カテゴリ: 低空飛行「神風」論と「戦後日本外交の総決算」
-
- 2019年01月20日 17:50
- 「無学の老媼(γραῦς)」の初級ドイツ語の尻尾がとれないような陳腐(βαναυσία)かつ凡庸な(μέτριος)講釈など、「クズ」のようなもので、何とも退屈(Langeweile)である。
ニーチェの説く‘unzeitgemäß’ は、‘gegen die Zeit’であって、‘nicht zeitgemäß’の側面を含まないとは言わないが、思想的含意はそのような平凡(μέτρον)至極な、カ氏のような「哲学音痴」の素人の常識(τὰ ἔνδοξα)を述べたものではない。少しは、反射的に堪え性のない浅まし「クズ投稿」を撒き散らして、鬱屈した気性の激しい人物(ὁ μελαγχορικός)にありがちな怒りっぽさ(ὀργιλότης)にk身を任せ、憂さを晴らすのではなく、頭を冷やして、じっくり基本文献でも読んで、着実に「ものを考える」(διανοεῖσθαι)態度を身につけたらどうか。
どうせ、齢70近い、ドイツ語と英語がやっと、という程度の知的水準なのだから、無謀な抵抗は、醜悪で、無駄な努力だと自覚したらよい。
そこで、「無学な人」(ἀμαθής)で「根にもつ人」(πικρος)の素人論議は相手にせず、ニーチェ自身がその著『反時代的考察』(‘‘Unzeitgemäße Betrachtungen’’)で自ら‘unzeitgemäß’について、「反時代的」にこめた意図を紹介してみることにする。
「独和辞典」を引いた程度の知見しか与えぬ「ドイツ狂」老人のより、よほど興味深い。少々長いがシュレヒタ版三巻本全集から引用する。同書の第二篇「生に対する歴史の利害」(‘‘Vom Nutzen und Nachteil der Historie für das Leben’’、1874)の「緒言」にみえる。
Unzeitgemäß ist auch diese Betrachtung, weil ich etwas, worauf die Zeit mit Recht stolz ist, ihre historische Bildung, hier einmal als Schaden, Gebreste und Mangel der Zeit zu verstehen versuche, weil ich sogar glaube, daß wir alle an einem verzehrenden historischen Fieber leiden und mindestens erkennen sollten, daß wir daran leiden.
‘ὁ γέρων δὶς παῖς γίγνεται’ =「老媼は二度子供になる」
-
- 2019年01月20日 17:53
- (承前1)Wenn aber Goethe mit gutem Rechte gesagt hat, daß wir mit unseren Tugenden zugleich auch unsere Fehler anbauen, und wenn, wie jedermann weiß, eine hypertrophische Tugend―wie sie mir der historische Sinn unserer Zeit zu sein scheint ―so gut zum Verderben eines Volkes werden kann wie ein hypertrophisches Laster: so mag man mich nur einmal gewähren lassen.
Auch soll zu meiner Entlastung nicht verschwiegen werden, daß ich die Erfahrungen, die mir jene quälenden Empfindungen erregten, meistens aus mir selbst und nur zur Vergleichung aus anderen entnommen habe, und daß ich nur, sofern ich Zögling älterer Zeiten, zumal der griechischen bin, über mich als ein Kind dieser jetzigen Zeit zu so unzeitgemäßen Erfahrungen komme.
So viel muß ich mir aber selbst von Berufs wegen als klassischer Philologe zugestehen dürfen: denn ich wüßte nicht, was die klassische Philologie in unserer Zeit für einen Sinn hätte, wenn nicht den, in ihr unzeitgemäß ― das heißt gegen die Zeit und dadurch auf die Zeit und hoffentlich zugunsten einer kommenden Zeit ― zu wirken.
