコで停戦交渉を行うことを提案した。これに対して、ゼレンスキー大統領は、停戦に応じなければ、交渉はない、と主張した。その次には、プーチン大統領がトルコに来なければ、交渉はない、と主張した。
非常に目まぐるしい動きだが、実質的なことはまだ何も起こっていない。トルコに来る準備をしているのは、プーチン大統領ではなく、ラブロフ外相だと言われている。また、欧州諸国が要求した12日からの「30日間の停戦」は、「最後通牒のような要請には応じない」としたロシアによって無視されている。そして追加制裁なるものも導入されていない。
実はウクライナでは、2022年10月の国家安全保障・国防会議決定・大統領令で、ゼレンスキー大統領自身の署名をもって、プーチン大統領と交渉をすることが禁じられている。交渉が決まれば、即座に大統領令を取り消す、ということなのかもしれないが、もともとプーチン大統領がトルコに来るはずはない、と信じているので辻褄が合わないことを言っているだけだろう、という醒めた指摘もある。
なお、アメリカのトランプ政権関係者は、追加制裁に同調する、と発言していない。加えて、EUでの全加盟国の同意が必要な追加制裁について、実現可能性を疑う見方もある。ハンガリーやスロバキアが、EUの反ロシア政策に疑念を表明するようになっており、追加制裁に同意するか、不明だからだ。EU指導部は、通常の制裁決定の手続きを回避する手段をとるのではないか、という憶測も流れている。もともとイギリスはEU加盟国ではない。今回は、EUと同調して制裁する、という意思表明を首相が行った、ということだろう。イギリスとともに、有志のEU加盟国が制裁措置をとることはできる。だがそうなると、さらにいっそう賛同国が減り、制裁参加国が減る恐れがある。果たしてそのようなわずかな数の小国だけが行うものが、「制裁」の名称に見合うものなのか、疑念も出てくるだろう。単なる断交に近いものかもしれない。
恐らくは、そのあたりの事情も見越しているのだろう。ロシアは制裁の「威嚇」に全く反応せず、無視している。追加制裁とは、ロシアと貿易をした第三国に500%の関税をかける措置だ、と噂されている。この追加制裁なるものは、「トランプ関税」の拡張版のようなもので、実効性があるのか、疑わしい。欧州人にしてみると「トランプさん、あなた、自国の勝手な都合で中国に145%の関税かけると言ったんだから、ウクライナのために中国に500%の関税をかけるくらい何でもないだろう」といった話なのだが、率直に言って、「トランプ関税」の交渉を中国やインドを含めた相当数の諸国と始めているトランプ政権にしてみると、迷惑な話であると思われる。
SNSなどでは、「いいぞ、欧州、ロシアをつぶせ!」や、「プーチン、早くトルコに来い!怖いのか!」などの威勢の良い声が見られる。各国指導者の発言や行動は、お茶の間あるいはスマホ前のファン層へのサービスのアピールとしては成功しているようだ。だが停戦交渉の進展には、つながっていない。
ロシア・ウクライナ戦争は、大規模で凄惨な戦争である。大規模侵攻開始時から3年以上、ドンバス戦争勃発時からは11年以上の長期にわたって続いている。背景となる歴史も深く、当事国の国民感情も重たく複雑なところがある。紛争に関わる「準」当事者のような有力アクターの数も多い。評論家や学者層の情緒的関与の度合いも高く、感情的憎悪関係なども蓄積されてきている。複雑方程式を解くのに、時間がかかるのはやむを得ないところはある。まだ前途は多難である。
ただそれでもトランプ大統領就任後の変化は、大きい。「ウクライナは勝たなければいけない」と主張しなければ非難されてしまう雰囲気は、霧消した。「この戦争は終わらない」の主張も、あまり聞かなくなった。動いてはいる、ということだろう。今回は、トルコのエルドアン大統領が、調停を取り仕切るために待っている。黒海の玄関口を握り、かつて「穀物交渉」を成立させた実績を持つ。今年の2月24日に、国連安全保障理事会で2022年以降初めてのロシア・ウクライナ戦争に関する決議が採択されたが、それは「可能な限り速やかな停戦を要請する」という内容だ。そろって棄権した英・仏など欧州の理事国以外の全ての理事国の賛成票が集まった。安保理決議は、国連憲章に基づいて、全加盟国を拘束する。
フランス・ドイツ・イギリスの首脳たちが電車でキーウに向かう際、突然の撮影に見舞われた場面で、マクロン大統領が何らかの白い紙を、メルツ首相が非常に小さいスプーン上の何ものかを、あわてて隠す、という動作があった。これについて、最初は「あの二人、何を慌てて隠しているのだろう」という指摘だったものが、やがて「コカインをやっていたのではないか」という話が広まり始めた。当然、フランス政府などは打消しの声明を出した。しかしロシアの報道官がコカイン解釈を紹介するところまでに至ったため、今度は「親露派バスターズ」界隈の一斉に反応した。「ほんの少しでもこのシーンに関係したことを言ったら、即座に親露派とみなして糾弾の対象とする」といわんばかりの「犬笛」を吹いて、SNS界隈でお馴染みとなった「隠れ親露派狩り」の嵐も吹き荒れることになった。
私が感じているのは、欧州諸国指導者の世論対策の姿勢だ。ロシアの方は仰々しく派手な大パレードと多国間外交交渉を示したうえで、祖先への感謝といった共同体的価値観を強調するプーチン大統領の姿を強調するシーンで宣伝活動をしている。これに対して欧州諸国は、数名の仲間内の旅行のような雰囲気で、リラックスした服装、リラックスした表情、サークル的な協議風景を前面に出して、宣伝活動をしている。
https://x.com/ShinodaHideaki/status/1921690955674959891
ロシアの儀式主義を悪い権威主義だ、と印象付けるために、わざと庶民的な友情の光景をアピールするようなつもりなのかもしれない。だがこれは、一歩間違えると、欧州数カ国の仲間内のインナーサークルの集まりの軽いノリで、数十万人とも言われる犠牲者数が出ている戦争の継続支持をしている、といった印象を、欧州域外の70億人以上の世界の人々に与えてしまうリスクがある。
西欧諸国のエリート層と付き合っている限り、悪いのはプーチンで、要するにそれだけのことだ、という雰囲気が強い。しかしそのノリで、ロシアを追加制裁で潰す、追加の特別法廷でプーチンを罰する、云々といった強い政策を、ただ欧州の間だけで発言し続けていると、どうしても西欧の外にいる人たちは引いてしまう。気づけば、あらゆる政策が、一部の西欧諸国だけで語っているだけの光景が広がっていってしまう。
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