拙著『集団的自衛権の思想史』では、従来は必ずしも取り上げられなかった歴史的文献について扱いました。本文では詳細に取り上げることができなかった文献について、ここで示しておきます。

 宮沢俊義の「八月革命」(ポツダム宣言において国民主権主義が確立された)説は、憲法学では有名な理論で、様々な議論を喚起してきた議論です。ただ従来の議論は、宮沢の論文「八月革命と国民主権主義」が収録された単行本(『憲法の原理』(岩波書店、1967年))を参照する場合がほとんどでした。実際に論文が掲載された雑誌『世界文化』(第1巻第4号、19465月)を見ると、再録された論文とは異なる点があります。何と言っても当時の生々しい雰囲気が伝わります。同時掲載された論文で美濃部達吉が、日本国憲法制定は大日本帝国憲法の改正ではありえないため手続き違反があり、ポツダム宣言にも違反していると論じていることとの対比も見えてきます。

拙著『集団的自衛権の思想史』では、宮澤論文における「檄文」のようなものを特筆しました。宮沢の論文執筆意図が示されていると思われたからです。ちなみに『憲法の原理』に再録されたときには、この「檄文」は削除されました。以下、引用です。

 

「政府の憲法改正案が発表せられた後で、「タイム」誌は“We the Minics…”といふ見出しでこれを評し、日本人の模倣的頭脳がこのアメリカ式憲法草案を生んだと皮肉った。“We the Minics…”(我ら模倣者は・・)とはまさにわれわれ日本人の骨を指す痛烈な皮肉である。

政府案が国民主権主義を採用したのは決して単なるアメリカの模倣ではない。しかし、その表現や、そのほかの草案の規定には模倣と評せられる得るものがきはめて多い。これらの点は十分再検討せらるべきものと信ずる。

民主政治は決して単なる模倣によって建設せられ得るものではない。「我ら合衆国人民は」の真似をして「日本国民は」といつて見たところで、「人民の、人民にする、人民のための政治」の真似をして「其の権威は之を国民に承け、其の権力は国民の代表者之を行使し、其の利益は国民之を享有すべき」国政と言って見たところで、それだけでは、“We the Minics…”と冷笑されるのが関の山である。政府案の審議にあたる議員諸公はこの点をよく弁えて、真に自主的な民主憲法を確立させるためには遺漏なきを期してもらいたい。」

 

今日まで続く日本国憲法の起草過程をめぐる議論、その後の東大法学部系の憲法学における国民主権論へのこだわり、「八月革命」説が「自主憲法」の観念を作るために大きな意味を持つ政治的学説であったこと、などの事情を考えると、非常に重大な含意を持つ「檄文」だと私は考えています。

ちなみに宮沢は繰り返しMimicを誤記して「Minic」と表記しているのですが、1945年まで最も親しんでいた外国語は、宮沢に限らず、ドイツ語であったはずです。英語は植民語のようなものだったのではないかと感じます。今日で言えば、ポルトガルの旧植民地地域が、英語を使うアメリカの暫定統治を受けるような状況だというようなものでしょうか。