この考察も反時代的である。なぜなら、私は時代が正当に誇りとしているあるもの、すなわち歴史的時代の教養をここではっきりと時代の害悪、疾病、欠乏として理解しようと試みるからであり、それどころか、われわれすべてが身を焼く尽くす歴史熱に罹っており、これに罹っていることを少なくとも認識すべきであると信ずるからである。
われわれはわれわれの徳と同時にまた、われわれの欠点をも栽培するとゲーテは言ったが、これが本当に正しいならば、そしてあらゆる人の知るごとく、肥大症的徳――われわれに歴史的感覚はかかる徳であると私には思われる――は肥大症的悖徳と同様に民族の堕落の種となりうるならば、一応私の思うままを述べてもよろしいであろう。
‘μηδὲν ἄγαν’(「分を弁えよ」=デルポイの神託)
-
- 2019年01月20日 18:07
- (承前2)また私の心の重荷を軽くするために次のことを言わずに置くべきではない、すなわち私はあの私を苦しめる感覚を惹き起こした経験を大抵は私自身から引き出したのであり、他の人々のものを使ったのはただ比較するためにすぎなかったのであり、そして私は自分がかなり古い時代、特にギリシア時代の生徒である限りにおいてのみ現代の子として自分を越えてこんな反時代的経験に到達したのである。
確かにこれだけのことは古典文献学者という職業柄私自身が白状して差し支えないに違いない。というのは、時代の中で反時代的に(unzeitgemäß)――すなわち時代に反対して(gegen die Zeit)そうすることによって時代に向かって、望むらくは将来の時代のためになるように――活動するという意味をもしもたぬならば、古典文献学がわれわれの時代においてどういう意味をもつかを私は知らないだろうからである。
(引用は、ニーチェ『反時代的考察』=Friedrich Nietzsche: ‘‘Unzeitgemäße Betrachtungen’’, Zweites Stück, ‘Vom Nutzen und Nachteil der Historie für das Leben’, Werke in drei Bänden, hrsg. von K. Schlechta, 5. Durchgesehne Aufl., München 1965, Band 1, S. 209。邦訳は小倉志祥訳、ちくま学芸文庫版『ニーチェ全集』第4巻、120~121頁)。
206⇒【「学問の名」を借りた屁理屈で、人々を惑わすのはいい加減に】のような御託を並べる前に、山なすでたらめ、剽窃の恥を知ればよい。
206②⇒【ニーチェはドイツ人の哲学者…ドイツ文化について言及…Klassiker、Klassikはドイツ語の解釈】は論点窃取の虚偽。[Klassik] はギリシア語[κλάσις]=klasis の音訳。[Klassiker]はその派生語。古典的作家(Klassiker)についての議論は第1篇『ダーヴィット・シュトラウス、告白者にして著述家』に集中しており、主眼は「教養の俗物」(‘Bildungsphilister’)批判。カ氏の主張は的外れ。
「無学」だからだろう。[完]
‘ἀπ’ ὄνου πεσεῖν’(「驢馬から落ちる」⇒頓馬の譬え)
-
- 2019年01月21日 07:35
- 反氏のコメント197で書かれた私への批評、これを反氏は、壊れたレコードのようになんども繰り返されるが、それは、ヒトラーの「嘘もなんども繰り返せば本当のような印象を与える。」という意図、また、反氏が信奉されているフランクフルト派の批判理論的手法、 「定義…伝統・文化の主な要素を嘘でも捏造してでも、完全否定する批判を繰り返す」を使用しておられる結果そうなのだと思うが、かつてのドイツ文化を担ったドイツ特有の非政治的支配層である「教養市民層」に向けられた民衆の悪意(κακοήθεια)などというものは本当にあるのだろうか?
