先日、日本政治学会のパネルで「平和構築と安全保障-国際立憲主義の観点から 」という題名の報告をさせていただいた。他の報告者・司会者・討論者も全員国際政治学者で、頼まれたように「平和構築」の観点から安全保障を見る方向でまとめ、国際法学などで語られている「国際立憲主義」をカギにして、最近の動向をハイライトしようとした。批判的な質問もなく、平穏に終わってしまった。が、討論者の方の確認のための質問は、印象深いものではあった。
私は「立憲主義」を、「社会を構成する上位の根本規範が存在しているという信念」、と定義する。これは国内社会でも国際社会でも同じだ、というのが、国際立憲主義を語ることのポイントだ。「主義」というのは「イズム」の問題であり、価値規範の信奉の態度の問題である。そうでなければ「主義」ではない。そして立憲主義者が信じるのは、「Constitution」、社会を構成する根本規範があるということだ。Constitutionというのはconstituteという動詞に対応する単語で、「構成すること」「構成物」ということ。たまたまその「社会を構成している原理」を文字で表現しておくと、「憲法典」になるだけで、「憲法」のほうが後付けの意味だ。日本では憲法が立憲主義よりも先にできてしまったので勘違いがまかりとおる。憲法学者が意識的に日本独自の立憲主義を広める運動をしているところもある。しかしConstitutionalismの起源は、いまだに成文憲法典を持たないイギリスにある。なぜ成文憲法典もないのにConstitutionalismが生まれたのか?と問うのは日本的な偏見である。「主義」が文書より先にできたのは当然であり、それがConstitutionalismというものだ。私自身には、20歳代にLSEに留学して博士論文を書いていたとき、国際関係学部の論文を書いているにもかかわらず半年くらいは大英博物館で古い17世紀・18世紀の文書などを読むことにあてて、ようやくConstitutionalismを体感できたような気がした、という経緯があるため、思い入れがある。
社会を構成している原理。それはアングロ・サクソンの世界では、ホッブズもロックもそこからすべてを始めた、社会契約論の基盤となる「自然権」の概念だ。個人が持つ自然的な権利が絶対であるという原理から、社会契約を含めたすべての自分たちの社会の構成原理が生まれてきている、という信念、それが歴史の中の立憲主義だ。アメリカ人はそれを独立革命において「自明の真理」と呼んだ。論証の必要のない原理ということだ。論証しないことを信じて社会の構成原理を打ち立てることこそが、主義としての立憲主義の神髄だ。
討論者の方には、「それでもイギリス革命期には王権を弱体化させることが立憲主義だったのではないか」と質問していただいた。私は、「私の拙著『Re-examining Sovereignty』とか拙著『「国家主権」という思想』を題材にした研究会をやろう」、と壇上で提案した。17世紀イギリスで王権を否定したのは「レベラーズ」で、革命の主流派ではない。ロックは「人民の福祉が最高の法である」というテーゼにもとづいて国王「大権」についてすら語った。歴史的に17世紀にのちの立憲主義の萌芽となる議論をしたとされているのは、エドワード・コークだ。「古の憲法(ancient constitution)」論である。革命後の18世紀に大英帝国とイギリス不文憲法の栄光について大著を書いて君臨した法学者の代表はウィリアム・ブラックストンで、王・貴族院・庶民院の間の「バランス」こそを栄光の源たる「国家の構成原理」と主張したが、王権を弱体させることが立憲主義だなどとは言わなかった。
「通説の立憲主義の定義」として芦部信義を参照して、「立憲主義とは政府を制限すること」と唱え続け、民衆蜂起こそが最も純粋な自衛権で、それ以外はまやかしであるかのように主張するという日本の憲法学の立憲主義の理解は、決して普遍的な「立憲主義」の代表ではない。
私は「立憲主義」を、「社会を構成する上位の根本規範が存在しているという信念」、と定義する。これは国内社会でも国際社会でも同じだ、というのが、国際立憲主義を語ることのポイントだ。「主義」というのは「イズム」の問題であり、価値規範の信奉の態度の問題である。そうでなければ「主義」ではない。そして立憲主義者が信じるのは、「Constitution」、社会を構成する根本規範があるということだ。Constitutionというのはconstituteという動詞に対応する単語で、「構成すること」「構成物」ということ。たまたまその「社会を構成している原理」を文字で表現しておくと、「憲法典」になるだけで、「憲法」のほうが後付けの意味だ。日本では憲法が立憲主義よりも先にできてしまったので勘違いがまかりとおる。憲法学者が意識的に日本独自の立憲主義を広める運動をしているところもある。しかしConstitutionalismの起源は、いまだに成文憲法典を持たないイギリスにある。なぜ成文憲法典もないのにConstitutionalismが生まれたのか?と問うのは日本的な偏見である。「主義」が文書より先にできたのは当然であり、それがConstitutionalismというものだ。私自身には、20歳代にLSEに留学して博士論文を書いていたとき、国際関係学部の論文を書いているにもかかわらず半年くらいは大英博物館で古い17世紀・18世紀の文書などを読むことにあてて、ようやくConstitutionalismを体感できたような気がした、という経緯があるため、思い入れがある。
社会を構成している原理。それはアングロ・サクソンの世界では、ホッブズもロックもそこからすべてを始めた、社会契約論の基盤となる「自然権」の概念だ。個人が持つ自然的な権利が絶対であるという原理から、社会契約を含めたすべての自分たちの社会の構成原理が生まれてきている、という信念、それが歴史の中の立憲主義だ。アメリカ人はそれを独立革命において「自明の真理」と呼んだ。論証の必要のない原理ということだ。論証しないことを信じて社会の構成原理を打ち立てることこそが、主義としての立憲主義の神髄だ。
討論者の方には、「それでもイギリス革命期には王権を弱体化させることが立憲主義だったのではないか」と質問していただいた。私は、「私の拙著『Re-examining Sovereignty』とか拙著『「国家主権」という思想』を題材にした研究会をやろう」、と壇上で提案した。17世紀イギリスで王権を否定したのは「レベラーズ」で、革命の主流派ではない。ロックは「人民の福祉が最高の法である」というテーゼにもとづいて国王「大権」についてすら語った。歴史的に17世紀にのちの立憲主義の萌芽となる議論をしたとされているのは、エドワード・コークだ。「古の憲法(ancient constitution)」論である。革命後の18世紀に大英帝国とイギリス不文憲法の栄光について大著を書いて君臨した法学者の代表はウィリアム・ブラックストンで、王・貴族院・庶民院の間の「バランス」こそを栄光の源たる「国家の構成原理」と主張したが、王権を弱体させることが立憲主義だなどとは言わなかった。
「通説の立憲主義の定義」として芦部信義を参照して、「立憲主義とは政府を制限すること」と唱え続け、民衆蜂起こそが最も純粋な自衛権で、それ以外はまやかしであるかのように主張するという日本の憲法学の立憲主義の理解は、決して普遍的な「立憲主義」の代表ではない。
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