トルコ・イスタンブールにおけるロシアとウクライナの停戦交渉に先立ってゼレンスキー大統領は、ロシア側代表団を「お飾りに過ぎない」と批判した。プーチン大統領が参加するように要請していたからである。これに対してロシア政府のペスコフ報道官はゼレンスキー大統領を「道化師」と呼び、「彼は悲劇的な人物であり、国を壊滅に導いている」と述べた。ザハロワ報道官は、「どんな学問的経験があるかも不明な人物が、立派な学術業績がある人物を馬鹿にするのは敗北者の行為だ」と述べた。前哨戦で感情的な侮蔑的な言葉のやり取りがあったということである。
この雰囲気を受けて、実際の交渉のやり取りは、厳しいものだったようだ。もっともロシア側の主張は、従来から変わっていない。言葉のやり取りとして、現在ほぼ支配を固めているウクライナ4州に加えて、次回は8州が交渉対象になるぞ、という威嚇があった、と報道されている。ただこれは文脈としては、現在の停戦の機会を逃すと、むしろウクライナは損をするだけだぞ、という意味だ。メディアで伝えらえているように、それらの追加的な州の占領を完成させるまで停戦には応じない、と述べたわけではない。
さらにロシア代表団を率いているメジンスキー大統領補佐官は、次のように述べた。メジンスキー氏は次のように述べ、ウクライナに屈服を求めた。「我々は戦争は望んでいないが、1年、2年、3年、どれだけ長くても戦う用意はある。我々はスウェーデンと21年間戦った(=1700~21年にかけて続いた大北方戦争)。あなたはどれくらい戦う覚悟があるんだ?このテーブルに座っている人たちの中には、もっと多くの愛する人を失う者もいるかもしれない。ロシアは永遠に戦う覚悟ができている」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e0588406b4db8b80ad6cbfad2518c902c6904780
メジンスキー大統領補佐官は、文化大臣も経験した経歴を持つが、政治学の博士号を持ち、歴史に関する著作を多数持っている。その学術的水準についてはうかがい知ることができないが、このように歴史的教訓を都合よく引き出してきたりするタイプの人物であるようだ。
大北方戦争は、300年前の戦争であり、いくら何でも古すぎる印象も受ける。ただ、逆に言えば、なぜこの戦争を参照したのかは、気になる。たとえば5月9日に戦勝記念日を祝った第二次世界大戦の「大祖国戦争」ではダメだったのか? もちろん、いくつかの細かい条件はある。大祖国戦争はロシアではなくソ連の戦争で、ナチス側に加担したウクライナ人もいたとはいえ、ソ連側で戦ったウクライナ人が多数だ。
もっともそれらは本質的な点ではないだろう。文脈から言えば、ロシアが非常に長期にわたって戦争をした過去の事例として、大北方戦争が参照されたようだ。ただし最も長期にわたる戦争としては、「コーカサス戦争」があげられる。1817年から1864年まで、約47年にわたって、帝政ロシアと北カフカース諸民族(特にチェチェン人・ダゲスタン人)が戦った戦争だ。ただ、これは国家間戦争の事例としての印象が薄い。また現在ロシア共和国を構成している民族を敵としている構図になってしまうので、政治的に不適切だろう。戦争が続いていたと歴史に記録されている期間の間の実際の戦闘の断続性も頻繁だ。
断続してもいいのであれば、ロシアがオスマン帝国を押し続けた露土戦争も、全部を総計すると、相当に長い。19世紀クリミア戦争どころか、第一次世界大戦でも、ロシアはオスマン帝国と戦った。しかしオスマン帝国との一連の戦争を参照するのは、交渉会議のホスト役を担っているトルコに失礼すぎる。
大北方戦争であれば、ロシアが、トルコ以外で、継承国が現在NATO構成国になっている事例の戦争だ。そしてロシアが、大北方戦争の結果獲得したサンクトペテルブルグを中心としたバルト海に面した地域は、その後300年にわたって、ロシア共和国領であり続けている(コーカサス戦争の敵方にはアブハジア共和国もあり、現在のロシア共和国に全てが残存し続けているとは言い難い面もあり、いくぶん微妙である)。
いずれにせよメジンスキー氏は、ロシアは長期の戦争に耐えうるし、耐えて結果を出してきた実績がある、と言いたかったようだ。
これは明らかに、ウクライナ側に「長期戦に持ち込んで事態を有利に進めていけないか」という意見があることを、強く意識している。
日本でも、停戦を拒絶し、長期戦に持ち込むことによって「プーチン政権の崩壊を待つ」といった主張をされる方が少なくない。「ウクライナは勝たなければならない/この戦争は終わらない」主義の方々である。