「教養市民層」に向けられた民衆の悪意、というものは、広く存在する。フランス革命も、ロシア革命も、中国の文化大革命も、その為に起こったと思う。けれども、それは、世界的傾向なのであって、ドイツに特有なものではない。その原因は、ニーチェが主張するように、ルサンチマン、強者に対する弱者の憎悪や復讐衝動などの感情が内向的に屈折している状態で、「天皇機関説」の美濃部達吉が世論によって糾弾されたのも、その為だ、と中公新書の「丸山真男の時代」の中で竹内洋さんは指摘されているが、1930年代から、日本が「国家社会主義、軍国主義」になったのもその影響だと思う。
19世紀以降の近代ドイツに著しい‘ethnocentrism’(文化的自民族中心主義)や‘chauvinism’(盲目的排他主義)に対して、18世紀のドイツ、ゲーテの時代、はこのような考え方ではなかった。つまり、コスモポリタンでありながら、ドイツの文化に誇りをもつ、国際協調精神をもちながら、自分たちの文化をつくっていこうという姿勢が、ドイツの文化人にあったから、彼らはMenschをVolkより上においたのである。
Alle Menschen werden Brüder, wo dein sanfter Flügel weilt
すべての人はあなたの優しい翼の下で兄弟になる
-
- 2019年01月21日 07:37
- このシラーの詩によるベートーヴェンの第9を日本人がいかに好きか。私の周りで、ドイツ語で第9を歌っている、歌おうと練習している人々の多さに正直驚くが、私も西独から帰って、大学院で勉強しようと思って、論文のテーマはこれしかない、と選んだのも第9だった。結局断念したが、ベートーヴェンについて、色々調べて、ベートーヴェンが神、として表現したものが、キリスト教の神ではなくて、インドの神だと知った時、「だから、日本人に受け入れられるのだ。」と気づいた。つまり、コスモポリタンであるドイツ人シラーとベートーヴェンが作り上げた世界だから、日本人に受け入れられているわけであるが、そこには、文化的自民族中心主義もなければ、盲目的排他主義もない。
それではいけない、自国の文化に古代ギリシャのように神話をもたなければならない、と主張したのは、この前のコメントにも書いたようにニーチェなのである。反氏の尊敬されるユダヤ人は、ユダヤ教、「選民思想」の文化的自民族中心主義、をもっているのであって、それと「コスモポリタン」のキリスト教が折り合わないのである。逆に、コスモポリタンを志向したドイツ人が、「選民思想」をもったことが、ナチズムの温床になったのではないのだろうか?戦前の日本にもそれがいえる。
-
- 2019年01月21日 07:39
- 私は、別に安倍首相に不満はない。政治に憎悪しているのでもない。腹をたてているのは、野党の政治家、マスコミに対してである。「軍国主義日本」に導いた「天皇機関説」排除も、元はと言えば、政権狙いの野党の政治家とマスコミの共同作業で行われたものである。歴史を直視すれば、そういう過去がマスコミ関係者にはわかるはずなのに、その反省がまるでない。安倍政権を批判することに忙しく、野党議員の考えが正しいかどうか、考えることもせず、野党の政治家の主張のどこが安倍政権と違っているか、も具体的にはっきりさせず、ただ、「安倍政権は信用できない。」のムードを作り出すことだけに腐心している。これも、反氏の私への批判の手法とそっくりなのであるが、これが、国民の為になるのだろうか?有権者は、理性的に比較検討して判断することができない。英国のBrexitの国民投票と同じである。私の怒りは、世論形成を通じて、大きな影響を与えることに無頓着なジャーナリズム、反氏を含めたマスコミ関係者、学識経験者、知識人に対してのものである。
最後に、ニーチェについて、彼の批判手法について、長年ニーチェを研究されたドイツ人の教授の見解によると、ニーチェは、自分の立ち位置を外において19世紀のドイツを批判している、というのが彼の特徴だそうである。はじめは18世紀のドイツを視点にして、次にヨーロッパ、とくに英仏の視点で、3番目に古代ギリシャの視点で、最後にユダヤ、仏教、イスラム文化の視点からということで、論理を組み立てている。つまり、否(UN)ではあっても、決して反(ANTI)ではないのである。「反独」の反氏の場合は、3番目、私の場合は、ゲーテ以降の時代から現代までのドイツの視点から、現代の日本を見ている、ということになるのかもしれないが、決して「反日」ではない。
-
- 2019年01月21日 10:15
- また、私を批判する反氏のコメント119について考えてみた。
ソフィストはそれに関する真の智慧を欠いていたからこそ、その他の該博な知識を誇ったとしても、その点において、ソクラテスは彼らを真の知者(σοφός)ではないと批判したような理由で、私は日本の進歩的知識人を「ソフィスト」だと批判し、それに対して、本当のソフィストはソクラテスの批判にはあたらない、と反氏が批判され、「ソフィスト論争」が始まったのであるが、長い論争の末、現在の私は、反氏のことを、ソクラテス的な意味で、フランクフルト学派の「ソフィスト」、だと認識している。田中美知太郎さんの「ソクラテス」をわざわざ買って読んだのは、阪神大震災で昔の本を大量に処分した関係で、たしか、という思い込みを正すためである。そのことも前のコメントにも書いたが、それを無視して、私の言が信頼できない証明に使われるという事実一つをとっても、反氏が「批判理論的手法」を使われていることは明白である。
-
- 2019年01月21日 10:17
- 前にも書いたと思うが、古代ギリシャの国力は、ペリクレスと共に、下降線をたどっているのであって、ソクラテスの死後も国力は下がり続け、プラトン、アリストテレスの時代は、すでに直接「民主制」を誇ったポリス、アテネの時代ではないのである。そこが、ワイツゼッカー大統領が演説をされた1985年の西ドイツや日本の状況とまるで違う。ワイツゼッカー演説のあった1985年は、西ヨーロッパ内での国際協調の結果、西ドイツは経済面でも文化面でも繁栄し、ヨーロッパ内でのドイツの後進性を憂うゲーテやニーチェの時代ではなかったのである。その差に対する認識がまるで反氏にないことが問題なのである。「神が死んだ」というニーチェの言葉の「神」にしろ、「キリスト教の神」に対するニーチェの批判を表しているのであって、古代ギリシャの神々や、ユダヤ教の神や仏教の神は認めている。
ワイツゼッカー演説内での「神」にしろ、キリスト教の神だけではなくて、旧約聖書のユダヤ教の神、も認めておられるのであって、いろんな神話、宗教がある以上、そういう様々な神々を認めることが、「平和構築の道」だと私は考える。
-
- 2019年01月22日 02:13
- 私は1月17日・167で⇒【☆「無学」の証明⇒166に言う『ソクラテス全集』なるものは存在しない。田中美知太郎のどこを読み、とち狂って、何を考えているのやら】と書いた。210~214は見苦しい言い訳、言い訳…、で醜悪の一語。「剽窃」を頬被りして、盗っ人猛々しい。まるで、韓国国防部の論理と同列だ。
そもそも『ソクラテス全集』なるものが、実際に存在しない、ということから始まった議論だが、その意味を「無学な人」(ἀμαθής)で一向に理解する(συνιέναι)ことができずにいきり立って、並み外れた(ὑπερβολή)堪え性のない(μαλακός)「根にもつ人」(πικρος)の憐れさで、いかにも素人(ἀνεπιστήμων)らしい、隙だらけの素人論議を繰り返し、全く関係のないフランクフルト学派の批判理論に短絡させる。
頭に蜘蛛の巣が張ったような混乱した立論(λόγος)だし、腕を押しこめばすぐさま破れてしまう脆弱な(ἀσθενής)御託、ということだ。
論理的に(λογικός)、有効な反論(ἔνστασις)ができず、結局は頬被りするか、逃げ回って(διαφεύγειν)見当違いな「投稿公害」そのものの、誇大妄想的な悲憤慷慨を撒き散らして愧じる気配もない。なんとも無謀(θρασύτης)で、ドン・キホーテさながらの狂態(γαστρίμαργος)だ。
法哲学者の井上達夫氏の師で、所謂「京城学派」の法哲学者・尾高朝雄の後継者、碧海純一は、文化大革命の時期、毛沢東を「人間公害」と称したが、カ氏の浅ましい正体(τὸ τί ἦν εἶινι)こそ、それに相応しいと自ら証明している(συμβιβάζειν)ようなものだ。