万が一キーウが陥落してもなお、最後の一人になるまでゲリラ戦も覚悟して戦い続ければ、やがてソ連がアフガニスタンから撤退していったように、ロシアはウクライナから撤退していくだろう、といった主張でもある。
つまり、「ウクライナは勝たなければならない/この戦争は終わらない」主義の方々の論拠は、最後の一人なっても戦い続ける永久戦争に持ち込めば、ロシアは撤退するのでなければプーチン政権が倒れる、という予測である。
メジンスキー氏は、この見方に挑戦し、否定しているわけである。
果たしてこれは妥当な見方だろうか。上述のように、日本でも、「ソ連はアフガニスタンから撤退した、アメリカはベトナムから撤退した」、といったことを言いたがる方々も多々いらっしゃる。だがこれらは全て状況が異なりすぎている。
断続的な押し引きをしたオスマン帝国や、大英帝国、日本などのとの戦争の事例は、微妙だ。たとえば日露戦争後に樺太南部を割譲している。ソ連として、ロシア革命後に第一次世界大戦から離脱した際のソ連のブレスト=リトフスク条約では、ロシア帝国領の整理を行った。
だがメジンスキー氏が示唆するように、ロシアが陸続きの領土の併合を宣言して、その領地の防衛を「祖国防衛戦争」と位置付けた後、敗北を認めて領土を譲渡したような事例は、歴史上、見ることができない。ロシアにとっては、ロシア領の一部としてしまったウクライナ東部5州の死守は、すでに「祖国防衛戦争」になっていることには注意が必要だ。
「撤退しないのなら、ロシア国民が立ち上がってプーチン政権を倒すだけだ」と主張する方々も多々いらっしゃる。しかし残念ながら、3年以上戦争を続けてきて、その予兆はない。むしろ最初の1年間のほうが可能性があったように思われる。私が「ロシア・ウクライナ戦争の峠」と呼んでいる2023年春以降には、めっきりロシア国内の反政府運動も見られなくなった。
私が別途「The Letter」で指摘しているように、ロシア占領地域で、目立った反ロシア運動が見られないことは、かなり重要な点だ。この事情は、ロシア国民の世論にも影響を与えていると思われる。現在の占領地においてすら、反ロシア運動が起こっていないのに、どうやっていずれはプーチン政権が倒れる反政府運動がロシア国内に起こる、と断言できるのだろうか。https://shinodahideaki.theletter.jp/posts/2b8da880-32cc-11f0-ab14-f74094ce99bd?utm_medium=email&utm_source=newsletter&utm_campaign=2b8da880-32cc-11f0-ab14-f74094ce99bd%20#theLetter%20@ShinodaHideaki
ゼレンスキー大統領はロシア領内施設等への攻撃にこだわっている。ロシア領が攻撃されれば、プーチン大統領の全能のイメージが崩れ、ロシア国民が立ち上がってくれる、といった期待を述べたこともある。その観点から、ザルジニー総司令官を解任して、クルスク侵攻を仕掛けた。だが、8万人近いとも言われる兵士と、大量の欧米諸国提供の最新兵器を失っただけで、撤退した。ゼレンスキー大統領は、諦めきれず、依然としてクルスク州にウクライナ兵を侵入させたり、ドローンでロシア領を攻撃したりしている。それらの多くが、ほとんど軍事的には意味のないものばかりである。
歴史がどう展開するかは、最終的には、やってみるまでわからない。政策判断は、合理的な推論とリスク評価をもとにして、行っていくしかない。
だが日本でスマホでSNSをやりながら「ウクライナ人は必ず最後に一人になるまで戦い続ける!」と怒鳴ってみることが持つ倫理的な意味についても、考えなければならない。
「悪いのはプーチン、次にトランプ、ただそれだけ、結果が出なければ、ただこの二人を責め立て続ける、ただそれだけ」、という態度は、政策決定者なら、なかなかとれない。
すでに「これで戦争継続しかないことがわかった!」と高揚して主張している方々も多々見られる。しかしメジンスキー氏の役割は、3年ぶりに再会された交渉の冒頭でロシアの主張を強く出すことなので、後日プーチン大統領が裁決を出す機会があるとすれば、それが譲歩するときだ。冷静さを失わず、交渉を続けていく姿勢は、むしろ大切だろう。
国際情勢分析を『The Letter』を通じてニュースレター形式で配信しています。https://shinodahideaki.theletter.jp/ 「篠田英朗 国際情勢分析チャンネル」(ニコニコチャンネルプラス)で、月二回の頻度で、国際情勢の分析を行っています。https://nicochannel.jp/shinodahideaki/
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。