それくらい軽率で余裕のない(ἀσχολία)精神と態度はまるで子供(παιδίον)だ。 ‘ὁ γέρων δὶς παῖς γίγνεται’=「老媼は二度子供になる」と称した所以だ。しかも、ネット上の胡散臭い俗論を、怠慢にもコピペして応酬するしか能がない。
-
- 2019年01月22日 02:14
- (承前1)だから、言わずと知れた「無学」の譬え(εἰκάζειν)である、古代ギリシアの諺‘μήτε γράμματα μήτε νεῖν ἐπίστωνται’(‘‘Νόμοι’’689D=「文字も知らず、泳ぎも知らず」)ということになり、無学で何の準備のもないなら、頭を冷やして‘μηδὲν ἄγαν’(「分を弁えよ」=原意は「分を超えるな」)ということになる。
何をやっても、所詮は無駄な悪あがき、抵抗(τὸ ἀντιτυπές)、つまり反論の偽装(ψευδομαρτυρία)で、余計なことをしようものなら、すぐさま見破られ馬脚を現す。カ氏の誤魔化しや嘘(ψεῦδος)を見抜く(κατιδεῖν)ことなど容易く、だから失敗して、あたかも‘ἀπ’ ὄνου πεσεῖν’(「驢馬から落ちる」⇒頓馬の譬え)ように、滑稽この上ない。
‘unzeitgemäß’の件にしたところで、ニーチェ自身が『反時代的考察』(‘‘Unzeitgemäße Betrachtungen’’)で自ら‘unzeitgemäß’について解説していることを無視している。テクストに何の根拠もない議論は、無駄だ。名著『古代都市』の著者でフランスの古代史家クーランジュ(Fustel de Coulange)の口癖であったという、‘Avez-vous un texte?’、ということだ。
ドイツ語が読めるのであろう。ニーチェのテキストに直接当たって、自分で確かめたらよい。そうでなければ、何を言っても負け犬の遠吠え。ニーチェは、フロイト、マルクス、フッサールと並んで20世紀思想の「知的源流」だ。
私は、古典文献学者としてのニーチェは、彼に絶滅に等しい論駁を加えて古典古代学の世界から葬り去った19~20世紀前半のドイツ古典学界の大御所ヴィラモヴィッツ・メレンドルフ(Ulrich von von Wilamowitz-Möllendorff)に倣って評価しないが、哲学者としての問題意識は超一級である。
余りに研ぎ澄まされた精神のある意味「両刃の剣」で、19世紀の最終年、個人的な不幸(梅毒)も手伝って精神の闇の中で狂死したが、一種の殉教者だろう。
-
- 2019年01月22日 02:15
- (承前2)ナチズムと直接的に結びつけるのはニーチェの真意を見損なう、というか、問題意識の含意と射程を考えたこともないカ氏のような凡庸(μεσότης)で陳腐な(βαναυσία)御仁の精神の懦弱(δειλία, ἀργία)さをそのまま例示している(δεῖξις)ようなもので、箸にも棒にもかからない。
ドイツ特有の「教養市民層」の問題とは、後進国ドイツの特性で、ドイツの歴史学の確立したテーマということすら知らない。
いかにも、精神がふやけ切った戦後の安穏に隠された日本人の思想的脆弱性の現われで、単純(ἁπλοῦς)というか、お目出度い(εὐήθεια)の一語に尽きる。幼稚園児並みの政治感覚しかもたないし、もち得ないカ氏には分相応だろう。
そう言えば、篠田さんも昨年の数少ない本欄への応答の中で、【私の学部卒業論文・修士論文はともに『ニーチェの政治思想』…Ph.D.論文では数十ページ書きましたが、Re-examining Sovereigntyや『国家主権という思想』では数行にしてしまいましたが、私の主権論は、ニーチェの『道徳の系譜』(とフーコーの「考古学」)の応用…『集団的自衛権の思想史』では全く言及しませんでしたが、著者に説明させてもらえれば、あの本もニーチェ『道徳の系譜』を日本の思想史に適用したもの】(6月5日・2)と吐露され、印象的だったが、凡庸なカ氏の理解の及ぶところではあるまい。
『道徳の系譜―一つの論駁書』(“Zur Genealogie der Moral, Eine Streitschrif”, 1887.)も辛辣な書だが、‘unzeitgemäß’にしたところで、「反時代的」、私の措辞では「反時流的」は、時代と、時代の水平的凡庸さへの自らの批判的立ち位置を示す普遍的な思考の意志的態度(‘volitional attitude’)、作法(τέχνη or μέθοδος)であって、時代から頭一つ抜け出した思考の立脚点を示す、人間的な自由(ἐλευθερία)の前提(πρότασις)、基本条件(ένούμνον)となる普遍的な性格のものだということだ。
-
- 2019年01月22日 02:17
- (承前3)いい歳をして、その程度の自覚も認識もないから、見当違いな焦慮を募らせて単なる通念への追従(ἀρέσκεια)でしかない、児戯に等しい「ままごと投稿」に現を抜かしていられるのだろう。
所詮は人柄としての器量(ἡ ἠθικὴ ἀρετή)の問題であり、言うも詮ないが、それがカ氏の限界(πέρας)なわけで、誤謬、誤記、論点ずらし、誤魔化しと頬被りも醜悪だが、何と言っても退屈極まる。
そこで、『道徳の系譜』から、カ氏のような俗物(Bildungsphilister)に相応しい一節を引く。
Ihnen geziemt allein die unehrliche Lüge; alles, was sich heute als »guter Mensch« fühlt, ist vollkommen unfähig, zu irgendeiner Sache anders zu stehn als unehrlich-verlogen, abgründlich-verlogen, aber unschuldig-verlogen, treuherzig-verlogen, blauäugig-verlogen, tugendhaft-verlogen. Diese »guten Menschen« ―sie sind allesamt jetzt in Grund und Boden vermoralisiert und in Hinsicht auf Ehrlichkeit zuschanden gemacht und verhunzt für alle Ewigkeit: wer von ihnen hielte noch eine Wahrheit »über den Menschen« aus!.(F. Nietzsche: ‘‘Zur Genealogie der Moral, Eine Streitschrif’’, Dritte Abhandlung: ‘Was bedeuten asketische Ideale’, Werke in drei Bänden, hrsg. von K. Schlechta, 1965, Band 2, S. 877)
彼らにふさわしいのは不正直な嘘だけだ。今日おのれ自らを「善良な人間」と感じている輩はみなおしなべて、なにごとに対するにも不正直な嘘言、底なしの嘘言をもってする以外のことは全然なしえないが、しかもまたそれらが、罪のない嘘言、衷心からの嘘言、碧眼の嘘言、有徳の嘘言をもってなされるのである。これら「善良な人間」たち、――彼らは今やことごとくみな底の底まで道徳化され、正直という点に関しては永久に駄目にされ台無しにされてしまっている。彼らのうちの何ぴとが、なお「人間についての」真実に堪ええようぞ!(邦訳は信太正三訳、ちくま学芸文庫版『ニーチェ全集』第11巻、548頁)。
少しは身を入れて本を読んだらいい。[完]
-
- 2019年01月22日 05:59
- 反氏のコメントを読んで、頭にクモの巣が張ったような混乱した立論をたてているのは、どちらなのか、と思うが、コメント217で私を批判されているようには、私は、ナチズムとニーチェを直接結びつけてはいない。彼の妹が、ナチズムであった影響で、彼がナチズムの論理を作り上げたようなイメージがあるが、それが本当か、を知りたいから、ドイツ語で書かれたその教授の本を読むことにしたのだ、と本を読むことにした理由も書いた。どのような読解力をされているのだろう?
その本がドイツ語で書かれているので、ドイツ語で読むしかないわけであるが、そこに、頻繁にKlassikerという言葉が出てきて、それは、ゲーテやシラーをさしているのである。
反氏は、例えば、コメント207-208においても、長文のドイツ語とその日本語訳を書かれているが、この訳に「反時代的」と「反」が多く使われているので、反氏の反論の材料になっているわけであるが、このドイツ語だけを読むと、私の論を補強するものである。
まず、ニーチェは、反氏が「田舎者」で「女の尻ばかりおっかける」ゲーテの言を根拠に、自分の主張の正当性を主張している。
Wenn aber Goethe mit gutem Rechte gesagt hat,。
-
- 2019年01月22日 06:05
- また、
sofern ich Zögling älterer Zeiten, zumal der griechischen bin, über mich als ein Kind dieser jetzigen Zeit zu so unzeitgemäßen Erfahrungen komme. の訳として、
特にギリシア時代の生徒である限りにおいてのみ、現代の子として自分を越えてこんな反時代的経験に到達したのであるという訳ではなく、
私が、古代の、なかんずくギリシア時代の生徒である限りにおいて、現代の子供としての自分を超えて時代に合わない(現代でない)時代を経験することができる、の訳にし、
was die klassische Philologie in unserer Zeit für einen Sinn hätte, wenn nicht den, in ihr unzeitgemäß ― das heißt gegen die Zeit und dadurch auf die Zeit und hoffentlich zugunsten einer kommenden Zeit ― zu wirken. も、
これだけのことは古典文献学者という職業柄私自身が白時代の中で反時代的に(unzeitgemäß)――すなわち時代に反対して(gegen die Zeit)そうすることによって時代に向かって、望むらくは将来の時代のためになるように――活動するという意味をもしもたぬならば、古典文献学がわれわれの時代においてどういう意味をもつかを私は知らないだろう、ではなくて、
古典文献学が我々の時代に意味をもつとしたら、その中に時代に合わない(現代でない)ことがあること、つまり、現代に対決し、それによって、望むらくは、この時代と、来るべき時代の為にいい影響を与えることである、の訳にした方が、ニーチェの言いたいことがよく理解できる。
-
- 2019年01月22日 06:08
- ドイツ人の元教授の言に従うと、彼の批評の原則は、現代のその場、ではなくて、違った場所、時代に自分の身をおくことで批評しているわけなので、「反」ではなくて、「非」なのである。私の視点は、ゲーテ、ワイツゼッカー、つまり、「非日」ドイツ的視点であるが、「反日」ではないように。
反氏には、フランクフルト学派の影響で、強烈な「反独的視点」がある。それが反氏を糾弾する理由である。それは、「反」は、「反ユダヤ主義」、「反日」、「反英米」要するに、戦争へのプロパガンダの元になり、「国際協調」をもたらさず、「平和構築」の妨げになるからである。
このブログにコメントするにはログインが必要です。
前のコメントにも書いたと思うが、インドヨーロッパ語族、といっても、ドイツ語とフランス語は言語的に遠い。ドイツ語は大移動してきたゲルマン民族から発し、
ラテン系の言語、というのは、古代ローマ人たちが使っていたラテン語から発展している。そして、お互いに似ているので理解がたやすい。その言語には、イタリア語、スペイン語、フランス語、ポルトガル語が属していて、ラテンアメリカの国々の母語は、英語ではなくて、ポルトガル語かスペイン語なので、ラテン文化なのである。
また、ドイツ語のunzeitgemäß は、gegen die Zeitではなくて、nicht zeitgemäß
gemäßという言葉は、ふさわしい、或いは、適したという意味なので、その否定、つまり、時代に合った、現代風であることの否定、を表し、時代に合わない、あるいは、時代遅れのという意味になる。つまり、フンボルト、ゲーテやシラーなどの古典主義の時代に生まれていれば、zeitgemäßであったが、それよりもニーチェが100年遅く生まれてきたので、unzeitgemäßになってしまった、という意味で使っているのである。反氏は、古代ギリシャをドイツ古典派におきかえて、遅く生まれてきた、とコメント欄に書かれていたような気がするが。
とにかく、「学問の名」を借りた屁理屈で、人々を惑わすのはいい加減にしていただきたいと思う。